2009年05月31日

2009/5/31・米国・GM の破産申請

Yahoo Japan のニュースで、米国のGM が、6月1日、破産の申請をするという記事を見た。

オバマ大統領が言うように、自動車はアメリカには絶対に必要だろう。

その燃料が、石油である事が必要なのかが問題だ。


石油資源は、地球から枯渇する事が予想され、昨年は、原油の値段が大きく動いた。

資源が無い日本では、漁船に使う燃料にも不足し、航空機の燃料にも困った。

米国には、油田が存在し、その人たちの反対もあると思うが、石油は航空機などに制限して、自動車の燃料は電気に変えるべきだろう。


米国は、世界最大の消費国だから、辛いだろうが、自国の排気ガスの基準を作り、先頭に立って世界の環境改善をする方法により、雇用を増大させ、自国の経済も発展すると思う。

インターネットも、自動車も同じで、人々の交通が便利になる為という気持ちが必要で、米国で可能な事だと思う。

米国が自国の基準を作れば、その基準が世界の基準になり、日本やアジア諸国は、その基準に合致した車を作るだろう。

もし、作らないならば、米国の自動車の三大会社に、開発を命じて、完成させて自国の自動車を買うという方法もある。


日本では、低エネルギーの車の買い替えに税金で援助しているが、これは目の先だけの政策で、米国の景気が良くなれば、日本と同じ車を輸出するだろう。

安価な日本車を買うのか、あるいは新たな基準に合致する米国産の車を買うのかは、米国の自由だ。

日本でも、隣国でも、内需の拡大で景気対策しているが、米国の景気が良くなれば、米国に輸出するだろう。

内需拡大は、炭酸ガスによる汚染という結果になるだろうし、環境の改善にはならない。

米国は、優秀な大学も、政府も、人材も存在するから、それらを結集して、次世代の車を発明すれば良いと思う。


ピンチをチャンスに変える。

米国で、車は必要だと思うから、株価暴落前の水準の車ではなくて、新しい基準の車を作り、基準に合致する自国の車を買うという方法もある。

日本は、まだ株価暴落前の車であるし、アジア諸国も同じ水準だ。

安価な車を買う気持ちは、世界中の皆が同じ気持ちだが、二酸化炭素の削減の問題を解決する理由で、大学のトップクラスの人材を登用して、新しいエネルギーの車を作り、新しい基準を作って、その基準に合致する車だけを輸入したら良いと思う。

今日、TV番組で、「日産自動車」が電気自動車を開発して、横浜市が電気供給の場所を作る形で協力して、「電気自動車」を普及させようとしている。

日産とNEC が、リチウムイオン電池を量産するというニュースも存在する。

日本の会社が「電気自動車」を作り始め、それを消費する米国が、「電気自動車」を開発して、先進国は皆、電気自動車を使うように、世界を先導すれば、自国の雇用にも世界の環境にも良い結果になると思う。


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2009/5/31・勉強(生命の起源・ホモキラルティー・偏光)


これは、全てWikipedia からの引用である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
生命とは何か
生命の起源を論ずるためには、まず生命や生物を定義する必要がある。
しかしこれらを明確に定義することは難しい。
「生命とは生物に備わっているもの」であり「生物とは生命をもつもの」であるという循環に陥ってしまうためである。
自然科学では経験的に以下の3点の性質から生物を定義し、生物の(生物として自己を維持、増殖、外界と隔離する)活動の総称を生命と定義することが多い。

· 外界および細胞内を明確に区別する単位膜系を有する。
· 自己を複製する能力を有する。
· 外界から物質を取り込み、それを代謝する系を有する。

ウイルスは細胞を構成単位としないが、他の生物の細胞を利用して増殖できるという、非生物と生物の特徴を併せ持つ。細胞をもたないウイルスは、非細胞性生物または非生物として位置づけられる。詳しくはウイルスの項を参照のこと。

人類文化における生物と無生物の区別は習慣的、直観的である。
生命現象を元素の組み合わせである分子化合の総体として解明しようとする分子生物学の方法では両者の区別を立てられないという意見がある。
この問題は有機化学の出発点における「生物の体内でしか生成されない」という有機物の定義が、徐々に曖昧化してしまった歴史とも深い関連がある。


「生命はどこからきたのか」という問いかけは、時代や思想、技術などの背景によって観点が異なっている。
例えば古代ギリシアのアリストテレスが記した『動物誌』ではミミズやウナギは泥などの無生物から自然に発生するという説明がなされている。
この説は詳細な観察に基づいており、生命現象には物質以外の何かが働いているという生気論的考え方となっている。

近代に入って発展した自然科学では物理学による説明が試みられている。
まず顕微鏡の発明により、動植物の細胞や微生物が観察され、すべての生物が細胞からできているという細胞説が確立され、ルイ・パスツールらによる自然発生説の否定により、現在地球上に見られる生物は、生物からしか生まれないことが証明された。
これらの知見により「生命はどこから生じたのか」という問いかけが自然科学における命題となる。

生物の原子組成は海水のそれと類似しているため、生命は海中に溶けた有機物の化学進化によって誕生したという説が有力である。
ただし、パンスペルミア仮説のように地球外で生じた生物に由来するという説もある。
また、化学進化説においても、最初のきっかけとなる物質は何であったか、誕生の場所はどこか、など諸問題に関して複数の説がある。
現時点では生命の誕生を再現することが困難であり、また化石標本による検証も難しいため、自然科学における最大の難問の一つと言える。

生物が作り出し利用しているアミノ酸の光学異性体の型は、ほぼすべてが左手型であることが知られている(ホモキラリティー)。

これは、その理由が昔から問題提起されていたことである。
最近、宇宙には多数のアミノ酸分子があることと、宇宙放射線を浴びたアミノ酸は右手型のアミノ酸が破壊されることから、地球の生命の元になったアミノ酸は宇宙から降り注いだのではないかとする説が有力になっている。

アミノ酸などの有機物が、隕石が海に衝突する際の化学反応で合成できるという発表もある

ホモキラリテイー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC

ホモキラリティー (homochirality) はキラル分子において片側のエナンチオマー(鏡像異性体)だけが存在している(偏っている)ことを示すのに使う化学用語である。
また、一種類の分子についてだけでなく、ある化合物群において立体化学が偏っていることを表すときにも使う。
たとえば、生体内に於いて、ほとんど全てのアミノ酸は D体と L体のエナンチオマーのうち L体のみが存在する。
糖質も、天然ではほとんどのものが D体のみ存在する。
これらのように立体化学が偏って存在している現象がホモキラリティーである。
なぜ生体分子においてこのようなホモキラリティーがあるのかについてはまだ解っておらず、研究が進められている段階である。

生体分子におけるホモキラリティーの起源

考えられている起源のひとつは、原始惑星系において何らか天体から発せられた紫外円偏光によって、ある分子のエナンチオマーのうち一方が選択的に光分解反応を起こし、残ったエナンチオマーが優勢になりそれが地球に輸送されたという説である。

この説の証拠としては、太陽系形成初期からあまり変質していないと考えられているマーチソン隕石にアミノ酸が検出され、このアミノ酸がわずかに L体が優勢だったことである[2]。また、このような光分解反応を引き起こす円偏光についても、その起源が検討されている[3]。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%8F%E5%85%89

偏光
出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』

偏光(へんこう、polarization)とは電場および磁場が特定の方向にしか振動していない光のことである。電磁波の場合は偏波(へんぱ)と呼ぶ。 光電界の振幅は直交する2方向の振動成分に分解できることが分かっている。振動方向が規則的な光波の状態を偏光という。


生物の眼と偏光の認識

人間の眼は光の強度と色を識別することはできるが、偏光はほとんど識別することができない。

わずかに網膜の中心部に偏光特性があり、注意深く見ればハイディンガーのブラシとして知られるかすかな黄色と青色の筋が見えるが、これには個人差がある。
そのため一般には人間が偏光を識別するためには偏光子を通して見なければならない。

一方、昆虫は偏光を識別できる。昆虫の複眼の中には、特定の偏光方向に敏感な視細胞が色々な方位に規則正しく集合しているからである。

(引用、ならびに抜粋を終わる)





私の「意識は電磁波である」というのは、偏光の「 円偏光 」のような軌跡が意識の中に存在して、磁場が時間意識として、電場が空間意識として、不連続な意識と意識を結合していると考える。


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2009年05月30日

2009/5/30・勉強(DNA・RNA・転写)私は生気論

全て、Wikipediaから引用します。

デオキシリボ核酸(DNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8

デオキシリボ核酸(-かくさん、DNA: Deoxyribonucleic acid)は、核酸の一種。
高分子生体物質で、地球上のほぼ全ての生物において、遺伝情報を担う物質となっている(一部のウイルスはRNAが遺伝情報を担っている。遺伝子を参照)。


2本の逆向きのDNA鎖は、シャルガフの法則による相補的な塩基 (A/T, G/C) による水素結合を介して、全体として二重らせん構造をとる。

塩基の相補性とは、A、T、G、Cの4種のうち、1種を決めればそれと水素結合で結ばれるもう1種も決まる性質である。

2つのヌクレオチド鎖が互いの方向に逆となるよう水素結合で結ばれるために二重らせんとなる。

この相補的二本鎖構造の意義は、片方を保存用(センス鎖)に残し、もう片方は、遺伝情報を必要な分だけmRNAに伝達する転写用(アンチセンス鎖)とに分けることである。

また、二本鎖の片方をそのまま受け継がせるため、正確なDNAの複製を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。さらにまれに起こる損傷の修復にも役立つ。

DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。

DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。

DNAとRNAの物理化学的性質について。
DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。

この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基はプリンまたはピリミジンに由来するためである。

転写
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%86%99_(%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6)

生物の持っている遺伝情報は、DNAに塩基配列という形で保存されているが、DNAの持つ情報は、そのままではタンパク質の合成(翻訳)に使うことができない。

タンパク質を合成する酵素リボソームは、タンパク質の合成にDNAではなく、その情報を写し取ったmRNAを使用する。

このため、遺伝情報の発現には、まずはRNAポリメラーゼによりDNAの持つ情報をmRNAの形に変換する必要がある。

このmRNAの合成過程が転写と呼ばれる。

伝令RNA(mRNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E4%BB%A4RNA

伝令RNA(でんれいRNA、メッセンジャーRNA)は、蛋白質に翻訳され得る塩基配列情報と構造を持ったRNAのことであり、通常mRNAと表記する。

mはmessenger(メッセンジャー)の略である。

DNAに比べてその長さは短い。

DNAからコピーした遺伝情報を担っており、その遺伝情報は、特定のアミノ酸に対応するコドンと呼ばれる3塩基配列という形になっている。


リボ核酸(RNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8


リボ核酸(リボかくさん、英:ribonucleic acid)はリボヌクレオチドがホスホジエステル結合でつながった核酸である。
RNAと略されることが多い。
一本鎖のポリマーであるが、例外も存在する。


1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。

水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電子陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、主鎖が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。

この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)

(引用ならびに抜粋を終わる)




私は、生気論の立場に近く、無機質の物質から有機質の細胞が出来る。

私は、プラズマ宇宙論を採用しているから、全てに「電磁波」を適用する。

「電磁波」を考えると、「原始細胞」に「 意識という電磁波 」が衝突して、一体になったものが、「 生命 」であるという結論になる。


これは、また後日、書きます。

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2009/5/30・勉強(生気論・機械論・物理主義)私の考えは「生気論」

「勉強(生気論・機械論・物理主義)」の中で、Wikipedia から引用する。


生気論(せいきろん、vitalism)とは、動植物など生命の営みには、古典物理化学理論では扱っていない何らかの非物質的存在、すなわち生気が関わっている、あるいは合目的性が備わっているとする説のこと。

動植物などの生命だけに特有な力を 認める/認めない という点での対立である。

科学史的には、生気論は物理化学の発達とともに生気論はひとつひとつ否定され、機械論的な説明に置き換わってきた、とされている。

現代の自然科学では、機械論的説明や、実証主義などに基づく方法("科学的方法")により生命を解明しようとしており、非物質的存在は基本的に考慮されず、生気論は受け入れられていない。

ただし現在でも自然科学によって説明できない事象もまだ多くあり、伝統医療における気功の気論など、非物質的存在の概念は臨床面で有効なものもあり、この生物と非生物を決定づけるものが不均衡になることによって病が生じると考えている。

西洋の伝統ではこれらの生命力は四大気質とされ、東洋では気やプラーナなどと呼ばれる。

……(省略)……

物理主義(ぶつりしゅぎ、英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的である、またはこの世界の全ての物事は物理的なものに付随する、とする哲学上の立場。

一元論の一種。

一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。

主に哲学の一分科である心の哲学において、心身問題に関する立場の一つとして、二元論一般と対立する文脈で語られる。


しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。

心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「意識」に移り、この点に関して、コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。

つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。

こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。

そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

あなたがこうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうか、である。

(引用を終わる)



「オカルトの展開」で考えた事。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、これを「霊」や「魂」とする。

意識の総体が「 霊 」であるから、E を「 霊 」とする。

C は「 意識 」であるから、これは全ての動物の脳が生み出す自意識で、自己を組織する意識であり、動物に共通であるだろう。

m が、「 利己愛 」であるが、「霊は生きている」と「感受性」の記事から知る事が出来るように、個人的、「好き」や「嫌い」の価値観が左右して気(ki)が充満して、人間存在を豊かにする煩悩である。




2009/5/30、考えた事。

生気論を採用するのか、あるいは物理主義を採用するのかについて考えた。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、E = mc2 から考える事は、生気論の気(ki)を E で、c を意識と解釈すれば、生物は、物質に光(意識)の二乗を乗じたエネルギーを持つ。

この気(ki) は「呼吸」であり、生物の体内と外部のエネルギーを結合する物であると考える。

生物は、C という光のエネルギーで結合した物体であると解釈する。

静止した人と動いている人の間の、光を使った相対論は、「 静止した物質と、動いている生物 」の間の関係であり、生物は、静止している地上の物質とは異なり、「 動いている 」事が特徴であると考える。

生物は静止していると思えるが、「時間」や「空間」の中では、光速で動いているので、静止していると思われているのかも知れない。

生物は、時空間を光速で動いているかも知れない。

すると、私の考えは、「 生気論 」になってしまう。


生物は気(ki)を持って、体内と外部のエネルギーを新陳代謝しているのであり、何も行為を行わないのが「 物質 」であると考えるから、「 気(ki)は、生命の印 」であると考える。


「 生物 」は、時間と空間の間を動いている物体であり、「 物質 」は、時間と空間を超越している。

時間と空間を超越するとは、物質は人間が考える「時間」や「空間」が無い場合でも存在するのだと思う。



私は、次の二元論に賛成する。

「 世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。」

私は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元は不可能であると考えるが、これは後日書く予定である。



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2009年05月28日

2009/5/28・勉強(生気論・機械論・物理主義)

私は、「霊魂は生きている」とか「感受性」で、欲望を考えた時、私の記事は、霊魂と肉体の和合、つまり「 受肉 」の問題だろうと思った。

私はキリスト教徒ではないから、詳しく知らないが、「 受肉 」を神が肉体と和合すると考えた時、意識という電磁波と肉体の和合であり、肉体とは細胞であるだろう。

私の、オカルト的な結論は後日書くが、今日は、勉強として「 生気論 」・「 機械論 」・「 物理主義 」について、Wikipedia から引用する。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B0%97%E8%AB%96


生気論
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

生気論(せいきろん、vitalism)とは、動植物など生命の営みには、古典物理化学理論では扱っていない何らかの非物質的存在、すなわち生気が関わっている、あるいは合目的性が備わっているとする説のこと。

ただし「生気論」という名を冠した理論の系統があるのではなく、様々な考え方が"生気論"という名のもとに時代を遡ってひとくくりにされている。主に科学史や科学哲学史において使われる用語。

概説
一般的には機械論と対立するものとされている。

動植物などの生命だけに特有な力を 認める/認めない という点での対立である。

科学史的には、生気論は物理化学の発達とともに生気論はひとつひとつ否定され、機械論的な説明に置き換わってきた、とされている。

現代の自然科学では、機械論的説明や、実証主義などに基づく方法("科学的方法")により生命を解明しようとしており、非物質的存在は基本的に考慮されず、生気論は受け入れられていない。

ただし現在でも自然科学によって説明できない事象もまだ多くあり、伝統医療における気功の気論など、非物質的存在の概念は臨床面で有効なものもあり、この生物と非生物を決定づけるものが不均衡になることによって病が生じると考えている。

西洋の伝統ではこれらの生命力は四大気質とされ、東洋では気やプラーナなどと呼ばれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96

機械論
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

機械論(きかいろん、英:Mechanism独:Mechanizismus) とは天候や地形、生命などの諸々の自然現象を、霊魂などの概念を用いずに、その部分要素の古典力学的で決定論的な因果関係の連鎖のみで解釈でき全体の振る舞いも予測できる、とした説、考え方[1]や固定観念のこと。

哲学、自然哲学、科学史の分野において扱われる名称・概念であり、それらの分野では目的論や生気論と比較・対置されている。

但し、具体的にどの論をもって"機械論"とするのか、論者・教科書によって解釈は異なっており、それによって"機械論"の性質もいくらか変わってくることになるので注意が必要である(同様に「目的論」「生気論」の範囲についても注意が必要である)。

超自然的な力の介在を否定する機械論は自然科学の発展の礎となった。

ただし、現実の世界はあまりに多くの要素が絡み合い、単純な機械論では挙動を予測できないことが多い。

そのため複雑系などの学問が生まれている。

また、量子力学の不確定性原理のように理論的に実証できない物がある可能性が生まれてきた。

科学の広がりは創発と呼ばれる事がある。



物理主義(ぶつりしゅぎ、英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的である、またはこの世界の全ての物事は物理的なものに付随する、とする哲学上の立場。

一元論の一種。

一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。

主に哲学の一分科である心の哲学において、心身問題に関する立場の一つとして、二元論一般と対立する文脈で語られる。


しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。

心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「意識」に移り、この点に関して、コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。

つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。

こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。

そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

あなたがこうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうか、である。

物理的とは

物理的(physical)なものとは何か、この定義によって物理主義の立場がどういうものかが決まることになるが、この点がハッキリと定義されることはあまりない。

この定義次第で、物理主義はかなり広い範囲の立場を含むことが可能である。

例えば極端な例として、ガレン・ストローソン(一般に性質二元論または中立一元論に分類される)のように、汎心論を唱えつつ自身の立場を物理主義と形容する事もある[1]。

一般的には現在の理論物理学のなかに出てくるものの実在だけを認める立場が物理主義なのだと考えておけばおおよそ間違いない。

つまり現代の心の哲学の文脈で言うと、意識の問題(意識のハードプロブレム)に関して、存在論的に保守的な形で解決を目指す立場が、物理主義である。そう考えておけば、まず間違いない。

(以上で引用を終わる)








最近の日本の脳科学者の中には、「クオリア」を問題にする学者もいる。

私は、「流れる物」と「派生する物」の電磁波的な連続の構造で、前者を「 物理的神経的刺激 」、後者を「 意識 」として、不連続に見えるが、実際は連続しているのだという考えである。

これは、時間意識や空間意識を生む電場と磁場の電磁波的構造と同じ考えである。

私は、電磁波の構造が、二重構造であると考えている。

これは、また後日書く予定である。



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2009年05月25日

2009/5/25・オカルトの展開(時は今、敵は欲望である)

本能寺の変

1582年6月21日、織田信長の重臣、明智光秀は反旗を翻し、京都の本能寺に宿泊していた主君・信長を襲い、自らの刃で死亡させた。

その時、明智光秀が家臣らに下地したのが「 時は今、敵は本能寺にあり」である。

この謀反により、天下が動いた。

私が「 時は今、敵は欲望である 」と書いたのは、これまで書いた「オカルトの展開(霊魂は生きている)」と「オカルト的思考(感受性)」により、欲望という敵を狙った記事に対して「下地」をしたのである。

欲望とは、「 年頭所感 2」に遡る。


2009/1/2 「年頭所感 2」の記事を訂正して掲載する。

@時間と空間について、

時間も空間も、測定する物差しは存在しても、時間や空間が、生まれた子供も持っていて、教育する必要がないという事に、科学も哲学も、宗教も説明しないで「 自明 」の事としている。

人工知能が認識する、時間と空間の展開を期待しよう。

それは、人間の全ての知識の成果なのだから人間を超えた時空を持つに違いない。

見方を変えて言うと、時間と空間を持たない人工知能は、「 人間の脳 」に劣る事になる。

繰り返すが、「人間は、生まれた時から、なぜ時間や空間で困らないのだろうか ?」というのが疑問である。

A宗教で、「 光 」という言葉を使うが、それは何?

これも、「 自明 」の事として、軽蔑の眼を向けられるだろう。

しかし、古代で言う「 光 」と、現代物理学の中での「 光 」は違うと思う。

従来の宗教を、変革すべきではないのか?という疑問がある。

なぜなら、古代人は「 光 」の構造を知らないからだ。

Bその二つを、21世紀まで、考えた哲学者も科学者もいないというのが不思議な所だ。

デカルトもカントも、「 疑う 」というなら、自分が見て感じている「時間」や「空間」の存在を、何故、疑問と思わなかったのか不思議である。

ハイデガーは、「時間」の理解から遥か遠くに存在しているのに「存在と時間」を書いた。

私は、それを、応用して、時間を戦時とし、存在を環境の中の自分の存在と置き換えて、軍国主義の思想に使った日本人もいたと理解している。

何でも、無批判に、西洋の考えを取り入れるのは、哲学の貧困の何物でもない。

現在の、「経済危機」でも、日本人に「 哲学 」が無くて、派遣労働者を、物のように切り捨てる

カントは、「人を道具にしてはいけない」と書いている。

人間としての「道徳」だ。


現代には、人間の住む世界についてのビジョンが無いと思う。

政党は、選挙の事ばかり、一流の学者は、これからの流れを予測するのではなくて、過去の「世界恐慌」の事例と、現代を比べて意見を言う。

これが、何の「一流大学」か、「一流の経済学者」か、「一流の哲学者」か。

C次に「 愛 」は何処へ行ったか、である。

優秀な人には、「富」を集中するが、「 愛 」により、貧しい人に分配されるのならば、「 愛 」が「 利己愛 」になっている懸念がある。

一極に集中した「 富 」が、分配されなければ、「 愛 」ではなく、「 利己愛 」であると思う。

国家権力は、その分配を阻止するものを、摘発して責任を追及しなければ、税金を使っても無駄であろうし、低所得者の「 反感 」を買い、混沌として社会になる恐れもあると思う。

これは、「経済危機」に面している、アメリカや日本に言える事かも知れないが、案外、グローバルな物かも知れない。

私は、 E=mc2 で、「 利己愛 」は、「質量」としたが、アメリカ人も日本人も、皆、持っているから、私の考えは、「 妥当 」な考えだと思う。

この、E=mc2 により、「欲望」や「利己愛」と、「 愛 」が違う事に、何処まで迫れるかが、今年の私の目標である。

これが、現時点での、2009年に残った、私の課題である。



2008/12/31・私の反省(欲望の方向転換) 6 で書いた記事。

E=mc2 で、欲望=利己愛×意識の二乗です。

喫煙は「利己愛」だと思います。

利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。







2009/5/25・考えた事

時間と空間は、それぞれ意識の問題であり、私が考える時空も、既に述べた。

「 意識は電磁波である 」の言葉で検索すれば、それを知る事が出来るだろう。

宗教の「 光 」については、「 光 」を「 意識 」に置き換えれば、この宇宙に満ちている「 光 」は阿弥陀仏や神の「 意識 」であり、宇宙は阿弥陀仏や神の「 意思 」に満たされている事を知る事が出来るだろう。

私が、ここで問題にするのは、「 利己愛 」である。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、これを「霊」や「魂」とする。

意識の総体が「 霊 」であるから、E を「 霊 」とする。

C は「 意識 」であるから、これは全ての動物の脳が生み出す自意識で、自己を組織する意識であり、動物に共通であるだろう。

m が、「 利己愛 」であるが、「霊は生きている」と「感受性」の記事から知る事が出来るように、個人的、「好き」や「嫌い」の価値観が左右して気(ki)が充満して、人間存在を豊かにする煩悩である。

それは、以前、台風の構造をした渦巻きだと書いた。

その二つの総体が、左辺のE であり「 霊 」であると思う。

これを、どのように襲うのかが、これからの問題である。



Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年05月24日

2009/5/24・オカルト的思考(感受性)

2009/5/10 考えた事

私は、内なる宇宙を意識と無意識とエネルギーに単純に分類し、エネルギーは「流れる物」で意識と無意識は「流れる物から派生する物」として、「流れる物」は神経伝達とし、「派生する物」は、電磁波の構造で全身に伝わる物と考える。

「流れる物」から「派生する物」を規定する事は出来ないし、「派生する物」から「流れる物」を規定する事は出来ない。

しかし、「流れる物」が、「派生する物」の方向や、時間意識や空間意識の座標軸を規定し、あるいは座標軸の形成や変更を促すと考える。

「意識は電磁波(光)である」と思うから、私自身は、常に過去に向かって、自分を確認する意識と無意識の光を発していると考える。

「派生する物」は、「光」に可視光線と不可視光線があるように、意識は感覚に反応する周波数であり、無意識とは別の感覚、あるいは機能(機会の脳)に反応する周波数であると思う。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思うが、地球が宇宙空間で、どの方向に進んでいるのか不明であるように、私の「気(ki)に包まれた意識という生命体」も、方向が不明である。

簡単に考えると、地球とその周囲の大気圏が「意識」であり、電波が電離層で反射されるように、「意識」も「人の電離層」により反射されて、個人として意識し、電波が電離層を通過するように、「人の電離層」を通過するのが、「霊に似た気(ki)」であり、それが「普遍性」という意識だと思う。

「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。



2009/5/24・考えた事

意識も無意識も、「 感受性 」として統一されると考えるが、「 感受性 」とは何か。

それは、「 今 」という現時点から過去や未来に向かって意識の「 光 」を発し、その反応を感じる事だが、それは、個人の資質により相違する。

感じる問題は、「 今 」、存在するのであり、過去から時間性を持って、自分の中に存在したものではない。

過去や未来へ「 光 」を発し、意識では矛盾、無意識では「好き」や「嫌い」を感じるのは、自分の「 内なる宇宙 」での理由づけであり、外部に実体が存在するのではない。

自然は、矛盾がなく、個人の「好き」や「嫌い」に左右される事が無く存在し、調和しているものと考える。

意識では矛盾、無意識では「好き」や「嫌い」を感じるのは、個人の資質である。

個人の資質とは、「 頭脳が明晰か否か 」とか「 コンプレックス 」の有無とか、物理学や生物学や心理学により規定される自分の「機会」に対する「頭脳」の力である。


私は、生まれた時は、時間や空間は既に知っていても、社会的な言葉や思考など、一切は所有していない。

知識が社会的であるから、私が持つ知識は、社会的に判断するのは可能だろう。

フロイトの理論やユングの理論で、私を規定するのは許容するし、規定された瞬間に、私の全体は、違う物に変化しているだろう。

それは、私にとっては、矛盾の理由づけとして考えていて、言い訳の理由になっても、私の存在の全体を規定する事だとは考えていない。

無意識の感受性は、物体と同様に考えられるが、方向を決める、あるいは何を見るのか決定する「 無意識の霊という感受性 」は、社会から規定は出来ないと思う。

それを除いて、全ては、社会的、阿頼耶識(arayasiki)の内容で決定されるだろう。

「 無意識の霊の感受性 」は、意識の発生する方向に関係するかも知れず、それは、ニューロンの発火により、規定する事は不可能だろう。

神経物理学では不可能であり、時間意識や空間意識も含めて、「 意識の心理学 」を必要とする。


Poor thinking is as good as no thinking.


2015/1/26、私の現在の考え 2へと続く

2015/4/2、私の現在の考え 14・流れるものと派生するもの・三身即一 を参照
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2009年05月23日

2009/5/23・オカルトの展開(霊魂は生きている)

2009/5/11・考えた事

内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。


2009/5/23・考えた事。

上記の事を、少し要約すると、「 霊魂は生きている 」という結論になる。

「 意識は電磁波である 」から、「霊魂」は意識の総体であり、記憶は意識の感受性であると思う。

「 意識の感受性 」は人体で判断すれば、「 頭脳の働き 」であり、「 派生する物」である。

他方、「 無意識の感受性 」は、「 呼吸 」つまり、「 肺や心臓による循環器の働き 」であり、物質的な「 神経を流れる物 」の働きであると思う。


意識の総体である「霊魂」は、頭脳の「意識」だけではなく、心臓や肺の循環器による「 無意識の」気(ki)を取り込んだ総体であると考える。


生き生きとした現実生活は、私の内部での、これらの「 働き 」による。

その「 気(ki) 」を取り込む形態で、「病気」にもなれば「元気」にもなると思う。

人体は、自然の一部であり、それ自体に限界は無い。

眼で見て、耳で聞くから、「意識という電磁波」が生じて、「個人」が成立する。

区切るのは、もう一つの無意識の感受性である「理性」や「ロゴス」の働きであると思う。


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2009年05月22日

2009/5/22・新型インフルエンザ・そして京都も

昨夜(21日)、テレビを見ていたら、京都の小学生男子(10歳)が、新型インフルエンザに感染している事が、速報として流れた。

Yahoo JP のニュースでは、東京の帰国した女性(36歳)を含めると、日本では292名が感染している。

政府発表では、新型インフルエンザは「季節性のインフルエンザ」と同じだから、インフルエンザと同じ対応をするように、Yahoo JP でも、動画を使って指示している。

しかし、これは「 新型 」のインフルエンザであるから、対応を変える事が、政府に求められている行為であると思う。

それは、どのような経過で感染したのか、その原因究明する態度が示されていない。

情報を提供すると言いながら、無策である為に、情報が得られないのかも知れないが、原因の発表が無い。

原因が判明しない場合は、現在の私の生活でも、新型インフルエンザに感染するのではないかという心配が起きるだろうというのが、私の考えである。

何時でも何処でも、「 マスク 」を着用すれば健康だという保証は無い。

私は、「 マスク 」を着用している人は、新型インフルエンザに感染している人だと考え、周囲に近づかない方針だ。

誰もが知っている「 予防方法 」しか方法が無いとすれば、誰も「 予防方法 」の不安を知っている。

「 マスク 」を見たら、「 インフルエンザ 」が歩いていると思うから、不安になる。

これが、私だけの病気の問題ならば、小さい問題であるが、兵庫・大阪・滋賀・神奈川・東京・京都と範囲が広がれば、感染者は少ないが、その大都市の住民は「 マスク 」を着用するのが普通だろう。

それを見た、観光旅行として来た他の地方の人は、インフルエンザが蔓延していると思って、観光旅行を止めるだろう。

「人の多い所へ行かない事 」も、政府が言う「感染防止の方法」であるからだ。

政府の行為として「 新型インフルエンザは季節性のインフルエンザである 」と宣言しただけでは、この経済的な問題は解決しない。

政府は、一方では「季節性」と言いながら、他方では、感染を防ぐために「発熱外来」を設置して、感染者がそこに行けば、充分な手当てが受けられると言うが、「 何故、感染したのか 」という原因が発表されていないから、「 発熱外来 」へ行くという気持ちになれない。

手洗いや「うがい」と「 マスク 」と「人の多い所に行かない事 」は、個人を家庭内に閉じ込める事で、一方では「 新型のインフルエンザ 」への心配を増加させ、他方では、「 蔓延地域 」に旅行しないという経済的な打撃になる。

私が言いたいのは、「感染した状況を発表して、普通の生活では、感染しない事」を、政府は明らかにして、「 季節性のインフルエンザ 」と発表すべだという事だ。

「 季節性のインフルエンザ 」であり、しかも私は「 マスク 」は嫌いだから、着用しない方針である。



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2009年05月21日

2009/5/21・新型インフルエンザ・兵庫・大阪・滋賀・神奈川・東京

新型インフルエンザが、日本国中に、次第に広がっている。

兵庫県や大阪府に続いて、昨日の滋賀の大学生、今日の東京と川崎の、高校二年生の女子生徒と、感染が広がっている。

学校の休校を始め、観光地の人ごみを避けてのキャンセルが続いて、経済も混乱している。

特徴は、高校生や大学生の感染者が多い事と、潜伏期間が長い事だと思う。

幼児や老人に死亡する例は無く、スポーツをしている若者や、海外渡航者が多い。

東京や川崎の女子高校生は、5月11日からニューヨークに渡航し、5月19日に帰国して、発病が判明したのが、21日だから、帰国した時に、感染しているか否かは不明だ。

深刻な病気ではなく、ウイルスによる風邪だから、夏になれば鎮静化すると思うが、騒ぎが騒ぎを呼び、今では、風邪用のマスクが品切れの状態である。

テレビや新聞は、手洗いと「うがい」の励行を勧めるが、世界的規模になった風邪の流行だから、ワクチンによる強制的な鎮静化が、心理的な連鎖を断つ意味で良い方法かも知れない。

それと、飛行場で問診する時間があるならば、注射するなど簡単に病気が判明する方法を考えるのが、国家の役目だと思う。

ある人は、アメリカやメキシコから出発しても、第三国を経由すれば、問診をされなかったという。

テレビや新聞で書いている、手洗いや「うがい」の、昔ながらの方法を、個人がするだけの予防方法しか無い事は、これからのウイルスの脅威に対しては余りにも貧弱だ。

クローン技術など、将来、食べ物の確保に役立ち、金儲けが期待される分野だけ、科学が発達するのも、嫌いである。

もっと、人の為になる「 科学技術 」は無いのか。

それを作る為の国家機関が機能していない。

ミサイルから国を守る事も、国家の仕事であるが、細菌への対策も、不安を除去する意味で、それに劣らぬ仕事だと思う。



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2009年05月20日

2009/5/20・ゴーギャン展・名古屋ボストン美術館 5

我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか。



ゴーギャン










マスクせずに、深夜まで飲み歩き、帰宅して、妻が用意していた寝具に包まれる。

酒に酔い、鼻の詰まりを流行のインフルエンザの前兆ではないかと思う。

マスクは着用すべきだったと後悔しても、今となってはもう遅い。

風邪薬を飲み、眠れぬままに、この絵画の主題を思った。



私は、寝具に包まれて寝ている自分の姿を、ゴーギャンが描いた人々が集まる「ノアの箱舟」と想定した。

眠れぬまま、夢と現実を往来している状態は、私自身の「 魂 」が、どこから来て、どこへ行くのか漂っている状態であると思った。


ゴーギャンは、目覚めた意識を持つ人々の行き先を問題にしたのだと思うが、人間の一人一人が眠る時、「 魂 」として、毎日、どこかへ行き、どこからか来るという体験をしていると思う。


身体が「ノアの箱舟」であり、それに乗っている私が、重力や霊の力により、どこかへ持ち去られて、帰ってくると考えると、この絵画の主題の意味は、毎日睡眠する私自身を問題にしているとも考えられる。





私は、この主題に対しては、人は宗教の種類に関係なく、あるいは信仰心の有無を問わず、死後は「 ガイア 」の生き物に輪廻転生するので、地球上の生き物を愛してくださいと答える。

智慧の無い頭で、人間の苦悩など理解する事が出来るとは思わない。

明日になれば、光に満ちた「この世」に帰って来る事が出来ると信じて寝よう。

明日も仕事が待っている。


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2015/2/9、私の現在の考え 7・可能性へと続く
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2009年05月19日

認知症の相談窓口と介護サービス情報公表システム

これは、国内的な記事です。

一人で、認知症の人を介護する事は、大変な労力を使います。

認知症が心配の人のために、ネットで調べた介護機関を掲載します。

有料のサービスかも知れませんが、良心的だと思います。

「三人寄らば文殊の智慧」と申します。

一人で悩まないで、ご相談される事をお勧めします。

以下は、パソコンで知った介護相談窓口の URL です。

T、介護全般の相談

「社会福祉法人」「 浴風会 」

「介護支え合い電話相談」


http://www.yokufuukai.or.jp/

電話→0120−070−608
  (月〜金10時〜15時、祝日を除く)

FAX 0120−502−588



「財団法人」「認知症予防財団」

http://www.mainichi.co.jp/ninchishou/index.html


電話→0120−654−874
(月・木10時〜15時、祝日を除く)



「公益社団法人」

「認知症の人と族族の会」

http://www.alzheimer.or.jp/


電話→0120−294−456

(月〜金10時〜15時、祝日を除く)



U、若年認知症

についての窓口


「特定非営利活動法人」

「若年認知症サポートセンター」


http://www.star2003.jp/sc/

電話→03−5919−4186
FAX 03−5368−1956




若年性認知症コールセンター(大府センター)

http://y-ninchisyotel.net/



電話→0800−100−2707

午前10時〜午後3時

月曜〜土曜(年末年始・祝日をのぞく)


「社団法人」

「認知症の人と家族の会」


http://www.alzheimer.or.jp/

電話→0121−294−456

(月〜金10時〜15時、祝日を除く)



「社会福祉法人 仁至会」

認知症介護研究・研修大府センター



http://y-ninchisyotel.net/


フリーコール(無料)

若年性認知症の電話無料相談


0800−100−2707

(月〜土・年末年始・祝日を除く10時〜15時)




V、認知症についての

各種のホームページ


「認知症介護情報ネットワーク(DCネット)」
http://www.dcnet.gr.jp/

認知症の介護研究・研修センターが運営するホームページです。


「WAM NET(ワムネット)」
http://www.wam.go.jp/

全般の介護保険サービスを提供する事業者を検索する事が出来ます。


「認知症ケアポータルサイト」

http://dawhois.com/site/ninchishou.com.html


認知症に関する医療・福祉の団体のホームページへリンクしています。


「認知症フォーラム.com 」

http://www.ninchisho-forum.com/

認知症に関する講演などを動画で説明し、紹介しています。


「e-65.net」
http://www.e-65.net/

認知症に関する基礎的な知識を入手できます。


W、各県の

介護サービス情報公続


「介護サービス情報公表支援センター」

http://www.espa-shiencenter.org/

左上の「全国介護サービス情報公表サイト一覧」をクリックしてください。

全国地図がでますから、「 県 」をクリックすれば、介護サービス情報を見れます。

各県の介護サービス情報を検索する事が出来ます。



私のホームページ


http://www.k5.dion.ne.jp/~denden55/index.html

2009年05月17日

2009/5/17・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉3

3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。





2009/5/17・考えた事。


義とは以前、以下のような文章を紹介しました。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)




私は、ブログのタイトルに、「霊は意識の総和である」と書きました。

私の結論は、「無意識の気(ki)や霊のエネルギーに逆らって、義のためには、意識の全てを捧げて行為すべき」となります。

無意識の気(ki)や霊を「感受性」で感じながら、行動するのが現実的ですが、昔の「 上杉謙信 」は、その自然の行為に逆らっても、「 義 」の行為をすべきと考えていたのでしょう。

私は、人の内心まで知る事は出来ないが、行為という形態に現れた内面の意思は、知る事が出来ます。

「 義 」は、人としての正しい行為をする事ですが、私は、人間が全身全霊で、何を行為するのかで、その人が何を「 義 」と思っているのか判断したいと思います。



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2009年05月15日

2009/5/15・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉2

Yahoo USA に、私の記事が、掲載されているので、感謝の印として、次の記事を追加する。

Yahoo USA 「上杉謙信の言葉 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxfkRQxKzycBiIKl87UF?p=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。


一般的に、「好き」や「嫌い」とか「苦」や「楽」という価値観が頭脳の中で、ニューロンを発火させて、生命を維持すると考える。

上杉謙信の言葉を信じて生きるならば、自然とは反対の行為をする事になる。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。





2009/5/15・考えた事。

上記のように、「死中生有り、生中生無し」に、「 無意識の感受性 」を当てはめてみると次のようになる。


「嫌い」の中で「人としての正しい行為の為に戦えば」「生命が維持され」、「好き」の中で「好き」を維持する為に戦えば「生命は維持されない」。


「苦」の中で「人としての正しい行為の為に戦えば」「生命が維持され」、「楽」の中で「楽」を維持する為に戦えば、「生命は維持されない」。

「好き」や「嫌い」、あるいは「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」である。

「人としての正しい行為の為に戦えば」を、「嫌い」を「好き」になって抵抗する、「苦」を「楽」として抵抗すると考える。

意識の中に、無意識の「好き」や「嫌い」として感じるのは、エネルギーが意識に影響しているのが原因であると考える。

「 無意識 」は、エネルギーからの影響であり、「 意識 」にとっては「予知」であり「予測」である。

意識という「派生する物」としての形態の中に、自分の身体が感じる「好き」や「嫌い」という意識の形態として、「流れる物」が現れると考える。

身体の中に「流れる物」に従って行動するのが自然であるが、流れを遡及して「流れる物」の源泉を求めた時、あるいは無意識の源泉を求めた時、つまり「流れる物」という現象を遡及して、「流れる物」の「本質」を求めた時、何故、生きるのかという「生命」の全体が理解される。



まず、身体の抹消神経の感覚器官から伝わった刺激が、「脳髄」に到達して、ニューロンが発火して、身体全体を反応させる「電気」が流れ、「流れる物」が生じ、無意識に「好き」とか「嫌い」という意識が生じる。

それと同時に、「 意思 」を身体の抹消神経の感覚器官に到達させて、「何者かを判定する」のが、「 意識 」である。

その時、「人としての正しい行為の為に戦えば」を、「嫌い」を「好き」になって抵抗する、「苦」を「楽」として抵抗すると考えて、無意識を発生させるエネルギーの源泉に対して「 意識的に 」抵抗した時、「天や神の力によって」、「生命を維持する」場合があるという考えだと思う。



「好き」とか「嫌い」という無意識は、「 予知 」や「 予測 」であり、「 意識的行動 」が、無意識の予知に対して、答えを提出する。

その答えは、「 保身 」の為でも解決としては同じであるが、「 保身 」の場合は、自分の利益を守る力だけであり、天や神は助力しないという考えだと思う。

こうして、私は、次の結論を出した。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。


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2009年05月13日

2009/5/13・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉

1、「好き」や「嫌い」の発生


2009/5/11・考えた事

内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。




2、上杉謙信が残した言葉

2009/4/17・私の解釈「 死中生有り、生中生無し 」の記事で次のように書きました。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。



3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。


一般的に、「好き」や「嫌い」とか「苦」や「楽」という価値観が頭脳の中で、ニューロンを発火させて、生命を維持すると考える。

上杉謙信の言葉を信じて生きるならば、自然とは反対の行為をする事になる。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。


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2009年05月12日

2009/5/12・私の解釈(能力)

Yahoo USA は、「私の解釈 m24658 」で、私の過去の記事を保存しています。

Yahoo USA 「私の解釈 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkx73PwlKsw8AeJCl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

非常に嬉しいのですが、皆様に役立つ知識が無いために、私のブログは、私の感情を書くだけの場所になっています。

これから、もっと非常識な事を書きますので、知識を求める人は、他のブログを見てください。


私は、これまで書いた「無意識の感受性」の延長上の考えで書きます。

私は、「無意識の感受性」を、「気(ki)の感受性」と、「霊の感受性」に分けて考えました。

これは、前者が体内の臓器に対する無意識が魂の無意識に結合し、後者が、先祖や人類一般の中の自分の無意識が、「自分が生まれたこの世で何をすべきか」への無意識と結合している事が、分けた理由です。

「無意識」とは、意識する事が出来ない物質的な意識であり、「流れる物」というエネルギーの一種だと思います。

「意識」は、脳の神経を流れる刺激や「流れる物」から生じた電磁波という「派生する物」であると思います。

「意識」から、思考経済上、「無意識」になったものは、「意識の定在波」として一定になり、一定の速度で、現実に現れ、物理的刺激となって、エネルギーになるでしょう。

それは、「学習による習慣」であり、「無意識の感受性」とは違うと思います。

「 意識 」の中の気(ki)を意識的に強くする事により、「派生する物」が「流れる物」を作る。


徹底的に「 意識 」する事により、脳という物質の中に「電流」を流す、あるいはニューロンを発火させる事が必要です。


それは、発明家の頭脳であり、人類には発明が必要だと思います。

「 砂漠に、光合成をする人工の葉を作る 」などの発明が必要です。

バイオテクノロジーが発展した現在ですから、不可能な事だとは思いません。


私は、「能力」を自分が所有している力であるとは考えません。

自分が所有する物は、何も無いと考えて、私に与えられているのは、「感じる事」つまり「感受性」だけだと思って、無意識を追求したいと思います。

天才は、無意識に、意識的行為をする。

そんな人は、素晴らしい人だと思います。



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2009年05月11日

2009/5/11・ゴーギャン展・名古屋ボストン美術館4

「我々はどこから来たのか。我々は何者か。我々はどこへ行くのか」


ゴーギャン









今日、Yahoo France で、「ゴーギャン展 名古屋ボストン美術館」を検索すると、9ページ目に、私の記事が掲載されていました。

さすが、世界のYahoo です。

その感謝の印として、ゴーギャンの絵画について記事を書きます。

これは、全く、私個人の印象であり、最低の評価が下されると思いますが書きます。

私が、最初にこの絵画を見た時、中央に描かれている人は、「 祈り 」をしているのだと思いました。

解説を見て、これは果実を採取している青年であると知りました。

もう一つは、この周りの人は、何かを避難している人物だと思いました。

そして、全体の絵画を、何かからの避難民が、頼る事も出来ずに、語り合っていて、中央の人が「 祈り 」をしていると思っていました。

次に思ったのは、この人たちの他に動物も描いているので、この集会所は「ノアの箱舟 」であると思いました。

洪水を避難した人たちが、「ノアの箱舟」に乗っていると思いました。

しかし、この青年を良く見ると、足の配置や腰に巻いた布や、伸ばした手は、「 キリスト 」であるような気持ちになりました。

黄色は、黄色人種であるかも知れませんが、「黄金色」に輝いている人を表現し、「光」で輝くのは、「キリスト」の他に想像する人はありません。

そして、背景が黒色ではなく、紺色、濃い青色であるのは、暗闇ではなくて、希望が残っている星空を表現しているのでしょう。

紺色が、東洋の色であるから、これはゴッホの影響かも知れません。

帰宅して、ネットで調べました。

名古屋ボストン美術館のホームページに掲載されている絵画を見て、紺色の背景に、ドラゴンが天に昇るように、中央に光の帯を作っている事を確認しました。

ネットで、「 黄色のキリスト 」というゴーギャンの絵画を見た時、金は使っていないが、「 黄金色に輝くキリスト 」であると確信しました。

ゴーギャンは、西洋から離れ、絵画の買い手も無く、貧困で病気の状態で、全力で描いたのは、絶望の中で死を覚悟している「 キリストである自分 」であると思います。

これが「 遺書 」と思うのですから、自分を描いて死ぬ事も考えられます。

絵画の背景の人物や動物は、「 現在、存在する全ての生き物 」を意味し、「キリストである自分」が神に祈っている事を描いたと思います。

右から左へと、時間の経過を示すと言いますが、私は「ノアの箱舟」の中の全ての生き物であると思います。

そして、題名から連想するのは、今という舞台に乗っている、有限な命を持つ全ての生き物への「愛」であり、生と死への問題提起であります。

あなたは、どう思いますか?


Poor thinking is as good as no thinking.


2015/2/9、現在の私の考え 7・可能性へと続く
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2009/5/11・オカルト的思考(気は生命の印)価値観

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の記事を、Yahoo USA は、掲載してくれた。

Yahoo USA 「 気は生命の印 感受性 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklwEFAdKMRQAAAWl87UF?p=%E6%B0%97%E3%81%AF%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%8D%B0%E3%80%80%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


私の「気は生命の印」と言う記事に対して、奇妙な考えだとして、掲載してくれたと思うが、この記事の続きを書きます。


2009/5/10・考えた事。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

……(中略)……

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思う。

……(中略)……


「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。





2009/5/11・考えた事


内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。

無意識の感受性は、社会的であり、「意識の電磁波」から派生した「流れる物」であり、意識的ではなくて物質的だから、「 心理学 」の範疇に入るものと考える。

行動する時に、ケインズが言う「流動性選好」が、過去の記憶に対して行われて、行動へ現れ、意識を考えずに統計的に判断されると考える。


Every miller draws water to his own mill.

そして

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2009年05月10日

2009/5/10・オカルト的思考(気は生命の印)感受性

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



私は、内なる宇宙を意識と無意識とエネルギーに単純に分類し、エネルギーは「流れる物」で意識と無意識は「流れる物から派生する物」として、「流れる物」は神経伝達とし、「派生する物」は、電磁波の構造で全身に伝わる物と考える。

「流れる物」から「派生する物」を規定する事は出来ないし、「派生する物」から「流れる物」を規定する事は出来ない。

しかし、「流れる物」が、「派生する物」の方向や、時間意識や空間意識の座標軸を規定し、あるいは座標軸の形成や変更を促すと考える。

「意識は電磁波(光)である」と思うから、私自身は、常に過去に向かって、自分を確認する意識と無意識の光を発していると考える。

「派生する物」は、「光」に可視光線と不可視光線があるように、意識は感覚に反応する周波数であり、無意識とは別の感覚、あるいは機能(機会の脳)に反応する周波数であると思う。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思うが、地球が宇宙空間で、どの方向に進んでいるのか不明であるように、私の「気(ki)に包まれた意識という生命体」も、方向が不明である。

簡単に考えると、地球とその周囲の大気圏が「意識」であり、電波が電離層で反射されるように、「意識」も「人の電離層」により反射されて、個人として意識し、電波が電離層を通過するように、「人の電離層」を通過するのが、「霊に似た気(ki)」であり、それが「普遍性」という意識だと思う。

「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。


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2009年05月09日

2009/5/9・オカルト的思考(気は生命の印)絵画鑑賞

2009/5/7・考えた事。

絵画は、一方では画家の「 意思 」としての構図や「 感情 」としての色彩、あるいは「 形態 」としてのカンバスである。

それを見る観客は、自分自身の「 意思 」や感情と画家の意思と感情を交流させる「 場 」として絵画が存在する。

観衆は、自分の意思や感情を見ているだけで、絵画は無限の観衆の感情を受け入れる。

絵画を見るのは、自分が何を考える事かを知る事であり、自分を見る事だと思う。

ゴーギャンの絵画が魂の叫びであるなら、私が見た物は、私の「 霊魂 」かも知れない。



2009/5/9・考えた事

美術館や画廊が、画家が「 魂 」を表現した絵画と、それを見る観衆の「 魂 」の出会う「 場 」と考えられる。

「 魂 」は、「 気(ki) 」というエネルギーが充満した状態と考えられて、絵画を見る事が、エネルギーの伝播だと考えられるが、絵画を見る観衆の、「 意思 」あるいは「 意識 」が無いならば、単なる「 見学 」になってしまう。

「 気(ki) 」というエネルギーは、「 意識 」されてから、その人の「 魂 」に伝播される。

「 気(ki) 」を「 意識 」する「 無意識の感受性 」が必要だと思う。

そのエネルギーの「 場 」の持つ「 気(ki) 」を「 雰囲気 」と言う。

この「 雰囲気 」にも、漢字の「 気(ki) 」が使われている事から理解されると思うが、「 状況 」に似て、「 現在 」にだけ存在する「 気(ki) 」が充満する「 場 」である。

そして、私のブログの記事が、世界のYahoo に掲載された状態が、「 霊 」の状態であるかも知れない。

このように「 霊 」は、「 気(ki) 」や「 魂 」というエネルギーを連結する「 文化 」であり、どのようなブログの記事を掲載するかは、「 文化 」という「 霊 」が作る「 引力 」であると解釈する。

つまり、「 魂 」という「 気(ki) 」の「 特殊性 」の共通項が「 霊 」という「 普遍性 」であると考える。

「 霊 」も、「無意識の感受性」により、「 意識 」の中に侵入するが、「 気(ki) 」の感受性とは、獲得する「 形態 」が違う。

「 気(ki) 」が、人体の皮膚呼吸により得られ、現在だけで得られる物であるとすれば、「 霊 」は、人体の全体を包む呼吸であり、呼吸が発する「 場 」の関連であり、呼吸と同時に「 社会の要請 」を感じる事が、「 霊 」の「無意識の感受性」であり、それは、人間の存在が不可逆である為に、未来にも形態が残ると考える。

呼吸という人体特有の「 気(ki) 」から離れて、言語や行動という「 文化 」が集結して、不可逆的な「 形態 」の連関の「 場 」になり、人類の意識の如何に無関係の連関が「 霊 」である。

この「 霊 」は、画家の作品でもある。

画家の「 気(ki) 」から発した「 形態 」が「 霊 」となり、現在の人々の「 気(ki) 」に影響した後に絵画に戻ると考える。

絵画の「 気(ki) 」と「 霊 」の交流が「 霊 」を媒介にして、「 気(ki) 」という自分のエネルギーを得る時に必要なのが、個人の「 問題意識 」であると解釈する。

人体に栄養になる食物を食べても、消化器官が必要であるように、精神的な「 気(ki) 」というエネルギーを摂取する為には、「 意識 」という「 自己組織力 」が必要なのだ。

それを欠けている状態が「 見学 」や「 観光 」と言う。

神社や仏閣も、美術館と同じ働きをすると思う。

普通、「 見学 」や「 観光 」には、「 気(ki) 」という「 魂 」や「 意識 」を必要としない。

しかし、信者にとっては、「 気(ki) 」や「 魂 」が交流するか否かが、神社や仏閣の存在価値である。

だから、神社や仏閣には、儀式が必要であるかも知れない。

「 儀式 」ではないが、神社や仏閣で、「 靴を脱いで裸足で歩きなさい 」とか「 合掌しなさい 」という規制は、信仰の場としての「 心 」であるが、「 魂 」の交流には必要な事であるかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
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