2009年03月30日

2009/3/30・創作2(意思は形態) 機能と認識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA 「機能の解釈 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkj1qk9BJA1sBt5Gl87UF?p=%E6%A9%9F%E8%83%BD%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA に感謝します。

私は、これから機能の解釈を展開します。

2009/3/29・考えた事

「 意思は形態として具現化する 」という記事でも書いたが、機能は、「 機会 」に際しての「 頭脳 」の働きと解釈する。

「 機会 」は、地球が自転するので同一の機会は無い。
しかし、「 頭脳 」で、生きる。
その「 順応 」する行為が体験である。

それらは、「 虚時間 」の中で行われ、智慧となり、知識となり、記憶される。

記憶とは、信号に応答する「 意味を持った形態 」の手順であり、主に、意識の中で、操作可能な「知識」として存在するが、無意識の中にも、「智慧」として存在するだろう。

その応答の感受性が、「 記憶力 」だと思う。

「意識」が「光」であるならば、「知識」が可視光線で「智慧」が、赤外線やX線などの不可視光線であるだろう。

「 機会 」に対して、「頭脳」は、全ての記憶を動員する。

眼で「見る」が、眼球は水晶体であり、網膜に映る映像は倒立している。

それを、反転させるのが、「頭脳」である。

そこにも、「 認識には反転、あるいは回転が必要である」事は明白である。

それは、「 虚時間 」と「 反対称 」が、「頭脳」の中で行われている事だと思う。

「謙虚に聞く」とか、「心を虚しくして聞く」という態度には、現実に対応する時に、座標軸を転換して、座標を反対称にして、聞く事である。

神経の刺激の反対方向に、意識を集中する事だと思う。

「視覚」や「聴覚」は、単独で存在しない。

「 意思は形態として具現化する」という記事で書いたが、人間は「文化的」であり、「文化」から離れる事は出来ない。

神経刺激は、左右の頭脳により、「意味ある形態」に結びついて、判断される。

神経の刺激に対して、「色」を見る意識や、「何かの音」という意識が必ず存在する。

それを、哲学者は、「志向性」と言うのだと思う。

彼らが「体験」というのは、「神経刺激」であり、刺激の伝達と「意識」の分析とは別であるというのが私の考えである。


2009/3/30・考えた事。

私が、「 機能 」を、視覚や聴覚から拡大して考えるのは、次の事を計画しています。

@
認識は、単独の機能では不可能である。

A
文化、芸術の交流には、「機能」の拡大解釈が有効である。

B
その他

@

「認識」とは、社会的な行為であり、対話、コミュニケーションであり、私自身が何かを認識する事も、私自身の単独の行為ではなくて、社会的で文化的な行為だと思う。

文字や絵画を使う事自体が、社会的行為だと思う。

それらは、祖先が作った社会的道具であり、私自身か創造した物は、全く無い。

私の場合は、視覚や聴覚などの単独の「機能」だけで、認識は成立しない。

「 愛 」や「 人情 」が、視覚や聴覚だけで理解する事が出来るとは思わない。

電磁波の構造で運ばれる情(zyou)も、神経の刺激であると共に、意識の伝達である。

神経の刺激が、頭脳のニューロンを動かすと聞いても、私は納得しない。

ニューロンの結合する形態や個数が、「 愛 」という意識を生むだろうか?

形態は意思だから、「 愛 」を知る契機になるだろうが、全てではない。

「 愛 」や情(zyou)を他人から受け取る時、意識や知覚を必要としない場合も考える。

「気持ち」という無意識の感覚だけで、「愛されている」事が、親から子に伝わる事もある。

あるいは、「察する」事により、「愛されている」という情(zyou)を受け取る事が出来る。

それは、知覚ではなく、「 機会の中の頭脳と拡大した機能 」による信頼感、あるいは連帯感という形態の情(zyou)の獲得である。

大切なのは、情(zyou)を受け取る感受性である。

「 感受性 」という「 器 」を持ち続けた方が良いだろう。

「 器 」は、「形態」の受け取りに合致する「 拡大した機能 」であり、天賦の物かも知れない。


AとBは後日、書きます。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年03月29日

2009/3/29・創作2(意思は形態として具現化する)機能の解釈

「 意思は形態として具現化する 」という記事でも書いたが、機能は、「 機会 」に際しての「 頭脳 」の働きと解釈する。

「 機会 」は、地球が自転するので同一の機会は無い。
しかし、「 頭脳 」で、生きる。
その「 順応 」する行為が体験である。

それらは、「 虚時間 」の中で行われ、智慧となり、知識となり、記憶される。

記憶とは、信号に応答する「 意味を持った形態 」の手順であり、主に、意識の中で、操作可能な「知識」として存在するが、無意識の中にも、「智慧」として存在するだろう。

その応答の感受性が、「 記憶力 」だと思う。

「意識」が「光」であるならば、「知識」が可視光線で「智慧」が、赤外線やX線などの不可視光線であるだろう。

「 機会 」に対して、「頭脳」は、全ての記憶を動員する。

眼で「見る」が、眼球は水晶体であり、網膜に映る映像は倒立している。

それを、反転させるのが、「頭脳」である。

そこにも、「 認識には反転、あるいは回転が必要である」事は明白である。

それは、「 虚時間 」と「 反対称 」が、「頭脳」の中で行われている事だと思う。

「謙虚に聞く」とか、「心を虚しくして聞く」という態度には、現実に対応する時に、座標軸を転換して、座標を反対称にして、聞く事である。

神経の刺激の反対方向に、意識を集中する事だと思う。

「視覚」や「聴覚」は、単独で存在しない。

「 意思は形態として具現化する」という記事で書いたが、人間は「文化的」であり、「文化」から離れる事は出来ない。

神経刺激は、左右の頭脳により、「意味ある形態」に結びついて、判断される。

神経の刺激に対して、「色」を見る意識や、「何かの音」という意識が必ず存在する。

それを、哲学者は、「志向性」と言うのだと思う。

彼らが「体験」というのは、「神経刺激」であり、刺激の伝達と「意識」の分析とは別であるというのが私の考えである。

私は、「 機会 」の中で「 頭脳 」が神経の刺激により興奮して電気を発生させ、その「磁場」が「意識」であると考えている。

「時間」も「空間」も、「意識」として考えるべきなのに、「時間意識」や「空間意識」など、哲学者が考えてもいないだろう。

彼らは、時間や空間を何と思うのだろうか?

「視覚」や「聴覚」を「機能」と考えると、人間が誕生と同時に何故、所持しているのかという疑問が出て来る。

「視覚」や「聴覚」というのは、「機会に対応する頭脳の働き」であるから、古代の人が考えた、観音菩薩のように「音」を「観る」人が存在するかも知れない。

私は、「霊性」や「テレパシー」の開発は可能だと思う。

聞こえない音を聞き、見えない物を見る。

天才と狂人は、紙一重である。


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2009年03月28日

2009/3/28創作2(意思は形態として具現化する)私の意味

Yahoo USA でも「意思は形態として具現化する」という記事が掲載されている。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkS3rs1JDScA1FCl87UF?p=%E6%84%8F%E6%80%9D%E3%81%AF%E5%BD%A2%E6%85%8B%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E5%85%B7%E7%8F%BE%E5%8C%96%E3%81%99%E3%82%8B&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

私の考えは、主観的で、単純です。

「 意思 」は、意識の集合を意味し、「 形態 」とは、形として現れる事を意味します。

単純に言えば、意思と形態は、「 文化 」である事であり、「 心 」の状態ならば、「 形態 」は阿頼耶識(arayasiki)の状態です。

「 心 」の構成力は、末那識(manasiki)です。

それは、自分の事だけを考える、利己心・自愛です。

その構成力が、「 意思 」であり、現実に現れる物が「 形態 」です。

次に「 機能 」の事です。

「機」は、「機会」と解釈して、「脳」は「頭脳」と考えます。

「 機能 」は、人間が持っている器官や能力ではなくて、「 機会の中の脳の働き 」であると考えます。

「 機会 」は、地球が自転しますから、同じ状況は存在しません。

その違った状況や環境で、「 脳 」の働く形態を「 機能 」だと考えます。

その「 機能 」が、「 形態 」に影響することは、ネット情報に存在しますが、「 意思の形成 」にも影響すると思います。

「 意思 」と「 形態 」は、状況に順応した行為の結果としての体験により結ばれ、社会的な知識や「内なる宇宙」の智慧を結ぶと思います。

私は、ある機会で得た情報を、マニュアルという形態を残します。

それが、私の意識が現象として現れる事でしょう。

マニュアルが「 論理 」になれば、何度も同じ結果になるという意味で論理が「 存在 」という形態になると思います。

これらが、感情や情(zyou)と一緒に、「 意味を伴った形態 」として記憶されると思います。

それは「 左脳 」の思考回路であり、時間意識の中で「経路」や「手順」として記憶されると思います。

また現象や存在として、外部に表現した物は、「 形態 」として「 右脳 」の空間意識により把握可能物として記憶されると思います。

時間意識の「 意思 」と空間意識の「 形態 」が、左脳と右脳の働きだと思います。

人間は左右の頭脳を持っているから、時間や空間を理解する事ができると思います。

「意思」と「形態」は「文化」であり、

人間が作った人工物です。


時間意識と言っても、「 虚時間 」ですから、頭脳の中では時間を感じません。

私は、突然、違った因果関係を結合して、ブログを書きますが、このような任意の結合も、「 無知 」だから可能かも知れません。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年03月13日

2009/3/13・創作3(時空意識とプラズマ振動)2

間違った考えかも知れないが、私の考えを書くしか方法は無い。

私だけが想像した考えで、他の人は、決して想像も出来ないと思う。

私は、プラズマ振動を、「意識の電磁波」に還元する事を考え、最後に、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の時間意識のサインカーブと、「 普通の宇宙 」と「内なる宇宙 」の空間意識のサインカーブが、「プラズマ振動」をサインカーブに変換すれば似ていると訂正したいが、Stop(止めた)した。

間違った道を進むのも、人生である。

意識の電場と磁場は交互に現れるが、プラズマ振動は、電場の考えだと思う。

電場が複素数にならず、振動して、その波長が、意識の電場となって、電磁波を作っていると想像する。

意識が生まれるのは、この「 プラズマ振動 」で、それは複素数で表現されず、常に現実面に存在すると考える。

意識の「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」に及ぼす力線や形態が、この「 プラズマ振動 」だと思う。

宇宙に原理は一つ。

私は、「 プラズマ宇宙論 」を採用し、人体の全ては、プラズマにより形成され、神経が「フィラメント構造」の物と思う。

神経を伝わる刺激が、プラズマを流れる「電流」であると想像し、流れる物は「電流」であり、派生する物が意識であり、これは、「電流」が作る「磁場」と同じだと思う。

人体は、「プラズマ宇宙論」の一つの作品であり、常に「清らか」であり、人体を維持する「本能」も、「清らかな物」であると考えている。



Every miller draws water to his own mill.

いや、これだな。

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2015/4/2、私の現在の考え 14・流れるものと派生するもの・三身即一へと続く
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2009/3/13・創作3(時空意識とプラズマ振動)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、2009/1/24〜2009/1/30 の間で、「ビッグ・バン」理論ではなく、「プラズマ宇宙論」を採用すると書いた。

私は、意識は電磁波(光)である事を、このブログで考えている。

その一環として、前述した「普通の時間」と「虚時間」という事を考えたし、その延長で、私の身体にプラズマの要素を含んで考える。

これは、全くの「創作」であり、夢である。

まず、Wikipedia から、引用して、それを解釈する。

プラズマ振動 (Wikipedia より引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E6%8C%AF%E5%8B%95

プラズマは正の荷電をもつイオンと負の荷電をもつ電子との混合物であり、全体として電気的中性が保たれている。
 
そこである場所の電子集団が局所的に動くとそこで電気的中性が破れて電荷密度を生じ、電子を引き戻す方向に電場を生ずる。
 
イオンは電子より質量がはるかに大きいので、電場によって加速されるのは電子だけである。
 
こうしてその電場により電子群が動いて、電気的中性を取り戻す。
 
しかし、電子には慣性があるので、中性を取り戻した時点では止まらず、逆の方向に行き過ぎる。
 
そこでまた中性が破れて電場が生じ、また電子群が引き戻される。
 
かくして電子群の往復運動、すなわち振動が起こる。
これは巨視的には電荷密度の波動となる。
 
これがプラズマ振動である

(引用を終わる)


私の解釈


私は、以前、意識を電磁波として考えて、「電場」を「空間意識」と考えて、「磁場」を「時間意識」と考えた。


「プラズマは正の荷電をもつイオンと負の荷電をもつ電子との混合物であり、全体として電気的中性が保たれている。」

これを、私の場合、「普通の時間」の座標の中の電子と解釈する。

「そこである場所の電子集団が局所的に動くとそこで電気的中性が破れて電荷密度を生じ、電子を引き戻す方向に電場を生ずる。

イオンは電子より質量がはるかに大きいので、電場によって加速されるのは電子だけである。
 
こうしてその電場により電子群が動いて、電気的中性を取り戻す。」 


これを、「普通の時間」、「普通の空間」と「虚時間」、「内なる宇宙」との交点で働く、「 機能の増大 」により、電子(情(zyou))が、均衡を破り、その電子(情(zyou))を「普通の時間」、「普通の空間」の座標に戻そうとする「普通の空間」の状態と解釈する。
 
「しかし、電子には慣性があるので、中性を取り戻した時点では止まらず、逆の方向に行き過ぎる。」

これを、私は、電子(情(zyou))が複素数で回転した座標に入った状態と解釈する。

 
「そこでまた中性が破れて電場が生じ、また電子群が引き戻される。」

これを、「虚時間」と「内なる宇宙」の座標の中の電子(情(zyou))が、「普通の時間」と「普通の空間」に引き戻されると解釈する。

 
「かくして電子群の往復運動、すなわち振動が起こる。
これは巨視的には電荷密度の波動となる。
 
これがプラズマ振動である。」

これを次のように解釈する。

意識の電磁波の進行に従って、エントロピーの増大の方向では、「電子群の往復運動、すなわち振動」であるが、往復や振動は波長に変換できる。
(ボーアの量子条件からの創作)

「 プラズマ振動 」は、電磁波の進行方向から見れば、円運動を描いていて、時空間的には、「普通の時間」と「虚時間」、「普通の時間」と「普通の空間」のサインカーブと同視する。


意識の時間座標と空間座標の「 対称 」と「 反対称 」が、「 プラズマ振動 」であり、複素数による座標の回転である。

知らない者は、毒蛇も恐れない。


Every miller draws water to his own mill.

これは、究極のフィクションです。

2015/4/2、私の現在の考え 14・流れるものと派生するもの・三身即一へと続く

Every miller draws water to his own mill.
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2009年03月11日

2009/3/11・創作2(意思は形態として具現化する)機能

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理学の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


今日は、「 意思 」から「 形態 」へと座標が転換する事について考えた。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

……(中略)……

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。



2009/3/10・考えた事。


「 内なる宇宙 」を「 意思 」に置き換えたが、「 意思 」や「 形態 」の意味は何だろう?


私の「 意思 」が意味する物は、「 内なる宇宙 」と「 普通の宇宙 」の境界と接する「 内なる宇宙 」の部分であり、「 形態 」が意味するのは、境界に接する「 普通の宇宙 」の部分である。



@境界に近い場合の「意思」と「形態」

瞬間的に時空間座標が、「 対称 」と「 反対称 」に移る時の、短い意識を「 知覚 」というなら、感覚器官を対象に向ける意識が「 意思 」であり、対象の形状や形態質(ゲシュタルト質)が、「 形態 」だと思う。


A境界から離れた「 意思」と「形態」

意識は電磁波であり、「 自意識 」は、プラズマ宇宙論のフィラメント構造のように、多くの意識の束であるかも知れない。

フッサールは、「 意識流 」と、イデーンに書いている。

「 内なる宇宙 」は、意識に充満していると思う。

意識が、習慣により、安定した意識の定在波を形成している場合、その定在波を選択する意識が「 意思 」であり、それに対する空間には、社会的に「六道」と言われる生き方が、「 形態 」だと思う。


私は、意識が充満する「 内なる宇宙 」の意識の層や感覚野の層から発する意識を「 意思 」だと思うから、「 内なる宇宙 」の全部を「 意思 」と置き換えたのである。

「 心 」は全て「 意思 」であるが、生命維持に関係する末那識(manasiki)の働きを、本当の「 意思 」だと思う。




2009/3/11・考えた事。

「 意思 」から「 形態 」へと座標が転換する事について考えた。


意識が電磁波であり、その時空間の構造が、「 自意識 」のエントロピの時間の増大の方向と交差する点で、「普通の時間」と「虚時間」や「普通の宇宙」と「内なる宇宙」へと、座標が転換する。

交点の前半を「 意思 」、後半を「 形態 」と置き換えた。

交点での「 反対称 」の座標転換には、エネルギーの領域の機能が働くと考える。


@境界に近い場合の「 意思 」と「 形態 」の転換。

これは、「知覚」であり、私が出来るのは、意識を対象に向けて自己同一を確認するだけである。

行為が「 形態 」ならば、「知覚」は行為であり、「 意思 」と「 機能 」と「 形態 」は、瞬時に結合して、計算する事が不可能だから、「 意思 」という時間を無視して「生物学」や「心理学」が成立するのだろう。

あるいは、「虚時間」だから、無視して、「形態」という空間だけを考えるのかも知れない。

A境界から遠い場合の「 意思 」と「 形態 」の転換。

形態から意思への転換が「 認識 」で、意思から形態への転換が「 表現 」であると考えている。

この場合、意識構造とは別で、可能性やエネルギーの領域である「機能の変化による容量の変化」を必要とする。

ネットで調べると、「 形態は機能に依存する 」から、物質の世界の「 五感 」の容量を増大する、あるいは「 形態の変化を可能にする機能の容量が増大した時 」に、高揚した「 意思 」という時間が、新たな空間の「 形態 」へと、転換して「 芸術 」が生まれると思う。

「 意思 」により「 機能 」の容量を増大させて、新たな「 形態 」を生む。

物理学では、機能の可能性を増加させる道具が発明された時、または、「 意思 」の高揚の結果、新たな関係を発見した場合、新たな「 形態 」に入ると思う。

B「 形態 」から「 意思 」への転換。


「 形態 」から「 意思 」への「 反対称 」の座標の転換は、「機能」を持っていなければ、転換する事が出来ない。

つまり、「感覚」という機能が無い場合は、物理学の方程式も理解する事は出来ないし、「芸術」を理解する事も出来ないと思う。

C意識の定在波の転換。


それに対して、人間の類型の「六道」の形態は、機能を増大させての転換ではなくて、人の生き方として、「 意思 」を高揚させる事によって変化すると考える。

機能が発達した現代人が、古代人より、生き方が改善されたとは考えないのが理由である。


Every miller draws water to his own mill.

注意してください。

Every miller draws water to his own mill.
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2009年03月10日

2009/3/10・創作2(意思は形態として具現化する)意思と形態

今日は、「 意思 」と「 形態 」について考えた。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

……(中略)……

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。



2009/3/10・考えた事。


「 内なる宇宙 」を「 意思 」に置き換えたが、「 意思 」や「 形態 」の意味は何だろう?


私の「 意思 」が意味する物は、「 内なる宇宙 」と「 普通の宇宙 」の境界と接する「 内なる宇宙 」の部分であり、「 形態 」が意味するのは、境界に接する「 普通の宇宙 」の部分である。



@境界に近い場合の「意思」と「形態」

瞬間的に時空間座標が、「 対称 」と「 反対称 」に移る時の、短い意識を「 知覚 」というなら、感覚器官を対象に向ける意識が「 意思 」であり、対象の形状や形態質(ゲシュタルト質)が、「 形態 」だと思う。

人は、一部を示す事によって全部を表現する、現象が全体を暗示する「 形態 」が持つ「 力線 」を使って、「 意思 」を伝達すると思う。

それは、「 象徴 」により、伝達する事と似ている。

あるいは、事物の一部を知る事により、全体を知る。

知覚する時、「 意思 」が「 形態 」の選択を間違えた時、社会は「 病気 」だと判断するかも知れない。

例えば、被害妄想の場合、選択する本人は、「 意思 」と「 形態 」が合致していると思うが、社会から見れば「病気」なのだ。




A境界から離れた「 意思」と「形態」

意識は電磁波であり、「 自意識 」は、プラズマ宇宙論のフィラメント構造のように、多くの意識の束であるかも知れない。

フッサールは、「 意識流 」と、イデーンに書いている。

「 内なる宇宙 」は、意識に充満していると思う。

意識が、習慣により、安定した意識の定在波を形成している場合、その定在波を選択する意識が「 意思 」であり、それに対する空間には、社会的に「六道」と言われる生き方が、「 形態 」だと思う。


私は、意識が充満する「 内なる宇宙 」の意識の層や感覚野の層から発する意識を「 意思 」だと思うから、「 内なる宇宙 」の全部を「 意思 」と置き換えたのである。

「 心 」は全て「 意思 」であるが、生命維持に関係する末那識(manasiki)の働きを、本当の「 意思 」だと思う。

「 意思 」に対応する「 形態 」は、個人の感覚野に現れる「 力線 」も存在するし、物理学などの精神世界では、関数の方程式が「 形態 」であると思うし、現実社会の企業では組織の編隊が「 形態 」であるだろう。

「 形態 」は、「 意思 」の現実面であり、物質の現象面でもあり、「 意思 」に対応して多様で無数に「 形態 」は存在すると思う。

その両面を、意識的に同時に表現する事が、「 芸術は爆発である 」として芸術が生まれる事であり、「 人生は芸術である 」というのは、人間の一生が、「 内なる宇宙 」の表現だと言う事かも知れない。

生命を維持する末那識(manasiki)が「 意思 」であれば、その表現の「 芸術 」は、生命の爆発であると思う。



Every miller draws water to his own mill.
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2009年03月09日

2009/3/9・創作2(意思は形態として具現化する)形態から意思へ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学は知らない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

……(中略)……

意識の定在波、つまり「 意思 」を変えるためには、励起により、定在波を変える事が出来る。

救いを必要とするならば、目標とする人の「 意思 」を、自分の「 意思 」にして、自分が励起して、自分の「形態」を変えなくてはならない。

……(中略)……

意識の座標は、「 反対称 」の状態で連結しているから、その逆の事も言えるが、後日、書くことにする。


2009/3/9・考えた事。

「意識は電磁波(光)である」というのは、「 光 」を太陽の光ではなくて、「 蛍光灯 」の「 光 」から連想すると、簡単に理解が可能であるかも知れない。

「 蛍光灯 」の光は、物質波であり、太陽の光では無く、意識も物質波であると思う。

意識も物質波であり、体内の電気により電磁波が起きて、まるでTVのスイッチを押すと画面が見えるように、頭脳に「時間意識」と「空間意識」を起こし、事物を認識させるのだと思う。

蛍光灯の光が連続では無いように、意識も連続では無いと思う。

その一瞬に、「時間意識」と「空間意識」が交差し、座標が、「 対称 」と「 反対称 」に交互に転換されて、現実と「内なる宇宙」が、「 形態 」と「 意思 」になって外部に現れるというのが、私の考えである。

今回は、「 形態 」から「 意思 」への動きであるが、これは、事物を見る事や聞く事などの「 認識 」の事だと思う。

ある事物に眼を向けるのが「 心 」だが、私の考えでは「 意思 」が、眼を向けさせるのだと思う。

見たくない物は、見ない。

聞きたくない物は、聞かない。

表象を無視して、一つの事に集中させるのは、この「 意思 」である。

なぜなら、「 心 」は、阿頼耶識(arayasiki)であり、全てを記録し、全てを知ろうとする。

限定するのは、「 意思 」であり、末那識(manasiki)であり、これは、生きている時は、必然的なものであり、「 主観的 」と呼ばれるが、人間である限り、逃れる事は不可能であると思う。

この「 意思 」が見る物は、全体の中の一部としての「 形態 」を見るのであり、「 形態 」が、自分の内部に「 力線 」や「 動線 」を作るからである。

「 世界内自分 」であるから、認識する物は、全て社会的な意味を持っている。

人は、全てを知る事は不可能であり、自分の生活に必要な情報を処理すると思う。

「認識」は事物に現れている意味の理解であり、「 力線 」として把握した表象への答えを出す事であると思う。

また後日、考えます。


Every miller draws water to his own mill.

注意してください。

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2009年03月08日

2009/3/8・創作2(意思は形態として具現化する)2

2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

2009/3/8・考えた事。

精神と物質の境界について考える必要がある。


「 自意識 」は、電磁波の方向だから、自分は自分であり、何時までも現在である。

「 普通の時間 」の座標で知る事が出来るのが、「 形態 」で、「 虚時間 」の座標で知る事が出来るのが「 意思 」であるとすれば、「 自意識 」の生命の軸を中心にして、「 形態 」と「 意思 」が自分に知る範囲で、交互に現れるという結論になる。

それは、「 知識 」と「 智慧 」の関係に似て、一方の変化は、他方の変化になる。

意識の定在波は、習慣によって、安定した状態の「 意思 」となり、自分の外部の社会に、同じ類型の人間を探すだろう。

自分が安心して住む事が出来る状態の意識を持つと思う。

マフィアの「 意思 」を持つ人は、マフィアの仲間になるだろう。

私は、自分で決定しなければ、最低の意識の定在波、つまり最低の「 意思 」しか持たないと思う。

意識の定在波、つまり「 意思 」を変えるためには、励起により、定在波を変える事が出来る。

救いを必要とするならば、目標とする人の「 意思 」を、自分の「 意思 」にして、自分が励起して、自分の「形態」を変えなくてはならない。

これは、「 禁煙 」をする時も、同じ事だと思う。


意思は形態と連結して、社会に具現化する。

意識の座標は、「 反対称 」の状態で連結しているから、その逆の事も言えるが、後日、書くことにする。


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2009年03月07日

2009/3/7・創作2(意思は形態となって具現化する)

2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/7・考えた事

以上のように、「普通の時間」から「 虚時間 」と「 内なる宇宙 」進んで、実体を得るが、その後は、どのような進展になるのか考えた。

「 虚時間 」は、反対称の座標だから、それが再び、反対称になって、「 普通の時間 」と「普通の空間」の座標になるだろう。

つまり、「 思想が具現化する 」のである。

「 内なる宇宙 」が具現化するのだ。

普通、「 Formasion 」、形態や編隊は、隠れた「 意思 」が存在する。

この「 虚時間 」や「 内なる宇宙 」を、目に見えない「 意思 」と置き換えて、「 意思 」が「形態」を持って、具現化すると思う。

物質が光速で移動すれば、「 光 」となるだろうから、自我が存在せず、時空も存在しない死後の世界は、自意識が電磁波であっても到達しない「 光 」の世界かも知れない。

それ以外は、物質は、物質波であれど、「 光 」の光波に変化しないと思うから、「 意思 」が、「光」と同じ効果を持つためには、「構造」や「形態」の変化が必要だと思う。

意思が形態を伴って、具現化するのだ。

これは、「六道」という人間の形態が、社会の階層の人々と自分の「意思」の間を往来すると考える。



仏教の僧侶は、次のように言う。

「意(あるいは「意根」)が習慣性となり、私どもの人格の核となる。

言い換えますと、私どもの日々の所作に従って、この身体の中に一種の習慣性という子供が妊娠して次第に生長します。

そして、「餓鬼」や「畜生」、ないし人や天といわるべき習慣性の子供が、まさに生まれ出るばかりになると、この肉体の死後、その「意」が、一生の間に造った習慣性に相応する世界に生まれ変わるのです。

かくして私どもは「六道輪廻」を致します」

( 笹本戒浄上人全集、上巻、483ページより引用 )

既述したが、私は、残念とか無念とか言う「念」を、この世に残さないように生きる事を目標にしている。

「ここで死んで、残念無念」と、思わないように、生きている間に、自分の出来る事をする。

それは無理だろうから、どんな生き物に「六道輪廻」して生まれ変わっても、不満を言わないと決めている。

以上、「意思は形態となって具現化する」でした。

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2009年03月06日

2009/3/6・創作2(これまでの私の考え)3

2009/3/5・考えた事。

私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

2009/3/6・考えた事

さあ、自分に向かってくる意識の電磁波を見てください。

電磁波が、左半分の正の電磁場の座標から、右半分の負の電磁波の座標、(つまり複素数で変換された座標・反対称な座標)へと回転しながら、自分の方へ向かってくるのが見えると思います。

そのように、意識の場合は、正の時空間座標から負の時空間座標へと回転しながら、意識が自分の方へ向かってくると思います。

意識の速度は一定だから、他の意識と干渉する事が可能になり、回転しながら進む軌道が、一定になって安定すると思います。

私は、それを、定在波と呼んで、人間の「六道」という類型のどれかに落ち着くと思います。

そして、この「 普通の時間 」と「 虚時間 」に対応して、「 普通の宇宙 」と「 内なる宇宙 」が、時間と空間の一組になると思います。

人間の場合は、空間の場合の「 虚時間 」とは、「時間が無い 」のではなく、「 普通の時間 」に依存した時間が、「 虚時間 」だと思います。

これは、次に「意識」と「無意識」を書く時、再び書きます。

このように、認識については、電磁波を受ける「 電離層 」に立っている所から、自分の方向へ進んで来る意識を見なくてはなりません。

「 心 」や過去の「電離層」から、未来の「 心 」には、ボーズ粒子がエネルギーとして伝わると思いますが、その過程は、電磁波でありフェミニ粒子のボーズ粒子化によるものかも知れません。

「内なる宇宙」の「六道」に該当して意識が、社会の中で、どのように「 具現化 」するかも考えます。

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2009年03月05日

2009/3/5・創作2(これまでの私の考え)反対称2

今日、ネットで、ボーズ粒子を調べていたら、「 反対称 」についての記事を発見した。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8D%E5%AF%BE%E7%A7%B0%E6%80%A7

反対称性

出典: フリー百科事典『ウィキペディア Wikipedia)』

反対称性(はんたいしょうせい)とは数学で、ある要素にある変換を施した結果が、元の要素に逆符号を付けたもの(実数でいえば絶対値が同じで正負が逆)と等しくなる、という性質をいう。

対象分野によっては交代性(こうたいせい)または歪対称性(わいたいしょうせい)とも呼ばれる。

このような要素を「その変換に対して反対称である」という。

変換によって変化しない「対称性」に類似した性質であり、対称性・反対称性とも全くない「非対称性」とは異なる。

反対称性の要素に変換を複数回施すと、元と同じになる。

奇関数:変数の反転に対して反対称である関数を奇関数という。

波動関数(量子力学):空間反転操作によって逆符号になる波動関数を、反対称であるという(各座標軸の反転に対して奇関数であるということ)。

それに対して空間反転により変化しない波動関数を対称という。

これらで表現される電子軌道をそれぞれ、反対称性軌道・対称性軌道という。

また、同種の複数のフェルミ粒子からなる系の全波動関数は、任意の2つの粒子の交換に対して反対称である。

(引用を終わる)



私が、意識は電磁波であり、「磁場」のサインカーブの「 時間意識 」と「電場」のサインカーブの「 空間意識 」が、交差していることを考える。

その前半が「 普通の時間 」で、後半が「 虚時間 」であるとは、前半の座標と後半の座標が「 反対称 」であることである。

そして、電磁波が運ぶ「情(zyou)」は、フェルミ粒子であるという結論になる。

理科の電磁波の図を見ると、二つのサインカーブが真ん中で交わり、前半が正の座標で、後半が反対称の座標である。

このように、複素数を乗じて、電磁波が進むと思われる。

私が「 虚時間 」というのは、「ビッグ・バン」の理論には賛成しないから、ホーキングの考えと同じではない。

私は、複素数を乗じて、座標を転換することに注目したのだ。

この転換が、頭脳の中で、何回も実行されているのだと思う。

知覚を考える時、再び、この記事を引用すると思う。

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2009年03月02日

2009/3/2・創作2(これまでの私の考え)

これは、今までの経過を、コピー・アンド・ペーストしただけです。

これは、全てフィクションです。


2008/10/14・私の悩み(意識は電磁波である)

意識が電磁波(光)である。

@私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

A「人の住む世界」

これは、認識が成立した「霊界」の世界である。
会話する時に、現実に見るのは相手の顔で、音声が飛び交うだけであり、相互に認識するのは、目には見えない世界だろうと思う。

B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。

つまり、意識が電磁波となって現実面に衝突して、意味という小石のような「塊」として残る。

現実面は、精神だから、「塊」の意味は、光波として広がる。

ちょうど、私が書いた記事が、ネットの力で、世界に広がるように。

それを、上から、座標軸の縦軸の上から、見ているのが、「幽霊」の私である。



2008/10/26・私の思索(末那識(manasiki)とエネルギー)

この時、私は「脳波」について、ネットで調べました。

左脳は言語情報を処理し、右脳は、視覚情報を処理するという知識を得ました。

これは、私の「時間意識」と「空間意識」に対応するものだと思います。

「左脳」が「時間意識」で、「右脳」が「空間意識」なのです。

そして、瞬きする瞬間に、時間と空間が交互に現われて、認識が成立するのだと思います。

生まれたばかりの子供が、既に、「空間」も「時間」も知っています。

これが、「アプリオリ」「先験的」と言わなければ、何を先験的と言うのでしょう?

お釈迦様は、生まれたばかりなのに、「天上天下、唯我独尊」と申されました。

これを、「子供が空間や時間を意識する事」への驚きだと解釈します。

光電効果を知っていますね。

これで、アインシュタインが、ノーベル賞を貰いました。

頭脳が、「金属」で、それに光のようなエネルギーを当てると、「意識」が飛び出す。

なんと、素晴らしい!

意識は光なのです。

私も、ブログを書かなければ、こんな事は、一生の間、考えないでしょう。

パソコンに出会って(衝突して)知りました。



2009/2/21、考えた事

私は、物理学は、全く勉強していませんから、私のブログの方針に合うように、解釈します。


@外部の光を見る時や考えを取り入れる時。

私は、「 感覚器官 」を持っています。

外部からの刺激を感覚器官の神経で把握する時は、少しの「 刺激を受ける 」時間が必要だと思います。

その時間が「 普通の時間 」であり、刺激が、「 光子 」のエネルギーであれば、「 普通の時間 」の中で、ボーズ粒子をボーズ粒子として受け取るのが、感覚器官による外部からエネルギーの取得だと思います。

「 感覚神経 」が受け取る時間が「 普通の時間 」であり、それはフェルミ粒子が、偶数個、集まってボーズ粒子化した状態だと思います。

「 意識 」というフェルミ粒子を偶数個、集めるとは、「時間意識」と「空間意識」を集める事かも知れませんが、私は、別の事を想像します。

「時間意識」と「空間意識」は、自分の意思で集める事は出来ないと思います。

それは、物質の「 背景 」の「 場 」であるからです。

私は、「集める」とは、「二つの意識を集める事」と解釈します。

私は、感覚する事は、複数個の意識により成立すると思います。

私は、物理学でいう「超伝導」などは、考えていません。

「超伝導」は、電気の流れの中での問題ですから、神経の内部で生じるのかも知れません。

私は、意識は、「流れる物」ではなく、「派生する物」として考えていますから、「超伝導」は考えていません。

感覚器官の中で、複数個の意識により、ボーズ粒子化した時、それが「 実体 」だと思います。

「 実体 」が、物の全てではありません。

「 実体 」の他に、フェルミ粒子としての、「隠された時間の虚時間」や「内なる宇宙」が現れていない部分が存在するからです。

「 実体 」の座標により得られる物に、「 方向転換 」して得られる物を合計した物が、「 認識 」だと思います。

「 認識 」した物は、阿頼耶識(arayasiki)であり、ボーズ粒子かも知れませんが、その伝達の過程は、フェルミ粒子の過程だと思います。



A「 内なる宇宙 」から、外部へ表現する時。

これは、偶数個のフェルミ粒子を集めて、ボーズ粒子を作る事であり、「 実体 」を作る事です。

人が認識可能な「 実体 」を作るとは、「内なる宇宙」の実体化であり、意識が社会の中で「 形 」を持つ事だと思います。

例えば、「 神 」の登場には、「光」と「音楽」があるように、フェルミ粒子が層を作っている「内なる宇宙」が、外部からみれば、複数の意識に現れた時、社会はそれを「 誕生 」や「 芸術 」と言うでしょう。

私は、複数の意識が「 感動 」だと思います。

「 感動を与えない芸術は無い 」と思います。



B創造するための方法。

これは、「 瞑想 」が必要だと思います。

「 瞑想 」は、黙って眼を閉じているだけではないと思います。

一つの意識の外延に立ちながら、他の事を意識する事だと思います。

それが可能なら、特定の「 瞑想 」方法を採用しなくても、自分の「 瞑想法 」でも許されると思います。

「念仏」も「お題目」も、「ヨガ」も、修行と言われる物は、この「 瞑想法 」であると思います。

瞑想によって生じた物が、人に「 感動 」を与えるなら、それは「 芸術 」であるかも知れません。

ある宗教家は、言いました。

「人生は芸術である」

この言葉も、正しいと思います。


私の虚時間の意味・再考
私は、「意識は電磁波(光)である」という方針で、電磁波の構造を考えて、@時間やA空間やB物質波への光子の取り入れと放出について、書きました。

これは、全て、フィクションでから、物理的な根拠は全くありません。


@時間

地球は自転しますから、私が「 今 」と叫んだ時の世界の状況と、叫んだ後の「 今 」の世界の状況は、変化しています。

社会で「 今 」という瞬間が、人体の内部では、「 普通の時間 」と「 虚時間 」の合計だと書きました。

電磁波の「 ラセン状 」のサインカーブ上で、実数で表現される時空の領域が「 普通の時間 」で、複素数を乗じた時空の領域が、「 虚時間 」です。

それは、エントロピーに従う生理的な時間の方向に進む電磁波の進行方向に直角な「時間意識」と「空間意識」の座標軸の回転により、表現されます。

「 虚時間 」は、時間についてだけであり、空間も「虚空間」が存在するかも知れません。

時間意識と空間意識が、サインカーブを描いて、「 今 」と叫んだ状態と次の新しい「 今 」の状態の不連続面を結合した結果、「 連続 」していると心理的に思わせていると思います。

私は、映画の仕組みを想像します。

不連続だから、西洋の実存主義が成立すると思います。

その不連続の面を「普通の時間」と「 虚時間 」が結合していると考えます。

不連続を肉体の「 慣性 」が、連続していると意識させると思います。

その不連続な時間の中で、「 永遠 」を求めるのは、「 実体 」を求める事だと思いますが、それが、間違いだと思います。

「 実体 」は、宇宙を写して同調させただけで、「 実体 」は主観的であり、局所的であるからです。

永遠な実体は無いと思います。

私は、意識の構造が原因で、以上の事が起こる事を知るだけです。


A空間

私は、この不連続な瞬間に、「 普通の時間 」の感覚の外の宇宙と、「 虚時間 」の「 内なる宇宙 」が交差すると考えます。

それは、目の前の出来事であるが、実際は、何光年も離れた宇宙の交差かも知れません。

後日、書きますが、「 短期記憶 」と「 長期記憶 」という言葉がありますが、私は、短期や長期という記憶の区別ではなく、本人の立場で考えます。

短期や長期の区別ではなく、本人が、「 今 」に想起可能か否かの問題であり、記憶は全て「 虚時間 」や「 虚空間 」に貯蔵されると考えます。

それらは、短期や長期の区別ではなくて、数光年も離れている私の内部の「 仏の智慧 」と、ネット上の「 知識 」の関係かも知れません。

記憶が、「 虚時間 」や「 虚空間 」に蓄えられる「 智慧 」であると考えると、「 未来は、既に見えている 」人も世界に存在するかも知れません。

「 今 」の瞬間に「 宇宙 」が交差しており、過去や未来の区別が無意味なのかも知れません。

経済や天候などの予測も、「 虚時間 」だから、成立するのだと思います。



B物質波への光子の取り入れと放出。

意識はフェルミ粒子で物質から離れない物質波であると思います。

フェルミ粒子の意識は、ボーズ粒子の光子ではない。

「 普通の時間 」の中で、フェルミ粒子が偶数個、集まって、ボーズ粒子状態になり、ボーズ粒子のエネルギーを取り入れる。

そして、座標が「 虚時間 」に回転した時、フェルミ粒子に戻り、干渉して、次の「 今 」の世界に模様を作る。

それが、物の「 実体 」であると思います。

放出については、「 内なる宇宙 」の「誕生」ですが、「 虚時間 」や「 虚空間 」が、現実世界に「 形 」を持って、実体化する事です。

思想の表現や芸術の表現です。

意識が、複素数を乗じても変換されない事物、阿頼耶識(arayasiki)として出現する事です。

身(身体)・口(言葉)・意(意識)のマンホールを通過して、本人の「 内なる宇宙 」から誕生する事です。

一つの意識ではなく、身(身体)・口(言葉)・意(意識)の意識を集中させて、具現化した物体が、思想や芸術だと思います。

思想は具現化する。

これも、正しいかも知れません


2009/3/2・考えた事。

私の考えは迷走していますが、次は、知覚や認知について考えます。

その前に、記憶や意識や無意識についても、再考します。

後日、書きます。

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注意してください。

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