2011年05月29日

2011/5/29、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」4

2011/5/21、私の記事

「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

2011/5/22、私の記事

以上のように、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間の問題ではなく、「 関係 」の問題であるという結論になった。

「 明日 」という「 時間 」があるから、「 現在 」を懸命に生きるのではなく、将来、呼吸するであろう「 明日 」の現実性に「 関係する 」現在だから、明日に続く、現在の無意識の可能性を懸命に探さなくてはならないのだと思う。

明日という「 時間 」があるからでなく、生きている以上は続く呼吸とういう無意識が形成する、無意識の「 可能性 」が「 明日に続く 」と考えるから、現在の可能性を模索するのである。


2011/5/29、私の考え


私の考えは、無意識はバイオリズムから生じ、気(ki)というエネルギーと情(zyou)という感覚可能な意識で作られ、バイオリズムを生むのは「 呼吸 」であり、小脳の運動可能性である。

この「 呼吸 」が、「 現在 」という時制を作り、「 今 」という情報を静止させる情(zyou)を作る。

「 現在 」や「 今 」は、個人的なバイオリズムの産物であり、「 定義 」は個人の自由である。

以下は、私の考えであるから、無視しても良いと思う。







「 今 」や「 ここ 」が「 関係 」の問題である。

「 今 」や「 ここ 」が何かを追求しても、「 私が生きている事 」や「 私が呼吸している事 」に突き当たる。

「 今、何時ですか?」「 What time is it now? 」と言う時、「 今 」「 Now 」は時間ではない。


「 今 」は過去と未来の間(ma)の現在であり、「 現在 」という時制を決める間(ma)である。

私は、現在で呼吸するのであり、現在は呼吸と共に過去になる状態が「 無常 」というのだと思う。

「 今 」は、「 呼吸 」により連続し、「 呼吸 」は、意識的な息を吸ったり吐いたりする事ではなく、肺や皮膚の動きであり、意識して息を止めていても、肺が動いている限り、「 呼吸 」であり、「 今 」が連続している。

私は「 呼吸 」を、バイオリズムの身体のリズムであると思い、大気(taiki)で体内の気(ki)というエネルギーを変換し、頭脳の中で意識や無意識を生じさせて、感情や知性のリズムの情(zyou)を生み、情(zyou)が「 現在 」であると思う。

「 現在 」は、無意識の時間や空間では間(ma)として存在し、意識の中では「 今 」という情(zyou)として、呼吸の気(ki)と共に、現れて消える。

しかし、過去の事象は「 呼吸 」とは無関係に未来に連結しているので、「 現在 」という時制の中で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が「 可能性 」である思う。

「 今 」や「 現在 」という、未来に影響する間(ma)で、未来へ連結する事象の関係という情(zyou)が持つ気(ki)というエネルギーが大きいのが、未来への可能性であるかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
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2011年05月27日

2011/5/27、オカルト・エネルギーについて(蓄電池)2

2011/5/26.私の記事

しかし、私の考えは違う


私は、発電する事も重要だが、「 蓄電池 」の改良が必要だと思い、「 株式 」も購入している。


電気を発電し、それらの全部を使うのは、今までの発想で、その結果、原発で発電した電気を使ってしまおうと、「 オール電化 」や夜のイルミネーションを実施するという発想になる。


そうではなく、電気を「 蓄電池 」に蓄え、使いたい時の使う生活にする。


病院で、「 自家発電機 」を設置するよりも、大量の「 蓄電池 」を設置し、計画停電しても手術が可能だし、冷暖房も使いたい時、「 蓄電池 」から使えば良いと思う。


蓄電池の材料は、高価な媒体を使うのではなく、世界中に存在する「 ナトリウム 」つまり「 塩 」を使う方法も、日本の企業は開発している。


日本は、太陽電池や風力による発電も重要だが、「 蓄電池 」を「 国策 」として開発したほうが、世界に貢献すると思う。



2011/5/27. 私の考え


菅首相をはじめ、日本のエリート、一流大学卒業の人たちは、なんと常識的、平凡な考えをするのだろか。


福島の原発事故を収束させる事は、常識だが、これからの日本の方策について常識的である事に幻滅した。



彼らが言うように、日本の屋根のすべてで、太陽発電をしても、あるいは、休耕地に太陽発電池を並べたとしても、日本特有の台風や大雨、梅雨や大雪などの自然災害で、これらに損害を受け、また始めからスタートする事になるのを、「 想定 」する事が出来ないのだろうか。


自然の再生可能なエネルギーで、電気を作る事は、世界中で、日本が一番の「 後進国 」である。


日本の首相が、日本国中に太陽電池を並べると言っても、無視されるに決まっている。


世界は、遥かに日本の先を進んでいて、珍しくもなんともない。


この際、電気は貯められないという常識を変えて、「 電気を保存する事 」を考えるのが良い。


主流は、リチウムを使った蓄電池だろうが、リチウムより安価で世界中に存在する、「 ナトリウム 」を使った蓄電池が良いと思って、私は「 株 」を買っている。


詳しい知識は、「 ナトリウム蓄電池 」で検索すれば、ネットで調べられる。


現在は、試験の段階だろうが、一刻も早く実用化する事が、自然の再生エネルギーで作った電気や、原子力発電や火力で作った電気を保存し、無駄な電気を使わず、夜間の安い時の電気や、昼間に作った太陽光による電気を保存し、使いたい時に使う事を可能にする。

これが、日本の世界への貢献であると思う。


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2011年05月26日

2011/5/26、オカルト・エネルギーについて(蓄電池)

思いつくままに書くので、正確な記述ではありません。

福島第一原発が、危機的な状況であり、関東地方を管轄する東京電力が、今年の夏に供給不足になる予定で、節電が求められている。

中部地方を管轄する中部電力が浜岡に設置した原子力発電所も停止し、中部地方も節電を求められている。

関東地方では、計画停電と称して、地域を分割して停電を実施した。

その結果、道路の信号の点灯が消え、交通事故が多発する可能性が増大し、病院では停電のため、手術が出来なくなり、生命の危機を救えない状況だ。

現在は、計画停電を実施しないように、電力会社も努力しているが、停電がないとは言えない。

そこで、太陽とか風とか地熱などという再生可能エネルギーを、火力や水力という発電エネルギーと並ぶほどの電力の柱とするという考えになる。

しかし、私の考えは違う


私は、発電する事も重要だが、「 蓄電池 」の改良が必要だと思い、「 株式 」も購入している。


電気を発電し、それらの全部を使うのは、今までの発想で、その結果、原発で発電した電気を使ってしまおうと、「 オール電化 」や夜のイルミネーションを実施するという発想になる。


そうではなく、電気を「 蓄電池 」に蓄え、使いたい時の使う生活にする。


病院で、「 自家発電機 」を設置するよりも、大量の「 蓄電池 」を設置し、計画停電しても手術が可能だし、冷暖房も使いたい時、「 蓄電池 」から使えば良いと思う。


蓄電池の材料は、高価な媒体を使うのではなく、世界中に存在する「 ナトリウム 」つまり「 塩 」を使う方法も、日本の企業は開発している。


日本は、太陽電池や風力による発電も重要だが、「 蓄電池 」を「 国策 」として開発したほうが、世界に貢献すると思う。






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再生可能エネルギー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%8D%E7%94%9F%E5%8F%AF%E8%83%BD%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC
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2011年05月22日

2011/5/22、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」3

2011/5/21、私の記事

「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

2011/5/22、私の考え


以上のように、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間の問題ではなく、「 関係 」の問題であるという結論になった。

「 明日 」という「 時間 」があるから、「 現在 」を懸命に生きるのではなく、将来、呼吸するであろう「 明日 」の現実性に「 関係する 」現在だから、明日に続く、現在の無意識の可能性を懸命に探さなくてはならないのだと思う。

明日という「 時間 」があるからでなく、生きている以上は続く呼吸とういう無意識が形成する、無意識の「 可能性 」が「 明日に続く 」と考えるから、現在の可能性を模索するのである。


日本語の時間や空間や人間の共通する、「 間(ma)」が、バイオリズムにより生まれる無意識の可能性となって、過去と現在と未来を貫通するから、「 間(ma)」を通して「 永遠 」という時間的に永く存続する「 関係 」を探すのだと思う。

そして、「 呼吸 」から生まれる間(ma)とは何か。

それは、言語や音楽などの全ての「 文化 」を間(ma)が生むと考える。

リズムは自然界に存在するというのが賢明な考えだが、私はリズムは自分が作るのだと思う。

自分が持つ間(ma)即ちリズムに、自然界のリズムを適用したのが「 音楽 」であり、自分のストレスや情報のリズムという間(ma)に自然界の音を適用したのが「 言語 」だと思う。

言語も発音を伴うから、音楽の一種であり、歌謡曲も落語や漫才などの芸能が持つ間(ma)も音楽の一種であり、間(ma)を継承していくのが、国の文化であると思う。

間(ma)は、時間や空間などの思考の道具ではなく、過去から現在を通して未来へ続く「 可能性 」であり、時間や空間という概念を生むのだと思う。

日本の「 能 」や「 歌舞伎 」や「 浪曲 」などは、単純な内容を様々な抑揚(リズム)で表現するが、それは、「 時間を楽しんでいる 」のだと思う。

これまで書いたように、究極の情報伝達は、小脳の運動可能性を言語や文化という抑揚(リズム)に頼らず、直接伝える事である。

それは、テレパシーのようなものであり、人間一般に期待する事は出来ないから、言語の抑揚(リズム)で定義した伝達方法を使う。

その結果、茶道や華道などの「 道(miti)の文化 」が発達したと考える。

それら、文化の全ての根源は、バイオリズムが生む小脳の無意識の運動可能性である間(ma)であり、過去と現在と未来を貫通すると思う。


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2011年05月21日

2011/5/21、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」2

2011/5/14、私の記事


「 今 」や「 ここ 」を決定するのは何か。

それは、小脳の機能である「 呼吸 」により決まると、現在では、考えている。

「 過去 」に呼吸する事は出来ず、「 未来 」に呼吸する事も出来ない。

呼吸するのは、「 現在 」だけであり、その呼吸している間(ma)が「 今 」という現実的な時間であり、それを「 意識 」により天体の運動に関連させたのが、社会の一般的な「 時間 」であると考える。
(これが、上記のCである)

呼吸している間(ma)が、「 今 」であると思う。


他方、人間は、呼吸により生命を維持している。

目覚めている時も就寝中でも呼吸をしている。

呼吸は、大気(taiki)という気(ki)を人間の体内でエネルギーに変えて生きている。

人間は肺だけでなく、人間の身体全体の皮膚の穴からも呼吸し、その呼吸可能な範囲の間(ma)(or hazama)を「 主観的空間 」と考え、「 意識 」により拡大して具現化したのが「 空間 」だと思う。
(これが、上記のCである)

人間の体内で、エネルギーに変換する所、(自分の身体の所在)が「 ここ 」であると、現在では考えている。

「 主観的時間 」も「 主観的空間 」も個人の無意識が決定するから、無意識が「 欲 」であるため、「 今 」という時制も、自分の安定した習慣的な能力に比べる事により生じる「 遠近 」も、「 欲 」の表現であり、普通の生活は「 欲の集約状況 」であると思う。
(上記のBである)


従って、上記@の、共通項は「 呼吸 」であり、呼吸が「 間(ma)」を一致させると考える。


2011/5/21、私の考え


「 今 」と「 ここ 」が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」と考え、それらは、無意識のバイオリズムで決定され、その代表を「 呼吸 」と考えたが、「 今 」や「 ここ 」は、時間や空間ではなく、「 無意識により静止を作る一つの関係 」であると思う。

日本語では「 瞬間 」は「 間(ma)」という文字を含み、「 今 」は「 瞬間 」と呼ばれる。

空気という気(ki)を取り込み、体内の電気(dennki)に変換する場所を「 ここ 」とすれば、「 ここ 」は、肺や身体の皮膚全体であり、「 ここ 」という空間は、天体との関係で決まる。

無限の宇宙が自分の身体の中に入り込んで、呼吸によりエネルギーが変換される「 ここ 」は、無限の宇宙の広がりの中の一点であり誰も知る事は出来ず、自己決定事項である。


この事が、「 欲 」の根底に存在し、「 無明 」と呼ぶもので、ここから、「 欲 」のエネルギーが宇宙の向かって放散し、「 遠近 」という欲の「 間(ma)の関係 」を作ると考える。

呼吸は生物の特徴だが、呼吸して場所が移ると同時に「 主観的時空 」が生じているのであり、小脳の無意識は時空を作るという私の主張になり、「 どこでも時空 」であり、時空の根本は、時間や空間ではなくて生命であり、生命の主である「 阿弥陀仏 」が時空を作るという考えになる私である。

「 欲 」は気(ki)というエネルギーであると思うから、擬似科学と呼ばれる「 生気論 」を妥当と考える。

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2011年05月14日

2011/5/14、オカルト・呼吸と「 今 」と「 ここ 」

これは、私の創作ですから、正当ではありません。

私は、次の事を書いて来た。

@

日本語で、「 時間 」と「 空間 」と「 人間 」には、間(ma)が共通している。

A

「 時間 」と「 空間 」は、無意識を生むバイオリズムにより決定される「 主観的時間 」や「 主観的空間 」と意識により具現化した「 時間意識 」と「 空間意識 」がある。

B

「 時制 」と「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムで決められる。

C

バイオリズムは気(ki)と情(zyou)により形成される。



ここで、「 主観的時間 」である「 今 」と、「 主観的空間 」である「 ここ 」について考える。

「 今 」や「 ここ 」を決定するのは何か。

それは、小脳の機能である「 呼吸 」により決まると、現在では、考えている。

「 過去 」に呼吸する事は出来ず、「 未来 」に呼吸する事も出来ない。

呼吸するのは、「 現在 」だけであり、その呼吸している間(ma)が「 今 」という現実的な時間であり、それを「 意識 」により天体の運動に関連させたのが、社会の一般的な「 時間 」であると考える。
(これが、上記のCである)

呼吸している間(ma)が、「 今 」であると思う。


他方、人間は、呼吸により生命を維持している。

目覚めている時も就寝中でも呼吸をしている。

呼吸は、大気(taiki)という気(ki)を人間の体内でエネルギーに変えて生きている。

人間は肺だけでなく、人間の身体全体の皮膚の穴からも呼吸し、その呼吸可能な範囲の間(ma)(or hazama)を「 主観的空間 」と考え、「 意識 」により拡大して具現化したのが「 空間 」だと思う。
(これが、上記のCである)

人間の体内で、エネルギーに変換する所、(自分の身体の所在)が「 ここ 」であると、現在では考えている。

「 主観的時間 」も「 主観的空間 」も個人の無意識が決定するから、無意識が「 欲 」であるため、「 今 」という時制も、自分の安定した習慣的な能力に比べる事により生じる「 遠近 」も、「 欲 」の表現であり、普通の生活は「 欲の集約状況 」であると思う。
(上記のBである)


従って、上記@の、共通項は「 呼吸 」であり、呼吸が「 間(ma)」を一致させると考える。

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2011年05月04日

2011/5/4、オカルト・バイオリズムと時間と空間

今までの事を復唱する。


時間について

2010/10/17、私の記事
これは、私だけの無責任な「 独り言 」である。

日本語で、人を「 人 」と「 間(ma) 」を組み合わせて「 人間 」と書くが、人間は「 間(ma) 」の中で生きているのかも知れない。

人と人の「 間 」で生きるのが「 人間 」であると思うが、別の意味が存在するかも知れない。

時間も「 時 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、空間も「 空 」と「 間(ma) 」の組み合わせであり、人間と時間と空間は「 間(ma) 」を共有している。


2010/12/5、私の記事

私は、このように、「 意識 」を電磁波と考え、「 無意識 」をバイオリズムの楕円体と考えるが、この考えは、意識と無意識の全般に及ぶと考える。

ここに、特殊論が「 無意識 」の一般論になる。

「 意識 」の一般論は、「 無意識 」の一般論と楕円の関係で、前者は社会的に正当であるかも知れないが、人間が行動しているのは、後者の一般論に基礎を置くと考える。


「 性 」と「 小脳の感情 」と「 大脳の知性 」は、同時に発生したが、その周波数(感覚)の時空の違いにより、区別される内部での「 時間 」や「 空間 」のリズムであると考えると、この「 リズム 」は、「 機会に対する脳の反応 」つまり「 機能 」のリズムであるという考えになる。

バイオリズムは「 (感覚)機能のリズム 」であると考えると、機能に対応したリズムがあり、人間の機能の数だけ「 バイオリズム」があり、現在の三種類の他にも未発見のリズムがあると推測する。

このように考えると、「 時間 」即ち「 現在と過去と未来 」は、意識と無意識の二重構造で考えなければならない。

意識で「 現在と過去と未来 」を区別するが、これは社会的な約束であり、個人のそれは、個人の機能に応じた「 現在と過去と未来 」である。

2010/12/12、私の記事

私が主張してきたように、「 時間意識は電磁波の構造を持つ 」から、時間意識は、人類に共通であり、コミュニケーションに必要な「 社会的に共通な時間 」だと思うが、今まで「 主観的時間 」と言ってきた個人の時間が、「 バイオリズムによる時間 」の「 過去と現在と未来 」であるというのが、私の結論である。


「 過去と現在と未来 」は、「 記憶 」であるため、人の「 過去と現在と未来 」は皆、相違する。


「 今 」という現在は、周期が違う底辺を持った円錐のように、バイオリズムの周期が、頂点の一点で合致するが、周期が違うために「 過去と現在と未来 」という「 時間の流れ 」と具現化し、「 バイオリズム 」であるため、現在においての不安や希望など、人類は皆、相違すると考える。


現在における「 不安 」や「 希望 」は、「 過去と現在と未来 」がバイオリズムであるからだと考える。

「 過去と現在と未来 」の時間は、「 知性 」のリズムと考え、音楽のメロディのように、主旋律は存在するが、他の「 感情 」や「 身体・性 」のリズムが「 不安 」や「 希望 」を「 今 」の中に具現化すると考える。

2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。


社会的な「 言葉 」で考える事は、運動の可能性を考える事で、「 身体 」や「 感情 」の「 脳 」の発生以来の経歴である運動可能性を「 知性 」による運動可能性で拡大する事であると考えると、可能性はバイオリズムの一つであると考える。


社会的な「 言葉 」は「 始め 」と「 終わり 」を持ち、時間的には「 物語や音楽 」というリズムだが、伝達する内容は、運動の空間的可能性と考える。

思考や会話など言葉は全てリズムであり、電磁波も含めて、伝達はリズムによって達成されると思う。

「 伝達 」の究極の形態は「 言葉の無い伝達 」であり「 小脳の可能性 」であるというのが私の考えである。


言葉を使う事は、「 知性 」というバイオリズムの一つを使う事で、思考する事も、含まれると考える。

バイオリズムが「 脳 」の発生以来の経歴であり、究極的には「 小脳の可能性 」であるならば、バイオリズムが「 無意識の発生源 」であり、現実生活では、個人の「 機会に対応する脳の働き 」である能力として具現化すると考える。


「 可能性 」が現実にしか存在しないのは、「 過去と現在と未来 」という人類の全てが相違する主観的時間と、個人が持つ「 脳 」の発生以来の経歴である可能性が出会うからであり、個人の可能性は個人の主観的時間の中に具現化する。


「 過去と現在と未来 」という主観的時間の中で「 脳 」の発生以来の経歴である可能性(言い換えると「 無意識 」)が、「 記憶 」というバイオリズムにより結合されて、具現化、現実化すると考える。


「 時間 」を「 天体の動き 」に起因する「 時間という意識 」を時間意識と考えると、それは、生物的な時間であり、人類の「過去と現在と未来 」という主観的時間ではない。


時間意識が、主観的時間である「 現在 」にしか存在しない事と、「 可能性 」が「 現在 」にしか存在しない事と合致し、可能性は主観的時間の中で、生物的な時間意識と共変する、つまり存在するかどうかを知られないから存在する、「 無意識の運動のバイオリズム 」であると考える。

この「 無意識の運動のバイオリズム 」が存在するから、地球が自転し新たな時を迎えても、人類は思考する前に呼吸し、運動する事が出来ると思う。



運動可能性は主観的時間の「 過去と現在と未来 」という形態に含まれ、主観的時間の内容は、運動可能性であり、運動可能性は主観的時間の形態で、現実に表現され、主観的時間を考える事は運動可能性を考える事であると思う。


「 運動 」が、絶対静止の座標を必要とする主観的ベクトルである事は、以前に書いた。


2010/12/25、私の記事

私は、「 時間 」を二重に考え、無意識、即ち、バイオリズムから決定する「 主観的時間 」と天体の運動から決定する、誰にも共通という意味で「 客観的時間 」を考える。

主観的時間は、「 過去と現在と未来 」と区別し、個人により遠い過去や遠い未来、あるいは近い過去や近い未来と、遠近が相違する可能性であり、誰にも共通な客観的時間には、「 可能性 」は存在しない。

主観的時間の「 現在 」に「 意識 」と「 可能性 」が存在するが、「 可能性 」が混在するのが主観的時間であり、「 意識 」を通して、天体の「 客観的時間 」と連動すると考える。


2010/12/31、私の記事

意識は電磁波であり、時間意識と空間意識が電磁波の構造で、頭脳の中で、天体の動きと連動して生じている。

天体の動きと時間意識を連結するのは「 光 」であると考える。

無意識により、言い換えるとバイオリズムによって意識される「 過去と現在と未来 」という「 時間意識 」は主観的時間意識であり、「 過去と現在と未来 」の境界は、全ての生物により相違すると考える。


バイオリズムで決定される主観的時間の「 現在 」の中に、社会でのコミュミケーションの道具としての「 客観的時間 」が電磁波の構造を持つ「 時間意識 」であり、主観的時間の「 過去 」の「 心あたり」との往復から生じる正弦波が「 可能性 」であると思う。

主観的時間の「 過去と現在と未来 」の中に、天体の運動に連動し、光の電磁波の構造と連結して生じる、電磁波の構造をした「 客観的時間意識 」を道具にして持つ事は、「 可能性 」を考えている事だと思う。

2011/3/21、私の記事


日本語の「 時間 」の「 間(ma)」が主観的時間であり、「 時 」が思惟された時間とういう意味で「 客観的時間 」であるが、「 時間 」が、「 運動 」や速度で定義される事は、「 真理 」ではない。

なぜなら、運動は「 絶対静止の座標 」を頭脳に持って測量する事が必要だが、測量する主体も客体も、共に動いている、つまり「 共変 」するため、「 真理 」を知る事は出来ない。

静止した私も、静止した測定客体も、宇宙が動いている限り、「 動いている 」のであり、「 共変 」しているため、「 静止している 」と錯誤していると思う。

衝突が起こる「 同時性 」の測定の事情も同じである。

この「 共変 」は、「 測定 」全てに及び、相対論も量子論も「 共変する時間 」を定義しない限り「 真理 」ではない。

「 静止 」や「 運動 」も「 時間 」も、意識と無意識を解明しない限り「 真理 」ではないと思う。

日本語の「 時間 」と「 空間 」の「 共変する間(ma)」が、私の考えの「 台風の目 」であり、人間の根底に存在する「 無明 」であると思う。

私は、「 意識は電磁波の構造をもち、無意識はバイオリズムから生じる 」と考えている。

「 間(ma)」とは感覚する時間で、「 時 」とは思惟された時間だが、これは「 人類の小脳可能性 」の範囲内であり、「 範囲 」を決定するのが、無意識であり、バイオリズムであり、「 可能性 」を決定するのが「 記憶 」という「 能力 」であると思う。

「 能力 」については、「 可能性 」と共に、後日、書く予定である。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識というバイオリズムで決めるが、周期が相違するリズムが「 現在 」という時制に「 同時 」に出現するために、「 現在 」のなかに、「 過去や未来 」が存在する。

「 過去や現在や未来 」という時制は、無意識が決めた「 現在 」に、「 記憶 」のよる「 可能性 」を当てはめた意識であるかも知れない。



「 心理的時間 」や「 記憶 」から、「 時間 」を解放し、「 心理 」を規定するバイオリズムで「 感覚される時間 」や「 意識される時間 」を考える方が良いと思う。


空間について

2011/4/3、私の記事

「 空間 」を、物体と物体の隔たりと解釈するのは、オカルト的ではない。

人間の存在を前提にして、「 空間 」の意味がある。

日本語で「 空間 」は「 空 」と「 間(ma)」の組み合わせである。

この間(ma)を、「 時間 」の「 間(ma)」と同じく、「 延長 」を人間の「 主観 」が切り取る空間を「 主観的空間」と考える。

この「 主観的空間 」がバイオリズムによって決定されると考えるのが「 オカルト的 」である。


………………………………


「 主観的空間 」とは、日本語の「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma) 」、「 広間(hiroma) 」など、共通の「 人間的な、文化的な空間 」であると思う。

「 欲 」が不安定な「 可能性 」で、これが「 主観的時間 」と「 主観的空間 」で「 能力 」という「 欲の現実性 」となり、安定する。

この時、作用するのが「 気(ki)」と「 情(zyou)」であると考える。

日本語で、「 大気(taiki) 」や「 空気(kuuki) 」という人体の外部の気(ki)が人体内部の「 病気(byouki)」や「 狂気(kyouki)」と連動しているから、この気(ki)が「 主観的空間 」を宇宙空間から切り取るだろう。

………………………………

私は、人間から、「 欲 」を取り去り「 無欲 」という状態を考えない。

「 欲 」は、「 心 」を動揺させ、人間が考え、感じる範囲は「 心 」であり、「 小脳の運動可能性 」である事は前述した。

人間が考え、感じる宇宙空間は、「 小脳の運動可能性 」であり、「 欲 」の広がりである。

「 主観的空間 」とは、「 個人の運動可能性 」で、宇宙空間を限定した間(ma)であると思う。


日本家屋で、「 居間(ima)」や「 客間(kyakuma)」や「 広間(hiroma)」などと、区別して部屋を造るが、これを、自分や家族や客という主体の「 運動可能性 」により、「 空間 」を切り取った「 間(ma)」である。

「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」のバイオリズムがあるとすれば、「 身体 」のリズムが「 自分の運動可能性 」であり気(ki)というエネルギーであり、「 知性 」のリズム、即ち「 思考された運動可能性 」の気(ki)というエネルギーの間(ma)の「 感情 」のリズムという気(ki)が「 自分の運動可能性 」であり、この「 感情 」のリズムという気(ki)に記憶などの情報が加わった情(zyou)のエネルギーが具現化したのが「 能力 」であり、この「 能力 」に対応するのが「 主観的空間 」の「 間(ma)」であると思う。

この「 主観的空間 」は、住人の存在を前提とする。

主観的空間は、住人の違いで、「 部屋 」、「 家 」、「 国家 」「 地球 」と、その範囲を拡大する。

これは、「 安定 」を求めている。

「 可能性 」に「 意識 」が加わった安定的で、普通の空間である。

「 可能性 」だけで、不安定な空間とは何か?

それは、「 間(ma)」ではなく、広がりの「 遠近 」として知る空間だろう。

私の考えでは、「 遠近 」は、無意識を生むバイオリズムが決定した「 運動可能性 」であり、「 能力 」以前に、「身体」や「感情」や「知性」のバイオリズムを生む無意識が決めているから、「 遠近 」は「 能力 」以前に存在すると思う。

「 遠近 」は「 可能性 」という「 心 」が動揺する「 欲 」であるが、「 欲 」が安定し、現実化した、「 能力 」ではないから不安定である。

人間は物体を見る能力を持つが、「 何を見るか 」は「 心が指示する 」事であり、「 見る事 」が無意識、つまりバイオリズムによる、心が動揺する、不安定な「 可能性 」から、既知の安定的な間(ma)への変換であると思う。

「 見る事 」や「 聴く事 」により、心が動揺し、小脳でストレスを生じ、安定を求めて行動する。

この行動は、バイオリズムによる、「 可能性 」という「 欲 」から、安定的な「 間(ma)」への変換であり、不安定で動揺するのはRNAの働きで、安定するのはDNAの働きであると考えると「 オカルト的 」である。

安定するのは気(ki)というエネルギーに「 意識 」という情(zyou)が加わったからであり、不安定な「 可能性 」は気(ki)であり、気(ki)は、「 生気論(seikiron)」の気(ki)や、プラズマ宇宙論の電気(denki)に関連すると思うと、人間は宇宙の産物であるという事になる。


2011/5/4、私の考え

これは、私の考えであり、正当でないのは勿論である。


時間も空間も、個人のバイオリズムから生じる無意識が安定した能力、習慣になった能力という運動可能性と比べて決定していると思う。

従って、時制の「 現在 」も、空間の「 遠近 」も、個人の安定した運動可能性であるから、それぞれの個人の「 現在 」も「 遠近 」も相違し、それらは、絶対静止を仮定した「 速度 」により、自分に対する「 ストレス」を生じて、行動を起こす。

個人の運動可能性が及ばないことを、「 過去 」とか「 未来 」とよび、運動可能性に比べて「 遠近 」を判断する事が出来ないから、天空の星座が「 模様 」に見えると思う。

「 過去 」や「 未来 」というのは「 現在 」で意識する無意識のバイオリズムであるかも知れない。

私の考えは、「 現在 」という幅に周期が違うリズムを閉じ込めるため、そのリズムが「 現在 」という電磁波の時間意識に楕円の軌跡として閉じ込められ、「 未来 」や「 過去 」が生じるという考えである。

空間も、自分を中心に考えるから「 遠近 」が生じ、「 欲 」の応じた「 速度 」というベクトルやストレスが生じる。

庭石を並べた日本庭園で、閉じた空間の中で、「 海 」を表現したり、画家が、絵画で遠近法を用いるのは、観衆の「 心 」にベクトルやストレスを生じさせて、自分のストレスを伝達するのだと思う。

時間を利用するのは音楽で、個人のバイオリズムに音符を符号させ、自分のリズムを表現するのが音楽家だと思う。

これについては、後日、考える。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 29 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする