2009年06月30日

2009/6/30・オカルト(統合)周波数と意識と共通感覚2

昨日の記事が、Yahoo USA に掲載された。

Yahoo USA 「周波数と意識と共通感覚」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxmtG0lKk6IA_myl87UF?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E5%85%B1%E9%80%9A%E6%84%9F%E8%A6%9A&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



私は、このテーマについて、現時点では明確な考えを持っていない。

しかし、話題にした責任として、私の「感覚」について、少し要約しておきたい。

ヒトは、「周波数の比較」を見れば、電磁波の周波数を感じる感覚器官を持っているのは事実だと思う。

私は、視覚や聴覚など、感覚器官は違い物理的な刺激は違うが、獲得する情報に共通な性質が含まれると思っている。

それは、意識であり、思想であると思うが、現時点で明瞭な考えは無い。

ただ、全盲のピアニストが、国際的なピアノコンサートで優勝した事実から、共通した意識がある事を考えなくてはならないと思う。

私は、ヒトは感覚器官というレーダーを持ち、自分の体外のエネルギーを摂取するが、レーダーはレーダーであり、情報を決定しない。

対象を、区切り、選択するのは、脳の「身体図形」による意識だと思うが、意識の中で、探査するレーダーが「精神の座標」で、実体の決定は、気(ki)を含む「本能の座標」であると考える。

「身体図形」による区切りであるから、レーダーも決定も、主観的で任意で恣意的であり、主観的リズムである。

両者に共通する事は、対象物と「記憶」という感受性である。

対象物が自然の物であれ、想像する物であれ、レーダーと決定の関係は同じで、一つのレーダーが故障すれば、それを補完するレーダーを持ち、獲得した意識の間に共通した情報を持っているから、全盲のピアニストも存在すると思う。

私は、レーダーの間で、共通の情報がある事を共通感覚と言うだけで、社会の中で、一つのエネルギーを持った周波数により意識が発生するかも知れないが、社会に共通な意識だとは思わない。

エネルギーや意識を決定するのは、個人の特殊な環境や感受性であるから、決定した内容は全て相違するが、或るエネルギーを持つ周波数に対して、意識が同一形態の行為として具現化するから、外部から、共通感覚があると判断されるのだと思う。

身体の外部から社会的に共通感覚と言っても、身体の内部の意識は感覚ごとに相違し、情報が共通しているだけだと思う。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

ヒトは、地球が自転しているから、絶えず新しい大気という気(ki)と衝突して、呼吸する事により体内に空気(kuuki)を取り入れて、新陳代謝に利用している。

全盲のピアニストである辻井さんは、教師の息使いから呼吸を合わせる事により、「楽譜」に代わるピアノ演奏の気(ki)を学び、自分が決定した気(ki)を、鍵盤を叩く事により表現した。

「楽譜」が精神の座標ならば、「演奏」は決定であり、その決定は感受性の働きであると思う。


学ぶ事も、演奏する事も、記憶の力を利用する限り、「感受性」が決定し、その「感受性」は意識だけでなく、無意識の肉体的、本能的な気(ki)というエネルギーや「霊」からも影響されていると思う。

「楽譜」に依存せずにピアノを演奏して優勝した事は、常識的な感覚に依存せず、他の感覚の経路を経由しても「演奏」が可能である事を証明した事だと思う。

観音菩薩のように、音(声)を観るという感覚を持つ事が、理想であるが……。


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2009年06月29日

2009/6/29・オカルト(統合)周波数と意識と共通感覚

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



Yahoo USA が、2009/6/28・オカルト(統合)周波数と意識の記事を登録してくれた。

周波数と意識
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk08_u0dKQ.cAHbWl87UF?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


2009/6/28・考えた事

私は、時空を「時間意識」と「空間意識」と解釈して、それらが「 自意識 」として根底にあるが、他の五感は、自然のエネルギーを感じて、意識に変換する働きをしていると考える。

五感が獲得して意識の総体である霊という無意識の感受性が決定するものが「実体」であり、現実の世界である。

つまり、自然のエネルギーの重なりに対応して、ヒトの意識が重なっていると考える。

一つの肉体に、五感というレーダーを持っているのだと思う。

感覚器官というのは、「 周波数 」を意識に変換する機能である。

自然のエネルギーとは、「 周波数 」であり、その他に気(ki)があるだろう。


まず「 周波数 」である。

これを視覚や聴覚という感覚器官で意識に変換するのだと思う。

「 周波数の比較 」を見れば、感覚が周波数により成立する事を認識する事が出来る。


周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83


テレビもラジオも音楽も、光も、私は、現実世界で経験する事が出来る。

それは、現実世界が「 周波数 」というエネルギーの重なりであり、私の頭脳は、その周波数を意識に変換しているのだ。

脳は、周波数から意識へ変換する物理的物質である。

アインシュタインがノーベル賞を受賞した理論は、光を当てると物質から電子が飛び出すが、「 脳 」という物質に「 光 」のエネルギーが衝突して「 意識 」が発生しても不思議とは言えない。

第一、眼から入った光のエネルギーが、エネルギー保存の原則で、何かの形態に変化していると考えるのが自然だろう。

視覚や聴覚も、生物という体内の仕組みにより解明する事が正しいと思うが、私は、「 周波数 」の変換により、エネルギー保存や周波数の「経路和」の考えを採用した方が良いと思う。

そして、「 脳 」は、「 周波数から意識へ変換する層の「重なり」である。

「 脳 」は、宇宙空間の電離層のように、知覚する周波数の層の重層構造になっていると思う。

「脳」の「電離層」は、大脳皮質の連合野であると考える。

周波数が突き抜けたり、反射したする働きを「 脳 」がしている形態が、光景を見たり、音楽を聴いたりする状態であると思う。




もう一つは、気(ki)である。

これは周波数を物理的基礎としながら、体内と外部を通過するエネルギーであり、「 周波数 」が意識の領域ならば、気(ki)は無意識の領域で、精神的な「感覚の質」という「意識」の物理的な基礎であると思う。

これは、前述したように、無意識の働きであり、現実世界を「実体」として無意識が決定するが、空気を抜けば真空があるように、現実世界に、電磁波を伝達する「 エーテル体 」のように、存在すると考える。

気(ki)には、「元気」や「病気」などの自然界と交流する気(ki)も存在するが、「 エーテル体 」は、「正気」や「狂気」、それに「本気」といった精神状態にも気(ki)が使われるが、これは、自然のエネルギーに対応する「欲」の有無を表現していると考える。



2009/6/28・考えた事。

私は、音楽は耳で聞き、絵画は眼で見る。

私は、意識は、感覚器官の違いだけであり、「 脳 」への「信号」としては、同じ性質だと思っている。

それは、過去、共通感覚として論じられている。



常識・共通感覚(Wikipedia からの引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98

西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの霊魂論に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησιςコイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communisセンスス・コムニス)の概念に由来する。

アリストテレスは五感に共通的なもうひとつの感覚があって、これが、個別の感覚器官に限定されない知覚を可能にしていると考え、これを共通感覚と呼んだ。

具体的には、感覚の間の比較、関係づけ、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。

17世紀までに、西欧においては、Sensus Communisは個体において共通な感覚を意味するものから、個体の間で共通な感覚を意味するものに変質していった。

カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの伝達可能性を支えるものとされている。

(Wikipedia からの引用を終わる)



私は、この共通感覚は、「 周波数と意識 」が対応して、感覚器官の源泉は同じだから、可能だろうと思う。

共通感覚のために感覚器官が存在するのではなく、感覚自体が、一連の周波数の上に成立しているから共通感覚が存在すると考える。

想像や統合は、社会的な行為に対応する「 心 」の行為であり、感覚器官の働きではないと思う。



音楽鑑賞も絵画の鑑賞も、前者は周波数の変化が耳を通過して脳に到着し、後者はカンバスに当たる「光」の周波数の反射が表現する画家の思想の具現物を鑑賞していると考える。

音楽の場合は、「 楽譜 」が音楽家の思想である。

頭脳の中で考えられた周波数の変化を、眼で見る事が可能な音符の配列に変えて、楽器による演奏を可能にしたもので、画家の絵画に対応する物が「 楽譜 」であると思う。

過去の哲学者が、共通感覚の概念で満足し、感覚の先まで論じなかったのは、「 周波数と意識 」の対応について無知だったと考える。

ヒトは、欠けた感覚を違う感覚で補う事が出来ると思うが、感覚から得た意識は、感覚器官の相違に関係なく一定であるから、可能であると思う。

私は、その意識は、現時点では「思想」だと思っている。


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2009年06月28日

2009/6/28・オカルト(統合)周波数と意識

今日は、意識の重なりについて考えてみました。

2009/6/25・考えた事


欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。


欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。



2009/6/28・考えた事

現実世界の送信は、送る側は、「信号」としての意識と、「搬送波」としての無意識を重ねて送り、受け取る側は、「搬送波」を解体して、「信号」を取り出す。

自分が自分へ送信し認識しているのが、「 自意識 」であると考える。

私が生活する「現実の世界」は、私にとっては意識の重なりであり、認識の対象は、エネルギーの重なりであり、ヒトは絶えずエネルギーを変換していると思う。

私が、視覚や聴覚や触覚を持っている事は、自然のエネルギーの重なりを認識する為であると思う。

私は、時空を「時間意識」と「空間意識」と解釈して、それらが「 自意識 」として根底にあるが、他の五感は、自然のエネルギーを感じて、意識に変換する働きをしていると考える。

五感が獲得して意識の総体である霊という無意識の感受性が決定するものが「実体」であり、現実の世界である。

つまり、自然のエネルギーの重なりに対応して、ヒトの意識が重なっていると考える。

一つの肉体に、五感というレーダーを持っているのだと思う。

感覚器官というのは、「 周波数 」を意識に変換する機能である。

自然のエネルギーとは、「 周波数 」であり、その他に気(ki)があるだろう。


まず「 周波数 」である。

これを視覚や聴覚という感覚器官で意識に変換するのだと思う。

「 周波数の比較 」を見れば、感覚が周波数により成立する事を認識する事が出来る。


周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83


テレビもラジオも音楽も、光も、私は、現実世界で経験する事が出来る。

それは、現実世界が「 周波数 」というエネルギーの重なりであり、私の頭脳は、その周波数を意識に変換しているのだ。

脳は、周波数から意識へ変換する物理的物質である。

アインシュタインがノーベル賞を受賞した理論は、光を当てると物質から電子が飛び出すが、「 脳 」という物質に「 光 」のエネルギーが衝突して「 意識 」が発生しても不思議とは言えない。

第一、眼から入った光のエネルギーが、エネルギー保存の原則で、何かの形態に変化していると考えるのが自然だろう。

視覚や聴覚も、生物という体内の仕組みにより解明する事が正しいと思うが、私は、「 周波数 」の変換により、エネルギー保存や周波数の「経路和」の考えを採用した方が良いと思う。

そして、「 脳 」は、「 周波数から意識へ変換する層の「重なり」である。

「 脳 」は、宇宙空間の電離層のように、知覚する周波数の層の重層構造になっていると思う。

「脳」の「電離層」は、大脳皮質の連合野であると考える。

周波数が突き抜けたり、反射したする働きを「 脳 」がしている形態が、光景を見たり、音楽を聴いたりする状態であると思う。




もう一つは、気(ki)である。

これは周波数を物理的基礎としながら、体内と外部を通過するエネルギーであり、「 周波数 」が意識の領域ならば、気(ki)は無意識の領域で、精神的な「感覚の質」という「意識」の物理的な基礎であると思う。

これは、前述したように、無意識の働きであり、現実世界を「実体」として無意識が決定するが、空気を抜けば真空があるように、現実世界に、電磁波を伝達する「 エーテル体 」のように、存在すると考える。

気(ki)には、「元気」や「病気」などの自然界と交流する気(ki)も存在するが、「 エーテル体 」は、「正気」や「狂気」、それに「本気」といった精神状態にも気(ki)が使われるが、これは、自然のエネルギーに対応する「欲」の有無を表現していると考える。

地球の引力が及ぶ所まで、大気が存在するように存在するのが「 本気(honki) 」であり、欲望の限界であると考える。

本気が存在する限り、「欲」は存在するのだと思う。

無重力の宇宙船に長時間、滞在すれば、骨格に障害が出るように、気(ki)が消滅すれば、ヒトは「欲」を支える「人格」に障害が起こるかも知れない。

例えば、極度の「 依存症 」など。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年06月27日

2009/6/27・オカルト(統合)敵は今、欲は人格の引力である

2009/6/25・考えた事

(私は、欲望は自分が作る観念で、先祖代々のDNA や血統や肉体的、精神的なコンプレックスから生じると思います。その観念が「今」存在して、自分を取り囲む存在の関係を、必然的、任意的、恣意的に、変える為の意思のエネルギーになっていると思います。何事も衝突しなければ、存在は認知しないのです。エネルギーが私の中心に向かっているから、自分の気(ki)と衝突してエネルギーを知るのだと思います)

(私は、欲望は現実の延長であり、実現する事を目的とした観念であり、実現しないのは「夢」だと思います)

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)


あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。

(これは、気(ki)というエネルギーを、宇宙空間を満たすエーテル体と考えて、物体を「好きだ」と思った瞬間に「引力」のように引き付け合うと考えました)

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

(欲望により獲得する物は、現実の物体であり、情(zyou)という「情報」なのです。得た物の全体が「 心 」であり、阿頼耶識(arayasiki)です。DNA です。)

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

(獲得した経路は、意識の経路であり、虚時間を使って「総和」を求める事が可能でしょう。私は、その意識の経路を、フィラメント構造だと考えています。コイルでも同じです。獲得する経過は、末那識(manasiki)の働きだと思います)

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

(繰り返しますが、私は、この「人格」とは、先祖代々の、血統による肉体的、精神的なコンプレックスであると思います。これらは、科学により深く解明される事を願います)

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。



2009/6/27・考えた事。



欲は人格の引力である

私は、前述した、フィラメント構造やコイルが「 人格 」であると思います。

それは、電気を流すコイルではなく、意識と無意識を含むDNA の管を流れる磁場で、磁場である以上、磁石のように同じ性質の物を引き付けるでしょう。

肉体的、精神的なコンプレックスや、先祖の嗜好や趣味の遺伝子が「 信号 」として流れるかも知れません。

それは、精神的な力であり、先祖代々からの意識が、物質ではなく、「引力」という形態で具現化したものだと思います。

これは、必然的な力でありますが、「精神の力」でありますから、社会的な教育、情報により、変化させる事が出来ると思います。

変化させるためには、自分の根底まで「性」も含んで、コンプレックスを発見すると同時に、気(ki)として、外部の社会と交流させる事(例えば、精神分析を受けるとか、精神科の専門員に指導を仰ぐ等の方法)で、「 人格の引力圏 」から脱出する事が必要だと思います。

信仰するならば、自分に正直になって、僧侶や神父に相談する方法もあるでしょう。

欲望は、自分が作る物だと思います。

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)

この「好き」という状態の中に自分を置けば、引力圏から脱出する事は出来ません。

「好き」という状態から、肉体に強制的にでも引き離す事が必要であると思います。

その後、薬物治療すれば、克服する事が出来るかもしれない。

ニコチン中毒やアルコール中毒などの「 依存症 」を克服する過程が、欲望をコントロールする事に参考になると思います。


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2009年06月25日

2009/6/25・オカルトの収束(統合)敵は今、欲望 2

今朝の記事を、Yahoo USA が掲載してくれました。

Yahoo USA 「オカルトの収束 統合 敵は今、欲望」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmpqQUNK9qgAsaql87UF?p=%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8F%8E%E6%9D%9F%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%90%88%E3%80%80%E6%95%B5%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%80%81%E6%AC%B2%E6%9C%9B&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

そこで、少し補足したいと思います。


2009/6/25・考えた事。


欲望を、「今」という任意の時間内に、同時に存在する事を期待する意識だと考えます。

欲望は、私が求めるから生じるのだと思います。

私の中心から発した意識が対象物を探し、発見した対象物から私の中心へと向かうベクトルであり気(ki)というエネルギーが欲望であるかも知れません。

(私は、欲望は自分が作る観念で、先祖代々のDNA や血統や肉体的、精神的なコンプレックスから生じると思います。その観念が「今」存在して、自分を取り囲む存在の関係を、必然的、任意的、恣意的に、変える為の意思のエネルギーになっていると思います。何事も衝突しなければ、存在は認知しないのです。エネルギーが私の中心に向かっているから、自分の気(ki)と衝突してエネルギーを知るのだと思います)

まだ来ない未来の出来事を想像する時間的な欲望や私の任意の時刻に同時に存在を期待する空間的な欲望もあるでしょう。

時間的や空間的に実現が困難である時、欲望はエネルギーを「熱」として、現実生活の中での実現を求めるでしょう。

(私は、欲望は現実の延長であり、実現する事を目的とした観念であり、実現しないのは「夢」だと思います)

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)

私は、精神で考える事が可能な物や身体図形から想像する物は、欲望の対象物となると思います。

私は、ここで、欲望の対象物を、認識が可能な意識の領域の「因果関係」や「物語」などの情(zyou)が具現化した物や、自分のエネルギーである気(ki)を増大させる物などの、「好き」な物体と現実的な物体に限定します。

(現実生活の延長に欲望という観念があると思います。現実から離れた場合は「夢」です。)


欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。

(ここで、「意識や精神の時空」と「本能の時空」が重なる事により、強いエネルギーを発する事が可能になります。外部からの強いエネルギーと衝突する事は、内部のエネルギーを強めると思います。それは、試しに本能に逆らうと理解が早いと思います)


簡単に取得可能な距離の欲望の対象と、取得が困難な遠い距離の欲望を、同時に私が感じる時、私の中心に与える衝撃は、欲望の対象物と自分との距離が大きく、取得が困難な遠い距離の欲望であるほど強いから、私との距離の大きさに対応して、私の欲望は強いと考えます。

(例えば、隕石など、遠い距離から来た物体は、衝突した時、大きな衝撃を与えます。)

取得が困難な場合は、無意識は「熱情」として発散し、意識も消滅するかも知れません。

欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。


離れた対象物からの意識(光)が、近くの対象物と同時に、私に衝突する事は、離れた対象物からの意識(光)のエネルギーが、近くの対象物からの意識より強いという事です。

(意識の速さが一定だから、近くの物体と遠くの物体が同時に衝突する場合、遠くの物体のエネルギーは大きいと思います)

それは、「派生する物」としては、意識の「信号」に無意識の周波数を「搬送波」として重ねる事で可能になり、「流れる物」としては、私の中心と強い欲望の対象物と直結した神経回路を作ると、「今」の瞬間に強い欲望を得る事が出来ると思います。

(これは、地上から電波を発して、電離層での反射を利用して通信する手段から考えた事です。人体の中では、意識が電磁波であり、電離層は大脳皮質の連合野であると考えています)

あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。

(これは、気(ki)というエネルギーを、宇宙空間を満たすエーテル体と考えて、物体を「好きだ」と思った瞬間に「引力」のように引き付け合うと考えました)

この重なった形態が習慣化する事により、私の中心との結びつきが強固になり、「派生する物」としては、定在波として安定し、「流れる物」としては、閉じた神経回路として安定すると思います。

(これは、全てが安定を目指し、意識は周囲の気(ki)を集めて意識の束を作り、ボーアの量子条件のように定在波となって、安定すると考えました)

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

(欲望により獲得する物は、現実の物体であり、情(zyou)という「情報」なのです。得た物の全体が「 心 」であり、阿頼耶識(arayasiki)です。DNA です。)

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

(獲得した経路は、意識の経路であり、虚時間を使って「総和」を求める事が可能でしょう。私は、その意識の経路を、フィラメント構造だと考えています。コイルでも同じです。獲得する経過は、末那識(manasiki)の働きだと思います)

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

(繰り返しますが、私は、この「人格」とは、先祖代々の、血統による肉体的、精神的なコンプレックスであると思います。これらは、科学により深く解明される事を願います)

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。

欲望が、安定した定在波の周波数の相違、安定した神経回路のエネルギーの相違となった時が、仏教の「 六道 」であると思います。


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2009/6/25・オカルトの収束(統合)敵は今、欲望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

これは、フィクションであり、私の想像であり、根拠は全く無いのですが、現時点で考えた事を書きます。


2009/6/21・考えた事

無意識は、意識の下の深層心理であるという考えが一般的ですが、私は、意識の下に氷山のように存在するのではなく、現実生活で、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない気(ki)と言う形態で存在していると思います。

無意識は、気付かないという事で、外部への「無知」と、内面への「無明」とは同じ水準で、現実生活の中に存在すると思います。

「無知」と「無明」の中の気(ki)は、意識に採用する形式が違うのかも知れません。

前者は、社会的な知識の獲得により意識されるし、後者は個人の性格やDNAの反応やオカルト的には「霊」により意識されるでしょう。

「本能」は、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、「無知」や「無明」の中の気(ki)を、意識の方向を決めるベクトルという「 力線 」として採用しますが、気(ki)は、社会的な存在として現実生活に存在し、実体として存在すると考えます。

2009/6/24・考えた事

前者は「 意識 」の世界であり、後者は「 無意識 」の世界であるが、前者が反応する「 周波数 」と、後者が反応する「 周波数 」は相違し、後者の「 周波数 」は、前者の感覚器官では把握する事が出来ない「 周波数 」であり、存在するが意識に入らないという形態で「 無意識 」なのだと思う。

無意識は、「無知」の次元と、「無明」の次元がある事は前述した。

意識と無意識を分けるのは、存在の有無ではなく、存在に反応する意識の周波数の違いであると思う。

細胞のDNAやRNAにより電気が人体の中に生じると思うが、頭脳の電気と心臓の電気は違うかも知れない。



もう一つ、私が思う事は、この両者は周波数が違う「意識」であるが、「意識」は精神による初めと終わりがある状態であるのに反し、「無意識」には、初めと終わりが無い、あるいは常に流れていて、初めも終わりも無い状態である。

前者が「始めた時」、後者は「終わりの時」かも知れない。



2009/6/25・考えた事。


欲望を、「今」という任意の時間内に、同時に存在する事を期待する意識だと考えます。

欲望は、私が求めるから生じるのだと思います。

私の中心から発した意識が対象物を探し、発見した対象物から私の中心へと向かうベクトルであり気(ki)というエネルギーが欲望であるかも知れません。

まだ来ない未来の出来事を想像する時間的な欲望や私の任意の時刻に同時に存在を期待する空間的な欲望もあるでしょう。

時間的や空間的に実現が困難である時、欲望はエネルギーを「熱」として、現実生活の中での実現を求めるでしょう。

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

私は、精神で考える事が可能な物や身体図形から想像する物は、欲望の対象物となると思います。

私は、ここで、欲望の対象物を、認識が可能な意識の領域の「因果関係」や「物語」などの情(zyou)が具現化した物や、自分のエネルギーである気(ki)を増大させる物などの、「好き」な物体と現実的な物体に限定します。

欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。

簡単に取得可能な距離の欲望の対象と、取得が困難な遠い距離の欲望を、同時に私が感じる時、私の中心に与える衝撃は、欲望の対象物と自分との距離が大きく、取得が困難な遠い距離の欲望であるほど強いから、私との距離の大きさに対応して、私の欲望は強いと考えます。

取得が困難な場合は、無意識は「熱情」として発散し、意識も消滅するかも知れません。

欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。


離れた対象物からの意識(光)が、近くの対象物と同時に、私に衝突する事は、離れた対象物からの意識(光)のエネルギーが、近くの対象物からの意識より強いという事です。

それは、「派生する物」としては、意識の「信号」に無意識の周波数を「搬送波」として重ねる事で可能になり、「流れる物」としては、私の中心と強い欲望の対象物と直結した神経回路を作ると、「今」の瞬間に強い欲望を得る事が出来ると思います。

あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。


この重なった形態が習慣化する事により、私の中心との結びつきが強固になり、「派生する物」としては、定在波として安定し、「流れる物」としては、閉じた神経回路として安定すると思います。

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。

欲望が、安定した定在波の周波数の相違、安定した神経回路のエネルギーの相違となった時が、仏教の「 六道 」であると思います。


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2009年06月24日

2009/6/24・オカルトの収束(統合)二つの時空と電磁波

私は、「ビッグ・バン」理論ではなくて、プラズマ宇宙論を採用している。

私は、人体にも電磁気の作用があると考える。

昔の何かの偶然で、電気を帯びてDNAやRNAが発生して、それを持つ生物の「主観的時間」や「生存リズム」を作るという物語は、以前、書いた。

私は、人類の誕生は、何かの電磁波の作用で「脳」が出来て、大脳皮質の「時間意識」や「空間意識」と脳幹の生命維持の本能や身体図式ができたのだろうと想像する。

そこで、「精神」の時空と「本能」の時空という二つの時空と電気を考えた。

二つの時空とは、いわゆる「心脳問題」である。

私の考えでは、「 脳 」は、精神や意識の時空で、「 心 」とは、本能の時空である。

@
前者には、「 脳波 」という電気があり、大脳皮質の電気的信号があり、後者には、「心電図」で測られる電気的な刺激が存在する。

A
「意識は電磁波である」
「意識は一定の速度である」
「霊は意識の総和である」
「意識の定在波は、六道である」
「認識は、霊界で行われる。霊界は電離層であり、頭脳では、大脳の連合野である」

この「意識」は、信号として使われ、視覚や聴覚や触覚など、いずれの感覚器官によって得られた意識であるかを問わない。

眼という感覚が獲得する光景と耳という感覚が獲得する音楽も、「信号」としては同等である。



B
前者は「 意識 」の世界であり、後者は「 無意識 」の世界であるが、前者が反応する「 周波数 」と、後者が反応する「 周波数 」は相違し、後者の「 周波数 」は、前者の感覚器官では把握する事が出来ない「 周波数 」であり、存在するが意識に入らないという形態で「 無意識 」なのだと思う。

無意識は、「無知」の次元と、「無明」の次元がある事は前述した。

意識と無意識を分けるのは、存在の有無ではなく、存在に反応する意識の周波数の違いであると思う。

細胞のDNAやRNAにより電気が人体の中に生じると思うが、頭脳の電気と心臓の電気は違うかも知れない。

後日、欲望について書く時、「信号」と「搬送波」の違いとして現われるだろう。

「反応する」とは、「感受性」という機能を持っている事であると考える。


C
もう一つ、私が思う事は、この両者は周波数が違う「意識」であるが、「意識」は精神による初めと終わりがある状態であるのに反し、「無意識」には、初めと終わりが無い、あるいは常に流れていて、初めも終わりも無い状態である。

前者が「始めた時」、後者は「終わりの時」かも知れない。

両者に「 任意性 」や「 恣意性 」は存在するが、初めと終わりを区切るのは「精神」であり、初めと終わりを決定するのは「本能」である。

電気を区切るから電磁波が生じ、電磁波は作用を終えると消滅する。

始まった瞬間に終わっている。

これが、生きている間の新陳代謝であり、人生での生と死かも知れない。

絶え間ない生の連続でもあり、絶え間ない死の連続でもある。


現時点で考えているのは、以上であるが、後日、「欲望」について書くが、その時に、二つの時空の相互関係を書く予定である。


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2009年06月23日

2009/6/23・オカルトの収束(統合)目標

ブログの終わりではありませんが、一旦、考えを収束させます。

Yahoo USA は、昨日まで、私の記事を掲載してくれました。

大変、感謝していますが、私の話はフィクションであり、私の夢であり、Yahoo USA のサーバーを汚す記事ではないかと心配しています。

これからも、フィクションを書きます。

それが、掲載に適当か不適当かの判断は、Yahoo USA に任せます。

Yahoo USA に掲載された記事

2009/6/1・オカルトの展開・生命の起源

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjfMfz9KvAEAVNGl87UF?p=2009%2F6%2F1+%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%80%80%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


2009/6/22 オカルトの展開 二つの時空 現時点の要約

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjfMfz9KvAEAVNGl87UF?p=2009%2F6%2F22+%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%80%80%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%80%80%E7%8F%BE%E6%99%82%E7%82%B9%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%B4%84&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

この二つの記事を統合するのが、私の目標です。

私のブログが、自らの矛盾で消滅するのか、あるいは更に迷い、これまでの路線と違う考えに到着するのかは不明です。

ただ、今まで書いた記事を、一旦、収束させて、ブログの方向を探したいと思います。

私は、プラズマ宇宙論を原理として、電磁気が宇宙から私の身体や意識まで浸透しているという考えです。

何の根拠もないフィクションであり、科学的ではありませんから、知識を求める人は、私の記事を見ない方が良いと思います。



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2009年06月22日

2009/6/22・オカルトの展開(二つの時空)現時点の要約

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


一方は精神の時空、他方は本能の時空。

前者は、精神の世界、意識の世界であり、これまで私が考えた事、即ち、意識は電磁波であり、意識の定在波は六道であり、意識は一定の速度を持ち、電離層は霊界であり(この電離層は、大脳皮質の連合野である)、霊は意識の総和である。

それは、大脳皮質の働きであると思う。


後者は、無意識の世界で、意識の根底にあるが、現実生活に具現化しており、「無知」は、知識の欠如として、「無明」は霊性の欠如として、現実生活に存在すると思う。

それは、「脳幹」の働きであると思う。


前者は、過去を想起し、未来を空想するが、その内容は後者が決定する。

内容は、後者を構成する感覚から得た人体外部からの気(ki)であったり、霊性が感じる生物への情(zyou)であったりする。

気(ki)も、情(zyou)も、「今」という現実生活に、「気付かない」という形態で存在し、何時、意識になるのかは、後者の「身体図形」による「任意性」と「恣意性」によるので不安定な存在である。

前者が、虚時間であり思考実験などの抽象的な機能であるのに反し、後者は、実体的で、現実的で、論理的である。

両者とも、地球の自転と共に、常に新たな行動に直結していて、行動する時の、意識の電磁波に応答する、現実の「感受性」として存在する。

両者は、根本的にはDNAやRNAにより、先祖代々の意識や趣味、嗜好などの文化を受け継ぎ、具現化すると共に、自己の細胞を生殖として、自分の文化を未来に送る。



このDNAは実体的で、RNAは、機能的であり、前者は阿頼耶識(arayasiki)に対応し、後者は末那識(manasiki)に対応し、生殖により、両者は、自己組織化、即ち、自分の複製を絶えず作る働きをすると思う。

このDNAとRNAが、私の「時間意識」と「空間意識」の電磁波的な構造を作ってると思う。

そう考えなければ、「時間」と「空間」があり、一方が序列という形式で、後者が配置される図形だとしても、ヒトが死に、そして生まれても同じ「時間意識」や「空間意識」を持つことを説明する事が出来ない。

人類が滅びても「時間」と「空間」があるとしても、人類にとっての時空であると考えると、DNAやRNAが存在するから、「時空」の意識が存在すると考え、それらを創造したのは、阿弥陀仏であり「神」であると考えるから、DNA から考えを出発させながら、「 神は妄想である 」と主張するドーキンスの「 無神論 」には賛成する事が出来ない。



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2009年06月21日

2009/6/21・オカルトの展開(二つの時空)好きと嫌い

無意識と「好き」や「嫌い」について。

無意識は、海面の下の氷山のように意識の奥深くに隠れて存在しないで、意識が無いという形態で、現実生活に具現化していて、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない状態である。

そして、何時、「本能」として、意識されるか不明という不安定な状態である。

「好き」や「嫌い」は、「意識」かも知れませんが、私は、ベクトルという力線、あるいは「 力 」であると思います。

これは、「流れる物」であり、エネルギーであり、意識の感受性で区切った状態が、「好き」や「嫌い」だと思います。

これは、時間意識や空間意識の座標軸であり、この方向が「生命のリズム」であり、「主観的時間」であり、意識の方向を示すと考えます。

無意識は、意識の下の深層心理であるという考えが一般的ですが、私は、意識の下に氷山のように存在するのではなく、現実生活で、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない気(ki)と言う形態で存在していると思います。

無意識は、気付かないという事で、外部への「無知」と、内面への「無明」とは同じ水準で、現実生活の中に存在すると思います。

「無知」と「無明」の中の気(ki)は、意識に採用する形式が違うのかも知れません。

前者は、社会的な知識の獲得により意識されるし、後者は個人の性格やDNAの反応やオカルト的には「霊」により意識されるでしょう。

「本能」は、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、「無知」や「無明」の中の気(ki)を、意識の方向を決めるベクトルという「 力線 」として採用しますが、気(ki)は、社会的な存在として現実生活に存在し、実体として存在すると考えます。


無意識は、意識の内部ではなく、神経刺激物質や「流れる物」として物理学や心理学で解明されるでしょうが、意識の中にベクトルという力として採用された時、「好き」や「嫌い」として、意識の中に採用された時、不明になると思います。

衣服は精神的な物だと思うが、衣服を着た状態が「意識」であり、裸の状態が「無意識」であり、衣服の上から裸を見る事が出来ないように、個人の意識内は不明だと思います。

ブログに意識して書いている事は、意識を外部に表現していると思っても、書かれた内容は、無意識の表現であるかも知れない。

文字の筆跡が個人を特定するように、文字の筆跡は「 心 」の具現化であるかも知れない。

文字の筆跡も衣服を選ぶ趣味も、意識して行為するのではなく「自然に」行為しているもので、私は、無意識の具現化であると思います。

「好き」や「嫌い」は、「 力 」であり、反発し排斥するので、電磁波の作用であると同時に、「重力」として考えると興味があります。

「好き」や「嫌い」が個人的であるように、「重力」も、天体により相違し、非常に極端な場合は、「電磁波」を曲げるように、意識の電磁波も、強烈な「好き」や「嫌い」で曲がる事も考えられます。

このベクトルが、「身体図形」の「本能」の範囲では意欲であり生存には必要であり、その範囲を超えた場合を「欲望」と考えますが、後日、書きます。


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2009年06月20日

2009/6/20・オカルトの展開(二つの時空)意識と無意識の時空 1

私が、「二つの時空」で、表現したいのは、意識と無意識の時空が、プラズマ宇宙論の精神に従って、構成されている事である。

私は、専門家ではないから、無知であり間違った事を書いているのは、許して欲しい。

今まで、数多くの哲学者や科学者が、地球上に現れた。

しかし、ヒトは古代人より進歩しただろうかと疑問に思う。

60歳を目前にした私は、数多くの哲学者や科学者の書物を捨てて、自分で考える事にした。


如来様(nyoraisama)から始まり、「二つの時空」まで書いたが、私の無知な頭脳は頑固で妥協しない。

ここで、少し要約したいと思う。

私は、「ビック・バン」理論ではなくプラズマ宇宙論を採用している。

それに、「ガイア理論」を採用している。

そして、時間や空間は、阿弥陀如来が創造したものと考えている。


これだけでも、私の考えは、異端者の道であるので、真理を求める人は、私のブログから去って欲しい。

私は、専門の知識は無く、すべてフィクションであり、一つの物語として書いている事を承知して欲しい。

私は、意識は電磁波(光)である事から、これまで書いて来た。

時間も空間も、ヒトとは無関係に存在するのが一般的な考えだが、私は、生まれた子供が既に時間や空間を知っている事を不思議だと思った。

それは、時間意識と空間意識がヒトに備わっていて、先祖代々、遺伝子としてDNAに含まれた意識であり、意識が「物質」となったものがDNAであると考えた。

それは、「生命のリズム」であり、「主観的時間」であり、個人に特有の意識であるが、社会や科学の要請による「客観的時間」の定義を受け入れる事により、個人の特殊性を失ったと考える。

私は、個性を考える時、このガリレオの「科学前」の、自分の脈拍で時間を計る時代に戻る必要性があると考えた。

その結果、「時間」と「空間」を「時間意識」と「空間意識」の電磁波的構造に変換し、記憶力や想像力を感受性として過去と未来を区別しないと考えた。

意識と無意識も、数多くの哲学者や科学者の考えではなく、頭脳の中で「層」になっている事は賛成するが、私はそれを「電離層」と考え、その中で認識が成立すると考える。

そして、現実の「今、ここで」、時間意識と空間意識の座標の中で、内なる宇宙と外の宇宙空間が交差し、内なる「意思」が、社会への表現手段を「機能」として、「形態」になって、現れる。

これは、「脳幹」の「身体図式」により、「現象」として現われる事は、ヒトに生まれた宿命であると考える。

これからは、勿論、フィクションであり、オカルト的であるが、意識と無意識の「二つの時空」の関係について書く予定である。


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2009年06月19日

2009/6/19・オカルトの展開(二つの時空)主観性3

私の記事は、人気が無い様子だが、今日は、前半に補足を加える。



それは、人間個人が「脳幹」により「身体図形」を持ち、それによる「 任意性 」や「 恣意性 」であると思う。

(「脳幹」を調べると、「身体図式」は、既に生理的な事実だから、意識は当然、身体の制限に従うものと考える。

「配置された現象」として、あるいは「発生する順序」などは、人間が生まれると同時に持つ「身体」から、「 主観的 」であり、「 任意的 」であり、「 恣意的 」である。

偶然や必然とか自由と必然などの判断は、全てを知った上での判断であり、人間には不可能であると思う)


「今」や「ここ」と言う場合の「 任意性 」や「 恣意性 」であり、「 精神の時空 」を区切る「 本能の時空 」であり、「テリトリー」であり「生存リズム」である。

(私は「精神の時空」を区切るのは、本能の「好き」や「嫌い」であると思う。

エネルギーを区切る事は出来ないから、「好き」や「嫌い」を精神で区切る事は出来ないが、エネルギーの多いか少ないかで、精神を区切る事は可能と思う。

それが、「 恣意性 」や「 任意性 」であり、区切る理由を区切る主体も知らない。

それは、「テリトリー」や「生存のリズム」が「形態」として具現化するのが、区切る転換点であると思う。

転換点とは、テリトリーの「印」であり、自分が再び獲得する事を容易にする「印」で区切るのだと思う。)


人間が使う「今」を光速が及ぶ範囲として限定すると同時に「今」を拡大したとしても、私が「今」という時の「同時性」は私だけに適用される。

(これは、誰が「今」と規定しても、それはその人にとっての「今」であり、誰にも共通であるという所が普遍的かも知れない。

「今」は、物体と物体が衝突する時とすれば、以前、考えたように、時間も空間も、個人的であるから、その瞬間を、「 光 」が到着する範囲まで拡大しても、共有する事は不可能である。

これを定義する事によって、科学が出発すると思うが、この定義自体が、創作の一つである。)


緯度と経度で定義された地球上の時間や場所は、私が「ここ」と言う場合、私にだけに適用される。

(これは、ヒトは絶対に孤立した生き物である事の自覚である。

神の前の単独だけでなく、ヒトの誕生や存在そのものが「単独」である。

だから、ヒトは社会を作るのだと思う。)


それは、「脳幹」が作る「身体図形」による「主観性」であり、頭脳を持つすべての生物に適用されるだろう。

(繰り返すが、ヒトは「身体図式」に制限される。
これは、ヒトだけでなく、他の動物も、同じであると思う)


私は、「精神的な時空」には法律を、「本能的な時空」には道徳を適用して、「罪と罰」の問題を考える。

(「道徳」は「嫌い」でも行為すべき場合があり、「好き」でも行為してはならない場合もある行為基準であるが、「法律」は、反社会的な行為を禁じる、裁判所の判断基準である。

両者を同時に遂行するのが、ヒトであるから、本能の時空としての、好きや嫌いの判断と、精神の時空の、罰される可能性の判断を、同時にしている。

その両者の関連を、後日、オカルト的に書きたいと思っている)


このように、主観性は相違するが、相違を生み出す場所は、同一の場所だろう。

(その場所は、本能の時空は「脳幹」で、精神の時空は「大脳皮質」に存在し、行為の決定は、「大脳皮質」ではなくて、「脳幹」により実行されていると思う。

それは、「身体図式」から、その結果になると思う。)


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2009年06月18日

2009/6/18・オカルトの展開(二つの時空)主観性U

私が、「二つの時空・主観性」を書いても、世界の検索エンジンは反応しません。

そこで、補足する事に決めました。

前半は、私が言う意味を理解する事が出来たと思い、後半について、補足します。




「間主観性」や「感情移入」という言葉で、同一性を持とうとするのは精神的には可能でも、本能的には不可能であると考える。

(これは、私が私の身体から抜け出して貴方と同一になれないから、「間主観性」や「感情移入」と言っても、それは不完全である事を言いました)

これは、「 憲法 」と同じで、相違した民族が団結して憲法を作って、国家を守ろうとしても、本能としての民族の違いにより、分裂する危険は存在する。

(これは、精神的に、言葉で合意しても、利害が対立した場合は、同一の血が流れた民族意識で分裂する危険がある事を言いました)

「 二つの時空 」を一つにする努力を絶え間なく続ける事が必要とされると考える。

(これは、精神的な座標と本能的な座標が重なる部分を多くするように努力しないと、本能が勝ってしまう危険性を言いました)

主観性を発生させる「本能的な時空」が民族であり、これは、同一民族を「精神的に」理解する努力と同じ努力を、違う民族にも実施する事により理解は可能となる。

(これは、同じ血が流れた民族が話すだけで意識を生じる。血が意識を生み、他民族への圧迫か、排除に向かう危険性を言いました)

同一の平面で考えるから「矛盾」するし、本能の時空の矛盾を精神の時空で理解しない方が良いと思う。

(これは、血やDNA の違いにより、時間や空間的を異にする文化は、他方を吸収するか、排除するだろう。前者は、日本神道と仏教であり、後者は、日本文化とキリスト教である。これは、互いの信条を学ぶ事で理解が可能だと考える)

「矛盾」は社会の中ではなく、個人の「二つの時空」の中に存在するかも知れない。

(これは、経済的な平等で、真の平等を達成する事が出来ない。自分の心の本能の座標で、差別する者を許す心を持たないと矛盾や差別は解消しない。矛盾を社会の中に探すより、自分の差別心を探した方が解決も早いと考えた)

個人の欲望は限りないから、個人の矛盾を社会の矛盾にするのは、解決にはならない。

(これは、経済的な貧富による差別や矛盾ならば、社会の矛盾を糾弾する事により解消すると思うが、個人の心の差別心を解消する事は他の方法による)

本能の時空は、広くて強烈であり、精神で収容されると考えない。

(これは、本能を閉じ込める精神の牢屋は存在しないと思う。本能を殺せば、自分も死ぬ事は明白で、気(ki)が生きようとする気持ちを持つならば、どんな方法でも生きるのが人間だと思う。)

「 心 」の願いには、「 心 」で応じた方が良い。

(これは、矛盾や開放を願う人間には、「心」の中に願う理由があると思う。その願いを解消せずに、武器などで圧迫するなどは、許されない)

これは、世界の紛争国の全ての国に適用される事だと思う。

(これは、ミャンマーやチベットを見れば理解する事が出来るだろう。彼らが何を求めているか、権力側は、良く聞く余裕を見せて欲しい)


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2009/6/18・オカルトの展開(二つの時空)主観性

2009/6/6・考えた事

この、本人だけの「 感受性 」は、私の「 主観的時間 」であり、「 私の今 」であり、私が手を合わせている時間のように、本人の私だけが得られる「同時性」である。

このDNA が、世界中の全ての人間が持っているから、「 時間 」としては、「 DNA の数だけ時間が存在する 」結果になり、DNA を持つ動物ならば、全て「 主観的時間 」を持っていると考える。

馬も牛も犬も猫も、「時間」を持っていると解釈する。

それが、「 体内リズム 」であると思う


2009/6/8・考えた事

私は、「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論を支持し、99% が電磁波に関連していると考えている。

人体も例外ではなく、試験管で生命が生まれない理由は、DNA の細胞分裂も生体の電磁波が必要だと考えている。


2009/6/7・考えた事

ヒトは、少なくても二つの座標で、物事を判断している。

遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる私だけの「本能」の座標と、それに重なる社会の「精神」の座標である。



私の「本能」の座標について。

「 時間 」や「 空間 」は、私だけの座標では、私の身体にフィットした、あるいは私の頭脳で変形した「 主観的 」な「時間と空間」である。

「主観的空間意識」とは、私の二つの眼で把握した「空間」である時点で、私だけの「空間」に変形している。

まず、見る範囲として、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる人体により、主観的である。

次に、二つの眼で見るとは、二つの光を受け入れる事であり、眼がレンズであるとすれば、眼底には倒立した像と、二つの光を受け入れる事による奥行きという距離感を生むだろう。

眼底で倒立した像を倒立させ、奥行きという距離感を生むが、網膜に映る光の干渉は主観的であるし、距離感も主観的である。

「主観的時間意識」とは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが作る身体が生存するリズムである。

これは、後述する「時間意識」の他に、自分の生命へのベクトル(力線)を感じる気(ki)を含む所に、「 主観性 」がある。

後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。


2009/6/11・考えた事

2009/6/7の「 本能 」の座標は、「 脳幹 」からの刺激が影響する。

これは、諸学問の成果を待っているが、私のブログでは、当面の「 二つの時空 」を一つは社会の「精神」の座標とし、他方を「 脳幹 」による「 本能 」の座標に含まれる、「 主観的 」について書く。

「主観的」というのは、2009/6/6 ・考えた事である。

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。







2009/6/18・考えた事

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。

それは、人間個人が「脳幹」により「身体図形」を持ち、それによる「 任意性 」や「 恣意性 」であると思う。

「今」や「ここ」と言う場合の「 任意性 」や「 恣意性 」であり、「 精神の時空 」を区切る「 本能の時空 」であり、「テリトリー」であり「生存リズム」である。

人間が使う「今」を光速が及ぶ範囲として限定すると同時に「今」を拡大したとしても、私が「今」という時の「同時性」は私だけに適用される。

緯度と経度で定義された地球上の時間や場所は、私が「ここ」と言う場合、私にだけに適用される。

それは、「脳幹」が作る「身体図形」による「主観性」であり、頭脳を持つすべての生物に適用されるだろう。

私は、「精神的な時空」には法律を、「本能的な時空」には道徳を適用して、「罪と罰」の問題を考える。

このように、主観性は相違するが、相違を生み出す場所は、同一の場所だろう。

「間主観性」や「感情移入」という言葉で、同一性を持とうとするのは精神的には可能でも、本能的には不可能であると考える。

これは、「 憲法 」と同じで、相違した民族が団結して憲法を作って、国家を守ろうとしても、本能としての民族の違いにより、分裂する危険は存在する。

「 二つの時空 」を一つにする努力を絶え間なく続ける事が必要とされると考える。

主観性を発生させる「本能的な時空」が民族であり、これは、同一民族を「精神的に」理解する努力と同じ努力を、違う民族にも実施する事により理解は可能となる。

同一の平面で考えるから「矛盾」するし、本能の時空の矛盾を精神の時空で理解しない方が良いと思う。

「矛盾」は社会の中ではなく、個人の「二つの時空」の中に存在するかも知れない。

個人の欲望は限りないから、個人の矛盾を社会の矛盾にするのは、解決にはならない。

本能の時空は、広くて強烈であり、精神で収容されると考えない。

「 心 」の願いには、「 心 」で応じた方が良い。

これは、世界の紛争国の全ての国に適用される事だと思う。

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2009年06月16日

2009/6/16・オカルトの展開(盲目のピアニスト)

Yahoo USA は、「オカルトの展開(派生する物)」という記事を掲載してくれたが、私の考えは、まだ成熟していない。

私が具体的な事案を出せば、私の考えが未熟である事を理解する事が出来るだろう。



派生する物としての「意識」が、「実体」に依存するのが普通である。

「感覚」を確かめる(自分が自分と確認する自意識を持つ)という事が、夢と現実が相違するのだという考えも同意しますが、私は違う考えを持っている。

「感覚」の中で「視覚」について少し考えた。

物体の色彩を感じるのは、物質が光を反射するからであり、現実生活で命への危険を避けるために、網膜の倒立した像を更に倒立させ、二つの眼から入った光の干渉で自分の身体との距離を計測する。

眼から入った光のエネルギーや頭脳への伝達の過程も伝達物質は判明していない。

これが、「視覚」であり、「 意識の世界 」であれば、私は物質と光に依存した、光に反応する動物であるとも考える。

この物質に依存した生活をする人を「健常者」と呼ぶ。

しかし、先日、米国・バン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝した辻井伸行さん(20歳)の事を考えると、ヒトは、身体への太陽光には影響されるが、光に依存する「視覚」だけで生きているのではないと思う。

辻井さんは全盲であり、鍵盤の配置を身体で感じ、楽譜を見る事もなく身体で旋律を記憶し、ピアノを弾いて、コンクールで優勝した。

全盲でありながら、日本人で初めて優勝した彼の才能と努力は、誉めても誉め足りないくらい、素晴らしいものだと思う。

これは、眼で見なくても、「光」に依存しなくてもピアノを弾く事が出来ると実証したもので、障害を持つ人ばかりでなく、「 健常者 」の私達も、一つの感覚を喪失しても、他の感覚で補填する事が可能であるという「 可能性 」が広がったと考える。

全盲で、国際的なピアノコンクールで優勝するという現実が「 夢 」である。

「感覚」を確かめる(自分が自分と確認する自意識を持つ)という事が、夢と現実が相違するのだという考えに同意するが、「 違う感覚で補填する事が出来る 」という事、「 意識ある現実生活 」を決める「 意識 」は社会で決められた意識でない事を、辻井さんは実証したと考える。


霊界から判断すると、普通の感覚を持つ「健常者」の私たちが「障害者」で、「光」に依存せず、「楽譜」にも依存せず、耳から得た旋律だけでピアノを弾く辻井さんが、「健常者」であるかも知れない。


辻井さんの業績は素晴らしいものだが、それは「障害を持つ人」だけでなく、五体満足な「健常者」の可能性を拡大した、霊界からの使者かも知れない。



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2009年06月14日

2009/6/14・オカルトの展開(派生する物)

私が使う「派生」について、Yahoo USA でもGoogle でも掲載している。

Yahoo USA 「派生 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0wnKjRKl18BbyWl87UF?p=%E6%B4%BE%E7%94%9F%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

私は「流れる物」を「電流」や「神経刺激物」と考え、「電場」を作ると思っている。

「派生する物」とは、「流れる物」を受け継ぎながら、発生する物と考えて「 意識 」であると考えている。

「 意識 」は「電場」が存在しなければ、存在しない点では「電場」に依存するが、「電場」とは違う性質を持つ物と考える。

「 流れる物 」と「 派生する物 」は、実数と虚数や複素数の関係だと思う。

前者が実数であり、後者が複素数である。

前者が、種々の気(ki)を含んで実体と脳に思わせ、後者は、実体は無いと思わせ、実体が無い「 可能性 」を生むものと考えている。

後者が「思考」であり、複素数であり、座標は回転し、時間も虚時間であるだろう。

実際の時間が存在しないと存在しないが、時間という感覚を欠いている時間である。

思考の中では、解決策が時間の長さを計測すれば自然に発生するのではなく、解決策は時間の長短に関係せず、直ちに発生するから、時間の有無が問題である。

それらは、物質的、あるいは形態的には、DNA とRNA だと思う。

前者の形態はストックであり、後者の形態はフローであり、この関係は「 細胞の核 」の所で決定しているかも知れない。

これらを思考する物が「 派生する物 」であり、「 意識 」であり、流れる物質によって、規定する事が出来ない事は、以前も、述べた。

しかも、「 意識 」は、「 脳 」だけでなく、周辺の「 脳幹 」そして、心臓の電気の働きまで考えないと、解明される事は無いだろう。

人間の根幹であり、DNA の問題であり、時空も全てDNA から生じると考えるから、人間の全体を解明しなければ、「 意識 」の解明であるとは思わない。

コンピューターを作れば、違う時空が生じるのであれば、私の考えは間違っている。


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2009年06月13日

2009/6/13・「死中生有り、生中生無し」と政治

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/4/17・考えた事



私は、上杉謙信について、詳しく知りません。
私は、次に掲載するURL を見て考えただけです。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)


直江兼続ー謙信の教えを胸に刻んで
http://www.tentijin.jp/2007/09/post-98.html



上杉謙信が49歳で死去する城の壁に次のような言葉が書いてありましたので、抜粋して引用します。

彼は、これを心意気として、記したものだと思います。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。

「大義名分」という言葉がありますが、「 義 」のために、死の戦場に赴けば、鬼も、神も、その気配に対して、退くと解釈します。

彼らが若い時は、少数の手勢で決死の「奇襲」を行いました。

その時の心意気は、「死中生有り」であるでしょう。

大国の領主になって、生きたいと、「 保身 」の気持ちで戦えば、多数の軍勢で戦っても滅びる。

それが「 生中生無し 」だと解釈します。

現代でも、この精神を持ち、何が「正しい行為」かについては社会の法に従いますが、「 保身 」の気持ちを持って事態を収拾すると「 滅びる 」と解釈した時、事態を判断する「 反対称 」の座標として有用だと思います。




2009/6/20・考えた事。



鳩山総務大臣は、自らの考えを「 正義 」と思って、正義を貫くために辞任したと言う。

ヒトは、「社会」の中の「精神」の「 正義 」に加えて、自分の「 主観的 」な「 正義 」を持ち、その方向が一致する場合もあれば、相違する場合もあると、私は考える。

その考えで、2009/6/12「鳩山総務大臣の辞任の意味」を書いた。

もう一つは、「意思は形態として具現化する」事も、考えた方が良いが、これは次の機会に書く。

今日は、「 死中生有り、生中生無し 」の話題である。

近年、日本の政治家に、尊敬する人は存在しない。

それは、「 義 」の為に死ぬ人や「 義 」の為に行動する人が存在しないのだと思う。

「 正義 」を笑う人も存在するが、「 政治家 」は、「 義 」の為に働く人であると思う。

今、そのヒトが必要であるのに、政治家が「 義 」を持っているか否か、国民には、非常に判別が困難である。



米国では、大統領選挙の前に予備選挙があり、経歴から考えまで、プライバシーまで接触するほど、候補者の情報が公開されると思うが、日本では、選挙の前に、政治家が手を振り、「皆さんの清き一票をお願いします」という宣伝をする。


公民館で政策の発表ではなく、「 激励会 」であり、聞きたいという欲求も起こらない。

後は、選挙民の、金銭目的の利己心で動く「一票」を待つヒトが多い。

テレビの情報も、一方的で、放送料金の無駄遣いである。

国民に、候補者が「 義 」の為に働くのか、あるいは自分の金銭や世襲した「家」の為に働くのかを、明確に判断できるシステムを要求する。

例えば、インターネットを利用した政見放送とか掲示板を使った公約についての話し合いなどだ。

政治家の世襲反対などは、口実であり、政治家の制限も必要だが、「 義 」の為に働くか否かが問題である。


政治家は、日本の「 上杉謙信 」の言葉を勉強して、「 義 」とは何かを知って、実践して欲しい。


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2009年06月12日

2009/6/12・鳩山総務大臣の辞任の意味

2009/6/7・考えた事

@
後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。

A
これは、社会の誰もが、誕生と同時に、ヒトに教えられなくても理解する事が出来るという意味で、直交している座標である。



2009/6/12・考えた事。

今日、鳩山総務大臣が辞任した。

 鳩山邦夫総務相は12日午後、西川善文日本郵政社長の続投は認められないとして首相官邸で麻生太郎首相に辞表を提出した後、首相について「今回の判断は間違っている」と述べた。
また、記者団が自民党を離党するのかと質問したのに対し、「仲間と相談する」と否定しなかった。
(時事通信)

これを、私の考えで解説したい。

@
鳩山邦夫総務大臣は、自民党員であり、「郵政民営化」の路線は、充分、周知の事実だろう。

「社会」の「精神」の座標は、理解する事が可能であるという意味では一致している。

A
西川日本郵政社長の続行が「好き」か「嫌い」か、という「主観的」な座標は、互いに理解する事が出来ないという意味で、鳩山氏の方向が違うのだろう。

これは、判断一般に共通しているので、問題は無いが、政治家としては常に「人の正しい方向である「義」の方向に考えるべきだから、「死中生有り、生中生無し」を考えると、鳩山氏が前者の方向に進んでいるのか、後者の方向に進んでいるのかが問題になる。

それを感じる役目が、「 総理大臣 」の「 役目 」である。

鳩山氏の態度が正しいのか誤っているのかは、歴史が示すと思うが、鳩山氏が「辞任」という「形態」を取って、西川日本郵政社長に「 ボール 」を投げた事は確かである。

今度は、ボールを受けた西川氏の態度が、「 郵政民営化 」が、如何なる「形態」であるかを示すだろう。


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2009年06月11日

2009/6/11・オカルトの展開(二つの時空)作成理由2

2009/6/6・考えた事

この、本人だけの「 感受性 」は、私の「 主観的時間 」であり、「 私の今 」であり、私が手を合わせている時間のように、本人の私だけが得られる「同時性」である。

このDNA が、世界中の全ての人間が持っているから、「 時間 」としては、「 DNA の数だけ時間が存在する 」結果になり、DNA を持つ動物ならば、全て「 主観的時間 」を持っていると考える。

馬も牛も犬も猫も、「時間」を持っていると解釈する。

それが、「 体内リズム 」であると思う


2009/6/8・考えた事

私は、「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論を支持し、99% が電磁波に関連していると考えている。

人体も例外ではなく、試験管で生命が生まれない理由は、DNA の細胞分裂も生体の電磁波が必要だと考えている。


2009/6/7・考えた事

ヒトは、少なくても二つの座標で、物事を判断している。

遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる私だけの「本能」の座標と、それに重なる社会の「精神」の座標である。



私の「本能」の座標について。

「 時間 」や「 空間 」は、私だけの座標では、私の身体にフィットした、あるいは私の頭脳で変形した「 主観的 」な「時間と空間」である。

「主観的空間意識」とは、私の二つの眼で把握した「空間」である時点で、私だけの「空間」に変形している。

まず、見る範囲として、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる人体により、主観的である。

次に、二つの眼で見るとは、二つの光を受け入れる事であり、眼がレンズであるとすれば、眼底には倒立した像と、二つの光を受け入れる事による奥行きという距離感を生むだろう。

眼底で倒立した像を倒立させ、奥行きという距離感を生むが、網膜に映る光の干渉は主観的であるし、距離感も主観的である。

「主観的時間意識」とは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが作る身体が生存するリズムである。

これは、後述する「時間意識」の他に、自分の生命へのベクトル(力線)を感じる気(ki)を含む所に、「 主観性 」がある。

後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。


2009/6/11・考えた事

2009/6/7の「 本能 」の座標は、「 脳幹 」からの刺激が影響する。

これは、諸学問の成果を待っているが、私のブログでは、当面の「 二つの時空 」を一つは社会の「精神」の座標とし、他方を「 脳幹 」による「 本能 」の座標に含まれる、「 主観的 」について書く。

「主観的」というのは、2009/6/6 ・考えた事である。

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。

また、後日、書く事にする。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年06月10日

2009/6/10・オカルトの展開(二つの時空)脳幹

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



ネットで、「脳幹」を発見した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E5%B9%B9

脳幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

構成要素

広義では間脳および下位脳幹、狭義では下位脳幹と同じ意味で用いられる。

脳幹(のうかん、英 brain stem)は、中枢神経系を構成する器官集合体の一つ。

延髄と橋、中脳と間脳を合わせて脳幹と呼ぶ。

狭義の「脳幹」では間脳すなわち視床および視床下部を除外するが、この意味をより明確に表すため下位脳幹 lower brainstem という用語が用いられる。

また、脳幹・(間脳)・小脳・大脳を合わせて脳と呼ぶ。

脳幹の機能

脳幹は多種多様な神経核から構成されており、その機能も当然ながら多様であり、この小さな部分に多数の生命維持機能を含む。

1. 多数の脳神経が出入りし、多数の神経核が存在する。
2. 自律神経機能中枢が存在する。
3. 意識と覚醒に重要な神経回路があるとされる。網様体の項を参照。
4. 脊髄から視床へ上行する感覚神経路が存在する。
5. 上位中枢から脊髄に下降する運動神経路が存在する
6. 姿勢反射の中枢である。

網様体(Wikipedia から引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E6%A7%98%E4%BD%93

網様体は主に迷走神経を介して呼吸・心拍数・血圧を調節する中枢である。

この機能は生命維持に不可欠なので、網様体が傷つくことは直ちに命に関わる。

脳幹が生命維持の中枢と言われる理由の多くは、脳幹の全体に広がる網様体が負っている。

網様体は視床を介して覚醒と睡眠の調節にも深く関わっている。

痛みで目が覚めるなどの反応は、痛覚線維から伝わった刺激が網様体に入り、網様体の活動を促して意識や運動機能を活発にすると説明される。

この様子は脳波の測定により観察できるが、詳しい機序には不明な部分も多い。


(Wikipedia からの引用を終わる)



私の「 本能 」の時空は、この脳幹からの刺激による「 無意識 」の領域かも知れない。

「主観性」が身体や呼吸による気(ki)の取り入れなどが、「 脳幹 」に関係するから、私の考えも、この生物的な時空の一つであると思う。

私は、この領域を、生物学や物理学などの学問により、解明されるのを待っている。

私の考えは、また後日、書きます。


Every miller draws water to his own mill.
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