2011年03月29日

2011/3/29、オカルト・バイオリズムと可能性6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/28、私の記事

宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正当ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。

そのように考えると、「 小脳の運動可能性 」は「 心 」であり「 生命 」であり、「 運動 」はベクトルであり、良きにつか悪しきにつけ、ストレスを生じる。

これは、「 小脳 」の働きである。

2010/10/17、私の記事

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2011/3/29、私の考え

「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。


………………………………

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 間(ma) 」が、無意識の主観的、つまり局地的な時間と空間と考え、「 主観的時間 」というバイオリズムが時制を決定し、「 現在 」の中に「 主観的空間 」を決めるバイオリズムが存在すると思う。

………………………………

「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

「 小脳の運動可能性 」を現実化するのは、気(ki)であると思う。

「 情(zyou)」は、日本語で「 感情(kanzyou 」や「 人情(ninzyou) 」や「 情報(zyouhou)」などに用いられ、バイオリズムの「 感情 」を示し、これが「 身体 」と「 知性 」のバイオリズムの間を満たし、「 身体 」に近いリズムや「 知性 」に近いリズムが存在するが、未発見であるかも知れない。

情(zyou)という無意識のバイオリズムが、時制を決定するから、人類の全ての「 時制の幅 」は相違する。

「 過去や現在や未来 」と言っても、人類の全ての頭の中では、「 幅 」つまり「 範囲 」は相違する。

バイオリズムの「 主観的時間 」の情(zyou)と「 空間的時間 」の気(ki)の「 幅 」の違いを、事象が発生する間(ma)を記憶する事により、意識の「 時間意識 」と「 空間意識 」という間(ma)の中で発生する電磁波的構造を成立させる。

その統一体が、「 能力 」だと思う。

この事により、記憶が「時間」や「空間」を決定するように錯覚させるのだと思う。

このように、「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化し、「 時間 」や「 空間 」を決定するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。

気(ki)や情(zyou)が及ぶ範囲が、「 能力 」の範囲だと思う。


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2011年03月28日

2011/3/28、オカルト・バイオリズムと可能性5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2011/3/28、私の考え


宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正等ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。

そのように考えると、「 小脳の運動可能性 」は「 心 」であり「 生命 」であり、「 運動 」はベクトルであり、良きにつか悪しきにつけ、ストレスを生じる。

これは、「 小脳 」の働きである。


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2011年03月21日

2011/3/21、オカルト・バイオリズムと時間

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

東日本地震からの復興を祈ります。


過去の記事


2011/1/16、私の記事

それでは、「 無意識 」とは何か?

私は、「 光に乗っている人間 」を考え、「 光 」の球が「 意識 」で、その原動力が「 無意識 」であると考えている。

例えば、グラスファイバーを通る「 光 」である。

生命の縄(グラスファイバー)がバイオリズムの塊で「 無意識 」であり、その先端の「 光 」が「 意識 」と考える。

生命の縄(グラスファイバー)のどこを切っても、バイオリズムであり、光っているだけと考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」存在するのが「 無意識 」であり、「 現在 」に三個の「 無意識 」の中心が混在していると考える。

「 意識 」は、「 記憶 」という感受性により、「 現在 」に「 同時 」に、三個の「 無意識 」の中心を貫く時、「 直感 」あるいは「 悟り 」が得られると思う。

知性と感情と身体は、大脳と小脳と心臓の電気で流れるものであり、それぞれの波動だろう。

私は、その中で「 感情 」を重視する。

「 情(zyou)」は、「 情報 」や「 愛情 」という日本語に含まれ、「 情報 」は「 知識 」という精神に変化し、「 愛情 」は「 愛 」という精神に変化するが、「 情愛 」という動物的な「 性 」という身体のリズムに変化するからである。


「 感情 」は「 小脳の運動可能性 」であるし、全ての欲望の基礎にあり、「 意欲 」を生じる事は、以前、書いた。

普通の場合は、これらが一挙に意識により把握できないから、生命の縄(グラスファイバー)の断面では「 無意識 」と判断するが、それらは、誕生以来、主観的時間の「 現在 」まで続く生命の縄(グラスファイバー)である。

これにより、「 無意識 」は、「 存在論的に 」バイオリズムの塊、生命の縄(グラスファイバー)であり、主観的時間の「 現在 」の中では、慣習的に取得され、社会的な常識になった「 意識で無いもの 」、「 可能性 」として現れると考える。

私は、未発見のバイオリズムが存在すると思うが、身体と感情と知性のバイオリズムが存在すれば、それらが、主観的時間の「 現在 」に、「 同時に 」結ぶ「 力 」、あるいは「 ストレス 」が「 記憶 」だと思う。

私は、意識の中で、「 現在 」の中で、可能性として現れる生命の縄(グラスファイバー)の中心を飛び回りながら、生活し、その中心を貫く意識が「 直感 」である。

繰り返すが、主観的時間の「 過去と現在と未来 」の幅は、全人類の生きてきた経路やDNAの違いで全人類の可能性が全て違うように、全人類の記憶の違いにより、相違する。

その「 現在 」の中での「 無意識 」が、以上に書いたことである。


2010/10/17、私の記事
これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

2010/12/12、私の記事

私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の記事

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

2011/3/21、私の考え

日本語の「 時間 」の「 間(ma)」が主観的時間であり、「 時 」が思惟された時間とういう意味で「 客観的時間 」であるが、「 時間 」が、「 運動 」や速度で定義される事は、「 真理 」ではない。

なぜなら、運動は「 絶対静止の座標 」を頭脳に持って測量する事が必要だが、測量する主体も客体も、共に動いている、つまり「 共変 」するため、「 真理 」を知る事は出来ない。

静止した私も、静止した測定客体も、宇宙が動いている限り、「 動いている 」のであり、「 共変 」しているため、「 静止している 」と錯誤していると思う。

衝突が起こる「 同時性 」の測定の事情も同じである。

この「 共変 」は、「 測定 」全てに及び、相対論も量子論も「 共変する時間 」を定義しない限り「 真理 」ではない。

「 静止 」や「 運動 」も「 時間 」も、意識と無意識を解明しない限り「 真理 」ではないと思う。

日本語の「 時間 」と「 空間 」の「 共変する間(ma)」が、私の考えの「 台風の目 」であり、人間の根底に存在する「 無明 」であると思う。

私は、「 意識は電磁波の構造をもち、無意識はバイオリズムから生じる 」と考えている。

「 間(ma)」とは感覚する時間で、「 時 」とは思惟された時間だが、これは「 人類の小脳可能性 」の範囲内であり、「 範囲 」を決定するのが、無意識であり、バイオリズムであり、「 可能性 」を決定するのが「 記憶 」という「 能力 」であると思う。

「 能力 」については、「 可能性 」と共に、後日、書く予定である。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識というバイオリズムで決めるが、周期が相違するリズムが「 現在 」という時制に「 同時 」に出現するために、「 現在 」のなかに、「 過去や未来 」が存在する。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識が決めた「 現在 」に、「 記憶 」のよる「 可能性 」を当てはめた意識であるかも知れない。



「 心理的時間 」や「 記憶 」から、「 時間 」を解放し、「 心理 」を規定するバイオリズムで「 感覚される時間 」や「 意識される時間 」を考える方が良いと思う。

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2011年03月16日

2011/3/16、福島原発事故について

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



私は、関東に住んでもいないし、原発についての知識は無いから、黙っていた。

しかし、私も一言いう事にする。

「 死中生有り、生中生無し 」

原発は、「 死 」の中で、電力という「 生 」を得る事だ。

原発は、資源を持たない日本には必要悪であるかも知れないが、「 自分たちは、死の中で生を求めている 」という事を、政府も電力会社も忘れてはならない。

「 死 」の中で生きるとは、原子力を使いながら人間の事を忘れない事が、「 感受性 」である。

政府も電力会社も、この「 感受性 」が麻痺してしまい、非常時を想定しなかった結果だろう。

日本は、世界で唯一の被爆国であるが、その自覚が足りないのかも知れない。

私が、不満に思うのは、政府や電力会社の対応である。

それは、エリートが就職し、現場で自分が何をするのかわからず、仲間から、自分が無知で無能であることを知られるのを恐れ、出来ないディスクワークを、自分の机の中に隠す様子と良く似ている。


政府も東京電力の職員もエリートである。


エリートが困ると、プライドを守るためか、相談をしないで自分の殻に閉じこもって、精神を病む事が多い。


「 死 」の中で生を求める感受性には、狂気に似た感情で、芸術家には許されるかもしれないが、政治や社会では、許されない。

他人に迷惑をかけるからだ。


狂気は、他人に相談して、笑われると、自分の愚かさを知り解消する事が多い。




事件が、世界的にグローバルである事から、政府や電力会社は、自分の机の中に隠さず、世界に救援を求める方がよいと思う。



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2011年03月13日

2011/3/13、オカルト・バイオリズムと感受性6

「 東日本大地震 」で被災された方が、一刻も早く復興されることをお祈りします。


2011/3/6、私の記事

「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表し、物質と無意識を結ぶ状態であり、「 霊 」と「 魂 」、「 物質 」と「 精神 」を結ぶエネルギーだと思う。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれないと書いたが、その気(ki)というエネルギーを感じる事が、「 感受性 」だと思う。

「 霊 」として見た途端、「 魂 」になり、「 物質 」を見た途端、「 可能性 」となり、感覚が働いた途端「 欲 」になる。

「 感受性 」とは、仏教の「 餓鬼道 」の世界だと思う。

気(ki)は、流れる物質であり、エネルギーであり、バイオリズムを生むと思うから「 生気論 」を支持し、バイオリズムが無意識を生み、その無意識が「 心 」であり、「 欲 」であり、「 人格 」の限界であり、大気の限界に、電離層が存在するように、その限界に、バイオリズムや無意識のエネルギーと物質のエネルギーを連結する「 気(ki)」が存在し、気(ki)は、「 地獄 」であり、そこに住む事を「 感受性 」であると思う。


餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる


2011/3/13、私の考え


感受性を養う事は、音楽を聴いたり、絵画を観たりして、感性を豊かにする事だと思うが、私の考えは違う。

以上の考えを延長すれば、物質界は天国であり、同時に地獄であり、「 可能性 」が無い世界であり、無情の世界であると思う。


天国や仏教の浄土の空想を気(ki)を通して可能性に変えることが感受性を養う事だが、地獄から気(ki)を通して人間界の可能性を発見することも、感受性を養う事だと思う。


前者は、天国への階段を上ることで、後者は、地獄から人間界に引き上げることで、社会的弱者の立場に立って物を考える事は後者に属すると思う。

前者は、「 我一人 」の考えであり、後者は「 共に 」の考えで、「 人格 」というエネルギーの統一を高めるのは、後者の考えであると思う。

後者は、芸術家だけでなく、「 不可能 」に直面した人類が常に従った考えであると思う。

「 革命 」というのがそれで、常識を破るときは、後者の立場だと思う。

地獄から、人間の血を流して「 思想 」という精神を獲得するのが「 革命 」であり、社会から狂人と言われながら、人間の可能性を獲得するのが「 芸術家 」であり、人類は狂人無しには進歩しないのは事実だろう。



以前にも書いたが、思う事や感じる事の全ては、行動に通じる「 欲 」であり、「 無欲 」は、大欲であり、「 欲 」を消滅させる事は出来ないと思う。


「 欲 」はバイオリズムの無意識から生じ、その先端が気(ki)というエネルギーで物質界と通じていると考えるなら、「 欲 」の消滅は考えず、社会や人類や地球に貢献したいという「 欲 」を持つ事が大切だと思う。


地球上の全ての出来事に「 欲 」が及ぶ事は必然だが、地球環境や人類に貢献する「 欲 」を持つ事が大切で、個人の「 私欲 」を捨てる事で、「 人格 」が向上すると思う。


Every miller draws water to his own mill.
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2011年03月09日

2011/3/9、オカルト・バイオリズムと感受性5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/6、私の記事

バイオリズムは、主観的時間が決める「 現在 」という時制に同時に現れ、「 小脳の可能性 」という空間的な欲から海馬の記憶により「 自分の可能性 」という空間的な欲を切り取り、空間を閉ざして「 気(ki)」というエネルギーを充満させる。

これを、私は、「 現在 」という時制に「 意識は電磁波の構造をして、気(ki)というエネルギーを充満させる 」事が、「 意欲 」であると思う。


「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表す。

この「 気(ki)」が、バイオリズムの「 小脳の可能性 」と「 自分の可能性 」を連結し、エネルギーを「 自分の可能性 」にフィットさせるのは海馬の記憶であると思う。

「 気(ki)」は、エネルギーであり、振動数であり、生命体の動きであり、バイオリズムのエネルギーだろう。


私は、意識が電磁波の構造をした場を持ち、情報や情(zyou)が、気(ki)というバイオリズムのエネルギーにより伝達されると考え、いわば、「 光の中を進んでいる 」と考えている。

2011/3/9、私の考え


私は、バイオリズムが無意識を生むが、それが物質との接点を気(ki)であると思っている。

「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表し、物質と無意識を結ぶ状態であり、「 霊 」と「 魂 」、「 物質 」と「 精神 」を結ぶエネルギーだと思う。


「 芸術家は、生きながら地獄を見る人だ 」というかも知れないが、芸術家は「 情(zyou)」の限界まで来て、無情の「 地獄 」、「 感情 」を生む物質を見る人であり、それが「 芸術は爆発だ 」という事かもしれないと書いたが、その気(ki)というエネルギーを感じる事が、「 感受性 」だと思う。

「 霊 」として見た途端、「 魂 」になり、「 物質 」を見た途端、「 可能性 」となり、感覚が働いた途端「 欲 」になる。

「 感受性 」とは、仏教の「 餓鬼道 」の世界だと思う。

気(ki)は、流れる物質であり、エネルギーであり、バイオリズムを生むと思うから「 生気論 」を支持し、バイオリズムが無意識を生み、その無意識が「 心 」であり、「 欲 」であり、「 人格 」の限界であり、大気の限界に、電離層が存在するように、その限界に、バイオリズムや無意識のエネルギーと物質のエネルギーを連結する「 気(ki)」が存在し、気(ki)は、「 地獄 」であり、そこに住む事を「 感受性 」であると思う。


六道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる


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2011年03月06日

2011/3/6、オカルト・バイオリズムと無意識と脳波2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/17、私の記事

@の「 時 」や「 空 」は天体の動きで、「 間(ma)」が、実生活の中で、「 時間 」や「 空間 」であると実感させる主観的な感情であると考える。

「 時 」や「 空 」を、バイオリズムで切り取ったのが「 時間 」や「 空間 」であると考え、バイオリズムが「 過去や現在や未来 」という時制を決定するので、人類の全てにおいて時制の範囲は相違する。

これは、地球上の全ての点で時空が相違する事を、人間の心理面で書いた事になる。


時制は、「 記憶 」が必要だが、これは「 時間 」や「 空間 」を創るのではなく、「 可能性 」を、時制の「 現在 」にフィットさせると思う。


Dにより、宇宙の果てまで「 小脳の運動可能性 」が「 欲 」として延びているが、その「 欲 」をバイオリズムで切り取ったのが「 可能性 」であり、「 確率を持った欲 」であり、「 目覚めた欲 」であり、「 意欲 」である。


「 可能性 」は、「 欲 」であり、どのように切り取っても、「 小脳の運動可能性 」つまり「 欲 」の総体に変化は無い。


「 エネルギー保存 」や「 不増不減 」というのは、物質の事かもしれないが、「 欲 」についても「 眠っている欲 」か「 目覚めている欲 」かの違いで、エネルギーも保全され、「 不増不減 」であると考える。


「 可能性 」は意識された欲だと思うが、意識が電磁波で無意識がバイオリズムである事により、「 欲 」は、人体の中で「 意識された欲 」と「 小脳の欲 」になると思うが、「 欲 」はエネルギーであり、「 小脳の運動可能性 」は、思考された空間も含む時空であると考え、少し違うと思うが、この事は留保する。


「 可能性 」は意識であるが、「 心当たり 」を記憶により往復する事により、眠った主観的時間の「 過去の可能性 」を溶解し、「 現在の可能性 」を取りだし、「 未来の可能性 」の眠りへと、記憶により主観的時間の「 現在 」にフィットさせ、「 可能性 」を変換するのが「 意識の記憶 」だと思う。

2011/2/23、私の記事
私の考え


天体の運動による時空の運動(物質の運動)、これは常に運動しているが、地球も共変しているため静止していると見える。


人は細胞の集合だが、DNAやRNAを持ち、それらが動いているが知覚する事が出来ないのは、意識も共変しているから、変化を知覚する事が出来ないと考える。


運動は、「 同時性 」のような「 絶対静止の座標 」が無ければ知覚する事は出来ない。


この知覚することが出来ない物質の動き(リズム)を「 身体 」のリズムとし、それから派生する「 運動可能性 」の無意識を「 感情 」のリズムとし、これらから派生するが、経歴や文化の「 記憶 」から生じる「 知性 」のリズムと、暫定的に考える。


人間は、細胞の集合であり、物質波の集合であり、生まれた時から、「 波動 」であるが、「 価値観 」や「 人格 」により、リズムの集合体、自我として、「 粒 」であると考える。


人間は、物質の塊や「 粒 」であると同時に、意識の波動を持ち、人間社会の波動に適合し、意識の可能性という波動(希望)を「 記憶 」で「 物質の運動 」にフィットさせて生きる動物であると思う。


2011/3/5、私の記事

人間は細胞から構成され、DNAやRNAなどの遺伝子が絶えず運動し、バイオリズムが生じるだろう。


このリズムを「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のリズムであると仮定する。


リズムは正弦波というから、「 時間意識 」を生み、主観的時間の「 間(ma)」が身体の時間意識と感情の時間意識と知性の時間意識を形成するだろう。


私の考えでは、バイオリズムは「 小脳の運動可能性 」で、人類の知性を集結した、文化を含んだ「 可能性 」であり「 欲 」であり、個人は、「 感受性 」という無意識により、自分の能力に相当する「 意欲 」という「 可能性 」を取得する。


「 可能性 」は「 能力 」ではなく、前者の社会であれば「 文化 」、後者の個人であれば「 人格 」が現実にデフォルメされて(三次元?)空間に現れる「 欲というエネルギー」であると思う。


このようにバイオリズムは、(電磁波の)意識の時間意識と空間意識を生む「 リズムと欲というエネルギーの二つの可能性 」であると思う。


「 リズム(時間)と欲というエネルギー」が(三次元?)空間に現れるのが「 脳波 」だと思う。


「 睡眠 」や「 覚醒 」のエネルギーの調節が小脳の働きであり、それが脳波に現れるならば、睡眠や覚醒の「 欲 」が、脳波という電気の「 リズム 」となって現れ、それが、地球を巡るシューマン波と合致すると考えると私の体系と一致する。


2011/3/6、私の考え


脳波やシューマン波に対する知識が無いので、憶測であるが、両者はヘルツで表現されるだろう。

脳波にバイオリズムを対応させる。

脳波のα波は8から13ヘルツ、β波は14ヘルツ、θ波は4から7ヘルツであり、α波は「 感情の波 」であり小脳の波、β波は「 知性の波 」であり、海馬の波、θ波は「 身体の波 」であり、心臓その他のDNAなどの細胞の波と考える。


バイオリズムは、主観的時間が決める「 現在 」という時制に同時に現れ、「 小脳の可能性 」という空間的な欲から海馬の記憶により「 自分の可能性 」という空間的な欲を切り取り、空間を閉ざして「 気(ki)」というエネルギーを充満させる。

これを、私は、「 現在 」という時制に「 意識は電磁波の構造をして、気(ki)というエネルギーを充満させる 」事が、「 意欲 」であると思う。


「 気(ki)」は、天気や霊気や気候などの天体の状態を表す言葉であると同時に、元気や気孔などの生命体のエネルギーの状態も表す。

この「 気(ki)」が、バイオリズムの「 小脳の可能性 」と「 自分の可能性 」を連結し、エネルギーを「 自分の可能性 」にフィットさせるのは海馬の記憶であると思う。

「 気(ki)」は、エネルギーであり、振動数であり、生命体の動きであり、バイオリズムのエネルギーだろう。


私は、意識が電磁波の構造をした場を持ち、情報や情(zyou)が、気(ki)というバイオリズムのエネルギーにより伝達されると考え、いわば、「 光の中を進んでいる 」と考えている。


バイオリズムは、時制の「 現在 」に同時存在し、α波(感情)の気(ki)が弱くなりθ波(身体)の気(ki)に近づいた時が、シューマン波の7ヘルツで「 睡眠の時間 」であり、α波の気(ki)がβ波の気(ki)に近づいた時が、「 覚醒の時間 」であり、「 霊 」である「 小脳の無意識 」がこれを決める。


バイオリズムのリズムは、気(ki)の振動や波長であるから、無意識はバイオリズムの気(ki)を感じている。


気(ki)を近づけて「 覚醒した可能性 」にフィットさせて意欲を生じさせるのが海馬の記憶であるなら、「 睡眠した可能性 」にフィットさせる事が出来ないから、「 夢 」の中の意識には、意欲は存在せず、気(ki)の映像が「 現在 」の可能性の結果とは違う事もある。

この気(ki)というリズムになったエネルギーを、電気(denki)の気(ki)であり、脳波であると考えている。

この延長に、ビッグ・バン理論ではなく、プラズマ宇宙論があると思っている。

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2011年03月05日

2011/3/5、オカルト・バイオリズムと無意識と脳波1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/3/5、私の考え


人間は細胞から構成され、DNAやRNAなどの遺伝子が絶えず運動し、バイオリズムが生じるだろう。


このリズムを「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のリズムであると仮定する。


リズムは正弦波というから、「 時間意識 」を生み、主観的時間の「 間(ma)」が身体の時間意識と感情の時間意識と知性の時間意識を形成するだろう。


私の考えでは、バイオリズムは「 小脳の運動可能性 」で、人類の知性を集結した、文化を含んだ「 可能性 」であり「 欲 」であり、個人は、「 感受性 」という無意識により、自分の能力に相当する「 意欲 」という「 可能性 」を取得する。


「 可能性 」は「 能力 」ではなく、前者の社会であれば「 文化 」、後者の個人であれば「 人格 」が現実にデフォルメされて(三次元?)空間に現れる「 欲というエネルギー」であると思う。


このようにバイオリズムは、(電磁波の)意識の時間意識と空間意識を生む「 リズムと欲というエネルギーの二つの可能性 」であると思う。


「 リズム(時間)と欲というエネルギー」が(三次元?)空間に現れるのが「 脳波 」だと思う。


「 睡眠 」や「 覚醒 」のエネルギーの調節が小脳の働きであり、それが脳波に現れるならば、睡眠や覚醒の「 欲 」が、脳波という電気の「 リズム 」となって現れ、それが、地球を巡るシューマン波と合致すると考えると私の体系と一致する。


シューマン波が、人体では、「 バイオリズム 」であるかも知れない。


普通は、器具を使用して、シューマン波を「 測定 」したり、「 バイオリズム 」や「 脳波 」を器具で「 測定 」するが、仏陀やキリストは、器具を用いなくても、これらの「 リズム 」やエネルギーを「 無意識に 」行使する事が出来たのかも知れない。


ただ、「 測定 」は、「 自分だけが静止している 」という仮定の上で成立するから、地球が動き、測定する側も測定される側も、共に動いている(共変している)から、真実ではなく、仏陀やキリストのように、「 感受性 」で無意識を把握するのが真理であるかも知れない。


「 バイオリズム 」を擬似科学とみなして、時間や空間を考えない「 科学 」こそ、科学の名に値しない思想であり、相対論であれ量子論であれ、既存の時空概念を前提とした功利的な考えだと思う。



Every miller draws water to his own mill.
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