2011年04月27日

2011/4/27、ドナルド・キーン名誉教授の日本永住について

国営放送のNHKで、アメリカのコロンビア大学のドナルド・キーン名誉教授が、日本に永住するに際し、同大学で最後の講義をされている様子が放映された。

外国人が、日本を去り、日本の農産物や魚介類の輸入制限をするのは、当然であると思っていた。

だって、日本は、放射能を漏らしており、自分たちの生命に影響を及ぼすから。

それは、「 可能性 」を考えれば当然です。

「 可能性 」は、無意識の段階であり、バイオリズムであり、「 欲 」でもあるから、日本を避けるのも当然だと思っていました。

私が聴いた範囲では、ドナルド・キーン教授は、「 皆が日本から離れるが、自分が日本に住むことにより、東北の人たちを励まし、何かの勇気を与えることが出来るなら、日本に行く」と言われた。

私は、この言葉に動揺して、このブログを書いている。

私は、義援金を出すぐらいの事しか出来ないが、ドナルド・キーン名教授の日本永住は、多くの人に勇気を与えると思う。

私の考えは、「 可能性 」や無意識やバイオリズムは、気(ki)と情(zyou)が要素で、間(ma)が、日本語で「 時間 」と「 空間 」と「 人間 」の言葉に含まれ、これを「 主観 」で連結していると考え、ドナルド・キーン名誉教授が日本に住み、講演などの話をされることは、情(zyou)であり、情(zyu)を与えることであり、これに連結する気(ki)という体内のエネルギーを惹起させると私は思います。

音楽や言葉という情(zyou)が苦しみや辛さという気(ki)を和らげるように、「 愛情 」や「 人情 」や「 情報 」という日本語に含まれる情(zyou)は、必ず、苦しみという体内の気(ki)を和らげ、「 元気 」や「 勇気 」という日本語に含まれる気(ki)を惹起させると思うからです。

日本は、住みやすい国ではありません。

これから、日本人に幻滅を感じられるかも知れませんが、ご活躍を期待します。


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2011年04月17日

2011/4/17、東日本大震災について2

東日本大震災の被災者の皆さん、がんばってください。


2011/4/14、私の記事

上記より、私のブログでは、「 可能性 」と「 蓋然性 」は、それが生まれる土壌が違うということになる。

「 可能性 」は、バイオリズムや無意識であり、「 蓋然性 」は、意識がその土壌であると思う。

「 可能性 」は、「 能力 」と比べたとき生じるが、この「 能力 」とは、習慣となった無意識の「 欲 」が及ぶ範囲やエネルギーであり、安定的であり、「 可能性 」は、どこまでも伸びる「 欲 」であり、不安定であり、両者は、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という人間の感情から成り立つと考える。

「 蓋然性 」とは、意識的であり、道具的であり、手段的であり、物的であるから、コンピューターが働く余地があり、個人の感情を問題にしないから、「 非情 」であり、言葉で置き換えるから安定的である。

「 蓋然性 」は情報という情(zyou)であり、人間が考える点で、無意識と交差する。

「 可能性 」には、私の無意識やDNAに関係し、不安な気(ki)と「 蓋然性 」が結合したとき、力(power)となり、不安定な情(zyou)と結合したとき、安定を与えて、落ち着きという態度になると考える。

無意識やバイオリズムは、気(ki)と情(zyou)で成り立ち、両者は電場と磁場の関係で、意識より範囲が広いから、「 蓋然性 」で情(zyou)の不安は除かれても、個人の気(ki)を同時に消滅させることは出来ない。


2011/4/17、私の考え


上記の考えにより、世界中が、福島原発の処理に注目していることを理解できる。


「 可能性 」は、無意識であり、バイオリズムから生じ、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という感情が構成要素で、前者が、「 地球は一つのエネルギー 」であり、後者が、「 地球は一つという感情や意識 」である。

「 可能性 」が「 欲 」であるから、地球の裏側に住んでいても「 心が動き 」、原発の事故を「 心配し 」、「 心が動く 」のだろうと思う。


福島原発事故を終息させるため、世界の科学者が集まり、解決策を模索しているが、予測ができない。

生命の「 死 」の領域から電気を取り出す原子力が、生命に「 安心 」を提供するには、「 死 」を回避する、多重の回避策が必要だと、科学者は思っているだろう。

原発事故の処理を電力会社から国家へ移し、国家が各地に汚水格納庫を作らせ、福島に運べば、より多数の汚水格納庫が準備されると、素人の私は思う。

最も深刻な「 レベル7 」であり、原発事故の避難者の補償を国家がするのではなく、国家による原発事故の処理が、世界から求められていると思う。

「 可能性 」を「 現実 」にしないために。

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2011年04月14日

2011/4/14、オカルト、バイオリズムと可能性・蓋然性2

2011/4/10、私の記事


「 可能性 」は、「 欲 」であり、自然界の因果関係の「 蓋然性 」とは違うと思う。

「 可能性 」は、情(zyou)であり、人間の感情が無い「 自然 」と対立する。

「 自然 」は「 宇宙 」と考える。

「 可能性 」と「 能力 」は「 不安定 」か「 安定 」かで、同種の関係だと思うが、「 蓋然性 」は、「 確率 」の問題であり、人間が考える点で人間と関係するが、情(zyou)が無い状態だから、人間の感情や意識を考えなくても、コンピューターでも判定する事が出来る。

「 原発 」は、「 蓋然性 」でなく、「 可能性 」を基準にして考える。

「 想定 」は「 蓋然性 」ではないのかと疑問に思う。

コンピューターでは、「 確率 」は判断する事は出来ても、人間に対する「 可能性 」を判断する事は不可能だ。

なぜなら、コンピューターは、「 欲 」も無く、「 安心 」や「 不安 」など、人間の無意識やバイオリズムを持っていないからだ。

コンピューターが出来るのは「 想定 」であり、原発の責任者が「 可能性 」というのは、「 蓋然性 」だと思っている。


「 可能性 」は、自然界への「 恐れ 」が不可欠で、それを自力で支配する状態、意識的に行動するのが「 能力 」であり、「 安心 」である。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。



2011/4/14、私の考え


上記より、私のブログでは、「 可能性 」と「 蓋然性 」は、それが生まれる土壌が違うということになる。

「 可能性 」は、バイオリズムや無意識であり、「 蓋然性 」は、意識がその土壌であると思う。

「 可能性 」は、「 能力 」と比べたとき生じるが、この「 能力 」とは、習慣となった無意識の「 欲 」が及ぶ範囲やエネルギーであり、安定的であり、「 可能性 」は、どこまでも伸びる「 欲 」であり、不安定であり、両者は、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という人間の感情から成り立つと考える。

「 蓋然性 」とは、意識的であり、道具的であり、手段的であり、物的であるから、コンピューターが働く余地があり、個人の感情を問題にしないから、「 非情 」であり、言葉で置き換えるから安定的である。

「 蓋然性 」は情報という情(zyou)であり、人間が考える点で、無意識と交差する。

「 可能性 」には、私の無意識やDNAに関係し、不安な気(ki)と「 蓋然性 」が結合したとき、力(power)となり、不安定な情(zyou)と結合したとき、安定を与えて、落ち着きという態度になると考える。

無意識やバイオリズムは、気(ki)と情(zyou)で成り立ち、両者は電場と磁場の関係で、意識より範囲が広いから、「 蓋然性 」で情(zyou)の不安は除かれても、個人の気(ki)を同時に消滅させることは出来ないから、次のように考える。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。


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2011年04月10日

2011/4/10、オカルト・バイオリズムと可能性・蓋然性

2011/4/3、私の記事

「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

2011/4/10、私の考え

「 可能性 」は、「 欲 」であり、自然界の因果関係の「 蓋然性 」とは違うと思う。

「 可能性 」は、情(zyou)であり、人間の感情が無い「 自然 」と対立する。

「 自然 」は「 宇宙 」と考える。

「 可能性 」と「 能力 」は「 不安定 」か「 安定 」かで、同種の関係だと思うが、「 蓋然性 」は、「 確率 」の問題であり、人間が考える点で人間と関係するが、情(zyou)が無い状態だから、人間の感情や意識を考えなくても、コンピューターでも判定する事が出来る。

「 原発 」は、「 蓋然性 」でなく、「 可能性 」を基準にして考える。

「 想定 」は「 蓋然性 」ではないのかと疑問に思う。

コンピューターでは、「 確率 」は判断する事は出来ても、人間に対する「 可能性 」を判断する事は不可能だ。

なぜなら、コンピューターは、「 欲 」も無く、「 安心 」や「 不安 」など、人間の無意識やバイオリズムを持っていないからだ。

コンピューターが出来るのは「 想定 」であり、原発の責任者が「 可能性 」というのは、「 蓋然性 」だと思っている。


「 可能性 」は、自然界への「 恐れ 」が不可欠で、それを自力で支配する状態、意識的に行動するのが「 能力 」であり、「 安心 」である。

原発の周囲の住民を「 安心 」や「 安全 」で説明するのは、「 可能性 」を隠すことであり、無意識に感じる「 不安 」は消滅する事はないし、「 安心 」や「 安全 」を感じるのは住民であり、電力会社や政府が、その言葉を使うのは不適当である。



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2011年04月09日

2011/4/9、東日本大震災について

東日本大震災の被災者の皆様は、苦しいでしょうが、希望を持ってお過ごしください。

2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。

…………(省略)……………………



「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。

2011/3/29、私の記事

「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。


………………………………

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 間(ma) 」が、無意識の主観的、つまり局地的な時間と空間と考え、「 主観的時間 」というバイオリズムが時制を決定し、「 現在 」の中に「 主観的空間 」を決めるバイオリズムが存在すると思う。

………………………………

2011/4/9、私の考え


私は、当該地震の被災者ではないが、勝ってながら、被災者について考えた。

無意識に「 自分の能力 」で出来る範囲と「 将来 」の可能性を比べて不安に思われていると思う。


私は、津波の被災者と、福島原発の被災者と別けて、避難や救助を考える。


津波は終息しているのに反し、福島原発は終息していない。


両者とも、「 現在 」の自然に対する避難であるが、前者は、津波という自然の「 可能性 」に比べた時、自己の「 能力 」の過小な事への不安感やストレスだと思われるから、被災した現場の近くに仮設住宅を作り、世界で行われたように、行政と共に町作りを計画し、資金や自衛隊の人力という「 能力 」で可能性を現実化したほうが復興も早いだろう。

今は、遠隔地の仮設住宅に住むのではなく、津波の現場に戻り、災害復興に働くほうが良いと思う。



後者は、原発という「 死に至る自然 」の「 可能性 」を、自己の「 能力 」で、「 具現化 」しないようにするのだが、原発付近の住民は、今、実施されているように、遠隔地で町単位で疎開し、原発の作成者や電力会社の能力に頼るしか、方法はない。


住民は、長期の滞在になり、現場に近づけないから、一つの町が新設されたように、衣・食・住の要件を満たし、医療や雇用など生活全般に対して、救援が必要だろう。


後者には、自衛隊や重機などの「 能力 」は必要とせず、介護や精神的な心のケアが必要になるだろう。



一番困るのは、政治家が何の行動もしない事だ。


税金で給与を貰っている「 特別公務員 」の「 政治家 」が、「 健全な野党をめざす 」と言って、何もしない。


地方公務員は、市町村の財政健全化のために、自らの給与をカットされているというのに、「 特別公務員である国会議員 」は自らが決めた、自らの給与のカットをしない。


国会議員は、賢いから、自分で、自分の首を絞めるような事はしないのだ。


世界から、「 義援金 」が届けられるというのに、国民が苦しんでいるというのに、国会議員は、高い報酬を受け続けている。


民社党は「 与党 」といい、自民党は「 野党 」というが、税金泥棒である事では、同じである。


「 国難 」と政治家は言うが、政治家が、国のため「 何をした 」のか。

こんな時、人のために働くように、税金を使って報酬を与えられているのではないか!!

これが、国を憂う人で、日本国の将来を考える人だとは、到底、言う事が出来ない。


政治という職業をする人はいるが、政治家はいない。


選挙は、政治をする人を選ぶのであり、人気投票ではない。


国民は、知名度に関係なく、もっと、政治を得意とする人を選ぼうではないか!!




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2011年04月03日

2011/4/3、オカルト、バイオリズムと可能性・空間

2010/10/17、私の記事

これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2011/3/29、私の記事

「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。


………………………………

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 間(ma) 」が、無意識の主観的、つまり局地的な時間と空間と考え、「 主観的時間 」というバイオリズムが時制を決定し、「 現在 」の中に「 主観的空間 」を決めるバイオリズムが存在すると思う。

………………………………

「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

「 小脳の運動可能性 」を現実化するのは、気(ki)であると思う。

「 情(zyou)」は、日本語で「 感情(kanzyou 」や「 人情(ninzyou) 」や「 情報(zyouhou)」などに用いられ、バイオリズムの「 感情 」を示し、これが「 身体 」と「 知性 」のバイオリズムの間を満たし、「 身体 」に近いリズムや「 知性 」に近いリズムが存在するが、未発見であるかも知れない。

情(zyou)という無意識のバイオリズムが、時制を決定するから、人類の全ての「 時制の幅 」は相違する。

「 過去や現在や未来 」と言っても、人類の全ての頭の中では、「 幅 」つまり「 範囲 」は相違する。

バイオリズムの「 主観的時間 」の情(zyou)と「 空間的時間 」の気(ki)の「 幅 」の違いを、事象が発生する間(ma)を記憶する事により、意識の「 時間意識 」と「 空間意識 」という間(ma)の中で発生する電磁波的構造を成立させる。

その統一体が、「 能力 」だと思う。

この事により、記憶が「時間」や「空間」を決定するように錯覚させるのだと思う。

このように、「 欲 」である「 可能性 」を「 能力 」に現実化し、「 時間 」や「 空間 」を決定するのは、気(ki)と情(zyou)であると思う。

気(ki)や情(zyou)が及ぶ範囲が、「 能力 」の範囲だと思う。


2011/4/3、私の考え


「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

安定するのは気(ki)というエネルギーに「 意識 」という情(zyou)が加わったからであり、不安定な「 可能性 」は気(ki)であり、気(ki)は、「 生気論(seikiron)」の気(ki)や、プラズマ宇宙論の電気(denki)に関連すると思うと、人間は宇宙の産物であるという事になる。


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