2010年12月31日

2010/12/31、オカルト・バイオリズムと可能性4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の考え


意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

ここで、「 歴史 」について考える。


唯物史観は、「 過去と現在と未来 」とういう主観的時間の中で、自分の、個人の「 可能性 」を推測する考えであり、コミュニケーションとしての時間を道具にして使うが、社会の動きではない。


「 歴史 」を考える唯物史観は、「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中の「 運動可能性 」を考える思想であり、天体の動きと同等の真理ではなく、個人の「 運動可能性 」を模索する思想である。


「 歴史 」は主観的時間の「 過去と現在と未来 」の、「 未来 」の「 運動可能性 」を考える事であり、「 運動 」が、絶対静止の座標を前提とする主観的速度やストレスである事は前述したが、唯物史観は、この「 運動の可能性 」を考える主観的な思想であると思う。


「 過去と現在と未来 」を考える事は「 歴史 」を考える事であり、「 歴史 」は個人の主観的時間の経路であり、「 社会 」の必然的な可能性の経路ではない。


「 歴史 」を区切るのは主観的時間の「 現在 」であり、「 現在 」から「 過去 」の出来事を「 心あたり 」と認定して、「 現在 」の運動可能性を模索する思想が、「 歴史観 」であり、言葉に具現化するから人類に共通の可能性のように思うが、共通ではなく、人類の全ては相違した「 運動可能性 」を持つ。


本を読んだ「 歴史 」でも、指導者が教育する「 歴史 」でも、思想であり、思想教育であり、哲学が真理を求めるならば、思想教育ではなく、頭脳の記憶を使うから「 歴史 」であるが、主観的時間と時間意識を区別して、最小の歴史を持った哲学が真理だと考える。

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2010年12月25日

2010/12/25、オカルト・バイオリズムと可能性3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の考え


私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。

無意識に対する意識を、電磁波の一種と考え、プラズマ宇宙論の考えに従う。

無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」は生物のリズムと時間であり、「 意識 」としての宇宙は「 主観的時間 」であるから、ニュートンなどの時間対称の理論が生まれるが、本来、宇宙は主観的時間でなく、過去も現在も未来も存在しないので、時間対称という考え自体が存在しないと思う。

無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」は、バイオリズムが正弦波であるなら、「 主観的時間 」も正弦波だろう。

それは、「 現在 」から「 過去 」に向けての意識が衝突する出来事との間の正弦波であり、出来事は「 心あたり 」や「 思いつき 」であり、「 現在 」との正弦波が「 気持ち 」や「 心持ち 」であり、「 現在 」が存在する限り、生きている限り、病的であっても存在する。

それが、「 可能性 」であり「 人間性 」だろう。

可能性は主観的時間から乖離せず、主観的時間の内容は可能性であると思う。

バイオリズムの塊の中で決定するという意味で「 決定論 」であり、天体の運動による時間に、どのような過去の可能性で対処するかを決定するから、「 自由 」であると考える。

前者により、宿命や天命は変えられないが、後者により、運命は変える事が出来ると思う。


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2010年12月22日

2010/12/22、オカルト・バイオリズムと可能性2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/12、私の記事

以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/19、私の記事

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考える。

「 時間 」と「 空間 」の「 間(ma)」が共通するのは、「 間(ma)」が無意識のバイオリズムであるからだろう。

「 間(ma)」が主観的な時間や空間である。

「 間(ma)」が「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間であり、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であると考える。

日本語では、人間がいる部屋を「 居間 」と「 間(ma)」を使うが、これは主観的空間を示していると考える。

バイオリズムは、生涯のリズムだろうが、私は、毎日、違った周期で発生していると考える。

女性の生理のようなリズムで、バイオリズムを考えるのではなく、「 無意識の発生源 」と考えて、「 光 」が周波数の塊であるように、「 無意識の発生源 」も、バイオリズムの塊であり、人間の機能の塊であると考える。

…………(省略)……………………

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考えるが、「 現実性 」や「 可能性 」を、「 知性 」の具現化として考えるから、それらの言葉に内容が無くなる。

「 可能性 」は、バイオリズムとして考えなければならないが、社会的に可能性が決まるのではなく、「 可能性 」は個人のバイオリズムの具現化として考える。


2010/12/22、私の考え

私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。

これは、私だけの考えである。



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2010年12月19日

2010/12/19、オカルト・バイオリズムと可能性1

2010/12/12、私の記事
以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。


2010/12/19、私の考え

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考える。

「 時間 」と「 空間 」の「 間(ma)」が共通するのは、「 間(ma)」が無意識のバイオリズムであるからだろう。

「 間(ma)」が主観的な時間や空間である。

「 間(ma)」が「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間であり、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であると考える。

日本語では、人間がいる部屋を「 居間 」と「 間(ma)」を使うが、これは主観的空間を示していると考える。

バイオリズムは、生涯のリズムだろうが、私は、毎日、違った周期で発生していると考える。

女性の生理のようなリズムで、バイオリズムを考えるのではなく、「 無意識の発生源 」と考えて、「 光 」が周波数の塊であるように、「 無意識の発生源 」も、バイオリズムの塊であり、人間の機能の塊であると考える。

哲学者や科学者が「 無意識の氷山の一角 」などというのは、発展性が無く、「 無意識 」は人間の機能や体調のリズムの塊であり、バイオリズムの「 身体、性 」と「 感情 」と「 知性 」は、「 氷山の一角 」ではなく、流動する無意識の中で感じられる流れ、「 電流 」であり、まだ多数のリズムが存在するが、人間が気づいていないだけかも知れない。

バイオリズムの「 身体・性 」と「 感情 」と「 知性 」は、周期が違ったリズムとして、「 今 」の「 不安 」や「 希望 」として具現化していると考えるが、「 現実性 」や「 可能性 」を、「 知性 」の具現化として考えるから、それらの言葉に内容が無くなる。

「 可能性 」は、バイオリズムとして考えなければならないが、社会的に可能性が決まるのではなく、「 可能性 」は個人のバイオリズムの具現化として考える。

「 知性 」で決まらないから可能性であり、「 無意識の発生源 」の具現化であるから、個人により相違し、特殊であり、私がいう「 特殊論 」で考えると、「 可能性 」はバイオリズムである。


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2010年12月17日

2010/12/17、不識布を使ったDVDの整理

新年を迎える準備は出来ましたか?

私の経験で恐縮しますが、「 不識布(ふしょくふ)を使ったDVDの整理 」について、書きます。

参考にならないかも知れません。


DVDの保管については、種々な方法があると思いますが、購入したスピンドルの重ねてDVDを保管するのではなく、DVD保管用の不識布のケースに一枚ずつ収納して保管しようと思いました。

DVDの保管用の不識布(ふしょくふ)の形状や価格などは、ネットで検索してください。


私の事情

@DVDは、動画のDVDだけでなく、他の記録した物(例えば、ハードディスクのバックアップのために、ダウンロードしたFLV形式の動画を、DVDに残している物)が混在している。

ADVDを整理して並べる空間が少ない。

B安価な不識布を使ったDVDの保管を希望。


もしこの三つの事情が無ければ、もっと違った豪華な保管方法があるでしょう。



準備した物

A、DVD保管用の不識布のケース(これは安価ですが、ファイルで保管する事を可能にするため二つの穴を装備したケースを購入しました)

B、不識布のケースのリング式ファイル(これは安価です)

C,カードリング(これは安価です)



DVD保管の考え方

Aは、DVDに傷をつけないためのケースであり、Bは、保管したDVDを閲覧するのが容易であるための手段である。

メーカーの指示に従って、AとBを同時に使うと、整理は簡単だが、広い収納スペーを必要とし、費用も多大になる。



採用した方法


閲覧する機会が多いDVDだけBの不識布のケースのリング式ファイルで保管し、タイトルをつけて収納スペースに並べて陳列する。


@の記録した物は見る機会が少ないため、不識布に保管した後、Cのカードリングでリンクして、適当な箱(例えば、靴箱)に入れて、物置に保管する(収納スペースが少ない)。


参考にならないと思いますが、私の整理方法を書きました。



不識布 (Wikipedia)

不織布(ふしょくふ)とは、繊維を織らずに絡み合わせたシート状のものをいう。
一般にシート状のものとして代表的な布は、繊維を撚って糸にしたものを織っているが、不織布は繊維を熱・機械的または化学的な作用によって接着または絡み合わせる事で布にしたものを指す。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E7%B9%94%E5%B8%83

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2010年12月12日

2010/12/12、オカルト・バイオリズムと時間3

2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。


2010/12/11、私の記事

「 時間 」は「 時刻 」ではなく、時間は「 記憶 」である。

「 記憶する事 」が、意識と無意識の交流である。
「 無意識 」は生来のバイオリズムであり、光が周波数の塊であるように、バイオリズムの塊が無意識であると考える。

バイオリズムは時間あるいは記憶の周期であり、無数の周期であり、意識の中では「 過去と現在と未来 」という時間として具現化すると考える。

「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化するのであり、バイオリズムを持っているから、「 時間意識 」が生まれる。

「 時間 」は「 記憶 」であり、記憶力という能力(脳の働き)を持つ生物は「 時間 」を持つと思う。

「 時間 」を考えることは、「 記憶 」とバイオリズムを考えることである。

「 記憶 」は能力(脳の働き)で思考を停止するのではなく、バイオリズムと関連した能力(脳の働き)であり、「 過去と現在と未来 」という形態で具現化する。

「 過去と現在と未来 」は「 時間の流れ 」で、思考を停止するのではなく、バイオリズムの周期の具現化であることを考える必要がある。



2010/12/12、私の考え


以上のように考える理由は何か。


私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年12月11日

2010/12/11、オカルト・バイオリズムと時間2

2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

これは、「 短期記憶 」などと「 記憶 」で社会的に判断されるが、当事者には、過去も現在であり、未来も現在であり、病人は、個人の「 時間 」を社会の「 時間 」に対応することが出来ないだけであり、「 神 」から見れば病人ではなく正常であるのだと思う。

人類の全てが、同じ時空を共有することは出来ないから、人類の全ての「 時間 」は違うのだ。

感覚も違うように、「 時間 」も違うから、楽しいことをしている時は時間を短く感じ、退屈な時は、時間を長く感じるのだ。


2010/12/11、私の考え


「 時間 」は「 時刻 」ではなく、時間は「 記憶 」である。

「 記憶する事 」が、意識と無意識の交流である。
「 無意識 」は生来のバイオリズムであり、光が周波数の塊であるように、バイオリズムの塊が無意識であると考える。

バイオリズムは時間あるいは記憶の周期であり、無数の周期であり、意識の中では「 過去と現在と未来 」という時間として具現化すると考える。

「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化するのであり、バイオリズムを持っているから、「 時間意識 」が生まれる。

「 時間 」は「 記憶 」であり、記憶力という能力(脳の働き)を持つ生物は「 時間 」を持つと思う。

「 時間 」を考えることは、「 記憶 」とバイオリズムを考えることである。

「 記憶 」は能力(脳の働き)で思考を停止するのではなく、バイオリズムと関連した能力(脳の働き)であり、「 過去と現在と未来 」という形態で具現化する。

「 過去と現在と未来 」は「 時間の流れ 」で、思考を停止するのではなく、バイオリズムの周期の具現化であることを考える必要がある。

バイオリズムを「 擬似科学 」と考える学者の頭は進化しないし、「 過去と現在と未来 」を「 時間 」と考える哲学者の頭も進化しないと思う。


Every miller draws water to his own mill.
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2010年12月05日

2010/12/5、オカルト・バイオリズムと時間1

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


身体の正弦波(サインカーブ)と感情の正弦波(サインカーブ)と知性の正弦波(サインカーブ)が、同時に生まれた一つの出来事であるが、「 無意識の楕円体 」であるため「 楕円偏光 」となり、「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標では、それぞれ23日、28日、33日のリズムとして、違う周期で具現化する。

これは、周期が早いほどエネルギーは強く具現化する力を持つと考えるから現実生活では、「 性 」が一番エネルギーが強く、次に「 小脳の感情 」一番エネルギーが弱いのは「 知性 」ということになる。


2010/11/28、私の記事

以上により、「 無意識 」が、23日、28日、33日の正弦波として、5日間隔で遅れた周期として現れ、23日周期が「 性 」で、28日周期が「 小脳の感情 」で、33日周期が「 大脳の知性 」であるとする。

23日周期の「 性 」が最もエネルギーが強く、周波数も高く、次に「 小脳の感情 」、次に「 大脳の知性 」となる。

「 今 」と「 ここ 」の絶対静止の精神座標つまり「 円偏光 」の座標は、「 大脳の知性 」で作られるとすれば、33日周期の「 大脳の知性 」を中心にして、5日前(5日過去)が「 小脳の感情 」でその5日前(5日過去)が「 性 」となり、反対方向に5日先(5日未来)が「 小脳の感情 」その5日先(5日未来)が「 性 」である事になる。

「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、最も過去が「 性 」で、最も未来を「 性 」とした「 意識の楕円体 」が「 無意識 」であるという考えになる。

2010/12/5、私の考え


私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

これは、「 短期記憶 」などと「 記憶 」で社会的に判断されるが、当事者には、過去も現在であり、未来も現在であり、病人は、個人の「 時間 」を社会の「 時間 」に対応することが出来ないだけであり、「 神 」から見れば病人ではなく正常であるのだと思う。

人類の全てが、同じ時空を共有することは出来ないから、人類の全ての「 時間 」は違うのだ。

感覚も違うように、「 時間 」も違うから、楽しいことをしている時は時間を短く感じ、退屈な時は、時間を長く感じるのだ。


Every miller draws water to his own mill.
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