2010年07月31日

2010/7/31、オカルト・私の主張・言い訳6・回想

私は、特別な事を書いていない。

「 私の空間 」や「 私の時間 」が、なぜ愛おしいのかを考えた時、今まで学んできた「 認識論 」が、無力であるのを感じた。

流れ星や天体の星の動き、小鳥のさえずり、車の騒音、滝の音などに、「 心 」が動くのは、なぜ?

決まった時間に、就寝したり起床するのは、なぜ?

困ったとき、「 心 」を静かにすると、名案が湧くのは、なぜ?

シュミレーションとは、何?

「 象徴 」とは、何?

私の好き嫌いは、なぜ?

私が、いつも私自身と認めるのは、なぜ?

このような、子供が発する疑問を、自分で考えようと思って、ブログを書いてきた。


第1部

当初は、昔からの「 意識 」と「 無意識 」の考え方をしていたが、「 意識は光(電磁波)である 」という観念が湧き、決定される現実面は「 無意識 」によって決められる不連続面だが、「 意識 」という電磁波の構造(サインカーブ)で、結ばれて連続しているから、私が、いつも私自身と認めるのだという結論になった。

そして、人体が宇宙の産物であれば、人体は宇宙の仕組みと矛盾せず、宇宙に存在する事は人体の内部でも存在するから「 人体は小さな宇宙 」と呼ぶと考えた。

その結果、脳波が示す電流は、「 プラズマ宇宙論 」の「 ビルケランド電流 」となり、人体の電気を統制し、その電流から、電磁波の構造で派生するのが「 意識という電磁波 」であると考えた。

「 意識 」を生む頭脳は、電流が流れる層を形成し、それは天空の電離層に似て、「 意識 」を反射するプラズマ状態であると考えた。

そこで主要な意識の流れが、認識であると考えた。

電流という流れる物が「 無意識 」であれば、流れから派生する物が「 意識の電磁波 」であると考え、前者が「 空間意識 」を生む「 電場 」で、後者が「 時間意識 」を生む「 磁場 」であると考えた。

このように、「 意識の時空間の座標軸 」は、「 無意識 」によって、統御されていると考えた。

その総体が、「 霊 」であり、「 魂 」だろうと考えた。

認識する現実は、総体の「 霊 」が作る現実面で、認識する座標は、意識と無意識が、サインカーブを描いて回転する事により、現実面が作られる。

その事が、「 弁証法 」だろうと思った。

肯定と否定を繰り返す事は、「 座標軸の回転 」だろうと思った。

実数と虚数の繰り返しも「 座標軸の回転 」に関係しているだろう。

無意識により決定されて現実面に現れる時、可能性が現実になる事で、それは、「 意思が形態として具現化する 」事だと考えた。


しかし、総体の「 霊 」が決めると言っても説得力がないと考え、天体と同じように、人間にも「重力 」があり、それが「 人格 」であり、仏教の「 六道 」で表現される「 心 」の状態が「 人格 」であり、人間は「 必ず 」この六道の一つに存在しているから、常に「 人格 」を練磨しなければならず、「 人格の向上 」が、仏教だと思った。


「 霊 」というのは、意識の総体で、これは後で述べる「 小脳の無意識 」、つまり生命体であると思う。

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2010年07月28日

2010/7/28、オカルト・私の主張・言い訳5

私が書いているのは、特別の事ではない。

全ての人類が「 時間 」と「 空間 」を必要とし、皆が、「 私の時間 」や「 私の空間 」を持っていると思う。

その「 時間 」や「 空間 」が時計や物差しで計測された「 時空 」ではなく、「 私が好きな時空 」であり、自分の「 心 」が安らぐ時空間である。

「 心 」とは、「 小脳の無意識 」だから、無意識が決定した、「 安らぐ 」、「 快適な 」時空間であり、それが、ヒトに注目すると「 人格の具現化 」であり、社会や国家に注目すると「 文化 」であると考える。

私は、時空を意識だと規定し、時計や物差しで計測された「 時空 」に規定されない「 脳内時空 」を考えた方が、「 楽しい 」と提案している。

「 小脳の無意識が安らぐ時空 」は、素晴らしいと思う。


なぜ「 安らぐ 」のか。
なぜ「 楽しい 」のか。

それが、「 人格 」であり、「 文化 」だと思う。

「 安らいでいる心 」、「 小脳の無意識が安定した状態 」が、「 人格 」の具現化であり、「 文化 」だと思う。

今まで述べたように、「 小脳の無意識 」は、知り得る限りの宇宙空間まで達し、最小は、自分を形成している細胞やDNA などの「 幅員 」をもつ全ての空間に達して、区切る事は不可能である。

その「 時空 」の規定次第で、理論も思想も決定される。

物理の理論で「 時空 」を規定しないという事は、「 時空 」は常識に委ねる事であり、「 時空 」については自由な解釈を受け入れる事であると解釈する。

「 小脳の無意識 」に、心拍や呼吸のリズムと身体図形という運動可能性を設定し、前者が「 時間意識 」で後者が「 空間意識 」として、「 人格 」と「 文化 」を貫き、相互に往来する「 関係 」があるから、人類の文化も進歩すると考えるが、その事情は、全てのヒトが違う。

私は、「 文化の相対性 」を主張するのではない。

「 相対性 」は、絶対静止の「 時空の座標 」を前提とし、「 文化の相対性 」の中に、共通の「 関係 」を把握するのが学問だろうし、それは、絶対静止の「 時空の座標 」を疑い、「 意識の座標 」と規定し、「 小脳の無意識 」から「 文化 」の生成を考えるのが学問だと思う。

それは、「 小脳の無意識 」の、心拍や呼吸のリズムと身体図形という運動可能性が、民族や国家に応じて変化するのを考える事を提案する。

それは、「 人格 」や「 文化 」を考える事に導くだろうと、私は思う。

何を、どのようにデフォルメし、「 象徴化 」して、観衆の何を訴えるのかを考えることが文化を考える事だと思う。

民族や国家などの「 系 」で、環境による影響で文化が違うのは、月や火星などの天体で重力が違うように、思想や価値観が違うから、生活様式が違うから、かも知れず、それを解明するのが学問だろうと思う。


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2010年07月25日

2010/7/25、オカルト・私の主張・文化と人格3

これは、私の考えである。

少し、補足する。

2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 絶対的静止の時空軸 」を持つ事は、生きる事。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結している事で、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

これも、両者が同じ構造だからである。



全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。

個人は、自分の「 系 」で、「 絶対的静止の時空軸 」を持ちながら生き、全てが「 主観的 」であり、それが「 文化 」に具現化し、人類の意識が同じ変化をする時、それを「 本質 」と考える。

「 本質直観 」するのは、「 小脳の無意識 」が感じる「 力 」であり、「 本質 」ではないと考える。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。

個人の意識が変化を「 文化 」に具現化する事が出来ない状況が、他者にも同じである時、「 アプリオリ 」と感じ、人類を超越した物で、規定を放棄する。

それが、「 時間 」と「 空間 」であり、物理学が放棄し、哲学者の仕事なのに、放棄されている。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

他者は、当然の事で疑わないが、私は、疑う。

私は、「 時間意識 」と「 空間意識 」だと考えるからだ。



従って、次の結論に到着する。


「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。

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2010/7/25、オカルト・私の主張・文化と人格2

これは、私の考えである。

Yahoo USA が、私の記事を掲載してくれた。

大変、感謝して、更に考えました。

Yahoo USA (私の主張 文化と人格)
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGdLrtuUpMTukAUUyl87UF;_ylc=X1MDMjE0MjQ3ODk0OARfcgMyBGZyA3lmcC10LTkzNwRuX2dwcwMwBG9yaWdpbgNzeWMEcXVlcnkD7H6ARzYW8DMQ--?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E4%B8%BB%E5%BC%B5%E3%80%80%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%A8%E4%BA%BA%E6%A0%BC&fr=yfp-t-937&fr2=sfp&iscqry=

「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。



2010/7/25、私の考え


私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標
が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。


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2010年07月22日

2010/7/22、オカルト・私の主張・文化と人格

これは、私の考えである。

2010/7/18、私の記事

私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。

2010/7/19、私の記事

「 時間 」と「 空間 」を人間は知る事が出来ない。

人間は「 時空 」を意識として認識し、それが「 小脳の無意識 」に基礎があると私は考える。

実生活で、「 時間 」というのは「 時計 」が示す間隔であり、地球という天体の動きを「 時間 」として認識するのではなく、光速から定義された時間でも光速を認識するのでもない。

「 小脳の無意識 」に基礎があるから、自分が作り上げた時間意識と空間意識には限界があり、「 頭の中の時間と空間は閉じている 」と考える。

閉じた宇宙だから、意識の定在波により、鎖国時代の日本文化のように、「 文化 」が生まれる。

……………(省略)…………………………

時間自体や空間自体を認識する事は出来ない。

時間や空間の認識というのは意識であり、「 小脳の無意識 」に基礎を持つために、時間と空間は閉じた宇宙を形成し、意識の定在波は「 文化 」を生む。

閉じた宇宙とは、「 系 」である。


2010/7/22、私の考え


以上の話から、「 文化 」は、「 人格 」と似た意識の定在波であるという結果になる。


人間が行為する方法も、行為した痕跡も全て「 文化 」であり、「 人格 」が個人の意識の統合なら、「 文化 」も、閉じた宇宙の「 系 」の意識の統合であり、個人の「 文化 」もあれば、「 法人格 」のように「 系 」も「 人格 」を持つと考える。


「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。

「 文化 」としての言葉を使うヒトを形成するのが「 人格 」である。

生命が意識であるとすれば、意識の痕跡が文化であり、「 文化 」は、人間そのものであると考える。


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2010年07月19日

2010/7/19、オカルト・私の主張・言い訳4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/18、私の記事

私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。


2010/7/19、私の考え


「 時間 」と「 空間 」を人間は知る事が出来ない。

人間は「 時空 」を意識として認識し、それが「 小脳の無意識 」に基礎があると私は考える。

実生活で、「 時間 」というのは「 時計 」が示す間隔であり、地球という天体の動きを「 時間 」として認識するのではなく、光速から定義された時間でも光速を認識するのでもない。

「 小脳の無意識 」に基礎があるから、自分が作り上げた時間意識と空間意識には限界があり、「 頭の中の時間と空間は閉じている 」と考える。

閉じた宇宙だから、意識の定在波により、鎖国時代の日本文化のように、「 文化 」が生まれる。

日本文化の浮世絵は、生命を空間的にデフォルメして版画に残したものであるから、(「 デフォルメと美人画 」は絵画であるが)凝縮した女性の美を感じさせる。

時間自体や空間自体を認識する事は出来ない。

時間や空間の認識というのは意識であり、「 小脳の無意識 」に基礎を持つために、時間と空間は閉じた宇宙を形成し、意識の定在波は「 文化 」を生む。

閉じた宇宙とは、「 系 」である。

「 私の時間 」や「 私の空間 」があるが、それは私の「 小脳の無意識 」により、慣れ親しんだ「 時空 」であり、「 私の文化 」である。


人間が生きている限り、

文化は消滅しない。



こうして、以下の主張になる。



2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/3、私の記事

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


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2010年07月18日

2010/7/18、オカルト・私の主張・言い訳3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/17、私の記事

私は、カントの「 物自体 」を人間が知る事は出来ないということに賛成する。

「 物自体 」とは「 時間 」や「 空間 」と考え、これらは、「 先験的 」であり、人間は、これらを「 時間意識 」と「 空間意識 」として、デフォルメし、「 模写 」して考え、「 時間 」や「 空間 」を知らないと考える。

「 時間 」と「 空間 」が、「 時間意識 」や「 空間意識 」であるから、それの「 存在 」を小脳の無意識が決めるし、「 時間 」と「 空間 」を作り出している。

だから、一般相対性理論で、「 時空 」の区別がなくなり、「 時間意識 」や「 空間意識 」だから、「 時空 」を無視する事ができる。

私は、「 意識を電磁波 」と考え、「 時間 」は「 磁場 」、「 空間 」は「 電場 」を想定し、両者は「 符合を変えながら」、あるいは座標を回転させながら直進すると考える。

それは、空間的な運動が時間を生み、神経を流れる電流が磁場を作るが、前者は主観的で個性的な無意識であり、後者は人間一般に該当する客観性を持った無意識であり、前者は主観的「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、後者は、カントが言う「 直感形式や図式 」を作ると考える。

「 時間意識 」や「 空間意識 」であるから、デフォルメし、記憶が可能で、想起も可能である。

それは、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作る「 運動 」や「 速度 」が「 絶対的静止座標 」を前提とするから、「 運動 」や「 力 」の認識が「 主観的 」であり、「 時間 」や「 空間 」の定義は、人間一般に共通な「 関係 」であると考える。

2010/7/18、私の考え

参照

イマヌエル・カント(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%9E%E3%83%8C%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88

カントによれば、人間の認識能力には感性と悟性の二種の認識形式がアプリオリにそなわっている。感性には純粋直観である空間と時間が、悟性には因果性などの 12 種の純粋悟性概念(カテゴリー、すなわち範疇とも称する)が含まれる。純粋悟性概念は時間限定たる図式(schema)によってのみ感性と関係する。
意識はその二種の形式(感性と悟性)にしたがってのみ物事を認識する。この認識が物の経験である

直観
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B4%E8%A6%B3

直観は基本的な認識能力のひとつであり、曖昧に知覚と呼ばれているものと同義である。われわれすべての精神が、空間の形相においては外的直観を与え、時間の形相においては内的直観(記憶、思考)を与えるのであると、カントは考えた。



2010/7/18、私の考え


私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるというのは、私の考えと同様に主観的で、感性の分析を怠っていると思う。

感性が意識であれば「 精神 」であり、時間意識と空間意識を必要とし、感性が「 知覚 」であれば、意識と無意識で「 経験 」と考える事で解決する。

「 精神 」でもなく、「 知覚 」でもない「 純粋直観 」などは、「 私の見解・一般論 」で述べたように、時間や空間を必要としない、「 純粋直感 」であり、精神ではなく、「 時空の歪み 」である。

「 純粋直感 」や「 構成力 」というのも、「 時間 」や「 空間 」を必要としない、速度ベクトルが小脳の空間を「 ワープ 」させて、精神でデフォルメして新たな可能空間を生む事で、「 時間 」や「 空間 」を必要とする「 経験 」とは、全く相違する。


速度ベクトルによる「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播が、「 直感 」であると考える。


「 経験 」による記憶の積み重ねが「 直感 」を生むかもしれないが、私は、「 経験 」と「 直感 」は、地球の大気圏内と宇宙の真空の違いほど相違し、(もっとも、宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているが)、「 経験 」は特殊相対性理論の世界、「 直感 」は、一般相対性理論の世界に該当し、両者はヒトの中では、一つの「 系 」を形成すると考える。


過去の、時間や空間との関係で述べられた「 直感 」は全て「 虚偽 」であり、「 言葉の遊び 」であると考える。


「 形式や図式 」というのは、無意識が意識を生む「 関係 」であり、これは、人類の全てに共通する。

「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播とは、全く相違する「 時空 」の応用や適用(apply)やシュミレーションであり、「 時空 」を無視して、実行する事だと思う。



私は、意識と無意識を次のように考えた。

無意識は流れる物であり、神経内の電流で「 電場 」を形成する。

意識は、派生する物であり、「 磁場 」を形成し、これが、地球の磁場に関連して「 価値観 」などの「 重力 」となる。

無意識はエネルギーで、境界が無く、「 関係 」として存在し、実体概念の内容となり、実体の内容を決定する。

意識は、「 知覚 」や「 感覚 」であり、感性であり、境界を設定し、「 関係 」を区切り、絶対性を形成し、実体の形態を決定する。

「 絶対静止の座標 」を前提とした主観的な運動が、意識や精神であり、人類に共通な意識を生むという意味で客観的な運動が、無意識であり、精神の範囲外の「 物理 」や「 物自体 」であると考える。

無意識は小脳の働きであり、意識は大脳の働きであると思う。

私の見解 一般論の要約(Yahoo USA)
http://search.yahoo.com/search;_ylt=AqsdUODapnlNqLY7JxL_ZuebvZx4?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%A6%8B%E8%A7%A3%E3%80%80%E4%B8%80%E8%88%AC%E8%AB%96%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%B4%84&toggle=1&cop=mss&ei=UTF-8&fr=yfp-t-937


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2010年07月17日

2010/7/17、オカルト・私の主張・言い訳2

2010/7/6、私の記事

私の独り言を分類して、言い訳をしたい。

@意識の構造

☆「意識は電磁波(光)である」
☆意識は太陽光から生じた
☆意識の速度は一定である

A意識の人格化

☆六道は意識の定在波である
☆六道は人格である
☆欲は人格の引力
☆人格の魅力は重力波である

B意識の周囲

☆電離層は霊界である
☆意思は形態である
☆霊は意識の総和である
☆気は生命の印である

C意識を生み出す

☆時間意識はDNA
☆二つの眼は好きと嫌いを作る
☆デフォルメは精神である
☆小脳は時空を生む

D心は「 小脳の無意識 」である。

2010/7/17、私の考え

私は、カントの「 物自体 」を人間が知る事は出来ないということに賛成する。

「 物自体 」とは「 時間 」や「 空間 」と考え、これらは、「 先験的 」であり、人間は、これらを「 時間意識 」と「 空間意識 」として、デフォルメし、「 模写 」して考え、「 時間 」や「 空間 」を知らないと考える。

「 時間 」と「 空間 」が、「 時間意識 」や「 空間意識 」であるから、それの「 存在 」を小脳の無意識が決めるし、「 時間 」と「 空間 」を作り出している。

だから、一般相対性理論で、「 時空 」の区別がなくなり、「 時間意識 」や「 空間意識 」だから、「 時空 」を無視する事ができる。

私は、「 意識を電磁波 」と考え、「 時間 」は「 磁場 」、「 空間 」は「 電場 」を想定し、両者は「 符合を変えながら」、あるいは座標を回転させながら直進すると考える。

それは、空間的な運動が時間を生み、神経を流れる電流が磁場を作るが、前者は主観的で個性的な無意識であり、後者は人間一般に該当する客観性を持った無意識であり、前者は主観的「 時間意識 」や「 空間意識 」を作り、後者は、カントが言う「 直感形式や図式 」を作ると考える。

「 時間意識 」や「 空間意識 」であるから、デフォルメし、記憶が可能で、想起も可能である。

それは、「 時間意識 」や「 空間意識 」を作る「 運動 」や「 速度 」が「 絶対的静止座標 」を前提とするから、「 運動 」や「 力 」の認識が「 主観的 」であり、「 時間 」や「 空間 」の定義は、人間一般に共通な「 関係 」であると考える。

これは、私の見解だが、「 時空 」を真剣に考えるべきだと思う。


@意識の構造

☆「意識は電磁波(光)である」
☆意識は太陽光から生じた
☆意識の速度は一定である

以上の考えは、人間が「 太陽光 」を可視光線として認識し、太陽光のエネルギーが人体の中で、一定の速度や力として記憶され、人体のエネルギーに保全される構造である。

見る事も、太陽光の反射を網膜で知る事だと考えると、上下、左右の方向や重力を意識するのも、意識は太陽光から生じたと考える。


C意識を生み出す

☆時間意識はDNA
☆二つの眼は好きと嫌いを作る
☆デフォルメは精神である
☆小脳は時空を生む

以上の考えは、「 意識 」が「 生命 」でありDNAから生まれ、小脳が「 速度ベクトル 」を「 ストレス 」という「 力 」にデフォルメし、変換する事が、不連続であるが電磁波的に連続して頭脳の中で生じていると考える。

生じているのが、「 時空 」である。

機能はDNAであり、ストレスという力を、デフォルメして好きと嫌いに変換する連続が、「 小脳は時空を生む 」形態である。

B意識の周囲

☆電離層は霊界である
☆意思は形態である
☆霊は意識の総和である
☆気は生命の印である

以上の考えは、意識の総体は「 霊 」という、「 霊界 」で区切られた個人であり、「 気 」という生命の印を持つ「 意思の表現主体 」である。


A意識の人格化

☆六道は意識の定在波である
☆六道は人格である
☆欲は人格の引力
☆人格の魅力は重力波である

以上の考えは、Bの「 意思の表現主体 」が、他者から見た場合、進む方向を「 色分け 」する事が出来る事である。

D心は「 小脳の無意識 」であるから、「 心 」は他者から判別する事が出来る。

小脳の心拍のリズムや身体運動可能範囲を共通にする「 連中 」という人の集団を見る事により、集団に属する人の「 心 」、小脳の心拍のリズムや身体運動可能範囲を知る事ができる。

その「 心 」の状態が「 六道 」であり、「 人格 」であり、何をシュミレートして考えるかが、「 魅力 」であり「 引力 」であり、個人の特殊な考えであるから、「 個人の重力波 」であり、性格を決定する。

これは、「 ニコチン依存症 」や「 アルコール依存症 」や「 SEX依存症 」から、どのようにして脱却するかの時に衝突する問題である。

これは、自分が何故このような行動をするのかを考える事から出発する。

進む方向を断ち切る、強い力を必要とする。


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2010年07月15日

2010/7/15、オカルト・私の主張・文化は消滅しない・親子

今日は、「 親子 」を考える。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/6/27、私の記事

以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

…………………(省略)……………………………

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。

「 二本足で歩く事 」は、以下の記事を読んでください。

2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。




2010/7/15、私の考え


親と子は、DNA でも「 血液 」でも、緊密な関係である。

私は、「 小脳が時空を生む 」と書いたが、親子はDNA や血液が同じだから、小脳の無意識により時空が発生する段階でも、一緒だと考える。

親子が一緒に生活する事は、「 思い出を作る事 」だが、それは「 同じ時空を作る事 」である。

記憶は親子で違うかも知れないが、思い出すのは記憶の内容ではなく、T(時間)P(空間)O(機会)であり、時空を思い出すと考える。

同時に、時空を共有して、親と子が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれて、時間意識を発生させる「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、空間意識を発生させる「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションする事であり、想像する未来の自分の行動を、経験と一緒に教えるのが「 親 」であると思う。

「 心 」は「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


経験と共に、具現化する事により、「 小脳の無意識 」、「 心 」、「 文化 」を伝授するのが「 親 」である。

親子はDNA や血液が同じで、小脳の無意識により時空が発生する段階でも、一緒である事は、「 絶対的な座標 」の価値観を教える立場なのは、「 親 」である事だ。


時間や空間や重力や運動の方向などの「 絶対的な座標 」としての価値観は、実生活には必要で、それを欠いた時は「 生命の危機 」に陥ることを、「 無意識 」に教える。


それが、「 愛情 」かも知れない。

「 美意識 」・「 自己意識 」・「 愛情 」などは、小脳の基礎的部分であると思う。

それを欠けば、「 人間 」ではない。

「 生命の危機 」に陥ることを、「 無意識 」に教えるのが、「 親 」の愛であり、「 生命の危機 」に意識的に陥らせるのが、「 邪悪 」であり、持ち主を悪魔と呼ぶ。

このように、「 価値観 」を教えるのは「 親 」であるが、「 子 」が、どのような価値観を持つかは、子の「 人格 」の力である。

人の全体を貫く価値観が「 人格 」であり、その結果の「 ラグビー・ボール 」は「 意識の総体としての子の霊 」であり、「 親 」に責任はない。


親と共同生活をし、意識と無意識の「 二本足で歩きながら 」、「 子は親の背中を見て 」自分の中で、生命の無意識の価値観や人格を形成すると思う。

それが、親から子への、「 文化 」の引継ぎであると思う。



「 親 」は「 父 」とは限らない。

むしろ「 母 」こそ、「 子 」の価値観に影響するかも知れない。

かって、「 子 」は、胎盤で育てられたのだから。


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2010年07月13日

2010/7/13、オカルト・私の主張・文化は消滅しない3・教育

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今日は、「 教育 」について考える。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/3、私の記事

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。

2010/7/13、私の考え


以上の観点から、「 教育 」を考えたい。

「 教育 」とは、教えて育てる事であるが、人間を「 樹木 」として考えると間違いである。

私は、「 私の見解・一般論の要約 」で書いたように、人間を考えるから、「 教育 」というのも、樹木のような静的に考える事は間違いだと思う。

その理由は、意識と無意識は、動物の大脳や小脳から生まれる電磁波であるからだ。


「 文化 」という関係が重なった「 系 」を持ちながら、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系の「 価値観 」を持ち、それが「 先生 」と「 生徒 」が同列であり、お互いの「 価値観 」を尊重しつつ、「 信号 」により方向を示すのが「 先生 」だと思う。

「 文化 」や「 価値観 」の押し付けは、一旦は受け入れても、「 小脳の無意識 」が、容認しない。

「 先生に従わせる 」のでなく、無知の告白と解決が「 教育 」であり、「 同じ価値観にする 」のではない。

「 個性の尊重 」とは、互いの「 絶対性 」と「 相対性 」を知って、生徒が持つ長所を伸ばす事だろう。

「 人間 」についての無理解と、無知であるため、「 人間性 」を無視するのが、現代の教育であるから、「 人間を人間と思わない子供 」が育つのだと思う。

自分が知っている事しか、教える事は出来ない。

自分が知っている事を、生徒が無視するから、「 虐待 」をする。

「 価値観 」や「 文化 」は「 家庭の両親が教える事 」であり、自分の「 価値観 」を押し付けてはならない。

尊重して、長所を伸ばす事が、「 教師 」の仕事だと思う。

戦前の「 滅私奉公 」や「 自己犠牲 」が、「 価値観 」を教える事であるなら、「 個性の尊重 」は、価値観を教えるのでなく、「 人間とは何か 」を教えるべきだろう。

人間とは何か。人間の到達点は何処だろう?

それは、教科書にも書いていない。

人間の認知について明確な定義もなく、「 時間 」も「 空間 」も定義する事が出来ない事を教えて、疑問を持たせ、考えさせる事が「 教育 」であると思う。

それは、一つの哲学であり、学問としての「 哲学 」しか持たないから、子供を指導する事が出来ないのだと思う。

それは、「 個人の絶対的価値観 」を持つ事は誰でも同じであり、「 価値観 」を均一にする事ではなく、個人の「 価値観 」を伸ばした理論を作る事が、「 個性を伸ばす事 」だと思う。


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2010年07月12日

2010/7/12、オカルト・私の主張・文化は消滅しない・「 ザ・コーブ」

「 ザ・コーブ 」について。

2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/3、私の記事

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育は、全くの間違いだと考える。


それと同時に、現代の大国が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだという結論になる。


「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、民族の「 血 」の中で生きると考える。


2010/7/12、私の考え


以上の観点から、アカデミー賞を受賞した「 ザ・コーブ 」について考えてみたい。

これは、イルカであるが、クジラの捕鯨も同じと思うので、一緒に考える。

イルカもクジラも、哺乳類である。

牛や馬や羊や豚も哺乳類である。

私は、「 保護団体の人 」は、哺乳類の肉を食べないのだろうかと疑問に思う。

更に「 保護団体の人 」は、動物園の動物や犬や猫の「 ペット 」を、どのように考えているのか疑問に思う。

「 保護団体の人 」が、ペットの禁止や肉食の禁止や動物園の廃止を主張しなければ、私は、納得しない。

私は、「 小脳の無意識 」が「 心 」と思うから、全ての哺乳類は、「 心 」を持ち、「 人間 」と区別は出来ない。

まして、私は、死後は犬や猫や馬や牛などに生まれ変わるのではないかと危惧している。


「 人間 」が人間として生きるように、哺乳類は、ペットとして飼育されるべきでなく、食料として殺される運命でもない。

それは、「 人間の文化 」の問題であり、一人ひとりの「 頭の中の世界 」や国家や社会の関係が重なった「 文化 」という「 系 」を貫く「 価値観 」の問題である。



国家や社会や個人の「 文化 」の違いで、哺乳類を飼育したり、食料にしていると考える。

「 保護団体の人 」が、肉食をせず、菜食主義であるならば、哺乳類を飼育したり、食料にしている事を非難する事が出来るだろう。

肉食すれば、私たちと同じく、動物を殺害している人だ。



さて、「 ザ・コーブ 」は、日本人の多くがイルカを食べている印象を受けるが、クジラの捕鯨も同じだが、現在の日本で、クジラやイルカを食べている人は、高級料亭へ行く金持ちか、異色な肉を食べる人で、私たち大勢の日本人の食卓には無い。

私が知る限りでは、「 イルカ肉 」としてスーパーマーケットで売る事は無く、多くの日本人は、イルカを食べるなどの発想は無い。

たぶん、「 クジラ肉 」として、一部の隠れた高級料亭で食べられていると思う。

それを、「 日本文化の保護 」と言う人もいるが、私にとっては、クジラの肉もイルカの肉も「 マグロ 」も、必要ではないし、食べたいとも思わない。

捕鯨も、一部の人のための商業目的の捕獲であると思うから、調査捕鯨など、止めるべきだと思う。

多くの日本人は、食べないし、食べる機会が無いからだ。



ただ、「 ザ・コーブ 」の漁村には、近代以前から捕鯨し、イルカ漁をしてきた「 文化 」がある。

私には、イルカを食べないという「 文化 」があるが、第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育のように、私の価値観を押し付けるのは、間違いであり、「 文化 」を尊重すべきだと考える。


また、他民族の文化が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだと思う。

インカやインディアンの文化を消したり、チベットの文化を消したりする事も間違いだと考える。

それらの言葉や文化こそ、世界文化遺産と呼ぶべきだと思う。

固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 ザ・コーブ 」の漁民の「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 ザ・コーブ 」の漁民の「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


そして、「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、イルカやクジラの「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、イルカやクジラの「 血 」の中で生きると考える。


イルカの肉に、水銀やカドミュウムなどが含まれるなら「 幸い 」であり、食べた人が水銀中毒になっても自業自得であり、イルカの霊による復讐と考える。


人間は、好きな物に滅ぼされる。

タバコが好きな人は、タバコに。

アルコールが好きな人は、アルコールに。

イルカの肉を食べる人は、イルカに。

「 文化 」による「 文化 」の抹消でなく、「 霊 」による消滅でなければ、「 文化は消滅しない 」かも知れない。





ザ・コーブ(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%B4

イルカ追い込み漁(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%82%AB%E8%BF%BD%E3%81%84%E8%BE%BC%E3%81%BF%E6%BC%81





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2010年07月11日

2010/7/11、オカルト・私の見解・一般論の要約

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/11、私の考え


以下は、これまで書いた「 一般論 」の複写です。

私は、これを「 私の一般的認識論 」であると考えています。

宗教、学問、政治、文化、SEX、全てに適用して、限界を知りたいと思います。




2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。



2010/6/27、私の記事


以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性で、社会が連結しているから、コンピュターの人工頭脳は「 玩具 」であり、ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性のすべてを含む意識をもつ人工頭脳など不可能であると思う。

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。

「 二本足で歩く事 」


は、以下の記事を読んでください。


2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。

2010/7/4、私の記事

ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。

ヒトの「 系 」とヒトの「 系 」が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれているから、一時的に設定した「 虚構 」から、同じ社会の中で、他者が何を思っているのかという「 他者の系 」の想像や想起が可能となる。



精神の中で、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」があるから、天体の運動やヒトの「 情動 」を知り、行動するが、「 絶対的座標 」とは何かと質問した途端、「 実体 」が無くなり、「 小脳の無意識 」が新たな「 実体 」を作り出す。

「 時間意識 」と「 空間意識 」も「 系 」の中の一つの「 価値観 」であり、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、基礎となった電磁波である。

それは、「 二本足で歩く事 」であり、地球が動き、万物が流転する中での、意識の流転だと考える。


「 特殊相対性理論 」や「 一般相対性理論 」は、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」が、精神の中で存在していて、理論がニュートンと同じ前提に立っていて、「 絶対静止の空間 」の有無を解消していないと考える。


2010/7/7、私の記事

「 運動 」は、固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないから、主観的という事は、前述した。

「 速度 」も、「 時間 」と「 空間 」という固定した座標系の中の「 物体の位置の変化 」
であり、「 速度ベクトル 」と呼んでも、「 位置 」は精神的であり、「 ベクトル 」も精神的で心理的な「 運動 」であり、主観的であると考える。


宇宙空間の全てに「 小脳の無意識 」の「 欲 」が満ちていて、宇宙の運動が「 絶対静止 」した座標を要求するから主観的であり、「 速度 」も主観的であるから、運動の全てが「 小脳の無意識 」つまり「 心 」にストレスや動揺となって「 意識 」や行動に影響すると考える。


ヒトは地球が動いているのに、速度を感じないように、あるいは時速60キロメーターといっても、計器が示す時間と空間の「 関係 」で知るだけで、「 速度 」自体を頭脳で知る事は出来ないと考える。


「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。


2010/7/10、私の記事

私は、以上の事を、ヒトは頭脳の中で、既に実行していると思う。

「 直感 」というのが、それに該当する。

「 直感 」に「 時間 」や「 空間 」は必要ではなく、「 直感 」をデフォルメして、三次元や四次元で表現するときに必要とする。

言葉で思考する事も、結局は、「 小脳の無意識 」で、小脳の実現可能な空間を考える事であると考える。

「 純粋直感 」や「 構成力 」というのも、「 時間 」や「 空間 」を必要としない、速度ベクトルが小脳の空間を「 ワープ 」させて、精神でデフォルメして新たな可能空間を生む事で、「 時間 」や「 空間 」を必要とする「 経験 」とは、全く相違する。


速度ベクトルによる「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播が、「 直感 」であると考える。


「 経験 」による記憶の積み重ねが「 直感 」を生むかもしれないが、私は、「 経験 」と「 直感 」は、地球の大気圏内と宇宙の真空の違いほど相違し、(もっとも、宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているが)、「 経験 」は特殊相対性理論の世界、「 直感 」は、一般相対性理論の世界に該当し、両者はヒトの中では、一つの「 系 」を形成すると考える。


過去の、時間や空間との関係で述べられた「 直感 」は全て「 虚偽 」であり、「 言葉の遊び 」であると考える。


宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているから、「 経験 」の中で、「 直感 」が現れる。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年07月10日

2010/7/10、オカルト・私の見解・一般論4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/7/7、私の記事

「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。




2010/7/10、私の考え

私は、以上の事を、ヒトは頭脳の中で、既に実行していると思う。

「 直感 」というのが、それに該当する。

「 直感 」に「 時間 」や「 空間 」は必要ではなく、「 直感 」をデフォルメして、三次元や四次元で表現するときに必要とする。

言葉で思考する事も、結局は、「 小脳の無意識 」で、小脳の実現可能な空間を考える事であると考える。

「 純粋直感 」や「 構成力 」というのも、「 時間 」や「 空間 」を必要としない、速度ベクトルが小脳の空間を「 ワープ 」させて、精神でデフルメして新たな可能空間を生む事で、「 時間 」や「 空間 」を必要とする「 経験 」とは、全く相違する。


速度ベクトルによる「 小脳の無意識 」の、心拍リズムや運動可能性という空間の歪みの伝播が、「 直感 」であると考える。


「 経験 」による記憶の積み重ねが「 直感 」を生むかもしれないが、私は、「 経験 」と「 直感 」は、地球の大気圏内と宇宙の真空の違いほど相違し、(もっとも、宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているが)、「 経験 」は特殊相対性理論の世界、「 直感 」は、一般相対性理論の世界に該当し、両者はヒトの中では、一つの「 系 」を形成すると考える。


過去の、時間や空間との関係で述べられた「 直感 」は全て「 虚偽 」であり、「 言葉の遊び 」であると考える。


宇宙の真空は地球の大気圏をエーテルという形で浸透しているから、「 経験 」の中で、「 直感 」が現れる。



Every miller draws water to his own mill.
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2010年07月07日

2010/7/7、オカルト・私の見解・一般論3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2010/7/4、私の記事


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。


2010/7/7、私の考え


「 運動 」は、固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないから、主観的という事は、前述した。

「 速度 」も、「 時間 」と「 空間 」という固定した座標系の中の「 物体の位置の変化 」
であり、「 速度ベクトル 」と呼んでも、「 位置 」は精神的であり、「 ベクトル 」も精神的で心理的な「 運動 」であり、主観的であると考える。


宇宙空間の全てに「 小脳の無意識 」の「 欲 」が満ちていて、宇宙の運動が「 絶対静止 」した座標を要求するから主観的であり、「 速度 」も主観的であるから、運動の全てが「 小脳の無意識 」つまり「 心 」にストレスや動揺となって「 意識 」や行動に影響すると考える。


ヒトは地球が動いているのに、速度を感じないように、あるいは時速60キロメーターといっても、計器が示す時間と空間の「 関係 」で知るだけで、「 速度 」自体を頭脳で知る事は出来ないと考える。


「 時間 」と「 空間 」と「 速度 」を目で見える形態に具現化し、デフォルメして生きる日常生活に支障はないが、「 無意識の速度 」を考えると、この考えは破綻する。



無意識は「 欲 」であり、意識の時空を作り出すと考えると、固定した座標系の「 速度 」は、「 速度ベクトル 」であっても、無意識の速度に適用する事は出来ない。


「 無意識の速度 」は、思い出す速度のように、時空から時空への移動であると考えると、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動であると考える。

「 時間 」や「 空間 」を固定した座標系としない「 力 」の移動。

それは、「 重力 」の歪みの移動であり、天体が「 時間 」や「 空間 」ではなく、重力や引力の系で結ばれているなら、それに該当するのが「 小脳の無意識 」だろう。

「 速度 」は、理性的、精神的に観察する概念であり、運動している当事者は認識する事が出来ず、固定した座標系による「 速度 」を捨てて、「 速度ベクトル 」による時空の歪みの移動、物体の相互関係の重力や引力による移動が、「 無意識の速度 」であると考える。




このように考えると、「 意識 」の水準では、「 私の見解・一般論 2 」であるが、「 無意識 」を考えると、重力や引力による理論が発見されるかも知れない。



速度(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%9F%E5%BA%A6

速度(そくど)は、単位時間当たりの物体の位置の変化である。

速度と速さ
日常語としての速度(スピード、speed)は、大抵の場合一定時間あたりに進む距離のことを指す。これは [移動距離] ÷ [経過時間] で求めることができ、時速、分速などの単位が用いられる。
物理学の文脈では、日常的な意味での速度を速さ (speed) とよんで速度 (velocity) と区別する。速度は運動を表す物理量であり、ある物体が移動するときの、単位時間あたりの変位を表す。すなわち、物理学の文脈では速さと向きとを併せたものを速度というのであり、速さは「速度の大きさ」を示すスカラー量とみなされる。速度は“大きさ” と“向き”をもつのでベクトル量であり、それを明示するために速度ベクトルと呼ぶことがある。

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2010年07月06日

2010/7/6、オカルト・私の主張・言い訳

私の独り言を分類して、言い訳をしたい。

@意識の構造

☆「意識は電磁波(光)である」
☆意識は太陽光から生じた
☆意識の速度は一定である

A意識の人格化

☆六道は意識の定在波である
☆六道は人格である
☆欲は人格の引力
☆人格の魅力は重力波である

B意識の周囲

☆電離層は霊界である
☆意思は形態である
☆霊は意識の総和である
☆気は生命の印である

C意識を生み出す

☆時間意識はDNA
☆二つの眼は好きと嫌いを作る
☆デフォルメは精神である
☆小脳は時空を生む

D心は「 小脳の無意識 」である。

これまでの「 独り言 」は、「 私の見解・一般論2 」の考えを推進してきた言葉で基礎になっていると思う。

しかし、現在の考えは、「 私の見解・一般論2 」から飛躍している。

それは、「 速度 」に対して、疑問を持つようになったのだ。

それは、後日、書きます。


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2010年07月04日

2010/7/4、オカルト・私の見解・一般論2

2010/6/27、私の記事


以上の記事が意味する物は何か。


現実生活が、ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても変化しないように、個人の頭の中の「 世界 」に変化は無い。

ニュートン力学から特殊相対性理論に変わっても、個人個人の頭の中が、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系で計測するから、「 運動 」を初め、すべてが「 主観的 」であると考える。


これは、「 系 」のすべてに及び、「 系 」のすべてが「 主観的ラグビー・ボール 」であり、「 系 」のすべてに、「 二本足の考え 」が適用されて、人間は行動していると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動している事が、「 一般相対性理論 」でヒトとヒトが結ばれている事であり、「 時間 」と「 空間 」が「 時空 」となるのは、「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性でヒトとヒトが結ばれている事であると考える。

ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性で、社会が連結しているから、コンピュターの人工頭脳は「 玩具 」であり、ヒトの「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性のすべてを含む意識をもつ人工頭脳など不可能であると思う。

個人の「 特殊相対性理論 」の頭脳が「 一般相対性理論 」で結ばれているとは、ヒトとヒトが「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれている事だと考えた。

そして、認識する宇宙の果てまで「 欲 」が広がり、宇宙の運動が、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として現れると考え、その一方、個人の内部では、「 二本足の考え 」が適用されると、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の広がる範囲が、実体がある物となると考える。

現実の学問のすべてが「 主観的 」であり、学者のすべてが、私と同じように、「 二本足の考え 」で行動するとは、学問の数だけ、精神の行動パターンがあるが、「 行動する 」とは「 二本足で歩く事 」である。


2010/7/4、私の考え


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系である「 時間 」と「 空間 」も一つの「 価値観 」であり、個人の中では「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、時空を作り、大脳で「 時間意識 」と「 空間意識 」が「 実在 」すると「 意識する 」と考える。


「 絶対 」とは、自然や社会と「 共変 」し、循環するから、自分の運動を判別する事が出来ず「 静止 」していると大脳で「 意識 」する事であり、それは、国家や社会の「 系 」と個人の頭脳で考える「 系 」が重なっている状態である。


「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が「 時空 」を作ると考えると、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」と考えるのは、「 虚構 」あるいはフィクションであり、精神である。


その「 虚構 」を何故、必要とするかは、「 自分の共変する運動 」と相違する運動、つまり「 加速度する運動 」を知って、「 小脳の無意識 」である行動可能性とリズムに「 力 」として発見し「 二本足の考え 」を適用して、無知も無明に対して、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」を広げるためであると思う。


ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が無ければ、「 相対的な 」運動も存在しないと思う。

ヒトの「 系 」とヒトの「 系 」が「 時空を生む小脳の無意識 」の行動可能性やリズムで結ばれているから、一時的に設定した「 虚構 」から、同じ社会の中で、他者が何を思っているのかという「 他者の系 」の想像や想起が可能となる。



精神の中で、「 時間 」や「 空間 」を実在する「 絶対的座標 」があるから、天体の運動やヒトの「 情動 」を知り、行動するが、「 絶対的座標 」とは何かと質問した途端、「 実体 」が無くなり、「 小脳の無意識 」が新たな「 実体 」を作り出す。

「 時間意識 」と「 空間意識 」も「 系 」の中の一つの「 価値観 」であり、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、基礎となった電磁波である。

それは、「 二本足で歩く事 」であり、地球が動き、万物が流転する中での、意識の流転だと考える。


「 特殊相対性理論 」や「 一般相対性理論 」は、ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」が、精神の中で存在していて、理論がニュートンと同じ前提に立っていて、「 絶対静止の空間 」の有無を解消していないと考える。



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2010年07月03日

2010/7/3、オカルト・私の主張・文化は消滅しない

これは、フィクションである。


2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。



2010/7/3、私の考え

それが、生活では、どのように考えるかを書く。

一人ひとりの「 頭の中の世界 」が「 系 」であり、国家や社会も「 系 」と考え、「 関係 」が重なっている「 ラグビー・ボール 」を「 系 」と考え、「ニュートンの世界の「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系が「 価値観 」や「 文化 」と考える。


固定した座標系の「 時間 」と「 空間 」を、「 小脳の無意識 」、つまり心臓の心拍のリズムと呼吸する空間や身体運動可能性が、「 実在 」すると「 意識させる 」と考える。


固定した座標系の実在としての「 文化 」や「 価値観 」を、「 小脳の無意識 」が決定するならば、大脳の「 意識 」で、実在する「 文化 」や「 価値観 」を「 奪った 」り「 変革 」しても、「 小脳の無意識 」が新たな文化や価値観を作るから、「 文化を奪う事は出来ない 」と考える。


第二次世界大戦の日本軍の他民族への教育は、全くの間違いだと考える。


それと同時に、現代の大国が、他民族の文化を奪おうとしたり、変化させようとする試みも、間違いだという結論になる。


「 小脳の無意識 」を「 生命 」であり、「 霊 」であると考えると、「 意識 」という「 魂 」の系は、死亡により消滅するが、「 魂 」の系を作るDNA の連携である「 霊 」の系は、消滅せず、民族の「 血 」の中で生きると考える。


Every miller draws water to his own mill.

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