2011年01月30日

2011/1/30、オカルト・バイオリズムと無意識6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/1/30、私の考え

このように、「 無意識はバイオリズムから生じる 」とする実益は何か。

「 一般論 」や「 特殊論 」で書いた、「 意識 」は「 我 」であり、電磁波の構造をした「 大脳 」の働きであり、「 脳幹 」や「 小脳の運動可能性 」や「 無意識 」は、「 大我 」であり、「 人格 」であり、それらは、個人の遺伝子に関係するバイオリズムが原因である事は容易に推測される。


私は、「 時空 」が電磁波の構造で、「 情(zyou) 」を伝達し、それが認識である事は、当初から主張している。

この「 情(zyou) 」が、バイオリズムの「 感情 」であると想定している。

「 情(zyou)」は、日本語で、「 人情 」や「 愛情 」や「 感情 」や「 情動 」や「 情緒 」などと、人間として持つ事を期待される情感(zyoukan)を現わす言葉に含まれ、人間特有の性質を示している。

これが、「 無意識 」に関係している事は明白である。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。

派生するものであり、流れるものではない。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定するから、同じ人間でも、その組み合わせにより、悪魔になったり、聖者になったりもするだろう。

その中で、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御するのが「 人格 」であると考える。



「 人は六道の一つの道 」に生まれて存在し、六道を揺れ動くと考え、六道の中で「 正見 」する事が仏教の教えならば、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御する「 人格 」を、正しく認識する事が必要だろう。

このように考えると、僧侶の「 戒律 」や「 修行 」は、無意識を意識して高揚させる意味は有ると思う。


「 戒律 」は、教団を維持するための「 戒律 」ではなく、自分の無意識を「 洗う 」ために「 戒律を守る 」事が、僧侶に求められ、その事は、全人類に求められている事だと思う。


その他として、日本では神が宿る場所があるが、パワースポットではなく、自分の無意識を自然に解き放つ場所として、自分の無意識を高揚させることが必要であり、「 神 」がいるならば、それを受け入れる感受性を持つ事が必要であり、旅行感覚で行っても、パワーを受ける事は不可能だろう。


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2011年01月28日

2011/1/28、オカルト・バイオリズムと無意識5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/28、私の考え

これは、科学的根拠のないオカルトであり、私だけの考えである。

@

時間と空間という日本語には、間(ma)という漢字が共通している。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」であるなら、間(ma)を「 自分だけの 」と解釈して「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と呼ぶ。

「 主観的時間 」や「 主観的空間 」は、「 自分 」の「 絶対静止の座標 」の存在を前提として成立する。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」は、意識の時間であり、「 光 」で定義され、定義には「 絶対静止の座標 」が必要かも知れないが、天体の時間や空間は、測定されるのを待つだけである。


A

「 自分だけの 」の「 自分 」というのは、自分の遺伝子やこれまで生きてきた全ての経過、文化、人格から形成される「 自分 」で、「 阿頼耶識 」と考える。

これは、全ての人類の一人ひとりが相違する。


B

「 自分 」の構造は、氷山の一角に現れたのが意識で、水面下の隠れているのが無意識であるとは考えず、意識は光速で走る光の球で、それを生むのがバイオリズムの塊で、光ファイバーの塊であり、ハスの花が意識であり、茎や池が無意識であるとも考える。

バイオリズムは、自分の細胞の全てのリズムであり、波動であり、意識の知識も、始めと終わりがある物語であり、波動である。

未知のバイオリズムも存在すると思う。


C

「 過去や現在や未来 」は、「 自分だけ 」で、全ての人類の一人ひとりが相違する「 主観的時間 」である。

これは、バイオリズムから生じる無意識が決定し、「 記憶 」で決定するのではない。


「 記憶 」は、後述するように、「 運動可能性 」をフィットさせる働きをするのであり、「 過去や現在や未来 」という時制を決定する事は出来ないと考える。


D

無意識は「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」がエーテルのように充満する。

「 小脳の運動可能性 」を、バイオリズムから生じる「 現在 」という「 主観的時間 」にフィットするように「 運動可能性 」を区切るのが「 記憶 」である。

「 現在 」にフィットした「 運動可能性 」が充満しているのが、無意識の「 欲 」に光速で走る電磁波の球の意識の「 運動可能性 」を含む「 楕円体 」である。

「 現在 」は「 楕円体 」と思われるが、実際は、地球から生えた葦のように、バイオリズムが生む無意識の茎の先の「 光の楕円体 」であるかも知れない。

E

「 現在 」の「 楕円体 」の中心を考えると、意識や「 記憶 」の中心と無意識やバイオリズムの中心が存在する。

その中心は「 欲 」と「 運動可能性 」の中心であり、前者の「 絶対静止の座標 」が存在しない中心に、後者の「 絶対静止の座標 」を必要とする「 記憶 」の中心をフィットさせる事が、「 二本足で歩く事 」である。

人間の頭脳や心臓その他の臓器や人体の構造から、二本足や左右などを考える事は、人間の宿命かも知れない。


F

「 楕円体 」は「 欲 」と「 運動可能性 」が「 記憶 」によりフィットされた「 現在 」であるから、常に中心が一致せず、「 ストレス」を生じると考える。

ストレスの解消は、「 二本足で歩く事 」であり、「 運動可能性 」を現実に具現化する事であり、行動する事であると考える。



G

「 記憶 」と「 主観的時間 」と「 客観的時間 」の関係は、「 朝と昼と夜 」を考えると、私の考えが単純である事が判明すると思う。

「 朝と昼と夜 」の境界は、人類の全てにより相違する(これは「 過去と現在と未来 」)。

「 朝と昼と夜 」は、天体が決定するのでもなく、社会の定義の「 客観的時間 」が決定するのでもなく、「 記憶 」が決定するのでもなく、決定するのは「 主観的時間 」、つまり「 体内時間 」である。

天体は常に運動し、朝と昼と夜の区別はしない。

社会の定義が朝と昼と夜を決定すると思うが、無人島に住む人は、社会の定義ではなく、自分の体調で朝と昼と夜を区別するだろう。

「 記憶 」は「 朝の出来事 」を想起するが、「 朝 」という主観的時間を想起する事は出来ない。

「 朝 」には、寝床を片付けて、朝食し、新聞を見たりテレビを観たりする記憶した「 出来事 」や「 可能性 」を朝の時間にフィットするだけで、「 記憶 」が「 朝 」という主観的時間を決定する事は出来ない。


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2011年01月27日

2011/1/27、オカルト・バイオリズムと無意識4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

………(省略)…………………


普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。


2011/1/22、私の記事

無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。



2011/1/27、私の考え

今日は、「 記憶 」と「 永遠 」と「 可能性 」を考えた。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。

これまで書いて来た「 二つの中心を持つ楕円体 」とは、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊で「 無意識 」である中心と、その先端の「 光 」の「 意識 」の中心を持つ楕円体と想定している。


「 二本足で歩く 」とは、意識の中心から無意識の中心へと重心を移して行動する事で、異質の中心へ飛躍する事だが、「 記憶 」により行われる。

全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」を決定する無意識の主観的時間の「 現在 」で、「 二つの中心を持つ楕円体 」の中で、「 記憶 」により、「 二本足で歩く 」事は、「 行動 」する事である。

無意識の主観的時間の「 現在 」は、全人類で相違する「 身体可能性 」が前提になっていると考える。

「 身体可能性 」は「 小脳の身体可能性 」で、「 欲望 」は宇宙の果てまで及び、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊の「 身体可能性 」だが、「 記憶 」という電磁波的な意識で限定したのが、バイオリズムで決定する無意識の主観的時間の「 現在 」であると考える。

「 現在 」や「 今 」という言葉の中に、記憶により限定される「 現在の身体可能性 」が隠れていると考える。


「 過去や現在や未来 」はバイオリズムの無意識により決定されるが、「 絶対静止の座標 」である「 自分の身体可能性 」という記憶で限定する「 過去の身体可能性と現在の身体可能性と未来の身体可能性 」であると考える。

「 過去や現在や未来 」はバイオリズムの無意識で決定され、「 記憶 」は「 可能性 」をバイオリズムから引き出して、「 現在 」から生じるストレスに応じて「 可能性 」を決定し、それが「 時間 」と重なっていると考える。

この記憶による区別の無い「 小脳の身体可能性 」で、「 欲望 」は宇宙の果てまで及ぶ、生命の縄(グラスファイバー)であるバイオリズムの塊の「 身体可能性 」が「 永遠 」であると想定する。


「 永遠 」とは「 過去や現在や未来 」の中の「 時間の永遠 」ではなく、全人類に相違する「 過去の身体可能性と現在の身体可能性と未来の身体可能性 」の中の「 可能性の永遠 」であるから、「 永遠 」は全人類の頭脳の中で相違する。


「 二本足で歩く 」とは、意識の中心から無意識の中心へと重心を移して行動する事で、異質の中心へ飛躍する事だが、「 記憶 」により行われるとは、バイオリズムで決定される「 現在 」の中で、意識に重なった「 可能性の中心 」から無意識に重なった「 可能性の中心 」への飛躍であると想定する。

意識と無意識の「 可能性 」は、「 記憶 」により、電磁波的に球状に広がっていて、楕円体として結合していると想定する。



Every miller draws water to his own mill.
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2011年01月25日

城崎マリンワールドのトドとペンギン

2011/1/23から2011/1/24の、一泊二日で、城崎温泉(kinosaki onsen)と城崎マリンワールドへ行きました。

城崎温泉については、下記のURLを参考にしてください。

城崎温泉(kinosaki onnsen)
http://www.kinosaki-spa.gr.jp/infomation/sotoyu/meguri/onsen.html
城崎温泉観光協会ホームページ
http://www.kinosaki-spa.gr.jp/

城崎温泉の外湯(sotoyu)めぐり
http://onsenyado.sakura.ne.jp/sotoyu.html



城崎温泉と城崎マリンワールド

(ココロちゃんとおじさん)

        
http://m24658.cocolog-nifty.com/blog/cat42636744/index.html


城崎温泉については、「 ココロちゃんとおじさん 」で写真を公開していますが、新しい事はありません。

城崎マリンワールドについては、@トドのダイビングとAペンギンの散歩が、珍しいと思います。

@ダイビングする前のトド


ダイブ前













ダイビングするトド



ダイブ中












Aペンギンの散歩


歩くペンギン
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2011年01月23日

2011/1/23、オカルト・バイオリズムと無意識3

2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

………(省略)…………………


普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。


2011/1/22、私の記事

無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。


2011/1/23、私の考え


相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。

その理由


@
時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできない。

「 共変 」するとは、私が地球上で、静止した物体を見る事や「 測定 」する事は、測定する私も、測定される物体も、他の天体から見れば、地球の自転する速度で「 動いている 」事である。

「 運動が共変するから 」静止していると見えるのであり、地球上に存在する限り、地球と共に運動しているのであり、「 静止している 」のは人間の頭脳の測定する座標、つまり意識が「 絶対静止の座標 」であるからである。

運動は相対的な事実ではなく、「 絶対静止の座標を設定すれば相対的に見える 」という主観的事実である事が客観的事実であると思う。

A
「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


時間は、少なくとも二種類あり、これを結合するのは「 記憶 」であると思うが、この事が論議されていない。


「 記憶 」は、「 過去と現在と未来 」を決定する無意識(バイオリズム)の残像であり、「 過去と現在と未来 」を融合させる「 可能性 」を外部からのストレスに応じて引き出し、ストレスを解消する「 力 」であり、「 力 」とは、「 可能性 」を具現化する意識(電磁波)であると考える。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識(バイオリズム)であり、「 記憶 」ではないというのが私の結論である。



「 記憶 」が無い人も、「 過去と現在と未来 」を持つが、無意識(バイオリズム)が持つ「 可能性 」を引き出す「 力 」が無いだけである。



この二つの理由は、詭弁かもしれない。


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2011年01月22日

2011/1/22、オカルト・バイオリズムと無意識2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/1/22、私の考え


無意識とバイオリズム

物事の決定は、意識ではなく、無意識であり、「 過去と現在と未来 」を決定するのは、バイオリズムであり、これを考慮しない科学的、哲学的理論は全て「 嘘 」であると考える。

無意識とは、沈黙している過去の経歴ではなく、誕生以来、続いているバイオリズムで、「 過去と現在と未来 」を意識させる。

身体と感情と知性のバイオリズムだけでなく、人間の全細胞のリズムであり、波動だと考えるから、「 死 」のバイオリズムや未知のバイオリズムが存在すると思う。

時間も空間も、共変するならば、「 運動 」は区別する事も認識する事もできないから「 絶対静止の座標 」を、人間は頭脳の中に持つ。

あるいは、認識する物は全て「 嘘 」である。

あるいは、虚数が二乗されて実数であるのが、頭脳で理解している内容かも知れない。

全てが流動し、相対的であれば、理論体系は成立せず、「 宇宙の何処かに 」ではなく、頭脳の中で、「 絶対静止 」が存在するから、認識して日常生活が可能であると考える。

相対論や量子論も、「 絶対静止の座標 」が頭脳の中に存在するから、「 運動 」の「 測定 」が可能であるし、「 同時性 」や「 局地性 」も、「 絶対静止の座標 」を前提とする理論であるにもかかわらず、「 絶対静止 」を説明せず、バイオリズムや無意識を解明していないから「 嘘 」だと考える。


私は、ビッグ・バン理論を宇宙の理論としてではなく、誕生を基点としたバイオリズムを説明する理論だと思っている。

「 宇宙の波動 」という人がいるが、無意識のバイオリズムや意識こそ「 波動 」であり、宇宙の理論ではなく、人間の無意識の理論だと思う。

これらの理論は、私と同じように、自己の無意識を意識に投影した理論であると思う。

身体の全細胞のバイオリズムで決定される時間が「 主観的時間 」であり、相対性理論の「 同時性 」を成立させる時間であり、日常生活の現実の時間である。

「 過去と現在と未来 」を決定するのは無意識で、「 記憶 」で区別するから、全ての人間で相違する、「 過去と現在と未来 」が存在する(無意識の主観的時間)。

一秒、一分、一時間という時間意識には、「 過去や現在や未来 」という時制の意識は存在しない(意識の電磁波的な時間意識)。


「 記憶 」も「 可能性 」も「 ストレス 」も「 現在 」という無意識の中にだけ存在する事は、「 記憶 」は「 ストレス 」を解消するための「 可能性 」をバイオリズムから、引き出す働きをすると考えている。

バイオリズムは、記憶されたバイオリズムではなく、ストレスを解消させるための可能性を内在し、全人類で相違する記憶に可能性を付与する、母親的な波動であり、可能性を引き出す「 記憶 」は「 道具的 」であり父親的な波動であり、母の波動から父の波動に引き出され、再び母の波動に戻るのが、「 生きる事 」だと考える。


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2011年01月16日

2011/1/16、オカルト・バイオリズムと無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/15、私の記事

私は、「 無意識 」を、「 氷山の一角が意識で、水面下に隠れているのが無意識である 」とは考えず、「 無意識 」はバイオリズムとして、体内を駆け巡っていると思う。

無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間の「 過去や現在や未来 」から乖離した「 可能性 」は存在せず、「 可能性 」という自分の生存と、主観的時間の「 現在 」は重なっている。

「 現在 」は主観的時間の一形態で、「 可能性 」は「 小脳の運動の蓋然性 」であり、人間の行為の全てであり、「 無意識 」に包摂されると考える。

「 小脳の運動 」には無意識が不可欠であり、無意識が無ければ運動する事は出来ない。

「 運動 」が全て「 相対的 」であれば、運動を「 測定 」する事は出来ない。

「 運動 」は、意識の「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ、遠近や速度を「 測定 」する事は出来ず、「 測定 」した速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的で、無意識であり、「 小脳の運動可能性 」を圧迫する「 力 」は、「 絶対静止の座標 」を持つ意識の変更を要求するストレスとなる。

ストレスが、個人の頭脳の中の「 絶対静止の座標 」や「 感受性 」を変更させ、新たな意識を生むと考える。

バイオリズムの無意識の「 現在 」と乖離した「 小脳の運動可能性 」はストレスであり、「 現在 」はストレスが解消した状態であり、潜在的な可能性が具現化した状態であり、「 過去 」や「 未来 」の可能性や蓋然性を考える事は、バイオリズムの無意識を考える事であると思う。

意識により時間の「 過去と現在と未来 」を区別するのであり、無意識の中では、「 可能性とストレスの有無 」の区別である。

時間の「 過去と現在と未来 」を考えるのは、無意識の「 可能性とストレス 」を考える事であり、前者が「 考える事 」であり、「 絶対静止の座標 」で区別する事であるが、後者は「 感じる事 」であり、「 絶対静止の座標 」を崩した新たな座標を持つ事を要求する事だと思う。

「 可能性とストレス 」を感じる事により、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の区別を破壊する事が、「 温故知新 」であり、歴史から教訓を得る事であると思う。

時間が過ぎて「 可能性 」が無くなるのではなく、無意識の中に「 ストレス 」として同化するだけで、消滅せず、「 現在 」の意識と記憶を介在して存在すると考える。

ストレスの塊が、バイオリズムの塊で、「 無意識 」であると、現時点で思っている。


2011/1/16、私の考え


それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

「 意識 」は、「 記憶 」という感受性により、「 現在 」に「 同時 」に、三個の「 無意識 」の中心を貫く時、「 直感 」あるいは「 悟り 」が得られると思う。

知性と感情と身体は、大脳と小脳と心臓の電気で流れるものであり、それぞれの波動だろう。

私は、その中で「 感情 」を重視する。

「 情(zyou)」は、「 情報 」や「 愛情 」という日本語に含まれ、「 情報 」は「 知識 」という精神に変化し、「 愛情 」は「 愛 」という精神に変化するが、「 情愛 」という動物的な「 性 」という身体のリズムに変化するからである。


「 感情 」は「 小脳の運動可能性 」であるし、全ての欲望の基礎にあり、「 意欲 」を生じる事は、以前、書いた。

普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。

私は、意識の中で、「 現在 」の中で、可能性として現れる生命の縄(グラスファイバー)の中心を飛び回りながら、生活し、その中心を貫く意識が「 直感 」である。

繰り返すが、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の幅は、全人類の生きてきた経路やDNAの違いで全人類の可能性が全て違うように、全人類の記憶の違いにより、相違する。

その「 現在 」の中での「 無意識 」が、以上に書いたことである。


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2011年01月15日

2011/1/15、オカルト・バイオリズムと感受性4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/8、私の記事

これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


2011/1/9、私の記事

このように、「 無意識 」を、意識の下の氷山とか、潜在意識などと考えるのではなく、個人が誕生以来の全ての経歴や文化や遺伝子(DNA)が作る流動する「 波動 」、つまり生体のバイオリズムから生じると考えると、いかなる「 感受性 」を持つかという事が重要になる。


2011/1/15、私の考え


私は、「 無意識 」を、「 氷山の一角が意識で、水面下に隠れているのが無意識である 」とは考えず、「 無意識 」はバイオリズムとして、体内を駆け巡っていると思う。

無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間の「 過去や現在や未来 」から乖離した「 可能性 」は存在せず、「 可能性 」という自分の生存と、主観的時間の「 現在 」は重なっている。

「 現在 」は主観的時間の一形態で、「 可能性 」は「 小脳の運動の蓋然性 」であり、人間の行為の全てであり、「 無意識 」に包摂されると考える。

「 小脳の運動 」には無意識が不可欠であり、無意識が無ければ運動する事は出来ない。

「 運動 」が全て「 相対的 」であれば、運動を「 測定 」する事は出来ない。

「 運動 」は、意識の「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ、遠近や速度を「 測定 」する事は出来ず、「 測定 」した速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的で、無意識であり、「 小脳の運動可能性 」を圧迫する「 力 」は、「 絶対静止の座標 」を持つ意識の変更を要求するストレスとなる。

ストレスが、個人の頭脳の中の「 絶対静止の座標 」や「 感受性 」を変更させ、新たな意識を生むと考える。

バイオリズムの無意識の「 現在 」と乖離した「 小脳の運動可能性 」はストレスであり、「 現在 」はストレスが解消した状態であり、潜在的な可能性が具現化した状態であり、「 過去 」や「 未来 」の可能性や蓋然性を考える事は、バイオリズムの無意識を考える事であると思う。

意識により時間の「 過去と現在と未来 」を区別するのであり、無意識の中では、「 可能性とストレスの有無 」の区別である。

時間の「 過去と現在と未来 」を考えるのは、無意識の「 可能性とストレス 」を考える事であり、前者が「 考える事 」であり、「 絶対静止の座標 」で区別する事であるが、後者は「 感じる事 」であり、「 絶対静止の座標 」を崩した新たな座標を持つ事を要求する事だと思う。

「 可能性とストレス 」を感じる事により、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の区別を破壊する事が、「 温故知新 」であり、歴史から教訓を得る事であると思う。

時間が過ぎて「 可能性 」が無くなるのではなく、無意識の中に「 ストレス 」として同化するだけで、消滅せず、「 現在 」の意識と記憶を介在して存在すると考える。

ストレスの塊が、バイオリズムの塊で、「 無意識 」であると、現時点で思っている。


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2011年01月09日

2011/1/9、オカルト・バイオリズムと感受性3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/8、私の記事

これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


2011/1/9、私の考え


このように、「 無意識 」を、意識の下の氷山とか、潜在意識などと考えるのではなく、個人が誕生以来の全ての経歴や文化や遺伝子(DNA)が作る流動する「 波動 」、つまり生体のバイオリズムから生じると考えると、いかなる「 感受性 」を持つかという事が重要になる。


「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」のバイオリズムが存在するのは、「 プラズマ宇宙論のビルケランド電流 」のように、意識が派生する種々な電流を束ねる主要な電流であり、生体を構成するという事であり、主観的時間意識と主観的空間意識の「 絶対静止の座標 」である「 意識 」に把握されない電流から派生する無意識は、人間の細胞の数だけあるが、認識されないだけだろう。

脳波の「 α波 」や「 β波 」についても同じ事が言えると思う。


「 波動 」は、宇宙の波動を探求するのではなく、個人の無意識を形成する経歴や文化という物語から生じる生体リズムであり、認識するのではなく、感じるのであり、優れた感受性を持つ人は、その「 波動 」を察知する事が出来る。


盲目のピアニストは、楽譜を見るのではなく、「 波動 」を感じる感受性を持っているのであり、ミケランジェロは彫刻にメロディを感じるのであり、音楽と絵画、時間と空間が「 波動 」の中で融合していると考える。


「 波動 」は宇宙ではなく、人間の本質であり、時空が融合しているから、(主観的時間の)「 現在 」に「 同時 」に、歴史となっている作品の可能性が「 現在 」に溶解して、作者の感動や可能性が伝わると考える。


このように、無意識を生体のバイオリズムと考える事は、存在論的に、常に流動して「 無常 」である事を意味し、無意識を静止した潜在意識として処理するのではなく、複素数の二乗は正数になるように、無意識が意識に転化するかも知れない。


これは、「 無意識 」が直ちに「 意識 」となる事で、構造的には、意識は全てバイオリズムであり、「 波動 」であると考える。


決定するのは無意識(波動)や生体リズムという電流で、社会でコミュニケーションするのは意識(電磁波)であり、無意識と意識を媒介するのは「 可能性 」という「 主観的時空を構成する身体記憶 」であり、音楽や絵画などの現象面を捨てて、「 波動 」を感じる感受性を持つ人は、本質を直感する事が出来る人であると思う。



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2011年01月08日

2011/1/8、オカルト・バイオリズムと感受性2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。

2011/1/3、私の記事

意識と無意識を、「 氷山 」で比喩するのが正当かも知れないが、私は、無意識を 「バイオリズムの塊 」で、「 感覚の周波数の塊 」と考え、意識は、「 絶対静止の座標軸 」という周波数の受信機により判明した無意識であると考える。


「 絶対静止の座標軸 」は意識に存在し、置き換え可能な「 受信機 」であり、現在は、身体と感情と知性というリズムしか「 受信 」していないと思う。


人間を形成する細胞の全てが、リズムを持つと思うから、「 絶対静止の座標軸 」の採用次第で、「 直感 」のリズムも解明できると思う。



2011/1/8、私の考え



これまでの考えを少し整理する。

日本語で時間と空間という漢字で「 間(ma)」が共通して用いられ、それが「 主観的時間 」であり、「 主観的空間 」であると考えた。


主観的というのは、「 局所的 」であるとも考えるが、「 同時性 」が実感として判明する「 時空 」であると考える。

「 主観的時間 」は、具体的で現実的な時間であり、普通に使う「 時間 」で、「 過去の現在も未来 」も存在する。

私は、この「 主観的時間 」は、「 無意識 」から発生する時間意識であり、「 時間 」という実体を決定する「 生物的時間意識 」であり、存在論的に言えば、生体のバイオリズムから生じると考える。

「 主観的時間 」は、「 絶対静止の座標 」を持ったとき、「 運動 」を認識し「 同時 」を決定する。

誰にも共通という意味での「 客観的時間 」に、「 無意識 」は介入せず、客観的な「 過去や現在や未来 」は存在しない。

人類の全ての主観的意識の中で、それぞれの「 過去や現在や未来 」が存在し、その境界は、人類の全ての頭脳の中で相違する。

主観的時間がバイオリズムであり、「 過去や現在や未来 」を満たすものが可能性であると思う。

現在から、過去の「 心当たり 」を思い出す事は、未来への可能性を考える事であり、可能性が顕在化したのが「 現在 」であり、主観的時間の境界である「 現在 」の中にだけ「 過去や未来 」がある。

「 過去や現在や未来 」は、生物的、あるいは無意識の主観的時間が支配する範囲で「 記憶 」を持つから生じるのであり、記憶の顕在化、あるいは可能性の顕在化、具現化したのが「 現在 」である。

「 今 」という「 瞬間 」を断面的に考えると、意識と無意識の中心は、楕円のように複数の中心が存在すると考え、「 二本足で歩く 」ように、意識から無意識への飛躍であるが、これを存在論的に考えると、意識は「 脳の産物 」だろうが、無意識は誕生から死亡するまでの全履歴を含んだ「 生体リズムの産物 」であると考えて、意識はバイオリズムの顕在化と考え、複素数のように、無意識のバイオリズムを二乗して正になったのが意識であるかも知れない。


無意識のバイオリズムの時間、つまり主観的時間は、バイオリズムであるため、全人類が相違した「 過去や現在や未来 」が決定され、存在し、決定された「 今 」や「 現在 」の中に可能性が顕在化し、具現化し、可能性は主観的時間から乖離する事は出来ず、可能性は必ず「 現在 」の中に存在すると考える。

無意識が決定し、意識はそれを正当化する、あるいは無意識の方向を予測し、想像する事は以前に書いた。


相対的であれど「 運動 」は「 絶対静止の座標 」を仮定しなければ「 測定 」する事は出来ず、その速度は「 ベクトル 」という「 力 」であり、それらは、全てが主観的である。

無意識はバイオリズムから生じると考えるが、現在までの「 本 」は、その「 無意識 」や主観性を欠いて、「 運動 」を客観的と書いたり、意識の合理的な事だけを書いていると思うから、人間を考える時、「 本 」を捨てたほうが良いと考える。


生物や心理や哲学と、学問を分けて考えたり、「 擬似科学 」などと軽視するのではなく、一人の人間を知るためには、それらの全てを統合する必要があると考える。


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2011年01月03日

2011/1/3、オカルト・バイオリズムと感受性

2010/11/23、私の記事

「 雷光 」と「 雷鳴 」が同時に発生するように、あるいは、太陽光が可視光線と不可視光線が一つになっているように、宇宙の事件は感覚の周波数が重なった一つの出来事であり、それを周波数で決まる感覚の「 時空 」で、絶対静止の座標を用いることにより、「 時間 」と「 空間 」をに分離している。

これを人間に適用すると、次のように考える。

例えば、人間が「 性 」という身体と、感情の「 小脳 」と、知性の「 大脳 」による、「 無意識の楕円体 」と仮定する。

「 性 」と「 小脳 」と「 大脳 」が同時に生まれた一つの出来事であり、「 性 」の周波数と「 小脳 」の周波数と「 大脳 」の周波数の違いの混合が、人間の現実生活を構成していると考える。

すると、それは「 擬似科学 」と言われる「 バイオリズム 」の考えに類似する。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


2011/1/3、私の考え


意識と無意識を、「 氷山 」で比喩するのが正当かも知れないが、私は、無意識を 「バイオリズムの塊 」で、「 感覚の周波数の塊 」と考え、意識は、「 絶対静止の座標軸 」という周波数の受信機により判明した無意識であると考える。


「 絶対静止の座標軸 」は意識に存在し、置き換え可能な「 受信機 」であり、現在は、身体と感情と知性というリズムしか「 受信 」していないと思う。


人間を形成する細胞の全てが、リズムを持つと思うから、「 絶対静止の座標軸 」の採用次第で、「 直感 」のリズムも解明できると思う。


バイオリズムを「 擬似科学 」と考える事は、思考の退化である。


バイオリズムは感覚の周波数であり、バイオリズムに対して、置き換え可能な「 受信機 」の「 感受性 」を豊かにする事が「 無意識 」の解明であり、科学者がバイオリズムを「 擬似科学 」と考える限り、無意識を解明する事は出来ず、「 疑似科学 」と考える事は、思考の退化だと考える。


人間の身体を構成する細胞にもバイオリズムが存在するかも知れないし、バイオリズムに対する「 感受性 」の感度を高める事が、無意識の解明だと思う。


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