2011年11月28日

2011/11/28、オカルト・想像・バイオリズム・無明と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2010/12/22、私の記事


私は、「 可能性 」を個人の「 機会に対応する脳の働き 」と考え、能力は「 脳の力 」であり、それは「 脳 」の発生以来の経歴が、現在の「 可能性 」を形成すると考える。

バイオリズムと言われる「 身体 」や「 感情 」や「 知性 」などのリズムは、判明した生体のリズムであり、能力や「 脳の力 」は、未発見の無数のバイオリズムであると考える。

未発見の無数のリズムは、呼吸や心拍などの運動可能性であり、究極的には小脳の運動可能性だと思う。



2011/3/28、私の記事


宇宙の果ての、知る事が出来る事まで、「 小脳の運動可能性 」があるから、「 心 」が動く。


一般に、「 自分の能力 」に比べて、実現可能な仕事の範囲が「 可能性 」だと思われるが、私は、違う考えである。

「 能力 」とは、バイオリズムの一種だろうが、それは、「 主観的時間 」が決める「 現在 」という時制の中で、バイオリズムと意識で決められる、「 自己実現する範囲 」であり、それは「 実現する結果の想定 」であると思う。

この「 能力 」と「 可能性 」は別物である。

「 能力 」が、「 現在 」の局地的であり、「 絶対静止の座標 」を必要とするのに反し、「 可能性 」は、同じバイオリズムでありながら、「 発展的 」であり、「 能力 」が安定的で、DNAで構成させるならば、「 可能性 」は、不安定なRNAで構成されるだろう。

「 能力 」は「 粒子 」であり、「 可能性 」は「 波動 」であるかも知れない。

「 能力 」が「 欲望 」という個人的なバイオリズムであるのに反し、「 可能性 」は「 欲 」という人間一般の「 生命 」のバイオリズムだと思う。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えて、絶望して自殺は考えられるが、それは「 可能性 」を「 現在 」の「 欲望 」というバイオリズムと比較した判断であり、正等ではないと思う。

「 可能性 」は「 欲 」という生命力と比較した実現する範囲であり、生命力は「 生きる事 」を考えるが、自殺には導かない。

「 能力 」は局地的な個人の「 夢 」であり、「 能力 」に囚われた自分を否定して、「 自分の本当の欲 」と「 可能性 」を比較して、自己の「 欲 」を実現する。

「 可能性 」を「 能力 」から生じると考えるのではなく、バイオリズムである事は同じだが、「 可能性 」は「 欲 」であり、「 能力 」を破る。


2011/11/23、私の記事


以上の引用により、「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」であり、無意識やバイオリズムや遺伝子情報に連結する「 情(zyou)」であり、「 過去 」や「 未来 」に続き、誕生前の「 無明 」から死後の「 無明 」へ通じていると考える。


「 今 」や「 現在 」に無常の可能性として満されているのを、人情(ninzyou)や感情(kannzyou)や情報(zyouhou)に変換しているのが人間であり、希望や可能性があるのは、すべてが「 無常 」であるのが原因であると思う。




2011/11/28、私の考え


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


「 関係 」や「 可能性 」の多様性が「 無常 」であり、意識に属し、「 能力 」は「 自我 」の形成のための「 欲 」であり、無意識に属し、「 欲 」、「 無明 」を優先させることが「 絶望 」に導くと思う。



無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。



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2011年11月23日

2011/11/23、オカルト・想像・バイオリズム・人格7

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/8/20、私の記事


「 存在 」は、五感で確かめられる一定の関係であり、五感が無ければ、「 存在 」を確かめることが出来ない人もいれば、盲目のピアニストのように、眼で見えなくても「 存在 」を確かめることが出来る人もいる。


このことから、「 存在 」とは、「 存在感 」であり、自分の内部から「 感じること 」であり、神でも仏陀でも、信仰する自分の内部から湧き出る、彼らの「 存在感 」が無ければ、「 神はいない 」ことになる。


虚無主義といわれる人は、その人は、自分の内部から「 虚無的 」で、何事にも「 存在感 」が無い人であると思う。

いずれも、「 存在 」するか否かは、個人の胸の内にあり、「 存在感 」は瞬時に湧き出るもので、「 時間 」は不要である。


2011/10/22、私の記事

「 気(ki)」により伝達され、認識されるのは「 心 」という「 無意識 」であり、「 心的存在保持意識 」であり、人間は多少の差はあるが、すべて何かについての「 心的存在保持意識 」を持つと考える。



「 物質波 」と「 電磁波に似た構造 」は、前者が「 可能性 」で後者が「 現実性 」、前者が「 関係という存在 」で後者は、「 心的存在保持意識 」であり、両者の関係は、次のように考える。


「 関係 」の「 絶対値 」に、気(ki)である「 知覚 」から「 心的存在意識 」という「 意識 」が成立すると、現在では、考えている。


「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」


このことは、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」の、それぞれに成立すると考える。




「 関係の絶対値 」は、関係を絶対と考えなければ、現実生活が成立しないことから推測した。

2011/11/6、私の記事

「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


2011/11/8、私の記事

@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。



2011/11/10、私の記事


E

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。



2011/11/23、私の考え




以上の引用により、「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」であり、無意識やバイオリズムや遺伝子情報に連結する「 情(zyou)」であり、「 過去 」や「 未来 」に続き、誕生前の「 無明 」から死後の「 無明 」へ通じていると考える。


「 今 」や「 現在 」に無常の可能性として満されているのを、人情(ninzyou)や感情(kannzyou)や情報(zyouhou)に変換しているのが人間であり、希望や可能性があるのは、すべてが「 無常 」であるのが原因であると思う。



すべてが「 無常 」であるから、明日の「 希望 」が生まれ、「 夢 」が生まれる。



それと同時に「 無常 」であるから、「 すべてのものに感謝する 」気持ちが生まれる。


その「 感謝 」は、上記の引用の中のどこに位置するか。


それは、「 心的存在意識 」=「 知覚 」×「 関係の絶対値 」に位置すると思う。


関係の絶対値は、「 知覚して絶対に存在する 」と感じることと、「 知覚するものはすべて無常である 」ことの両者を同時に考えてこそ、「 今 」「 現在 」に存在するということが出来るだろう。

「 知覚するものはすべて無常である 」と考えることは、「 諦めること 」ではない。

「 無常であるから、感謝すること 」である。

 
心的存在意識を得るためには、両者を同時に考える必要があることだ。


「 知覚したもの 」という意識と、「 無常から生じる感謝 」という意識が必要で、心的存在意識から人格が生まれるとすれば、前者だけ持つか、両者を持つかで、「 人格 」も違う様相になるだろう。


私の考えでは、「 人生は無常が基本であり 」、「 無常 」であるから「 明日への可能性 」があり、「 夢 」があると思うから、人生が無常であり、「 無常 」が「 永遠 」の関係であるから、「 無常 」の方向に進むのが、人生の道だと思う。



「 人生は無常である 」とは、知識層の人たちが言う「 諦め 」ではなく、それと全く反対の方向で、「 日々が無常であり、人間の身体も無常であり、その無常に感謝しながら生きること 」である。


それは、「 諦めて 」「 絶望して 」自分から「 壁 」を作り、「 自愛的 」態度をとるのではなく、逆に自分の考えを否定し、社会の考えに従い、自分の人格を向上させることである。
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2011年11月20日

2011/11/20、オカルト・想像・バイオリズム・人格6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


2011/11/6、私の記事

以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。



2011/11/20、私の考え


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するとは、「 自分の思う通りに物事が進行すること 」であり、「 無為 」であり、理想的だろう。


一致しないとき、「 知覚したもの 」を絶対視する立場か「 関係の中で知覚すること 」を絶対視する立場とが別れ、前者が「 絶望すること 」であり、後者は「 無常と感じること 」であることは、「 人生は無常が基本 」のタイトルで書いた。


これにより、「 人格 」も、知覚したものを絶対視する「 絶望と希望 」の人格と、関係の中での知覚を絶対視する「 無常と感謝 」の人格の二つに別れると思う。


普通「 人格 」というのは「 絶望と希望 」の人格だろう。


これは、今まで書いたように、動物の肉を食べることにより、動物の霊が精神に浸透し、人間は「 六道 」のひとつに位置し、人格を向上させなけれは、「 人間という動物 」になるだろう。


「 知覚したもの 」を絶対視し、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、「 自分の思う通りに物事が進行する 」ように行動するから、科学の対象になるし、心理学の対象にもなるだろう。


物事が進行する社会から、「 絶望と希望の人格 」の人を見れば、極端的には「 人格障害 」や「 パーソナル障害 」と言う評価を受けるだろう。


「 自分の思う通りに物事が進行する 」ように行動するとは、自分を中心として物事を判断し、社会との壁を作り、自分の世界に逃げることである。


薬物による治療が必要な場合もあると思うが、最終的には、「 薬物や科学の力 」による解決ではなく、人格を向上させるという本人の自覚と精神的な努力が必要だと思う。


私はその方法のひとつとして、「 人生は無常が基本 」とういうタイトルで書いた、関係の中での知覚を絶対視する「 無常と感謝 」の人格に変換することを提案する。




人格障害(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%BA%E6%A0%BC%E9%9A%9C%E5%AE%B3
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2011年11月18日

2011/11/18、想像・「死中生有り、生中生無し」の解釈

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/4/17・考えた事



私は、上杉謙信について、詳しく知りません。
私は、次に掲載するURL を見て考えただけです。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)


直江兼続ー謙信の教えを胸に刻んで
http://www.tentijin.jp/2007/09/post-98.html



上杉謙信が49歳で死去する城の壁に次のような言葉が書いてありましたので、抜粋して引用します。

彼は、これを心意気として、記したものだと思います。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。

「大義名分」という言葉がありますが、「 義 」のために、死の戦場に赴けば、鬼も、神も、その気配に対して、退くと解釈します。

彼らが若い時は、少数の手勢で決死の「奇襲」を行いました。

その時の心意気は、「死中生有り」であるでしょう。

大国の領主になって、生きたいと、「 保身 」の気持ちで戦えば、多数の軍勢で戦っても滅びる。

それが「 生中生無し 」だと解釈します。


2011/11/10、私の記事

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。





2011/11/13、私の記事

「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。


2011/11/14、私の記事

これは、私の架空の物語である。


「 無常 」という自覚と「 無常の受諾 」の次に、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の設定を勧めようと思う。


「 無常 」という無意識の情(zyou)の関係に「 気づく 」ことにより、「 一定の関係 」として「 心的存在意識 」が出来るだろう。


その「 気づく 」ことにより、同時に「 感謝 」の気持ちが生じるだろう。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことに対する心の喜びを、相手に示すことだと思うが、私は、「 気づく 」ことから、「 感謝 」が生じると思う。


空気や水があり、生きてゆくことが「 有り難い 」というのが「 感謝 」であろうが、全てが「 無常 」で、恒常なものは無いと考えれば、現在、恒常と思われているものに囲まれて生活していると「 気づく 」ことにより、「 有り難い 」という「 感謝 」の気持ちになる。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことが原因で生じる感情であり情(zyou)であると思うが、私は、「 気づくことから生じる感情 」と解釈し、自分に不利益なことも「 気づく 」限り「 感謝 」の範囲内に入り、そうすることにより、「 全てのものに感謝する 」ことが出来ると思う。


「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の障壁となる困難なことも、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なことが「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的 」の方向の可能性を選択することが出来ると思う


2011/11/18、私の考え


「 死中生有り、生中生無し 」について。


「 目的 」を「 義 」とし、「 困難なこと 」を「 死 」とし、「 目的を達成すること 」を「 生 」として、上記の文章に代入します。

………………………………………

「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 ( 義 )」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的(義) 」の障壁となる困難なこと(死)も、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なこと(死)が「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的(義) 」の方向の可能性(生の可能性)を選択することが出来ると思う

………………………………………


知覚するもの(死)を絶対視すれば絶望になるでしょう。

知覚するものは「 無常 」であるという関係を絶対視します。


知覚するもの(死)は可能性であり、(生)にも変化する可能性である「 無常 」だと考えます。


知覚するもの(死)を目的の達成(生)には必要な「 試練 」であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、知覚するもの(死)が「 無常 」という恒常では無いという「 関係 」であるので、知覚するもの(死)を、「 目的(義) 」の方向の可能性(生の可能性)に変換することが出来るかも知れません。


「 死中生有り、生中生無し 」は、「 生死 」を「 無常 」と考え、「 死 」という状況を「 義 」という目的を達成するための「 試練 」と「 気づき 」感謝して受諾し、自分にとって損か得かの保身の価値観を捨てて「 義 」という目的への行為の過程が「 生 」であり、「 死 」から「 生 」への変換であり、「 生きること 」は「 無常 」であり「 生 」ではないというのが、私の現時点の考えです。
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2011年11月14日

2011/11/14、想像・人生は無常が基本3・目的

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の記事




「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。




2011/11/13、私の記事


「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。


2011/11/14、私の考え


これは、私の架空の物語である。


「 無常 」という自覚と「 無常の受諾 」の次に、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の設定を勧めようと思う。


「 無常 」という無意識の情(zyou)の関係に「 気づく 」ことにより、「 一定の関係 」として「 心的存在意識 」が出来るだろう。


その「 気づく 」ことにより、同時に「 感謝 」の気持ちが生じるだろう。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことに対する心の喜びを、相手に示すことだと思うが、私は、「 気づく 」ことから、「 感謝 」が生じると思う。


空気や水があり、生きてゆくことが「 有り難い 」というのが「 感謝 」であろうが、全てが「 無常 」で、恒常なものは無いと考えれば、現在、恒常と思われているものに囲まれて生活していると「 気づく 」ことにより、「 有り難い 」という「 感謝 」の気持ちになる。


「 感謝 」は、自分の利益になることを施されたことが原因で生じる感情であり情(zyou)であると思うが、私は、「 気づくことから生じる感情 」と解釈し、自分に不利益なことも「 気づく 」限り「 感謝 」の範囲内に入り、そうすることにより、「 全てのものに感謝する 」ことが出来ると思う。


「 無常 」と「 無常の受諾・感謝 」と「 目的 」と並べば、自分の命をかけても達成すべき「 目的 」の障壁となる困難なことも、目的の達成には必要であると「 気づく 」ことにより、「 感謝 」が生じ、困難なことが「 無常 」という「 関係 」であるので、「 目的 」の方向の可能性を選択することが出来ると思う。


これは、マイナス思考を克服する方法だと、私は思う。




マイナス思考(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%82%B9%E6%80%9D%E8%80%83

船井幸雄の造語。古くは「心配性」「取り越し苦労」などとも呼ばれたが、行動を起こす前に否定的な結論を出したり、想像をめぐらせたりして内向的になりやがて自己否定につながってゆく。多くは一つの失敗から、またこの次も失敗するだろうと考え、自分は何をしてもだめなんだ、どうせやってみても無駄だろうと脳内において負の連鎖が起こり何事にも消極的になる。原因は生まれつきの性格や小児期における親のしつけや教育、友達からのいじめや喧嘩などのなかで、否定的な思考を植え込まれたケースなどが考えられるが、最近の脳生理学的な研究によりセロトニンという脳内物質の不足との関係が指摘されている

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2011年11月13日

2011/11/13、想像・人生は無常が基本2・受諾

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の記事




「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。


「 情(zyou)」を含まない「 今 」、「 現在 」に、「 無常 」という社会的関係は満ちていて、その「 無常(muzyou) 」という情(zyou)に対して自分の可能性を具現化する手段として「 逃避 」「 対決 」「 受諾 」の態度があると思う。


「 逃避 」は、無常を考えず娯楽などで気持ちを紛らわすことであり、「 対決 」は無常を否定することだろうが、これらは「 目に見えるものだけが客観的である 」という態度であると思う。



「 逃避 」する生き方に自分の可能性を発見するか、「 対決 」する生き方に自分の可能性を発見するかは自由だが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するのが最も望ましいと思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、人生は「 無常 」から、逃れることは出来ないからだ。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


生きる限り無常であり、全てが無常であると思う。


2011/11/13、私の考え


「 無常を受諾する 」とは、「 諦めること 」ではない。


人間の存在自体が、「 常でないこと 」、すなわち「 無常 」であることの受諾である。


「 今 」「 現在 」という気(ki)の中で「 知覚されたもの 」には情(zyou)は無いが、無常は可能性として意識に現れる。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果であり、新陳代謝がなければ、進展や発達は無い。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


今日の自分は明日の自分ではない。


「 無常 」を受諾することは、明日の自分は今日の自分ではないことを期待することが出来ることである。


「 無常 」という可能性を持っていることに感謝することが、「 無常 」を受諾する動機になると思う。
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2011年11月12日

2011/11/12、想像・人生は無常が基本1・無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/10、私の記事


ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。




2011/11/12、私の考え


科学や哲学が、体系の姿をして、絶えず崩れる根底には、「 無常 」という「 関係 」が存在するからだと思う。


私と物体との間が不変であると思えても、地球規模では自転する地球の上の出来事であり、それを宇宙規模でいえば「 太陽系 」が宇宙の中を動き、しかも宇宙自体も膨張していることを考えると、地球上の全ては運動の観点から相互に運動している。


エネルギーの観点からは、人間の全てが新陳代謝をして、観察者の全てが変化している。


この、「 常でないこと 」「 無常(muzyou)」という関係、すなわち情(zyou)の上に、科学や哲学が成立していることが原因で、体系が崩れるのだと思う。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であるが、これは、「 知覚することが出来るもの 」だけでなく、目には見えない背後の関係を加えて知覚することである。


「 背後の関係 」とは目に見えるものだけでなく、目に見えるものが存在する状況を、意味を知ることである。


事物の「 存在 」は、「 一定の関係 」であり、「 恒常なもの 」ではない。


「 無常 」は「 恒常ではないこと 」と解釈し、「 無常 」を真剣に考えたほうが良い結果が生まれると思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは、「 時間 」ではなく、「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、「 時間の終わりである死 」を考えて生きる必要はない。


「 死 」を考えずに、「 無常 」を自覚して生きれることで、「 死 」を考えることと同じ効果を得られると思う。


「 無常 」を真剣に考えるなら、自分が「 今 」、何をすべきか、わかると思う。


短い「 人生 」の中で、自分が何を為すべきかを。


「 情(zyou)」を含まない「 今 」、「 現在 」に、「 無常 」という社会的関係は満ちていて、その「 無常(muzyou) 」という情(zyou)に対して自分の可能性を具現化する手段として「 逃避 」「 対決 」「 受諾 」の態度があると思う。


「 逃避 」は、無常を考えず娯楽などで気持ちを紛らわすことであり、「 対決 」は無常を否定することだろうが、これらは「 目に見えるものだけが客観的である 」という態度であると思う。



「 逃避 」する生き方に自分の可能性を発見するか、「 対決 」する生き方に自分の可能性を発見するかは自由だが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するのが最も望ましいと思う。


なぜなら、「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)であり、人生は「 無常 」から、逃れることは出来ないからだ。


「 無常 」は細胞の新陳代謝が与える結果と思うが、まさしく「 生きること 」が「 無常 」であると思う。


生きる限り無常であり、全てが無常であると思う。


「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方に自分の可能性を発見するとは、「 諦めること 」ではない。


日本語の辞書で調べれば「 無常とは諦めること 」かも知れないが、「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方は、それとは、全く反対方向の生き方である。


「 諦める人 」は、「 逃避する人 」であり、無常を真剣に考えない人だと思う。



私が考える「 受諾 」、すなわち、無常を受け入れる生き方は「 無常を感謝すること 」から始まるが、これは、後日、書くことにする。

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2011年11月10日

2011/11/10、想像・絶望と無常2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/11/8、私の記事



以上の考えにより、私は、次のように考える。


@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。



2011/11/10、私の考え



私は、これまで次のように書いてきた。



@

無意識や小脳の可能性というのは、バイオリズムという「 情(zyou)」であり、「 意識 」には「 心的存在意識 」として現れるだろう。


A

心的存在意識を、「 今 」、自分の可能性の方向に取捨選択するのが「 価値観 」であり、「 人格 」だろう。


B

心的存在意識は「 関係 」であり、「 知覚したもの 」ではないから、見えるものだけでなく、関係も考える必要がある。


C

「 今 」「 現在 」は気(ki)であり、呼吸で決められ、「 今 」の中に「 過去や未来 」を決める情(zyou)は、未来への可能性という「 心的存在意識 」や「 関係 」として現れる。


D

「 今 」「 現在 」の中に、「 永遠 」なのは「 時間 」ではなく「 関係 」である。




E

ここで、上記の記事により、「 今 」「 現在 」で「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることであり、「 知覚した現状は、必ず変化すること 」と考えることである。


「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのは「 意識 」であり「 絶望 」に進展するだろう。


「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」、つまり「 意識 」だけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」である。


「 今 」「 現在 」において「 永遠 」であるのは「 無常(muzyou) 」という関係の情(zyou)である。

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2011年11月08日

2011/11/8、想像・絶望と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/11/6、私の記事



以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、自分が正当で他者が間違っていると考えるのではなく、一致しない原因は自分の中にあることの自覚が必要だろう。

2011/11/8、私の考え



以上の考えにより、私は、次のように考える。


@絶望

「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視すること
により「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、これを「 絶対視 」するのが「 絶望 」であると思う。


社会的一般常識では、これが、「 諦め 」となり、「 無常 」というのかも知れないが、私は、「 無常 」については違う見解である。



A無常


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


「 関係の中で知覚する 」とは、「 知覚したもの 」を「 絶対視 」するのではなく、自分が変われば相手も変わると考えることである。


「 知覚した現状は、必ず変化すること 」であり、「 絶対静止 」が「 頭 」の中にしか無いように、「 絶対に変わらない 」と思うのは、「 頭の中 」だけであり、万物は流転するのが基本的な考えであると思う。


実際、「 今 」静止していると観察されても、地球規模、あるいは宇宙規模では「 動いている 」のであり、学問的な要請で、静止していると精神で規定しただけである。


「 関係の中で知覚する 」あるいは「 関係であることを絶対視する 」ことが「 無常 」であると、私は考える。


Bこれからの方法


生きるためには、「 今 」の中に、関係は無数に存在し、それが永遠的な関係も含まれるから、ひとつの可能性を絶対視して絶望するのではなく、他の関係も探すことが必要だろう。


ただし、その「 関係 」は無意識(バイオリズム)であるから、個人の内部に存在し、その個人しか発見できないと思う。

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2011年11月06日

2011/11/6、オカルト・想像・バイオリズム・人格5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/10/23、私の記事

ネット情報で「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」というバイオリズムが、周期を持って、現実の行為に影響すると解釈するが、私は、違う見解である。


バイオリズムは周期を持つかもしれないが、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」は、現実の行為に、同時に現れていると思う。


順番に、好調時や不調時が行為に現れるのではなく、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のそれぞれの「 心的存在意識 」が、同時に現実の行為に現れ(無意識が具現化し)、その「 心的存在意識 」の強弱により、好調時や不調時が決まると思う。



人格は、行為の中に、無意識に現れる人間性だと思うが、以上の観点から、見解を変えようと思う。



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



2011/10/29、私の記事

「 心的存在意識 」は「 気持ち 」であり、「 フィーリング 」であり、「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムを、「 知覚 」×「 関係の絶対値 」で実体化することであると思う。


人間は、行動するために「 関係の絶対値 」(これが絶対だという思い込み)が必要であり、「 知覚 」することにより、「 心的存在意識 」を持ち、それを「 言葉 」にして伝達するのだと思う。


「 関係の絶対値 」は、関係という情(zyou)を、「 今 」「 現在 」の「 行為 」のエネルギーとして実体化することであり、関係が消滅したことではない。


行為のときの「 心的存在意識 」を統合し、消滅せず「 未来 」を生む「 関係 」や情(zyou)が「 人格 」であると思う。


「 心的存在意識 」を統合し、行為するのは類型化され、科学の対象となるかも知れないが、「 人格 」は「 教育すべきもの 」であるが、科学の対象ではない。


2011/11/6、私の考え



以前にも書いたが、「 心的存在保持意識 」は、「 フィーリング 」であり「 気持ち 」であり、「 気分 」であると思う。


人類の全てが「 気持ち 」や「 気分 」を持ち、それが「 心的存在保持意識 」であると思う。


「 気分 」は、個人の「 バイオリズム 」や「 欲 」を、「 何かの関係 」を絶対視することにより「 今 」「 現在 」の気(ki)の中に、「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致させることを前提としていて、一致しないから、「 気分 」を知覚すると思う。


「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないのが、「 気分 」であり「 気持ち 」であり、一致するときは「 無意識 」(バイオリズム)による行為として具現化していて、「 気分 」として知覚しないと思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致するときは、考えるという意識が生まれない。


「 何かの関係 」を絶対視すること、つまり「 知覚 」×「 関係の絶対値 」の内容は個人に委ねられていて、「 知覚 」した物体を絶対視するのか、「 関係の中で知覚すること 」を絶対視するのかを、想像した「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、選択するが、私は、後者の「 絶対視 」が正当であると思う。


一致しないのは、自分の「 欲 」が、「 知覚 」した物体でないことだが、一致しない原因は、他者や物体が原因ではなく、自分の「 欲 」が関係の具現化として相当でないことが原因であると考えることが「 関係の中で知覚すること 」であると思う。


自分の「 欲 」が「 未来 」への可能性という想像した情(zyou)に一致しないとき、自分が正当で他者が間違っていると考えるのではなく、一致しない原因は自分の中にあることの自覚が必要だろう。


私のブログの考えが、読者の伝わらないのは、私が原因である。
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2011年11月04日

2011/11/4、オカルト・想像・バイオリズム・人格4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/10/23、私の記事



無意識とは「 身体のリズム 」と「 感情のリズム 」と「 知性のリズム 」のバイオリズムであり、それぞれを具現化した「 心的存在意識 」や「 心的存在意識 」と成っていない無意識が、行為に現れ、それを統一する「 力 」やエネルギーが「 人格 」だと思う。


2011/10/30、私の記事


「 人格 」は無意識でなく、「 今 」の行為を統御するエネルギーであり、「 気(ki)」であり、エネルギーであるから、「 意識 」の中では、無意識だと判断されると思う。



「 知覚 」×「 関係の絶対値 」(絶対静止を考えなくては運動は判別することが出来ない)により得られた「 心的存在意識 」を、呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に充満している自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」というエネルギーであり、その結果、社会に表現されるのが「 人格 」であると、現時点では考える。


「 価値観 」はエネルギーであるから、「 無意識 」であるように思うが、意識により「 人格 」から「 文化 」に、逆に「 文化 」(社会)から「 人格 」に、個人の「 無意識 」(クオリア)と集合的無意識と交流する事を、「 往来する 」と考え、社会的であり、意識によって変容は可能であり、「 価値観 」や「 人格 」は、「 情(zyou)」でありバイオリズムであると思うから少しは科学により類型化されるかも知れないが、「 欲 」であるから科学で全てを判定することは出来ないと思う。


2011/11/4、私の考え


呼吸で決まる「 今 」「 現在 」に、情(zyou)であるバイオリズムが「 心的存在意識 」として具現化し、それを自分の「 未来への関係 」の方向に向かって選択するのが「 価値観 」であり、その全体が「 人格 」であると、現時点では考える。


前者は「 無意識 」であり、「 流れる物 」であり、「 神経科学 」の類型の領域であるだろう。

後者は「 意識 」であり、「 派生する物 」であり、「 精神科学 」の類型の領域であるだろう。


この二つが、個人的な「 心的存在意識 」や「 価値観 」を通じて連結し、「 今 」「 現在 」の行為として表現されるのが「 人格 」だろう。


自分では統御できない、バイオリズムから生じる「 心的存在意識 」と、社会的で、教育が可能で、自分で統御できる「 価値観 」が、「 今 」「 現在 」に混合しているのが「 人格 」であると思う。

両者が、根本的には、個人の「 欲 」であり、個人が持っているエネルギー次第である点で、「 科学 」の領域ではないと思う。



DNAや細胞で、「 人格 」が判明するのではなく、本人の「 意識 」で、「 人格 」が判明するのでもないと思う。

以前に書いたが、「 霊魂 」で、自分の「 未来への関係 」の方向に向かうエネルギーであるかも知れない。


「 人格 」は社会的であると同時に、個人の「 命 」の方向の問題でもあり、個人全体が他者に与える「 自分の存在意識 」であると、現時点では考える。


夫婦や友人関係でも、「 人格 」に対して、個人的には尊厳や信頼、社会的には人権や「 愛 」を認めることが正当であるだろう。

posted by kandk55 at 03:44| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 34 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする