2011年10月30日

2011/10/30、オカルト・想像・バイオリズム・人格3

2011/10/30、私の言い訳

私は、以前、次のように書いている。

このままでは、無責任と思う人がいると思うので、現在の考えと接合を図る。

………………………………………

(以前の考え)

2010/8/22、私の記事


「 色眼鏡で見る 」言い換えると「 価値判断 」とは、以下の事であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

これは、同じ構造を持つから、可能である。


…………(省略)……………………………


この、「 小脳の無意識 」が時空意識に乗って具現化する、あるいは小脳の無意識が「 往来する 」事が、「 人間 」という統一体では「 人格 」であり、社会では「 文化 」であり、精神世界では「 世界観 」と呼ぶが、これらは全て「 価値観 」が実体であると考える。

「 人格 」や「 文化 」や「 世界観 」というが、「 価値観 」が、あるいは「 小脳の無意識 」という生存可能性が、統一体に、「 時間意識 」と「 空間意識 」に乗って、「 欲 」が「 意欲 」となり、「 意欲 」が具現化したと考える。


2010/8/16、私の記事

価値判断とは、次のように考える。

「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。



………………………………………
(今の考え)

2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。

………………………………………

2011/10/30、私の考え

以前の考えで、次のことは維持する。

………………………………………

価値判断とは、「 欲 」が「 形態となって具現化した 」事と、生存可能性が「 形態となって具現化した 」事が重なり、前者の「 区切られない物 」を後者の「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「人格 」であり「文化」であると考える。

価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考える。

「 意識 」という電磁波で「 人格 」と「 文化 」が連結し、意識が「 人格 」から「 文化 」に伝えるのは、「 人格 」の無意識であり、逆に「 文化 」(社会)の無意識が、「 人格 」の無意識に伝わる事を、「 往来する 」と考える。

………………………………………

現在、「 無意識 」は、バイオリズムだろうと思っている。


価値は、「 小脳の無意識 」が決定する「 欲 」であり、「 力 」や「 ベクトル 」という眼に見えない意思の具現化が、価値判断であると考え、「 価値観 」は、無意識の「 欲 」の領域で働く、統合する「 力 」や「 エネルギー 」であると考える。


今、私が考えていることは、無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」でない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」であり、「 人格 」は社会的で、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。


「 欲 」の「 区切られない物 」を「 身体生存可能性 」で区切って具現化したものが「 価値観の具現化であり 」、「 人格 」であり「 文化 」であり、「 人格 」や「 文化 」は「 欲 」を身体で体現したものと考える。


「 知覚 」×「 関係の絶対値 」(絶対静止を考えなくては運動は判別することが出来ない)により得られた「 心的存在意識 」を、呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に充満している自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」というエネルギーであり、その結果、社会に表現されるのが「 人格 」であると、現時点では考える。


「 価値観 」はエネルギーであるから、「 無意識 」であるように思うが、意識により「 人格 」から「 文化 」に、逆に「 文化 」(社会)から「 人格 」に、個人の「 無意識 」(クオリア)と集合的無意識と交流する事を、「 往来する 」と考え、社会的であり、意識によって変容は可能であり、「 価値観 」や「 人格 」は、「 情(zyou)」でありバイオリズムであると思うから少しは科学により類型化されるかも知れないが、「 欲 」であるから科学で全てを判定することは出来ないと思う。

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2011年10月29日

2011/10/29、オカルト・想像・バイオリズム・人格2

2011/10/22、私の記事


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。



2011/10/23、私の記事

以上の考えに追加がある。


無意識をフェルミ粒子、意識をボーズ粒子とするならば、フェルミ粒子がボーズ粒子になる過程が、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」であり、それらの混在が「 意識 」であると思う。


ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の考え


「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


「 我々は何処から来たか、我々は何者か、我々は何処に行くのか 」


その方向を示すのが「 人格 」と思うからである。
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2011年10月23日

2011/10/23、オカルト・想像・バイオリズム3・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/10/22、私の記事


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。



2011/10/23、私の考え

以上の考えに追加がある。


無意識をフェルミ粒子、意識をボーズ粒子とするならば、フェルミ粒子がボーズ粒子になる過程が、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」であり、それらの混在が「 意識 」であると思う。


ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。




「 多重人格 」は、統御することが出来ない「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の「 心的存在意識 」を多数持つことであり、心理学により解明されるだろう。


以上の見解により、「 人格障害 」や「 パーソナリティ障害 」などについても、学問とは違う結果になる。
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2011年10月22日

2011/10/22、オカルト・想像・バイオリズム2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/19、私の記事

「 バイオリズム 」というのは「 体調 」や「 フィーリング 」であるかも知れないが、私の場合は、そうではなく、人体の臓器の動きを司る「 小脳 」のリズムと考えている。


私は「 生気論 」を支持し、気(ki)とは「 脳波 」や「心電図 」に現れる「 電気(denki)」というエネルギーであり、精神的には「 元気(genki) 」や「 気力(kiryoku)」や「 気質(kisitu)」という個人のエネルギーであると考える。


情(zyou)も気(ki)も、個人が持つ特殊の事情であり、人類の全てが相違し、保持することは人類の全てに共通する。


個人が持つ特殊事情の内容は無限に相違し、内容を知ることは出来ないが、「 バイオリズム 」で決定する行為は「 類型 」として学問の対象となるだろう。


「 小脳 」による呼吸で「 今 」や「 瞬間 」という「 現在 」という時制が決まると思い、「 小脳の行為の可能性 」が「 関係 」として時制を満たすと思うから、「 現在 」には現在に対応する関係が生じ、「 過去や未来 」には、それに対応する関係が生じると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、「 過去や未来 」に対応する関係は、「 現在 」の「 関係 」の中に存在するだろう。


「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であるから、「 関係 」を選択するのは「 バイオリズム 」であるだろう。


「 関係 」が無限にあることは、個人の事情が違うから一律の内容ではないということで、決定するのは「 バイオリズム 」であると思う。


だから、「 バイオリズム 」を解明することが、多くの恩恵を得ることだと思う。


私は、心理学やその他の学問を知らないから、私の特殊の考えを書くことになる。



私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


私の特殊な考えは、「 遺伝子の物質波 」が、知識などの社会的な論理思考の「 電磁波 」により、変化する。

あるいは、「 ものの考えかた 」や「 思考方法 」の違いにより、「 遺伝子 」による行為が相違すると思っている。



「 意識 」と「 無意識 」は、以上の相違があるが、前者が主に「 大脳 」の働きであり、後者が「 小脳 」の働きである相違も存在すると思う。


2011/10/22、私の考え


私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


バイオリズムに「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」があるとすれば、バイオリズムは「 情(zyou)」だろうが「 リズム 」であるから、「 気(ki)」でもあり、気(ki)は、リズムを生むエネルギーだろう。


想像だが、「 身体 」と「 感情 」と「 知性 」の「 情(zyou)」それぞれに気(ki)をもち、身体は「 内臓の電気や心電図の電気 」で、感情は「 小脳の電気 」で、知性は「 大脳の電気(脳波)」であるかも知れない。


以上が、人体の内部の「 物質波 」であり「 関係 」であり、外部に表現する「 意識 」で「 電磁波に似た構造 」が「 脳波 」という「 気(ki)」であり、「 情(zyou)」は、「 関係 」が具現化した「 すべての情報 」、人間社会の文化全般であると考える。


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」という時制の中での、人間の行為から推察される、本人には無意識である「 人格 」も、「 情(zyou)」であると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、社会的でもあり、自分の変化で相手も変化し、「 共変する関係 」のみが変化しないと、社会では表現されると思う。


「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。




「 関係の絶対値 」は、関係を絶対と考えなければ、現実生活が成立しないことから推測した。



現実では、物体が動かずに、そこに存在すると仮定しなければ、「 運動 」が成立しない。


「 絶対静止 」を仮定しなけれは、「 運動 」を規定することが出来ないことから推察する。


「 関係の絶対値 」は、個人の判断であり、その結果、「 心的存在保持意識 」は、種々相違すると考える。
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2011年10月19日

2011/10/19、オカルト・想像・バイオリズム1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/9/11、私の記事


タイトルを「 オカルト 」とする私の考えは、以下のとおりです。


@「 オカルト 」と書いて、通常「 擬似科学 」と呼ばれる理論を応援したい。

「 科学 」は、ガリレオ以降、人の脈拍より振り子の振幅を「 時間 」と決めることにより、人間から時間を考える機会を奪った。

これにより、「 小脳 」から発せられると私は思うが、人間のバイオリズムや「 無意識 」を軽視している。



Aその結果、「 時間 」という「 意識 」を生む「 無意識 」が、全く解明されていないと思う。


潜在意識を認めながら、「 無意識 」の定義を避けているように思う。


それは、「 人間軽視 」であり、「 努力 」を認めず「 結果 」だけを評価し、「 見えるもの 」しか評価せず、「 存在 」を客観的と称して「 見えるもの 」に限定し、「 見えるもの 」を存在させる「 見えないもの 」を軽視していると思う。

それが、道徳や連帯感を衰退させていると思う。



私は、ここに、「 気(ki)」と「 情(zyou)」を構成要素とする「 無意識 」を導入し、「 人間は全てが欲 」であり、「 無意識 」も「 欲 」であるから「 生存が可能であり 」、その「 欲 」が、「 見えるもの 」の「 遠近 」や、「 聞こえるもの 」の「 強弱 」という「 関係 」を、人間に「 感じさせる 」と思う。


人間は「 関係 」の中で、関係を一定に保ちながら、生きていると思う。


「 存在 」を「 一定の関係の心的存在意識 」として、「 頭脳 」の中に映し撮り、「 物の関係 」は意識同士の関係であり、「 時間意識 」や「 空間意識 」と混合して、大脳で思考し、その思考した結果としての行為は、「 人間性の発露 」であると思う。


これは、「 科学的 」ではないので、私は「 オカルト 」と称するが、未来を予想するのではない。


私は、「 見るもの 」「 聞くもの 」全てが、個人のバイオリズムや無意識や「 人格 」から生じると考えて「 オカルト 」と称するが、目的は「 人間性の解放と人間性の完成 」である。


2011/10/19、私の考え


私は、「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であると書いてきた。


「 情(zyou)」は遺伝子情報を含んだ、経験した全ての情報であると想定し、「 無意識 」は「 バイオリズム 」であると考えていて、「 情(zyou)」も「 バイオリズム 」として現実に現れると思う。


「 バイオリズム 」というのは「 体調 」や「 フィーリング 」であるかも知れないが、私の場合は、そうではなく、人体の臓器の動きを司る「 小脳 」のリズムと考えている。


私は「 生気論 」を支持し、気(ki)とは「 脳波 」や「心電図 」に現れる「 電気(denki)」というエネルギーであり、精神的には「 元気(genki) 」や「 気力(kiryoku)」や「 気質(kisitu)」という個人のエネルギーであると考える。


情(zyou)も気(ki)も、個人が持つ特殊の事情であり、人類の全てが相違し、保持することは人類の全てに共通する。


個人が持つ特殊事情の内容は無限に相違し、内容を知ることは出来ないが、「 バイオリズム 」で決定する行為は「 類型 」として学問の対象となるだろう。


「 小脳 」による呼吸で「 今 」や「 瞬間 」という「 現在 」という時制が決まると思い、「 小脳の行為の可能性 」が「 関係 」として時制を満たすと思うから、「 現在 」には現在に対応する関係が生じ、「 過去や未来 」には、それに対応する関係が生じると思う。


「 関係 」は「 情(zyou)」であり、「 過去や未来 」に対応する関係は、「 現在 」の「 関係 」の中に存在するだろう。


「 存在 」を「 存在論 」的に考えると、存在を決定するのは「 無意識 」や「 情(zyou)」であるから、「 関係 」を選択するのは「 バイオリズム 」であるだろう。


「 関係 」が無限にあることは、個人の事情が違うから一律の内容ではないということで、決定するのは「 バイオリズム 」であると思う。


だから、「 バイオリズム 」を解明することが、多くの恩恵を得ることだと思う。


私は、心理学やその他の学問を知らないから、私の特殊の考えを書くことになる。



私の特殊な考えでは、「 意識 」は無意識の中の「 気(ki)」であり、「 電磁波に似た構造 」をしているから、気(ki)がサインカーブを描くエネルギーであると考えるが、「 バイオリズム 」の「 正弦波 」も、気(ki)のエネルギーであり、前者が「 光 」に似た「 電磁波 」であり、後者が「 物質波 」であると考えている。


私の特殊な考えは、「 遺伝子の物質波 」が、知識などの社会的な論理思考の「 電磁波 」により、変化する。

あるいは、「 ものの考えかた 」や「 思考方法 」の違いにより、「 遺伝子 」による行為が相違すると思っている。



「 意識 」と「 無意識 」は、以上の相違があるが、前者が主に「 大脳 」の働きであり、後者が「 小脳 」の働きである相違も存在すると思う。


「 大脳 」の「 科学 」は、人体の一部の「 科学 」であると私は思う。


意識や無意識の根底には「 欲 」が存在すると考えると、「 欲 」と「 無意識 」と「 関係 」と「 存在 」と「 バイオリズム 」という言葉を解明しなければ、「 人間の行為 」を解明することは出来ないだろう。



バイオリズム(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0


人間の場合は、身体(Physical)、感情(EmotionalまたはSensitivity)、知性(Intellectual)の3種類の波を用いて説明されることが多く、頭文字P,S(E),Iと表記される。各リズムは誕生日を基準とする同じ振幅の正弦波として表され、身体リズムは23日、感情リズムは28日、知性リズムは33日の周期をもつ。


最近では元の意味から離れて、単に体調の波を言ったり、月経周期の隠語的言い回しとしてバイオリズムという言葉が使われることがある。


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2011年10月10日

2011/10/10、オカルト・迷走する自分10・整理2


2011/10/9、私の記事

「 関係 」とは「 可能性 」であり、実在化したのが「 存在 」であると思う。


「 可能性 」は「 小脳の無意識 」であり「 欲 」であることも前述した。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


生きることは、「 心 」を現実の行為により具現化することであると思う。


2011/10/10、私の考え



「 心 」を現実の行為により具現化することは、無意識から意識へ、過去や未来から現在へと、呼吸や知覚という行為により移行することである。


その際、存在する物体の知覚だけが「 客観的 」として固執するのが、科学や唯物論の立場だろう。


私は、「 客観的 」というのは、「 誰もが同じ判断をすること 」であり、意識でも無意識でも、社会的な「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」が「 客観的 」であると思う。


物体だけでなく、その「 可能性 」という「 関係 」を含んだ知覚を「 心的存在保持意識 」であることは前述した。


「 物体 」と、可能性を生む「 エネルギー 」を含む「 心的存在保持意識 」を考えることは、宇宙をダークマタとダークエネルギーを含んで考える方向に似ている。


「 物体 」が意識であり、「 心的存在保持意識 」が無意識ならば、人の「 心 」は宇宙のダークマタとダークエネルギーが「 無意識 」であると考える。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


この「 心的存在保持意識 」を具現化する「 力 」が「 人格 」であるのかも知れない。


「 力 」であるから、気(ki)であり、現在の行為のエネルギーである。


これで、次の話題に話が移行する。
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2011年10月09日

2011/10/9、オカルト・迷走する自分9・整理

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2011/10/9、私の考え


私の考えでは、すべての人は、存在物を前提にして、生活していると思う。


大地(地球)が存在し、空気が存在し、重力が存在し、物体が存在し、時間や空間が存在することなどである。


それを、古代の人は、火や土や水などの世界の構成要素として考えたのだと思う。


私は、この「 存在 」ということを考える必要があると思う。


私は、「 存在と時間 」で考えるのでなく、「 存在と関係 」で考えることは前述した。


私は「 時間 」は時間意識、「 空間 」は空間意識と考えるので、「 存在一般 」を考えるのでなく、「 今 」や 「 現在 」という時制からの「 存在 」を考える。


「 時間 」や「 空間 」が存在するのは意識であると思うのは、宇宙のダークマタやダークエネルギーを考えると、「 時間 」や「 空間 」という言葉が意味する実体の有無が不明だからである。


人間が「 生きること 」により、過去や現在や未来という時制は発生し、「 現在 」は呼吸により決められる気(ki)というエネルギーの状態であり、過去や未来は、気(ki)が存在しない情(zyou)という遺伝子情報も含めた経験した全ての情報で決められることも前述した。


「 現在 」は「 意識 」であり、「 過去や未来 」は「 無意識 」や「 バイオリズム 」であることも前述した。


「 意識 」も「 無意識 」も、「 小脳の無意識 」である「 心 」に含まれることも前述した。


私は、「 今 」や「 現在 」に充満するのは、「 時間 」ではなく「 関係 」であり、「 関係 」が、過去と未来を結び、「 生きること 」は「 関係のなかで生活すること 」であると思う。

「 永遠 」があるのは「 時間 」ではなく「 関係 」であり、個人の意識の「 クオリア 」は社会の無意識であり、社会の「 集合的無意識 」に合致することが「 永遠の関係 」であると考えていることも前述した。


「 関係 」とは「 可能性 」であり、実在化したのが「 存在 」であると思う。


「 可能性 」は「 小脳の無意識 」であり「 欲 」であることも前述した。


すべての人は、存在物を前提にして、生活しているとは、「 可能性 」という関係の中で、「 呼吸 」という行為や「 知覚する 」行為により、実在化した物体の存在を前提として「 生きる 」ことだと思う。


生きることは「 欲 」を持つことであり、「 心 」を持つことであり、「 現在 」に繋がる可能性という「 関係 」を「 現在の行為 」の中で具現化していると思う。


生きることは、「 心 」を現実の行為により具現化することであると思う。
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2011年10月07日

2011/10/7、携帯電話と人生

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/7、私の考え


先日、日本国国営放送を観ていたら、歩きながら、スマートフォンやアイホーンでメールの交換をして、前を行く人に衝突したり、後ろから歩いてきた視覚障害者の通路を塞ぎ、最悪の場合、視覚障害者が駅のプラットホームから落ちたということを聴取しました。


私は、スマートフォンではなく、一般の携帯電話を持っています。


スマートフォンを使うことが少なく、料金が高いということで使っていませんが、使わない者からの「 呟き 」を書きます。


私は、携帯電話を使うことも、抵抗がありました。


それは、日本の「 猿回し 」の「 猿 」や「 凧揚げ 」の「 凧 」みたいで、親から乳離れしない子のように感じたからです。


しかし、公衆電話機が撤収され、やむを得ず使っていますが、携帯電話は「 精神の向上 」を阻む物だと思います。


なぜなら、携帯電話で、人と人を「 繋げている 」のが、「 電波 」であり、「 心的存在保持意識 」とは、全く違った「 実物 」による「 繋がり 」であり、精神の「 繋がり 」ではなく、真の「 連帯感 」は生まれないということです。


パソコンを使わず、携帯電話で、ツイッターをするそうだが、これも、精神には良くないと思います。


駅で電車やバスを待つ間に、携帯電話を操作して、遊ぶ人が多いが、その人は人生を無駄にしている人だと思います。


ちなみに、私は、ICレコーダーで音楽を聴きながら、ブログの内容を考えて、人生を無駄にしています。


立派なことは「 呟き 」ません。


その間に、未解決の問題を考えてください。

「 時間 」とは何ですか?「 空間 」とは何ですか?「 宇宙 」とは何ですか?「 人体 」とは何ですか?「 意識 」とは何ですか?「 無意識 」とは何ですか?


あなた独自の考えがあるでしょう。


ツイッターなどではなく、ブログで発表したらどうですか。


人生、残された時間は少ない。



死期を宣告されたら、あなたは、後に残される妻や子供や親に何を、言い残すのですか。


精神や「 心 」を、短い時間で「 悟り 」に近づけることは容易ではありません。


「 死 」に備えて、「 心 」を準備したらどうですか。


東日本大震災や津波を考えてごらんなさい。


あと、何年、何日、生存することが出来るか、人は知ることが出来ません。


平凡ですが、生かされることに気づき、毎日を感謝して生きることを実践するのが、被災した日本人の態度だと思います。


携帯でメールする一瞬、一瞬が、貴重な人生の一部を削っていることを忘れないでください。


スマートフォンに魅力を感じるのは何ですか?

アイフォーンに魅力を感じるのは何ですか?


あなたの想像力は、携帯電話の範囲内で満足するのですか?
posted by kandk55 at 05:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年10月05日

2011/10/5、緊急提案・世界経済危機について

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/10/4、私の記事

存在を、「 一定の関係 」とすれば、個人の「 心的存在保持意識 」は、個人が保持する「 関係 」ごとに、相違するだろう。


五感で知覚できる物体だけを「 存在 」と考えることは、科学的であるかも知れないが、「 死 」は全ての終わりとなるだろう。


科学的とは唯物論であり、呼吸が生み出す「 今 」や「 瞬間 」での、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトル(力線)に左右させる世界であり、呼吸によって得られるエネルギーの領域であり、気(ki)の領域であり、ここには「 永遠 」という情(zyou)や思想は無い。


「 絵画 」について考えると、科学的関係というのは絵の具の種類やカンバスや色の濃淡であり、画家が絵の具の種類やカンバスや色の濃淡により、表現しようとした「 思想 」を判別することはできない。


「 日本庭園の石庭 」について考えると、科学的関係とは、石の有無であり、日本庭園の石庭で表現しようとした、石の配置による自然という「 思想 」を判別することはできない。


「 科学的関係 」は「 誰からも一定の関係 」とするため、個人の思想は無視され、無味乾燥の物体だけの知覚の関係であると思う。


「 科学的関係 」を成立させている「 知覚 」の方向を決定する「 心 」が不在の世界であり、死んだら終わりの世界であり、「 絆 」など、どこにも無いだろう。


「 科学的関係 」の「 心的存在意識 」は、「 心的 」ということを否定することから始まる思想であり、ガリレオからも推察されるように、人間性、バイオリズムの否定であり、法則が「 永遠の関係 」というだろうが、「 関係 」は人間性であり、法則が「 関係 」であるとは思わない。


法則は、人間の存在を前提とした「 因果関係 」であると考えたとき、「 永遠の関係 」があるかも知れない。


私が、「 存在 」を「 一定の関係 」としたのは、これから生じる「 心的存在保持意識 」を重視することを意図している。


世界中の誰もが「 心的存在保持意識 」を持ち、「 生活 」している。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、などは、「 科学的関係 」で決定するのではなく、無意識に生きることのバイオリズムで決定する。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、は自分と自然との関係であり、「 科学的関係 」で考えるのでなく、「 人類への恵み 」と考えるところに「 心的存在意識 」が生じ、人間から自然への「 感謝の気持ち 」が生じると思う。


「 存在 」を「 一定の関係 」としたことにより、知覚することが出来ない関係も、「 存在 」となり、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」となるが、何を「 存在 」させるかは、個人の内面から生じるバイオリズムや情(zyou)次第となる。


2011/10/5、私の考え

ヨーロッパの経済危機について考える。


経済を科学的法則と考えて、物理法則を当てはめて、「 リーマンショック 」が起こったが、現在に到っても「 存在 」と「 関係 」について、経済学者が気づいていない結果、「 ギリシャのデフォルト 」が発生したと思う。


これまで述べたように、「 存在 」は「 一定の関係 」だが、「 マネー 」や「 債権 」を「 物 」として、「 科学的 」に考えることが、間違いであると思う。


大国の経済学ではなく、「 存在 」と「 関係 」に観点から、「 経済学 」を造り直すことが必要だろう。


かって、カール・マルクスは「 資本論 」を書いた。


私は、よく知らないが、「 マネー 」の動きの影には、「 人間関係 」という「 関係 」があると思う。


「 マネー 」を「 科学的 」に考えることは、今まで述べたような展開になる。


「 絵画 」について考えると、科学的関係というのは絵の具の種類やカンバスや色の濃淡であり、画家が絵の具の種類やカンバスや色の濃淡により、表現しようとした「 思想 」を判別することはできない。


「 日本庭園の石庭 」について考えると、科学的関係とは、石の有無であり、日本庭園の石庭で表現しようとした、石の配置による自然という「 思想 」を判別することはできない。


「 科学的関係 」は「 誰からも一定の関係 」とするため、個人の思想は無視され、無味乾燥の物体だけの知覚の関係であると思う。


「 科学的関係 」を成立させている「 知覚 」の方向を決定する「 心 」が不在の世界であり、死んだら終わりの世界であり、「 絆 」など、どこにも無いだろう。


「 マネー 」を「 自然物 」の法則で考えるのは、その方向を決定する「 心 」や「 思想 」を考えないことであり、「 金を儲けたら、後は知らない 」という、「 人間性 」を否定する考えである。


「 マネー 」には「 人格 」が無いというが、「 マネー 」の動きの影には、「 人間関係 」という「 関係 」が「 存在 」する。


「 リーマンショック 」の後、それに対して、何らかの措置があると思っていたが、感じられない。


経済学者は、何を勉強しているのか。


「 科学的関係 」の「 心的存在意識 」は、「 心的 」ということを否定することから始まる思想であり、ガリレオからも推察されるように、人間性、バイオリズムの否定であり、大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、などは、「 科学的関係 」で決定するのではなく、無意識に生きることのバイオリズムで決定するように、経済活動は、人間の生活を無意識に営むための「 関係 」であったはずである。


大国で、デモが起きているのは、無意識のうちに不安になる気持ち、「 今 」の中に、破滅への情(zyou)を感じるからだと思う。


いま、「 経済学 」を学ぶ人は、人間性、つまりバイオリズムや無意識を含んだ「 理論 」を造り直して、従来の「 物理 」の理論でなく、人が不足分を補い合う「 人間関係 」を「 存在 」として含む理論を構築すべきだと考える。
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2011年10月04日

2011/10/4、オカルト・迷走する自分8・永遠の関係2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/9/30、私の記事


私は、「 一定の関係 」を「 存在 」と考えるが、「 一定の 」というのは、意識的、無意識的に繰り返すことを想定している。


そのように考えるとき、「 存在 」は「 存在物 」であるとは限らない。


五感で知覚する物体だけを「 存在 」とは考えない。


五感のうちのひとつの感覚で、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」と、私は考える。


極端に言えば、繰り返す抽象的な数値の関係も、「 法則 」として存在し、その「 存在 」を信仰するのが、科学者であると思う。


私は、呼吸が決定する「 瞬間 」や「 今 」は、気(ki)であり、意識的な無意識であり、その中に、「 過去や未来 」を決定する無意識の情(zyou)を当然には含まないと考える。


情(zyou)は「 心 」として、「 欲 」として、「 小脳の無意識の可能性 」として、気(ki)が動作させる知覚器官の精神的な方向を決め、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトルを脳に感じさせると思う。


「 瞬間 」や「 今 」という気(ki)の中に、「 永遠 」を考え、永遠を時間と思うから、「 存在と時間 」を考えなければならない。


私は、「 瞬間 」や「 今 」の中に「 永遠 」はあるが、「 時間 」ではなく「 関係 」であると思う。


これまで書いてきたように、「 瞬間 」や「 今 」に充満するのは、「 遠近 」や「 強弱 」などのベクトル(力線)であり、誰にも同じ内容の「 時間 」ではない。


「 時間 」があるとすれば、それは個人の時間であり、心拍であり、身体のリズムであり、バイオリズムであると思う。


私は、呼吸から生じる「 瞬間 」や「 今 」の中には、「 永遠の時間 」ではなく、「 永遠の関係 」があると思う。


「 永遠の関係 」は、「 永遠の時間 」より範囲が広い。


「 永遠の時間 」は、永遠の未来であるかも知れないが、「 永遠の関係 」は、「 永遠の未来 」だけでなく、「 永遠の過去 」にも関連し、契機さえあれば、時間の制限を受けずに、「 永遠の過去 」が復活すると思うからである。


2011/10/4、私の考え


存在を、「 一定の関係 」とすれば、個人の「 心的存在保持意識 」は、個人が保持する「 関係 」ごとに、相違するだろう。


五感で知覚できる物体だけを「 存在 」と考えることは、科学的であるかも知れないが、「 死 」は全ての終わりとなるだろう。


科学的とは唯物論であり、呼吸が生み出す「 今 」や「 瞬間 」での、「 遠近 」や「 強弱 」のベクトル(力線)に左右させる世界であり、呼吸によって得られるエネルギーの領域であり、気(ki)の領域であり、ここには「 永遠 」という情(zyou)や思想は無い。


「 絵画 」について考えると、科学的関係というのは絵の具の種類やカンバスや色の濃淡であり、画家が絵の具の種類やカンバスや色の濃淡により、表現しようとした「 思想 」を判別することはできない。


「 日本庭園の石庭 」について考えると、科学的関係とは、石の有無であり、日本庭園の石庭で表現しようとした、石の配置による自然という「 思想 」を判別することはできない。


「 科学的関係 」は「 誰からも一定の関係 」とするため、個人の思想は無視され、無味乾燥の物体だけの知覚の関係であると思う。


「 科学的関係 」を成立させている「 知覚 」の方向を決定する「 心 」が不在の世界であり、死んだら終わりの世界であり、「 絆 」など、どこにも無いだろう。


「 科学的関係 」の「 心的存在意識 」は、「 心的 」ということを否定することから始まる思想であり、ガリレオからも推察されるように、人間性、バイオリズムの否定であり、法則が「 永遠の関係 」というだろうが、「 関係 」は人間性であり、法則が「 関係 」であるとは思わない。


法則は、人間の存在を前提とした「 因果関係 」であると考えたとき、「 永遠の関係 」があるかも知れない。


私が、「 存在 」を「 一定の関係 」としたのは、これから生じる「 心的存在保持意識 」を重視することを意図している。


世界中の誰もが「 心的存在保持意識 」を持ち、「 生活 」している。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、などは、「 科学的関係 」で決定するのではなく、無意識に生きることのバイオリズムで決定する。


大地や建築物が動かないこと、空気があること、夜と昼があること、自然は動かないこと、は自分と自然との関係であり、「 科学的関係 」で考えるのでなく、「 人類への恵み 」と考えるところに「 心的存在意識 」が生じ、人間から自然への「 感謝の気持ち 」が生じると思う。


「 存在 」を「 一定の関係 」としたことにより、知覚することが出来ない関係も、「 存在 」となり、繰り返す一定の関係が生じれば「 存在 」となるが、何を「 存在 」させるかは、個人の内面から生じるバイオリズムや情(zyou)次第となる。


個人の内面の「 心的存在意識 」の投影が「 存在 」であり、投影であるから、表現しようとした「 思想 」が絵画や音楽の中に存在し、「 思想 」の永遠性が「 永遠の関係 」であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 執着 」であるが、「 絆 」や「 連帯感 」を与えるため、捨て難い。


「 心的存在意識 」は、情(zyou)であり、過去と現在と未来を貫通し、個人の「 クオリア 」と「 集合的無意識 」が共通して持つ社会的連帯性の「 永遠 」を、個人の「 心 」の中に取得したとき、個人の「 永遠の関係 」になるのかも知れない。
posted by kandk55 at 04:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 33 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする