2009年08月31日

2009/8/31、オカルト(二本足の考え)破壊A

2009/8/29、考えたこと

「意識」も「無意識」も、座標を異にしながら重なっていると考えます。

身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


DNAとRNAの間で起きる、転写や翻訳が、破壊の構造かも知れません。

その身(身体)口(言葉)意(意識)に現れた行為の形態を、意思に翻訳する事により、「意識の座標軸」が変更されると考えます。

ちょうど、自分の姿を、「鏡」で見るように、意識を、あるいは無意識を、身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮に写して翻訳するのだと思います。


気(ki)も、「気持ち」を形成する機能も破壊されませんが、持っている「気持ち」の内容が破壊されます。

2009/8/31、考えたこと

私の脳を構成する物質は常に新陳代謝しますが、それから派生する意識は、自然に代謝する事は無く、「自分」で変化させる必要があります。

これが、「 気持ち 」の変化だと思います。

気(ki)や気(ki)を保持する(hold)、記憶などの「 感受性 」の変化は、「自分」が、「意識」する事により、新陳代謝が自覚されます。

実体を決定するのは「無意識」や「欲」で、行為は「欲」ですから、身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化した「欲」を見る事により、「 無意識 」の変化を知る事が出来ると思います。

地球が回転し、人間が生活し、行為しているのは、「欲」を充足させている事であり、身体が新陳代謝している事であり、「 気持ち 」は、常に変化しているが、身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化した行為を分析、つまり反省や自覚や哲学する事により、「自分」の「無意識」の領域が変化しているのを知る事ができると思います。

それが、意識した「 気持ち 」の「破壊」であり、再構築であると思います。


身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


無意識の領域は、「 ストレス 」という形態で自覚されますが、「 ストレス 」を、意識しながら身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化するために必要なのは、「 正見 」であり「 純粋な欲 」だと思います。

自分に正直になる事は、反省や哲学して、自分の「気持ち」の変形や歪みを発見する事に、近道だからです。

そのためには、「 感受性 」が必要です。

それは、自分の軌道修正が、簡単であるからです。

「六根清浄」など仏教で言いますが、これが「 正見 」への近道だろうと思います。

自分の心が「 清浄 」であれば、「 濁り 」も発見する事が可能でしょう。


肉体的に苦しい修行をして「六根清浄」を達成する事が目的ではなく、「 正見 」する事が目的であると思います。

「六根清浄」して、鋭い「 感受性 」を獲得するのが、修行の目的だと思います。

そして、この「 感受性 」を、生きる限り持つ事が可能ならば、「 心の平安 」は訪れると思います。

私は、この肉体的に苦しい修行は、「 ヨガ 」の修行も同じだと思っています。


六根清浄 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%A0%B9%E6%B8%85%E6%B5%84



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2009年08月29日

2009/8/29、オカルト(二本足の考え)破壊の構造

これは、独り言で、フィクションですが、私の哲学でもあります。

二本足の考え・要約
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8696240.html

二本足の考え・破壊
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8698983.html

私は、DNA により、「 意識は電磁波の構造であり」、光の性質が応用されるが、光波ではなくて物質波であると考えます。

意識は、脳が覚醒した状態で、脳神経の信号により知覚される「気持ち」です。

この「知覚」とは、身(身体)口(言葉)意(意識)と言う、外界と自己とを区別する細胞膜で感じる、衝撃であると思います。

脳が休息している状態を「無意識」と考えると、電磁波の周波数を背景にしたエネルギーとしての気(ki)と先祖伝来のDNA を背景にした「霊」が考えられます。

意識と無意識を持つから、「光」のように一点を中心とした球ではなくて、二つの中心を持つ楕円状の球であり、意識の総体としての「霊」は、円偏光ではなく、楕円偏光の軌跡の電磁波であると思います。

脳が覚醒した状態の意識は、神経の信号で身体が反応し、太陽の光の中の生活だから、意識には「光」と類似して考える「気持ち」で統一されると考えます。

脳が覚醒している時も休息している時も、「無意識」は働いています。

「意識」も「無意識」も、座標を異にしながら重なっていると考えます。

身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


DNAとRNAの間で起きる、転写や翻訳が、破壊の構造かも知れません。

その身(身体)口(言葉)意(意識)に現れた行為の形態を、意思に翻訳する事により、「意識の座標軸」が変更されると考えます。

ちょうど、自分の姿を、「鏡」で見るように、意識を、あるいは無意識を、身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮に写して翻訳するのだと思います。


気(ki)も、「気持ち」を形成する機能も破壊されませんが、持っている「気持ち」の内容が破壊されます。

日本が、戦争に負けて、天皇制から民主主義に変わったように。

「ストレス」は、悪者では、ありません。

「清浄な欲」による「ストレス解消」は、「欲求不満の解消」ではなく、人間本来の行為であると思います。

それが、「楕円偏光」から「円偏光」に思想を変更する事であり、人間の「物質波」から神仏の「光波」に変更する事だと思います。


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2009年08月27日

2009/8/27、オカルト(二本足の考え)破壊

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今までの記事

オカルト(二本足の考え)歩く
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8666318.html
オカルト(二本足の考え)歩くA
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8667430.html

この「 霊 」を清浄にする事により、「無」ではなくて「空」にして、気(ki)の中に中心を移す事により、「二本足の考え」の重心移動が行われて、時間的な意識としての「直感」や「信仰」が可能になると考えます。

従来の「気持ち」を破壊して、新たに気(ki)を「感受性」で集めて、再構築する事です。

「 心 」の新陳代謝が必要なのです。


Yahoo USA 「 気(ki)と気持ち 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklejTINKg3ABtUhXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+%EF%BD%8D%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%98&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

2009/8/27、考えた事

私が、「 歩く 」と言うのは、「 無血自己改革 」の事です。

一つの例として、「 親になる 」事を考えます。

人間は、生まれた時から、一定の環境の中で育ち、「常識」と言う「共通感覚」を学び、生物的の親になり、自己の生命の延長として子供を残して、死んで行くのが一般的だと思います。

「生物的な親」から、「精神的な親」となるのが哲学であり、「無血自己改革」であると思います。

その第一歩として、一定の環境の中で育ち、「常識」と言う「共通感覚」を学んだ「 気持ち 」を破壊する必要があります。

自然に生物的な親になり、子供を、自分が作った自分の所有物と考え、自分の価値観で、好きなように子供を育てる人がいます。

自分が作った自分の所有物と考えるのが、「 意識の座標 」で、好きなように子供を育てるのが「 無意識の座標 」であれば、まず前者を、意識で破壊します。

自分の精子で子供を作ったとしても、子供の誕生は、自分の力では無く、DNA の染色体の中で、子供が子供自身を選択して、「 この人の子供になろう 」と思って誕生したと思います。

自分の精子で子供を作っても、「創った事」、「精神まで創った事」ではないのです。

こう考えると、自分が作った自分の所有物という考えは間違いで、破壊すべき「気持ち」だと考えます。

その「意識の座標」の破壊は、好きなように子供を育てると言う「 無意識の座標 」を、破壊します。

「好きなように」とは、自分の道具として、利己心を延長すると言う事だと思います。

子供には、子供の人生があり、親は、自分を親として選んで生まれてくれた事に「 感謝 」しなければなりません。

自分の精子で子供を作っても、「創った事」、「精神まで創った事」ではないのです。

このように考えると、子供により、社会的に「親」と呼ばれる立場に就かせてもらった事に「 感謝 」しなくてはならず、自分の精子で作っても、自分の所有物ではなく「 神仏からの預かり物である 」と自覚すれば、自分の道具として、利己心を延長するのでは無く、自分の子供のためだけではなく、これから生まれる子孫のために貢献する「 気持ち 」が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れると思います。

こうして、子供を親が「好きなように」、自分の道具として、利己心の延長で、子供を育てると言う考えは、破壊されると思います。

意思は、形態として具現化します。

子供に対する親の心が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れ、子供は、親の身(身体)口(言葉)意(意識)に対して、報いをするでしょう。

親の考え次第で、子供が親を殺す事も考えられます。

これは、「意識」から「無意識」ですが、逆の場合もあると思います。

親の愛は、「 無償の愛 」と言いますが、親が本心から思っているか否かを、子供」は、察知すると思います。

「打算の愛」である時、子供が、親の身(身体)口(言葉)意(意識)を見て、ストレスと感じるかも知れません。

本当の「 無償の愛 」ならば、身(身体)口(言葉)意(意識)を見て、子供の利己心も考え方も変わると思います。

このように、衝撃波は、身(身体)口(言葉)意(意識)に表現する事により、意識から無意識、無意識から意識に伝達されると考えます。



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2009年08月26日

2009/8/26、DVDの整理とエクセルの活用・印刷

これは、2009/8/26、20時15分現在のアクセス状況です。


1 2009/8/26、オカルト(二本足の考え)要約  
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8 2009/2/3・DVDの整理とエクセルの活用 3

DVDの整理とエクセルの活用の閲覧が多い事に、驚きました。

Yahoo USA「DVDの整理とエクセルの活用」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkm_XylZJBYwAbbOl87UF?p=DVD%E3%81%AE%E6%95%B4%E7%90%86%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%82%AF%E3%82%BB%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%B4%BB%E7%94%A8&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

ここで書いたのは、多数のDVD を整理する時、二台のパソコンとUSB を使って、エクセルの一覧表にアトランダムに、DVD のタイトルを入力して、通し番号と種類別の番号を書き、その同じ番号を、DVD のレーベル面に鉛筆で書く。

DVDを、種類別に保管する時、通し番号を書いているから、現在、何枚のDVD を所有しているかを知る事が出来る。

分類したい数だけ、「 列 」を作って番号を付けてソートすれば、その種類だけの一覧表を得る。

一覧表を印刷したい時は、文字のフォントを小さくして、「 列 」の区切りを狭くして、多くの「 列 」を印刷可能にする。

その後、印刷用紙を横長にして、印刷プレビューで印刷可能な範囲を知り、印刷する所を線で区切って印刷する。

後日、分類する数が増加した場合は、「 列 」を増加する。

一旦、一覧表が出来たら、「 行 」と「 列 」を追加するだけで、印刷する場合は、追加したページだけ、印刷する。

エクセルは便利です。

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2009/8/26、オカルト(二本足の考え)要約

少し要約します。

「二本足の考え」とは、意識の「 気持ち 」の中心と、無意識の「 気持ち 」の中心が、直線上に存在し、身(身体)口(言葉)意(意識)を「 外界 」との境界にして、それを円周とした楕円状のラグビー・ボールであり、一方の中心から発した意識の衝撃波は境界で反射され、複素数の二乗のように符号が変わり、逆方向になり他方の中心を破壊して、「 気持ち 」を破壊したり、意識や無意識の感受性を増幅させて刺激すると言う考えです。

この衝撃波は、「二本足が歩く時」に書きますが、単純なものです。

私は、「意識は電磁波である」という考えですから、それぞれ、二つの中心(焦点)から意識の光を発して球状になり、意識と無意識は重なるが、相違する所もあり、地球のように楕円形をしているのが「意識の総体」である「霊」であり、二つの中心(焦点)から意識の光を発するのは「 今 」という現在からであると考えます。

電磁波のように進む先端から、記憶や想起や不安という「感受性」を、進行方向とは逆の過去に向けて発信し、突き上げる意識により、自分が自分であると確認しているのが「 自意識 」であると考えます。

「 外界 」とは「 今 」と言う現実世界です。

「 気持ち 」とは、漢字で書きますと、気(ki)を持つ(hold) で、持つ(hold)事を可能にしているのは、意識では記憶でしょうし、無意識では「好き」や「嫌い」という感情だと思います。

意識は主に「大脳皮質と連合野」で生まれ、無意識は主に「脳幹」で生まれ、前者は「 論理 」、後者は「 感情 」を特徴とすると思います。

無意識は、エネルギーとしての気(ki)と、DNAという生命を原因とする「 霊 」から構成されると考え、二つの「 感受性 」を必要とすると考えます。

ですから、「好き」や「嫌い」の感情は、気(ki)の感受性の方向と「霊」の感受性の方向に対する現実を見る「二つの眼」から取り入れた気(ki)により生まれると思います。

それが、「 ストレス 」である事は、以前、書きました。

この意識と無意識が、「 時間意識 」と「 空間意識 」を、「空気」や「大気」のように満たしていると考えます。

人間が持つ二つの眼が、本来の「清浄な欲」を超えて、精神と結びついて「 欲望 」となり、「 煩悩 」となり、「 ラグビー・ボール 」の中は暴風雨となり、無数の「 意識 」が、暴風雨の中の「 雷 」のように電磁波の速さで飛び交い、空から地面に落ちたり、空中で消滅したり、人から人に伝達されるのが現実社会かも知れません。

「 ラグビー・ボール 」の大きさは、地球の大きさか、太陽を公転する地球の軌道の楕円の大きさに匹敵するかも知れません。

以前、書きましたが、「二本足の考え」と「気持ち」を考え、破壊や増幅を考える事が、「歩く事」であり、意識の新陳代謝であり、自分自身の無血の「意識改革」になるというのが、私の考えです。

これは、私の独り言ですから、知識が形成される弁証法は、採用しません。

知識を求める人は、去ってください。

これから、「 二本足の考え 」という私の記事を掲載してくれたYahoo USA の読者の為に、少し書く予定です。

Yahoo USA 「 二本足の考え 」

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0zpSpRK6yMBAral87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=


これは、フィクションです。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

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2009年08月24日

2009/8/24,オカルト(二本足の考え)弁証法B

少し、考えてみた。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

生物は、自己の細胞と他者とを細胞膜で区別する。
私は、宇宙の一つとして、空気やエーテル体を体内に満たしながらも、細胞膜を通して気(ki)というエネルギーを摂取して新陳代謝する。
自分を拡大しても、縮小しても自分の身体を離れて、他者に侵入する事も、オカルト的に乗り移る事も、他者を自分の所有物とする事は出来ない。
ただ、新陳代謝する過程を楽しむだけである。
夫婦と言っても、親子と言っても、相手と同じ「気持ち」になれず、死ぬ時期も相違する、孤独な生き物である。



自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。


否定と言っても「無」ではないし、「無」は人間は創る事は出来ない。
創るのは神だろう。
否定は、違った形態の「肯定」を目指している。
生きる限り、「阿頼耶識」が残るように、否定しても残骸は残るし、「夢」があるように、現在とは違った「肯定」がある。
それは、「意識」の面だけで正当であるのに、現実の中で神の配分、神のシステムを作ろうとしたのが共産主義だと思う。



哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。


平面的な「否定の否定は肯定だ」という考えを、私は、採用しない。
DNAの働きで、「時間意識」と「空間意識」を得る。
「時間」や「空間」が、人間の所有物ではなくて、「時間」や「空間」だと、人間が感じるのだと思う。
これらは、サインカーブで電磁波的に交わっている事は、以前、書いた。
瞬間が「間」ならば、その「間」にサインカーブが充満している状態が「意識の総体の霊」であり、「心」であり、「気持ち」である。
それらの形状は、「意識」と「無意識」の楕円状のラグビー・ボールでもある。
私は、これを「二本足の考え」と名前を付けている。
「否定」とは、「符号が変わる事」であり、複素数の二乗であり、「頭を回転させる事」である。
それは、理解する為に、必要で、「相手の気持ちになる事」であると思う。



自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

電磁波が進む先端に、自分が乗っている事を想像すると、光速で自分を確認している自分を発見する。
自分の連続した「延長」ではなく、不連続だがサインカーブで推進されるのが自分である。
それは、「延長」に似た不連続の自分である。



「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

現実社会を変革する、論理として、手段や道具に、矛盾や「否定の否定」という考えを使いたいから、同一平面で考えるのだと思う。
矛盾がどれで、否定するのがどれだと、特定すれば攻撃目標が現実となる。



意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。
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2009/8/24,オカルト(二本足の考え)弁証法A

少し、追加します。

私が学生の頃、以上の説明に納得していたが、私は、意識と無意識に応用したい。

上記の説明は、社会の精神の「知識」の弁証法だと思うが、これを「内なる宇宙」に応用する。

「質」を「意識」、「量」を「無意識」と置き換えて考えた。

前者は、概念であり、精神であり、後者は、内容であり、エネルギーであるが、両者が人間により区別される限り「人間社会の観念」である。

前者は、情(zyou)で、後者は、気(ki)で、前者は外枠であり形であるから、伝達が可能であるに反し、後者は、個別的である為、行為を決定するが、共通な内容は無い。

その為、前者には「直感」は無いが、後者は、全部が「直感」である。

両者は、「意識」であるから、「人間社会の概念」であり、情(zyou)や気(ki)は「宇宙」に属するが、言葉である範囲は、観念であり、私の「弁証法」も観念的である。


1、は、「無意識」から「意識」へ転化し、「意識」が「無意識」に転化するのは、「量」から「質」と言う言葉の違いでの表現ではなく、両者が持つエネルギーの形態の変化であり、両者は転換可能であると思う。

私は、意識の実体としての内容は無意識により決定され、無意識は、「 心 」は、「気持ち」は、形態として具現化すると思う。

「量」は数える事を前提にしていると思うが、数える物ではなく、エネルギーであり、「感じる物」だと思う。

「質」は、物体が持つ「作用」であると思うが、「作用」としての働きは、私が感じたベクトルで、行動を左右するエネルギーであり、意味や内容は社会で定義する必要があるほど主観的であると思う。

「量」と「質」は、人間の行動として具現化する。


2、は、同じ平面で対立しているのは、同じ性質で統一されるかも知れないが、時間的に対立し、時間的に統一されると、立体的に考える。

「量」はエネルギーとして存在するから、数える事は不可能であるが、「質」の内容である事で統一されているから、「政治」と「経済」のように「形態」と「実体」として統一されると思う。

「経済」が変化すれば「政治」も変化するように、「量」と「質」は、変化する。


両者は、弁証法的に関連しているかも知れないが、私は、「 二本足の考え 」の構造で関連していると思う。

昔は、「革命」と言って「政治体制」を破壊したが、私は、「意識」と「無意識」が楕円構造をしたラグビー・ボールで、一方の中心から他方の中心を破壊するが、暴力では無く、「意識の革命」、「無血革命」であり、時間的な「改革」で解決できると思う。


以降は後日、書きます。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。

哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。

自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。
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2009年08月23日

2009/8/23、オカルト(二本足の考え)弁証法

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

弁証法 (Wikipedia からの引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。

1. 「量から質への転化、ないしその逆の転化」

2. 「対立物の相互浸透(統一)」

3. 「否定の否定」

これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。

1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。

2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。

つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。

3.はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする

(引用を終わる)



私が学生の頃、以上の説明に納得していたが、私は、意識と無意識に応用したい。

上記の説明は、社会の精神の「知識」の弁証法だと思うが、これを「内なる宇宙」に応用する。

「質」を「意識」、「量」を「無意識」と置き換えて考えた。

前者は、概念であり、精神であり、後者は、内容であり、エネルギーであるが、両者が人間により区別される限り「人間社会の観念」である。

1、は、「無意識」から「意識」へ転化し、「意識」が「無意識」に転化するのは、「量」から「質」と言う言葉の違いでの表現ではなく、両者が持つエネルギーの形態の変化であり、両者は転換可能であると思う。

私は、意識の実体としての内容は無意識により決定され、無意識は、「 心 」は、「気持ち」は、形態として具現化すると思う。

2、は、同じ平面で対立しているのは、同じ性質で統一されるかも知れないが、時間的に対立し、時間的に統一されると、立体的に考える。


両者は、弁証法的に関連しているかも知れないが、私は、「 二本足の考え 」の構造で関連していると思う。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。

哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。

自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。



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2009年08月22日

2009/8/22、オカルト(二本足の考え)歩く・正見

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2009/8/22、考えた事

八正道 Wikipdia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

正語 [編集]
正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。

正業 [編集]
正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。

この二つは正思惟されたものの実践である。

妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。

(Wikipedia からの引用を終わる)

私は、この言葉に出会って、記事を書くのを躊躇っていました。

なぜなら、私の言葉こそ、「 妄語 」であり、私の人格を破壊する行為だからです。

しかし、Yahoo USA が、「正見」と「眼の無常」について掲載してくれましたから、「眼」について、少し書きます。

正見 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmL.RI9KgWsAf0Cl87UF?p=%E6%AD%A3%E8%A6%8B%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=


眼の無常 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkz9mRY9Kvi4BQedXNyoA?p=%E7%9C%BC%E3%81%AE%E7%84%A1%E5%B8%B8%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1



「眼は心の窓」とも言い、私は眼で見る事により、世界を知りますが、正しい見方をしなければなりません。

私は、僧侶でもないし、人格者でもないから、正しい見方は何かという回答は持っていません。


私が、眼で見た光景にベクトル(力線)を感じるのは、私の「内なる宇宙」の投影だからだと思います。

「内なる宇宙」とは、「二本足の考えを持つラグビー・ボールのような意識体」であります。

私の「 心の不安 」が、外界で「脅威」を作り出すと思うと、「 正見 」とは、「眼」の問題でなくて、「 心 」や「 気持ち 」の持ち方の問題だろうと思います。

「 心 」に「 義 」があれば、「 死中生有り 」です。


アメリカは銃の世界で、アメリカの銃弾に倒れたリンカーンもキング牧師も、自分の行動により暗殺される事も考えたでしょう。

ですが、心の中に「 義 」があれば、例え死んでも、「 義 」は生きるものだと思います。

彼らが死んだ経緯は、歴史に残ります。

眼は、「遠近」や「大小」の比較を可能にして、選択を自由にしますが、選ぶ基準は、選ぶ人のコンプレックスかも知れません。

自分の「 心 」という無意識の「 気持ち 」を、現実の形の大小に影響されないように鍛錬する事、国際社会の中の日本の我々は、「憲法九条」の精神で、核の脅迫に怯えない「 気持ち 」を作る事が必要だと思います。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年08月18日

2009/8/18、オカルト(二本足の考え)歩く C

2009/8/16、考えた事

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

2009/8/17、考えた事

上記の「 清浄な欲 」を持つためには、どうしたら良いのか考えた。

意思は形態として具現化し、形態は意思であると考えるから「 清浄な欲 」は、それに相応した行為として具現化すると考える。

身(身体)・口(言葉)・意(意識)から「 利己心 」を排除する事が、「 清浄な欲 」を持つ方法だと思う。

私は、仏教の「 八正道 」は、「 涅槃 」という悟りを得るための修行ではなく、「 清浄な欲 」を持つための無意識の行為の鍛錬であると考えている。

もちろん、これは私の考えであり、仏教の教えではない。


八正道 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

2009/8/18、考えた事

八正道 Wikipedia から引用する。

正見 [編集]
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。

このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。

しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。

この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。

その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。




私の解釈

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」

@
私は、「正しく眼の無常を観察すべし」という言葉について考えた。

二つの眼について書いたように、この世を「遠近」で見て、自分と物事の距離を計測し、社会的なベクトル(力線)を感じて、ストレス状態になり、好きや嫌いの「 気持ち 」になり、「 欲 」ばかりか、「 欲望 」を作る。

二つの眼自体が、新陳代謝して「恒常的」でないし、ベクトルも「恒常的」ではない。

自分の身体も外部世界も「恒常的」ではないのに、物を「 存在する 」として、「恒常的」に見る事は、人間である悲しさだろう。

私は「正しく眼の無常を観察すべし」を、人体の眼、眼で見た光景、眼で得た情報の全てが、「恒常的」でない、あるいは「無常である」ことを観察すべきであると解釈する。

A
「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」とは次のように解釈する。

二つの眼の「無常」を理解したら、それにより得られる効用を喜ぶ事や貪る(covet)(greedy for)事を「 嫌だ 」と思い、自分との距離を遠くする、つまり「離れる」方が良い。

その場の「 光景 」に一喜一憂したり、これを契機に「喜び」を貪欲に追求しようとする態度をしない方が、「 心 」の為に良い。

現象に一喜一憂して「喜び」を「貪る(covet)(greedy for)」べきでないと考えると、「 欲望 」は否定するが、「正しく解脱しよう」という「 欲 」は否定していないと思う。

「日常性」の否定とは、「欲望で行為する日常生活」の否定であり、解脱しようという「 清浄な欲 」に近づくための「 正見 」であると解釈する。



文字が正しく変換されない場合は、僧侶に聞けば、理解する事が出来ると思います。

仏陀が発した言葉であり、彼らは、その言葉の解釈については、エキスパートの筈ですから。


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2009年08月17日

2009/8/17、オカルト(二本足の考え)歩く B

2009/8/16、考えた事

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

2009/8/17、考えた事

上記の「 清浄な欲 」を持つためには、どうしたら良いのか考えた。

前述したように、意識は直ちに無意識となり、無意識が直ちに意識となる。


意識と無意識が「今」という「この世」に具現化した、身(身体)・口(言葉)・意(意識)を「 清浄な欲 」という、一つの意識を選択し他の意識を破壊する「 霊の力 」の具現化であると判断する事が可能であれば、「 清浄な欲 」を持っていると考える。

意思は形態として具現化し、形態は意思であると考えるから「 清浄な欲 」は、それに相応した行為として具現化すると考える。


身(身体)・口(言葉)・意(意識)から「 利己心 」を排除する事が、「 清浄な欲 」を持つ方法だと思う。


私は、仏教の「 八正道 」は、「 涅槃 」という悟りを得るための修行ではなく、「 清浄な欲 」を持つための無意識の行為の鍛錬であると考えている。

もちろん、これは私の考えであり、仏教の教えではない。



八正道 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

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2009年08月16日

2009/8/16、オカルト(二本足の考え)歩く A

私の記事を、Yahoo USA は、登録してくれました。

またしても、Yahoo USA に感謝しなければなりません。

Yahoo USA 「二本足の考え 歩く」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkk5JmIdKBLkAMcal87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%80%80%E6%AD%A9%E3%81%8F&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=

「 直感 」する場合も、「 信仰 」する場合も、困難であるのは、一本足でも二本足でも良いが、池に飛び込むように、「 全部 」を「 同時 」に、エネルギーの領域に入れるからです。

私のように、「意識」と「無意識」の二つの時空という「気持ち」を作り、片方づつ、歩くように、エネルギーの領域に入れると可能であると思います。

綺麗な水に入る前に、身体を清めるように、「 気持ち 」を清浄にして、入れるのです。

気(ki)と気持ちの記事で書いたように、一方の「気持ち」を破壊して、再構築して、他方の「 気持ち 」の構築に向かうのです。

歩く時、二つの足を使う事は、左右の脳を使う事であるように、「精神の気持ち」から「エネルギーの気持ち」に入る時も、左右の脳や脳幹を使うと思います。

「意識」の大脳皮質と「無意識」の脳幹の両方を使うと思います。

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

それが、「六道」かも知れません。


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2009/8/16、オカルト(二本足の考え)歩く

2009/8/14、考えた事。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

2009/8/16、考えた事

私は、「 欲 」を禁止しません。

漢字では、意識の「意」と「欲」が結合して「意欲」となり、目的がある行為をします。

「 欲 」に精神的な「 望み 」が結合すると、「欲望」となり、これは節度が求められます。

「 欲望 」とは、精神的や肉体的な道具を使って、自分の領域を拡大する事になります。

「 欲 」は、人格の引力であり、「 霊 」です。

「 霊 」とは、意識の総体であり、「力」で無意識の座標です。

この「 霊 」を清浄にする事により、「無」ではなくて「空」にして、気(ki)の中に中心を移す事により、「二本足の考え」の重心移動が行われて、時間的な意識としての「直感」や「信仰」が可能になると考えます。

従来の「気持ち」を破壊して、新たに気(ki)を「感受性」で集めて、再構築する事です。

「 心 」の新陳代謝が必要なのです。



Yahoo USA 「 気(ki)と気持ち 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklejTINKg3ABtUhXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+%EF%BD%8D%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%98&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

二つの時空から二本足の考え
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxLZ34NKvDoAzxml87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=


周波数と意識
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk9_I4INKJ3gAww9XNyoA?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98+m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1


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2009年08月14日

2009/8/14、オカルト(私の解釈)色即是空

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私にも、やっと「 色即是空 」とは何かを言う時が来ました。

これは「 私独自 」の解釈であり、私のブログの「 言霊 」から言うのであり、主体的真理です。

主体的真理は間違いが多い事は事実です。



知識を求める人は、Wikipedia を参照してください。

色(仏教) Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

空(仏教) Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)


これは、私のブログですから、私の解釈をします。

知識を求める人は、去ってください。

2009/8/12、考えた事(追加)

この二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールが意識と無意識の領域です。

一つの焦点から発した衝撃波は、他方の焦点を通過して、破壊する事も可能です。

ラグビー・ボールの全部が意識と言えば意識であろうし、無意識であると言えば全部が無意識です。

ちょうど、地球の南極と北極のように、南極から見れば南半球が全てで、北極から見れば北半球が全てであるように。

2009/8/14、考えた事

私の考え

「 色 」を「 無意識 」

「 空 」を「 意識 」

このように置き換えます。

「色即是空」ですから、「無意識」は、直ちに「意識」です。

「空即是色」ですから、「 意識 」は、直ちに「 無意識 」です。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

「実体」は個人的体験であるから、「色」であり、「形態」は、個人的体験から離れた社会の仕組みであり、「無」ではなくて、透明な構築物だから「 空 」であると解釈します。

「色」は「物質」であり、「空」は「意識や光」であると解釈します。

物質波は、直ちに光波であるかも知れません。

これは、私独自の考えであり、みなさんには、一切、関係はありません。


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2009年08月12日

2009/8/12・オカルト(二本足の考え)気(ki)と気持ちA

私の記事を、Yahoo USA が、掲載してくれました。

Yahoo USA 「気(ki)と気持ち m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkksCjYJKxVoA_kNXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1


私は、Yahoo USA は、世界で有名な検索エンジンを持っていると感心します。

私の記事を、ある有名検索会社は、掲載していませんので、私は、Yahoo USA に感謝しなければなりません。


その謝礼として、掲載された内容について思っている事を、少し書きます。

私が、何故、気(ki)と気持ちを考えたのか?

2009/8/11、考えた事

体外衝撃波結石破砕術(ESWL)は、最も負担の少ない治療法の一つである。

……(省略)……

その原理は、衝撃波を楕円の1つの焦点(体外)から発生させて、それを楕円状の反射鏡で収束させ、もう1つの焦点(破砕部位)を対象となる結石に合わせて、周囲との物質の音響インピーダンスの差[尿(液体)と結石(固体)の音の伝わり方の差]を利用して破砕するものである。

( Wikipedia からの引用を終わる)

このように、楕円状の容器の一方の焦点からの衝撃波が、楕円の方程式により、他方の焦点に伝わる事を、TV番組で知りました。

衝撃波が、自然の周波数を持った気(ki)というエネルギーであれば、無意識の座標から発したエネルギーは他方の焦点に収束して、影響を与えると思いました。

そして、前述した考えを採用する事に決めました。

結論

外界の気(ki)と、体内の気(ki)を、二つの眼で区別して、後者が感受性により集められたエネルギーを「 生理的や心理的な身体の状態 」の気持ちと「 気分という精神状態 」の気持ちに区別したものと考えます。

「 二本足の考え 」とは、無意識の「 生理的や心理的な身体の状態 」である気持ちの焦点と、意識の「 気分という精神状態 」である気持ちの焦点を持ち、二つは楕円の方程式で連結していると考えます。

2009/8/12、考えた事(追加)

この二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールが意識と無意識の領域です。

一つの焦点から発した衝撃波は、他方の焦点を通過して、破壊する事も可能です。

ラグビー・ボールの全部が意識と言えば意識であろうし、無意識であると言えば全部が無意識です。

ちょうど、地球の南極と北極のように、南極から見れば南半球が全てで、北極から見れば北半球が全てであるように。

何故、「 気持ち 」という言葉を使うかについて。

「気持ち」とは、漢字で書けば、「気(ki)を持つ(hold)状態」です。

「気持ちは、感受性により気(ki)を集めた状態であり、気持ちが破壊されても、気(ki)は、散るだけで、無とはならない」のです。

一方の焦点から発した衝撃波で、「気持ち」が破壊されても、「気持ち」を作る「感受性」は破壊されず、気(ki)を再構築する事が可能だという意味で「気持ち」を使いました。

気(ki)を集める作用が「感受性」であり、無とはならないと思います。

これは、「意識の座標」の破壊も同じで、強い気(ki)で、「意識の気持ち」が破壊されても、記憶や想起などの感受性は存続し、作用そのものは、無とはならず、「気持ち」は再構築されると思います。


意識の気持ちと無意識の気(ki)の気持ちがあり、同じように、意識の気持ちと無意識の霊の気持ちを焦点とする楕円状のラグビー・ボールがあると思います。

オカルト的に書きますと、前者が、遠くの所を見る超能力であり、後者は、DNA という先祖の霊を見る超能力であると思います。

私の場合は、前者が「 直感 」が可能か否かの問題で、後者は、「 信仰 」が可能か否かの問題です。

これを、後日、書きます。

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2009/8/12、オカルト(二本足の考え)気(ki)と気持ち

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

これは、フィクションです。

あなたが信じるか否かは問わず、物語は進行します。

2009/8/8、考えた事
「 二つの眼 」により「 観測 」が可能なエネルギーは、辞書の@とAです。
@空気やガス体(気体・気流)
A自然の様子(気候・気象・天気)

身体と外界を、「 呼吸 」として往来するエネルギーは、辞書のBです。
B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

このように、二つの眼で「 観測 」したり「 計測 」する事が可能なエネルギーが、辞書の意味だと考えます。

2009/8/12、考えた事

「気持ち」を辞書で調べました。

私の辞書は小さな辞書ですから、興味を持った人は、日本の代表的な辞書を調べてください。


T、「現代新国語」から引用します。

@感覚にもとづいて起こる、心の状態
類似の単語は、「気分・心持ち・心地・気色・心理}

A生理的な、心の状態
類似の単語は、「気分」

B物事や人に対する、心の持ち方・考え方
類似の単語は、「心情」

CとDは、省略する。



U、「和英中辞典」で調べました。

@気分
単語は、「mood」や「feelig」

気持ちが良いは、「pleasant」や「agreeable」や「comfortable」

気持ちが悪いは、「unpleasant」や「unagreeable」や「uncomfortable」

A身体の状態
例文は、母は気持ちが悪くて寝ています。
My mother is not feeling well and is in bed.

Bは省略します。



私の考え

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

上記の二つの気(ki)が、「本能の座標」や「無意識の座標」に収束したものが、下記の辞書の記事になると思います。

T、「現代新国語」

@感覚にもとづいて起こる、心の状態
類似の単語は、「気分・心持ち・心地・気色・心理}

A生理的な、心の状態
類似の単語は、「気分」

U、「和英中辞典」

@気分
単語は、「mood」や「feelig」

気持ちが良いは、「pleasant」や「agreeable」や「comfortable」

気持ちが悪いは、「unpleasant」や「unagreeable」や「uncomfortable」

A身体の状態
例文は、母は気持ちが悪くて寝ています。
My mother is not feeling well and is in bed.


そして

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

それが、T、「現代新国語」のB物事や人に対する、心の持ち方・考え方で、類似の単語は、「心情」であると思います。

「 心 」に「 情 」が付着しているのは、「意識の座標」の特徴である情(zyou)の状態だと考えます。


結論

外界の気(ki)と、体内の気(ki)を、二つの眼で区別して、後者が感受性により集められたエネルギーを「 生理的や心理的な身体の状態 」の気持ちと「 気分という精神状態 」の気持ちに区別したものと考えます。

「 二本足の考え 」とは、無意識の「 生理的や心理的な身体の状態 」である気持ちの焦点と、意識の「 気分という精神状態 」である気持ちの焦点を持ち、二つは楕円の方程式で連結していると考えます。

感受性により集められたエネルギーの焦点、あるいは中心を、生理的あるいは精神的な状態の「 気持ち 」として人間は、皆、持っていると思います。

その二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールを、「 内なる宇宙 」と考えています。

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2009年08月11日

2009/8/11・オカルト(整理)二本足の考えと気(ki)

「二本足の考え」について、Yahoo USA が掲載してくれましたので、少し書きます。

Yahoo USA 「二本足の考えの追加」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkw29qYBKMIAAIGxXNyoA?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%AE%E8%BF%BD%E5%8A%A0&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

意識と無意識は、楕円の形で重なっているだろうと思いましたが、決定的な事は、次の記事をTV番組で放送していたからです。


尿路結石 (Wikipedia から引用します)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BF%E8%B7%AF%E7%B5%90%E7%9F%B3

体外衝撃波結石破砕術(ESWL)は、最も負担の少ない治療法の一つである。

体外の装置によって造られた衝撃波(音波の一種)を結石にむけて集中させて結石を砕き、砂状にして尿と一緒に体外へと排出させる治療法である。

その原理は、衝撃波を楕円の1つの焦点(体外)から発生させて、それを楕円状の反射鏡で収束させ、もう1つの焦点(破砕部位)を対象となる結石に合わせて、周囲との物質の音響インピーダンスの差[尿(液体)と結石(固体)の音の伝わり方の差]を利用して破砕するものである。

( Wikipedia からの引用を終わる)

このように、楕円状の容器の一方の焦点からの衝撃波が、楕円の方程式により、他方の焦点に伝わる事を、TV番組で知りました。

衝撃波が、自然の周波数を持った気(ki)というエネルギーであれば、無意識の座標から発したエネルギーは他方の焦点に収束して、影響を与えると思いました。

気(ki)は、二つの眼から得られる遠近から、ホルモンを分泌させて、ストレスとなったエネルギーであると考えます。

エントロピーの増大を妨げる本能的な方向が、身体状態として「気持ちが良い方向」であり、増加の方向は身体状態として「気持ち悪い方向」のエネルギーだと思います。

そのエネルギーが、楕円状の意識の容器の一方の焦点から生じて壁に反射して、他方の「意識の座標」で、「好き」や「嫌い」という、心理的な「気持ちの良い気分」と「気持ち悪い気分」を作ると、現時点では考えています。

流れる物が派生する物を作ると思いますが、まだ結論は先の話だと思います。


現時点では、これが一般的な気(ki)の、「意識の座標」への影響だと考えます。


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2009年08月10日

2009/8/10、オカルト(整理)二本足の考えの追加A

二本足の考えの追加

2009/8/9、考えた事

そして、重なった楕円のラグビー・ボールと考えますから、意識は球面で広がり、無意識も球面で広がり、一方から出た情報は「身体」という表皮、あるいは「霊界」に反射され、一方の情報は他方の中心に直接、作用すると考えます。

2009/8/10、考えた事

以上の事は、「 楕円の方程式 」を、ネットで検索して考えました。

「 光 」が、電磁波の構造として、一点から球面状に広がるように、意識も無意識も、球面状に広がるだろう。

意識の面と無意識の面は、別の電磁波的な球体と考えて、層となっていると考えられるだろう。

意識の下に無意識が存在するという考えが正当かも知れないが、その中心が、同一面に存在すると考えると、「 楕円の方程式 」のように、中心と中心が楕円という表皮を媒介にして、連結している事になる。

すると、「意識の座標」でのベクトル(力線)は、無意識の気(ki)であるので、意識では処理する事が出来ないが、それを「無意識の座標」の中心で「力」という霊を考える事により解決する事が出来る。

この事は、意識の中心と無意識の中心は、現実の中に存在し、意識すれば無意識が動き、無意識が動くと意識が動く事の理由となるだろう。

意識と言えば全部が意識であり、無意識と言えば全部が無意識です。

意識は精神に連結し、無意識は気(ki)というエネルギーに連結し、前者と後者は、中心が違う。

しかし、表皮に反射する事、つまり意識の作用を外部に表明する事により無意識に転換し、無意識を外部に出す事により意識に転換する事を可能にする「感受性」により、二つの中心は連結すると考えます。

そして、二つの中心が、「時間的」と「空間的」に一つの面で結ばれる時、新たな展開なるかも知れない。

これを、全ての認識に拡大したのが、「二本足の考えの追加」です。

左右の脳があり、二つの眼があり、「時間」と「空間」があり、それらが単独では解決できないならば、私のように、二つの中心を持つ意識の総体、つまり霊を考えても許されると思う。


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2009年08月09日

2009/8/9、オカルト(整理)二本足の考えの追加

二本足の考えについて

2009/7/2・考えた事

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。



2009/8/9、考えた事

私は、この「 二本足の考え 」に少し、書き加えます。

ラグビー・ボールの表皮は、身体全体であり、意識の総体である霊でもあるし、認識が成立する「 霊界 」であると考えています。

頭脳の大脳皮質だけでなく、身体全体が、「 霊界 」であると思います。

それは、「 意識の座標 」と「無意識の座標」の二つの中心点を持つ楕円のラグビー・ボールと考えるからです。

前者は情(zyou)により充満し、後者は気(ki)により充満した座標が重なった楕円だと考えます。

前者は、人的交流の社会の情報に左右され、後者は、二つの眼によるベクトル(力線)に左右され、後者は前者を前提にしているが、実際の行動を決定する。

前者は、「 知識 」であり、後者は「 智慧 」であると思います。

意識を徹底して、無意識を消滅させるのは間違いで、意識が増加すれば、無意識が消滅するのではなく、意識の増加に相応して増大すると考えます。

意識の面からの全部は、無意識の面からの全部であると思います。

概念は「意識」により獲得しますが、「内容」は、無意識から獲得するもので、DNA の違いと同じほど、相互に相違する。

「内容」は、「自然」の気(ki)というエネルギーにより、補充される。

だから、「意識」による「意味の規定」を必要とすると考えます。

そして、重なった楕円のラグビー・ボールと考えますから、意識は球面で広がり、無意識も球面で広がり、一方から出た情報は「身体」という表皮、あるいは「霊界」に反射され、一方の情報は他方の中心に直接、作用すると考えます。

人は、歩いているラグビー・ボールであると考えます。

意識と無意識の二つの中心を持ち、どちらの方向に転がるかは、霊という外部からの力によると考えます。


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2009年08月08日

2009/8/8・オカルト(整理)二つの眼と気(ki)

@ 2009/8/6、考えた事

私は、ガイアの理論のように循環するエネルギーを気(ki)と考えます。

具体的には、空気(酸素)のエネルギーを考えています。

空気(酸素)のエネルギーは、空気を呼吸により体内に取り入れる事により、私の、エネルギー代謝(物質代謝)が可能になります。

エネルギー代謝(物質代謝)を可能にするエネルギーが気(ki)であり、それがRDNやDNAの生成を可能にするという意味で気(ki)は生命の印であると、現時点では考えています。

DNAやRNAを霊が具現化したものと考え、私の生命維持に不可欠であって、活力という霊の力を与えると考えると、精神や意識の座標の方向を変えると思います。

私は、気(ki)の専門家ではないので、知識は持っていませんから、現時点では、「 気(ki)は、流動するエネルギーである 」と、定義しておきます。


A 2009/8/6、考えた事

気(ki)も、自分と自然との境界線はありません。

私は、自然の中の一人であり、宇宙の物質であり、口も耳も、空気が充満し、エーテル体も充満しています。

だから、外界と体内の境界線は無いのです。

しかし、境界線を設定するのは、二つの眼により形成した「 身体図式 」という無意識と「 自意識 」という意識であり、根底はDNA の働きだと考えます。


ここでは、脳幹は無意識の領域であり、それから生ずる身体という意識は、「 身体図式 」であると自分で決めておきます。



2009/8/8、考えた事

以上は、私が考えた気(ki)ですが、日本語ではどのような意味なのか、辞典で調べました。

@空気やガス体(気体・気流)

A自然の様子(気候・気象・天気)

B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

全部の漢字に、気(ki)がついた、単語の羅列ですが、私の考えにより、これらは関連するエネルギーになります。


それは、
@ 2009/8/6、考えた事

A 2009/8/6、考えた事

Bこの二つに、「 二つの眼 」から見た「 観察 」あるいは「 計測 」して判明する事。


この三点から、辞書の単語を分類します。

「 二つの眼 」により「 観測 」が可能なエネルギーは、辞書の@とAです。
@空気やガス体(気体・気流)
A自然の様子(気候・気象・天気)

身体と外界を、「 呼吸 」として往来するエネルギーは、辞書のBです。
B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

このように、二つの眼で「 観測 」したり「 計測 」する事が可能なエネルギーが、辞書の意味だと考えます。

人間の「観測」や「計測」により区別されているが、それらは全て一つの気(ki)に収束します。

なぜなら、その区別は、地球上の人類の区別であり、気(ki)は、区別には関係なく、地球全体を覆っているからです。


私は、これから更に、気(ki)の「 二本足の考え 」への影響を考えています。

これは、後日、書きます。


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