2009年07月28日

2009/7/28・オカルト(整理)二つの時空から二本足の考えB

私の「 二本足の考え 」は、私の独自の考えの上で構築しており、知識ではありませんので、賛同を求めません。

以下は、私の独自の考えです。

2009/7/2・考えた事

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

……(省略)……

意識と無意識に関しては、意識しか存在しないと主張する人が正しいかも知れないが、私は、「二つの軸」として、考えます。

……(省略)……

意識の時空と、無意識の時空を一つだと考えると、現実世界に、意識と無意識が混在しているという結果になります。

混在する物で、一方が情(zyou)という「物語」であり、他方は気(ki)というエネルギーとして、次元は違っても、混在すると思います。

……(省略)……

そして、人間の行動を決定するのは、「意識」ではなく、「無意識」であり、「 人格 」であると思います。

私は、「欲」は、「人格」の引力と考えますから、人間は全て、欲で動くと思います。

無意識に、「欲」を持って行動しますから、「人格」を「霊」へ向上させる事が必要だと思います。



2009/7/28・考えた事

私は、意識の下に潜在的に無意識があるとは考えないで、同時に存在し、前者は情(zyou)という「物語」を人から人へ伝え、人は、その伝えられた情(zyou)の「物語」を自分の無意識で実体を決定する。

あるいは、無意識に獲得した実体の中から、「物語」を抽出して他人に伝える。

意識の拡大は、無意識の縮小ではなく、無意識の拡大を導く。

情(zyou)という「物語」を伝達するが、実体は受け取る人が自分の無意識で決定し、その無意識は、人格の引力である「欲」である。

「欲」で人間は行動を決定し、意識は道具である。

以上の過程は、「 二つの眼 」により獲得された、遠近の上で成立する。

この考えは、私の独自の考えであり、何の根拠も無い。

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2009年07月27日

2009/7/27・オカルト(整理)二つの時空から二本足の考えA

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
生物の話をするが、生物の知識は持っていない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

二つの時空が、中心を持ち、「ラグビー・ボール」のように立体的な楕円形という形態を採用することは、「 独り言 6 」で書きました。

「独り言 6」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/cat_326500-1.html

私の考えも、これで終わりだろうと思っていましたが、60歳の「 還暦 」を目前にして、これまでの考えを覆す考えを持ちました。

これまでの考えを「水泡に帰す」かも知れない考えは、「 二つの眼 」からヒントを得ました。

キリストも仏陀も、二つの眼で世界を見ただろうし、意識と無意識も持っていただろうし、時間と空間も考えたと思います。

けれども、これまで人類史上の誰が、それらの問題を解決したでしょう。


時間や空間は、カントが考え、意識と無意識は哲学者が考えました。

「存在と時間」で何が解決したのでしょう。

時間ですか? 存在ですか?

私から見れば、ニュートンの考えた時間を「持続」と称して、先祖代々、伝えているとしか考えられません。

地球や太陽などの天体の運動や、エーテル体を媒介にしての引力は、人類、いや、私が生まれた前は存在していたと思うが、私が「時間」や「空間」というのは、私にとっての「時間」や「空間」であり、それは「時間意識」や「空間意識」として、私だけが持っている。

世界中の人類は全て、生まれたばかりの赤ちゃんを含めて「時間」や「空間」を既に知っていて、説明は必要では無いのは、何故か?

「二つの眼」を人類が持つ理由と、その効果については哲学者は、疑いもしなかったと思います。

皆、当たり前の事。 常識です。

しかし、それを疑うのが哲学だと思います。

私の考え

私が、これまでの考えを覆すというのは、意識の時空の中心がRNA で、無意識や「 心 」や、本能の時空の中心が、DNA だと思うからです。

RNAワールドという仮説が存在します。

これは、RNAが、生命の発生時に、RNA が遺伝情報の維持(現在のDNAの役割)と、酵素のような生化学的触媒の両方を持っていたという仮説です。

私は、生物の全てを差別するが、平等な物質として、DNAとRNAを考えています。

そして、意識の時空の中心がRNA で、無意識や「 心 」や、本能の時空の中心が、DNA だと思うからです。

DNAとRNAを、阿弥陀如来の形態化として考えます。

「時間」と「空間」を創ったのは、それらを超越する阿弥陀仏だから、「時間意識」も「空間意識」も阿弥陀如来からの生物への「 贈り物 」です。

阿弥陀仏は「創造主」と置き換えても同じです。

それは、ミクロの世界では、細胞ですが、大きく考えると、地球も楕円形していますから、地球の全部の生物の中心が、二つあり、意識の時空の中心がRNA で、無意識や「 心 」や、本能の時空の中心が、DNA であり、それらは、北極と南極のような働きをしているかも知れません。

生命の当初は、RNAワールドであったのは、人間の眼も、当初は一つだったかも知れない。

頭脳が二つに別れる事により、一つの眼が左右の頭脳に一つずつ発生し合計三個になり、当初の一つの目は、「松果体」であるかも知れない。

人体に二対の器官があるのは、脳が左右の二つの脳があるからかも知れないと考えています。

このDNAとRNAを考えながら、キリストや仏陀の事を考える必要があると思います。


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2009年07月23日

2009/7/23・衆議院解散 A

2009/7/21

最近、閣僚の一人が、「自由民主党は戦艦大和だ。私はその乗務員であり、命運を共にする」と、TVの取材に言った人がいる。

その人は、防衛省にも関与し、「麻生おろし」の署名をした人であるが、私は、これについて少し違った考えを持っている。

2009/7/23・私の考え

先日は、私の考えが明確ではなかったので、再び、書く事にします。

私は、「自由民主党」を「戦艦大和」であると考えるのは自由ですが、「 国民は何処に行ったか? 」を、お尋ねしたい。

国民不在の考えの中で、「戦艦大和」の行く道は、自分の政策集団の行方、あるいは自分が議員に再選出されるかという「 自己保身 」の道であると思います。

「 国民の為 」とは「 義 」の為であるから、「戦艦大和」を出撃させる前に、「 義 」の方向を考えた方が良いと思います。

それは、世襲議員の廃止であり、地方分権の拡充であり、国会議員の削減であります。

自分たちの権限を縮小したり、自分たちのメンバーを削減する中に、自分の生きる道がある。

これが、「 死中生有り 」だと思います。


野党に勝ちたいならば、「戦艦大和」の形態を変えるとか、乗組員の政治家を変えるとか、地方分権の言葉をマニフェストに書いた方が良いと思います。

「戦艦大和」の行く道が「 義 」の道ではなく、乗組員の政治家の意識が、「 義 」の心である場合に、正しいのだと思います。

もっと、良い「 政治哲学 」を持ちなさい。



このまま、「戦艦大和」に乗って進む事は、「 自己保身 」であり、国会に戻る事は、困難かも知れません。

それが、「 生中生無し 」です。

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2009年07月21日

2009/7/21・衆議院解散

これが、今日の、私のブログへのアクセス状況です。

1 /m24658/pages/user/m/article  
2 2009/6/13・「死中生有り、生中生無し」と..  
3 /m24658/pages/user/m/comments/regist/inp..  
4 /m24658/pages/user/m/comments/regist/lis..
5 RSS  
6 トップページ  
7 /m24658/pages/user/m/tb/regist/input  
8 2009/5/6・ゴーギャン展(名古屋ボストン美..

今日は2009年7月21日ですから、私の過去の記事が読まれている事を知りました。

2位の2009/6/13「死中生有り 生中生無し」は、Yahoo USA も掲載しました。

Yahoo USA 「死中生有り 生中生無し m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkksYh2VKEm8BK0FXNyoA?p=%E6%AD%BB%E4%B8%AD%E7%94%9F%E6%9C%89%E3%82%8A%E3%80%80%E7%94%9F%E4%B8%AD%E7%94%9F%E7%84%A1%E3%81%97%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1


今日は、衆議院が解散され、選挙運動が始まり8月30日が投票日です。

最近、閣僚の一人が、「自由民主党は戦艦大和だ。私はその乗務員であり、命運を共にする」と、TVの取材に言った人がいる。

その人は、防衛省にも関与し、「麻生おろし」の署名をした人であるが、私は、これについて少し違った考えを持っている。

戦艦大和の乗務員は、「 義 」の為に戦艦大和を出撃させたのか?

戦艦大和は、戦艦としては立派な陣容を持っていて、優れた戦艦だと思うが、時流に乗っていない。

戦法は時と共に変化し、空母の艦載機による爆撃が攻撃の主流だった。

沈む事が確実な戦艦大和を出撃させたのは、「 義 」だろうか?

「 義 」ではなく、乗組員の集団自決に使ったような感じがする。

出撃するのは、「 死中生有り 」ではない、「 生中生無し 」の態度だと思う。

燃料の片道しか積まず、沈没する覚悟の戦艦大和の出撃は「死中生有り」ではない。

それは、「 義 」のための戦法ではないからだ。

私がその当時、生まれていたならば、「その道」しか無いと思っただろうし、「最後の一兵まで戦う」のが日本人であるなら、私も賛成したかも知れない。

しかし、降伏して初めて開く門もある。

日本の民主主義は、その終戦から始まった。

「 義 」とは、戦いを止めて降伏する事だったかも知れない。


自由民主党という戦艦大和は、乗務員を選抜し、戦いに勝つ、空母やイージス艦と、その目的に合う乗務員の集まりに造り変えるのか良いかも知れない。


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2009年07月20日

2009/7/20・オカルト(整理)気(ki)と情(zyou)と霊とエーテル体

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、知識や学問として、認識論を書いていません。

知識を求める人は、他のブログを見てください。

さて、これまでの私の記事で、Yahoo USA の掲載に多くの迷惑をかけている事を知り、私の言葉に少しの解説をしたいと思います。

それは、気(ki)と情(zyou)と霊とエーテル体です。

Yahoo USA 「気(ki) m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjo0g2FKz88Ahg6l87UF?p=%E6%B0%97%28ki%29m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA 「情(zyou) m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmvWg2FK51oBtE5XNyoA?p=%E6%83%85%28zyou%29%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sb-top&sao=1

Yahoo USA 「霊 m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk9wZm2FKRRYBi6el87UF?p=%E9%9C%8A%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA 「DNA m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkx4gtGFKcz0ApA.l87UF?p=DNA+m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA 「エーテル体 m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0nOtGFK9EMAFD2l87UF?p=%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%86%E3%83%AB%E4%BD%93%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

このように、Yahoo USA は、私の言葉を積分的に、あるいは総和で、分析していると思います。

しかし、私の考えは「任意」で「恣意的」で、過去の記事から常に変化しています。

私が、現時点で考えている内容を書きますので、違った内容になるかも知れません。

私の考えは、単純です。

@
気(ki)は、「場におけるエネルギー」と考えています。
地球を囲む大気(taiki)は、地球という場で、生命維持には不可欠な空気(kuuki)であり、人体は肺だけでなく皮膚の毛穴からも呼吸し、それを統御するのは「脳幹」という「本能の時空」で「無意識の時空」です。

磁気(ziki)は、磁場という空間が持つエネルギーだろうし、電気(denki)は、電場という空間が持つエネルギーです。

磁場を「時間」、電場を「空間」という背景を考えて、創ったのは阿弥陀如来か神かも知れませんが、自動車や飛行機などに乗り、時計を見て時速を知り、場所を探すのは、無意識の気(ki)を感受性によって意識にした「時間意識」という気(ki)と「空間意識」という気(ki)による旅行や訪問です。

意識は電磁波であり、電場から派生すると考えるからです。

全ての時間も空間も、気(ki)というエネルギーが充満していると思います。

A
情(zyou)は、「物語」として考えています。

人間と動物の間に、「会話」という「物語」はありませんが、猟犬や番犬のように、動物同士の意思疎通は存在すると思います。

それを含んで情(zyou)を考えますと、生命体同士の意思疎通の「物語」が情(zyou)であります。

人間の「物語」は、ゲームのように始めと終わりがあり、「任意に」区切る事が出来ると思います。

また、情報(zyouhou)としての情(zyou)は、言語では「範疇」や「概念」であり、内容の「実体」は情(zyou)ではないと思います。

「実体」は、「無意識の欲」が決定し、意識や精神は始めと終わりで区切るしか出来ないと思います。

つまり物質が脳や言葉の中に入るのではなく、物質を実数と考えると、虚数として頭脳で理解されると思います。

だから、「物語」であり、「フィクション」であると思います。

「実体」が「無意識の欲」で決まると、客観的な情報にするため、物質の周波数や熱などで「実体」の内容を決めますが、これは社会生活の為であり、個人の内容としてはDNAの数だけ相違すると思います。

私は、そこに「直感」の働く場所を作ります。

また、情(zyou)は、情事(zyuzi)という言葉が、SEXを意味する言葉ですから、大変、人間的な情報だと考えています。


B
霊(rei)は、気(ki)と情(zyou)の両方を内部に含み、人間が介入する事は不可能であると考えます。

時空と生命を創った阿弥陀如来、それ自体が霊だと思います。

これを空間的には、エーテル体、時間的にはDNAの連鎖を物質として、前者は真空状態の「引力」という「力」として現れ、後者は「輪廻転生」する「生命の力」として現われると考えます。

真空状態のエーテル体は、地球と月や太陽の間だけでなく、地球を囲んでいますから、「光」が地球に届くと思います。

真空は何も無いのではなく、ディラックの「空孔理論」のように、何かが満たしているかも知れません。

人体も、全てに血液や神経が、常に流れているから瞬時に反応する事が出来るように、何かが満たしているから、重力や引力が瞬時に伝わると思います。

DNAについての知識を持っていませんが、私は、人間の行為の全てが、DNA とRNA に集約されると思っています。

意識と無意識の領域も、RNA とDNA の関係で説明が可能かも知れません。

例えば、二重らせん構造が自意識あるいは「時間意識」と「空間意識」で、紡錘体があるとすれば、それが五感という意識で、塩基対が「実体」であるなどと考えます。

そして、RNA は、DNAという意識が拡大する時であり、転写が完成し翻訳された時、新たなニューロンの回路が成立した場合かも知れません。

そして、人体が全てDNA に満たされていると考えると、人体の全てが、意識を感じる器官となり、「人間は霊的動物である」と考える事が出来ます。


これは、現時点の考えです。
変更するかも知れません。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年07月19日

2009/7/19・オカルト(整理)二つの時空から二本足の考え

私は、心臓と脳を考えると、「二本足の考え」という考えを持つようになりました。

意識と無意識が重なり、無意識は意識に隠れて、意識だけを考えるのが正しいかもしれませんが、私は、並列的、同時的に、意識と無意識を考えます。

意識と無意識を、「精神」と「本能」と考え、前者が「大脳」、後者は「脳幹」で発生すると考えます。

「大脳」は思考しますし、「脳幹」は、呼吸や心臓などの循環器やホルモンに関係します。

遺伝子レベルでは、前者がRNA で、後者はDNA だと思い、DNA の二重らせん構造を解く「酵素」は、「脳幹」のホルモンか、生体に流れる電流により生じると思っています。

二つの中心が、「今」存在し、意識は情(zyou)という「物語」の始まりと終わりを区切り、無意識は、気(ki)や霊として、始まりと終わりを決定する。

私に実体として知らせる感覚器官の感受性により、情(zyou)は意識の内容、気(ki)は、無意識の内容として把握されると思います。

これが、現時点の考えです。

後日は、私の過去の記事から、好きな記事を取り上げて、情(zyou)や気(ki)や霊などを、オカルト的に考えますので、無視しても良いと思います。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年07月17日

2009/7/17・オカルト(二つの眼とストレス解消)禁煙の場合

2009/7/15の記事が、実情と合致しているか否かを考えた。

私は、感覚器官を持って生きている限り、ストレスは存在するものと考えます。

(タバコの煙を好きか嫌いかにより、タバコを見た印象を快感と受け取るか不快と受け取るかの違いがあるが、タバコを判別したら、良いストレスか悪いストレスは感じると思います)

思い通りにならないという意味が「苦」であれば、「 ストレス 」は「苦」であると思います。

(禁煙中にタバコが近くにある、あるいは喫煙したいのにタバコが遠くにある場合はストレスであり、思い通りでない「苦」の状態だと思います)

私は、このストレスを「 電磁波的 」に解消したいと思います。

数学の力線(ベクトル)は、複素数により符号が変わり、方向も変わります。

現実生活の力線(ベクトル)も、方向を持ち、「本能の時空」のベクトルと衝突した時、「 ストレス 」や「苦」を感じると思います。

(タバコが存在する事がストレスではなく、タバコに対しての自分の欲望の方向と反する時、ストレスになり、「苦」を感じます)

ここで、私が主張する「 二つの時空 」は、「 意識 」であり、「 意識は電磁波である 」から、動的な「 ラグビー・ボール 」であり、常に「光速」で動いています。

(禁煙中の意識の判断基準である座標と、喫煙が好きか嫌いかという本能の座標があり、一般的には、本能の座標の判断が優先します。これらは無意識といっても意識だから、二つの座標は光速で過去から未来に動きます)

静的均衡ではなくて、動的な均衡なのです。

「 ラグビー・ボール 」が、歪んだ瞬間、光速で動いて、次の「 ラグビー・ボール 」を作ると考えます。

「 ストレス 」や「苦」が、無意識ですから、この新たな「 ラグビー・ボール 」も、無意識に光速で行われると信じます。

(意識の総体である霊が歪んだ時、瞬時に別の霊になるという意味ですが、タバコへのストレスをストレスと感じるのは、自分の気持ちに依存すると知った瞬間に、ストレスではなくなる。「これが、私を苦しめるストレスだ」と知りますと、ストレスを克服したような気持ちになります)

「 ストレス 」も「苦」も、感受性から生まれますが、意識も無意識も感受性から生まれて領域が同じですから、気(ki)や霊により、均衡状態になると思います。

(感受性から生まれるとは、自分の気持ち(感受性)が「ストレス」を作り、気持ち(感受性)を変化させると「ストレス」も、無意識に変化して均衡状態になり、自分の気持ち(感受性)により消滅させる事が出来ます)

そして、次の「 ラグビー・ボール 」は、「ストレス」や「苦」を「物語」という情報にして保持しながら、次の力線(ベクトル)と衝突します。

(タバコを止める方法は、アルコール依存症の治療にも役立つと思います。両者は「依存症」だから。)

これが、動的な「 ラグビー・ボール 」です。

「物語」を自分の「 オンリー・ワン 」の個性を発見するために使います。

(禁煙すると、今まで本能の座標に隠れていた「意識の座標」が現われて、自分が「世界で一つの、オンリーワンの存在」である事を発見する事が出来ます)

私は、禁煙しましたが、その時の「 ストレス 」の物語は、今も記憶に残って、新たな力線(ベクトル)を考える時の、「武器」として保持しています。

(自分の欲望を規制する事は、タバコ以外の多くの場合が存在します。困難に遭遇した時は、タバコの「ストレス」に耐えた自分を思い出して、自分を信じます。


タバコを止められないのは、

意思が弱いのではなく、

自分を信じる事が出来ないからです。



「 ストレス 」だと感じる事が、他人とは違った自分だけの個性であると教えてれた事と考えて、「 ストレス 」に感謝します。

(自分の欠点を指摘するのは、親か兄弟でしょう。「ストレス」は自分が作る物で、自分に対して欠点の是正を求めます。他人は、ただ黙って微笑んでいます。禁煙をするのは個人の自由であり、個人自身の問題だからです)

「 ストレス 」と感じた瞬間に、「 ストレス 」ではないのです。

(「これが、私のストレスだ」と把握した時、あなたは既に、ストレスから抜け出ています)

それは、意識が光速で動き、一瞬の衝撃も、過去になります。

(何事も時間が解決してくれます。時間の治療は速くて正確です。ストレスを把握して、時間に委ねてください)

そして、「 オンリー・ワン 」の個性を実現するのがヒトだと思います。

(DNA の構造から判断しても、ヒトはオンリー・ワンであると創られていると思います。人生で重要な事は、禁煙ばかりではありません。この世に生まれて、この世の人たちに、何か良い事を示すべき使命があります。私は、禁煙を応援する事を、私の使命と考えています)

ベクトルの方向は、「死に向かっての飛躍」ではなく、DNAが持つ個性を発揮する方向です。

(未来の死を覚悟して今を生きる事だと思いますが、私は反対です。二つの眼で、不明な未来を想像する事は出来ません。どうしても、「今」の延長を想像するだけであり、現在の自分の個性を発揮する方向が良いと思います)

死ぬ前に、先祖代々から引き継いだDNAが持つ個性を発揮して死んでも、遅くはないと思います。

(もしも、「今」の延長の想像が未来であれば、DNA に託された先祖代々の個性を発揮する事に専念すべきで、死ぬ前に、精一杯、生きてください)

これが、現時点で考えている「言い訳」です。

(私は、禁煙をして、自分が本当に悩み、本当に願うものは何かを、自分が自分の中に発見する事が重要な事だと思います。本当に悩み、本当に願うものが何かを発見した時、もっと生きたい、タバコなんて止めたいと思います。「守るもの」を明確にする事により、戦う事が出来ます。自分の胸に手を当てて、自分の本当の願いを明確にすると脱出も簡単です)


Every miller draws water to his own mill.

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2009年07月16日

2009/7/16・オカルト(二つの眼と視床下部)

二つの眼による遠近が、物体に精神的な力線(ベクトル)を発見すると、「 ストレス 」になる。

赤ちゃんが、母親から離れると、母親の顔などの力線(ベクトル)を知っているので、「 ストレス 」になるかも知れない。

赤ちゃんは、母親は誰であるのか知らないが、乳を与えてくれる人の顔や乳房は、力線(ベクトル)として知っているかも知れない。

以下は、過去の記事を引用します。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

2009/7/2・考えた事

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

2009/7/16・考えた事

このように、感覚器官を、身体全体に拡大し、意識は全て「感受性」と考え、「感受性」で「 ストレス 」と判定されると無意識の気(ki)や霊として「脳幹」の「視床下部」に集まり、「 本能の座標 」の中で、生命のベクトルの方向と衝突する反対方向のベクトルになり、抵抗が生じると思います。


無意識の気(ki)や霊として集まった全ての感覚が、「 ストレス 」を作り、「脳幹」に集まりホルモンとして身体に伝達されて「 ストレス 」特有の行動という形態で具現化すると考えます。

「 ストレス 」の発散行為が行われ、精神的には、二本足の考えの「 ラグビー・ボール 」の全体が歪んだ状態から、光速で、次の「 ラグビー・ボール」を作るのは、以前、書きました。

私は、「流れる物」と「派生する物」に対応する意識の場として「電場の空間意識」と「磁場の時間意識」を考え、「流れる物」は電流であり、物理的刺激であり、空間意識であり、それが「派生する時間意識」を生むと考えました。

「空間意識」とは、二つの眼で見る「遠近」の広がりで気(ki)であり、力線(ベクトル)に満ちた空間であり、「時間意識」は「 精神 」であり、物体の意味や物語という情(zyou)の認知であり、統合するものは、両者に共通する霊かも知れません。

日本では、「 霊気(reiki) 」が気(ki)と関係し、「言霊(kotodama) 」で言葉の情(zyou)と言葉の霊(rei)が結合していると思います。


「流れる物」と「派生する物」が、電磁波のような構造をしていれば、私の考えに合致しますが、両者が混在する場所が、ストレスを発生させる「脳幹」の「視床下部から松果体、そして副腎系」の部分であるというのが、現時点の考えです。

電磁波でなくても、二つの眼から得た精神的な力線(ベクトル)が、物理的なエネルギーになって脳幹を通り、ホルモンとして神経へ伝達される「流れる物」になるのです。

本能的に「否定」の行為は、この「 ストレス 」の伝達する経路かも知れません。


2009/7/15考えた事。

二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、頭脳の中では、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応へと続くと思います。

「 視床下部から下垂体 」は「 脳幹 」であり、「松果体」や「脳下垂体」が影響する事は明確だと思います。

昔は、ここで「 精神 」が生まれると言われましたが、古代のヒトが持っていた「人体の第三の眼」が退化したものが「松果体」であると考え、これを霊的な「 感受性 」が存在する場所であると考えると、根拠はありませんが、ここには何かを転換する特別の場所かも知れません。



これは、下記の参考が、私の言い訳を正当化するのに役立つと思います。


参考「視床下部」( Wikipedia より引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E5%BA%8A%E4%B8%8B%E9%83%A8

視床下部(ししょうかぶ)とは、間脳(視床の前下方で、第3脳室下側壁)に位置し、自律機能の調節を行う総合中枢である。

中脳以下の自律機能を司る中枢がそれぞれ呼吸運動や血管運動などの個々の自律機能を調節するのに対して、視床下部は交感神経・副交感神経機能及び内分泌機能を全体として総合的に調節している。

視床下部には、体温調節中枢、下垂体ホルモンの調節中枢、浸透圧受容器などがある。

また、視床下部は摂食行動や飲水行動、性行動、睡眠などの本能行動の中枢、及び怒りや不安などの情動行動の中枢でもある。


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2009年07月15日

2009/7/15・オカルト(二つの眼はストレスの原因)解消法

2009/7/15・考えた事

二つの眼で知る、精神的で個人的な感受性によって得られる、遠近や力線(ベクトル)が、ストレスの原因であり、生きている限りストレスを作ります。

これが適度であれば、「 緊張 」であり、脳を活性化すると思いますが、過度になれば、病気です。


「ナンバーワンにならなくても良い、あなたは、既に、オンリーワン」


この姿勢で、悔いが残らない自分の人生を歩く事だと思います。

言い換えれば、ストレスの方向転換です。

二つの眼を持ち、他人と「能力」を比較するから、ストレスが生まれます。

他人と違う事をストレスと感じないで、他人との違いを、仏陀や神に与えられた自分だけの個性を発見する事に方向を転換する事。

そして、仏陀や神に与えられた個性を発揮して、「 世界でオンリーワンの自分 」を表現するのが良い方法だと思います。


Yahoo USA 「二つの眼はストレスの原因」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklnmnF1KsBcAA.Cl87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%9C%BC%E3%81%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=




Yahoo USA が掲載してくれたので、言い訳を書きます。

私は、感覚器官を持って生きている限り、ストレスは存在するものと考えます。

思い通りにならないという意味が「苦」であれば、「 ストレス 」は「苦」であると思います。

私は、このストレスを「 電磁波的 」に解消したいと思います。

数学の力線(ベクトル)は、複素数により符号が変わり、方向も変わります。

現実生活の力線(ベクトル)も、方向を持ち、「本能の時空」のベクトルと衝突した時、「 ストレス 」や「苦」を感じると思います。

ここで、私が主張する「 二つの時空 」は、「 意識 」であり、「 意識は電磁波である 」から、動的な「 ラグビー・ボール 」であり、常に「光速」で動いています。

静的均衡ではなくて、動的な均衡なのです。

「 ラグビー・ボール 」が、歪んだ瞬間、光速で動いて、次の「 ラグビー・ボール 」を作ると考えます。

「 ストレス 」や「苦」が、無意識ですから、この新たな「 ラグビー・ボール 」も、無意識に光速で行われると信じます。

「 ストレス 」も「苦」も、感受性から生まれますが、意識も無意識も感受性から生まれて領域が同じですから、気(ki)や霊により、均衡状態になると思います。

そして、次の「 ラグビー・ボール 」は、「ストレス」や「苦」を「物語」という情報にして保持しながら、次の力線(ベクトル)と衝突します。

これが、動的な「 ラグビー・ボール 」です。

「物語」を自分の「 オンリー・ワン 」の個性を発見するために使います。

私は、禁煙しましたが、その時の「 ストレス 」の物語は、今も記憶に残って、新たな力線(ベクトル)を考える時の、「武器」として保持しています。

「 ストレス 」だと感じる事が、他人とは違った自分だけの個性であると教えてれた事と考えて、「 ストレス 」に感謝します。

「 ストレス 」と感じた瞬間に、「 ストレス 」ではないのです。

それは、意識が光速で動き、一瞬の衝撃も、過去になります。

そして、「 オンリー・ワン 」の個性を実現するのがヒトだと思います。

ベクトルの方向は、「死に向かっての飛躍」ではなく、DNAが持つ個性を発揮する方向です。


死ぬ前に、先祖代々から引き継いだDNAが持つ個性を発揮して死んでも、遅くはないと思います。

これが、現時点で考えている「言い訳」です。


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2009/7/15・オカルト(二つの眼はストレスの原因)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


二つの眼による遠近や力線(ベクトル)は、ストレスにも関与していると考えます。

力線(ベクトル)を心理的な圧迫と感じる時、それがストレスになると思います。



ストレス学説を辞書で調べました。

「ストレスとは、物理学や工学で、外から力が加えられた時に物体に生じる歪み(不均衡)を意味していた。

ここでストレスとは、さまざまな外的刺激(ストレッサー)によって生じる生体内の歪み(ストレス反応)の状態である。

ストレス反応は、警告反応期、抵抗期、疲弊期と分かれ、セリエ(Selye)は、これらの生体反応を、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応に基づく変化であるとした。」



セリエ教授のストレス学説
http://www.hakemiya.com/dmm/dmm039.htm

ストレス(生体) Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9_(%E7%94%9F%E4%BD%93)




私が注目するのは、ストレスが、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応に基づく変化である事です。

これは、眼から入った光のエネルギーが、「 脳幹 」を通り、身体中の神経に伝達される過程だと思います。

これは、私の「二つの時空」の一つである「本能の時空」での、エネルギーの移動です。


二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、自分に対して心理的な圧迫と感じる時、ベクトルの進む方向は、私に向けられています。

私の、「 ラグビーのボール 」のような、二つの中心を持つ時空の総体に対しての圧迫になり、「 ラグビーのボール 」のような意識全体を歪めると思います。

その意識の歪みが、身体に悪影響を及ぼすと考えます。

二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、頭脳の中では、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応へと続くと思います。

「 視床下部から下垂体 」は「 脳幹 」であり、「松果体」や「脳下垂体」が影響する事は明確だと思います。

昔は、ここで「 精神 」が生まれると言われましたが、古代のヒトが持っていた「人体の第三の眼」が退化したものが「松果体」であると考え、これを霊的な「 感受性 」が存在する場所であると考えると、根拠はありませんが、ここには何かを転換する特別の場所かも知れません。


二つの眼で知る、精神的で個人的な感受性によって得られる、遠近や力線(ベクトル)が、ストレスの原因であり、生きている限りストレスを作ります。

これが適度であれば、「 緊張 」であり、脳を活性化すると思いますが、過度になれば、病気です。



「ナンバーワンにならなくても良い、あなたは、既に、オンリーワン」


この姿勢で、悔いが残らない自分の人生を歩く事だと思います。

言い換えれば、ストレスの方向転換です。

二つの眼を持ち、他人と「能力」を比較するから、ストレスが生まれます。

他人と違う事をストレスと感じないで、他人との違いを、仏陀や神に与えられた自分だけの個性を発見する事に方向を転換する事。

そして、仏陀や神に与えられた個性を発揮して、「 世界でオンリーワンの自分 」を表現するのが良い方法だと思います。



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2009年07月14日

2009/7/14・オカルト(二つの眼と赤ちゃん)

私は、二つの眼により、遠近の区別や力線(ベクトル)の区別が可能である事を重視しています。

生まれた赤ちゃんを考えます。

母親の乳房を難なく発見して、乳首を吸う事は動物の本能かも知れないが、本能というだけで、私は満足しません。

その本能を知りたいのです。

時間や空間は、阿弥陀如来が創ったものと信じますから、私が生まれる前から存在していたと思いますが、人は生まれる事により、自分の時間意識と空間意識により、世間一般の時間と空間を知ると思います。

赤ちゃんは、この意識が、空間であり時間というものであることを感じるだけで、「時間」や「空間」については知りません。

赤ちゃんも、自分の時間、生命のリズムと、自分の空間、二つの眼による遠近の意識の世界を持つと思います。

赤ちゃんが、難なく乳首を発見する事は、DNAの力かも知れませんが、もし二つの眼で乳首を発見したとすれば、次のように考えます。

赤ちゃんは、言葉という意識の道具より前に、二つの眼による遠近や力線(ベクトル)により、無意識に乳を飲む。

生きるとは、無意識の生命のリズムにより、無意識で物質に行動をする事であり、言葉で意味を判別する前に、無意識、あるいは無意識に近い意識が実体の内容を決めていると解釈します。

言葉で伝わるのは情(zyou)であり、形であり、実体は、DNAと無意識により決められているから、「 直感 」の存在を考えます。

「論理的飛躍」というのは、思考の中の無意識が、物質の無意識に直接に同化するもので、言葉を媒体としていない状態だと思います。

論理や言葉は、正当化や合理化の役目であり、「論理的飛躍」をさせる「遠近」の区別や力線(ベクトル)を区別する「二つの眼」が直感を生むと思います。

常に、神経は全身に張り巡らせてあり、「二つの眼の遠近」により物体に力線(ベクトル)を認めると、瞬時に、脳に伝達されると考えます。

「時間」も「空間」も、「時間」や「空間」自体を教えるのではなく、赤ちゃんが危険な事態に遭遇しないように「教える」。

二つの眼による遠近や力線(ベクトル)も、それ自体を説明するのではなく、社会生活の知識としての遠近や力線(ベクトル)を「教える」。

これらを言葉で説明する努力がないから、精神は前進しないと思います。

私は、赤ちゃんが二つの眼による遠近や力線(ベクトル)により行動するのは、それらが生命のリズムに直結し、本能の座標の無意識の領域の「好き」や「嫌い」の力線(ベクトル)を決定して、意識の時空軸の生命のすすむ方向や、行動の方向を決めていると考えています。

「言う」より「手」が早い、つまり言葉より先に、「好き」や「嫌い」の感情が実体を決めていると思います。

決めるのは無意識、つまり人格の引力である「欲」です。

「欲」つまり人格が、「欲」を発見して自分の進路を決定すると思います。



これは、私自身の考えであり、何の根拠もありません。


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2009年07月12日

2009/7/12・オカルト(二つの眼と脳科学最前線)

昨夜、「脳科学最前線」というTV番組を見た。


2009/7/10・考えた事


古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。


「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。



2009/7/11・考えた事

二つの眼で見る事は、時間意識と空間意識の中の、つまり時空間の中の、出来事や事物に、遠近感を付けて見る事であり、この遠近感に自分のDNA が加わって「好き」と「嫌い」として区別する原因になると思います。

全ての出来事は、出来事として存在し、善悪や「好き」や「嫌い」を付与するのは、個人の遠近感という空間意識とDNA であると思います。

その空間意識は、脳幹の身体図式の中で、生存に必要な事物を区別します。

DNAという生命を維持するために、食べてエネルギーにする物を「好き」として口に近づけて食べるでしょうし、危険な物は、「嫌い」として遠くに配置するでしょう。

二つの眼には、もう一つの働きがあります。

二つの眼は、遠近感や立体感により、「 力線(ベクトル) 」を感じると思います。

どのような形態に「 力線(ベクトル) 」を感じるかは、個人の「 感受性 」に依存します。

「 力線(ベクトル) 」の方向により、二つの中心を持った楕円形の自分の総意識、つまり霊は、影響を受けます。

「本能の時空」の、「好き」と「嫌い」の「 力線(ベクトル) 」が絶え間なく変更されるから、「意識や精神の座標」が変更され、それが意識全体の「霊」の変更になると考えます。



2009/7/12・考えた事

私が見た光景を、ロボットが見た場合は、光の量子の濃淡となるだろう。

脳を物理的に分析しても、私の「二つの眼」が得た情報は不明だと思う。

ロボットや機械は、時間と空間内に置かれた機械であり、ヒトの時間意識も空間意識も持っていないので、危機管理意識が無い。

データーは永遠だが、未来を知らない。

機械を超える天才の存在を信じない。


脳の構造を調べても、眼の構造を調べても、生きた意識は変化し無常だから、解明は不可能だろう。

ヒトが機械とは相違して、事実の中にベクトル(力線)を感じて、未来への必然の方向を模索している事が、機械により、解明されるだろう。

つまり、解明が不可能であると知るだろう。

単なる事実を並べて、機械は、未来に対して何を予言するのか、あるいは自分の「好き」も「嫌い」も知らない機械が、自分の進路を発見する事が出来るのか疑問である。

コンピューターを作るのに反対はしないが、「時間」とは何か、「空間」とは何か、などを解明した後で、機械を作って欲しい。

時間も空間も意識も、阿弥陀如来が創った物で、ヒトが阿弥陀如来を作る事は不可能だから、脳科学の成果も疑いながら、参考にした方が良いと思っている。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年07月11日

2009/7/11・オカルト(二つの眼は好きと嫌いを作る)

2009/7/10・考えた事

二つの眼により、奥行き知覚を得る事が出来ます。

奥行き知覚
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161534283/content.html

これが、事物を立体的に、そして自分に対して遠いとか、近いという判断を可能にします。

私は、判断は、自分の無意識の行為であり、無意識が無意識を選んだ、あるいは心が心を選んだという行為であり、自分の無意識が表に出た行為だと思います。

古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。

もう一つ考えるのは、「 方向 」や「 位置 」です。

片方の眼では、奥行きを判断する事は出来ず、自分の向かって来るのか、遠ざかっていくのか判断する事は出来ないと思います。

「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。


……(省略)……

「二つの眼」による「遠近」も「方向」も、精神的ですが、結局は「好き」や「嫌い」の力の強さや範囲の問題となります。



2009/7/11・考えた事

二つの眼で見る事は、時間意識と空間意識の中の、つまり時空間の中の、出来事や事物に、遠近感を付けて見る事であり、この遠近感に自分のDNA が加わって「好き」と「嫌い」として区別する原因になると思います。

全ての出来事は、出来事として存在し、善悪や「好き」や「嫌い」を付与するのは、個人の遠近感という空間意識とDNA であると思います。

その空間意識は、脳幹の身体図式の中で、生存に必要な事物を区別します。

DNAという生命を維持するために、食べてエネルギーにする物を「好き」として口に近づけて食べるでしょうし、危険な物は、「嫌い」として遠くに配置するでしょう。

二つの眼には、もう一つの働きがあります。

二つの眼は、遠近感や立体感により、「 力線(ベクトル) 」を感じると思います。

どのような形態に「 力線(ベクトル) 」を感じるかは、個人の「 感受性 」に依存します。

「 力線(ベクトル) 」の方向により、二つの中心を持った楕円形の自分の総意識、つまり霊は、影響を受けます。

「本能の時空」の、「好き」と「嫌い」の「 力線(ベクトル) 」が絶え間なく変更されるから、「意識や精神の座標」が変更され、それが意識全体の「霊」の変更になると考えます。


諺で、

What we like,we will do well.

と言いますように、意識の全体が、「 力線(ベクトル) 」の方向に進むと思います。

その原因が、二つの眼だと思います



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2009年07月10日

2009/7/10・オカルト(展望)二つの眼と松果体

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2009/7/4・考えた事

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。


2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。


2009/7/5・考えた事

私は、現時点で不明な事は、DNAが原因であると考えています。

DNA が何故、二重のらせん構造なのかも不明であるし、現時点で不明なものは全部、DNA が原因だと思っています。

DNA の性質は、生物の本能だと思うし、二重のらせん構造が、他方を欠損した時に、修復を可能とする働きであれば(例えば腎臓)、片方の眼や耳が欠損しても、他方で補う事が出来ます。

私は、この二重らせんの構造が、人体を右と左に臓器を持つ原因だろうと思っています。


2009/7/10・考えた事

私は、「二つの眼」について、興味があります。

それは、Yahoo USA が既に、私の考えを察知しているように「二つの眼」で掲載してくれました。

Yahoo USA 「二つの眼 m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0lu2FVKB58AL6el87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%9C%BC%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

或る考えによれば、人間は一つの眼を持っていた。

その一つの眼が三つの眼になり、二つの眼が進化して、一つの眼が「松果体」として残ったが、眼の構造を持つが眼として機能していないという考えもある。

私は、眼の成立過程ではなく、眼が獲得する物を考える。

二つの眼により、奥行き知覚を得る事が出来ます。

これが、事物を立体的に、そして自分に対して遠いとか、近いという判断を可能にします。

私は、判断は、自分の無意識の行為であり、無意識が無意識を選んだ、あるいは心が心を選んだという行為であり、自分の無意識が表に出た行為だと思います。

古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。

もう一つ考えるのは、「 方向 」や「 位置 」です。

片方の眼では、奥行きを判断する事は出来ず、自分の向かって来るのか、遠ざかっていくのか判断する事は出来ないと思います。

「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。


私の二つの眼で、見ている対象物を、原寸大で、眼の内部に取り入れるのではなく、見ている範囲の全てを見ているのではなく、見たい物を「考えて」見ています。

この「見る心」を物体化したのが「 松果体 」だと思いますが、私は、「大脳皮質」を構成するDNA が「心」であると思いますから、「 見る心 」は「大脳皮質」だろうと思います。

私は、「二つの時空」で書きましたが、大脳皮質は「意識」で情(zyou)という物語を担当し、脳幹は「無意識」であり、無意識は呼吸の気(ki)と、エーテル体の霊を担当すると思います。

「二つの眼」による「遠近」も「方向」も、精神的ですが、結局は「好き」や「嫌い」の力の強さや範囲の問題となります。

物を見る心が、脳幹で睡眠に関与する「松果体」の性質であるとするなら、「二つの眼」が何を見るのかを決定するのは意識ではなくて、「好き」や「嫌い」の力の強さという無意識の力だと思います。

「二つの眼」で見るのは意識的な行為ですが、見た瞬間に無意識が判断しているのであり、次の物体に眼を移すのは、無意識の「 心 」だと思います。

脳幹という、無意識の中で、気(ki)と霊と、睡眠に関与する「松果体」を組み合わせると、睡眠や目覚めという生命のリズムと、「好き」や「嫌い」の力を決め、そして、時間意識と空間意識の座標軸の長さと周期が決まるだろうと思っています。

「松果体」 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93


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2009年07月06日

2009/7/6・オカルト(統合)周波数と二本足の考えと直感

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83



2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。

2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

意識の背後に無意識が存在するのは、「一本足打法」ではなく、意識と無意識の時空の二つは一つになり、一瞬の間に混在し情(zyou)と気(ki)として存在するという「二本足の考え」を、私は採用します。

Yahoo USA 二本足の考え
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkwGuF1BKkm8ASt.l87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



2009/7/6・考えた事

身体の外部の「 周波数 」と、身体の内部の「 二本足の考え 」を組み合わせて、私の「 直感 」という内容を理解してください。

前者は、無意識の「 極 」の「エネルギー」であり、後者は、意識の「 極 」の精神へと連結する「 感受性 」であります。

「 感受性 」を限度まで拡大して、「エネルギー」を得るのが「 直感 」だと思います。

私は、電磁波に対する受信機と意識を同調させて、通信する事は可能だと思います。

現在は、「超能力者」の「超能力」により、意識と意識の通信が可能だと思いますが、「周波数」と「意識」の両者とも、電磁波の性質を持っているから、意識に同調する受信機の製作により、意識と受信機との通信が可能だと思います。

私は、この意識が「 インスピレーション 」や「第六感」と言われる「直感」であり、それは意識と周波数というエネルギーが一致して、行動に現われた感覚だと思います。

同一の時空で、周波数と気(ki)より生命のベクトルという「霊」の方向を発見し、それが意識の中で情(zyou)という物語を生む。

それとは逆に、物語を任意に、恣意的に組み合わせて、周波数と気(ki)を一致させて「霊」の方向を知るのが直感であるというのが、現時点での私の考えです。

直感が、無意識の「欲」であり、ベクトルなので、主観的であり間違う場合もあります。

そのベクトルを、座標軸として、意識を構成して、社会に適合した行動が、「芸術」などの「 個性的な行為 」になると思います。


直感の取得の方法は、人体の毛穴を開いて気(ki)を迎え入れたり、あるいは一心に信仰して、阿弥陀仏や神との同時性を得る事でしょう。


日本にも、「 同行二人(dougyouninin) 」という考えがあります。

これは、四国の「お遍路さん」が、巡礼をする時は、死を覚悟した装束を着けながら、弘法大師と、常に一緒に巡礼する時に、「 同行二人 」と言うと私は認識しています。

これは、常に仏陀や神と、同時に存在しながら、四国を巡礼する事です。

巡礼をしない場合でも、常に、仏陀と同時に存在する事を感じる事は、直感を持続する事であり、人格を向上させる事であるというのが、現時点での私の考えです。

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2009年07月05日

2009/7/5・オカルト(統合)創作(二本足の考え)A

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私の独自の考えについて、少し補足します。

2009/7/4・考えた事

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。

耳は何故二つ存在するのだろうか?



2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。


私は、現時点で不明な事は、DNAが原因であると考えています。

DNA が何故、二重のらせん構造なのかも不明であるし、現時点で不明なものは全部、DNA が原因だと思っています。

DNA の性質は、生物の本能だと思うし、二重のらせん構造が、他方を欠損した時に、修復を可能とする働きであれば(例えば腎臓)、片方の眼や耳が欠損しても、他方で補う事が出来ます。

私は、この二重らせんの構造が、人体を右と左に臓器を持つ原因だろうと思っています。

身体が二つの構造ならば、精神も、意識と無意識の二重構造であり、楕円のように二つの中心を持っていると考えるのも許されると、私は思っています。

野球で、イチローや王貞治氏のように、一本足打法の選手が存在しますが、野球は、二本足打法が普通だと思います。

イチローでも王貞治氏も、球にバットを当てる瞬間は、二本足打法だと思います。

思考も、意識の下に無意識が存在するという「一本足打法」をする必要はないと思います。

意識の下に無意識があるというのが正しいかもしれませんが、私は、楕円の中心が二つ存在するように、意識と無意識の中心の存在を認めます。

哲学や心理学などの学問から、私の身体にフィットした考えを採用します。

意識だけで考えるのが学問かもしれませんが、「二本足の考え」で書いたように、「 極 」を考えると、無意識はエネルギーであり、意識が全てだとは考えません。

意識すれば、その範囲だけ、無意識も増加するのだと思います。

意識は、電磁波というフィラメント構造であり、人類の全てに共通した構造ですが、実体を決定するのは個人の「任意な」、「恣意的な」無意識であり、「人格」であり「欲」だと思います。

「色」を見た瞬間に、反応する事もあると思いますが、「色」というDNAに蓄積された無意識の知識が、反応という行動を決定しているのだと思います。

意識すれば、全てが意識ではなく、意識した範囲だけ無意識が増加する事だと思います。


意識の背後に無意識が存在するのは、「一本足打法」ではなく、意識と無意識の時空の二つは一つになり、一瞬の間に混在し情(zyou)と気(ki)として存在するという「二本足の考え」を、私は採用します。



Poor thinking is as good as no thinking.

そして

Every miller draws water to his own mill.
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2009年07月04日

2009/7/4・オカルト(統合)創作(二本足の考え)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。



2009/7/2・考えた事

今日は、「直感」について書く予定でしたが、その前に、少しだけ、要約をさせてください。

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。




2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

少し考えてください。

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。

耳は何故二つ存在するのだろうか?

左右の二つの脳に信号を送るのが感覚器官であると思いますが、眼が二つ、耳が二つ存在するのは、左右の脳の違う働きという意味で、「 機能 」が違うかも知れません。

これは、認知科学などで解明される事を期待します。



意識と無意識に関しては、意識しか存在しないと主張する人が正しいかも知れないが、私は、「二つの軸」として、考えます。

地球に、南極と北極があるように、意識と無意識は、それぞれに「 極 」を持っていると思います。

意識の「 極 」が精神であるなら、無意識の「 極 」はエネルギーだと思います。

精神で全てを説明する事が可能ならば、エネルギーによって、全てを説明する事が可能かも知れません。

全てに「エネルギー保存」が成立すれば、「エネルギー保存」による説明を期待します。



「ラグビーのボール」のように立体的に考えるのは、二つの意味で考えます。

@
ボールの表皮を、一方では人間の皮膚だと考え、もう一方を人体を囲む精神と考えるからです。

人間の皮膚や精神で包まれるのが、生物としての人体であると考えます。

皮膚に囲まれた人体は、電気を帯びた宇宙の屑であると思いますが、電気を帯びる事が生物の謎だと思います。

頭脳の脳波と、心臓の心電図を考えた時、脳の働きは身体の全体に及ぶし、心臓の働きも身体の全体に及びます。

脳波と心電図は、違うかも知れないと、今は思っています。

A

意識の時空と、無意識の時空を一つだと考えると、現実世界に、意識と無意識が混在しているという結果になります。

混在する物で、一方が情(zyou)という「物語」であり、他方は気(ki)というエネルギーとして、次元は違っても、混在すると思います。


地球の自転による「今」、人間は既に行為していますから、行為する時は、無意識の状態だと思います。

「今」より以前に、意識が先行する事は、宗教を考える事であると思います。

「信じる事」であり、「今」より先行する意識は、違うと思います。

そして、人間の行動を決定するのは、「意識」ではなく、「無意識」であり、「 人格 」であると思います。

私は、「欲」は、「人格」の引力と考えますから、人間は全て、欲で動くと思います。

無意識に、「欲」を持って行動しますから、「人格」を「霊」へ向上させる事が必要だと思います。


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2009年07月02日

2009/7/2・オカルト(統合)二つの時空と感受性A

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれた。

私の考えが、何処で自滅するのかを知りたいのか、あるいは好奇心からなのか、私は知らないが、掲載されて感謝している。

Yahoo USA 「二つの時空と感受性」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0wvekxK2hEBgqal87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%A8%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。



2009/7/2・考えた事

私は、同じ内容を違った言葉で書き、読者には迷惑だと思いますが我慢してください。

少しでも前進したと思って書きますが、後退した考えになっているかも知れません。

今日は、「直感」について書く予定でしたが、その前に、少しだけ、要約をさせてください。

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。

ここから、「直感」に連結しますので、注意してください。

私は、外界に周波数と、体内にその周波数を意識に変換する感覚器官を持っています。

認識の主体は大脳だと思いますが、行動の意思決定は、脳幹が行うと考えています。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年07月01日

2009/7/1・オカルト(統合)二つの時空と感受性

「感受性」に対する私の考えは、明瞭ではない。

2009/6/30・考えた事

ヒトは、「周波数の比較」を見れば、電磁波の周波数を感じる感覚器官を持っているのは事実だと思う。

私は、視覚や聴覚など、感覚器官は違い物理的な刺激は違うが、獲得する情報に共通な性質が含まれると思っている。

それは、意識であり、思想であると思うが、現時点で明瞭な考えは無い。

ただ、全盲のピアニストが、国際的なピアノコンサートで優勝した事実から、共通した意識がある事を考えなくてはならないと思う。

私は、ヒトは感覚器官というレーダーを持ち、自分の体外のエネルギーを摂取するが、レーダーはレーダーであり、情報を決定しない。

対象を、区切り、選択するのは、脳の「身体図形」による意識だと思うが、意識の中で、探査するレーダーが「精神の座標」で、実体の決定は、気(ki)を含む「本能の座標」であると考える。

「身体図形」による区切りであるから、レーダーも決定も、主観的で任意で恣意的であり、主観的リズムである。

……(省略)……

エネルギーや意識を決定するのは、個人の特殊な環境や感受性であるから、決定した内容は全て相違するが、或るエネルギーを持つ周波数に対して、意識が同一形態の行為として具現化するから、外部から、共通感覚があると判断されるのだと思う。

身体の外部から社会的に共通感覚と言っても、身体の内部の意識は感覚ごとに相違し、情報が共通しているだけだと思う。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。


2009/5/10・考えた事

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。



2009/7/1・考えた事

私は、二つの時空を想定し、一つは「意識の時空」で、もう一つは「本能の時空」であると考えた。

前者が、統計や資料などの精神のデーターで、意識的な感受性で「実体」か否かを判断すると思う。

後者は、エネルギーに対する「気(ki)の感受性」と「好き」というエネルギーと「嫌い」というエネルギーの合成から方向として生じる「霊の感受性」という無意識の感受性で、生きる「欲」の「実体」を判断すると思う。

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

「意識の時空」の感受性は、因果関係で説明される知識としての「感受性」が「常識」であり、それは、統計や資料で実体化された「知識」としての「感受性」であると思う。

「無意識の時空」の感受性は、二つ存在すると思う。

一つは「気(ki)の感受性」で、大気や空気として呼吸に関係し、もう一つは「霊の感受性」で、先祖代々のDNAに関係して、エネルギーを生きる方向やベクトル、という引き合う力、引力や重力として感じるだろう。

「意識の時空」は、大脳皮質で行われ、「派生する物」であり、「無意識の時空」は、脳幹で行われ、「流れる物」であると考える。

予想や計測は、「意識の時空」の感受性で行われ、「決定」は「無意識の時空」の感受性で行われるというのが、現時点の要約である。


Poor thinking is as good as no thinking.
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