2011年07月31日

2011/7/31、オカルト・自分探し(自分)

2011/7/241、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


………………(省略)………………


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/7/31、私の考え


上記の立場から、「 自分 」を考える。


「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


事物自体としての私とは、バイオリズムなどの無意識で規定する「 存在 」が新陳代謝して常に変化する無意識の自分に対して、自分の生命に迫るベクトル(力線)の強弱として感じるのが「 五感 」であり、人類に共通の関係は客観的な「 法則 」であると思うが、自分の身体はその「 法則 」という関係が満ちた物体であり、客観的な法則を、自分という主観的な意識に結びつけているのは、「 欲 」だと思う。


一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 関係 」を統合するのは「 欲 」だと思う。


「 人間 」は、無意識で呼吸し血液が循環して生命を維持するように、「 生存欲 」を生来、持っている。


「 小脳の運動可能性 」も「 心 」も、「 主観的時間 」も「 バイオリズム 」などの無意識も「 欲 」であり、互いに変化する事物や事象を頭の中で「 存在 」や「 静止 」と思うのも「 欲 」であり、「 存在 」に「 心 」が動揺する(好きや嫌い)のが「 現実 」であると思う。


それは、「 時間 」に関係しない。


自分が持つ「 欲 」を具現化したのが「 知覚 」であり、「 五感 」であり、その時に時間や空間を必要とするかも知れない。



時制がバイオリズムなどの無意識で決められることは、私が物自身で、因果関係の中にいて、「 関係 」を選択することは、自分の未来を決定することだと思う。


私には「 過去と未来 」があると思うが、これは、「 現在 」が持つ心拍のリズムなどの「 主観的時間 」や「 バイオリズム 」のリズムが「 死 」に向かって進行するから考える「 知性的 」「 思索的 」時空であると思う。


意識の中の「 感性 」や「 悟性 」や「 理性 」といのも、無意識の「 バイオリズム 」が意識で思考されて、人類に共通な意識として具現化したのかも知れない。


「 感性 」や「 悟性 」や「 理性 」と呼ぶが、その内容や範囲は無意識で決められるからである。


「 感性 」を追求すれば、無意識を考える必要があるだろう。


私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。


呼吸し、血液が流れている以上、人類はすべて「 生存欲 」を持つと思う。


その「 欲 」が「 六道 」であり、生来、「 欲 」を持っているとは、生来「 六道 」のひとつの中に生まれている事だと思う。


その「 欲 」の現れが、「 人格 」であると思う。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思う。




六道

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93
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2011年07月24日

2011/7/24、オカルト・自分探し(存在と関係)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


………………………………………

2011/7/10、私の記事


「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。



………………………………………

2011/7/19、私の記事


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。


存在論は、意識ではなく、バイオリズムから生じる無意識による規定で、それは遺伝子情報や生来からの思想、生活や文化、すべての経歴(阿頼耶識)の情(zyou)と個人の気質の気(ki)による規定であることは、以前、書いた。

存在を考えるとき、小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」の中での「 存在 」を、五感で規定することを考える必要があるだろう。


「 瞬間 」の連続が「 現在 」だが、「 現在 」の中の「 存在 」は五感の先の無意識で感じるから、これを時間と空間を使って規定することは出来ないと思う。

「 瞬間 」は小脳の領域であり、知覚する「 遠近 」や「 強弱 」は、「 速度 」などのベクトル(力線)の領域であり、「 欲 」の領域であり、「 速度 」が時間や空間で計測することが出来ないと同じように「 瞬間 」を時間や空間で計測することは出来ないと思う。


自転している地球上の自分が、地球の速度を測定することが出来ないことと同じで、「 瞬間 」は、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)であると考える。



瞬間は「 欲 」の領域だから「 存在 」と認めると同時に自分の「 心 」が動揺する。

「 瞬間 」の中で、「 存在 」と「 自分の無意識 」は、「 引力 」のように連携していると思う。


地球と自分の間の「 引力 」を解明するように、「 存在 」と感じる小脳の無意識の「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」という「 関係 」を「 引力 」と思って「 存在 」を規定することを意図して、「 存在と関係 」というタイトルにした。

これは、言葉の志向性の問題ではない。

言葉だけの「 関係 」ではない。

事物や事象と自分の「 関係 」である。

なぜ「 存在 」と感じるかは、どのような無意識の「 欲 」の具現化であるかという「 関係 」を考え、「 関係 」は「 努力 」に似て、「 行為 」が「 具現化 」や「 結果 」であると思う。

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。

個人の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中で、「 可能性は現実となる 」と思うからである。

形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。

そう考えるから、「 存在と時間 」ではなく、「 存在と関係 」というタイトルにした。


2011/7/24、私の考え


「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


「 現存在 」を時間で規定するのではなく、「 瞬間に充満する関係が規定する自分 」と考えると、死の前に立つ自分を考えなくても、生きている間に、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)で選択する「 関係 」の種類と習慣的な行動により、天国へ行く人か地獄へ行く人かが決まるだろう。


いや、現実の世界で、天国か地獄か、人か畜生か、決まっているかも知れない。


「 関係 」はDNA情報やバイオリズムや情報という情(zyou)が個人の内部の関係であり、運や宿命や縁(en)は外部の関係であり、「 関係 」であるから、個人の内部が変化すれば外部の関係も変化すると思う。


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



自分を時間的存在と考えると、死を考えて不安になるが、生物的な「 死 」は遺伝子情報に組み込まれているかも知れないし、交通事故で死ぬかもしれない。


生物的な「 死 」を考えるのは自由だが、「 瞬間 」の中で自分の「 関係 」を選択して「 生きる 」、つまり自分を変えたあとに、「 死 」を待っても遅くない。
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2011年07月19日

2011/7/19、オカルト・自分探し(存在と関係)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


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2011/7/10、私の記事


「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


瞬間の仕組みは人類皆同じだが、瞬間の内容は全て相違する。


「 現在 」は個人的、主観的であり、情(zyou)の感情移入が可能な範囲で、他者の現在と自分の現在が一致すると思う。


「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するのではなく、「過去・現在・未来」は「 呼吸 」という無意識が「 現在 」を規定し、「 過去 」や「 未来 」は呼吸不可能だが、「 呼吸 」する前が「 未来 」であり、「 呼吸 」した後は「 過去 」になり、私が生きている間は、「 私の現在 」が続くと思う。


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2011/7/19、私の考え

なぜ、私が、「 存在と時間 」ではなくて、「 存在と関係 」というタイトルにしたのかについて書くことにする。


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。


存在論は、意識ではなく、バイオリズムから生じる無意識による規定で、それは遺伝子情報や生来からの思想、生活や文化、すべての経歴(阿頼耶識)の情(zyou)と個人の気質の気(ki)による規定であることは、以前、書いた。

存在を考えるとき、小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」の中での「 存在 」を、五感で規定することを考える必要があるだろう。

「 瞬間 」の連続が「 現在 」だが、「 現在 」の中の「 存在 」は五感の先の無意識で感じるから、これを時間と空間を使って規定することは出来ないと思う。

「 瞬間 」は小脳の領域であり、知覚する「 遠近 」や「 強弱 」は、「 速度 」などのベクトル(力線)の領域であり、「 欲 」の領域であり、「 速度 」が時間や空間で計測することが出来ないと同じように「 瞬間 」を時間や空間で計測することは出来ないと思う。


自転している地球上の自分が、地球の速度を測定することが出来ないことと同じで、「 瞬間 」は、ベクトル(力線)に満ちた間(ma)であると考える。

瞬間は「 欲 」の領域だから「 存在 」と認めると同時に自分の「 心 」が動揺する。

「 瞬間 」の中で、「 存在 」と「 自分の無意識 」は、「 引力 」のように連携していると思う。


地球と自分の間の「 引力 」を解明するように、「 存在 」と感じる小脳の無意識の「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」という「 関係 」を「 引力 」と思って「 存在 」を規定することを意図して、「 存在と関係 」というタイトルにした。

これは、言葉の志向性の問題ではない。

言葉だけの「 関係 」ではない。

事物や事象と自分の「 関係 」である。

なぜ「 存在 」と感じるかは、どのような無意識の「 欲 」の具現化であるかという「 関係 」を考え、「 関係 」は「 努力 」に似て、「 行為 」が「 具現化 」や「 結果 」であると思う。

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。

個人の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中で、「 可能性は現実となる 」と思うからである。

形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。

そう考えるから、「 存在と時間 」ではなく、「 存在と関係 」というタイトルにした。

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2011年07月16日

2011/7/16、オカルト・自分探し(存在と関係)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

了解

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%86%E8%A7%A3

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


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2011/7/10、私の記事


私が、上記のURLをクリックして、考えた事を書きます。




「 現存在 」について


私は、これまで書いたように、「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならない。


バイオリズムとは個人の遺伝子情報が情(zyou)として現れ、小脳の働きが気(ki)というエネルギーとして現れることである。


この事で、上記の「 現存在 」が、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」である事は自明の事であると考える。


哲学上の「 存在 」などは、意識や言葉の意味であり、これを以って「 存在 」を規定することは出来ないと思う。


小脳の無意識を考えていないから、言葉の遊びである。


2011/7/16、私の考え



「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならないとは、すべてが相違する個人の遺伝子情報や生活から生じた思想などの「 文化 」という情(zyou)と、個人の気質という気(ki)によって、個人にとっての「 存在 」が決められている事だと思う。

これは、私の考えである。


@プラズマ宇宙論やガイア理論を肯定している。


A生気論により、動物はすべて気(ki)を持ち、これはプラズマ理論の電気の気(ki)が無意識の気(ki)に含まれているかも知れない。


B人間は欲から逃げることは出来ない。


小脳で本能の欲をコントロールし、無欲というのは欲を制することであり、欲が無い状態は死であるから「 死中生有り、生中生無し 」という態度が「 無欲の状態 」であるかも知れない。


実際は、生きている事は「 欲の世界に生きること 」であり、自分の事しか考えない場合が多い。


人間は、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であり、この世は、「 欲に満ちた、欲が衝突する世界 」である。


先日、書いたように、呼吸により新たな「 瞬間 」が生まれ、呼吸の連続により「 現在 」という時制が生まれ、「 現在 」は、「 瞬間 」の繰り返しであると思う。


視覚や聴覚は、時間と空間が必要だろうが、時間や空間を考える事自体が、「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を心に感じる事で、結局は、(小脳の)運動可能性を考える事だと思う。


この世は「 欲の世界 」だから、欲が邪魔される時間や空間を小脳が「 ストレス 」と感じて、呼吸や心拍やホルモンを分泌させて、ストレスを解消して、「 無欲の状態 」の均衡を保とうとすると思う。


二つの目で見る「 遠近 」や左右の耳で感じる「 音の強弱 」が、「 欲 」を媒介として「 心 」を動揺させると思う。


視覚や聴覚を支配するのは「 欲 」であると思う。


これは、「 過去や未来 」についても同じことが言えると思う。


想像するのは、「 現在 」の尺度で可能性を想定するが、そのこと自体が、将来の(小脳の)運動可能性を考える事であると思う。


「 現在 」も「 過去も未来 」も、(小脳の)運動可能性を考えていることであり、幾何学は「 関係 」かも知れないが、惑星や星座などの「 実体 」の存在を考えないと、小脳が無意識に、安心しないのだと思う。


C人間は、意識の中心(大脳)と無意識の中心(小脳)を持ち、二本足で動くように、相互に移動して認識するのであり、意識だけで「 存在 」を言うのは間違っていると思う。


現実ですべてを判断することには賛成しない。


後日、書くが、「 測定 」自体が相対的であり、本来は、測定した個人だけに、その結果が妥当となる主観的な「 関係 」であると思う。



D私はこのように考えるから、「 了解 」も違う見解になる。


「 了解 」は、自然や宇宙に対する無意識で感じる自己の「 欲 」の限界を知ることであり、自分を規定する「 自己了解 」に、無意識の自己、可能性を持った自己は含まれない。


自分の無意識で自分の存在を認識する事は出来ず、無意識を意識に具現化することにより自分を知ると思う。


存在の認識は無意識で実行するから、実行している自己は、自分の存在を認識することはできない。


意識で「 自己了解 」することはできないし、自分の存在を意識で知ることはできないと思う。


自己は宇宙のひとつの産物であり、自己は宇宙と関係し連携している。


「 自己了解 」が意識による自己規定であれば、実質は(小脳の)無意識の「 欲 」を自己中心的に考える事であり、無欲ではなく「 自我 」であり、大脳による「 自己意識 」に近いと思う。


私は、@やAの考えを持ち、「 欲 」を自己中心的に考える事は避けている。


「 欲 」は宇宙の果てまで伸びる(小脳の)運動可能性であり、それを、遺伝子などの自己の都合で限定するのは、「 絶望 」に近づく事だと思う。


それは、自己の「 存在了解 」であるが、「 自己の存在を了解すべきでなく」、可能性を持った人間として、「 了解すること 」を拒否しなければならないと思う。


Grasp all, lose all.

私は、大欲を持って生きたい。

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2011年07月10日

2011/7/10、オカルト・自分探し(存在と関係)1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


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2011/7/10、私の考え


私が、上記のURLをクリックして、考えた事を書きます。


(引用)

(現存在)

その一方でハイデッガーは、人間の行為に関するいかなる分析も「われわれは世界の中にいる」という事実から(世界を「抽象的に」見る風潮に則らずに)始めなければならない、したがって人間の実存に関して最も根本的な事柄はわれわれの「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」であると主張した。人間もしくは現存在(Da-sein)とは、世界の中で活動する具象的存在なのだということをハイデッガーは強調した。したがって彼は、デカルト以来ほとんどすべての哲学者が自明のこととして依拠する「主観 ― 客観」という区別をも拒否し、さらには意識、自我、人間といった語の使用も避けた(ハイデッガーは「人間」の代わりに「現存在(Da-sein)」という)。


時間性

時間もまた斬新な方法によって考察される。ハイデッガーは、時間というものはアリストテレス以来まったく同じように解釈されてきたと主張する。つまり「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するというものである。しかしハイデッガーは、根源的な時間とはそれ自体で存在するものではなく、現在から過去や未来を開示して時間というものを生み出す(みずからを生起させる)働きのようなものだと主張する。また現在もそれ自体で生起するのではなく、「死へ臨む存在」(Sein-zum-tode)としてのわれわれが行動する(あるいはしない)ときに立ち現れるものである

(引用を終わる)


@「 現存在 」について


私は、これまで書いたように、「 存在論 」を考えるならば、バイオリズムや無意識で存在を決定している事を考えなくてはならない。


バイオリズムとは個人の遺伝子情報が情(zyou)として現れ、小脳の働きが気(ki)というエネルギーとして現れることである。


この事で、上記の「 現存在 」が、「世界=内=存在(In-der-Welt-sein)」である事は自明の事であると考える。


哲学上の「 存在 」などは、意識や言葉の意味であり、これを以って「 存在 」を規定することは出来ないと思う。


小脳の無意識を考えていないから、言葉の遊びである。


A「 時間性 」について


私は、時間についても意見を相違する。


ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。


そして、「 瞬間 」を考えた時、時間が無能である事が判明する。

「 瞬間 」とは何か。

瞬きする時間だろうか。

では、眠っているときに、「 瞬間 」は無いのだろうか。

「 時間 」という時、それは過去の情報であり、「 瞬間 」の情報ではない。


「 呼吸と今とここ 」で書いたように、目覚めている時も眠っている時も「 共通 」であるのは「 呼吸 」である。


呼吸は止まると感じるだろうが、肺の動き、皮膚呼吸の動きは止まらない。


小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


瞬間の仕組みは人類皆同じだが、瞬間の内容は全て相違する。


「 現在 」は個人的、主観的であり、情(zyou)の感情移入が可能な範囲で、他者の現在と自分の現在が一致すると思う。


「過去・現在・未来」という三つの時間が均質的に、しかも無限に続いて存在するのではなく、「過去・現在・未来」は「 呼吸 」という無意識が「 現在 」を規定し、「 過去 」や「 未来 」は呼吸不可能だが、「 呼吸 」する前が「 未来 」であり、「 呼吸 」した後は「 過去 」になり、私が生きている間は、「 私の現在 」が続くと思う。


私の生命が「 死 」に向かうことは必然であり、「 死 」を意識する事により「 現在 」が生起するのではなく、「 呼吸 」により、「 現在 」が生起すると思う。


生起するのは時間と空間に共通する間(ma)を通して、電磁場のように、時間と空間が変換されて、芸術や哲学などの「 文化 」が生起すると思う。


私の考えでは、「 死 」に向かう時間性に「 実存 」が現れるのではなく、「 瞬間 」に満ちた「 関係 」の選択が「 実存 」であるが、後日、書く予定である。



Every miller draws water to his own mill.
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2011年07月03日

2011/7/3、オカルト、自分探し(存在)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


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2011/7/1、私の考え


これは、私の考えであり、真実ではないと思って欲しい。


2011/7/1、私の記事



大脳が、生物を「 道具 」に使う(つまり食物にする)のは、自分の生命に対する価値観の影響が多いと思う。


日本の「 イルカ漁 」が話題になったが、日本人の多くがイルカを食べていない。


一部の地域の昔からの文化であり、「 神 」への生贄という意味であるかも知れない。


生贄であれば、人類の多くの宗教が動物を生贄としているので、「 イルカ漁 」だけを「 悪 」とする事は出来ない。


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している生物を「 存在 」と感じるのは、命が無い物体を存在すると感じる事とは違うと思う。


自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感じる事であり、この生物を食物とする時は、この生物の将来の可能性を自分が受け取ることに感謝し、自分の生きる可能性を伸ばす動物が「 人間 」だと思う。





2011/7/3、私の考え


@食用とする動物の存在


私は、生物を食物とする時、食物となる生物に感謝をする事が必要だと書いた。

これは他の問題にも関連すると思う。

それは、「 人格 」の問題である。


牛や羊の肉を食用とする場合、牛や羊や豚も「 脳 」を持っているので、牛や羊や豚にも「 魂 」や「 霊 」を持っているかも知れない。


人間が牛や羊や豚を食用とする時、人間の「 霊 」や「 人格 」が、牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」より優先する理由は何か。


人間がこの世で最も尊い生物であるから、下等の牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」に優先するとは思わない。


私は、以前、人間の死後は、一つの生命となり、その後、様々な動物に生まれ変わるという事を書いた。


だから、食用となる牛や羊や豚の「 魂 」や「 霊 」は、牛や羊や豚の霊魂に変化した「 人間の霊 」であるかも知れない。


私は心霊学者ではないが、牛や羊や豚を食用とした時、牛や羊や豚の霊魂に変化した「 人間の霊 」が、食した人間の「 人格 」に影響すると思っている。


「 人格 」を「 霊 」と考えるならば、食した「 霊 」が人間の「 霊 」と混ざると思う。


私が以前書いたように、「 人間が六道輪廻の中に投げ入れられて、六道輪廻の中の一つが人格だ 」と考えると、「 六道 」の中の「 畜生 」に食した動物の「 霊 」が入り、人間の人格の中に混入すると思う。


生物(動物)を食べないのが一番良い方法であるかも知れないが、他の肉食動物と同じで、動物を食するのが人間である。


私は、人間が、生物(動物)の肉を食する事を「 必要悪 」と考え、そのかわり、食用にすると同時に、人格の「 六道 」の中の「 畜生 」に入った動物の「 霊 」に感謝する事が「 人間 」には必要だろうと思う。


それが、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事だと思う。



人間として生まれ、動物を食べるから、「 人格 」を向上する事が、生物で最も尊い、霊長動物と言われる人間に与えられた宿命、あるいは運命だと思う。



「 肉を食べる事 」と「 霊の昇華を願って供養する事 」あるいは「 感謝する事 」を一組として(セットとして)行う必要がある。


それを欠けば、強烈な肉欲(肉を食べる事を欲求する意識)が「 心 」(つまり無意識)を支配し、「 欲 」が濁って「 欲望 」となり、肉を食べる事が好きになり病気が生じるかもしれない。




A 「 人間関係 」


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している人間を「 存在 」と感じるのは、どのような時だろうか。


私は、人間同士でも、無意識が最初に働くと思う。


職場の人間と人間の連携を「 人間関係 」というが、この「 関係 」も、「 呼吸と今とここ 」で書いた「 関係 」と同じように考える。


「 因果関係 」の「 関係 」であり、前者が外部からの原因と結果の連携であり、後者は、内部での連携であり、無意識の特徴である気(ki)と情(zyou)が存在すると思う。


「 人間関係 」の気(ki)とは、「気持ち 」の気(ki)であり、気(ki)が合うとは、「 心 」がある程度、共有や同調する事が出来る状態であり、情(zyou)とは、仕事上の情報だけでなく個人の感情も含めて、他人と交流する情動の状態だと思う。


情(zyou)が存在して、気(ki)が合う人と人の間(ma)では、仕事の速度が速く、気(ki)が合わない人の間(ma)では、仕事の速度が遅い。


情(zyou)が存在しない場合は、気(ki)が合う人と人の間(ma)でも、気(ki)が合わない人の間(ma)でも、仕事の速度が遅い。


仕事の速度が速いのは、気(ki)と情(zyou)が一致する時で、一致しないときは、仕事が遅い。


夫婦の関係も同様の事だと思う。


この無意識の構成要素の気(ki)と情(zyou)の不一致を防ぐ役目が「 言葉 」だろう。


気(ki)の不一致を防ぐのが「 合図 」かも知れない。


関係は「 小脳 」で決定され、「 大脳 」の意識が、これを強化したり、補強したりすると思う。


「 人間関係 」は「 言葉の交換 」を必要とするが、これは必須条件ではなく、関係を円滑にする人類の知恵で、本来は不要であるかも知れない。


「 人間関係 」は、「 知 」と「 情 」と「 意 」の組み合わせと社会の人は言うが、私は、大脳の意識による判断の前に「 知性 」と「 感情 」と「 身体 」のバイオリズムで成立すると、現在、考えている。


人と出会い、バイオリズム(無意識)で感じる最初の気(ki)と情(zyou)が「 第一印象 」で、その後、互いに「 人間関係 」を結ぶが、それは自分の気(ki)と情(zyou)が相手の気(ki)と情(zyou)に合うか否かを瞬時に判断しながら自分の「 第一印象 」の確認をしていると思う。


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2011年07月01日

2011/7/1、オカルト・自分探し(存在)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



現時点での、総括をしたいと思う。


私のブログを見る人が、時間とは何、空間とは何、瞬間とは何、意識とは何、無意識とは何、過去や現在や未来という時制は何、関係とは何、実体とは何、人間の構造とは何、自然(宇宙)と自分の関係は何、自分の心や本質とは何、存在とは何、について、自分の考えを確立される事を願っています。


存在と時間

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A8%E6%99%82%E9%96%93

知識を求める人は、上記のURLをクリックして考えてください。


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2011/7/1、私の考え


これは、私の考えであり、真実ではないと思って欲しい。


私は、人間の根源は「 欲 」であり、性欲、食欲、睡眠欲など、生きる意欲を持つような肉体の構造になっていて、意識も無意識もバイオリズムで決まると思う。


「 欲 」が「 ストレス 」で「 生命 」であるかも知れない。


その「 欲 」をコントロールするのは無意識を支配する「 小脳 」であり、思考を支配する「 大脳 」は、無意識を感じるだけであり、コントロールする事は出来ないだろう。


「 大脳 」でコントロールするから、不自然になり「 病気 」になると思う。


大脳で思考し、行動するが、それは意識的な行動の前に、無意識により行動が決定される事は以前、書いた。


呼吸する前に、呼吸が可能が否かを既に決めている。


その呼吸が、時制の「 今 」を決め、「 現在 」を決めていると思うが、その瞬間という「 間(ma)は、関係に満ちていると書いた。


その関係は、言葉という意識の関係ではなく、現在や瞬間に、無意識の「 運動可能性 」という「 物語 」が満ちていることである。


「 過去 」や「 未来 」というのは、現在に「 小脳の運動可能性 」が無いからであり、「 時間 」や「 空間 」という意識によって結果を想像する領域だと思う。


「 現在 」は、「 関係を組み合わせて可能性が具現化する、あるいはストレスが解消する 」という点で、大脳で思考するだけの「 過去 」や「 未来 」より勝る。


考えても、具現化しなければ、無意味である。


バイオリズムによる無意識により時制が決まり、関係からのストレスの解消可能性が「 現在 」にあるから、「 今 」努力すると思う。


「 現在 」は「 過去 」の残骸や「 未来 」の想像によって決まるだろうが、意識により呼吸を制御する事が出来ないように、「 現在 」や「 今 」を過去や未来で説明する事は出来ない。



「 時間 」や「 空間 」は、「 意識 」であり、大脳の産物であるから、「 存在 」と「 時間や空間 」を関係づける意図ならば、心理学的、生理学的な人体の構造が決定する過程から説明したほうが良いだろう。


私に、その知識が無いから、バイオリズムや無意識を生む「 小脳 」の働きから推測するしか方法は無い。


物の存在の寿命は自分の命の寿命より長いという時間ではなく、自分から見た存在とは何かを、私は問う。


時間や空間は「 意識 」であると思うから、無意識の「 関係の間(ma)」という「 今 」を意識で説明する事は出来ない。


私は、時間や空間が助けにならない「 因果 」の「 関係 」自体が、間(ma)であり、「 瞬間 」の連続が時間であるように、人間は間(ma)の連続であると思う。


「 光 」や「 音 」を使っても、「 私の今 」を測定する事は出来ないから無意味だと思う。


なぜなら、「 光 」も「 音 」による測定は、「 過去 」の情報だからである。


「 今 」は「 関係を感じる 」しか方法はなく、その方法が、気(ki)と情(zyou)であると思う。


存在は生物でない物体と生物があるだろう。


生物でない物体は気(ki)を含まず、その物体と私は「 静止 」しているから測定が可能ではなく、その物体と私は「 同じ動きをしているから 」測定する事が出来る。


そして、気(ki)を含まず、生命を持たず、自分と同じ動きで、勝手に運動しないから、大脳は、これ等を「 道具 」として使う。


生物は気(ki)を含む(なぜなら生気論を信じるから)ので、私と同じ動きをせず、無意識に、私の中にストレスを生む。


私と同じ「 瞬間 」を持ち、「 今 」を、「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している。


「 ストレス 」が「 生命 」であるかも知れない。



その生物を「 存在 」と感じるのは、自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしているから、生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感ずる事だと思う。


大脳が、生物を「 道具 」に使う(つまり食物にする)のは、自分の生命に対する価値観の影響が多いと思う。


日本の「 イルカ漁 」が話題になったが、日本人の多くがイルカを食べていない。


一部の地域の昔からの文化であり、「 神 」への生贄という意味であるかも知れない。


生贄であれば、人類の多くの宗教が動物を生贄としているので、「 イルカ漁 」だけを「 悪 」とする事は出来ない。


私と同じ、呼吸による「 今 」や「 現在 」という「 時制 」を持ち、可能性という関係に満たされた瞬間(即ち間(ma))を、生きてストレスを解消している生物を「 存在 」と感じるのは、命が無い物体を存在すると感じる事とは違うと思う。


自分と同じ気(ki)を持ち(気持ち)、自分と同じ、ストレス解消という可能性を持って、生きているから、死に向かって自分と同じ動きをしている生物に対して哀れみや憐憫の気(ki)を自分に受け入れ、愛情という情(zyou)を注ぐ事が、生物を「 存在 」と感じる事であり、この生物を食物とする時は、この生物の将来の可能性を自分が受け取ることに感謝し、自分の生きる可能性を伸ばす動物が「 人間 」だと思う。



「 時間 」や「 空間 」は、大脳の領域の「 意識 」であり、「 精神 」の問題であり、時制で言えば、過去の問題だから、小脳の領域の「 現在 」や「 今 」を規定する事は出来ないと思う。

これは、現時点の考えであるから、変更するかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.

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