2011年08月28日

2011/8/28、緊急提案・日本のエネルギー

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/8/28、私の考え

以前、少し書いたが、エネルギー問題について書く。


世界を見たとき、原子力発電は、住民から反対を受けているが、これは正当だろう。


福島原発事故については、世界中からネットで観察することが出来るが、まだ調査は出来ない状態である。

まだ、収束しているとはいい難い。


原発事故については、専門家の説明に従うが、これから、「 日本の進むべきエネルギー政策 」について、素人であるが意見がある。


世界中が「 原子力発電 」で苦しんでいる中で、私の考えでは、「 日本は脱原発 」の方向で政策を進める方が、よいと思う。


世界が苦しむ中で、「 日本が実験例 」になって、「 脱原発 」の最先端を進むべきだと思う。


地球温暖化、原発事故と続けば、世界中で考えている「 再生エネルギーによる発電 」がよいと思う。


@まず、当面は電力会社はそのままで、各地方公共団体が、「 自営の電力会社 」を作る。


A送電網は、地方公共団体が装備する。蓄電池も改良する。


Bこれは、国策だから、各地方公共団体が持つ「 自営の電力会社 」を作る資金は、すべて国が出す。


電力会社の国有化と同じかもしれないが、住民が、「 既存の電力会社 」から電力を買うか、あるいは「 自営の電力会社 」から電力を買うか「 選択する自由 」を与える。


「 自営の電力会社 」は、「 再生エネルギーによる発電 」を行う。


太陽光の「 大規模メガソーラー 」や風力発電など、地域の特性に合った電源を探し、発電し、不足した電力を「 既成の電力会社 」から買う方法などを提案する。


「 大規模メガソーラ 」で発電した電力を、「 既存電力会社 」に「 売る 」のではなく、「 自営の電力会社 」は、まず住民に提供し、住民は電力の不足分を、「 既存電力会社 」から「 買う 」のである。


日本には47の都道府県があり、県政を利用して、都道府県ごとに、「 自営の電力会社 」を作り、住民が運営する。


かって、自民党が「 ふるさと創生事業 」と称して、1億円を各市町村に交付したが、使用目的を市町村に委ねたため、「 無駄使いの典型 」とされたが、今度は、「 自営の電力会社 」を作るという目的もあり、「 脱原発 」の方向なので、国策とすることを提案する。


太陽光発電は、日本国中で可能であるため、「 県でひとつの大規模メガソーラ 」をつくればよい。


個人が作れば、初期投資が莫大であるため、発展しないが、税金で作ればよいと思う。


その結果、公共事業の発注も増えて、経済も発展するかもしれない。


住民に、「 選択権 」を与えるため、住民は「 節電 」するだろうし、エネルギー問題の認識を深めると思う。


それが、地方分権であるし、中央政府から地方が自立する契機になると思う。


電力会社に依存せず、地方公共団体が、独自の発電機と送電網を持つことを提案する。
posted by kandk55 at 00:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 2010年からの日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月20日

2011/8/20、オカルト・自分探し(自分)6(無意識と存在)

A無意識と関係

2011/8/11、私の記事


「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。



2011/8/20、私の考え


気(ki)と情(zyou)の関係


無意識を気(ki)と情(zyou)で考え、前者をエネルギーで、後者をDNA情報も含めた自分のすべての文化と考え、前者が「 瞬間 」や「 現在 」を決め、後者が「 過去や未来 」を決めると考える。

前者の気(ki)を電気(denki)と考え、知覚器官を動かすのは電気(denki)で、生物が知覚するのは電気(denki)に依ると考える(私は、これを生気論だと思う)。


存在は、一定の関係であり、知覚するのは、この関係であるからストレスという力線を生み、欲で知覚が動き、気(ki)は器官を働かせるエネルギーであると思う。

気(ki)は、食物の摂取と心肺活動により生じるだろう。


眼が見るのは、「 存在 」する物体ではなく、自分に対する関係(例えば、方向)である。


人間も牛や馬の眼には、風景は模様となって、眼に映っているかもしれない。

「 存在 」するか否かは、情(zyou)が決定すると考える。

眼が「 実体 」を決めるのではなく、決定するのは情(zyou)であると思う。

眼によって見えるから「 存在 」するのではなく、五感や五体に充満する情(zyou)という感情による実感で「 存在 」が決まると思う。

動物と人間は情(zyou)が違うから、人間にとっての「 存在 」は、牛や馬には「 存在しない 」かもしれない。


眼で遠近を感じるのは、自分の行動可能性を考えるから、欲を持つからであり、欲が無い場合は「 模様 」として感じるだろう。


見ることに依存せず、感じることが、存在を知覚することであり、盲目の人がピアノの鍵盤の位置を知っているのは、音を発する鍵盤の位置を感じ、存在を知っているからだと思う。


見ることは、自分との関係を知ることで、「 存在 」を知ることではないと思う。


「 存在 」は「 感じる 」意識であり、「 存在 」を決めるのは情(zyou)であると考える。


これは、人間に限らず、生物一般の知覚であると考えると、知覚の機構は同じだが、獲得する「 実体 」はすべて相違するから、「 実体 」は動物の共同社会の定義、知識であると思う。


人間は言葉で「 実体 」を知識化するから、ほかの動物より優れていると思う。


この事象の知識化も、「 無意識 」の要素である気(ki)と情(zyou)が関係すると考える。


@事象に気(ki)を放ち、情(zyou)を獲得するのが知識化で、「 気(ki)を配る 」という行為として現れ、気(ki)というエネルギーが主体であるので、情(zyou)は、「 今 」、「 現在 」の知識である知恵になり、意識になるだろう。


A他方、「 行間を読む 」というように、懸命に情(zyou)を注ぎ、気(ki)を取り出すのは、過去や未来の知識から(知識という意識から)、知恵を引き出す、あるいは情(zyou)を気(ki)というエネルギーに溶かし込む行為であると考える。


@はエネルギーの放出だから、「 呼吸 」で空気を外部へ吐き出す行為と考え、Aは、エネルギーの燃焼であるから、「 呼吸 」の空気を吸い込む行為と考える。


「 呼吸 」は「 今 」「 ここ 」「 現在 」という時制を決めるから、@とAは、「 現在 」で行われると考える。


こうして、「 自分 」は、気(ki)という電気(denki)で眼や耳を動かして、自分との「 関係 」を捕らえ、情(zyou)という全身のDNA情報で、物体を「 存在 」として捕らえ、「 存在 」とは「 感じる 」という意識であり、「 存在 」の認識には「 感受性 」を必要とし、「 呼吸 」で決まる現在に、空気を吸ったり吐いたりするときに、気(ki)と情(zyou)を使って、@とAの行為をしていると思う。


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。


posted by kandk55 at 03:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月13日

2011/8/13、オカルト・自分探し・自分5(無意識と意識)

@存在を関係と考えること

2011/7/19、私の記事

なぜ、私が、「 存在と時間 」ではなくて、「 存在と関係 」というタイトルにしたのかについて書くことにする。


タイトルの「 関係 」は、言葉上の「 関係 」ではなく、事物、事象と私の「 関係 」である。

「 関係 」は、互いに動くものの間(ma)の相互連携である。


頭脳の中の「 静止 」は自由だが、静止していると思うすべての事物や事象は運動している。

無意識に「 静止 」しているのが存在論的に「 存在 」であるが、「 存在 」を規定したとき、意識や無意識は呼吸と共に動いている。


「 測定 」したことが事物であり、事象であると思うが、「 測定 」は静止した状態の数値だが、宇宙の運動から考えると、「 静止 」は人間の頭脳の中に在り、静止した事物は自分と同じ動きをするから、「 静止 」と思うのであり、地球が自転しているから、測定する人も対象も、宇宙的に言えば「 静止 」していないと思う。


事象の法則も「 関係 」であるが、その前の、絶えず運動する事物や事象の「 存在 」と絶えず運動する無意識との「 関係 」であり、測定者の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」から分離することが出来ない「 関係 」である。

それは、現実に事象や事物が存在することは、測定者本人の無意識でしか確定することが出来なく、法則が客観的であるのは、人間の主観が同じように判断するからであると思う。

……………(省略)…………………


形而上学的に「 ある 」というのは、存在論として、バイオリズムや遺伝子情報により、決定され、それは「 主観的 」な「 関係 」を具現化することが必要で、それは、個人の主観的な「 欲 」の「 強弱 」や「 遠近 」で表現される「 関係 」であり、「 時間 」を考える事は、「 現在 」を「 過去や未来 」の知識で説明することだと思い、「 瞬間 」や「 現在 」の中の「 存在 」を説明することではないと思う。




A無意識と関係

2011/8/11、私の記事


「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。




2011/8/13、私の考え


B意識と関係

存在を「 言葉 」で証明するのではなく、存在論的に「 行為の可能性が一定である関係を存在 」と考える。


無意識を以上のように考え、呼吸で決まる「 瞬間 」や「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。



その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


呼吸による「 今 」と「 ここ 」という「 現在 」を決定する無意識の気(ki)の中に「 主観的時間 」と「 主観的空間 」を考える。

前者は時間意識であり、後者から派生する精神であり、磁場であるのに対して、後者は空間意識であり、神経に流れる電流で電場であり、後者は、絶えず小脳からエネルギーを補給されるという、少なくても二重の構造であると思う。


時間や空間の存在を言葉で規定するのは困難だろう。


時間は「 主観的時間意識 」で、空間は「 主観的空間意識 」であるから、意識の性質として「 静止 」や「 絶対 」が頭脳の中に生じるから、「 局所的か否か 」を考える必要はなく、始めと終わりがある物語を決定したり否定したりして理論を形成することが出来る。


無意識の情(zyou)が、「 主観的時間 」と「 主観的空間 」という気(ki)から生じた意識の座標により、情(zyou)の情報や「 知識 」の因果関係の物語が、「 今 」、「 ここ 」で、状況に応じた「 知恵 」となって、「 現在 」の状況に具現化し、解凍されると考える。


具現化するエネルギーが、気(ki)というエネルギーであり、「 主観的空間 」の電場と「 主観的時間 」の磁場の中で、電磁波的な構造で、情(zyou)という無意識の小脳の可能性である「 心 」が伝達されると思う。


「 言葉 」が表す「 行為可能性 」を引き出し、現在の状況に応用するのが意識だと思う。


存在を伝達するのも、小脳の「 行為の可能性 」という関係を伝達するのだと思う。


存在する事物を「 言葉 」で証明するのではなく、存在論的に「 行為の可能性が一定である関係を存在 」と考え、「 言葉 」の意味ではなく、「 今 」「 ここ 」に言葉が示す、自分と事物の主観的な間(ma)の中の「 行為の可能性 」という関係を受け取る感受性が、理解に導くと思う。


存在論的に「 行為の可能性が一定の関係 」を存在と考え、これが具現化した現実の知覚の中で、言葉という手段で伝達するのは「 行為の可能性 」という無意識の自分と事象の関係であり、言葉が持つ意味や志向性を考える方法は、存在への理解から遠くなると思う。


間違っているかもしれないが、外国人同士が「 言葉 」は知らなくても「 しぐさ(ジェスチャー)」で理解できることを例にする。


「 行為の可能性 」は無意識の領域であり、言葉の前に、察知することが出来るだろう。


意識は電磁波の構造を持つことは、まだ維持している。


無意識を断ち切り、決定するのは、「 電気(denki)」の力だと思うし、眼で光を見て、耳で音を聞くのは、心臓に電気が走っているように、神経の中に電気を考えるのが、「 生気論 」や「 プラズマ宇宙論 」を肯定する私の立場からの結論である。

posted by kandk55 at 05:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月11日

2011/8/11、オカルト・自分探し(自分)4(存在と関係)

2011/7/10、私の記事

ガリレオが、「 自分の心拍 」と「 振り子の振動 」と比べて、「 振り子の振動 」が、時間を表現するに適しているとし、「 自分の心拍 」を捨てて「 振り子の振動 」を時間としたならば、この時点で、科学が確立したと同時に、「 人間は、時間を失った 」と思う。


「 自分の心拍 」こそ「 不安 」や「 安心 」という無意識の具現化であり、小脳が生むリズムであり、生命のリズムなのだ。

小脳の領域である「 呼吸 」が「 今 」と「 ここ 」という瞬間という間(ma)を決定し、その連続を「 現在 」というが、この「 現在 」は主観的な時間であり、人類の全ての瞬間が相違する。


2011/7/19、私の記事

「 存在 」を考えることは、バイオリズムを考えたり、遺伝子情報を考えることで、心理学や遺伝子の科学で「 欲 」の具現化(行為)が物語であれば、ガリレオ以前の心拍のリズムや呼吸のリズムなど、個人の「 主観的時間 」と「 主観的空間 」に受け入れられる「 関係 」だと思う。


2011/7/24、私の記事

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/7/31、私の記事

私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。

2011/7/24、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。


2011/8/7、私の記事

このように、すべてを「 関係 」にして、その統合として「 欲 」を考える。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



2011/8/11、私の考え



「 存在 」を言葉ではなく、「 存在論 」として考えると、バイオリズムや無意識について、考える必要があると思う。

ガリレオにより、生命のリズムとも考える脈拍や鼓動を捨てて「 振り子 」の一定した振幅を採用したのが科学を生んだと同時に、人間の体内時計を捨て、本来の「 時間 」を失った。


哲学を、意識の厳密な理論とするから、意味や意識の理論で終わり、存在から遊離したのだと思う。


私は、「 言葉の関係 」ではなく、自分と存在する事物や事象の関係を問うものだから、私自身が事物その物になって考えたとき、「 存在論 」として考えるから、「 欲 」や「 無意識 」についても考え、その結果、「 関係 」の選択が自分に、将来の自分を決定する事であると思う。



人間はすべて「 欲 」という考えと、すべては「 関係 」であるという考えから、どんな考えになるだろうか?


私は、「 欲 」や「 無意識 」を「 気(ki)」と「 情(zyou)」で考えてきた。


まず、気(ki)の「 関係 」について書く。


「 気(ki)」は「 空気(kuuki)」や「 電気(denki)」というように、「 流れる物 」であり、エネルギーの領域であり、空気を呼吸するから「 今 」や、その延長の「 現在 」を決めるバイオリズムであるだろう。


「 今 」の「 関係 」は、「 欲 」が具現化した「 知覚 」による「 遠近 」や「 強弱 」というベクトル(力線)を感じる領域で、「 心 」であり、知覚した物体と「 心 」を直接に結ぶ「 関係 」であり、絶えずストレスを生むと思う。


その「 関係 」は、地球上にある限りは、自分と事物が「 共変 」し、知覚することが出来ない繋がりであり、「 意識 」で一定だと思う「 関係 」が「 存在する事 」だと思う。


それは、「 死 」と共に消滅する魂であるだろう。


他方、「 情(zyou)」の関係は何か。


情(zyou)は、「 人情 」や「 情熱 」という人間に共通な「 感情 」を示す言葉に使われるだけだけでなく、「 情報 」などの「 伝達されるもの 」、「 物から派生したもの 」に使われ、遺伝子情報も含む「 物語 」であり、そのため、「 時間 」や「 空間 」を必要とするから、「 意識 」に近い無意識で、それは時制の「 過去や未来 」を形成すると思う。


情(zyou)は、「 物語 」であるから「 文化 」も含み、社会の知識も含むと思う。


その情(zyou)が持つ、意識が「 静止 」した情報を、「 今 」、「 現在 」に「 動かす 」あるいは「 解凍 」するのが、気(ki)が持つ、エネルギーであると思う。



知識を行為に具現化するのが、気(ki)であり、当然だが、行為は「 今 」、「 現在 」にしか存在しない。


情(zyou)は、意思という感情である場合もあり、意思が具現化した「 文化 」は「 死 」によっても消滅せず、後世に引き継がれるだろう。


遺伝子情報は「 子孫 」という形で、後世に引き継がれる。


私は、「 ガイア理論 」や「 六道輪廻 」を信じるので、その情(zyou)が、私の死後に地球のひとつの生命体になり、(シューマン波になり脳波になり)、再び「 生物 」の精神に生まれ変わると思う。
posted by kandk55 at 01:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月07日

2011/8/7、オカルト・自分探し(自分)3

2011/7/241、私の記事

「 存在 」が、「 時間 」ではなく、「 関係 」として考えると、「 現存在 」も時間を使った「 今の自分 」ではなく、「 今とここ 」で結ぶ一切の関係を統合する自分と考え、自分を「 客観的 」に記述するのではなく、自分が「 今やここ 」という瞬間に何と関係している事物自体であるかを考えることになる。


動植物が生きる物と同じように生きるが、意識や無意識を持った物体が自分であり、動植物が生きる条件が、自分には「 関係 」として現れると思う。


「 瞬間 」の中で、DNA情報もバイオリズムも一切の情(zyou)を気(ki)というエネルギーで統合したのが自分であり、「 生きる 」とは、「 関係の中で生きる 」ことであり、「 関係 」を媒介として、植物が花を咲かせるように、同じ物体でありながら、自分が変化することだと思う。


………………(省略)………………


自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。




2011/8/7、私の考え


「 存在 」を、「 時間 」ではなく、「 関係 」と考える利点は何か。


それは、すべてを「 関係 」と考えることである。


事物や事象は、その物自体や宇宙空間の中で変化し、止まることはない。


これを「 無常 」と考えるが、観測者の私も事物や事象も変化し、「 静止 」しているのは、私の頭の中での「 関係 」である。


事象や事物は常に動き、私の「 小脳の可能性 」やバイオリズムや無意識で「 静止 」していると考えるのだと思う。


私の「 小脳の可能性 」やバイオリズムや無意識で「 静止 」しているとは、自分の可能性の限度であり、「 欲 」の限度であると思う。


すべてを「 関係 」と考え、その「 関係 」を統合するのが、自分の「 欲 」である。


私の「 欲 」の表現が、私の「 静止した事物 」すなわち「 存在 」である。


「 存在 」を、「 時間 」ではなく、「 関係 」と考える事は、「 欲 」の及ぶ範囲が「 存在 」の範囲であり、「 欲 」を持つ限り、あらゆる存在と自分の「 心 」とを引力のように結びつけ、自分の事として考える事が出来るという利点があると思う。


存在は「 観察者 」や「 測定者 」の主観や測定方法から分離することは出来ず(つまり測定者の主観的時間と空間で関係が成立する)、法則は「 関係 」が一定である事であり、時間や空間という意識も含んで、事物や事象の「 存在 」を保障するのではない。


このように、すべてを「 関係 」にして、その統合として「 欲 」を考える。

自分は時間的な存在だと考えるのではなく、一切の関係を統合する(自然)物体が自分であり、「 今やここ 」の「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中の関係を組み変えることにより、自分の存在を変えることが出来ると思う。


自分を(自然)物体と考えると、自分は「 欲 」であり、「 関係 」であり、ベクトル(力線)時空であり、言葉は必要ではない。



人間は「 欲 」を持つ動物であることは、以前に書いた。


「 欲 」は「 主観的時間 」や「 主観的空間 」の中でのベクトル(力線)であり、「 欲 」をコントロールすることは、存在をコントロールすることであり、それは、存在するとか存在しないとかいう「 言葉 」の問題ではなく、「 感受性 」の有無の問題であると思う。


「 存在 」が「 欲 」の具現化であるから、いわゆる「 物欲 」が強い人は強欲であるとも考える。


「 欲 」の種類、「 心 」の種類が「 六道 」であることも以前に書いた。


ある「小説家 」のように、「 無常 」を「 はかない事で、あきらめる事とは「 考えずに 」、時間や空間で規定することは出来ない「 瞬間 」の中で、変遷する「 関係 」の多様性として捕らえることが、前進的であると考える。
posted by kandk55 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年08月02日

2011/8/2、オカルト・自分探し(自分)2

2011/7/31、私の記事

私は、その無意識の奥に「 欲 」を考える。


「 欲 」は、「 小脳の運動可能性 」や「 心 」や、「 主観的時間 」などの無意識を統合し集中させる遺伝子情報も含む「 バイオリズム 」だと考えている。


呼吸し、血液が流れている以上、人類はすべて「 生存欲 」を持つと思う。


その「 欲 」が「 六道 」であり、生来、「 欲 」を持っているとは、生来「 六道 」のひとつの中に生まれている事だと思う。


その「 欲 」の現れが、「 人格 」であると思う。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思う。



六道

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93



2011/8/2、私の考え


上記のように、「 自分 」を存在論的に考え、「 瞬間 」の中のバイオリズムを「 欲 」として考える事により、仏教の言葉と少しだけ同調することが出来る。


私は、時制を決める「 バイオリズム 」が「 死 」に向かって進む関係であることを念頭に置いて、生きている「 瞬間 」の中にバイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することだと思うと書いた。


これは、時間も空間も計測することが出来ない「 瞬間 」の中で「 関係 」する事物により、自分の結果、自分の人格が変わることだと思う。


仏教で、「 善因善果 悪因悪果 自因自果 」というが、人間を存在論的に考え、「 瞬間 」の中の「 関係 」を「 因果関係 」と考えるが、その「 因果関係 」を自然界の因果として考えるのが一般的だろうが、私は、この場合の「 因果関係 」を自然界の因果関係ではなく、人が変わること、人格が変わることの原因と結果の関係であると考える。

私の「 行為 」に応じた結果が現れること。


善い行為をすれば、未来に善い結果(自分)になるだろうし、悪い行為をすれば、未来に悪い結果(自分)になる。


何事も、自分の行為が原因になっているのが「 自因自果 」であると思う。


存在論的な「 自分 」が、「 瞬間 」というベクトル(力線)の関係の中で、バイオリズムから与えられた「 未来への方向 」という関係を把握するのが、「 生きること 」で、人間という物自身として因果関係の中にいて、自分の因果を決定することが、「 善因善果 悪因悪果」であり、「 善 」になるか「 悪 」になるかは、自分の行為次第(自因自果)であると思う。


行為は「 欲 」によって決められるから、「 善い欲 」を持てば「 善い結果 」になり、「 悪い欲 」を持てば「 悪い結果 」になると思う。



因果の道理(Wikipedia)

善因善果 悪因悪果 自因自果
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%A0%E6%9E%9C%E3%81%AE%E9%81%93%E7%90%86

因果の道理こそ、釈尊がえた仏陀の悟りの内容である。「因果」とは原因と結果の関係、人の幸福、不幸が何によって起きるか、その因果律をいう。また「道理」とは、三世(過去世、現在世、未来世)十方(東西南北上下四維)において変わらぬ真理をいう。すなわち、苦悩の解決をあらわした普遍的真理である。
・ 善因善果(ぜんいんぜんか)
・ 悪因悪果(あくいんあっか)
・ 自因自果(じいんじか)
「因」とは、我々が、心に蒔く「思い」という種である。その種が、口や身体の「行為」へと生長する。これを「心口意の三業」と言う。
「果」とは、私自身の幸不幸である。因であるところの「思い」の種が生長し、行為となり、さらには私の外的環境の「花」を咲かす。そこから収穫される「実」が「果」である。甘い実、苦い実がある如く。蒔いた種に応じて 幸不幸がある、ということ。 
因果の道理とは、我々の運命は何によって決まるのかを教えられたものである

posted by kandk55 at 06:56| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 32 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする