2011年12月31日

2011/12/31、想像・人格・無明と無常6

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の記事


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、「 可能性 」となり、「 個性 」や「 性格 」や「性癖 」という実体となるから、それを科学的、類型的に考えることが「 心理学 」だろう。



2011/12/31、私の考え



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、無意識により「 実体 」を作ると思う。


反対から言えば、「 一定の関係 」が習慣により「 実体化 」していれば、「 テリトリー 」や「 心 」などの目に見えない「 関係 」も「 存在 」であり、「 文化 」であり「 人格 」の現れであると思う。


それが、「 全ては心の中から生み出されたもの 」であり、実体化する全ての原因は自分の中にあると思う。


「 実体化 」とは知覚できるほどの大きさにデフォルメして表現したもので、例えば、絵画や音楽や思想であるだろう。


「 実体化することが出来ない無意識 」、情(zyou)に現せることが出来ないものは、気(ki)として具現化する。


それが「 雰囲気 」であるだろう。


以前、書いたように気(ki)は、「 無明 」であり、エネルギーであり、情(zyou)は「 無常 」という関係だろう。


エネルギーは無意識を生むから「 実体化 」する「 力 」であり、「 無明 」であり、「 力 」の均等化がエントロピーの増大の結果である「 無常 」という関係であれば、「 無明 」と「 無常 」は「 一定 」という認識可能なデフォルメされた「 認識の形 」の差異があるだけで、無意識で連結していると思う。


実体化する力を持つのが耳や目という認識器官であり、存在の認識器官ではないと思う。


耳で聞こえるから存在するのではなく、耳で自分の中に「 心的存在意識 」を作るだけであり、「 観音 」とは「 耳で聞こえる音を目で見る 」のではなく、「 観る 」と「 見る 」の言葉の違いから、前者の「 心で観る 」ことであり、後者の「 目で見る 」のではない。


見たり聞いたりするときの「 心的存在意識 」の形成力を「 観音様 」というのだと思っている。


「 観音様 」は外部に居るのではなく、自分の認識力の中に居ると思うので、私は、「 観音様 」が外部に存在することを信じない。


これは、私だけの考えであり、日本人や知識人一般が考えたことではない。
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2011年12月30日

2011/12/30、想像・バイオリズム・人格・信じること

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の考え


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。



自分の内部の「 関係 」、つまりバイオリズムや遺伝子情報を外部に当てはめたとき、「 可能性 」となり、「 個性 」や「 性格 」や「性癖 」という実体となるから、それを科学的、類型的に考えることが「 心理学 」だろう。


実体化する無意識を心理学で分析することは出来ても、人間には意識があるから、意識により種々の「 関係 」を結ぶことが出来て、その結果、「 人格 」が変わることがある。


「 宗教 」を選んで変わることである。


「 宗教 」は「 信じること 」が必要だが特別なことではない。


全てが無常であるため、人間は全て何かを信じて生きていると思う。


「 信じること 」は「 それを行動基準として行為すること 」であり、「 お金 」を信じる人はお金を「 絶対視 」し、お金を得るために行動する。


「 知覚するもの 」を絶対視すれば、「 知覚するもの 」の数だけ「 信じること 」があり、人格は「 信じるもの 」の塊になるだろう。


「 知覚するもの 」の中に「 時間 」を加え、「 時間 」や「 人間 」を絶対視すれば、人間は死んだら終わりで、キリストや仏陀は、永遠に出現しない。


しかし、人間は関係を実体化した姿であり、関係次第で人間が出現すると考えるとどうだろう。


キリストや仏陀は、人格の完成者であり、(無常との)関係や条件を完成すれば、「 時間を超えて 」出現するかも知れない。


キリストや仏陀という「 人間 」を考えると二度と出現しないが、「 人格は関係の塊 」であると考えると、人格の完成者がキリストとして、仏陀として将来、出現する可能性がある。


聖書や仏典に書かれているとおりのことを行為することが「 神の子 」として行為することであり、信じることであり、それは人類の全てに「 可能性 」として残されていると思う。
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2011年12月24日

2011/12/24、オカルト・想像・人格・無明と無常5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の考え


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


@とAを同時に実現しているのが人間で、@は精神面で、Aは身体面であると考える。


@をAの方面に考える。

「 生・老・病・死 」は、頭でいろいろと考えるから不安になるのであり、生きることはエントロピーが増大するのに任せ、老いることは老いてから考え、病気は病気になったら考え、死のことは人間はみんな死ぬから死ぬ心配をしないと考えると、「 不安 」にならないだろう。


しかし、共産主義になっても「 苦 」が無くならないように、「 衣・食・住 」が満たされ、何も考えずに生きるだけでは、人格は向上しないだろう。


死ぬ間際になって、「 自分は何をするために生まれて来たのだろう 」などと疑問を持つだろう。

Aの身体は、医学に任せるが、それだけでは人格は向上しないだろうし、「 無明 」から抜け出すことは困難であると思う。


「 自分は何をするために生まれて来たのか 」を考えるのが、「 人格 」や「 霊性 」を考えることであり、考えることにより、「 無明 」から少しだけ向上することになると思う。


「 革命のために生まれて来た 」というかも知れないが、人として生まれた目的には、あまりにも小さいと思う。


革命は「 人間性を開放すること 」であり、ガンジーのように自分が豊かな人格者になることが、他者にも影響を及ぼすと思う。


Aは、医学や科学に任せるが、@については、個人が自分のバイオリズムや無意識や遺伝子情報も考えて、「 いかに生きるか 」を考える必要があると思う。


そこに、「 心的存在意識 」や信仰など、「 意識 」は働く余地があると思う。

それは、後日。
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2011年12月18日

2011/12/18、オカルト・想像・人格・無明と無常4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2011/12/17、私の考え


ここで、もうひとつの「 知覚したものを関係と見る 」方法を採用すれば、どうなるのだろう。


「 知覚したものを関係と見る 」ことは、「 無常 」を真実と考え、「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないことであると思う。


無明や無常は、社会を見て感じることではなく、自分自身が持っている無明と無常を社会に投影したものだと思う。


無明は、「 今 」という時制や実体を決める無意識や意識の全部であり「 気(ki)」であり、無常は自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝であり、「 情(zyou)」として「 小脳 」に伝達されると思う。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は「 無常 」であり、これに逆らって考えると「 苦 」が生じる。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は、エントロピーの増大で、上記の「 科学的な考えの人 」のように、自我が解体して、無秩序の状態になるだろう。


この考えでは、人格も道徳も向上しない。


「 知覚したものを関係とみる 」のは、「 知覚したもの 」を「 実体 」とみることでは無い。



「 知覚したものを関係とみる 」とは、「 関係の中の知覚 」であり、関係や条件が全てであり、関係や条件さえ整えば「 苦 」が生じ、関係さえ整えば「 苦 」は消滅すると考え、「 今 」が「 無常 」という無数の可能性の充満と考え、「 今 」がある限り「 無常 」とういう可能性があると考え、「 無常 」であるからこそ、生きている限り「 今日 」とは違った「 明日 」があり、関係や条件が整うと違った可能性があるという希望が湧くだろう。



全ての関係は、自分の中にあり、外部に当てはめているのは自分であると自覚することが、人格や道徳の向上への、「 第一歩 」だと思う。


「 今 」の関係や可能性を具現化しているのが「 人格 」であり、エネルギーであり、気(ki)であり、無常に「 一定の関係 」を当てはめて「 実在化 」しているのが、自分の無意識、「 無明 」であり、絶え間ない実在化が、無常に従う態度であると思う。

崩れても、崩れても、「 一定の関係 」を作り続けるのが、無常に従う態度だろう。


2011/12/18、私の考え


これは、フィクションであり、私だけの考えです。


上記のように、人間は「 無明 」であり「 無常 」であるならば、次のように考える。


私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


これは、「 衣、食、住 」という欲求が満たされていても満たされない状態でも現れる一般的な事実であり、共産主義や資本主義の区別なく現れる事実であり、真実であるかもしれない。


「 人格 」はバイオリズムで決まることもあるだろうが、「 欲 」であり気(ki)に属するだろう。


「 人格 」は、現在で問われる「 無意識 」や「 欲 」であり、気(ki)であり、「 自分 」という個体を形成し、遺伝子情報として未来へ続くが、「 人格 」は死亡と共に消滅する。


これは余談だが、「 心 」は「 無明 」であるから、価値判断や「 何を見るのか 」や「 何を聞くのか 」という「 実体 」を形成するとき、その人の「 人格 」や「 無明 」が現れると考える。

無常の「 関係 」をバイオリズムや遺伝子情報から生じる無意識で「 実体 」とするからである。





無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。

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2011年12月17日

2011/12/17、オカルト・想像・人格・無明と無常3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/28、私の記事


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。

2011/12/4、私の記事


これは、私だけの考えであり、私のブログの結果であり、私のフィクションである。




「 無明 」は「 欲 」であり、生命であり「 無意識 」であるから、「 実体 」を決定すると思う。


「 無常 」は「 関係 」であり、「 自分の実体も相手の実体も変化し流転する 」という意識だと思う。


すべてが無常であり、「 無明 」が「 無常 」であるとは、「 生命 」自体が「 無常 」であり、「 自我 」という「 欲 」や「 無意識 」で決定する「 実体 」は無くすべては流転する関係であると思う。


自分の身体の細胞は、新陳代謝し、無常であるし、見るもの聞くもののすべてが無常である。


実体が無いというのは、無意識で「 実体 」を決定することが間違いであり、「 実体 」を決定することが出来ないことである。


「 存在 」は「 一定の関係 」であり、「 五感 」で感じる物体では無いことが、私のブログの結果である。


「 自我 」という「 実体 」があると考えるのは、上記のネット情報によれば「 四顛倒(してんどう=さかさまな見方)」であるということだろう。



意識や無意識は、以前に書いたように、過去や未来と現在という時制を決め、無意識が決める「 現在 」の中の無数の可能性が「 無常 」という関係として現れ、自分の可能性として具現化するのが「 人格 」であり、「 能力 」や「 個性 」であるが、それは「 無明 」であるだろう。


すべては無常だから、「 物体 」は知覚の中では、可能性を具現化した「 一定の関係 」として残ると思う。



2011/12/17、私の考え


これは、私だけが考えるフィクションであり、日本人一般の考えでもなければ、仏教の教えでも無い。


上記から、人間は無明であると同時に無常であると思う。


人間は無明から、抜け出せないと思う。


「 われわれは、どこから来たのか。われわれは何者か。われわれはどこに行くのか 」という西洋の言葉を、わたしは、それは「 人間が無明である 」と同じ意味に解釈する。


「 考えること 」は、言葉で過去や未来を予想する。


「 知覚したもの 」を絶対視すると、すべてのものが無常(恒常なものは無い)であることを考えると、「 不安 」になるだろう。


それは、「 欲 」による「 実体 」を予想して、不安になると思う。


このとき、「 無常 」であることを考えないと不安は消滅するだろう。


「 無常 」が「 真実 」であり、それに対して「 無知 」な人も、あるいは、知ってはいるが避けている人も、不安は消滅するかも知れない。


それは、「 自分が如何に考えようが、世の中は成るようにしかならない 」という自分の考えの放棄や「 諦め 」であり、それは結局は、原因を社会に求めたり、自分の能力に求めたり、「 決定論 」に賛成する「 科学的な考えの人 」だろう。


それは、共産主義と同じく、人格や道徳の向上にならないことは前述した。


ここで、もうひとつの「 知覚したものを関係と見る 」方法を採用すれば、どうなるのだろう。


「 知覚したものを関係と見る 」ことは、「 無常 」を真実と考え、「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないことであると思う。


無明や無常は、社会を見て感じることではなく、自分自身が持っている無明と無常を社会に投影したものだと思う。


無明は、「 今 」という時制や実体を決める無意識や意識の全部であり「 気(ki)」であり、無常は自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝であり、「 情(zyou)」として「 小脳 」に伝達されると思う。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は「 無常 」であり、これに逆らって考えると「 苦 」が生じる。


自然界に共通な「 細胞 」の新陳代謝は、エントロピーの増大で、上記の「 科学的な考えの人 」のように、自我が解体して、無秩序の状態になるだろう。


この考えでは、人格も道徳も向上しない。


「 知覚したものを関係とみる 」のは、「 知覚したもの 」を「 実体 」とみることでは無い。



「 知覚したものを関係とみる 」とは、「 関係の中の知覚 」であり、関係や条件が全てであり、関係や条件さえ整えば「 苦 」が生じ、関係さえ整えば「 苦 」は消滅すると考え、「 今 」が「 無常 」という無数の可能性の充満と考え、「 今 」がある限り「 無常 」とういう可能性があると考え、「 無常 」であるからこそ、生きている限り「 今日 」とは違った「 明日 」があり、関係や条件が整うと違った可能性があるという希望が湧くだろう。



全ての関係は、自分の中にあり、外部に当てはめているのは自分であると自覚することが、人格や道徳の向上への、「 第一歩 」だと思う。


「 今 」の関係や可能性を具現化しているのが「 人格 」であり、エネルギーであり、気(ki)であり、無常に「 一定の関係 」を当てはめて「 実在化 」しているのが、自分の無意識、「 無明 」であり、絶え間ない実在化が、無常に従う態度であると思う。

崩れても、崩れても、「 一定の関係 」を作り続けるのが、無常に従う態度だろう。



これは、間違いであるかも知れない。
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2011年12月06日

2011/12/6、オカルト・想像。バイオリズム・人格8

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/12/4、私の記事

「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


2011/12/6、私の考え


カール・マルクスは共産主義の考えを示したが、これは商品を「 知覚した物体 」として見るのでなく、商品の中に「 見えない物 」として、人と人の搾取関係があることを示したもので、私は評価する。


「 知覚した物 」を絶対視するのではなく、「 知覚した物の関係 」を絶対視することは「 無常 」の観点からは、賛成だが、その認識も「 無明 」を解決しなかった点で、不満である。


人間は「 無常 」であると共に「 無明 」でもある。


共産主義を標榜する国は、神に代わって人間の手で理想郷を作ることを目的とするだろうが、人間の「 無明 」、「 欲 」や「 無意識 」「 道徳 」を向上させることは出来なかった。


それは、現在の共産主義を標榜する国の「 道徳 」を見れば、一目瞭然である。


「 衣 」「 食 」「 住 」が足りても、「 道徳 」や「 人徳 」は、昔から全く進歩していない。


「 Man shall not live by bread alone. 」


日本では「 武士は食わねど高楊枝(takayouzi)」といって、「 武士は貧しさで食物を買って食べることが出来なくても、満腹を装って楊枝(youzi)を使うものだ。武士は生活に窮しても不義は行わない 」という言葉がある。


「 意識 」と「 無意識 」の区別がないのが「 エントロピーの増大 」で「 無常 」であり、真実であるかも知れないが、「 人として在るべき姿 」に拘ることが「 執着 」であっても、私は、捨てることが出来ない。


私は、そこから、「 心的存在意識 」が生まれてくるのだと思っている。


「 心的存在意識 」が「 執着 」であり、「 欲 」であり、捨てることが必要でも、それが出来ないから、人間の意識や無意識や命の底には「 無明 」があり、釈迦も、その存在を認めていて、いかに捨てる努力が必要であるかを教えているのだと思う。


共産主義になっても、「 無明 」が消滅し、道徳が向上するとは言えない。


物に対する欲を捨てて、「 足るを知る 」努力が必要で、それが「 道徳 」や「 人格 」を向上させるだろう。

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2011年12月04日

2011/12/4、想像・オカルト・バイオリズム・無明と無常2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/11/28、私の記事


上記により、「 小脳の可能性 」は「 心 」であり、「 生命 」であり、「 欲 」であると思っていたが、これは、「 無明 」であり、人間自体が「 無明 」であり「 無常 」であると思う。


私は仏教を学んではいないのでネット情報で考えるので間違いであるかも知れない。


「 無明 」は「 迷い 」で「 苦 」の原因であるという。

「 真実 」を知らない「 欲 」であるから、「 迷う 」と思う。

「 真実 」を「 無常 」と解釈すると、「 無常であるのに、恒常であると欲する 」ことが「 無明 」だろう。


「 無明 」は、何が原因か判明しない「 欲 」だと考えると、「 無明 」は、「 小脳の可能性 」や「 心 」であり、「 生命 」であり、エネルギーであり、「 今 」「 現在 」という時制を決め、可能性を選択する「 力 」というエネルギーであり、気(ki)であり、意識の前提となる無意識であり、「 自我 」を形成する「 能力 」であると思う。


「 無常 」を「 恒常でないこと 」と解釈することは、西洋でも「 万物は流転する 」というから、これは真実かも知れない。


万物は流転する可能性を持つことを認めるのが「 無常 」であり、「 知覚したもの 」を絶対視することは「 無明 」であり、「 欲 」であると思う。


これは、「 自我 」を作るために必要かも知れないが、「 無明 」であるから「 自己中心的な考え 」であり、「 無常 」と「 感謝 」と「 生きる目的 」を知り、新たな「 人格 」を形成するためには、捨てなければならないだろう。


「 無常 」は、意識するから認識することだと思う。


「 無明 」を「 無常 」と意識することは、「 自我 」を「 恒常でない 」と自覚することで、「 自我 」を形成する「 能力 」が「 恒常でない 」ことであり、「 知覚したもの 」を絶対視しないこと、「 知覚したものを関係とみること 」だと思う。


「 関係 」が誰にとっても一定であるとき、「 存在 」というのであり、無機物や理論であることは問わない。

「 関係 」は「 可能性 」であり、「 欲 」である「 無明 」とは別物だと思う。


「 関係 」や「 可能性 」が、「 今 」「 現在 」に自分で判断することが出来ないほど存在するのを「 無常 」と言い、自分で判断することが出来ないほど存在する「 可能性 」を自分の「 力 」、「 能力 」で「 選択 」することが「 無明 」であると思う。


「 関係 」や「 可能性 」の多様性が「 無常 」であり、意識に属し、「 能力 」は「 自我 」の形成のための「 欲 」であり、無意識に属し、「 欲 」、「 無明 」を優先させることが「 絶望 」に導くと思う。



無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。
仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。



無常

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E5%B8%B8

無常(むじょう、Skt:anitya)は、この現象世界のすべてのものは生滅して、とどまることなく常に変移しているということを指す。釈迦は、その理由を「現象しているもの(諸行)は、縁起によって現象したりしなかったりしているから」と説明している。

釈尊が成道して悟った時、衆生の多くは人間世界のこの世が、無常であるのに常と見て、苦に満ちているのに楽と考え、人間本位の自我は無我であるのに我があると考え、不浄なものを浄らかだと見なしていた。これを四顛倒(してんどう=さかさまな見方)という。


2011/12/4、私の考え


これは、私だけの考えであり、私のブログの結果であり、私のフィクションである。




「 無明 」は「 欲 」であり、生命であり「 無意識 」であるから、「 実体 」を決定すると思う。


「 無常 」は「 関係 」であり、「 自分の実体も相手の実体も変化し流転する 」という意識だと思う。


すべてが無常であり、「 無明 」が「 無常 」であるとは、「 生命 」自体が「 無常 」であり、「 自我 」という「 欲 」や「 無意識 」で決定する「 実体 」は無くすべては流転する関係であると思う。


自分の身体の細胞は、新陳代謝し、無常であるし、見るもの聞くもののすべてが無常である。


実体が無いというのは、無意識で「 実体 」を決定することが間違いであり、「 実体 」を決定することが出来ないことである。


「 存在 」は「 一定の関係 」であり、「 五感 」で感じる物体では無いことが、私のブログの結果である。


「 自我 」という「 実体 」があると考えるのは、上記のネット情報によれば「 四顛倒(してんどう=さかさまな見方)」であるということだろう。



意識や無意識は、以前に書いたように、過去や未来と現在という時制を決め、無意識が決める「 現在 」の中の無数の可能性が「 無常 」という関係として現れ、自分の可能性として具現化するのが「 人格 」であり、「 能力 」や「 個性 」であるが、それは「 無明 」であるだろう。


すべては無常だから、「 物体 」は知覚の中では、可能性を具現化した「 一定の関係 」として残ると思う。


科学は、無意識が決めた「 実体 」が変わっても「 関係 」を応用することが出来ると思う。


科学が、知覚し、無意識で決めた「 実体 」ではなく、「 一定の関係 」を前提とした「 関係 」であれば、私のブログでは、科学と無常は両立する。


たぶん、間違いであると思うが、現時点の考えである。

posted by kandk55 at 04:11| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 34 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする