2010年08月29日

2010/8/29、オカルト・特殊論4・我と大我

2010/8/27、私の記事

ハスの姿を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 意識の世界 」が「 無意識の世界 」から生じ、「 花 」のエネルギーは「 泥 」から得ると考える。

「 我 」を「 ハスの花 」と考え、「 大我 」を「 ハスが浮かぶ池 」あるいは「 宇宙 」と考える。



2010/8/29、私の考え

「 我 」は何だろう。

「 我 」は、物質面では宇宙の一部であり、宇宙空間(エーテル)が私の体の隅々にまで浸透し、宇宙に対して独自性が無いという点では、「 無我 」であろう。

生物的な遺伝子や食物のエネルギーや文化という関係の重なりと、「 絶対静止の座標軸 」である自意識により、「 我 」が成立していると考える。

「 絶対静止空間という座標軸 」は、心拍や呼吸のリズムと身体運動可能性という「 小脳 」の無意識から生じると思う。

人工衛星の中で生まれて育った人類が基準とする「 絶対静止空間座標 」は、重力が無く、上下左右の意識も無く「 小脳 」の無意識、生命力による意識という電磁波により、時空を形成するだろう。

重力が存在し、鈍感な知覚を持つ事を自覚しないヒトは、「 時空は客観的だ 」と感じるかも知れないが、地球は自転し、太陽系も宇宙の位置を変えているので、「 同時性 」はもちろん、客観的時空などは、思考されたものであり存在しない。

重力が存在し、鈍感な知覚を持ち「 時空は客観的だ 」と感じるから、「 我 」が、そのヒトの頭脳の中だけに存在する。

従って「 我 」とは、鈍感な感覚の産物であるが、保身の為には必要だろう。

区切られないものを区切るのは「 意識 」だから、意識の世界が「 我 」の世界である。

私は、「 無我 」ではなく「 大我(大きな我) 」を求める方が発展的だと思う。

人間は行動する。

行動が意識を決定するのが「 欲 」であれば、「 欲 」は無意識に属するだろう。

「 意識 」と「 欲 」に関しては、先日、考えた「 意識 」と「 心 」の事と重複する。

「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。



このように、「 ハスの花 」が意識界であり、「 池 」が無意識界であり、「 ハスの花 」と「 池 」とを往来するエネルギーが「 時空 」であると思う。

意識が無意識の中に消えた「 無我 」ではなく、無意識の上に拡大した意識である「 大我(大きな我)」の獲得が、「 二本足の考えで歩く事 」である。


それは、無意識から意識を創り出すことである。

画家ならば、色や構図であるし、写真家であれば被写体の構図であるし、音楽家は、「 心に響く 」音、不安や喜びを惹起させる音楽だろう。

それらが共通するのは、「 観衆の中に時空が生まれる事 」、「 一体となった時空 」であると思う。

それは、時間と空間の常識を超えたという意味での「 存在 」であり、未来へ続くと思う。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年08月28日

2010/8/28、オカルト・特殊論3・ハスの花

2010/8/27、私の記事

私の誤りは、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉を、「 本 」や世間から教えられたように、「 清らかさや聖性の象徴 」であると思った事である。


2010/8/28、考えた事


「 本 」や世間から教えられている事を疑わないから、「 我 」も「 大我 」も不明のままなのだと思う。

仏陀が、「 ハスの花 」で、何を象徴していたのかなど、渡来の仏教で、判明する筈もない。

「 ハスの花 」のように生きようと思っていたが、大きな間違いだと思うようになった。

穢れた泥の中に根をはって、水上へと茎を出し、花を咲かせる姿が、人間の理想だと思うのは一つの価値観である。

しかし、そこで止まると、進歩は無くなる。

「 ハス 」を「 人間 」に置き換えると、生物的にも文化的にも、「 池 」という環境に助けられて生きる人間像が連想される。

「 ハス 」を考えると、「 ハスの花 」と水中の茎や「 池 」に分けられる。

前者が「 意識 」や「 精神の世界 」であり、「 大脳の世界 」であり、後者は、「 小脳 」の無意識 」の世界であり、「 心 」であると考えるようになった。


「 ハス 」は「 睡蓮 」であり、夜になると花を閉じるという。

これは、睡眠と同じで、夜、大脳が休むが小脳は大脳を覚醒させる働きに似ている。


茎や池が表現するのは、「 ハスの花 」を「 花 」として咲かせる生命力であり、「 花 」の生命力、言い換えると「 花 」の生存欲であると同時に、池が持つ生存させる力であり、それが「 花 」に及ぶ範囲が「 心 」である。


「 花を生存させる池の欲 」が「 花という形態となって具現化した 」事と、「 ハスの花 」の生存可能性が「 花という形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

そう考えると、「 ハス 」は「 人格 」であり、「 文化 」である事になる。

仏陀から見た「 ハス 」の色は、「 人格 」の色、価値観の色、つまり「 六道 」の色かも知れない。

「 心 」の範囲は次のように考える。

「 今 」や「 ここ 」が動かないと仮定しなければ、運動の相対性が判明しないように、「 絶対静止の空間 」、「 固定した座標軸 」が宇宙にあるのではなく、人間の脳の中に存在し、それが「 価値観 」であり、測定するヒトは皆、「 固定した座標軸 」という価値観を持ち、地上の重力のように、誰もが持っているという意味で、普遍的なことだと思う。


空間には、方位も境界もなく、「 固定した座標軸 」から見た時空の相互関係しかなく、その相互関係が、「 欲 」というエーテルを通じ、引力のように「 小脳の無意識 」に届いて反応するとき、「 心 」が及ぶと考える。



あっちの池と、こっちの池で、花の生育が違うように、「 系 」の価値観(慣性系もひとつの価値観)により「 花 」が相違するので、「 特殊論 」と名づけている。

私は、「 ハスの花 」を見て満足するのではなく、「 ハスの花 」から、茎や池へと、意識から生きるエネルギーへ変身する事が、意識から無意識に重点を移す事が、「 我 」を知る結果になると考える。


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2010年08月27日

2010/8/27、オカルト・特殊論2・あらすじ

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私は、「 本 」を捨てて、自分で考える事に決めた。

私の誤りは、「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という言葉を、「 本 」や世間から教えられたように、「 清らかさや聖性の象徴 」であると思った事である。


泥の中から、茎を出して、水上に花を開く「 ハス 」を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 ハスの花 」は「 意識の世界 」で、「 泥 」というのは、「 無意識の世界 」と考えると、私の「 二本足の考え 」と合致する。


ハスの姿を、清らかさや聖性の象徴と考えるのではなく、「 意識の世界 」が「 無意識の世界 」から生じ、「 花 」のエネルギーは「 泥 」から得ると考える。

「 我 」を「 ハスの花 」と考え、「 大我 」を「 ハスが浮かぶ池 」あるいは「 宇宙 」と考える。



仏教では「 無我 」というから「 大我 」は無いというのは、言葉遊びの哲学者が言う事で、「 我 」を真剣に考えた事のないヒトの言葉であると思う。


「 三昧 」とは、「 意識の世界 」から「 無意識の世界 」に重点を移す事であり、「 花 」から「 泥の池 」の中に中心を移す事であり、「 我 」を消して「 大我 」を把握することであると思う。


この「 三昧 」に入る行為を、「 二本足で歩く事 」であると考えている。


以上が、「 特殊論 」のあらすじです。



参考

ハス(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B9

ハスの花、すなわち蓮華は、清らかさや聖性の象徴として称えられることが多かった。 「蓮は泥より出でて泥に染まらず」という日本人にも馴染みの深い中国の成句[3]が、その理由を端的に表している。


仏教
仏教では泥水の中から生じ清浄な美しい花を咲かせる姿が仏の智慧や慈悲の象徴とされ、様々に意匠されている。如来像の台座は蓮華をかたどった蓮華座であり、また厨子の扉の内側に蓮華の彫刻を施したりしている。主に寺院では仏前に「常花」(じょうか)と呼ばれる金色の木製の蓮華が置かれている。一方で、仏教国チベットでは標高が高く生育しないため、想像でかかれたのかチベット仏教寺院では日本に比べ、かなり変形し、その絵はほんのり赤みがかった白い花として描かれている。 ただし、仏教でいう蓮は本来は睡蓮のことである。

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2010年08月25日

2010/8/25、オカルト・特殊論1、問題提議

私は、まだ「 人格 」を定義していない。

とりあえず、私を形成する「 理念 」と考えて、次の課題に移りたい。

私は、僧侶ではないが、西洋の僧侶と比べて、東洋の僧侶は修行を積む事が多いと感じる。

どうして修行して「 三昧 」の境地を得ようとするのか、あるいは、僧侶たちが言う「 我 」と「 大我 」とは何かについて、考えた。

これは、私の考えだから、「 本 」などには、書いてない。

「 一般論 」や「 文化と人格 」での考えが、総動員されるだろう。


参考

我(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%91

三昧(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E6%98%A7

常坐三昧(一行三昧) - 90日間座り続ける。
常行三昧(仏立三昧) - 90日間阿弥陀仏の周りを回りながら念仏を行う。
半行半坐三昧 - 本尊の周りを歩く行と、座る行を行う。
方等三昧 - 『大方等陀羅尼経』に基づいて7日間行われる。
法華三昧 - 『法華経』に基づき37日間または21日間行われる。
·非行非坐三昧(随自意三昧)

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2010年08月22日

2010/8/22、私の主張・文化と人格・後半

後半は、「 文化 」と「 人格 」の実体は「 価値観 」であるという話。


2010/8/8、私の記事

私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

…………(省略)……………………………


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

2010/8/15、私の記事

以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


2010/8/16、私の記事

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

価値判断を個人に統合した場合「 人格 」と呼び、社会で統合すれば「 文化 」であるが、「 人格 」にはDNA やRNA 、「 文化 」には法律、経済、科学などの「 層 」や「 引力 」や「 関係 」が存在する。

「 知性 」を発揮すべきは「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の分析の場合であり、本来は「 欲 」である「 文化 」や「 人格 」の優劣を分析する点に、「 誤り 」があると思う。


「 知性 」は「 意識 」であり、「 大脳 」の判断であるのに反し、「 価値判断 」は「 小脳 」の無意識に属するから、「 知性 」は性質から「 文化 」や「 人格 」を分析するのではなく、「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の仕組みや機構を分析すべきだろう。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であるから、具現化された人類の「 文化 」は、人類の数だけ存在し、統合は不可能という点で「 文化相対主義 」を支持する。


「 文化相対主義 」が「 知性 」であるなら、「 知性 」は、「 生きる仕組み 」を分析するが、「 欲 」である「 生きる事 」や「 生命の価値観 」を分析する事は性質上、不可能であると思う。


2010/8/22、私の考え


ヒトは「 あなたと私は、価値観が違う 」というが、私は、価値観の実体は「 欲 」であり、相手の「 欲 」を判断する事が出来ないから、「 価値観が違う 」とは主張することは出来ない。

価値判断とは、下に述べる内容であるからだ。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

「 あなたと私は、価値観が違う 」というのではなく、「 あなたと私の時空(世界)が違う 」というのが正当だと思う。

その理由は、下記のように考えるからだ。

「 小脳の無意識 」は、時間意識と空間意識を作るから「 小脳 」は、その人なりの「 時空 」を作る。

「 時空 」は主観であり、「 真の時空 」は天体の空間運動であり、人間には把握されないと考える。

物理の時空も、「 わが目 」という「 絶対静止の時空 」が無ければ、相対性も判断する事は出来ない事からも、上記のように、私は思う。


現時点では、次のように思っている。

宇宙に「 太陽系 」の惑星が「 重力や引力 」で存在する。

宇宙を満たすエーテルは各自に特有の「 小脳の無意識の広がり 」であり、「 心 」であり、「 欲 」である。

それを「 価値観 」という意識で区切った「 欲望 」の塊が社会では「 文化 」と呼ばれ、ヒトの場合は、「 人格 」であると呼ばれ、太陽系の惑星のように、存在している。

各自が持つ、あるいは各自が作る時空で「 人格 」は「 六道 」の中の一つの「 道 」であり、その旅人が人間であり、「 道 」を向上させるのが「 仏教 」であると思う。



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2010年08月21日

2010/8/21、私の主張・文化と人格・前半

私は、この章の前半では、「 文化 」と「 人格 」の中に、何があるのかを考えて来たと思う。

以下は、それぞれの記事である。


2010/7/18、私の記事

私は、認識は、感性と悟性により成立するのではなく、意識と無意識で成立すると考える。

感性に時間と空間の「 純粋直観 」があるのではなく、意識には、時間意識と空間意識があり、それは無意識の脈拍などのリズムと身体運動可能性から生じる。

時間と空間は、誕生と同時に、認識する事が出来なく、「 アプリオリ 」に与えられた生命の形態であると思う。

認識するのは、自分が作り上げた時間意識と空間意識であり、宇宙を形成する時間や空間ではない。

2010/7/19、私の記事

「 時間 」と「 空間 」を人間は知る事が出来ない。

人間は「 時空 」を意識として認識し、それが「 小脳の無意識 」に基礎があると私は考える。

実生活で、「 時間 」というのは「 時計 」が示す間隔であり、地球という天体の動きを「 時間 」として認識するのではなく、光速から定義された時間でも光速を認識するのでもない。

「 小脳の無意識 」に基礎があるから、自分が作り上げた時間意識と空間意識には限界があり、「 頭の中の時間と空間は閉じている 」と考える。

閉じた宇宙だから、意識の定在波により、鎖国時代の日本文化のように、「 文化 」が生まれる。

……………(省略)…………………………

時間自体や空間自体を認識する事は出来ない。

時間や空間の認識というのは意識であり、「 小脳の無意識 」に基礎を持つために、時間と空間は閉じた宇宙を形成し、意識の定在波は「 文化 」を生む。

閉じた宇宙とは、「 系 」である。


2010/7/22、私の記事

以上の話から、「 文化 」は、「 人格 」と似た意識の定在波であるという結果になる。


人間が行為する方法も、行為した痕跡も全て「 文化 」であり、「 人格 」が個人の意識の統合なら、「 文化 」も、閉じた宇宙の「 系 」の意識の統合であり、個人の「 文化 」もあれば、「 法人格 」のように「 系 」も「 人格 」を持つと考える。


「 文化 」や「 人格 」は、個人、あるいは国家に特徴を与える習慣的な行為であり、「 文化 」も「 人格 」も、「 時間 」と「 空間 」の混合だと思う。


「 文化 」としての言葉が、意味を表す記号としての文字と発音で成立しているならば、前者は社会に通用する情報、「 小脳の運動可能性 」であり、「空間的 」であり、後者は、喜怒哀楽を表現する抑揚のリズム、「 呼吸や心拍のリズム 」であり、「 時間的 」であると思う。



それが、一体となったのが、「 文化 」であり「 人格 」であると思う。

「 文化 」としての言葉を使うヒトを形成するのが「 人格 」である。

生命が意識であるとすれば、意識の痕跡が文化であり、「 文化 」は、人間そのものであると考える。


2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標
が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。

「 絶対的静止の時空軸 」を疑わない限り、「 文化 」に進歩は無いと考える。

「 二本足で考える 」とは、意識から無意識、無意識から意識へと飛躍する事であり、意識の状態に止まったら進歩は無いと考える。


2010/8/21、私の考え

読み返すと、「 共変 」というのが不明である。

これは、「 外の宇宙 」、つまり他者から見ると、同じ事を繰り返すように見えるが、「 内なる宇宙 」から見ると、同じ基準で「 存在 」すると無意識で実体化され、区別が出来ない事であると想定している。

「 努力 」と似たように考え、「 結果に出ない努力の過程 」であると考える。

「 結果 」が出たときは、「 如何なる努力 」か特定することは出来ない。

「 努力 」が重なった層の中から一つの「 無意識 」が「 形態として具現化した 」という事である。

芸術家の「 芸術は、爆発だ 」という言葉が、これである。

「 往来するもの 」が「 共変 」するものであると考える。

性質やヒトに訴える作用は相違するが、性質や作用に現れる前の「 小脳の無意識 」は同一であると考える。

「 小脳の無意識 」は、時間意識と空間意識を作るから「 小脳 」は、その人なりの「 時空 」を作る。

「 時空 」は主観であり、「 真の時空 」は天体の空間運動であり、人間には把握されないと考える。

物理の時空も、「 わが目 」という「 絶対静止の時空 」が無ければ、相対性も判断する事は出来ない事からも、上記のように、私は思う。


このように、「 小脳 」が「 時空 」を作ると考えるが、「 小脳の無意識 」が「 心 」であり、「 欲 」である事は、後半に要約する。 

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2010年08月16日

2010/8/16、私の主張・文化と人格・文化相対主義2

補足します。

2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

2010/8/15、私の記事

以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


2010/8/16、私の考え

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

価値判断を個人に統合した場合「 人格 」と呼び、社会で統合すれば「 文化 」であるが、「 人格 」にはDNA やRNA 、「 文化 」には法律、経済、科学などの「 層 」や「 引力 」や「 関係 」が存在する。

「 知性 」を発揮すべきは「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の分析の場合であり、本来は「 欲 」である「 文化 」や「 人格 」の優劣を分析する点に、「 誤り 」があると思う。


「 知性 」は「 意識 」であり、「 大脳 」の判断であるのに反し、「 価値判断 」は「 小脳 」の無意識に属するから、「 知性 」は性質から「 文化 」や「 人格 」を分析するのではなく、「 層 」や「 引力 」や「 関係 」の仕組みや機構を分析すべきだろう。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であるから、具現化された人類の「 文化 」は、人類の数だけ存在し、統合は不可能という点で「 文化相対主義 」を支持する。


「 文化相対主義 」が「 知性 」であるなら、「 知性 」は、「 生きる仕組み 」を分析するが、「 欲 」である「 生きる事 」や「 生命の価値観 」を分析する事は性質上、不可能であると思う。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年08月15日

2010/8/15、私の主張・文化と人格・文化相対主義

「 文化 」と「 人格 」についての考えは、(文化)相対主義を認めるか否かに発展する。


2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。


2010/8/14、私の記事

「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

価値判断を以下のように考え、以前の考えを引用する。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

(引用を終わる)


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。


2010/8/15、私の考え


以上のように、私は、科学の「 運動 」や「 速度 」などの「 力学 」さえも、「 絶対静止の時空 」を前提とした概念であり、全てが主観的で、「 価値観 」も主観的であると考える。


そして、以下の事が私の結論である。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

「 文化 」も「 人格 」も、「 小脳の無意識 」、つまり呼吸や脈拍と身体運動可能性という「 生命維持 」のための「 価値観 」が貫通していて、「 人間 」の水準では「 人格 」で、社会の水準では「 文化 」だと考える。

この共通の「 生命維持 」の価値観は、科学者であろうが一般人であろうが同じであり、優劣は無い。

だから、「 人格 」と関連した「 文化の相対性 」を支持する。

本来は、全ての価値観を尊重すべきだが、国家目的や社会風俗を規制するために、人類は「 法律 」で、国家の方向を定め、反する「 生命維持 」の価値観を認めないと考える。


従って、「 科学的 」には、「 相対主義 」が正当であり、「 相対主義 」を否定する科学者や哲学者は、「 人格 」については、「 無知 」であると」いうのが結論である。



参考

(文化)相対主義 (Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E4%B8%BB%E7%BE%A9

相対主義と主観性

主観性は、相対主義にとって重要な論拠のひとつである。ここで、主観性とは、事物の把握の仕方が、個々の主体に依存しているということを意味する。すなわち、相対主義の認識論的な根拠によれば、個々の主体によって把握された事象(いわゆる表象や観念)は、個々の主体の感じ方や捉え方に依存しているので、それとの相対的関係においてしか存在しえない。


肯定説

グスタフ・ラートブルフの寛容論と相対主義

法学者のラートブルフは、法学における価値相対主義の先駆者であり、彼によれば相対主義とは、「窮極の立場の学問的基礎付けを断念し各個人に立場をとることのもろもろの可能性をあますところなく呈示することにのみ自己の任務を限り、各個人が立場をとること自体は、彼の人格の深みから生じたところの良心にゆだねる」方法を意味する[2]。このような相対主義は、全ての価値判断をその主張者にとっては同等の権利を持つものと認めるので、普遍的寛容に繋がる[3]。


否定説
カール・ポパーの寛容論と相対主義

科学哲学者のポパーによれば、「相対主義とは、何でも主張できる、ほとんど何でも、したがって何も主張しないという立場」である[11]。ポパーはこのような相対主義を、知的無責任、常識と理性の破壊として批判する[12]。彼は、客観的真理理念および可謬性を前提とする批判的多元主義(つまり複数の主観的な世界観が単に併存しているのではなく全体が1つの客観的真理へと向かおうとする多元主義)を相対主義に対置し[13]、人間の無知を強調することによって寛容を擁護する[14]。

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2010年08月14日

2010/8/14、オカルト・私の主張・文化と人格と価値観

これは、特殊論であり、私だけの考えです。

私のブログについて、「 哲学の本 」を読んでから書けという批判があったが、私は、「 書 」を捨てた。

「 哲学者 」の弁護は望まないし、「 言葉遊び 」の「 哲学 」なんて要らないし、哲学者も結局は、自分の考えを書いているのに過ぎない。

そうだとしたら、「 時間 」や「 空間 」や「 価値観 」や「 人格 」など、私が知りたいと思う事は、(全てが主観だから)自分で考えたいと思い、ブログを書いている。

「 哲学 」が好きな人は、ここから去って、「 本 」を読んでください。

さて、私は、自分の問題を考えよう。


2010/8/8、私の記事

私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。


2010/8/14、私の考え


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。

これは、私が「 小さなDikz 」である事や、三流大学卒の頭脳である事などの、「 天から 」あるいは「 DNA やRNA 」により、私に与えられた肉体の条件であり、機能であり、「 層 」や「 関係 」を築く「 引力 」と考える。

これは、人類の全てに与えられるが、全て相違する。

価値判断を以下のように考え、以前の考えを引用する。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

(引用を終わる)


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化である 」と考える。

「 欲 」と「 往来 」するのは、呼吸や脈拍による「 時間意識 」と身体運動の可能性による「 空間意識 」という「 小脳の無意識 」に決定される「 時間 」と「 空間 」であり、宇宙空間を電離層や重力で区切っている状態と似ている。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

Every miller draws water to his own mill.
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2010年08月08日

2010/8/8、オカルト・私の主張・文化と人格4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2010/6/26、私の記事

以上により、個々の人間が認識する世界が、「 精神 」であり「 系 」であり、「 特殊相対論 」の世界や系であり、「 絶対静止の空間 」、つまり固定した座標系であると考える。


そして、人間の頭の数だけ、「 特殊相対性理論 」の世界や系が存在し、それら相互の関係は、「 一般相対性理論 」の世界であると考える。

2010/7/25、私の記事

私は、「 絶対的静止の時空軸 」が基礎で、理論が成立し、「 運動 」も「 速度 」も主観的であると考えている。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメし、頭脳の中には、「 客観的 」な真理など、存在しない。

私は、「 系 」という関係の折り重ねを貫くのが、「 絶対的静止の時空軸 」であり、「 自意識 」であるかも知れない。

「 絶対的静止の時空軸 」を持つ事は、生きる事。

「 自意識 」も「 時間意識 」も「 空間意識 」も、「 意識 」であるから電磁波の構造で、「 文化 」と「 人格 」を往来する。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結している事で、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。

これも、両者が同じ構造だからである。



全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で「 客観的 」と考えるのは、同じ構造をした「 文化 」の中で、人類の意識が「 共変 」する物語が「 本質 」だと思う。

個人は、自分の「 系 」で、「 絶対的静止の時空軸 」を持ちながら生き、全てが「 主観的 」であり、それが「 文化 」に具現化し、人類の意識が同じ変化をする時、それを「 本質 」と考える。

「 本質直観 」するのは、「 小脳の無意識 」が感じる「 力 」であり、「 本質 」ではないと考える。


「 共変 」する「 本質 」が「 時間 」と「 空間 」だから、人類は、それを「 意識 」だと考えず、創造主から与えられた物と思うのだ。

個人の意識が変化を「 文化 」に具現化する事が出来ない状況が、他者にも同じである時、「 アプリオリ 」と感じ、人類を超越した物で、規定を放棄する。

それが、「 時間 」と「 空間 」であり、物理学が放棄し、哲学者の仕事なのに、放棄されている。


「 共変 」する物は「 動かない 」が、違う「 系 」から見ると「 動いている」。

他者は、当然の事で疑わないが、私は、疑う。

私は、「 時間意識 」と「 空間意識 」だと考えるからだ。



従って、次の結論に到着する。


「 文化 」と「 人格 」は、社会と個人という「 系 」は相違するが、「 共変 」する座標が類似した構造だから、互いに往来できると考える。

その「 共変 」する座標上で、個人の情報が社会の情報に変化した時、あるいは、個人の心拍や呼吸のリズムが、「 文化 」の中で「 音楽 」と認められた時、「 本質 」と呼ぶと考える。

従って、「 本質 」は、「 文化 」の中に存在し、個人の頭脳の中では、「 力 」として、小脳の無意識に作用するだけだと思う。


真理が、「 主観 」と「 客観 」の問題ではなく(全てが主観的である)、情報が「 社会的に共有できるか否か 」の問題だと思う。

「 共変 」するから実在するのであり、「 共変 」も「 無常 」の一つの形態である。



2010/8/8、私の考え


私が、なぜ「 文化と人格 」を書くのかを考えた。

私は「 価値判断 」について考えていたのだろう。


宇宙空間で知り得る所まで、「 欲 」を拡大し、自分の小脳の無意識、言い換えると「 心 」と直結し、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かすと考える。

「 欲 」はエーテル体であり、「 意識 」は「 大気圏 」と考え、意識の総体は「 霊 」で、「 大気圏 」の「 電離層 」のように、頭脳の中で「 層 」を作っていると考える。

「 層 」は、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある。

「 人格 」は、DNA やRNA の組み合わせにより「 引力 」のような「 重力波 」を生じると考えるが、重要な事は、DNA やRNA の組み合わせを可能にする「 酵素 」は、「 小脳 」から分泌される事である。

「 引力 」のような「 重力波 」は「 人格 」であり、外部から見れば「 系 」でもあり、「 関係 」でもある「 層 」を作る。

DNA やRNA の組み合わせにより、どのような「 層 」や「 関係 」を「 引力 」として持っているかが、「 六道 」という「 心の状態 」を決定すると考える。

価値観を伴った判断を、「 色眼鏡で見る 」というが、「 色眼鏡 」は「 層 」であり「 関係 」であり、「 見る 」とは「 生きる事 」であり、文化と人格を往来する、「 時空感覚 」や「 時空意識 」を持つ事であると考える。

「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。

全てが行動を決定する「 欲 」であり、主観的で、デフォルメした頭脳の中で、「 力 」を感じるのは、「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」が存在するからであり、「 心 」の状態が「 人格 」であり、「 六道 」という心の状態であると考える。

「 見る 」とは、小脳の無意識が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事であり、個人の「 人格 」の「 小脳の無意識 」、つまり「 心 」の状態が、「 文化 」という社会の無意識の統合体に具現化し、その逆も成立すると考える。


「 色眼鏡 」あるいは、「 衣服 」が「 文化 」であり、どのような種類の「 色眼鏡 」を持つかは、DNA やRNA で決められた「 人格 」の「 引力 」による事になる。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年08月07日

2010/8/7、オカルト・私の主張・言い訳・回想9

第三部 「 二本足の考え 」

2010/5/8、私の記事

小脳の無意識は、呼吸や覚醒や鼓動という生命の無意識で、大脳の意識と区別し、二つを焦点とした「 二本足の考え 」を以前、発表した。

小脳という臓器は身体の範囲に限られているが、そこから発する無意識は、宇宙の運動を認識し、同じ「 動き 」の身体の行動と直結する。

「 小脳の無意識 」の範囲は「 心 」の範囲である。

「 心 」を動かす、眼を動かしたり、意識の方向を指図するのは、「 小脳 」であり、全ての物体を安定させる「 重力 」を感じるのも、「 小脳 」だと思う。

「 二本足に考え 」の「 無意識 」は、「 小脳の無意識 」である。

「 心 」も「 小脳の無意識 」で、大脳の「 意識 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」の電磁波的構造で、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化していると考える。

大脳は、絶えず「 小脳の無意識 」を具現化し、それが「 意思は具現化する」という意味である。


頭脳も、生命維持のために働いている事を考えると当然の事だと思う。


宇宙の全てが、行動を促す「 欲 」であり、「 意欲 」は、個人の「 生活リズム 」という時間意識と「 身体の行動可能性 」という空間意識に合致した「 欲 」であり、行動の原因である。

それが、身体の外部で、「 時間 」や「 空間 」という「 形あるもの」にデフォルメされて、人間の意識と切り離されているが、本来の「 生活リズム 」と「 身体の行動可能性 」に戻して考える。

「 生活リズム 」とは、呼吸や鼓動であり、「 身体の行動可能性 」とは、シュミレーションであり、想像する未来の自分の行動である。

「 人の意見を聞く 」とか「 相手の立場に立って考える 」などは、「 小脳の無意識 」を相手まで広げる事であり、「 無意識で相手を理解する事 」であり、意識の焦点に乗って「 無意識 」の「 足 」を広げる事である。

「 行動する 」とは、無意識の焦点に立って、「 意識 」した行動可能性を決定する事であり、根底は「 無意識が行動を決定する 」事になる。

これが、「 二本足で歩く 」という事である。



2010/8/4、私の記事

シュミレーションや象徴について、以前、書いたが、言葉は、「 発音 」と「 表意 」があり、前者は「 音 」が主要な要素であるため時間的であり、後者は、「 行為の可能性 」を伝達するから、空間的であり、その「 可能性 」が「 現実 」に具現化する形態を考えるのが「 シュミレーション 」だと思う。


「 行為の可能性 」は、「 小脳の無意識 」だから、「 シュミレーション 」は行為しながら考えるという「 小脳で考える事 」であり、「 象徴 」は、個人の可能性が「 絵画 」や「 音楽 」や「 言葉 」へ具現化する事で、それらは根本は一つになった「 小脳の時間と空間 」で、具現化する過程に時間を必要としたり、空間を必要とすると思う。


具現化する過程の時間や空間を現実に提示する事が「 小脳が時空を作る 」事だと考える。

時空は、意識だから。

………………(省略)………………………

「 心 」とは、「 小脳の無意識 」であり、生命体の意識だと考え、それは、呼吸と心拍と身体図式であり、それを「 静か 」にするとは、利己心を捨てて、自己を拡大した「 生きている座標 」や「 生命の時空 」で考える事だと思う。


それは、意識の絶対静止した座標の内容を「 空 」にして、「 生命体 」を、意識の内容に受け入れる事だろう。


それは、「 意識 」で考える事から「 小脳の無意識 」で考える事、生きるための行為を想像する事に移す事であり、重心を「 意識 」から「 無意識 」に、そして「 意識 」へと移す事であると考える。

………………(省略)………………………

「 欲 」が感じる「 ベクトル 」が、自分を危うくするのか、あるいは安全にするかの「 ベクトルの方向 」の問題で、前者が「 嫌い 」で、後者が「 好き 」だと思うのだと考える。


「 速度ベクトル 」により時間と空間が規定されるように、「 欲 」の座標では、「 ベクトル 」を手放すか引き付けるかの引力の違いで、無意識が圧迫され、時間と空間に無意識を具現化する行為も違うから、「 欲の座標を持つ人格 」の許容力の違いで、「 ベクトルの方向の好きや嫌い 」が分かれると考える。


以前、「 眼が好きと嫌いを作る 」と書いたが、「 心 」の動きが「 眼 」に現れるから、「 小脳の無意識 」が、「 好きと嫌いを作る 」と考える。


2010/8/7、私の考え

私は、「 意識 」の領域と、生命の領域と言う「 無意識 」の領域が、「 意識の時空意識 」と、それに影響する無意識の呼吸や脈拍のリズムや行為可能性や身体図形による「 無意識の時空 」が連結していると考える。

行為の場合は、後者の「 無意識の時空 」で実体が既に決定された後「 意識の時空意識 」でデフォルメや概念化される。

思考する場合は、「 意識の時空意識 」で無意識の「 行為可能性 」を使って形態を具現化した後、「 無意識の時空 」が呼吸や脈拍のリズムで実体化する。

前者が「 末那識 」で後者が「 阿頼耶識 」であると考える。

「 意識 」と「 無意識 」を「大気」や「 霊 」と考え、これらを動かすのは、エーテル体に似た「 欲 」であると考える。

「 二本足で考える 」とは、二足歩行のように、一方の足を「 道具 」にしながら、前へ進むように、「 意識 」と「 無意識 」で認識し、行為するのであり、一方だけの研究は、誤りだと考える。


私は、「 意識 」と「 無意識 」に「 共変する時空 」、言い換えると「 互いに往来する時空 」を「 小脳 」が作るから「 時間 」と「 空間 」が、存在すると考える。

時計の無い生活も「 時間 」があるだろう。

私は、「 時間 」は「 時間意識 」であると考えるから、意識がある限り、「 時間 」はある。

時計の無い宇宙空間で、人間は何によって時間を知り、「 速度 」を知り、そして距離や方向を知るのだろう。

そのときは、自分の呼吸や脈拍のリズムや行為可能性や身体図形を投影して、自分の「 時空 」を作ると考える。

その事を、「 時間 」や「 空間 」に囚われずに実行する事が「 ルネッサンス」であり、それを実行した方が良いと思っている。


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2010年08月04日

2010/8/4、オカルト・私の主張・言い訳8

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私が、先日、提出した「 なぜ 」について、現在、考えていることを書きます。


@

流れ星や天体の星の動き、小鳥のさえずり、車の騒音、滝の音などに、「 心 」が動くのは、なぜ?

これは、前述したように、「 行為 」に直結するのが「 欲 」であり、中途半端な「 欲 」は「意欲」や「 欲望 」というように、利己的になると思う。


限りなく宇宙まで、「 行為 」に直結する「 欲 」を拡大した時、流れ星や小鳥のさえずりが、「 心 」を動かす。


「 関係ない 」といって欲を区切り、区切った範囲で行為するが、本来は、全てが「 関係して 」いる。

地球は一つである。

「 関係ない 」というのは、関係を断ち切って自己保身するか「 心の動き 」を考える事を拒否する反応で、「 利己的自我意識 」だと考える。


「 心 」が「 欲 」ならば、意識した全てに対して、何かの反応をしている。

それが、「 好き 」「 嫌い 」であるだろう。


A

決まった時間に、就寝したり起床するのは、なぜ?

困ったとき、「 心 」を静かにすると、名案が湧くのは、なぜ?

シュミレーションとは、何?

「 象徴 」とは、何?


これらは、本能と呼ぶ欲求を支配している「 小脳 」の機能だろう。

決まった時間に、就寝したり起床するのは、小脳について調べると判明するだろう。


シュミレーションや象徴について、以前、書いたが、言葉は、「 発音 」と「 表意 」があり、前者は「 音 」が主要な要素であるため時間的であり、後者は、「 行為の可能性 」を伝達するから、空間的であり、その「 可能性 」が「 現実 」に具現化する形態を考えるのが「 シュミレーション 」だと思う。


「 行為の可能性 」は、「 小脳の無意識 」だから、「 シュミレーション 」は行為しながら考えるという「 小脳で考える事 」であり、「 象徴 」は、個人の可能性が「 絵画 」や「 音楽 」や「 言葉 」へ具現化する事で、それらは根本は一つになった「 小脳の時間と空間 」で、具現化する過程に時間を必要としたり、空間を必要とすると思う。


具現化する過程の時間や空間を現実に提示する事が「 小脳が時空を作る 」事だと考える。

時空は、意識だから。



困ったとき、「 心 」を静かにすると、名案が湧くのは、なぜ?


これは、私の「 二本足の考え 」で説明する。

「 名案 」というのは、「 意識 」である。

「 心 」とは、「 小脳の無意識 」であり、生命体の意識だと考え、それは、呼吸と心拍と身体図式であり、それを「 静か 」にするとは、利己心を捨てて、自己を拡大した「 生きている座標 」や「 生命の時空 」で考える事だと思う。


それは、意識の絶対静止した座標の内容を「 空 」にして、「 生命体 」を、意識の内容に受け入れる事だろう。


それは、「 意識 」で考える事から「 小脳の無意識 」で考える事、生きるための行為を想像する事に移す事であり、重心を「 意識 」から「 無意識 」に、そして「 意識 」へと移す事であると考える。



B

私の好き嫌いは、なぜ?



これは、「 欲 」が感じる「 ベクトル 」が、自分を危うくするのか、あるいは安全にするかの「 ベクトルの方向 」の問題で、前者が「 嫌い 」で、後者が「 好き 」だと思うのだと考える。


「 速度ベクトル 」により時間と空間が規定されるように、「 欲 」の座標では、「 ベクトル 」を手放すか引き付けるかの引力の違いで、無意識が圧迫され、時間と空間に無意識を具現化する行為も違うから、「 欲の座標を持つ人格 」の許容力の違いで、「 ベクトルの方向の好きや嫌い 」が分かれると考える。


以前、「 眼が好きと嫌いを作る 」と書いたが、「 心 」の動きが「 眼 」に現れるから、「 小脳の無意識 」が、「 好きと嫌いを作る 」と考える。



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2010年08月01日

2010/8/1、オカルト・私の主張・言い訳7・回想

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


これまでの話。

しかし、総体の「 霊 」が決めると言っても説得力がないと考え、天体と同じように、人間にも「重力 」があり、それが「 人格 」であり、仏教の「 六道 」で表現される「 心 」の状態が「 人格 」であり、人間は「 必ず 」この六道の一つに存在しているから、常に「 人格 」を練磨しなければならず、「 人格の向上 」が、仏教だと思った。


第二部

意識の総体が「 霊 」とは何か。

「 力 」とは、何か。

「 霊 」と「 力 」は、前者が「 意識 」であるのに反し、後者は「 エネルギー 」であり、両者は全く違う「 分野 」に属すると考える。

「 意識 」を取捨選択するのが「 力 」であり、前者が電磁波であれば、後者は「 欲 」であり、「 欲 」は行為に直結する。

「 欲 」は「 力 」を感じ、「 意識 」が加わった「 意欲 」は、行為の「 実行力 」である。

「 欲 」を統括するのが「 人格 」であり、「 価値観 」であり、それは「 行為を支配する小脳 」が生み出すと考える。

「 意識 」と「 無意識 」を意識だという理由で、同一面で考えず、「 無意識 」は、「 意識されないもの 」で、内臓などの意識、即ち、「 小脳の無意識 」であると考えた。

「 意識 」は左右の頭脳で生まれ、「 無意識 」は「 脳幹 」で生まれると思うが、ホルモンや酵素を分泌する「 小脳 」から生まれ、外部からの「 力 」に反応して行動する。

「 意識 」する前に、小脳で行為しているのだ。

意識で同一と判断する物事は、全て同一ではない。

地球が自転し、公転している事を思えば、同一の時空は「 今 」しか存在せず、「 持続 」は、有り得ない「 嘘 」である。

古代の人間は、時計で刻む時刻を知らず、これを「 無常 」というが、時刻を知っても「 無常 」なのだ。

人間には三つの眼を持っていたという説も有るが、この第三の眼が、「 小脳の無意識 」であり、「 心 」であると考える。

見る前に、見たい物を見ようという「 心 」が存在する。

実体は、既に「 無意識 」により決定され、実体を「 意識 」という電磁波で運搬しているのが認識であり、「 意識の学問 」などは、「 信じない 」。

この意味で、「 書を捨てて、自分で考えなさい 」と私は、忠告する。

人間が見たり、聞いたりするのは、「 欲 」が有るからであり、「 エーテル 」が「 欲 」で、酸素や窒素などの「 空気 」が「 意識 」だと考える。

だから、「 意識 」は伝達物を必要とする波の性質があると思う。

「 エーテル 」は、宇宙の果てから、人間のDNA 細胞まで浸透しているから、宇宙の運動のベクトルや地上の「 速度ベクトル 」を主観的に「 力 」と感じ、「 心 」が動き、動揺する。

これが「 情動 」であり、西洋哲学とは相違する。

頭脳のニューロンなどの神経組織の伝達では、真理に届かないだろう。

私は、「 意識 」と「 小脳の無意識 」(これは、心拍と呼吸が「 時間意識 」を生み、身体運動可能性が「 空間意識 」を生む)を中心とした、「 二本足の考え 」を提案している。

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