2008年12月31日

2008/12/31・私の反省(欲望の方向転換)6

「 禁煙 」したいと思っている人に書きます。

@喫煙する出発点から喫煙までの手順を考えてください。

その出発点は、自分でコントロールする事が出来ますから、その場所を知る事が、「 禁煙 」への第一歩だと思います。

禁煙に失敗したら、何回でも、この出発点に戻ってスタートしましょう。

A自分が、何故、喫煙を続けるのか、その理由をも徹底的に考えてください。

なぜ、自分が失敗するのかも、徹底的に反省しましょう。

Bそして、「 禁煙 」を約束するのです。

仏陀でもキリストでも、周囲の友人でも、妻でも、誰を相手にしても良いと思います。

Cそれから、「 禁煙 」の行為を続けます。

タバコの代替物は、水、飴、何でも良いと思います。

これが、どうして欲望の方向転換なのか、書きます。



E=mc2 で、欲望=利己愛×意識の二乗です。

喫煙は「利己愛」だと思います。

利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。




「自分への判断の甘さ」があれば、「 禁煙 」は、決して出来ないと思います

その意味で、「 禁煙 」は、「 利己愛 」の克服に似ています。

欲望や情(zyou)は、流れる物で、本能的で、力強くて、「利己愛」が無い場合も、習慣となった喫煙の欲望に負けてしまいます。

「六道」に、専門の観音様が居ますが、「如意輪観音菩薩」は、六つの手を持って、救って下さいます。

「 救う 」とは、あなたが「 約束を守れば、禁煙を続行できる 」という事だと思います。

手が差し出されるとか、具体的、肉体的な「救い」は無いと思います。

あなたが、約束を果たせば禁煙が可能になるのが、「 救われている 」事だと思います。

「利己愛」よりも、「約束」という意識、「救いを求める意識」を強くすれば、欲望の方向を転換する事が出来ると思います。

「 利己愛 」の反対の事をします。

感情を精神で抑圧するのです。
流れを、逆流させるのです。

「 利己愛 」の抵抗が強ければ強いほど、それを克服した喜びは大きいと思います。

「生木を裂く」ような苦しみを受けますが、それを克服すれば、自信の湧いて来るし、「 喫煙 」以外の「 依存症 」からの脱却にも応用する事が出来ると思います。

「 利己愛 」は、誰も持っているし、強い利己愛ほど、克服すれば大きな喜びになる事を忘れてはいけません。

そして、「 禁煙 」した後は、太るとかマイナスの事を思って、止めてはいけません。

どうしても、この苦しみは、脱却しなければならないと覚悟して、自分の精神力を試してください。

私は、五年前に「禁煙」して、今も続けています。

あなたも、一緒に、「 禁煙 」される事を希望します。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

2008/12/30・私の反省(流れる物と派生する物)U

「私の反省(流れる物と派生する物)」を、Yahoo USA は、登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjjl.FlJyIoA55Cl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%8F%8D%E7%9C%81%28%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%89%A9%E3%81%A8%E6%B4%BE%E7%94%9F%E3%81%99%E3%82%8B%E7%89%A9%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp



この記事は、現時点での要約です。

過去の記事を見れば、私が、何故、そんな事を言うのか、理解して頂けると思います。

単純に、考えています。

流れる物は、神経系統を通って頭脳に流れて、貯水槽のように飽和するだろう。

そして、流れから派生する物は、無線に似て、電磁波的な構造であり、流れる物質ではなくて、精神的な現象を、私に与えるだろう。

流れる物を、派生する物へ分解して、本能の意識と社会的な精神とに分けて記述するのが、私の希望です。

私は、利己愛を持っていますが、他人と比べた事はありません。

ただ、薬物を使わずに「 禁煙 」した体験があるので、欲望をコントロールする例として、書きます。

これから「 禁煙 」したいと思う人は、欲望を分析するチャンスを持っている人です。

「要請」を「チャンス」として把握して、積極的に実行されるようにお願いします。

喫煙している場所が「この世」で、禁煙している場所が「あの世」であれば、私は「あの世」に立ち、「あの世」への手伝いをしようと思っているのです。

「この世」が好きならば、私を無視して、喫煙を続けてください。

もし、「あの世」に行ってみたいと思っている人は、私の体験談を、一つの導きの道として、進んでください。




それでは、始めます。

「あの世」への希望者は、現在、自分が「この世」の「六道」の中で、どの道に立っているのかを、自分で探してください。

それは、長年、続いた喫煙の程度により、「地獄」や「畜生」など、どの道に立っているのか発見して、「意識の定在波」を、つまり何処を習慣として循環しているのかを知ってください。

喫煙する出発点から喫煙までの手順を考えてください。

その出発点は、自分でコントロールする事が出来ますから、その場所を知る事が、「 禁煙 」への第一歩だと思います。



Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/30・私の反省(流れる物と派生する物)6

現時点で、少し要約をします。

流れる物は、

電流

エネルギー

情(zyou)

欲望

阿頼耶識(arayasiki)

「 心 」

を考えています。

欲望は、意識の定在波を持つと考えます。



流れにより派生する物は、

電場と磁場。

時間意識と空間意識。

意識一般と精神

であると考えます。

意識は、電磁波の構造を持つと考えます。


流れの機構は、主に、末那識(manasiki)の働きだと考えています。



E=MC2 により、流れる物は、流れから派生する物に分解して理解すると考えます。

欲望は、利己愛の大きさと、意識一般の大きさに分解します。

分解して理解した物は、阿頼耶識(arayasiki)・欲望の飽和と欲求の満足と考えます。



訂正するも知れませんが、現時点では、このように考えています。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/30・私の反省(欲望)5

2008/12/21、「私の反省(欲望)4」の記事の一部。


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。


これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。



2008/12/30、考えた事。

アメリカ合衆国では、「愛」について、厳しく判断しているのだろう。

Yahoo USA で、「利己愛 m24658 」の言葉を検索すると、私の記事が登録されている。

利己愛 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkUfFFlJ2xkBsN6l87UF?p=%E5%88%A9%E5%B7%B1%E6%84%9B%E3%80%80m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp

利己愛とは、末那識(manasiki)により、阿頼耶識(arayasiki)のある部分を「自分」として、愛する、執着する事だと解釈している。



末那識( Wikipedia より引用 )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。

(引用を終わる)




利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。

私は、この執着を捨てる事が出来ない。

だから、「意識は電磁波である」として、捨てなかったし、死ぬまで捨てる事は出来ないと思う。

これは、「私の反省(欲望)」より、本能を捨てる動物はいないと思うからだ。

しかし、捨てなくても、別の方向に向かえば、エネルギーとなるかも知れない。

その意味で、欲望=利己愛×意識の二乗と書いた。

私は「利己愛」を持っているので、欲望を別の方向へ向けても「利己愛」かも知れない。

しかし、欲望を他の方向に向けた例として、「禁煙」を挙げる。

これは、薬物を使わず、精神力で方向を変えた。

これを例として、書くことにする。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 04:03| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月29日

2008/12/29・私の夢想(内なる宇宙)7

現時点で考えている私自身の構造を要約する。


暫定的な自分の構造

今まで、「意識」の方向から、自分を見ていたが、原則は「無明」であるという方向から考えるようになった。

今までは、「意識は電磁波である」から、電磁波や光を意識に当てはめていた。

「意識」は「知識」だと思うから、社会で学ぶ「知識」から、自分の意識が喚起されるのは理解する事が出来る。

これは、「 心 」が、外に出て、その「 心 」と「 心 」の触れ合いが、教育であると思い、「知識」からの意識の喚起を主に考えていた。

それは、「精神」の伝達であり、教育は可能である事に変化は無いが、「無明」の方向から考えると、「無意識」や「阿頼耶識(arayasiki)」と社会の関係の展開に期待する事が出来る。

「無明」からの展開。

私の存在の全てを、「宇宙空間」と一緒に「無明」が囲む。

「宇宙空間」から書くのが客観的だろうが、私は、自分を抜け出す事は出来ないから、「無明」の方向から、「宇宙空間」に出ようと思う。

「 心 」の中は、真っ暗な「無明」だろう。

「無明」は、エネルギーの領域だと思うので、書く事は出来ないが、「無明」から「無意識」と「意識」を見る景色を、宇宙空間の地球を見るような景色と想像する。

青々とした大気圏が「無意識」であり、幾重にも大気の層は、「意識」の層で、岩石に囲まれた「地球」が、「自分」であるとする。

青々とした大気は、如来様(nyoraisama)から出た光が反射する「煩悩」である。

なぜなら、如来様(nyoraisama)の光や電磁波に「色」は無いからだ。

大気の流れは、台風も含むだろう。

その一つの台風が「自分」の「意識」である。

台風が熱帯低気圧になり消えるように、私の意識は、大気圏に消えて、身体は、「地球」の中に消えるだろう。

その大気の中で、「有害ガス」が、「執着」や「執念」などの消えた「自分」に対する「愛着」であると思う。

消えた自分は、「無明」が無い自分だから、悟り、輪廻転生をしない人、または、死後の自分。

青々とした「煩悩」の中で、台風の存在が、自分の意識であり、

「地球」は、「肉体」

である。

地球の電磁気が、身体の電磁気であり、意識や無意識を生み出し、「煩悩」が重力となり、意識と無意識を「肉体」の周囲に引き付けると解釈する。


地球上は「現実生活」であり、地球の内部は「宇宙空間」や精神世界として広がり、自意識が、「身(身体)」・ 「口(言葉)」・ 「意(意識)」という人間の行為というマンホールを通過して、現実世界と「無明」を結ぶ。


「無明」に充満する「意識の定在波」が、マンホールから出た意識が、「精神」や「知識」となる。

「意識の定在波」が「六道」の一つの道ならば、マンホールから出た「意識の電磁波」も、精神世界の「六道」の一つであるだろう。

これで、今までの記事が連結したと思うが……。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 11:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/29・私の夢想(内なる宇宙)6

「私の夢想(内なる宇宙)」5の結論は、以下の文章でした。

「 心 」は、以前は「無明」中に存在していたから、「意識」と「無意識」を連結する物は、生み出した自分の中に存在する。

「客観性」が存在するが、本来は、自分だけが知っている。

「知識」と「智恵」の関係である。

身体の外部に出ると「知識」となり、身体の中の「無明」の中では「智恵」になる。




2008/12/29、考えた事。

智恵と知識

智恵と知識が、上記のような構造であるという考えは維持する。

智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。



「過去に、互いに関連し合った二つの物体が、いま数光年、離れているということもありうる。その二つは別々の銀河系にあるかも知れない。しかも、その一方を観測するや、他方はただちに、第一の観測値に対応した値をとるという。EPR は、量子力学と論争するために、かって接触を持ったことのある物体間のこのような驚くべき関係をあばきだした。量子力学が暗示するところによれば、過去に一度接触をもつと、その接触が切れてしまったあとでも、物体間には特別な相関が存在するという。……(中略)……アインシュタインは異論をとなえるかもしれないが、私は過去に関係をもった二つの粒子の、このような「量子的相関」を「アインシュタインの相関」とよぶことにしている。アインシュタインはEPRの議論の中で、そのような関係は不合理だから排除しようとした。彼は、量子力学は不合理な関係をつくり出しうるということを最初に指摘した名誉の保持者でもある。」

「量子の謎をとく(F.A.ウルフ著。中村誠太郎訳)221〜222ページより引用



私は、物理学は知らないが、この「相関関係」にある二つの物体を、「智恵」と「知識」に置き換えると、二つが一つの関係で結合して、一方が変化すれば、それは他方にも影響するという結論となる。

「かって接触を持ったことのある」のは、自分の中で、「無明」から「知識」が生まれた事と解釈する。


「不合理」であるのは、「アインシュタインの相関」を知識や学問で問題とすべきではなく、「無明」の中の意識の問題であり、「 心 」の問題であるという意味だと解釈する。


「不合理」は排斥されるべきではなく、

「不合理」が「真理」かも知れない。



「知識」と「智恵」が動くのではなく、自分の意識が、数光年、離れている、内なる「無明」と外部の「宇宙空間」を、出入りし、一方が変われば他方も変わる関係であるという考えを持っている。


私には、私の「智恵」と「知識」がある。

「知識」や「智恵」は、私が持っているという意味で、「局所的」であるが、私の所有物ではなく、「局所的」な因果関係でもない。

非局所的な「宇宙空間」の知識を、意識として「局所的」にして持っているのが、「内なる宇宙」の智恵であり、二つは、一方が変われば他方も変わるという「相関関係」であると思っている。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月28日

2008/12/28・私の夢想(内なる宇宙)5

「私の夢想(内なる宇宙)4」の結論は以下の文章だった。


私が、「夢」のなかで、合理的に進まないから、夢は現実ではないと思うが、如来様(nyoraisama)にとって「合理性」は真理ではなく、私にとっての「非合理」が、如来様(nyoraisama)の「真理」かも知れない。

そのマンホールのような夢という通路を通して、人間は、皆、宇宙空間と「無明」を往来していると思う。

そのマンホールは、人間が作った「合理性」であると思う


2008/12/28、考えた事。

マンホールから出ると、光ある世界、意識ある世界であると考えるが、これは、感覚が生まれた後の世界、生きている世界の事だと思う。

マンホールが「合理性」とは、誰にも共通の感覚を通過する事、言い換えると「客観性」である。

マンホールを通過すれば、自分も、その「客観性」に同調してしまう。

それが、身体の外に出た「 心 」だと思う。

「 心 」は、以前は「無明」中に存在していたから、「意識」と「無意識」を連結する物は、生み出した自分の中に存在する。

「客観性」が存在するが、本来は、自分だけが知っている。

「知識」と「智恵」の関係である。

身体の外部に出ると「知識」となり、身体の中の「無明」の中では「智恵」になる。



私は、「無明」の世界から、「無知」の世界から書いているので、人は私を信じない方が良い。

私の考えの一つを書いている。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 19:04| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/28・DVD の整理とエクセルの活用2

Yahoo USA が、私の「DVDの整理とエクセルの活用」に注目しています。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkm_XylZJBYwAbbOl87UF?p=DVD%E3%81%AE%E6%95%B4%E7%90%86%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%B4%BB%E7%94%A8&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp


私は、三流のブログを書いていますが、Yahoo USA が注目してくれるので、大変、嬉しいです。


少しだけ補足をします。

DVDの内容を書いたエクセルの一覧表は、データーの集合です。

エクセルの一覧表に「列」を追加して、種類別にしたDVDに書いた順番を入力します。

追加は、種類を無視して、一覧表の下部に入力しますが、種類の「列」を追加している場合は、そこに順番の最後の数字を入力します。

そして、範囲を設定して、「データー」をクリックして、「並べ替え」を選び、種類の「列」やその他の「列」を昇降順に設定して、「ソート」を実行します。

すると、種類の番号順に、データーが並びますので、種類の順番から探す、あるいは、データーの入力順から探す事が出来ます。

要するに、縦に「列」を追加して、種類や重要度や備考欄を設定すると、「列」を対象にして、「ソート」すれば、簡単に探す事が出来ると思います。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 10:13| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/28・DVDの整理とエクセルの活用

もうすぐ正月です。

私の部屋も、物品の整理をしました。

DVDの数は、220枚。

少ないが、二日間で、DVDの整理をしました。

その時、「エクセル」を利用したので、体験談を書きます。

@二台のパソコンを用意しました。

一台は、DVD の内容を見る目的で使い、もう一台は、「エクセル」を使い、DVD の内容を入力します。

息子から、パソコンを借りました。

Aフロッピーディスクを持っていないので、USB に対応したメモリーを使って保存しました。



手順

@「エクセル」に番号を付け、内容を入力するように加工した表を作成します。


A一台のパソコンでDVD を見ながら、「エクセル」の表に内容を入力します。

DVD の種類は後で分別するので、この時は種類を無視して入力します。


B「エクセル」の一覧表の番号を、DVD に鉛筆で書いて、種類別に保管します。


Cすると、「エクセル」の番号が付いた「行」に、種類は区別しないDVD の内容の一覧表が出来上がります。


D「エクセル」の一覧表の番号を鉛筆で書かれて、種類別に保管したDVD に、保管した順番を鉛筆で書きます。

すると、DVD は、一覧表の順番の番号と、種類別の順番の番号の二つを持つ事になります。


E「エクセル」の一覧表に、種類の数に合った「列」を挿入して作り、そこに、種類別の順番の番号を入力します。


Fそして、「エクセル」の一覧表を、種類を考えて優先順番を設定して「ソート」します。

種類別に順番になった「エクセル」の一覧表が作成されますので、それに合わせて、DVD を保管します。


G今後、新しいDVD を追加する場合は、「ソート」する前の一覧表に、番号と内容を追加して、種類別に「ソート」します。

これを、USB やフロッピーデスクに保管して、データーの移動を自由にします。

この結果、「エクセル」を開くと、一覧表の番号からも、種類の番号からも、目的のDVD を発見する事が出来ると思います。



以上が、私の体験談でした。
posted by kandk55 at 04:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月26日

2008/12/26・私の夢想(内なる宇宙)4

「宇宙空間」と「無明」の境界について。

前者は、意識の前に広がる空間である。

私は、「無明」から生まれて「無明」に帰るが、そこは地球上の一つの生命体だと思う。

それは、本来の私が住んでいるのは「無明」の生命体の中だろうと思う。

人類に共通する物は、その「無明」の力があるのだろう。

人間には、「無意識」の領域が多い。

宇宙の中で、地球が存在するように、「無明」の中に「意識」が「 心 」が存在するのだと思う。

暗闇の中の明るいマンホールのように、暗い無明から「意識」の世界を見ると、明るい「光」の世界だろう。

生まれて来る時も、死後も、このマンホールを通過するのだと思う。

そして、現実世界、以前、書いたように、如来様(nyoraisama)にとっては「夢」だろう。

仏陀が、思うようにならない世間を「苦」としたが、仏陀は、如来様(nyoraisama)の使徒だと思うと、如来様(nyoraisama)が仏陀の身体を通して「苦」と考えているのだと思う。

この世は、如来様(nyoraisama)にとっては「夢」だから、如来様(nyoraisama)の思う通りに物事が進まない。


私が、「夢」のなかで、合理的に進まないから、夢は現実ではないと思うが、如来様(nyoraisama)にとって「合理性」は真理ではなく、私にとっての「非合理」が、如来様(nyoraisama)の「真理」かも知れない。

そのマンホールのような夢という通路を通して、人間は、皆、宇宙空間と「無明」を往来していると思う。

そのマンホールは、人間が作った「合理性」であると思う



人間は、「無明」の中に生きているのであり、意識の世界は、社交場である。

意識の世界も、「無知」であり、知る事が出来ないという性質は「無明」と同じだと思う。





Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 11:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月24日

2008/12/24・私の夢想(内なる宇宙)3

2008/12/21、考えた事。

慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗


習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。





2008/12/24・考えた事。

上記の記事を説明します。

私は、物理の用語を使いますが、物理学は全く知りません。

用語は、「現象」の中で、理解する事が出来る考えだから、これを利用しているだけであり、実験により、その真偽を主張したいとは思いません。



慣性力は、「欲望」。

私の身体が動いている時が、「 今 」であり、今、身体を動かす力やエネルギーは「欲望」であると思います。

私の「利己愛」の強さにより、欲望を働かせる時、(欲望を排除する時も、欲望により決定する時も)のエネルギーの大きさが違います。

古典物理学が、現象世界を説明するのに便利であれば、「欲望」は、物を動かす時の「慣性力」に該当すると思います。


重力は、「煩悩」。

これは、「利己愛」が、自分という領域を区切り、本能である「快感」の原因と結果を決定し、「利己愛」の存続を図り、「快感」の増大を図る時、因果関係の集まりが、自分の周囲を取り囲んで、環境を自分の都合の良い方向に変えます。

増大した「快感」の総量が、「煩悩」であり、自分に都合の良い方向に考える力が、「重力」に該当すると思います。

これは、末那識(manasiki)の働く範囲であり、人間は誰でも持っています。

自然界で、「万有引力」が存在するように、人間は台風の暴風雨のように、この「重力」を持っています。


質量は、「利己愛」「自分への執着」。

これも、誰もが持っていて、自分の利益のために行動するのが人間です。

社会の体制が、共産主義になっても、個人の欲望の中に「利己愛」がある限り、社会の体制では解決しません。

解決を社会に求めるのではなくて、個人の内面の努力により、克服する問題です。

なぜなら、私は、「他人を利益に導く」事は、意識や魂や精神を「転生」させるために必要だと思いますので、「利己愛」を徹底すれば、「他人を利益に導く」事になると思います。


光は、「意識」。

これは、以前から書いていますが、「 今 」は、意識という「光」が照らされる「出来事」や「印象」という阿頼耶識(arayasiki)の範囲だと思います。

「意識」が「 今 」しか存在しないと言うのは、人間は、「光」の最先端に位置していて、常に過去に向かって意識していて、身体が動く時が、「 今 」なのです。

「意識」は「光」が照らす「 今 」に存在します。


これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。
欲望=利己愛×意識の二乗



自然法則のE=mc2+P が、原子レベルでも成立する考えならば、「精神」の中でも成立すると考えます。

これは、「六道」の全ての道を歩く人に該当すると解釈します。

これは、「六道」から脱出する事が可能だという意味であります。

「利己愛」を「意識」としてエネルギーに変換するならば、前述のように「利己愛」は「他人への利益」となりますから、「六道」から脱出が可能になると思います。

その変換を助ける菩薩が、「如意輪観音菩薩」であるかも知れません。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月23日

2008/12/23・私の夢想(内なる宇宙)2

Yahoo USA が、「私の夢想(内なる宇宙)」を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxlR01BJoiQB.L2l87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%A4%A2%E6%83%B3%28%E5%86%85%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%AE%87%E5%AE%99%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私が、「私の夢想」を、何処で放棄するのか、私自身も知りません。

ただ、夢想するだけです。


私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、「意識は電磁波である」という言葉で、仏教とは違った考えになったとおもいます。

「無明」についても、仏教的ではありません。

「無明」は、「煩悩」などの根源と思われていますが、私は、全ての意識の根源であり、「無明」を解明した方が良いと思うのです。

誰かが、人間は肉袋だと言いましたが、私も同感です。

身体の外は、目の前が「大気圏」であっても、「宇宙空間」であります。

人間には空気が必要と同時に、人間には希望が必要です。

希望は、「無明」により、存在が可能です。

身体の外は、「宇宙空間」で、それに対して、人間は根源的に「無知」であります。

精神は、「無明」の中に「意識」が存在し、意識は無明を根源に含むと思います。

身体の外は「宇宙空間」で、身体の内、例えば精神は「無明」により、人間は取り囲まれていると解釈する。

身体は、台風のように、一定の条件で、「ガイア理論的」な循環から作られ、根源は「無明」である。

人間の精神は「無明」から生まれ「無明」に戻るならば、「煩悩」の根源として「無明」を無視するのではなく、「浄土」や「極楽」や「地獄」は、「無明」であると解釈する。

後で書くが、「煩悩」が人間に存在するから、人間は「生きている」と思う。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 21:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月22日

2008/12/22・私の夢想(内なる宇宙)1

2008/12/21、考えた事。

慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

2008/12/22、考えた事。

この方針を維持するには、どんな方法があるのか、考えた。

もちろん、仏教ではない。

この考えを、宇宙に拡げると、どんな事になるだろうか?

「 心の内なる宇宙 」の展望である。

前述のように、一般相対性理論で説明される宇宙に似た「内なる宇宙」である。

「六道」を、太陽系の惑星の六個に当てはめて、太陽に如来様(nyoraisama)を当てはめる。

そして、「 真っ暗な宇宙空間 」は、「無明」なのだ。

宇宙空間の中に星や太陽系がある。

宇宙空間と星と太陽系が、時空間で融合している。

「 光 」は、「 真っ暗な宇宙空間 」が存在するから見る事が出来る。

「 宇宙空間 」に「無明」。
「 星 」に「 人体 」。
「太陽系」に「六道」。
「 光 」に「 意識 」。

これを置き換えると、「 無明 」は、物体を物体として存在させる背景で、存在には不可欠の物。


これが、私の「存在と無」である。


私は、仏教の「無明」の位置の変更を要望する。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 19:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 E | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月21日

2008/12/21・私の反省(欲望)4

これが、2008/12/21・11時05分、現在のアクセス状況である。


1 2008/12/21・私の反省(欲望)3  
2 RSS  
3 /m24658/pages/user/m/tb/regist/input  
4 /m24658/pages/user/m/comments/regist/lis..  
5 トップページ  
6 /m24658/pages/user/m/comments/regist/inp..
7 /m24658/pages/user/m/article  
8 木曜日・老人SEX画像  
9 2008/12/20・私の反省(欲望)2  
10 2008/12/16・メモリー増設の体験談2

私が書いた「私の反省(欲望)」が、閲覧されているのを見て、嬉しい。

嬉しいから、もっと先まで書こうと思っている。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、物理学は、全く知らないが、この物理学的な考えで、仏教を解釈したいと思っている。

前述した事。

「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。

本能の「快感」は無明だが、トン・ジン・チという無明の煩悩としての性質は、「欲」の「情(zyou)」に現れると解釈する。




考えた事。

私たちは、子供に、「人間の中は別の宇宙がある」と言うが、大人は、それを真面目に考えているだろうか?

私は、「六道」を原子核レベルの電子でなく、「六個の系」と考える。

そして、全ての「系」に共通する原則を考える。

その参考にしたのが、一般相対性理論だ。


一般相対性理論 (Wikipedia より引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96

一般相対性理論は慣性力と重力を結び付ける等価原理のアイデアに基づいている。等価原理とは、簡単に言えば、外部を観測できない箱の中の観測者は、自らにかかる力が、箱が一様に加速されるために生じている慣性力なのか、箱の外部にある質量により生じている重力なのか、を区別することができないという主張である。
相対論によれば空間は時空連続体であり、一般相対性理論では、その時空連続体が均質でなく歪んだものになる。つまり、質量が時空間を歪ませることによって、重力が生じると考える。そうだとすれば、大質量の周囲の時空間は歪んでいるために、光は直進せず、また時間の流れも影響を受ける。これが重力レンズや時間の遅れといった現象となって観測されることになる。また質量が移動する場合、その移動にそって時空間の歪みが移動・伝播していくために重力波が生じることも予測される。

(引用を終わる)


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

間違いだと思いますが、書きました。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 12:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/21・私の反省(欲望)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の考え。

これは、私の解釈であるから、主観的な見解であり、間違いだと思うが、書くことにする。

私は、意識が電磁波的な構造を持ち、情(zyou)を過去から現在そして未来の阿頼耶識(arayasiki)へと、伝達する働きや機能を末那識(manasiki)の機能であり、これは本能であると解釈する。

生理的、本能的な「快感」は、神経細胞により、脳の部分に伝達され、エネルギーが飽和や均衡するのだと思う。

この「快感」は、「無明」の一種だと解釈する。

これが、生理的な「電流」であるならば、精神的な「電磁波」を生むと思うが、その電磁波は末那識(manasiki)であり、「快感」の意識として阿頼耶識(arayasiki)に伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)は、「快感」だけでなく、「快感」を生じた原因や行為の全てを記録する。

私の考えでは、「快感」という感覚の刺激によりエネルギーが均衡する部分と、感覚の刺激による意識の飽和や均衡の部分とは違うという結論になる。

これは、間違いかも知れないが、私のブログでは、その意識を「欲望」あるいは「欲」の「情(zyou)」と解釈する。

「快感」は、一つの刺激ではなく、五感の刺激により伝達されるのに従い、「欲」の「情(zyou)」も、五感の意識の電磁波の塊である。



「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。

本能の「快感」は無明だが、トン・ジン・チという無明の煩悩としての性質は、「欲」の「情(zyou)」に現れると解釈する。

つまり、「快感」をむさぼる、食い尽くすのであり、「不快感」であると怒り、「快感」しか知らないように、求めるのだと解釈する。

続きは、後日、書きます。



引用

@快感

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB


快感(かいかん)は、気持ち良いと感じる事。喜び、幸せ、満足等の感情と密接に結びついている。脳科学的には、報酬系における神経伝達物質を介した神経細胞間の活動で定義される。食、摂水、睡眠、性的行動など、動物としての本能に根ざした行動は、快感という報酬と不快感という罰によりコントロールされる。食欲など欲求が満たされれば快感を覚え、満たされなければ不快感を覚える。欲求とは、不快感を解消し、快感を得ることを(本能的に)希求する心のありかたと捉える事も出来るといえる。その他、大脳の高次機能の発達した人間は、長期的な目標の達成等、動物的欲求以外の状態からも快感を得る事が可能である。美しいものを見、素晴らしい音楽を聴き、楽しい時を過ごす事によって人は快感を得る。
その達成までの期間の長短はあるが、人間の行動は何らかの快感を得る事を目指したものが多く、人間の行動原理、価値観の根本を規定する脳の状態である。



Aトン・ジン・チの三毒



出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

貪(とん)は、仏教が教える煩悩のひとつ。
別名を貪欲、我愛という。万の物をむさぼる心である。 このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。
怒りの心である瞋、真理に対する無知を意味する癡(痴)とあわせて三毒とされ、仏教で最も克服されるべき対象(人間の諸悪・苦しみの根源)とされる。
三不善根のひとつであり、六根本煩悩のひとつ。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月20日

2008/12/20・私の反省(欲望)2

Yahoo USA が、「私の反省(欲望)1」を登録している。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkeEMUxJYVoBU1ql87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%8F%8D%E7%9C%81%28%E6%AC%B2%E6%9C%9B%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp



私は、「欲望」について、明確な考えを持っていない。

現在、考えている仮の全体像を書くことにする。

私は、「欲望」を、当面は意識の一種として扱うが、本当の姿は、「欲望はエネルギーである」と思っている。

それは、「無明」の一種だろう。

例えば、台風の暴風雨の範囲全部が、欲望である。

過去からの意識の電磁波の干渉により、可能性の同心円が作られ、それが暴風雨の強さの範囲であり、その範囲を区切る道が「六道」であり、その「六道」の各点を、「 心 」が、往来すると考える。

その往来を可能にするのが「欲望」だと思う。

「六道」の道を断ち切る力は、「欲望」が持つと考える。

意識は電磁波であるが、その総体が暴風雨であり、阿頼耶識(arayasiki)であると解釈する。

自分が原因の暴風雨で、その中で流れる風が「欲望」であり、「欲望」により吹き飛ばされている木や岩が「意識」であり、暴風雨は電磁波の塊である。

それを一つにしているのが人間の身体だと解釈している。

そして、台風の目で青空を見るように、自分の暴風雨の中心は、天と地に通じる「無明」である。

台風は、自分であり、暴風雨は自分が作るもので、台風が熱帯低気圧になって消えるように、人も消えるものであると解釈する。

台風には暴風雨が存在するように、「欲望」は、「本能」を推進し、維持する、生きる意欲であり、「 心 」の存在の可能性を拡大する力であると解釈する。

電磁波の構造をした意識より運ばれる物は、私のブログでは情(zyou)だとして、意識のサインカーブが交差して認識が成立し、意識が「転生」した場合、阿頼耶識(arayasiki)で、「快感」というエネルギーが生じる。

電磁波のサインカーブを、電磁波の進行方向から見れば、円を描いて情(zyou)が進んで来るだろう。

その円が、「六道」かも知れない。

「快感」を基本的な「喜び」として、「欲望」は、それを更に増大させる加速度に似た物と解釈している。



快感

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB

快感(かいかん)は、気持ち良いと感じる事。喜び、幸せ、満足等の感情と密接に結びついている。脳科学的には、報酬系における神経伝達物質を介した神経細胞間の活動で定義される。食、摂水、睡眠、性的行動など、動物としての本能に根ざした行動は、快感という報酬と不快感という罰によりコントロールされる。食欲など欲求が満たされれば快感を覚え、満たされなければ不快感を覚える。欲求とは、不快感を解消し、快感を得ることを(本能的に)希求する心のありかたと捉える事も出来るといえる。その他、大脳の高次機能の発達した人間は、長期的な目標の達成等、動物的欲求以外の状態からも快感を得る事が可能である。美しいものを見、素晴らしい音楽を聴き、楽しい時を過ごす事によって人は快感を得る。
その達成までの期間の長短はあるが、人間の行動は何らかの快感を得る事を目指したものが多く、人間の行動原理、価値観の根本を規定する脳の状態である。

(引用を終わる)



この「快感」をコントロールするのが「欲望」であると思う。

これは、私だけの考えであり、後日、変更する事もあるだろう。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 09:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月19日

2008/12/19・私の解釈(輪廻転生)9

これまでの考え。

精神の発生が「無明」で、何処へ消滅するのかも「無明」だから、地球は、「ガイア的」な一つの生命体と考える。

全ての生命は、生命として平等であり、死後は「無明」という通路から、一つの生命体に集合する。

そして、人間の誕生と同時に、「無明」から精子となって、女性の子宮に到達して、生まれると解釈する。

そして、生まれた子は、身体も精神も、全て違う。
言葉を変えると、差別されている。

生命の一切が平等であり、それと同時に、全てが如来様(nyoraisama)によって、差別されている。



私の解釈は、この循環の中で、如来様(nyoraisama)により、誕生する動物の親が決められる所が、他の考えと違う。

精神は一つの生命体に集まるが、人間の誕生と同時に、「好みの」動物の精子となって、子宮に到達して、生まれると解釈する。



一方、「転生(tensyou)」の解釈は、「生まれ変わり」とする。

肉体は、全く別人や別の動物として、生まれ変わる。

ただし、精神は、「転生」していない。

記憶として残らないのだが、「親を選んだ人」の思想や精神は、何処かに付着していると解釈する。

精神や思想は、生きている人間が、生きている間に、「転生」させない場合は、引き継がれると解釈する。



人が「六道輪廻」する姿に、「転生」しない意識が後に付着するのだと解釈する。



2008/12/19・考えた事。

意識を「転生(tensyou)」させたのは、「願(gan)」を立てた後、それを成就して仏になった阿弥陀仏が一つの例だろう。

「願(gan)」というのは、「執念」だと私は解釈している。

「思い」と言っても良いだろうが、意識的に、一心に何かを願う事だろう。

ちょうど、宇宙の「真空」に、大きなエネルギーを注いだら電子が飛び出るように、「無」から「物質」が飛び出るのが、「意識の生まれ変わり」だろう。

何かが、生まれて来れば、生まれ変わりと言う事が出来る。


そして、念仏を唱えるのは、阿弥陀仏の名を唱えて「浄土」に行くのではなく、意識が転生した仏に、この世で、意識が生まれ変わるのを願うのが、目的だろうと思う。



私の考えが、仏教的では無いのは、その所かも知れない。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 C | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月16日

2008/12/16・メモリー増設の体験談2

「メモリー増設の体験談」が、Yahoo USA に登録されています。

これから、メモリー増設後の状況を報告します。

私のパソコンは、同じ容量のメモリーを二つ増設した方が、少し、速度が増すと書いてありました。

メモリーを交換した後は、あるソフトウェアをインストールして、メモリーの使用状態を調べました。

Total Memory → 2038MB

Available Memory →1280MB

交換したメモリーは2ギガバイトですから、トータルメモリーは2038メガバイトである事は正しい。

使用しているメモリーが、1280メガバイトであるのは、1ギガを超えたメモリーを使っている事です。

メモリーを増設する前は、514メガバイトでしたから、やはりメモリーが不足しているので、ソフトウェアの動きが遅かったのだと思います。

もしも、パソコンを自分の快適な道具として使おうと思われたら、メモリー増設をお勧めします。

増設する時は、パソコンの周波数に合うメモリーを購入してください。

自分で判断せずに、店員など他人に聞いてください。

もし、使えないメモリーであれば、大変な損失です。

そして、メモリーの交換は、自分の力でしましょう。

増設の作業をする時は、静電気を取り除くとか、ネジに合うドライバーを使うとか、マニュアルを読んで行動してください。

マニュアルは、パソコンの「 心 」の一部だと思います。

心を込めて行為する事は、マニュアルに従って行為する事だと思います。

初心者のために、マニュアルが作られていると言う「 心 」を、素直に、受け取る方が良いでしょう。

そうすれば、メモリー増設やリカバリーなどは、初心者の私が可能な行為ですから、皆さんも、必ず、可能な行為です。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 22:40| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月15日

2008/12/15・私の反省(欲望)1

私の次の目標は、「欲」です。

「欲」Wikipdia から引用
   ↓
欲(よく)は、動物・ヒトが、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。欲望・欲求等ともいう。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。

「欲」Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、意識を生むエネルギーについては知らない。

「快」や「不快」を感じた時、意識を生む電気のようなエネルギーが走ると想像する。

しかし、私はエネルギーについて書くのではなくて、欲を意識の一種と考えて、ブログを書く。

欲について、知識を求める人は、このブログから去ってください。

私の考えを強制する事はしません。

ただ、私が考えている事を書きます。



人は、五つの欲を持っていると言われる。

性欲と食欲と睡眠欲、それに財産欲と名誉欲だと思う。

性欲と食欲と睡眠欲は、生理的であり、本能的な欲であるが、財産欲と名誉欲は、社会的な欲だと思う。

私は、性欲と食欲と睡眠欲の中で、「本能的、生理的な欲」と、その欲を増幅する「精神的な欲」の区別に興味を持っている。


性欲と食欲と睡眠欲の「本能的、生理的な欲」は、地球上の全ての動物が持っている。

しかし、「精神的な欲」は、人間が持っている特別の感情だと思う。

私は、これを「欲望」と書くことにする。


私は、これを区別して、許される範囲で欲望を楽しみたいと思っている。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 21:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月14日

2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)8

これが、2008/12/14・19時20分、現在のアクセス状況である。


1 2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)7  
2 RSS  
3 2oo8/12/14・私の解釈(輪廻転生)5  
4 2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)6
5 トップページ  
6 2008/12/13・私の解釈(輪廻転生)4  
7 /m24658/pages/user/m/comments/regist/lis..

これは、少し変な状態です。

少し調べたところ、Yahoo USA で、私の記事が登録されていました。

アメリカの人が、私のブログを見ているとは考えられないのですが、少し嬉しい気持ちです。

なぜなら、Yahoo USA に登録される事は、世界に発信する事なのですから。

私は、僧侶ではありませんので、正しい知識を書いているのではなく、自分が老人だから、早めに勉強をするつもりで書いています。

仏教の知識を求める人は、他のブログを見てください。

では、繰り返しになりますが、私の考えを書きます。



私は、「輪廻」は循環であり、肉体は宇宙の塵から出来ており、死ぬと肉体は火葬され自然界の一部に戻ると思います。

この循環は、仏陀でもキリストでも、肉体は循環しただろうし、今、自分の目の前の空気の中に、火葬された空気が存在するかも知れない。

どんな達人でも、この循環は、避けられないと思う。

それは、死が避けられないと同じ事です。

ただ、人間は、「精神」を持っている。

それが、宗教的な考えに向かうと思う。

全部が消滅するという考えも存在するだろう。


しかし、私の解釈を書きます。

精神の発生が「無明」で、何処へ消滅するのかも「無明」だから、地球は、「ガイア的」な一つの生命体と考える。

全ての生命は、生命として平等であり、死後は「無明」という通路から、一つの生命体に集合する。

そして、人間の誕生と同時に、「無明」から精子となって、女性の子宮に到達して、生まれると解釈する。

そして、生まれた子は、身体も精神も、全て違う。
言葉を変えると、差別されている。

生命の一切が平等であり、それと同時に、全てが如来様(nyoraisama)によって、差別されている。


私は、「輪廻」を循環として考え、ここまでは、世界に是認される考えだと思う。



私の解釈は、この循環の中で、如来様(nyoraisama)により、誕生する動物の親が決められる所が、他の考えと違う。

精神は一つの生命体に集まるが、人間の誕生と同時に、「好みの」動物の精子となって、子宮に到達して、生まれると解釈する。


生まれた子は、身体も精神も、全て違う。

言葉を変えると、如来様(nyoraisama)により、差別されている。

親が子供を選ぶ事は出来ないが、子は、親を選んで生まれて来ると考える。

そうであるなら、子は親を選んだのであるから、悪く言えば、親の面倒を見るのは仕方がない事かも知れない。

また、親も、「私を選んで生まれて来た子だ」と、喜ぶのが本当の姿で、児童虐待などは、全く間違った育て方だと思う。

これには、賛否両論がある。



一方、「転生(tensyou)」の解釈は、「生まれ変わり」とする。

肉体は、全く別人や別の動物として、生まれ変わる。

ただし、精神は、「転生」していない。

記憶として残らないのだが、「親を選んだ人」の思想や精神は、何処かに付着していると解釈する。

精神や思想は、生きている人間が、生きている間に、「転生」させない場合は、引き継がれると解釈する。

後日、書く予定だが、「執念」が悪い。

その執念が、生まれた子に影響すると思っている。


私は、以前、大石内蔵助の辞世の句を紹介したが、あのように、自分の課題を遂行したという満足感を持って死に向かうのが好きだ。

今日、12月14日は、「忠臣蔵」の討ち入りの日である。

供養のために、再掲載する。

あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし


極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 20:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 C | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする