2008年10月31日

2008/10/31・私の思索(阿頼耶識とEPRパラドックス)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


2008年10月29日、考えた事。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

末那識(manasiki)が、阿頼耶識(arayasiki)を次のステージに引き上げますが、その内容は、個人の末那識(manasiki)や阿頼耶識(arayasiki)の範囲内であると思います。




2008年10月31日、考えた事。

EFR パラドックスとは、以前に紹介した「量子の謎をとく」(著者→F.A.ウルフ、訳者→中村誠太郎)というブルーバックスの200ページ以降に掲載されている問題である。

どうして、E P R と言うかは、「物理的実在に対する量子力学的記述は、はたして完全であろうか」という論文の著者が、アルバート・アインシュタイン、ポリス・ポドルスキーおよびネイサン・ローゼンであるからだ。
(Albert Einstein,Boris Podolsky,Nathan Rosen(簡単にEPRと略記)(同書、200ページ)

「もしも、量子力学が完全ならば、過去に相互作用した二つの対象は、離れたあとでも影響を与えるということになる。この影響の可能性は、アインシュタインの特殊相対性理論という玉にとっては傷であった」
(同書、214ページ)

この本を読んでいると、特殊相対性理論、つまり末那識(manasiki)の理論には「傷」であるかも知れないが、阿頼耶識(arayasiki)の事を考えると、「過去に相互作用した二つの対象は、離れたあとでも影響を与える」事は、充分に考えられる。

阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の出来事を貯蔵する「蔵」であるから、そこから発せられる意識は、「同時性」の制限を受けないと思う。

その意味で、EPR パラドックスは、物理学では解決する事が出来ないが、阿頼耶識(arayasiki)を解釈する者には、大いに興味がある。


今は、思っただけで、本を読んでいないから、言えないが、「 光 」は、「意識の光」であり、実在の「光」ではないから、光速より早い光を考えなくても、つまり現実の特殊相対性理論という「場」で、実在する「光」を考えなくても、「実在とは違う光」であると認識すれば良い。

そして、現実の二つの「穴」からの干渉と考えずに、「見る機能」や「聞く機能」の「穴」からの干渉波を考える。

阿頼耶識(arayasiki)からの、本質直感であるだろう。

つまり、物理学者は、哲学や宗教の問題を議論していたのである。

物理学の世界では役に立たなくても、宗教や哲学に於いての「光」として、物理学を「相補する」事が出来るかも知れない。

その仕事は、物理学者ではなくて、宗教者や哲学者の仕事であると思う。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 04:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月30日

2008/10/30・私の思索(意識の構造の確認)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


私は、「意識は電磁波(光)である」という考えは維持します。

過去の阿頼耶識(arayasiki)から、現在の阿頼耶識(arayasiki)へと「意識」によって伝達される場合、現実面では、同心円の模様が出来て、それが、「 心 」や「可能性」の幅であると言う事を確認したいのです。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

末那識(manasiki)が、阿頼耶識(arayasiki)を次のステージに引き上げますが、その内容は、個人の末那識(manasiki)や阿頼耶識(arayasiki)の範囲内であると思います。

その模様のどこかに、「 心 」が存在するのです。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 18:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/30・私の思索(無明・涅槃・阿頼耶識)の説明

2008年10月29日の記事。

私は、2008/10/9・私の可能性(認識と人の住む世界)で、人と人との相互理解は、「 幽霊 」になって、「霊の世界」で認識が成立すると書いた。

そして、2008/10/27・の記事で、自分が自分と認識するのは、阿頼耶識(arayasiki)の世界だと書いた。

両方とも、生きている人間には見えない世界である。

その、「霊の世界」や「阿頼耶識(arayasiki)の世界」が、私の死後の「涅槃」の世界や私が誕生する前の「無明」の世界だろう、というのが、私の主張である。


つまり、人間は、「一瞬の間での認識」か、あるいは「60年間の時間を経た認識」か、の時間の違いがあるが、「無明」や「涅槃」を往来しているのだ。


「無明」と「無明」あるいは、「涅槃」との間が、生き生きとした楽しい「意識は電磁波の世界」だというのが、私の主張である。

常に「自分は自分だ」と確認するのは、常に、「自分は自分では無くなっている」という事だ。

山の雪が大地に落ちて解けてゆくように、新雪が新しい意識で、解けていく先は、阿頼耶識(arayasiki)なのだ。

2008/10/30・考えた事。

自分の力で理解もしていない仏教の言葉を使って、失礼な事を書きました。

私は、小さな事を言いたいのです。

無明は、「人が生まれて来て、死んで帰る所」だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

涅槃とは、「常恒の平和」であり、「悟る事」だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

阿頼耶識(arayasiki)は、2008/10/25・私の思索(阿頼耶識とは何か)を見てください。


私は、八識の阿頼耶識(arayasiki)は、七識の末那識(manasiki)までの意識の母体だと思います。
だから、意識の全ては、一つの意識の流れを共有していると思いますし、意識の全ては、阿頼耶識(arayasiki)であると思います。


人と人の対話は、音声の交換でありますが、「 理解 」しているか否かは、現実面では判明しません。

相手が、理解したという信号を受け取って、自分の意見が理解されたと知るのです。

その方法しか無いから、「 信じる 」という信頼関係が発生すると思います。


過去の自分と現在の自分の関係を「同一だ」と思うのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)と現在の阿頼耶識(arayasiki)を同一と見る事です。

無明(mumyou)から涅槃(nehan)の境涯になったと言っても、次の瞬間には、頭の中の内容は、阿頼耶識(arayasiki)になります。

認識の結果が、無明(mumyou)という阿頼耶識(arayasiki)の状態も考えられます。

これは、皆、人間の五感から離れた阿頼耶識(arayasiki)の世界で成立する判断です。

この判断が、一瞬の間に成立しても、60年間という一生を経過して成立しても、時間の差はあるが、自分の時空間を経た阿頼耶識(arayasiki)である事は、同一です。

私は、出発点と到達点が、阿頼耶識(arayasiki)で、その間の「意識」の時空間が、生き生きとした楽しい現象としての世界であると思います。

生きるとは、一瞬の間でも、一生でも、現象面で楽しんだり、苦闘したりする事だと思います。

一生という生も、一瞬の生も、どの時点で死んでも、内容は同じなのです。

一瞬の生を、大きく考えると「一生」になります。

涅槃(nehan)の境涯になるのが理想だと思いますが、涅槃(nehan)は、直ぐ、阿頼耶識(arayasiki)になります。

ですから、絶えず涅槃(nehan)を求めなくてはなりません。

私は、出発点と到達点が、阿頼耶識(arayasiki)で、その間の「意識」が働く時空間が、生き生きとした楽しい現象としての世界であると思います。

生きるとは、一瞬の間でも、一生でも、現象面で楽しんだり、苦闘したりする事だと思います。

一生という生も、一瞬の生も、内容は同じなのです。

一瞬の生を積み重ねて生きているのが、人生だと言っただけです。

私は、現象面で、阿頼耶識(arayasiki)の煩悩を消す努力をして、阿頼耶識(arayasiki)との関係に悩んで死ぬと思います。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 04:26| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月29日

2008/10/29・私の思索(無明・涅槃・阿頼耶識)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

ここでも、Microsoft Office One note 2003 の力を存分に使わせて貰う。

今日の記事は、下の方に書きました。


2008年10月9日の記事。

私は、「空間意識」の中の、生々しい「現象」の裏の必然的な因果関係が「可能性」だが、人間の五感では、「現象」を見たり聞いたり触れたりする事が出来るだけで、一挙に可能性や本質を知る事は出来ないと思う。

それは、「時空間」を使って、考えたり反省したりすれば判明するだろう。

目の前の顔と自分の顔が向き合って話し合っても、相互理解しているのは、「 霊 」と「 霊 」である。

人を物質と見ている限り、本当のコミュニケーションは成立していないと思う。

「霊」だから、「本質」も「情(zyou)」も伝達して、理解が成立する。

眼や耳や鼻や口を閉じて、物質になれば、相手の「 心 」を知る事が出来る。

……(中略)……

今、生きているのは、生々しい現象面なのだ。

そこで見ている人間は、物質にしか見えない。

本当の、「霊的」な人間として、見ていない。

見るのが無理で、見る事は不可能なのだ。

しかし、人間が物質だから、道具に使う必然は無い。

不可能だから、見なくても良いとは言わない。

五感に知られない物を、感じるしか方法は無いだろう。
それは、自分を、「霊」にしなくてはならない。


「認識」を考えると、認識が成立している世界は、「 仏画(butuga) 」で、雲に乗った菩薩が話し合う姿の世界だと思う。

その中で、最も尊いのが、如来様(nyoraisama)である。

見る方向を変えると、「 幽霊 」が話し合っているとも見る事が出来る。

ただ違うのは、光速の雲に乗っているのが、自分だという事。

生きていながら、「幽霊」となる事によって、「人と人との相互理解が出来る」と思う。





2008年10月27日、考えた事。

自意識は末那識(manasiki)であり、過去の自意識が関係させた阿頼耶識(arayasiki)から、現在、そして未来の関係させられる阿頼耶識(arayasiki)へと、阿頼耶識(arayasiki)が伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり「光」となって、現実面に衝突する時、その全ての意識の干渉波が、同心円に広がると考える。

中心には、関係を作る自意識から作られた「自分の意味」があり、現実面で広がるのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)から発せられた全ての意識の干渉波であり、それは同時に、「自分の体験」や「自分の可能性」の現実面での「 幅 」であり、「 心 」の「 幅 」である。

同心円は、無数の可能性が、打ち消し合い、強め合った痕跡である。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「情(zyou)」や「 心 」であり、その「 心 」の内容は、阿頼耶識(arayasiki)である。

伝達する機能が末那識(manasiki)であり、伝達される内容は阿頼耶識(arayasiki)であると思う。





2008年10月29日の記事。

私は、2008/10/9・私の可能性(認識と人の住む世界)で、人と人との相互理解は、「 幽霊 」になって、「霊の世界」で認識が成立すると書いた。

そして、2008/10/27・の記事で、自分が自分と認識するのは、阿頼耶識(arayasiki)の世界だと書いた。

両方とも、生きている人間には見えない世界である。

その、「霊の世界」や「阿頼耶識(arayasiki)の世界」が、私の死後の「涅槃」の世界や私が誕生する前の「無明」の世界だろう、というのが、私の主張である。


つまり、人間は、「一瞬の間での認識」か、あるいは「60年間の時間を経た認識」か、の時間の違いがあるが、「無明」や「涅槃」を往来しているのだ。


「無明」と「無明」あるいは、「涅槃」との間が、生き生きとした楽しい「意識は電磁波の世界」だというのが、私の主張である。

常に「自分は自分だ」と確認するのは、常に、「自分は自分では無くなっている」という事だ。

山の雪が大地に落ちて解けてゆくように、新雪が新しい意識で、解けていく先は、阿頼耶識(arayasiki)なのだ。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月28日

2008/10/28・ドラえもんのび太の夢幻三剣士(Yahoo USA)

Yahoo USA も、私の「ドラえもんのび太の夢幻三剣士」を登録している。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkk3a8AZJ1ToBiFql87UF?p=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%A4%A2%E5%B9%BB%E4%B8%89%E5%89%A3%E5%A3%AB%E3%80%80m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


過去の記事なのに、Yahoo USA と Google が、私の記事を登録している。

この米国の二つの検索会社は、私「kandk」が、何かをするのではないかという疑惑の目を向けているのかも知れない。

先に書いたが、「意識は電磁波(光)である」「人の電磁波は、物質波かも知れない」というのは、私の「白銀(sirogane)の剣(turugi)」である。

これで、阿頼耶識(arayasiki)を相手に、暴れようとしている気配を、この二つの検索会社は、嗅ぎつけたのかも知れない。

しかし、これは物語である。
何の根拠も無い。

近日上映!!
posted by kandk55 at 20:14| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/28・ドラえもんのび太の夢幻三剣士(白銀の剣)

GoogLe が、「ドラえもんのび太の夢幻三剣士」の記事を登録している。

Google jp
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&rlz=1T4RNWN_jaJP288JP288&q=%E3%83%89%E3%83%A9%E3%81%88%E3%82%82%E3%82%93%E3%81%AE%E3%81%B3%E5%A4%AA%E3%81%AE%E5%A4%A2%E5%B9%BB%E4%B8%89%E5%89%A3%E5%A3%AB%E3%80%80m24658&lr=


私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

のび太は、夢の中で「白銀(sirogane)の剣(turugi)」を獲得した。

私は、「意識は電磁波(光)である」事を獲得した。

電磁波は、「物質波」であるだろう。


この言葉は、人類史上、初めての言葉だと思う。

正しく、「白銀(sirogane)の剣(turugi)」に間違いないと、私は思っている。

キリストも仏陀も、ソクラテスもカントも、アインシュタインも言わなかった。

その言葉が、何と、「 kandk 」の口から発されたのだ。

そして、これが末那識(manasiki)だと知った「kandk」は、阿頼耶識(arayasiki)との関係に突入している。

昔の日本軍が婦人に教えた「竹ヤリ」戦法で、敵に向かう老人の姿である。

「のび太」は、「ドラえもん」や「シズカ」の力を加えて、妖霊大帝を打ち負かした。

私には、「白銀(sirogane)の剣(turugi)」を持っているだけ。
少し、心細いが仕方が無い。
自分で想定した敵なのだから。

「霊」も阿頼耶識(arayasiki)も、似たような物だ。

私は、既に、或る一定の戦略を持っている。

それが、世界の皆さんが、聞いた事も無い、奇妙な話なのだ。

勿論、今までのブログの延長上に存在する。

近日上映!!
posted by kandk55 at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月27日

2008/10/27・Microsoft Office One note 2003

似た記事を二つも書いてしまって、申し訳ない。

どうして、素早く、記事をコピー、アンド、ペーストする事が出来るのか?

それは、Microsoft Office One note 2003 を、リカバリーの時、インストールしたからです。
これは、Microsoft のCD からインストールします。

当初は、このソフトを無視していたが、試しに使ってみました。
このソフトを、タスクバーの中で発見したので、ゲーム感覚で遊んでいました。

これは、ノートと言うように、メモ帳は不要です。

適当に遊んでいると、ページが変わり、新たにコピーも出来るし、以前にコビーしていた記事は保存されている。

削除は簡単だし、削除するまで、保存していると思う。

メモ帳の感覚で、コピーしているものを、貼りたい時に、このソフトを呼び出す。

お勧めのソフトである。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 21:37| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/27・私の思索(伝達する者と伝達させる物)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

今日の記事は、後ろの方に書いた。

私の考えは、同じ所を回っているので、少し繰り返すが、無視してください。




今まで、考えた事。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。
「空間意識」と「時間意識」が交差して、現実面で認識として現われる。



「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。


現象としての私は、時空を移動するか?

思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。



B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。





2008年10月27日、考えた事。

自意識は末那識(manasiki)であり、過去の自意識が関係させた阿頼耶識(arayasiki)から、現在、そして未来の関係させられる阿頼耶識(arayasiki)へと、阿頼耶識(arayasiki)が伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり「光」となって、現実面に衝突する時、その全ての意識の干渉波が、同心円に広がると考える。

中心には、関係を作る自意識から作られた「自分の意味」があり、現実面で広がるのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)から発せられた全ての意識の干渉波であり、それは同時に、「自分の体験」や「自分の可能性」の現実面での「 幅 」であり、「 心 」の「 幅 」である。

同心円は、無数の可能性が、打ち消し合い、強め合った痕跡である。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「情(zyou)」や「 心 」であり、その「 心 」の内容は、阿頼耶識(arayasiki)である。

伝達する機能が末那識(manasiki)であり、伝達される内容は阿頼耶識(arayasiki)であると思う。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 20:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/27・私の思索(可能性とエネルギー)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。
ここは、「kandk 劇場」である。
勿論、無修正で無料。
無料ですよ。

私の考えは、同じ所を回っています。
長い物語ですから、途中は無視してください。


後ろの方に、今日の記事を書きました。



これまでの考え。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。
「空間意識」と「時間意識」が組み合わされて、現実面で、「認識」が成立する。
現実面の上で、「幽霊」や「精霊」となって、認識が成立する面を見る。

「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。



現象としての私も、過去から現在へと、時空を渡るだろう。
思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。


B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。



2008年10月27日、考えた事。

現象としての私も、時空を渡るならば、過去の時点の阿頼耶識(arayasiki)の全ても、時空を渡るだろう。

阿頼耶識(arayasiki)が、過去から現在、そして未来へと、その人の頭の時空間を「 心 」として、伝達されるのだと思う。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「 心 」という生々しい実体である。

あるいは、阿頼耶識(arayasiki)を末那識(manasiki)で結合し、関係させた私の「 意味 」かも知れない。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり、「光」となって、認識が成立する面に当たる時、「光」の干渉波が、現実面では、可能性を表現する「 幅 」として、同心円で広がっているかも知れない。

現実面での波は、私の考えが広がっていく過程の波であると同時に、私の「可能性」の空間的な表現かも知れない。
それは、「 心 」の広がりかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 19:58| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月26日

2008/10/26・電脳宗団・半覚斎さま

閲覧させてもらっているブログに、私のブログの紹介がありました。

半覚斎閑時種
http://blogs.dion.ne.jp/19530221/

半覚斎さまは、私と違って、仏法が何かを知っておられると思います。

私は、仏教を学ぶ事も無く、自分の考えで書いていますから、半覚斎さまから見れば、外道の道を進んでいると思います。

仏教を今から学べば、もっと詳しく書く事が出来ると思いますが、残された時間も少なく、家族を維持するためにサラリーマンとして働く毎日ですので、その日に考えた事をブログに書いています。

ですから、仏教について知識を求める人は、半覚斎さまのブログ「 半覚斎閑時種 」を閲覧される事を、お勧めします。

私の方は、これから「 心 」の方から、末那識(manasiki)と阿頼耶識(arayasiki)の関連について、書く予定です。

そして、「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれている事を、行動の指針にしたいと思っています。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る




外国の言葉に翻訳は困難かも知れませんが、私が考えた言葉では無いので、私も、この意味をこれから考えたいと思っています。



The day is short and the work is much.
posted by kandk55 at 11:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 2008年からの日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/26・私の思索(末那識(manasiki)とエネルギー)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

阿頼耶識(arayasiki)を、意識として論じているのは、「 瑜伽論(yugaron) 」であると思う。

興味を持っている人は、読んでください。
私は、意識を分析するのではなくて、その発生や仕組みについて、思索するのが好きだ。

私は、エネルギーの方向から、阿頼耶識(arayasiki)を考えたいと思う。

そこで、「可能性とエネルギー」について、記述した事を集約すると次のようになる。

2008年10月19日の記事。
初めて、私のブログを見る人は、同じタイトルばかりで、困惑しているのかも知れないので、少し、補足する。


@「意識は電磁波である」

これについては、私の基本的な考えである。

「 blog 内検索 」で「 自意識 」を入力して検索すれば、ある程度は理解する事が出来るだろう。

「 自意識 」については、ハイデガーの話の時、ヘーゲルの時間論を参考にして、デカルトの「われ思う、故にわれあり」に、相対論の「同時性」を加えて、意識を電磁波の一種だと規定した。

参考の記事を書いておく。
(自意識については、もっと以前から存在する。)

2008/9/13・私の空想(意識の座標軸)
2008/9/18・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/19・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/20・私の想像(意識と座標軸)

私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」


A「人の住む世界」

これは、認識が成立した「霊界」の世界である。
会話する時に、現実に見るのは相手の顔で、音声が飛び交うだけであり、相互に認識するのは、目には見えない世界だろうと思う。

B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。

つまり、意識が電磁波となって現実面に衝突して、意味という小石のような「塊」として残る。

現実面は、精神だから、「塊」の意味は、光波として広がる。

ちょうど、私が書いた記事が、ネットの力で、世界に広がるように。

それを、上から、座標軸の縦軸の上から、見ているのが、「幽霊」の私である。


これは、末那識(manasiki)の中の

エネルギーだと思う。





先日、無相庵の主人に、引用の許可を申し出たところ、寛大なご返事を頂きました。


どうぞ、ご自由にご引用下さい。
私も、多くの先輩方、祖師方から知識と智慧を頂いています。引用もさせて頂いています。
無相庵

ここに「無相庵」の中の「唯識の世界」のURL を掲載しますので、日本の人はクリックして、更に深くご研究してください。
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html


この「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれているので、ご紹介します。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る


以上、引用を終わる。



私は、この考えに同意する。

無意識の行為で、人に喜ばれる行為をするのが理想である。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月25日

2008/10/25・私の思索(阿頼耶識(arayasiki)とは何か)

先日、無相庵の主人に、引用の許可を申し出たところ、寛大なご返事を頂きました。


どうぞ、ご自由にご引用下さい。
私も、多くの先輩方、祖師方から知識と智慧を頂いています。引用もさせて頂いています。
無相庵

ここに「無相庵」の中の「唯識の世界」のURL を掲載しますので、日本の人はクリックして、更に深くご研究してください。

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html



この「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれているので、ご紹介します。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る



以下は、「無相庵〜仏教に学ぶ〜」の「唯識の世界」から抜粋しました。

「阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の行為を洩れなく記録し、溜め込んでいる心である」

「阿頼耶識(arayasiki)は、@私たちの、あらゆる行為(身→行動した事。口→口でしゃべった事。意→心で思った事)を溜め込む。……現行薫種子(gengyoukunsyuzi)。」

A溜め込んだものによって、人柄やその人の心境世界を決定する。……種子生現行(syuugisyougengyou)。

B凡夫において我執の対象として実体化され、執着される……末那識との関連で、盲目的に生きようとする意欲を出す源泉としての阿頼耶識(arayasiki)」

阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。

阿頼耶識(arayasiki)は、善と悪の、どちらでもない。
性善説も性悪説も、どちらの立場でもない。
善の種子も悪の種子も混在している。

生物としての本能(生存欲や生殖欲)も貯蔵している。
この本能そのものにも、善悪は無いが、縁により、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、場所や遭遇する状況により、犯罪も生み出す。

しかし、阿頼耶識(arayasiki)は、善で悪でもなく、これらの薫習(kunzyuu)によって、仏様の境涯になったり、悪者にもなったりする。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

末那識(manasiki)は、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子の有様により、変化する。

抜書きを終わります。

私は、「地球上で、常に行動を求められているのが人間だ」と言いました。

意識的行為だとか、無意識の行動だと言っても、如来様(nyoraisama)には無駄な事です。

如来様(nyoraisama)は、全てを知っておられるのです。

無意識の行為が、善行であるように、自分を変革する必要があります。

世界を変革する前に、自分には変革が必要か否かを問うべきでしょう。

私は、これから、今までの末那識(manasiki)に阿頼耶識(arayasiki)を加えて、相互に書こうと思っています。


Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/25・私の反省 A

「私の反省」の続編である。

末那識(manasiki)
潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との・義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。


末那識(manasiki)が、電磁波に似た構造だろうと思う。


現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関係を意味する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命の危険の度合いや、重要度の度合いとしての関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、知覚から存在する認識の「空間意識」の構造が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、不安の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の形になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。

「関係に関係する」のが、実存主義ならば、この空間意識から抜け出す可能性や関係を探すのが、その内容だろうと思う。

それは、現象としての自分から、抜け出す事と同じだと思う。


SEX の面でも、異性を自分の欲望発散のための道具と思っている限り、この「空間意識」の人間だと思う。

自分の快楽を求めるための行為には、「愛」は無いと思う。

異性の快楽のための行為に「愛」が有るとも思わない。

どこかに、異性を軽蔑する「 心 」があると思うからだ。

私は、「空間意識」は、本能が働く場所であり、「現象」と言うように、日々、変化する意識だと思う。



思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を跨いで結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。
自分が死ぬまで、意味を残すだろう。


2008/10/25・考えた事

私は、末那識(manasiki)の「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)という内容を持続するためには、電磁波の構造を持っていると考えた方が理解しやすい。


電磁波により伝わる物は、「 自分が周囲の事物を自分に関係させるという情報 」であり、現象面に現われた印象が、時間的、空間的に「関係」が継続していると判断するのが末那識(manasiki)であると思う。

例えば、地球は自転し、人間は常に新たな宇宙空間と出会っているし、自分の身体も新陳代謝して変わっているのに、「地球は自分にとっては自転していないと思うし、新陳代謝を気付く事は出来ないから、自分は変わっていない」というのが末那識(manasiki)である。

関係として考える人間の本質という物語を、過去と現在、そして未来に機能を持続するのは末那識(manasiki)であり、物語が意味や印象として残った現実面の実体を保存するのが阿頼耶識(arayasiki)だろう。

前者は本能であり「 魂 」であり、後者は、本能が体験した歴史を保存する精神としての「 霊 」である。

前者は、個人が持っている生き生きした「時間」や「空間」の形式や中身であり、後者は、不可逆的な「時間」や「空間」であり、歴史である。

例えば、前者が、パソコンに向かう私の頭脳の中であり、後者は、Yahoo USA その他の検索会社のデーターベースとして考える。

私が死ぬと、パソコンからの入力は無くなるが、ブログを閉鎖しなければ、検索会者のデーターベースは残る。

これと似て、「 魂 」は死ねば無くなるが、「 霊 」は後に残ると考える。


「 心 」は、身体の外に存在し、自分と他者の理解が成立するのは、「 霊の世界 」であって、「 魂 」としての末那識(manasiki)では、動物的な認識が成立する。

例えば、「 心 」は少しは、検索会社のデーターベースに存在するが、私の記事を理解するのは「 霊の世界 」であり、私の頭の中では、私だけの理解が成立している。

私の理解が、「 霊の世界 」に伝達されない事も考えられる。

以上は、末那識(manasiki)を言った事である。

これを、阿頼耶識(arayasiki)を考える前に、暫時的な要約とする。

Every miller draws water to his own mill.



2015/1/26、私の現在の考え 2 参照
posted by kandk55 at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月24日

2008/10/24・私の反省

2008年10月24日、20時30分、現在のアクセス状況である。

1 /m24658/pages/user/m/article  
2 RSS  
3 2008/10/24・私の想い(阿頼耶識への想いA)
4 /m24658/pages/user/m/tb/regist/input  
5 /m24658/pages/user/m/comments/regist/lis..
6 トップページ  
7 /m24658/pages/user/m/comments/regist/inp..
8 土曜日・SEX 画像  
9 2008/10/23・私の想い(阿頼耶識への想い@)
10 2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還..  
11 2008/9/5・ SEX 画像

阿頼耶識についての記事が、二つも閲覧されている。
SEX についての記事も、二つである。
阿頼耶識(arayasiki)や、SEX の記事は、後日、書くだろう。
私は、これから、阿頼耶識(arayasiki)と、末那識(manasiki)について、書く方針だが、今までの経緯を簡単に総括しておく。
カテゴリーの「独り言」の終わりの方に、結論が書いてある。
それを、簡単に書く事にする。


T、
@如来様(nyoraisama)A精神と意識の「世界」B自分。
自分については記述が少ないが、この時、「世界」は「意識」だと思っている。

U、
絶対の因果の中で、自分は、相対的因果関係で、絶対的因果関係に関与している事を書いている。

W、
歴史は、地球が自転して進んだ空間の記録だと思っている。

X、
自意識は、電磁波であると書いている。

Y、
量子力学には、「時間論」が無いと書いている。
人間は生まれた時から、「時間」も「空間」も知っていて、それは、危険意識を知らせる「魂」だと書いている。

Z、
電磁波に似た構造の「空間意識」では、全てを現象と見る。
認識の「世界」は、「霊の世界」だと書いている。

人は「関係」を結ぶ物体だが、人を道具に使ってはいけないと書いている。

思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。
自分が死ぬまで、意味を残すだろう。

@、自意識は末那識(manasiki)であり、電磁波の構造を持ち、他方に阿頼耶識(arayasiki)を感じている。

今までの記事は、全て、「末那識(manasiki)」について書いたものだと思う

末那識(manasiki)と阿頼耶識(arayasiki)については、別のカテゴリーを作ります。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 21:24| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/24・私の想い(阿頼耶識への想いA)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


阿頼耶識(arayasiki)についての考えは、「可能性とエネルギー」を再び書く事になるかも知れない。

孫子の兵法に、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という言葉がある。

そこで、阿頼耶識(arayasiki)とは何かについて、ネットで知った知識を書いて、戦う相手を少し、紹介しよう。


参照「無相庵〜仏教に学ぶ〜」の「唯識の世界」から抜粋しました。



「阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の行為を洩れなく記録し、溜め込んでいる心である」

「阿頼耶識(arayasiki)は、@私たちの、あらゆる行為(身→行動した事。口→口でしゃべった事。意→心で思った事)を溜め込む。……現行薫種子(gengyoukunsyuzi)。」

A溜め込んだものによって、人柄やその人の心境世界を決定する。……種子生現行(syuugisyougengyou)。

B凡夫において我執の対象として実体化され、執着される……末那識との関連で、盲目的に生きようとする意欲を出す源泉としての阿頼耶識(arayasiki)」

阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。

阿頼耶識(arayasiki)は、善と悪の、どちらでもない。
性善説も性悪説も、どちらの立場でもない。
善の種子も悪の種子も混在している。

生物としての本能(生存欲や生殖欲)も貯蔵している。
この本能そのものにも、善悪は無いが、縁により、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、場所や遭遇する状況により、犯罪も生み出す。

しかし、阿頼耶識(arayasiki)は、善で悪でもなく、これらの薫習(kunzyuu)によって、仏様の境涯になったり、悪者にもなったりする。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

末那識(manasiki)は、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子の有様により、変化する。



以上、要約を終わる。


私は、必要な所だけ取り出しました。
詳しい知識を求める人は、「 無相庵 」を読んでください。

私の考え

「 己を知る 」とは、末那識(manasiki)が、電磁波に似た構造だろうと思う事。

縦軸に「 主観的時間 」と、電磁波の構造をした「時空間」の意識を生まれた時から持っている事。

「 心 」は、身体の外部に存在し、自分と他者を区別しない自分のエネルギーだろうと思う事。

阿頼耶識(arayasiki)は、「 主観的時間 」を成立させ、「時空間」のエネルギーも、現実面の「認識」も全てが、阿頼耶識(arayasiki)だと思う事。

「空間意識」で存在する物は、阿頼耶識(arayasiki)が形成した物だと思う。



これから、どんな物語に展開するかは、私だけしか知らない。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月23日

2008/10/23・私の想い(阿頼耶識への想い@)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

これは、私が考えたフィクションである。

私は、僧侶でないから、阿頼耶識についての知識は知らない。

私は、想像するだけである。

私は、東洋の哲学者が、何故、阿頼耶識について「 哲学 」しないのか疑問に思う。

私は、「現存在」を考えるならば、「 今の私 」という意識の末那識と、その発生を可能にして、その「 光 」が到達しない所(それは、時間的に言うと過去と未来の両方)に存在すると思われる阿頼耶識を研究しないのは疑問だと思う。

かって、「可能性とエネルギー」について書いたが、可能性もエネルギーも、阿頼耶識から発するものだろうと思う。

本によれば、「アラヤ」とは「蔵」を言うもので、一切の記憶を蔵して、自分の底に流れている意識で、思い出されていない記憶、つまり意識に現われない記憶を保蔵して、一切の「 心 」は、この阿頼耶識から生じる。

詳しく知りたい人は、ネットで「阿頼耶識」を検索するか、本を読んでください。

私は、地球上に住んでいて、常に行為を求められている。

それは、意識的行為であったり、無意識の行為であったりするが、全てが、阿頼耶識に貯蔵され、あるいは阿頼耶識から、生まれる価値によって生きているのだろう。

可能性が生まれる事は、容易に想像する事が出来る。

自分の身体から離れている「 心 」が生まれるのだ。


三流大学を卒業した私は、阿頼耶識が「宝庫」だと思うのに、一流大学の哲学者が、「時間」もだが、この方面を研究しないのは、信じられない。

私は、「電磁波の構造」の末那識と、意識の流れ、生命の流れ、である阿頼耶識を、相互に考えることにする。

阿頼耶識については、「意識」ではなくて、「エネルギー」の方面から考えると面白いが、後で書くことにする。
posted by kandk55 at 19:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/23・自意識は末那識であり電磁波(光)である

今日は、ネットで調べた意識の話をする。

大乗仏教の唯識説によれば、8個の心があると言う。

@眼識
見る事

A耳識
聞く事

B鼻識
嗅ぐ匂い

C舌識
味わう甘味

D身識
感じられている暖かさ、冷たさ、固さの感じ

E意識

記憶。
現象の中に行われている理法、原則などの認識。

F末那識

潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との二義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。

末那識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

G阿頼耶識
阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98




私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。

「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。



これで、私の「 自意識 」が、場所を得た。

今度は、阿頼耶識と私が問題となる。

Every miller draws water to his own mill.


2015/2/27、私の現在の考え11・自意識を参照
posted by kandk55 at 04:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月22日

2008/10/22・私の想い(現象としての私B)

2008年10月21日の記事。

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

だから、私が言う「現象」とは、私だけの観念かも知れない。

「意識は電磁波(光)である」と考えた時、思いついた考えである。

私は、「時間意識」と「空間意識」が、電磁波のように交互に現れて、「認識」が成立すると考える。
「時間」と「空間」を同時に「認識」する事は出来ないのだと思う。

それは、光速で組み合わされているために、あまりにも速度が速く、連続していると見えるのだと思う。
ちょうど、映画を見るように……。

この「空間意識」に現れる事物は、自分に対する力の方向を持っている。

「空間意識」に存在する、全ての物を、「自分」は自分の可能性を増すための道具として扱う。

「自分」の身体を、可能性を増すための道具として考える場合もあると思う。

しかし、それは事物の利用可能な一面であり、「全体」ではない。

(中略)

哲学的に「現象」ではないかも知れないが、一挙に本質が現われないという意味で「現象」と言っている。



2008年10月22日、考えた事

知識を求める人は、このブログから去ってください。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。

「関係に関係する」のが、実存主義ならば、この空間意識から抜け出す可能性や関係を探すのが、その内容だろうと思う。

それは、現象としての自分から、抜け出す事と同じだと思う。

日本に「妖怪人間・ベム・ベラ・ベロ」という漫画がある。

それは、妖怪から人間に変化するために善行をする物語であるが、その妖怪が哲学者だと思う。

SEX の面でも、異性を自分の欲望発散のための道具と思っている限り、この「空間意識」の人間だと思う。

自分の快楽を求めるための行為には、「愛」は無いと思う。

異性の快楽のための行為に「愛」が有るとも思わない。

どこかに、異性を軽蔑する「 心 」があると思うからだ。

私は、「空間意識」は、本能が働く場所であり、「現象」と言うように、日々、変化する意識だと思う。

「社会」でも、多重の関係を結んでいるのが人間で、多重性は可能性の「大きさ」と思うが、私は、人の大きさは「人の住む世界」で決める事であり、現実社会の関係の多さで、人物の大きさを現すという考えは、好きではない。

親子でも、「関係」として認識しない方が良いと思う。

「 関係 」は、「 道具 」を使い、「 力 」で、逆転するものだ。

後日書くが、「人の住む世界」で相手した方が安全だと思う。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 18:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月21日

2008/10/21・私の想い(現象としての私A)

Yahoo USA に、「私の想い(現象としての私)」が登録されるかも知れない。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkj8p0fxIeg4A4UCl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%B3%E3%81%84%28%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%A7%81%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

だから、私が言う「現象」とは、私だけの観念かも知れない。

「意識は電磁波(光)である」と考えた時、思いついた考えである。

私は、「時間意識」と「空間意識」が、電磁波のように交互に現れて、「認識」が成立すると考える。
「時間」と「空間」を同時に「認識」する事は出来ないのだと思う。

それは、光速で組み合わされているために、あまりにも速度が速く、連続していると見えるのだと思う。
ちょうど、映画を見るように……。

この「空間意識」に現れる事物は、自分に対する力の方向を持っている。

「空間意識」に存在する、全ての物を、「自分」は自分の可能性を増すための道具として扱う。

「自分」の身体を、可能性を増すための道具として考える場合もあると思う。

しかし、それは事物の利用可能な一面であり、「全体」ではない。

事物の全体が理解されるためには、「空間」と「時間」が必要だと思う。

ある一定の場所に、幅を持ち、順番に現われて、事物の全体が理解される。

その意味で、「 この世は現象だ 」と、私は言っている。

それが、哲学的に「現象」ではないかも知れないが、一挙に本質が現われないという意味で「現象」と言っている。

息子に何かの行為を依頼したと仮定しよう。

顔と顔を合わせて、了解した返事を受け取ったとしても、その瞬間だけでは、息子が私の意図を理解したのかは知る事は出来ない。

返事と共に、行動するのを見て、私の意図が伝わったと感じるのである。

一挙に、「本質」という物語が示されないという意味で「現象」だと思っている。

一挙に、「本質」が伝わるのは、息子が誕生する時だろう。

遺伝子と一緒に、全ての情報が、息子に伝えられる。

親が持っている阿頼耶識の全てを引き継がれるだろう。

その意味で、「生殖」は、現象とは言えないかも知れない。

「意識は電磁波である」という考えの上に、言う「現象」だから、学問的な意味では無い。

激しく動く「 今 」という瞬間の中で、全てを利用して、自己の実現を図ろうとする時、その対象が、主体である「自分」も現象であると言うのが、「現象としての私」である。

何時、「本質」として結実するのかは不明だ。

他人には、「流れ星」のように、どこに行くのかは不明で、自分に近づくのか遠ざかるのかしか判断する事が出来ないかも知れないが、「流れ星」は軌道を持っている。

「自分の本質を知る事」

それは、全てを引き継いだ誕生の「本質」を明らかにする事であり、自分の軌道を知る事であり、自分の生まれた意味を知る事かも知れない。

勿論、「子孫を残すというための自分」と言う場合もあると思うが……。

Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 04:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年10月20日

2008/10/20・私の想い(現象としての私)

アクセス解析を見ると、「私の想い(可能性とエネルギー)」が、Yahoo USA に登録されているのを知った。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkFZvvtIbXsBUwml87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%B3%E3%81%84%EF%BC%88%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%EF%BC%89&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

エネルギーを放出した後は、充電まで時間を必要とする。
Yahoo USA の読者は、続編を期待していると思うが、少し待ってください。

それよりも、私は、これまで「現世は仮の宿で、来世に本当の宿」があると思っていたが、これは間違いだったと思う。

間違いでは無いかもしれないが、「この世は現象の世界である」と知るまでには、遠い道だった。

「この世は、現象の世界である。」

これは、「意識は電磁波(光)である」という過程で、知る事が出来た。

私の、一人合点かもしれないが……。

「自分の姿も現象なのだ」

私は、「 幽霊 」になる事を勧めるが、皆は、既に自分が、本当の自分ではなくて、「現象としての自分」である事に気付いていないと思う。

「 了解 」は、現実世界とは違う「 人の住む世界 」で成立するのだ。

そこに住む人を、私は「 幽霊 」と言っている。

西洋の「実存主義」の考え方は、「現象としての自分の本質を現実世界に表現する哲学だ」と考える。

自分の意味は、死後に判断されるならば、この世に生きている時に、自分で、表現する事をお勧めする。

「 幽霊 」の立場から、現実世界を見れば、私は「 幽霊の前世 」であり、物体でも、霊でもない混合した化け物だろう。

自分を知れと言うのは、この世は全て現象で、自分も現象だから、変わらない自分の本質を知れと言う事かも知れない。

「ああ、自分は○○だった!」

死ぬ前に、自分を「総括」した方が良いだろう。
あの世で、如来様(nyoraisama)に報告をする事が出来るから。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 18:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする