2010年11月28日

2010/11/28、オカルト・特殊論のその後・バイオリズム2

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


2010/11/28、私の考え


以上により、「 無意識 」が、23日、28日、33日の正弦波として、5日間隔で遅れた周期として現れ、23日周期が「 性 」で、28日周期が「 小脳の感情 」で、33日周期が「 大脳の知性 」であるとする。

23日周期の「 性 」が最もエネルギーが強く、周波数も高く、次に「 小脳の感情 」、次に「 大脳の知性 」となる。

「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標は、「 大脳の知性 」で作られるとすれば、33日周期の「 大脳の知性 」を中心にして、5日前(5日過去)が「 小脳の感情 」でその5日前(5日過去)が「 性 」となり、反対方向に5日先(5日未来)が「 小脳の感情 」その5日先(5日未来)が「 性 」である事になる。

「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、最も過去が「 性 」で、最も未来を「 性 」とした「 意識の楕円体 」が「 無意識 」であるという考えになる。

「 無意識 」は「 小脳の無意識 」であるが、「 大脳の知性 」から「 小脳の感情 」それから「 性 」へと深化するが、これは「 大脳 」から「 小脳や脳幹 」から「 心臓 」へと考える方向が似ている。


「 性 」が創造主や阿弥陀仏により与えられた生命であれば、性、即ち生命が及ぶ範囲が「 無意識 」であるという考えになる。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年11月23日

2010/11/23、オカルト・特殊論4のその後・バイオリズム

2010/11/20、私の記事

「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定した時、「 時空 」と「 時間 」や「 空間 」とは、如何なる関係であるか考えた。

感覚と意識や無意識の関係である。


「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

私だけの、奇妙な考えだが、意識を「 円 」と考え、無意識を「 楕円 」と考え、意識は「 円偏光 」し、無意識は「 楕円偏光 」すると考え、「 時間 」や「 空間 」という意識の描くサインカーブと「 時空 」という無意識が描くサインカーブを、人間は同時に受けている、あるいは人間の感受性が同時に働く結果、意識として認識し、形而上学的に無意識で「 存在 」を確定していると考える。


2010/11/23、私の考え

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


エネルギーが強いとは「 魅力的 」であり、統御が困難であることである。

バイオリズムが一巡するのに、約58,2年を要するとは、日本で人が生まれ変わるという「 還暦 」が60年であることにも正当性があるかも知れない。




バイオリズム(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたはSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されることが多く、頭文字P,S(E),Iと表記される。各リズムは誕生日を基準とする同じ振幅の正弦波として表され、身体リズムは23日、感情リズムは28日、知性リズムは33日の周期をもつ。
これらのリズムは、一定の周期でくり返されるため、未来の自分の身体や精神の状態を前もって知ることができるとされ、その時の波形の高低で高調期、低調期などと区別されるが、高調期と低調期の切り替り点は体調が変動しやすいとされ、注意が必要な日とされる。
なお、数学的には23と28と33の最小公倍数は21252であり、バイオリズムが完全に一巡するにはおよそ58.2年かかる計算になる。

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2010年11月20日

2010/11/20、オカルト・特殊論4のその後

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。


2010/11/13、私の記事

それでは、「 間(ma)」とは何か。

私は「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定する。

「 時空 」は、時間と空間が一つとなっている状態で 「 時空 」は生命体より与えられるから、幼児から老人まで共通するから、生まれながらも「 時空 」を理解し、眼や耳を欠損する事により「 時空 」を失う。

「 時空 」は、感覚でありその中に無意識の「 間(ma)」を含み、人間が成長すると共に、大脳の意識の「 時間 」や「 空間 」と小脳の無意識による「 概日リズム 」や空間の「 遠近 」が生まれると考える。

乳幼児が認識するのは「 時空 」であり「 リズム 」であり、音楽の演奏やリズムに合った踊りのような、時空が未分化の「 物語 」で、「 内なる宇宙 」と外界が一体化していると想定する。

乳幼児は立ち上がり、生命の危険を感じる身体不可能な幅の感覚、(つまり「 時空 」)が「 空間 」という「 間(ma)」であり、生命維持のため快感や不快感とういう感覚、(つまり「 時空 」)が、小脳でストレスとなり、快感を求める小脳のリズムの「 間(ma)」が「 時間 」となると解釈する。

乳幼児は「 時間 」と「 空間 」を意識するのでなく、周波数で決まる無意識の「 間(ma)」という「 時空 」を使って生きていることになる。

周波数で決まる感覚の「 時空 」が、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」を作る。

2010/11/20、私の考え


「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定した時、「 時空 」と「 時間 」や「 空間 」とは、如何なる関係であるか考えた。

感覚と意識や無意識の関係である。


「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

私だけの、奇妙な考えだが、意識を「 円 」と考え、無意識を「 楕円 」と考え、意識は「 円偏光 」し、無意識は「 楕円偏光 」すると考え、「 時間 」や「 空間 」という意識の描くサインカーブと「 時空 」という無意識が描くサインカーブを、人間は同時に受けている、あるいは人間の感受性が同時に働く結果、意識として認識し、形而上学的に無意識で「 存在 」を確定していると考える。

「 楕円偏光 」の無意識を基礎に持ち、円錐の底辺部分とし、「 円偏光 」の意識を、円錐の先端部分に持つ二重構造が、「 時空 」という感覚であり、二重構造であるために、「 一つの宇宙的出来事 」を意識と無意識に分離し、「 意識 」と「 存在 」を分離する原因であると思う。

乳幼児や老人の考えは「 楕円偏光 」が強い、従って非合理的であり、成人は「 円偏光 」が強い、従って合理的であるが、周波数によって決まる感覚である「 時空 」が共通するために、共同生活が可能である。

社会生活を営むことは、「 楕円偏光 」を「 円偏光 」に合わせることだが、「 楕円偏光 」を捨てることではない。

「 楕円偏光 」が一般的であり、「 円偏光 」は特殊であることを忘れてはならない。


偏光(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%8F%E5%85%89


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2010年11月13日

2010/11/13、オカルト・特殊論4の帰結4

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。


2010/11/13、私の考え

それでは、「 間(ma)」とは何か。

私は「 時間 」と「 空間 」は、意識と無意識の二重構造で、「 時空 」とは感覚であり、感覚は可視光線や可聴音のように、周波数で決まる人間の機能であると想定する。

「 時空 」は、時間と空間が一つとなっている状態で 「 時空 」は生命体より与えられるから、幼児から老人まで共通するから、生まれながらも「 時空 」を理解し、眼や耳を欠損する事により「 時空 」を失う。

「 時空 」は、感覚でありその中に無意識の「 間(ma)」を含み、人間が成長すると共に、大脳の意識の「 時間 」や「 空間 」と小脳の無意識による「 概日リズム 」や空間の「 遠近 」が生まれると考える。

乳幼児が認識するのは「 時空 」であり「 リズム 」であり、音楽の演奏やリズムに合った踊りのような、時空が未分化の「 物語 」で、「 内なる宇宙 」と外界が一体化していると想定する。

乳幼児は立ち上がり、生命の危険を感じる身体不可能な幅の感覚、(つまり「 時空 」)が「 空間 」という「 間(ma)」であり、生命維持のため快感や不快感とういう感覚、(つまり「 時空 」)が、小脳でストレスとなり、快感を求める小脳のリズムの「 間(ma)」が「 時間 」となると解釈する。

乳幼児は「 時間 」と「 空間 」を意識するのでなく、周波数で決まる無意識の「 間(ma)」という「 時空 」を使って生きていることになる。

周波数で決まる感覚の「 時空 」が、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」を作る。

ガリレオが心拍より振り子の動きが正確な時間をあらわすと考えた事が、現実的で生命的な無意識の「 時間 」を捨てて、意識的で思考された「 時間 」を採用したと考える。

私は、そのとき、科学が生まれると同時に、人間性が放棄されたと考える。

それ以来、「 時間とは何か 」という疑問は不問にされ、科学が発達しても「 時間 」や「 意識 」は不明で、哲学が不問にしてきた結果、相対性や量子力学の科学者でも、不問のままに「 時間 」を使うため、「 時間 」や「 空間 」は人間が作った「 意識の産物 」であることを知らず、科学者は「 意識の産物 」が適用されない宇宙天体を想像することが出来ないのだと考える。


この意味で、科学を否定するから、私は「 オカルト 」という表題を用いている。


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2010年11月07日

2010/11/7、オカルト・特殊論4の帰結3

2010/10/25、私の記事

以上の事から、「 時間 」と「 空間 」を考えました。

日本語では、時間と空間と人間は「 間(ma) 」を共有している。

「 時 」や「 空 」は、「 時間意識 」と「 空間意識 」であり、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作れば、「 意識は光である 」から、光速あるいはそれ以上の速さで、社会の「 時間 」と「 空間 」の定義に従う。

「 間(ma)」とは無意識であり、時間では「 概日リズム 」であるし、空間は、「 感覚で規定された空間 」である事になった。

これは、人間という生命体が持つ「 間(ma)」という無意識が、「 今 」や「 ここ 」という「 絶対静止の座標 」を頭の中に作った瞬間に、時間意識と空間意識を、「 感覚で規定された空間 」の中に作るから、「 時間 」や「 空間 」は、生命体の「 小脳の無意識 」が作る事になり、「 間(ma)」とは、意識されない「 時空 」であると考える。

「 空間 」は空虚は延長ではなく、「 間(ma)」という無意識が感覚の中で惹起する可能性の延長であると考える。

時間や空間は、天体の運動を人間が感じた意識であり、天体の運動が不明である事は「 宇宙論 」が不明である事で示されている。

天体の運動を人間が感じた意識とは、時間意識と空間意識だが、それは「 間(ma)」という感覚の中で惹起する可能性である無意識が、人間の頭の中の「 絶対静止の座標 」に「 具現化 」したのであり、「 時間 」や「 空間 」という言葉は、社会での会話が成立するクミュニケーションの道具である。

すると、私の考えは、ガリレオやデカルトとは違い、生命体が規定する「 時間 」と「 空間 」であり、人間が作り出した「 意識の作品 」である事になる。

2010/11/7、私の考え


思考された「 時間 」と「 空間 」は、「 速度 」という概念を通して、現実的に理解される。

この「 速度 」は、ベクトルであり、これが無意識の「 間(ma)」であろうと想定している。

あるいは、意識を電磁波と考える時、意識を生む電磁場の「 場(ba)」が「 間(ma)」であるかも知れない。



「 時間 」や「 空間 」は、感覚の無意識と想定する「 速度ベクトル 」や「 場 」による限定により「 現実的 」だと決定し感じられるのだと思う。


ベクトルは可能性であり、「 空間 」においては「 力線 」であるが、その事が、「 生命的 」であり、「 主観的 」であり、「 時間的 」である。


人間には、生と死があるから、生命的であり、時間的であり、それが「 空間 」を区切って「 場 」を作り、「 場 」の中の「 ベクトル 」は「 力線 」となり、「 力線 」は「 物語 」であり、「 思想 」であると考える。


何を「 力線 」と考えるかは、個人の思想次第であり、その「 力線 」が思想で閉じているため、あるいは絶対静止の座標を必要とする「 体系 」を持つ思考であるため「 空間 」を閉ざすと考える。


考えること自体が、「 閉じている宇宙 」である。


思考を放棄することが一つの方法であるが、無意識は楕円である事を考慮し、安易に「 うるう年 」を認めずに、無意識の決定する「 時空 」、つまり主観的なベクトルを生む「 間(ma)」に注目する事も一つの方法と考える。


思想は個人の考えであり、安易に、ガリレオやデカルトが考えた思想を信じないこと、自分の頭で考える事を大事にすることが、私の進言である。


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