2011年02月27日

2011/2/27、オカルト・総括1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。

2011/2/23、私の記事
私の考え


天体の運動による時空の運動(物質の運動)、これは常に運動しているが、地球も共変しているため静止していると見える。


人は細胞の集合だが、DNAやRNAを持ち、それらが動いているが知覚する事が出来ないのは、意識も共変しているから、変化を知覚する事が出来ないと考える。


運動は、「 同時性 」のような「 絶対静止の座標 」が無ければ知覚する事は出来ない。


この知覚することが出来ない物質の動き(リズム)を「 身体 」のリズムとし、それから派生する「 運動可能性 」の無意識を「 感情 」のリズムとし、これらから派生するが、経歴や文化の「 記憶 」から生じる「 知性 」のリズムと、暫定的に考える。


人間は、細胞の集合であり、物質波の集合であり、生まれた時から、「 波動 」であるが、「 価値観 」や「 人格 」により、リズムの集合体、自我として、「 粒 」であると考える。


人間は、物質の塊や「 粒 」であると同時に、意識の波動を持ち、人間社会の波動に適合し、意識の可能性という波動(希望)を「 記憶 」で「 物質の運動 」にフィットさせて生きる動物であると思う。


2011/2/27、私の考え


私がこれまでに書いた言葉を統合する責任があると考える。

@

電磁波としての意識とバイオリズムの無意識

A

霊や魂や可能性や人格

B

人間を「 台風 」と考えた事

C

理解は、頭の電離層で行われ、時間は虚数である事

D

意思は具現化する事

などと、過去に書いた事について、現時点で総括する、責任があるだろう。



人間は「 電気の袋 」や「 考える葦 」や「 現存在 」であるかも知れないが、私は、観念的に、現時点の人間については、2011/2/23の記事の通りであると思っている。


人間を構成する細胞のDNAやRNAの「 動き 」から、無意識のバイオリズムである「 波動 」や意識の電磁波という「 波動 」が派生するだろう。


無意識のバイオリズムが「 阿頼耶識 」で、意識の電磁波が「 末那識 」だろう。


人間の生命は物質的に「 波動 」であると同時に、精神的にも「 波動 」であり、始まりと終わりがある物語も(文化も)「 波動 」であると思う。


人間を「 波動 」と考えた時、「 波動 」は生命であり、生命を持たない物質との違いは、「 感情 」のバイオリズムや「 情(zyou)」の有無の違いであると思う。


現在のバオイリズムは「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」かも知れないが、「 感情 」は「 知性 」と共に現れる場合もあれば、「 身体 」と共に現れる場合もあるから、物質と精神の幅を持ち、これが主観的時間の「 間(ma) 」であり、時制の「 現在 」を決定すると思う。


時制の「 現在 」は、「 記憶 」などという大脳に支配されない「 感情 」、体内時計、無意識が決定するのであり、記憶を喪失しても「 現在 」は決定されている。

これが、現時点の@に対する考えである。



AとCについて考える。

人間を「 波動 」と考えた時、「 波動 」は生命であり、生命を持たない物質との違いは、「 感情 」のバイオリズムや「 情(zyou)」の有無の違いであり、「 感情 」のバイオリズムは「 小脳の運動可能性 」であり、宇宙の果てまで、知る事が出来る限りまで続き、「 欲 」である。


「 感情 」の範囲内は「 小脳の可能性 」であり「 欲 」であり、「 魂 」であり、死と共に消滅すると思う。


「 感情 」の範囲外が、物質であり「 霊界 」であり、「 霊 」であり、「 霊界 」は無情の「 天国 」でもあるが、ここでは、無情の「 地獄 」であると考えて話を進める。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれない。


この「 地獄 」を、「 六道 」の地獄と思う。

地下に「 地獄 」を描くのは、「 地獄 」が物質界に存在位置を持つからと思う。


「 地獄 」は物質界で、「 人間界 」は「 感情 」の及ぶ範囲で、「 天国 」は、「 知性 」のバイオリズムであり、「 電離層 」であると思う。
「 天国 」は「 電離層 」という物質界であるため、「 地獄 」と同じ位置かも知れない。
「 天国 」と「 地獄 」が循環するという意味で、同等であると思う。


「 感情 」が及ぶ範囲が、時制の「 現在 」という主観的時間であり、天体の運動としての「 時間 」は、「 我 」も共変しているので、知る事が出来ないので「 虚数 」であるというのが現時点の考えである。

BとDについて考える。

上記のように、「 地獄 」と「 霊 」や「 感情 」の「 小脳の運動可能性 」と「 魂 」や「 知性 」の「 天国 」や「 電離層 」を考えた時、これらは、構造的に「 人格 」として一体になっていると思う。

「 霊 」に「 感情 」の息吹で「 小脳の可能性 」になり、「 小脳の可能性 」(人間の因果)に「 人格 」の息吹で「 能力 」に矮小化し、意識の「 意思 」「 意欲 」や「 意識された欲 」になり、具現化する。


「 可能性 」というのは「 能力 」と考えるかも知れないが、それは「 人格 」により、矮小化された人間の因果性であり、「 可能性は能力ではなく、能力を破る人間の因果性という知性である 」と考える。


Bの「 台風 」とは、「 霊界 」から、「 感情 」や「 情(zyou)」により「 欲 」を作り、それが中心に近づくにつれて「 人格 」により、「 情欲 」や「 欲望 」に矮小化され、「 意思 」になり、「 台風 」になるが、「 台風の目 」のように、「 人格 」の中心は、「 霊界 」に通じている構造であると思う。



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2011年02月23日

2011/2/23、リビア・エジプトの乱

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。

2011/2/23、私の考え

私の考え


天体の運動による時空の運動(物質の運動)、これは常に運動しているが、地球も共変しているため静止していると見える。


人は細胞の集合だが、DNAやRNAを持ち、それらが動いているが知覚する事が出来ないのは、意識も共変しているから、変化を知覚する事が出来ないと考える。


運動は、「 同時性 」のような「 絶対静止の座標 」が無ければ知覚する事は出来ない。


この知覚することが出来ない物質の動き(リズム)を「 身体 」のリズムとし、それから派生する「 運動可能性 」の無意識を「 感情 」のリズムとし、これらから派生するが、経歴や文化の「 記憶 」から生じる「 知性 」のリズムと、暫定的に考える。


人間は、細胞の集合であり、物質波の集合であり、生まれた時から、「 波動 」であるが、「 価値観 」や「 人格 」により、リズムの集合体、自我として、「 粒 」であると考える。


人間は、物質の塊や「 粒 」であると同時に、意識の波動を持ち、人間社会の波動に適合し、意識の可能性という波動(希望)を「 記憶 」で「 物質の運動 」にフィットさせて生きる動物であると思う。


この考えから、リビアやエジプトの乱を考える。


民衆は、心の底から、ある願い(可能性)を無意識に自覚したと思う。


その(無意識の)可能性の「 波動 」と対立する可能性の「 波動 」に、意識(知性)により物質(粒)に対して物質(粒)を衝突させたのが、リビアやエジプトの乱であろう。


粒と粒の衝突で、エネルギーを発散し、勝者の可能性が具現化し、人間社会の文化という意識(知性)が変わるのだろうが、私は、その後の為政者が、「 人格 」や「 価値観 」という無意識の可能性を集合させる「 力 」を持つ事を期待する。


神秘のパワースポットが、地域や場所で表現されるように、「 人格 」や「 価値観 」は、支持する人の広がりで判断され、それらは、無意識の「 運動可能性 」や生きる方法を決める。


物質の世界は、意識と共変して変化を知覚できないが、確実に、常に運動していて、これにフィットさせる意識の努力は必要だろう。


多くの人に好まれる「 人格 」や「 価値観 」を持った指導者が現れることを願う。


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2011年02月19日

城崎温泉とマリンワールド(追加)

私のもう一つのブログの「 ココロちゃんとおじさん 」で、写真を追加しました。

「 ココロちゃんとおじさん 」

城崎温泉とマリンワールド

    ↓
http://m24658.cocolog-nifty.com/blog/cat42636744/index.html




歩くペンギン









雪の城崎温泉






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2011/2/19、オカルト・バイオリズムと無意識10

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。 


2011/2/19、私の考え

宇宙の果てまで続く「 小脳の可能性 」は、個人の主観的時間の「 過去 」の中で、「 過去の可能性 」であり、それは「 知識 」だろう。

限りなく続く「 小脳の可能性 」、「 運動可能性 」を、「 自分の今 」という主観的な「 現在 」で区切っていて、「 自我 」という楕円体を形成し、外側の「 殻 」が知識だろう。


それは、地上に生育している植物に似て、目に見えない地下の「 根 」が知識であり、自我のバイオリズムの全ての「 正弦波 」であり、太陽から生じる電磁波的な構造の意識により、「 自我 」という「 幹 」を作り、社会の中で自分の可能性を開花させ、文化という果実を作り、死亡により「 自我 」が消滅しても、個人のバイオリズムから生じた可能性が開花し消滅しただけで、人類の「 小脳の運動可能性 」の総量には変化がない。


一つの生き物に生と死があっても、「 小脳の運動可能性 」は、生により「 眠っていた可能性 」が「 目覚め 」て、死によって「 眠った可能性 」になっただけで総量に変化がないと考える。

知識には、主観的な「 過去と現在と未来 」を貫く可能性が存在しているかも知れない。

なぜなら、「 過去と現在と未来 」という時制は、バイオリズムが決定し、「 記憶 」はこれに「 可能性 」をフィットさせて「 知識 」とするが、「 死 」により「 記憶 」が消えても、別の人の「 記憶 」が、同様にして、「 可能性 」を「 復活 」させるからだ。


「 小脳の運動可能性 」から言えば、人間は可能性を目覚めさせる動物である。


日本の幕末で「 坂本龍馬 」が現れたのは、社会の隠れた運動可能性が、個人の可能性を通じて具現化したと考える。

その意味で、動物も植物も、生き物の「 運動可能性 」を「 現在 」に具現化する生き物である事では相違はない。

この「 運動可能性 」が、時空を超越する「 阿弥陀仏 」や「 創造主 」であるかも知れない。


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2011年02月17日

2011/2/17、オカルト・バイオリズムと無意識9

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/1/28、私の考え

これは、科学的根拠のないオカルトであり、私だけの考えである。

@

時間と空間という日本語には、間(ma)という漢字が共通している。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」であるなら、間(ma)を「 自分だけの 」と解釈して「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と呼ぶ。

「 主観的時間 」や「 主観的空間 」は、「 自分 」の「 絶対静止の座標 」の存在を前提として成立する。

天体の時間や空間が誰にも共通という意味で「 客観的時間 」は、意識の時間であり、「 光 」で定義され、定義には「 絶対静止の座標 」が必要かも知れないが、天体の時間や空間は、測定されるのを待つだけである。


A

「 自分だけの 」の「 自分 」というのは、自分の遺伝子やこれまで生きてきた全ての経過、文化、人格から形成される「 自分 」で、「 阿頼耶識 」と考える。

これは、全ての人類の一人ひとりが相違する。


B

「 自分 」の構造は、氷山の一角に現れたのが意識で、水面下の隠れているのが無意識であるとは考えず、意識は光速で走る光の球で、それを生むのがバイオリズムの塊で、光ファイバーの塊であり、ハスの花が意識であり、茎や池が無意識であるとも考える。

バイオリズムは、自分の細胞の全てのリズムであり、波動であり、意識の知識も、始めと終わりがある物語であり、波動である。

未知のバイオリズムも存在すると思う。


C

「 過去や現在や未来 」は、「 自分だけ 」で、全ての人類の一人ひとりが相違する「 主観的時間 」である。

これは、バイオリズムから生じる無意識が決定し、「 記憶 」で決定するのではない。


「 記憶 」は、後述するように、「 運動可能性 」をフィットさせる働きをするのであり、「 過去や現在や未来 」という時制を決定する事は出来ないと考える。


D

無意識は「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」がエーテルのように充満する。

「 小脳の運動可能性 」を、バイオリズムから生じる「 現在 」という「 主観的時間 」にフィットするように「 運動可能性 」を区切るのが「 記憶 」である。

「 現在 」にフィットした「 運動可能性 」が充満しているのが、無意識の「 欲 」に光速で走る電磁波の球の意識の「 運動可能性 」を含む「 楕円体 」である。

「 現在 」は「 楕円体 」と思われるが、実際は、地球から生えた葦のように、バイオリズムが生む無意識の茎の先の「 光の楕円体 」であるかも知れない。

E

「 現在 」の「 楕円体 」の中心を考えると、意識や「 記憶 」の中心と無意識やバイオリズムの中心が存在する。

その中心は「 欲 」と「 運動可能性 」の中心であり、前者の「 絶対静止の座標 」が存在しない中心に、後者の「 絶対静止の座標 」を必要とする「 記憶 」の中心をフィットさせる事が、「 二本足で歩く事 」である。

人間の頭脳や心臓その他の臓器や人体の構造から、二本足や左右などを考える事は、人間の宿命かも知れない。


F

「 楕円体 」は「 欲 」と「 運動可能性 」が「 記憶 」によりフィットされた「 現在 」であるから、常に中心が一致せず、「 ストレス」を生じると考える。

ストレスの解消は、「 二本足で歩く事 」であり、「 運動可能性 」を現実に具現化する事であり、行動する事であると考える。



G

「 記憶 」と「 主観的時間 」と「 客観的時間 」の関係は、「 朝と昼と夜 」を考えると、私の考えが単純である事が判明すると思う。

「 朝と昼と夜 」の境界は、人類の全てにより相違する(これは「 過去と現在と未来 」)。

「 朝と昼と夜 」は、天体が決定するのでもなく、社会の定義の「 客観的時間 」が決定するのでもなく、「 記憶 」が決定するのでもなく、決定するのは「 主観的時間 」、つまり「 体内時間 」である。

天体は常に運動し、朝と昼と夜の区別はしない。

社会の定義が朝と昼と夜を決定すると思うが、無人島に住む人は、社会の定義ではなく、自分の体調で朝と昼と夜を区別するだろう。

「 記憶 」は「 朝の出来事 」を想起するが、「 朝 」という主観的時間を想起する事は出来ない。

「 朝 」には、寝床を片付けて、朝食し、新聞を見たりテレビを観たりする記憶した「 出来事 」や「 可能性 」を朝の時間にフィットするだけで、「 記憶 」が「 朝 」という主観的時間を決定する事は出来ない。

2011/1/30、私の記事

このように、「 無意識はバイオリズムから生じる 」とする実益は何か。

「 一般論 」や「 特殊論 」で書いた、「 意識 」は「 我 」であり、電磁波の構造をした「 大脳 」の働きであり、「 脳幹 」や「 小脳の運動可能性 」や「 無意識 」は、「 大我 」であり、「 人格 」であり、それらは、個人の遺伝子に関係するバイオリズムが原因である事は容易に推測される。


私は、「 時空 」が電磁波の構造で、「 情(zyou) 」を伝達し、それが認識である事は、当初から主張している。

この「 情(zyou) 」が、バイオリズムの「 感情 」であると想定している。

「 情(zyou)」は、日本語で、「 人情 」や「 愛情 」や「 感情 」や「 情動 」や「 情緒 」などと、人間として持つ事を期待される情感(zyoukan)を現わす言葉に含まれ、人間特有の性質を示している。

これが、「 無意識 」に関係している事は明白である。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。



2011/2/17、私の考え

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。 



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2011年02月11日

2011/2/11、オカルト・バイオリズムと無意識8

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/6、私の記事

宇宙の及ぶ所は全て「(小脳の) 欲 」が充満し、それを宇宙という時空に「 意欲 」という実体や「 可能性 」という実体にしているのが「 無意識 」であるバイオリズムであると考えれば、宇宙の「 大我 」を自分の「 我 」に実感させるのがバイオリズムであると考える。

自分という「 我 」から、宇宙規模の「 大我 」に目覚めることは、バイオリズムを分解し、自分の中で「 振動する 」波動を感じる事が一つの契機になると思う。

バイオリズムは人類の全てに相違するが、バイオリズムとしては、人類の全てが有する。

宇宙を「 弦 」で表現する人がいるが、私は、「 人間こそ波動である 」と思っている。

バイオリズムについて、現在の私は、2011/1/30の考えを維持している。

…………(省略)……………………

意識として考えるなら、無意識を生むのがバイオリズムであり、生まれる箇所は、小脳で感じる感受性が大脳で、意識として生まれるのだろう。

バイオリズムが「 正弦波 」ならば、電磁波の構造の意識も「 正弦波 」であるだろう。

小脳と大脳で、その正弦波が変換され、変換不可能な無意識や余分や独自の遺伝子的な無意識が、「 人格 」であるかも知れない。

無意識の存在や構造を考える事は、水平的で、「 存在論 」として考えると、バイオリズムを考える事は、必須の事であると思う。



2011/2/11、私の考え


日本語の「 時間 」と「 空間 」に共通する「 間(ma)」が、主観的時間と主観的空間である事は、以前、書いた。

これが、主観の中で「 同時 」に存在する事は、右脳と左脳の働きであると思うが、これから私の考えを書く。

「 過去や現在や未来 」や「 同時 」の時制は、バイオリズムである無意識の主観的時間が決定し、右脳や左脳の大脳による「 記憶 」という「 可能性 」が決定するのではない。

地球は自転し、地上で「 動かない物体 」は、観察する自分と同じ動きで「 共変 」しているのであり、その共変する動きを気づかず、「 動かない 」という座標を意識の中で持っているから、「 運動は相対的である 」というのであり、宇宙の全ては動き、静止した一点を宇宙の中に無いから相対的なのでなく、観測には「 人間の意識の中に静止した一点を考える 」事が必要であり、自分が決めた静止した一点が存在するから観測が可能であり、それに対して相対的な運動が存在するのだと思う。

これを無視した、時間や空間の哲学を欠いた相対論や量子論の中では、「 観測 」の問題を解決できないのだと思う。


普通の生活で使う時間や空間は、主観的な空間と時間であり、バイオリズムという無意識で決められ、過去や現在や未来という時制は、主観的時間の「 現在 」や「 今 」を満たす「 可能性 」という「 欲 」の可塑性の違いであり、意識の問題であり、無意識が感じる天体の運動から生じる時間や空間ではない。

宇宙の果てまで、「 小脳の無意識 」や「 欲 」は届くから、興味や好奇心が生じるのであり、「 私の 」という「 我 」により「 意欲 」と変化し、「 欲 」は「 可能性 」という「 意欲 」に変化すると考える。


私のブログでは、「 情(zyou)」が、「 可能性 」として、バイオリズムの「 身体 」の「 正弦波 」と「 感情 」と「 知性 」の「 正弦波 」を混合して、「 人格 」として「 現在 」の「 意識の正弦波(電磁場)」に具現化すると考える。


すると、「 情(zyou)」は「 感情 」や「 身体 」や「 知性 」の「 正弦波 」、つまり、「 波長 」や「 振動数 」と同調して、「 意識 」となる「 周波数の塊 」であり、「 人格 」であると考える。


「 情(zyou)」は、無意識が決めた「 現在 」の意識の「 時間という電磁場 」の「 正弦波 」の中で、「 記憶 」と混合して、「 刹那的波長(振動数) 」や「 永遠な波長(振動数) 」という「 可能性 」として具現化し、「 空間という電磁場 」の「 正弦波 」の中では、「 可能性の波長(振動数)が具現化する範囲や幅や領域 」として現れると考える。


「 情(zyou)」が、主観的な「 過去と現在と未来 」を通して伝達される「 可能性 」であると思う。「 情(zyou)」が「 身体のバイオリズム」と同調した時、「 動物的 」となり、「 情愛 」となり、「 感情のバイオリズム 」と同調した時、「 愛情 」となり、「 知性のバイオリズム」と同調した時、「 情(zyou)」は消滅して「 愛 」として行動に具現化すると考える。

バイオリズムを「 周波数 」と考えると、人間は「周波数の塊 」であり、「 周波数 」に対応して、「 人格 」が現れると考える。


Every miller draws water to his own mill.
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2011年02月06日

2011/2/6、オカルト・バイオリズムと無意識7

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/2/6、私の考え


宇宙の及ぶ所は全て「(小脳の) 欲 」が充満し、それを宇宙という時空に「 意欲 」という実体や「 可能性 」という実体にしているのが「 無意識 」であるバイオリズムであると考えれば、宇宙の「 大我 」を自分の「 我 」に実感させるのがバイオリズムであると考える。

自分という「 我 」から、宇宙規模の「 大我 」に目覚めることは、バイオリズムを分解し、自分の中で「 振動する 」波動を感じる事が一つの契機になると思う。

バイオリズムは人類の全てに相違するが、バイオリズムとしては、人類の全てが有する。

宇宙を「 弦 」で表現する人がいるが、私は、「 人間こそ波動である 」と思っている。

バイオリズムについて、現在の私は、2011/1/30の考えを維持している。

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バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定し、それを統御するのが「 人格 」であるとする。


先に書いた様に、「 情(zyou)」が、「 身体 」に近づけば「 性 」の問題になり、フロイトなどのリビドーにより「 人格 」が想定される場合もあり、「 情(zyou)」が「 知性 」に近づけば「 愛情 」となるが、「 愛 」ではない。

バイオリズムは、人間の個人的な無意識の「 情(zyou)」であるため、精神の、学問の、社会の規範には一致しない。

それは、咄嗟の場合に発揮される「 機能 」であり、「 脳 」の働きであると考える。

意識は「 電磁波的構造 」であり、電気の電磁波ではない。

派生するものであり、流れるものではない。

バイオリズムを、主観的時間の「 現在 」に、記憶その他の機能の中に、単独で存在するのではなく、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の組み合わせとして「 同時存在 」していると想定するから、同じ人間でも、その組み合わせにより、悪魔になったり、聖者になったりもするだろう。

その中で、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御するのが「 人格 」であると考える。



「 人は六道の一つの道 」に生まれて存在し、六道を揺れ動くと考え、六道の中で「 正見 」する事が仏教の教えならば、「 確率的 」に、「 慣習的 」に、「 定在波 」とにて現れる波動としての無意識の行為を統御する「 人格 」を、正しく認識する事が必要だろう。

このように考えると、僧侶の「 戒律 」や「 修行 」は、無意識を意識して高揚させる意味は有ると思う。


「 戒律 」は、教団を維持するための「 戒律 」ではなく、自分の無意識を「 洗う 」ために「 戒律を守る 」事が、僧侶に求められ、その事は、全人類に求められている事だと思う。

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意識として考えるなら、無意識を生むのがバイオリズムであり、生まれる箇所は、小脳で感じる感受性が大脳で、意識として生まれるのだろう。

バイオリズムが「 正弦波 」ならば、電磁波の構造の意識も「 正弦波 」であるだろう。

小脳と大脳で、その正弦波が変換され、変換不可能な無意識や余分や独自の遺伝子的な無意識が、「 人格 」であるかも知れない。

無意識の存在や構造を考える事は、水平的で、「 存在論 」として考えると、バイオリズムを考える事は、必須の事であると思う。

それを「 擬似科学 」ということは容易だが、「 擬似科学 」の中に、科学が到達し得ない領域があり、それが「 生命の聖域 」であり、神々が住む聖域やパワースポットであるかも知れない。



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