2010年01月31日

2010/1/31、オカルト(関係と人格)デフォルメ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


今日は、「 デフォルメ 」について考えました。

2010/1/30、私の考え

私の考えが奇妙だから、Yahoo USA が掲載してくれたのかも知れない。

「 脳 」の中に「 時空 」がある。

「 脳 」で、デフォルメした時空を、「 脳内時空 」と称している。

子供のような考えかも知れない。

B「時間」や「空間」は意識であり、根源には天体の運動がある。

C「時間」や「空間」という場合、既にデフォルメしており、自分の存在が、デフォルメする主体である。
デフォルメが「 精神 」であり「 文化 」である。


私が、「 箱根旅行と富士山 」の写真を見て思い出すのは、「 空間 」や「 時間 」を思い出すのではなく、時間と空間を統合した私の状況であり、私の五感で体験した「 脳内時空 」であり、私の「 文化 」である。

自然は膨大で、私が自然を考える時、自然をデフォルメして、時空をデフォルメして記憶するしか方法はない。

人間の認識自体が、デフォルメの上で成立した「 精神 」や「 文化 」であり、人間にとっては、自然の全てが「 現象 」である。

私の存在自体が宇宙をデフォルメするから、測定や観察などの科学的行為もデフォルメした「 文化 」であり、「 時間 」も「 空間 」も、天体の運動を知るために人間が作った概念で、「 時間意識 」や「 空間意識 」であると考える。

意識が及ぶ限りの宇宙であり、宇宙は、意識の「 外 」にあるかも知れない。

意識だから、デフォルメして、科学的な理論にも芸術にもなるし、記憶して思い出す事も出来ると考える。



2010/1/15、私の考え

私は、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」とが、霊の力(重力)の「 方向性 」が同じだから、「 自意識 」を構成し、人類だからDNA(阿弥陀如来)や創造主の力で、「 時間 」を感じていると考えます。

だから、私の一瞬には、三つの時空が重なっていると考えます。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は、後日、考える事にして、「 脳内時空 」として、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」を考えます。

まず、「 生命の時空 」を考えます。

「 生命の時空 」の「 時間意識 」は、過去・現在・未来と直線的で、「 魂の時間 」であり、死亡により終わりがあります。

「 生命の時空 」の「 空間意識 」が存在すれば、それはエネルギーであり、「 生命の時空 」は「 無意識 」の領域であると考えます。

直線的な時間意識の影響で、空間的には「 ベクトル 」として二つの眼に感じて、(無意識の中に)「 ストレス 」を形成し、ストレス解消のために行為し、身(身体)口(言葉)意(意識)に「 無意識の意思が具現化して 」、阿頼耶識(arayasiki)となり、「 記憶 」の中に保存されると考えます。


次に「 精神の時空 」です。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は無限の大きさで、「 時間 」や「 空間 」という言葉で、その大きさをデフォルメしているのだと思います。

「測定する事」は、(精神であり)事象を象徴化する事だと思います。

Big Dikz を賞賛するように、「 事実 」の中に「 快感や期待 」を感じるのが「 精神的動物 」の人間です。

「 精神の時空 」の「 時間意識 」は、事実をデフォルメした、特異点が無い球体上の時間のように、始めと終わりが結合した、「 永遠 」の時間であると考えます。

「 考える事 」により、直線的で不連続な(実数の実体的な)「 生命の時空 」を連続に統合して、認識を可能にすると考えます。

「 関係 」は、考えるために、意味として存在し、無意識の領域に存在すると考えます。

この「 考える事 」が、虚数を乗じる事であり、意識の座標を回転する事であり、(デフォルメであり)、「 認識 」や「 統合 」は、直線的で不連続な「 生命の時空 」の「 時間意識 」が衝突した現実面での干渉波(言い換えれば、連続の面に結合された物)であると考えます。

「 精神の時空 」の「 空間意識 」は、前述した「 記憶 」であり、行動の原因となったストレスのフォーメイションや配置、行動の手順であり、「 関係 」として、形態の意思として、「 現実 」に現れると考えます。


2010/1/17、私の考え


過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」が「 意欲 」という行動のエネルギーに変わる時、物理学で「 位置エネルギー 」や「 運動エネルギー 」が存在するように、過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」に、「 エネルギー 」が蓄積されていて、「 無意識のエネルギー 」に溶け出すと考えます。

その反対が、「 時間意識 」を「 虚数化 」して、エネルギーを、記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」に変換する事だと考えます。

過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」は、「 エネルギー」の連続体であり、「 知識は力 」として、過去・現在・未来を結ぶ物だと考えます。

2010/1/31、私の考え

「 デフォルメ 」とは、変形する事だが、私は「 考える事であり、虚数を乗じる事であり、座標軸の回転であり、エネルギーの変換であり、象徴する事である 」という意味に使用する。

そして、以下の事が基礎になって、前進する。

B「時間」や「空間」は意識であり、根源には天体の運動がある。

C「時間」や「空間」という場合、既にデフォルメしており、自分の存在が、デフォルメする主体である。
デフォルメが「 精神 」であり「 文化 」である。


現実に見ている時や聞いている時という現実の意識も、認識の全てが、デフォルメされた「 精神 」である。




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2010年01月30日

2010/1/30、オカルト(関係と人格)脳内時空の追加1

私の考えは、奇妙な考えかも知れない。

Yahoo USA で、次のように掲載されている。

脳内時空

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk9hox2JLF18B96ul87UF?p=%E8%84%B3%E5%86%85%E6%99%82%E7%A9%BA&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=&pvid=Mgkvq0oGkumtTyQASuVtjAD43gamIktix20AA290

脳内時空の要約

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkp1x2JLn0QBta1XNyoA?p=%E8%84%B3%E5%86%85%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%B4%84&fr2=sb-top&fr=yfp-t-701&sao=1


2010/1/28、私の考え

私の考えは、次のような特徴を持っている。

@意識は電磁波の構造をしていると考える。

A意識は一定の速度であると考える。

B「時間」や「空間」は意識であり、根源には天体の運動がある。

C「時間」や「空間」という場合、既にデフォルメしており、自分の存在が、デフォルメする主体である。
デフォルメが「 精神 」であり「 文化 」である。


D現実は、生命の意識と精神の意識の複合であり、前者は「 直線的な永遠の時間 」後者は「 特異点の無い永遠の時間 」であり、前者は「 自意識 」で生命の意識であり一瞬の不連続の意識であるのに対し、後者は「 文化的意識 」であり「 関係 」の意識で連続している。

E現実は、意識と関係が縄目のように交互に現れ、「 関係 」は「 エネルギーを持つ場 」という空間意識であり「 空間的な配置 」であり、それがベクトルとして、個人の意識に潜入する。

逆に、個人が意思を「 関係 」としてエネルギーを放出し、総和は「 エネルギー保存 」される。


2010/1/30、私の考え

私の考えが奇妙だから、Yahoo USA が掲載してくれたのかも知れない。

「 脳 」の中に「 時空 」がある。

「 脳 」で、デフォルメした時空を、「 脳内時空 」と称している。

子供のような考えかも知れない。

B「時間」や「空間」は意識であり、根源には天体の運動がある。

C「時間」や「空間」という場合、既にデフォルメしており、自分の存在が、デフォルメする主体である。
デフォルメが「 精神 」であり「 文化 」である。


私が、「 箱根旅行と富士山 」の写真を見て思い出すのは、「 空間 」や「 時間 」を思い出すのではなく、時間と空間を統合した私の状況であり、私の五感で体験した「 脳内時空 」であり、私の「 文化 」である。

自然は膨大で、私が自然を考える時、自然をデフォルメして、時空をデフォルメして記憶するしか方法はない。

人間の認識自体が、デフォルメの上で成立した「 精神 」や「 文化 」であり、人間にとっては、自然の全てが「 現象 」である。

私の存在自体が宇宙をデフォルメするから、測定や観察などの科学的行為もデフォルメした「 文化 」であり、「 時間 」も「 空間 」も、天体の運動を知るために人間が作った概念で、「 時間意識 」や「 空間意識 」であると考える。

意識が及ぶ限りの宇宙であり、宇宙は、意識の「 外 」にあるかも知れない。

意識だから、デフォルメして、科学的な理論にも芸術にもなるし、記憶して思い出す事も出来ると考える。

時空は意識だから理論の中で融合し、時間は意識だから物理理論は、時間対称を好むと考える。

意識は、電磁波であり、「 生命 」であると考える。

DEについては、後日、書く予定です。


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2010年01月28日

2010/1/28、オカルト(関係と人格)脳内時空の要約

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


これまでの記事から抜粋しました。


2010/1/12、私の記事

「自意識」の時間と、物質の時間が違うから、一つの時間で判断する事は間違いとういう結論である。

円環的な時間の物質を、過去・現在・未来という直線で考える時、円環的な時間と直線的な時間の「 切り替え 」が、意識の座標に「 虚数を乗じる事 」であると考える。

意識の座標に虚数を乗じる事により、意識の座標が、進行方向に向かって回転しているのだが、これは、時間の切り替えという結論になる。



私が考える「時間」と「空間」を、「 脳内時空 」と呼ぶ。

2010/1/12、私の記事

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」である。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


私は、自分の「 記憶 」と「 今 」を結んだ意識上で、二種類の時間を持つが、私の精神が関係という意味を通じて社会の精神に結ばれ、特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であるのに、「 生命の死 」を見る事により、精神が「 永遠 」を疑う時、「 不安 」が生じると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」な精神が、二種類の時間を「 切り替える 」、「 思う 」、「 虚数を乗じる 」から、「 不安 」が生じるだろう。

2010/1/13、私の考え

「 脳内時空 」が、「 記憶 」との「 定在波 」の一つであり、「 自意識 」を成立させるが、以前に書いたように、「 脳内時空 」は「 意識 」と「 無意識 」、「 実数 」と「虚数 」、「 意識 」と「 関係 」などと書いたように、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」があり、後者の、デフォルメされた特異点を持たない球面上の時間が「 脳内時空 」の主体であると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」と考えるため、私は、何時までも若く、永遠に生きると「 脳内時空 」で思っている。

私は、「 脳内時空 」に、古来からの「 円環的時間 」は、採用しない。

繰り返す現象から、「 時間 」を考えるのではなく、「 脳内時間 」が「 虚数の時間 」が特異点を持たない球面上の時間であるから、現象が「 永遠に続く 」と意識するのだと思う。

現象が繰り返すから、時間が円環なのではなく、時間が特異点を持たない球面上の時間であるから、事象を繰り返す現象だと考えるのだと思う。

精神は、特異点を持たない球面上の時間が主体だと思うから、自分は何時までも生きると思うし、死後は「 輪廻転生 」して、生き物の姿は、犬や猫や馬や牛に変わっても、「 永遠に生きる」と信じている。


2010/1/15、私の考え


私が、「 意識としての時空 」というのは、「 時間 」を意識している範囲で「 時間 」である事で、「 今 」が光の往復で定義されるなら、私の意識の時空も、意識という電磁波(私見)が往復する限りの時空を考え、それを「 脳内時空 」と呼びます。

「 時間とは何か 」や「 空間とは何か 」という問題を説明するブログではありませんので、知識を求めるヒトは、このブログから去ってください。

私は、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」とが、霊の力(重力)の「 方向性 」が同じだから、「 自意識 」を構成し、人類だからDNA(阿弥陀如来)や創造主の力で、「 時間 」を感じていると考えます。

だから、私の一瞬には、三つの時空が重なっていると考えます。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は、後日、考える事にして、「 脳内時空 」として、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」を考えます。

まず、「 生命の時空 」を考えます。

「 生命の時空 」の「 時間意識 」は、過去・現在・未来と直線的で、「 魂の時間 」であり、死亡により終わりがあります。

「 生命の時空 」の「 空間意識 」が存在すれば、それはエネルギーであり、「 生命の時空 」は「 無意識 」の領域であると考えます。

直線的な時間意識の影響で、空間的には「 ベクトル 」として二つの眼に感じて、「 ストレス 」を形成し、ストレス解消のために行為し、身(身体)口(言葉)意(意識)に「 無意識の意思が具現化して 」、阿頼耶識(arayasiki)となり、「 記憶 」の中に保存されると考えます。

この「 生命の時空 」から、「 可能性 」が生じますが、後述する「 関係 」の「 可能性 」と間違えると、「 絶望 」が生じると考えます。

次に「 精神の時空 」です。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は無限の大きさで、「 時間 」や「 空間 」という言葉で、その大きさをデフォルメしているのだと思います。

「測定する事」は、事象を象徴化する事だと思います。

Big Dikz を賞賛するように、「 事実 」の中に「 快感や期待 」を感じるのが「 精神的動物 」の人間です。

「 精神の時空 」の「 時間意識 」は、事実をデフォルメした、特異点が無い球体上の時間のように、始めと終わりが結合した、「 永遠 」の時間であると考えます。

「 考える事 」により、直線的で不連続な「 生命の時空 」を連続に統合して、認識を可能にすると考えます。

「 関係 」は、考えるために、意味として存在し、無意識の領域に存在すると考えます。

この「 考える事 」が、虚数を乗じる事であり、意識の座標を回転する事であり、「 認識 」や「 統合 」は、直線的で不連続な「 生命の時空 」の「 時間意識 」が衝突した現実面での干渉波であると考えます。

「 精神の時空 」の「 空間意識 」は、前述した「 記憶 」であり、行動の原因となったストレスのフォーメイションや配置、行動の手順であり、「 関係 」として、形態の意思として、「 現実 」に現れると考えます。

配置や手順が、「 生命の時空 」での過去の出来事であるため、「精神の時空 」の「 空間意識 」は、打破すべき、改革すべきフォーメイションとなります。


2010/1/16、私の考え

私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、頭脳の中で、ヒトに共通という意味で直交して「 重なっている 」と考えます。


私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、それぞれ「 意識 」と「 無意識 」を持ち、時間を虚数化した空間が「 無意識 」を形成すると考えます。


「 生命の時空 」は、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」は、B「意識」とC「 無意識の関係 」を持ち、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が直交する。


@「意識」とB「意識」は、方向が同じであるから、一つの「 意識 」になり、「 無意識 」としてA「 無意識のエネルギー 」とC「 無意識の関係 」が「 自意識 」を形成するが、A「 無意識のエネルギー 」は常に実数であるため、「 意識 」となり、C「 無意識の関係 」が、虚数部分として「 無意識 」を形成すると考えます。



A「 無意識のエネルギー 」が「 意識 」で、C「 無意識の関係 」が「 無意識 」として、「 自意識 」を形成すると考えます。



A「 無意識のエネルギー 」の「 意識 」は、先天的で、「 可能性 」は「 行為が可能か不可能か」という実数で現れ、C「 無意識の関係 」の「 無意識 」は、後天的で、「 思考が可能か不可能か」という虚数で現れ、後者の思考が可能であるのに、前者の行為が不可能である時、「 絶望 」するかも知れません。



二つの時空は「 意識 」である事は共通ですが、「 生命の時空 」は先天的で、「 精神の時空 」は後天的であるのは、前者がDNAにより、既に発生点が決定されているのに対し、後者は、社会的な教育により決定されるからである。


両者の波長が一致するように「 意識 」が、後者の発生点を変えるように作用するが、DNA の「 感受性の強弱 」のために、不一致になる場合が多いと思う。


2010/1/17、私の考え

これは、フィクションであり、興味を持つヒトだけ閲覧してください。

そうなると、「 今 」を構成するのは、「 生命の時空 」の、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」の、B「意識」とC「 無意識の関係 」であり、@とBが「 意識 」でAとCが「 無意識 」です。

Aを「 E 」、Cを「 M 」、@とBを「 C 」とすれば、現実は、E=MC2の数式で成り立っているかも知れない。

「 無意識のエネルギー 」が、「 無意識の関係 」に「 意識 」を乗じた物と考えると、現実は、「 意識 」が、二つの眼で光景を見るように促し、過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」が、「 無意識のエネルギー」を増大させて、ストレスを生むと考えます。

過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」が「 意欲 」という行動のエネルギーに変わる時、物理学で「 位置エネルギー 」や「 運動エネルギー 」が存在するように、過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」に、「 エネルギー 」が蓄積されていて、「 無意識のエネルギー 」に溶け出すと考えます。

その反対が、「 時間意識 」を「 虚数化 」して、エネルギーを、記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」に変換する事だと考えます。

過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」は、「 エネルギー」の連続体であり、「 知識は力 」として、過去・現在・未来を結ぶ物だと考えます。

「 関係 」は「 物 」ですから、科学で解明される時が来るかもしれません。

A「 無意識のエネルギー 」の@「 意識 」は、先天的で、「 可能性 」は「 行為が可能か不可能か」という実数で現れ、C「 無意識の関係 」の「 意識 」は、後天的で、「 思考が可能か不可能か」という虚数で現れると考え、両者が虚数を乗じても「 可能性 」が変化しないというのは、「 天才 」であり、「 可能性 」が変わるのが普通であると考えます。

ヒトは、DNAも相違し、みんな、コンプレックスを持っていて、それと「 今 」を結び、想起するから、現在の「 意識 」は全て相違しますが、その「 意識 」は、「 方向性 」を持った「 意識 」であり「 可能性 」であり、意識を統合する「 価値観 」の違いとして現れるでしょう。

2010/1/18、私の考え

E=MC2であれば、行動のエネルギーは、無意識であり、虚数である「 関係 」の連続と、それを補完する現実の実数である「 意識 」により、過去から現在へと伝達された物であると考える。

過去から現在へと、時間を虚時間とした「 記憶 」という「 関係 」が連続して、自意識を形成しているのは、「 エネルギーの保存の法則 」が成立していると考える。

「 記憶 」を、DNAという「 感受性 」により、時間を虚時間とした「状況」という空間意識であると考えると、「 状況 」が持つエネルギーは「 場 」であるだろう。

エネルギーを持つ「 場 」が、電磁波である「 意識 」により、過去から現在まで連続して保存され伝達されているのが「 エネルギーの保存の法則 」であると考える。


エネルギーを持つ「 場 」が、意識という電磁波により、「 自意識 」として伝達される事が「 エネルギーの保存法則 」の成立ならば、現在の「 自意識 」は、過去の阿頼耶識(arayasiki)の総体である事、自分が身(身体)口(言葉)意(意識)の総体である事であり、無意識の「 行為 」を含めて「 エネルギーの保存法則 」が成立していて、その総体を導くのが「 人格 」であると考える。




2010/1/19、私の考え
「 関係 」が、「 エネルギーを持った場 」で、「 意識 」の存在可能性として、言い換えると、エネルギーが保存される範囲で、 「 意識 」と表裏一体で現れると考える。

「 意識 」とは、見るとか聞くなどという「 感覚 」で、感覚が可能な範囲は、「 エネルギー保存の法則 」が成立する範囲と考える。

「 関係 」は、「 意識可能性 」であり、「 知覚可能性 」であり、それが「 自信 」であると考える。

「 自信 」とは、存在する事が可能な範囲と思う「 意識 」である。



2010/1/26、私の考え

箱根を旅行して、富士山を見ていたら、次のように考えた。

富士山は、登山が可能な「 山 」であるが、登山する心次第で、「 霊山 」となるだろう。

「 山 」が、心に影響する「 エネルギーを持った場 」であり、「 登山して得た気持ち 」が「 意識 」であり、「 意識 」を「 場が持つエネルギーで拡大する 」のが、「 山岳信仰 」だろうと思う。


「 エネルギーを持った場 」が「 関係 」であり、その「 関係 」の中に「 意識 」が存在し、気(ki)というエネルギーを「 関係 」から得る事は、「 意識 」が「 霊界 」を知る事だと思う。


「 関係 」と「 意識 」が、縄のように互いに絡み合うのが「 認識 」であり、この循環の中で、「 霊 」と連絡する事が、「 日常性を破る事」であり、気分転換であるかも知れない。


「 エネルギーを持った場 」とは「 聖地 」と呼ばれる場所かも知れないし、宗教の儀式は、「 エネルギーを持った場 」を設定するという意味かも知れない。

儀式に、「 エネルギーを持った場 」を期待する気持ちがあれば、儀式を行う人に「 エネルギーを持った場 」を設定する気持ちが無くても、エネルギーは充分に伝わると考える。

登山者や儀式の参加者の「 心がけ 」次第で、エネルギーは、「 自信 」として伝達されると考える。




2010/1/28、私の考え

私の考えは、次のような特徴を持っている。

@意識は電磁波の構造をしていると考える。

A意識は一定の速度であると考える。

B「時間」や「空間」は意識であり、根源には天体の運動がある。

C「時間」や「空間」という場合、既にデフォルメしており、自分の存在が、デフォルメする主体である。
デフォルメが「 精神 」であり「 文化 」である。

D現実は、生命の意識と精神の意識の複合であり、前者は「 直線的な永遠の時間 」後者は「 特異点の無い永遠の時間 」であり、前者は「 自意識 」で生命の意識であり一瞬の不連続の意識であるのに対し、後者は「 文化的意識 」であり「 関係 」の意識で連続している。

E現実は、意識と関係が縄目のように交互に現れ、「 関係 」は「 エネルギーを持つ場 」という空間意識であり「 空間的な配置 」であり、それがベクトルとして、個人の意識に潜入する。

逆に、個人が意思を「 関係 」としてエネルギーを放出し、総和は「 エネルギー保存 」される。

個人の現実は、意識と精神のエネルギーが保存されて、調和している状態だと考える。


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2010年01月26日

2010/1/26、オカルト(関係と人格)脳内時空7

私の考えは間違いだと思うが、前進するしか道はない。


2010/1/18、私の考え

E=MC2であれば、行動のエネルギーは、無意識であり、虚数である「 関係 」の連続と、それを補完する現実の実数である「 意識 」により、過去から現在へと伝達された物であると考える。

過去から現在へと、時間を虚時間とした「 記憶 」という「 関係 」が連続して、自意識を形成しているのは、「 エネルギーの保存の法則 」が成立していると考える。

「 記憶 」を、DNAという「 感受性 」により、時間を虚時間とした「状況」という空間意識であると考えると、「 状況 」が持つエネルギーは「 場 」であるだろう。

エネルギーを持つ「 場 」が、電磁波である「 意識 」により、過去から現在まで連続して保存され伝達されているのが「 エネルギーの保存の法則 」であると考える。

2010/1/19、私の考え

「 関係 」が、「 エネルギーを持った場 」で、「 意識 」の存在可能性として、言い換えると、エネルギーが保存される範囲で、 「 意識 」と表裏一体で現れると考える。

「 意識 」とは、見るとか聞くなどという「 感覚 」で、感覚が可能な範囲は、「 エネルギー保存の法則 」が成立する範囲と考える。

「 関係 」は、「 意識可能性 」であり、「 知覚可能性 」であり、それが「 自信 」であると考える。

「 自信 」とは、存在する事が可能な範囲と思う「 意識 」である。


2010/1/26、私の考え

箱根を旅行して、富士山を見ていたら、次のように考えた。

富士山は、登山が可能な「 山 」であるが、登山する心次第で、「 霊山 」となるだろう。

「 山 」が、心に影響する「 エネルギーを持った場 」であり、「 登山して得た気持ち 」が「 意識 」であり、「 意識 」を「 場が持つエネルギーで拡大する 」のが、「 山岳信仰 」だろうと思う。


「 エネルギーを持った場 」が「 関係 」であり、その「 関係 」の中に「 意識 」が存在し、気(ki)というエネルギーを「 関係 」から得る事は、「 意識 」が「 霊界 」を知る事だと思う。


「 関係 」と「 意識 」が、縄のように互いに絡み合うのが「 認識 」であり、この循環の中で、「 霊 」と連絡する事が、「 日常性を破る事」であり、気分転換であるかも知れない。


「 エネルギーを持った場 」とは「 聖地 」と呼ばれる場所かも知れないし、宗教の儀式は、「 エネルギーを持った場 」を設定するという意味かも知れない。

儀式に、「 エネルギーを持った場 」を期待する気持ちがあれば、儀式を行う人に「 エネルギーを持った場 」を設定する気持ちが無くても、エネルギーは充分に伝わると考える。

登山者や儀式の参加者の「 心がけ 」次第で、エネルギーは、「 自信 」として伝達されると考える。




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2010年01月24日

2010/1/24、箱根旅行と富士山 5(芦ノ湖・帰路)

2010/1/19、「 箱根ホテル 」から見た夕方の富士山


右端の船は、「 箱根遊覧船 」です。



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2010/1/20、芦ノ湖から見た朝の富士山




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2010/1/20、帰路のゴンドラから見た富士山


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これで日記を終わります。

「 箱根の関所 」や「 箱根の杉並木 」など、江戸時代を彷彿させる写真も持っていますが、「 富士山 」の写真を掲載します。

箱根の空気は澄んでいて、食べ物も美味しく、生き返ったような気分になりました。

宿泊所を、箱根の何処か一つに決めて、途中下車が可能な3,900円の「 箱根フリーパス 」で、二日間、箱根観光を楽しむ事ができます。

心配なのは「 天気 」です。

富士山は、気まぐれで、天気により様々な表情をみせます。

私の場合は、ノーマルな富士山でしたが、私とは違う「 富士山 」を見たいと思います。
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2010年01月23日

2010/1/23、箱根旅行と富士山 4(駒ヶ岳)

2010/1/19、駒ヶ岳ロープウェイから見た富士山




hakonero-pu1




富士山ポスター

http://kandk333.free.makeshop.jp/shopdetail/000000000002/

好き勝ってな老人の富士山写真ポスター

http://kandk333.free.makeshop.jp/


2010/1/19、駒ヶ岳ロープウェイから見た富士山





komagatake3











20/1/19、駒ヶ岳山頂から見た富士山




komagatake1









駒ヶ岳と芦ノ湖からの富士山を掲載して終わる予定でしたが、紙面の都合で、分割する事が適当だと判断しました。

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2010年01月22日

2010/1/22、箱根旅行と富士山 3(絶景大涌谷2)

大涌谷からの富士山(3)




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大涌谷からの富士山(4)



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大涌谷からの富士山(5)




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似たような写真で、申し訳ありません。

これで、「 大涌谷からの富士山 」は、終わりです。

「 大涌谷 」は、箱根ロープウェイの途中下車地点で、絶景の富士山を見て楽しめますが、火山である証拠の硫黄の臭いがする噴煙地でもあります。

85度の硫黄泉で茹で、さらに蒸気で蒸した「黒タマゴ」や土産物を販売しています。

私たちは、ここでお土産を買って、再びロープウェイに乗り、桃源台港まで行き、芦ノ湖を縦断して「 元箱根 」で降りて「 駒ヶ岳ロープウェイ 」で駒ヶ岳の山頂に登り、「 箱根ホテル 」に泊まり、帰ったのですが、それは、後日、「 箱根旅行と富士山 4 」で写真を披露して、日記を終わります。

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2010年01月21日

2010/1/21、箱根旅行と富士山 2(絶景大涌谷1)

2010/1/19、箱根ロープウェイで大涌谷までの富士山





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2010/1/19、大涌谷から見た富士山(1)




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富士山ポスター

http://kandk333.free.makeshop.jp/shopdetail/000000000001/


好き勝ってな老人の富士山写真ポスター

http://kandk333.free.makeshop.jp/


2010/1/19、大涌谷から見た富士山 (2)




oowaku1












富士山は、恥ずかしがり屋さんで、気まぐれです。

すぐ雲に隠れます

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2010年01月20日

2010/1/20、箱根旅行と富士山 1

一泊二日で、箱根まで行って来ました。

その報告を、しばらく続けます。

私は、小さな頃から、富士山や箱根が好きでしたが、訪れる機会がありませんでした。

今回、息子の就職記念と、妻のケアマネージャ試験の合格と私の退職を記念して、箱根へ質素な旅行をする事になりました。

1月19日、「 箱根ホテル 」に宿泊しました。

そのホテルは、毎年開催される、箱根駅伝のゴール地点に近い所で、正月は大変な人出だったと聞きました。

交通機関は、小田急電鉄を利用しました。

小田原から、「 箱根フリーパス 」で、大人一人につき3,900円で、「 箱根ホテル 」まで、往復、つまり二日間、有効なのです。

「 箱根ホテル 」までの経路は、小田原→箱根登山電車で箱根湯本→強羅→ケーブルカーで「 早雲山」→箱根ロープウェイで「大涌谷」→箱根ロープウェイで「桃源台港」→箱根海賊船で「元箱根」まで行きました。

それから、別の交通機関で、駒ヶ岳山頂へ、ロープウェイで行きました。

そして、「 箱根ホテル 」で一泊して、翌日はバスで帰る予定を変更して、「 箱根関所 」を観光した後、前日の行程を逆にして帰って来ました。

帰路の箱根ロープウェイは、風の影響でゴンドラが揺れて、大変、不安でした。

旅行の様子は、デジタルカメラで、「 富士山を中心にして 」撮影しましたので、後日、披露します。



箱根の地図(箱根ナビ)

http://www.hakonenavi.jp/tanbou/map/index.html

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2010年01月19日

2010/1/19、オカルト(関係と人格)脳内時空6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


この結論は間違っていると思います。

しかし、私は、変更したいと思いません。



2010/1/18、私の考え

E=MC2であれば、行動のエネルギーは、無意識であり、虚数である「 関係 」の連続と、それを補完する現実の実数である「 意識 」により、過去から現在へと伝達された物であると考える。

過去から現在へと、時間を虚時間とした「 記憶 」という「 関係 」が連続して、自意識を形成しているのは、「 エネルギーの保存の法則 」が成立していると考える。

「 記憶 」を、DNAという「 感受性 」により、時間を虚時間とした「状況」という空間意識であると考えると、「 状況 」が持つエネルギーは「 場 」であるだろう。

エネルギーを持つ「 場 」が、電磁波である「 意識 」により、過去から現在まで連続して保存され伝達されているのが「 エネルギーの保存の法則 」であると考える。

2010/1/19、私の考え

「 関係 」が、「 エネルギーを持った場 」で、「 意識 」の存在可能性として、言い換えると、エネルギーが保存される範囲で、 「 意識 」と表裏一体で現れると考える。

「 意識 」とは、見るとか聞くなどという「 感覚 」で、感覚が可能な範囲は、「 エネルギー保存の法則 」が成立する範囲と考える。

「 関係 」は、「 意識可能性 」であり、「 知覚可能性 」であり、それが「 自信 」であると考える。

「 自信 」とは、存在する事が可能な範囲と思う「 意識 」である。





………(私は、以前、この記事を書いた)……

2010/1/11、私の考え

「 上杉 謙信 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

1530年2月18日〜1578年4月19日

越後の虎、越後の龍、聖将、軍神

「 死中生有り、生中生無し 」

………(省略)……


「 マハトマ・ガンジー 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

1869年10月2日〜1948年1月30日

私には見える。死の中に生が存在するのが。虚偽の中に真実が存在するのが。闇の中にこそ光が存在するのが。


2010/1/11、私の考え

上杉謙信とマハトマ・ガンジーの生存期間が、300年も相違するのに、二人とも、「 死の中に生が有る 」と言っている。

二人は、死を前にした兵士の士気を奮い立たせるための言葉だろうが、共通であるので、何かが有ると思う。

………(引用を終わる)……


2010/1/19、私の考え

私は、「 死中生有り、生中生無し 」と言う言葉を、西洋の「 唯物弁証法 」などに言う「 矛盾 」であると解釈しない。

一般に「 矛盾 」というのは、「 無知の誤魔化し 」であると思う。

「 矛盾 」では無くて、「 死 」という連続する意識の存在可能性である「 場 」の中に「 生 」という「 意識 」を探す事、「 死 」の可能性の中で、逆に「 是非、生きる 」という「 意識の存在の可能性 」を探す事であり、必ず「 生きる事 」であり、死という可能性に「 絶望 」する事では無いと考える。


「 死 」というのも「 関係 」だが、「 生 」というのも「 関係 」であり、両者は、縄のように表裏一体となっていて、何時かは「 死 」が「 生 」になると考える。


上杉謙信もマハトマ・ガンジーも、「 死 」の中に「 生きる 」という「 自信 」を持ちなさいというメッセージを表現したものだと考える。

「 自信 」とは、存在する事が可能な範囲と思う「 意識 」である。



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2010年01月18日

2010/1/18、オカルト(関係と人格)脳内時空 5

これは、私だけの真実であり、フィクションである。

2010/1/17、私の考え

これは、フィクションであり、興味を持つヒトだけ閲覧してください。

そうなると、「 今 」を構成するのは、「 生命の時空 」の、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」の、B「意識」とC「 無意識の関係 」であり、@とBが「 意識 」でAとCが「 無意識 」です。

Aを「 E 」、Cを「 M 」、@とBを「 C 」とすれば、現実は、E=MC2の数式で成り立っているかも知れない。

2010/1/18、私の考え

E=MC2であれば、行動のエネルギーは、無意識であり、虚数である「 関係 」の連続と、それを補完する現実の実数である「 意識 」により、過去から現在へと伝達された物であると考える。

過去から現在へと、時間を虚時間とした「 記憶 」という「 関係 」が連続して、自意識を形成しているのは、「 エネルギーの保存の法則 」が成立していると考える。

「 記憶 」を、DNAという「 感受性 」により、時間を虚時間とした「状況」という空間意識であると考えると、「 状況 」が持つエネルギーは「 場 」であるだろう。

エネルギーを持つ「 場 」が、電磁波である「 意識 」により、過去から現在まで連続して保存され伝達されているのが「 エネルギーの保存の法則 」であると考える。


エネルギーを持つ「 場 」が、意識という電磁波により、「 自意識 」として伝達される事が「 エネルギーの保存法則 」の成立ならば、現在の「 自意識 」は、過去の阿頼耶識(arayasiki)の総体である事、自分が身(身体)口(言葉)意(意識)の総体である事であり、無意識の「 行為 」を含めて「 エネルギーの保存法則 」が成立していて、その総体を導くのが「 人格 」であると考える。


日本の、ある刑法学者が言ったように「 ヒトは人格形成の責任がある 」と考える。


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2010年01月17日

2010/1/17、オカルト(関係と人格)脳内時空4

これは、フィクションです。


2010/1/16、私の考え

私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、頭脳の中で、ヒトに共通という意味で直交して「 重なっている 」と考えます。


私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、それぞれ「 意識 」と「 無意識 」を持ち、時間を虚数化した空間が「 無意識 」を形成すると考えます。


「 生命の時空 」は、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」は、B「意識」とC「 無意識の関係 」を持ち、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が直交する。


@「意識」とB「意識」は、方向が同じであるから、一つの「 意識 」になり、「 無意識 」としてA「 無意識のエネルギー 」とC「 無意識の関係 」が「 自意識 」を形成するが、A「 無意識のエネルギー 」は常に実数であるため、「 意識 」となり、C「 無意識の関係 」が、虚数部分として「 無意識 」を形成すると考えます。


A「 無意識のエネルギー 」が「 意識 」で、C「 無意識の関係 」が「 無意識 」として、「 自意識 」を形成すると考えます。


A「 無意識のエネルギー 」の「 意識 」は、先天的で、「 可能性 」は「 行為が可能か不可能か」という実数で現れ、C「 無意識の関係 」の「 無意識 」は、後天的で、「 思考が可能か不可能か」という虚数で現れ、後者の思考が可能であるのに、前者の行為が不可能である時、「 絶望 」するかも知れません。


二つの時空は「 意識 」である事は共通ですが、「 生命の時空 」は先天的で、「 精神の時空 」は後天的であるのは、前者がDNAにより、既に発生点が決定されているのに対し、後者は、社会的な教育により決定されるからである。

両者の波長が一致するように「 意識 」が、後者の発生点を変えるように作用するが、DNA の「 感受性の強弱 」のために、不一致になる場合が多いと思う。

2010/1/17、私の考え

これは、フィクションであり、興味を持つヒトだけ閲覧してください。

そうなると、「 今 」を構成するのは、「 生命の時空 」の、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」の、B「意識」とC「 無意識の関係 」であり、@とBが「 意識 」でAとCが「 無意識 」です。

Aを「 E 」、Cを「 M 」、@とBを「 C 」とすれば、現実は、E=MC2の数式で成り立っているかも知れない。

「 無意識のエネルギー 」が、「 無意識の関係 」に「 意識 」を乗じた物と考えると、現実は、「 意識 」が、二つの眼で光景を見るように促し、過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」が、「 無意識のエネルギー」を増大させて、ストレスを生むと考えます。

過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」が「 意欲 」という行動のエネルギーに変わる時、物理学で「 位置エネルギー 」や「 運動エネルギー 」が存在するように、過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」に、「 エネルギー 」が蓄積されていて、「 無意識のエネルギー 」に溶け出すと考えます。

その反対が、「 時間意識 」を「 虚数化 」して、エネルギーを、記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」に変換する事だと考えます。

過去の記憶の「 関係 」あるいは「 類型 」という「 精神 」は、「 エネルギー」の連続体であり、「 知識は力 」として、過去・現在・未来を結ぶ物だと考えます。

「 関係 」は「 物 」ですから、科学で解明される時が来るかもしれません。

A「 無意識のエネルギー 」の@「 意識 」は、先天的で、「 可能性 」は「 行為が可能か不可能か」という実数で現れ、C「 無意識の関係 」の「 意識 」は、後天的で、「 思考が可能か不可能か」という虚数で現れると考え、両者が虚数を乗じても「 可能性 」が変化しないというのは、「 天才 」であり、「 可能性 」が変わるのが普通であると考えます。

ヒトは、DNAも相違し、みんな、コンプレックスを持っていて、それと「 今 」を結び、想起するから、現在の「 意識 」は全て相違しますが、その「 意識 」は、「 方向性 」を持った「 意識 」であり「 可能性 」であり、意識を統合する「 価値観 」の違いとして現れるでしょう。

キリストや仏陀を見てください。

キリストについては知りませんが、仏陀は、正しく見る事により、生きる方向性を示しました。

人類の全ての方向が、地球を、重力を欠けば成立しないように、生きる方向性こそ、大切にしなければなりません。

私のブログは、何時、転覆しても不思議ではありませんが、「 人格の完成 」に向かって進みたいと思います。


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2010年01月16日

2010/1/16、オカルト(関係と人格)脳内時空3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/1/12、私の記事

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」です。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


2010/1/13、私の考え

「 脳内時空 」が、「 記憶 」との「 定在波 」の一つであり、「 自意識 」を成立させるが、以前に書いたように、「 脳内時空 」は「 意識 」と「 無意識 」、「 実数 」と「虚数 」、「 意識 」と「 関係 」などと書いたように、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」があり、後者の、デフォルメされた特異点を持たない球面上の時間が「 脳内時空 」の主体であると考える。




2010/1/15、私の考え


私が、「 意識としての時空 」というのは、「 時間 」を意識している範囲で「 時間 」である事で、「 今 」が光の往復で定義されるなら、私の意識の時空も、意識という電磁波(私見)が往復する限りの時空を考え、それを「 脳内時空 」と呼びます。

「 時間とは何か 」や「 空間とは何か 」という問題を説明するブログではありませんので、知識を求めるヒトは、このブログから去ってください。

私は、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」とが、霊の力(重力)の「 方向性 」が同じだから、「 自意識 」を構成し、人類だからDNA(阿弥陀如来)や創造主の力で、「 時間 」を感じていると考えます。

だから、私の一瞬には、三つの時空が重なっていると考えます。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は、後日、考える事にして、「 脳内時空 」として、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」を考えます。

まず、「 生命の時空 」を考えます。

「 生命の時空 」の「 時間意識 」は、過去・現在・未来と直線的で、「 魂の時間 」であり、死亡により終わりがあります。

「 生命の時空 」の「 空間意識 」が存在すれば、それはエネルギーであり、「 生命の時空 」は「 無意識 」の領域であると考えます。

直線的な時間意識の影響で、空間的には「 ベクトル 」として二つの眼に感じて、「 ストレス 」を形成し、ストレス解消のために行為し、身(身体)口(言葉)意(意識)に「 無意識の意思が具現化して 」、阿頼耶識(arayasiki)となり、「 記憶 」の中に保存されると考えます。

この「 生命の時空 」から、「 可能性 」が生じますが、後述する「 関係 」の「 可能性 」と間違えると、「 絶望 」が生じると考えます。

次に「 精神の時空 」です。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は無限の大きさで、「 時間 」や「 空間 」という言葉で、その大きさをデフォルメしているのだと思います。

「測定する事」は、事象を象徴化する事だと思います。

Big Dikz を賞賛するように、「 事実 」の中に「 快感や期待 」を感じるのが「 精神的動物 」の人間です。

「 精神の時空 」の「 時間意識 」は、事実をデフォルメした、特異点が無い球体上の時間のように、始めと終わりが結合した、「 永遠 」の時間であると考えます。

「 考える事 」により、直線的で不連続な「 生命の時空 」を連続に統合して、認識を可能にすると考えます。

「 関係 」は、考えるために、意味として存在し、無意識の領域に存在すると考えます。

この「 考える事 」が、虚数を乗じる事であり、意識の座標を回転する事であり、「 認識 」や「 統合 」は、直線的で不連続な「 生命の時空 」の「 時間意識 」が衝突した現実面での干渉波であると考えます。

「 精神の時空 」の「 空間意識 」は、前述した「 記憶 」であり、行動の原因となったストレスのフォーメイションや配置、行動の手順であり、「 関係 」として、形態の意思として、「 現実 」に現れると考えます。

配置や手順が、「 生命の時空 」での過去の出来事であるため、「精神の時空 」の「 空間意識 」は、打破すべき、改革すべきフォーメイションとなります。


2010/1/16、私の考え

私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、頭脳の中で、ヒトに共通という意味で直交して「 重なっている 」と考えます。


私は、この「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が、それぞれ「 意識 」と「 無意識 」を持ち、時間を虚数化した空間が「 無意識 」を形成すると考えます。


「 生命の時空 」は、@「意識」とA「 無意識のエネルギー」であり、「 精神の時空 」は、B「意識」とC「 無意識の関係 」を持ち、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」が直交する。


@「意識」とB「意識」は、方向が同じであるから、一つの「 意識 」になり、「 無意識 」としてA「 無意識のエネルギー 」とC「 無意識の関係 」が「 自意識 」を形成するが、A「 無意識のエネルギー 」は常に実数であるため、「 意識 」となり、C「 無意識の関係 」が、虚数部分として「 無意識 」を形成すると考えます。



A「 無意識のエネルギー 」が「 意識 」で、C「 無意識の関係 」が「 無意識 」として、「 自意識 」を形成すると考えます。



A「 無意識のエネルギー 」の「 意識 」は、先天的で、「 可能性 」は「 行為が可能か不可能か」という実数で現れ、C「 無意識の関係 」の「 無意識 」は、後天的で、「 思考が可能か不可能か」という虚数で現れ、後者の思考が可能であるのに、前者の行為が不可能である時、「 絶望 」するかも知れません。



二つの時空は「 意識 」である事は共通ですが、「 生命の時空 」は先天的で、「 精神の時空 」は後天的であるのは、前者がDNAにより、既に発生点が決定されているのに対し、後者は、社会的な教育により決定されるからである。


両者の波長が一致するように「 意識 」が、後者の発生点を変えるように作用するが、DNA の「 感受性の強弱 」のために、不一致になる場合が多いと思う。

そこに、「 人格 」が発生すると考える。


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2010年01月15日

2010/1/15、オカルト(関係と人格)脳内時空2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私が考える「時間」と「空間」を、「 脳内時空 」と呼びます。

2010/1/12、私の記事

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」です。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


私は、自分の「 記憶 」と「 今 」を結んだ意識上で、二種類の時間を持つが、私の精神が関係という意味を通じて社会の精神に結ばれ、特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であるのに、「 生命の死 」を見る事により、精神が「 永遠 」を疑う時、「 不安 」が生じると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」な精神が、二種類の時間を「 切り替える 」、「 思う 」、「 虚数を乗じる 」から、「 不安 」が生じるだろう。

2010/1/13、私の考え

「 脳内時空 」が、「 記憶 」との「 定在波 」の一つであり、「 自意識 」を成立させるが、以前に書いたように、「 脳内時空 」は「 意識 」と「 無意識 」、「 実数 」と「虚数 」、「 意識 」と「 関係 」などと書いたように、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」があり、後者の、デフォルメされた特異点を持たない球面上の時間が「 脳内時空 」の主体であると考える。




2010/1/15、私の考え

まず、Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれた事に感謝します。

Yahoo USA 「 脳内時空 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0LXPk9LVbcAlzBXNyoA?p=%E8%84%B3%E5%86%85%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%80%80m24658&fr2=sb-top&fr=yfp-t-701&sao=1

私が、「 意識としての時空 」というのは、「 時間 」を意識している範囲で「 時間 」である事で、「 今 」が光の往復で定義されるなら、私の意識の時空も、意識という電磁波(私見)が往復する限りの時空を考え、それを「 脳内時空 」と呼びます。

「 時間とは何か 」や「 空間とは何か 」という問題を説明するブログではありませんので、知識を求めるヒトは、このブログから去ってください。

私は、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」とが、霊の力(重力)の「 方向性 」が同じだから、「 自意識 」を構成し、人類だからDNA(阿弥陀如来)や創造主の力で、「 時間 」を感じていると考えます。

だから、私の一瞬には、三つの時空が重なっていると考えます。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は、後日、考える事にして、「 脳内時空 」として、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」を考えます。

まず、「 生命の時空 」を考えます。

「 生命の時空 」の「 時間意識 」は、過去・現在・未来と直線的で、「 魂の時間 」であり、死亡により終わりがあります。

「 生命の時空 」の「 空間意識 」が存在すれば、それはエネルギーであり、「 生命の時空 」は「 無意識 」の領域であると考えます。

直線的な時間意識の影響で、空間的には「 ベクトル 」として二つの眼に感じて、「 ストレス 」を形成し、ストレス解消のために行為し、身(身体)口(言葉)意(意識)に「 無意識の意思が具現化して 」、阿頼耶識(arayasiki)となり、「 記憶 」の中に保存されると考えます。

この「 生命の時空 」から、「 可能性 」が生じますが、後述する「 関係 」の「 可能性 」と間違えると、「 絶望 」が生じると考えます。

次に「 精神の時空 」です。

DNA(阿弥陀如来)や創造主の力による時空は無限の大きさで、「 時間 」や「 空間 」という言葉で、その大きさをデフォルメしているのだと思います。

「測定する事」は、事象を象徴化する事だと思います。

Big Dikz を賞賛するように、「 事実 」の中に「 快感や期待 」を感じるのが「 精神的動物 」の人間です。

「 精神の時空 」の「 時間意識 」は、事実をデフォルメした、特異点が無い球体上の時間のように、始めと終わりが結合した、「 永遠 」の時間であると考えます。

「 考える事 」により、直線的で不連続な「 生命の時空 」を連続に統合して、認識を可能にすると考えます。

「 関係 」は、考えるために、意味として存在し、無意識の領域に存在すると考えます。

この「 考える事 」が、虚数を乗じる事であり、意識の座標を回転する事であり、「 認識 」や「 統合 」は、直線的で不連続な「 生命の時空 」の「 時間意識 」が衝突した現実面での干渉波であると考えます。

「 精神の時空 」の「 空間意識 」は、前述した「 記憶 」であり、行動の原因となったストレスのフォーメイションや配置、行動の手順であり、「 関係 」として、形態の意思として、「 現実 」に現れると考えます。

配置や手順が、「 生命の時空 」での過去の出来事であるため、「精神の時空 」の「 空間意識 」は、打破すべき、改革すべきフォーメイションとなります。



精神の時間が特異点の無い球体上の時間で、永遠に続くと思っていますから、個人的に「 記憶を刷新する事 」は、社会的精神では、「制度改革 」になるでしょう。

この、「 生命の時空 」の空間的なエネルギーの行動の可能性と、「 精神の時空 」の空間的な「 関係の変革可能性 」を連結し、失敗した場合、「 絶望 」するかも知れません。


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2010年01月13日

2010/1/13、オカルト(関係と人格)脳内時空1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私が考える「時間」と「空間」を、「 脳内時空 」と呼ぶ。

2010/1/12、私の記事

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」である。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


私は、自分の「 記憶 」と「 今 」を結んだ意識上で、二種類の時間を持つが、私の精神が関係という意味を通じて社会の精神に結ばれ、特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であるのに、「 生命の死 」を見る事により、精神が「 永遠 」を疑う時、「 不安 」が生じると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」な精神が、二種類の時間を「 切り替える 」、「 思う 」、「 虚数を乗じる 」から、「 不安 」が生じるだろう。

2010/1/13、私の考え

「 脳内時空 」が、「 記憶 」との「 定在波 」の一つであり、「 自意識 」を成立させるが、以前に書いたように、「 脳内時空 」は「 意識 」と「 無意識 」、「 実数 」と「虚数 」、「 意識 」と「 関係 」などと書いたように、「 生命の時空 」と「 精神の時空 」があり、後者の、デフォルメされた特異点を持たない球面上の時間が「 脳内時空 」の主体であると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」と考えるため、私は、何時までも若く、永遠に生きると「 脳内時空 」で思っている。

私は、「 脳内時空 」に、古来からの「 円環的時間 」は、採用しない。

繰り返す現象から、「 時間 」を考えるのではなく、「 脳内時間 」が「 虚数の時間 」が特異点を持たない球面上の時間であるから、現象が「 永遠に続く 」と意識するのだと思う。

現象が繰り返すから、時間が円環なのではなく、時間が特異点を持たない球面上の時間であるから、事象を繰り返す現象だと考えるのだと思う。

精神は、特異点を持たない球面上の時間が主体だと思うから、自分は何時までも生きると思うし、死後は「 輪廻転生 」して、生き物の姿は、犬や猫や馬や牛に変わっても、「 永遠に生きる」と信じている。



社会の精神に、「 関係 」を通して自分の精神を連結させる、つまり社会の精神の中に「 関係 」や「 意味 」として自分の精神を具現化する事が、「 永遠に生きる事 」であると思う。



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2010年01月12日

2010/1/12、オカルト(関係と人格)関係と虚時間7

ここで、私が考える、「時間」と「空間」についての、虚構(フィクション)を追加します。


2010/1/12、私の記事

「自意識」の時間と、物質の時間が違うから、一つの時間で判断する事は間違いとういう結論である。

円環的な時間の物質を、過去・現在・未来という直線で考える時、円環的な時間と直線的な時間の「 切り替え 」が、意識の座標に「 虚数を乗じる事 」であると考える。

意識の座標に虚数を乗じる事により、意識の座標が、進行方向に向かって回転しているのだが、これは、時間の切り替えという結論になる。

2010/1/12、私の考え

私は、「 時間 」や「 空間 」一般を規定する事は出来ない。

私は、「 時間 」と「 空間 」を「 意識 」だと考えるから、「 時間意識」であり「 空間意識 」である。

私は、生きている間は、この意識の中の「 時間と空間の中 」で暮らすと思う。

人類が絶滅しても、天体の運動は続くだろうし、それが次に続く生物の「 時間や空間 」を生む実体だと思う。

私が興味を覚えるのは、「 意識としての時空 」である。

私は、「 記憶 」を、個人の歪んだ時空、すなわち、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、個人のDNA などの力による特殊な状況(空間)だと考えます。


その「 記憶 」と「 今の状況 」を電磁波的な構造の意識が往復する事を「想起」と呼び、意識は「 空間的意識 」と「 時間的意識 」による構造であるが、それは、虚時間で現れる歪んだ空間(精神)関係と現実で体験する実時間(生命)の意識の複合であり、前者が特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であり、後者は、「 光 」のように、過去・現在・未来と続く直線的な時間の「 永遠 」であると考える。


私は、自分の「 記憶 」と「 今 」を結んだ意識上で、二種類の時間を持つが、私の精神が関係という意味を通じて社会の精神に結ばれ、特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」であるのに、「 生命の死 」を見る事により、精神が「 永遠 」を疑う時、「 不安 」が生じると考える。

特異点を持たない球面上の時間として「 永遠 」な精神が、二種類の時間を「 切り替える 」、「 思う 」、「 虚数を乗じる 」から、「 不安 」が生じるだろう。

直線的な時間の中で、有限の命である自分を思うとき、不安は生じないが、死後を考えるとき不安になるだろう。


どちらの時間を選ぶかは、個人の自由である。


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2010/1/12、オカルト(関係と人格)関係と虚時間6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今日の記事は、これまでの考えの、大幅な修正であり、私のフィクションであり、私だけの考えである。


2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

……(省略)……

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。

2010/1/11、私の考え

……(省略)……

これらの言葉が、時代を超えて、現代の私に呼びかけるのは何故か?

これらの言葉は、「 虚時間 」の言葉であるからだと思う。

時間的な「 生 」を、精神的な「 生 」に「 虚数化 」し、文化として、彼らの死後に、残っているのだ。

これは、何故か?


それは、この言葉は、「 虚数の時間 」、つまり「 特異点の無い 」球面上の時間のように、直線の時間ではなく、循環する時間であると考える。

精神や芸術などの文化が持つ時間は、円環的、循環的な時間だろう。

だから、直線的な、過去・現在・未来という時間が経過しても、違う次元で、循環しているから、数百年も違う私が、理解する事が出来るのだと思う。




2010/1/12、私の考え

そうなると、私の考えを修正しなければならない。

私は、実数部分の「 意識 」と虚数部分の「 関係 」が交差して、現実の認識が成立すると考える。


「 意識 」すると同時に「 関係を想起 」していると考えるが、この虚数の「 関係 」が、円環的、循環的時間であり、直線的な「 自意識 」の時間と違うならば、私は、二つの時間を持っているという結論になる。


「自意識」の時間と、物質の時間が違うから、一つの時間で判断する事は間違いとういう結論である。

円環的な時間の物質を、過去・現在・未来という直線で考える時、円環的な時間と直線的な時間の「 切り替え 」が、意識の座標に「 虚数を乗じる事 」であると考える。

意識の座標に虚数を乗じる事により、意識の座標が、進行方向に向かって回転しているのだが、これは、時間の切り替えという結論になる。

これは、眼の視覚と、耳の聴覚の「 切り替え 」であると思う。

二つの感覚の違いは、光波と音波の違いだが、これは性質上、違う時間の種類であり、感覚を「 切り替えて 」認識しているのは、光波の「 直線的な時間 」と音波の「 円環的な時間 」を切り替えているのであり、光波の視覚という意識がデフォルメされた空間意識の配置という「 関係 」の均衡を崩すのに対し、音波の聴覚は、「 思索して情報を処理 」し、時間の流れの順序で均衡する方向の向かうと考える。

視覚と聴覚を、光波と音波の同じ基準で判断するから、速度や時間の遅れが生じるが、それぞれが異なる時間であり、両者は「 雷 」のように、同時に発生していると考える。

視覚と聴覚は、感覚の違いだと言われるが、私のブログでは、両者は時間の性質が違い、視覚は直線的時間であり、聴覚は円環的な時間であり、その「 切り替え 」は、虚数を乗じる事であり、古来の弁証法の矛盾の解決であると考える。

人間が、なぜ眼を持ち、なぜ耳を持つかの理由となる。



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2010年01月11日

2010/1/11、オカルト(関係と人格)関係と虚時間5

2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

……(省略)……

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。

2010/1/11、私の考え

「 上杉 謙信 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1

1530年2月18日〜1578年4月19日

越後の虎、越後の龍、聖将、軍神

「 死中生有り、生中生無し 」

辞世の句

「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし」

「 大石 良雄 (大石内蔵助) 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E7%9F%B3%E8%89%AF%E9%9B%84

1659年〜1703年3月20日

辞世の句

あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし


極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人


「 マハトマ・ガンジー 」

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%8F%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%BB%E3%82%AC%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%83%BC

1869年10月2日〜1948年1月30日

私には見える。死の中に生が存在するのが。虚偽の中に真実が存在するのが。闇の中にこそ光が存在するのが。



2010/1/11、私の考え

上杉謙信とマハトマ・ガンジーの生存期間が、300年も相違するのに、二人とも、「 死の中に生が有る 」と言っている。

二人は、死を前にした兵士の士気を奮い立たせるための言葉だろうが、共通であるので、何かが有ると思う。

また、上杉謙信と大石良雄は、辞世の句の中で、「 月にかかる雲無し 」と言っている。

これは、課題を遂行し終えて、人生に悔いが無い事を、この世に残したと考える。

これらの言葉が、時代を超えて、現代の私に呼びかけるのは何故か?

これらの言葉は、「 虚時間 」の言葉であるからだと思う。

時間的な「 生 」を、精神的な「 生 」に「 虚数化 」し、文化として、彼らの死後に、残っているのだ。

これは、何故か?


それは、この言葉は、「 虚数の時間 」、つまり「 特異点の無い 」球面上の時間のように、直線の時間ではなく、循環する時間であると考える。

精神や芸術などの文化が持つ時間は、円環的、循環的な時間だろう。

だから、直線的な、過去・現在・未来という時間が経過しても、違う次元で、循環しているから、数百年も違う私が、理解する事が出来るのだと思う。




精神や文化の時間は「 円環的・循環的 」であり、ヒトの死後は、この時間の仲間入りをして、後世に伝えられるというのが、現時点の結論です。


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2010年01月10日

2010/1/10、オカルト(関係と人格)関係と虚時間4

更に考えました。

2010/1/10、私の記事

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。


2010/1/10、考えた事

現実の時間を「 虚時間 」に変化させ、「 埋め込む事 」が、現実を、変形、つまりデフォルメ(deformasion)する事であり、その形態を「 文化 」と考える。

時間の要素を消す事が、未来に向かって存在する事であれば、「 芸術 」は、ヒトは死んでも残り続けるだろう。

「 人生は、芸術である 」と、ある宗教家が言った。

「 今 」の中に、「 永遠 」を発見するというのが、一般的な宗教的な教えであるかも知れないが、現実の時間を「 虚時間 」にする事、芸術のように「 今 」の感受性から時間的要素を奪い、時間に依存しない、自分だけが「 関係 」を感じる作品を作る事が、「 永遠 」に近づく事であると考える。

現代人には理解する事が出来ない「 死中生有り、生中生無し 」の「 生有り 」や「生無し 」という言葉を、時間を奪った「生 」という意味で「 現実の生とは違う関係として、精神としての生 」として解釈すれば、「 生 」とは、「 永遠の生 」となると思う。



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2010/1/10、オカルト(関係と人格)関係と虚時間3

Yahoo USA が、私の「 関係と虚時間 」の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA 「 関係と虚時間 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk97p.EhLSnoBt2Cl87UF?p=%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%81%A8%E8%99%9A%E6%99%82%E9%96%93&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=

以下は、過去の記事です。

2010/1/8、私の記事

( 引用文)
「すなわち、四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれます。」


2010/1/9、私の考え

私は、現時点で、「 記憶 」は虚時間を用いた、上記の引用文の「 時空 」だと考えます。

上記の「 時空 」が、イメージで、過去は全て方向の区別がつかない空間意識として保存され、「 方向 」は、結びつく意識の定在波により、定在波である「 人格 」の価値観の「 方向 」により決定されると考えます。


「 定在波 」とは、始点(今)と終点(記憶)を結んだ波(電磁波)が、習慣により、安定した軌道になった思考状態と考えます。


結びつく定在波が意識であるから、定在波と表裏一体となった「 関係 」が、意識に伴うイメージであり、過去のイメージは不連続であるように思うが、「 関係 」として、過去の全てが連続していると考えます。

それが、阿頼耶識(arayasiki)であり、感覚で把握される、実数としての現実の裏に、考えると直ちに現実の実数に現れる「 虚数 」として存在し、「 無意識 」という形態で、現実に現れると考えます。


2010/1/10、私の考え

私は、「 関係 」に使用する記憶というイメージを、「 四次元座標の四つの数値のうち、事象の空間位置を三つの数で、普通の時間ではなく虚時間での位置を一つの数で示すような時空が得られます。そのような時空では、空間の方向と虚時間の方向の区別は消え去ります。この時空では、普通の空間のように、一つの方向と他の方向の区別がつかないので、ユークリッド的といわれ 」る時空であり、それは個人のDNA などの力による特殊な状況だと考えます。

これが、人類の「 文化 」の全てを作り出すと考える。

現象と本質、自然物と象徴、などは、ヒトが二つの眼を持ち、目の前の対象物が持つ情報が余りにも多いため、ヒトは、「 関係 」として、対象物を頭脳の中に収納する。

日本庭園が自然を象徴したり、ピカソやゴーギャンが絵画で表現するのは、「 関係 」と同義の「 思想 」であり、現実の時空を「 虚数化 」する事であり、現実の時間や精神を、「 虚時間 」として「 空間に埋め込む事 」であると考える。

そして、鑑賞するヒトの感受性が持つ時空(状況)が、この「 埋め込まれた虚時間 」を、実際の時間の「 還元 」し「 復活 」させると考えます。

それが、「 感動 」です。



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