2012年02月28日

2012/2/28、オカルト・私の思い10・言葉

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/26、私の記事


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。

2012/2/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


以上のことを「 言葉 」について考える。


私は、言語学者ではないから、これは「 私の物語 」である。


人は無意識で、自然に連結し、「 無明 」が実体化、「 無常 」が関係を生み、「 心的存在意識 」が「 中継点 」と考える。


以上のことを「 言葉 」に適用すると、「 言葉 」が「 中継点 」であり、「 意味 」というのは無意識であり、「 無明 」の方向と「 無常 」の方向に「 心的存在意識 」で、「 殻 」である「 言葉 」を作ると思う。


「 言葉 」を理解できるのは、「 言葉 」という意識の「 殻 」の「 集合的意識 」と、「 意味 」という「 集合的無意識 」を、「 了解 」することが出来るからであると思う。


それぞれ、「 文化圏 」により、無意識の了解が容易である場合や困難な場合があると思う。


「 風土と文化 」といわれるように、無意識が自然に連結しているので、自然に対する感受性により、相違するだろう。


これは、「 現在 」だけでなく、「 古代人 」が用いた意味の解読も、自然に対する感受性を一致させなければ不可能だと思う。


「 主観的 」というのは「 確信 」であり、「 無明 」の精神構造であるがゆえに、安心を求めて作る「 殻 」であり、安心したとき、主観的真理と言われるだろう。


「 客観的 」というのは、「 普遍性 」であり、万物が流転する自然界から無意識を通して得た「 無常 」の中の、「 一定の関係 」「 繰り返す一定の関係 」を「 言葉 」という「 殻 」を作り、不安から安定に変わったとき、客観的真理と言われるだろう。


両者とも、「 無明 」という精神構造の上に成り立つから、客観的真理といえど、変化する。


客観的真理が、「 言葉 」という「 殻 」に具現化したとき、「 無常 」は開始して「 無明 」へ向かう。


言葉の意味が変化するというが、これは、人間が持つ「 無明 」と「 無常 」が変化する力を付与すると考える。
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2012年02月26日

2012/2/26、オカルト・私の思い・人

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/18、私の記事


「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


2011/2/26、私の考え


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。

これは、現時点の考えである。
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2012年02月19日

2012/2/19、オカルト・私の思い8・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/18、私の記事


「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


2012/2/19、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調することを求めない


脳細胞と無意識を考えるとき、脳細胞が衰退する方向が時間の方向であり、意識(情(zyou))で判断すれば「 過去と現在と未来 」という時制だろう。


脳細胞の新陳代謝が「 生命 」であり、新陳代謝のリズムがバイオリズムであり、無意識を生じ、呼吸が「 現在 」であり、エネルギーを生む「 気 」であり、バイオリズムが集中したのが「 行為 」であると思う。


他者から見れば「 行為 」が習慣となったものが「 人格 」だが、自分の内部では「 関係 」に対する無意識や意識を適用した「 実体化 」であり、過去や未来を行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在 」であると思う。


現在の中で、意識を行為に具現化するエネルギー(気(ki))が「 人格 」であると思う。


「 人格 」はエネルギーであるから無意識であり、「 魂 」であるかも知れない。


これを社会的に考えると人間の行為の総体である「 文化 」であり、社会の過去や未来を人間の行為により具現化した「 一定の関係 」という「 存在様式 」であると思う。


こんなことは私が言う前に、人類の全てが、既に行っている行為だと思う。


何かを考えるのは、行為の可能性を考えているのであり、行為の可能性は、どのような「 人格 」が好きかを選択しているのであると思う。


既に、人は「 人格 」を選択しながら生きているのだと思う。


人は食物でさえ、他の動物や植物を犠牲にしていて、その贖罪のため、常に「 人格の向上 」を義務づけられている。


それが、人が常に行為の可能性を考えている原因だと思う。


お金を選ぶ人や、肉欲を選ぶ人も、それぞれ、「 自分の人格を形成している 」のだと思う。


「 関係 」に、お金や肉欲を当てはめて満足する「 人格者 」である。


そんな人には、お金や肉欲が「 魂 」であるかも知れない。
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2012年02月18日

2012/2/18、オカルト・私の思い・時間

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/2/11、私の記事


私は、以前の投稿で、「 見える物は、無意識に中でストレスを生む 」、知らず知らずのうちに、強弱や遠近を比較し、力線(ストレス)を感じる。

これは、小脳の運動可能性(欲)から生まれる生命維持のストレスであるが、これを生むのが、先日、書いたことだと思う。


繰り返せば、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が作り出す「 心的存在意識 」による「 形 」が、小脳の運動可能性(欲)のストレスを生み、その妥協点である「 安心 」や「 不安 」が生じると思う。

「 生きること 」は、「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が「 心的存在意識 」による「 形 」を作り出す。

それが「 文化 」であり、「 安心 」や「 不安 」という「 心の状態 」の表現であると思う。

私は、「 文化 」とは、以上のように考える。


生きている人間の「 心的存在意識 」を表現する「 形 」は、絵画や彫刻として「 現在 」に出現するが、これは「 過去 」や「 未来 」に対して「 一定の関係 」として「 存在 」するだろう。


「 現在や過去と未来 」は無意識が決定し、その無意識に含まれないのが「 一定の関係 」である「 存在 」である。


「 一定の関係 」だから、「 現在 」からも「 過去 」の「 心的存在意識 」の現れである芸術作品を理解することが可能である。

「 一定の関係 」は物体だけでなく思想も含まれるが関係であるため不安定で「 無常 」である。

「 無常 」を「 現在 」の「 心的存在意識 」に実体化して「 安心 」しようとする意識や無意識は、「 無明 」であるため「 安定 」を求めるし、「 過去や未来や現在 」も「 無明 」であり、「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。



2012/2/18、私の考え



これは、私の考えであり、同調されるのを期待しない。



「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


「 時間 」は定義するだけで、本来は測定不能であり、それは生命のバイオリズムであることが原因であると思う。


「 一瞬 」や「 今 」という判断は自分だけが行う判断であり、定義するのは自分であり、測定不能であるのは、生命と同じ方向の、生命の一部であることを意味すると思う。


「 時間が有る 」というのは、「 生きている 」ことであると思う。


「 時間を粗末にすること 」は「 生きることを粗末にすること 」であると思う。


「 時間 」は「 生命 」であり、途絶える時期を知ることが出来ないから、「 無明 」であり、その不安の妥協点として、行為を習慣的に繰り返して「 一定の関係 」を形成して「 人格 」という「 殻 」を作るのだと思う。


人格は時間の表現であり、個人的には「 人格 」だが、社会的には「 文化 」と呼ばれると思う。


両者は、「 無意識が内容である 」ことが共通していて、個人の無意識の現われが「 人格 」であり、社会の「 集合的無意識 」の現れが「 文化 」であると思う。


両者は、バイオリズムであることが共通しているだろうと、現時点では思っている。


それは、個人の死生観や社会の死生観に関する思想や宗教に現れると思う。


私も同列であるが、現代は「 無常 」や「 無明 」ということを考えることが少ない。


知覚するものが全てであり、「 死んだらお終い 」という思想はお粗末である。


それは、「 存在は物体である 」と考えるからであり、「 存在は一定の関係である 」と考えることにより、自分の習慣となっている行動を考え直す契機になり、今の「 人格 」という「 殻 」を破って、新たな「 人格 」へと伸びる契機になると思う。


ある「 人格 」を維持することは「 安心 」であるが、満足すれば後退になる。


「 死中生有り、生中生無し 」である。


人間の細胞が「 無常 」であるから、思想も無常を維持し、絶えず「 人格 」という「 殻 」を破り続ける方向が、生命にとって自然であるかも知れない。


自分の「 殻 」を破るためには、「 人倫 」や「 義 」を考えたほうがよい。


現代人には、以前に紹介した上杉謙信のように、「 義 」に生きる努力が必要だろう。
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2012年02月11日

2012/2/11、オカルト・私の思い6・文化

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


@ 私は無常の中で無明な塊(霊)である。


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う。


「 過去や未来 」は前者が決め、「 現在 」は後者が決め、前者はバイオリズムや遺伝子情報などの無意識であり、後者は、無意識の中で電磁波に似た構造の意識だろう。


「 無常 」と「 無明 」は、無意識の中で連結していると思う。


A 「 存在 」は物質ではなく、「 一定の関係 」だと思う。


「 関係 」は無常から生まれるバイオリズムや無意識であり、本来は無限だが、五感の意識が有限にする。


内部に無限の「 関係 」(自分が変われば相手も変わる)無意識を、「 過去や未来 」を、「 現実 」の意識というエネルギーで満たした「 一定の関係 」、「 習慣 」が、自分にとっての「 存在 」、つまり「 心的存在意識 」であると思う。


自分にとっての「 存在 」、「 心的存在意識 」は性格であり、「 癖 」であり、それが自分という「 人物 」や「 人格 」を形成すると思う。


「 存在 」は物質に限らず、「 一定の関係 」であれば、意識内にも「 存在 」し、それが「 心的存在意識 」であると思う。


無常が全てに関連していることから、「 心的存在意識 」も全てに関連すべきなのに、それを阻害しているのが「 自我 」であり、「 阻害している状況 」が「 無明 」であると思う。



B 「 見える(知覚する)ものが、執着を生む 」と思う。

知覚するものを「 絶対視 」するのではなく、「 自分の関係の中の知覚 」を「 絶対視 」することにより、執着を少なくすると思う。


五感で知覚するから「 有限 」と思い、「 心的存在意識 」が生まれて、執着が始まると思う。


2012/2/5、私の記事


私は、現時点では、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


全ては、「 心 」の投影であり、「 人格 」という人を特徴づける「 心的存在意識 」の現れとして知覚されるだろう。



2012/2/11、私の考え


私は、以前の投稿で、「 見える物は、無意識に中でストレスを生む 」、知らず知らずのうちに、強弱や遠近を比較し、力線(ストレス)を感じる。

これは、小脳の運動可能性(欲)から生まれる生命維持のストレスであるが、これを生むのが、先日、書いたことだと思う。


繰り返せば、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が作り出す「 心的存在意識 」による「 形 」が、小脳の運動可能性(欲)のストレスを生み、その妥協点である「 安心 」や「 不安 」が生じると思う。

「 生きること 」は、「 無明 」で、且つ「 無常 」である人間が「 心的存在意識 」による「 形 」を作り出す。

それが「 文化 」であり、「 安心 」や「 不安 」という「 心の状態 」の表現であると思う。

私は、「 文化 」とは、以上のように考える。


生きている人間の「 心的存在意識 」を表現する「 形 」は、絵画や彫刻として「 現在 」に出現するが、これは「 過去 」や「 未来 」に対して「 一定の関係 」として「 存在 」するだろう。


「 現在や過去と未来 」は無意識が決定し、その無意識に含まれないのが「 一定の関係 」である「 存在 」である。


「 一定の関係 」だから、「 現在 」からも「 過去 」の「 心的存在意識 」の現れである芸術作品を理解することが可能である。

「 一定の関係 」は物体だけでなく思想も含まれるが関係であるため不安定で「 無常 」である。

「 無常 」を「 現在 」の「 心的存在意識 」に実体化して「 安心 」しようとする意識や無意識は、「 無明 」であるため「 安定 」を求めるし、「 過去や未来や現在 」も「 無明 」であり、「 時間 」は、「 万物が流転する 」「 無常 」ではなく、「 無明 」、つまり人間の生命の進行方向に対する無意識の前後の区別であると思う。


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2012年02月05日

2012/2/5、オカルト・私の思い5・無明と無常

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


@ 私は無常の中で無明な塊(霊)である。


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う。


「 過去や未来 」は前者が決め、「 現在 」は後者が決め、前者はバイオリズムや遺伝子情報などの無意識であり、後者は、無意識の中で電磁波に似た構造の意識だろう。


「 無常 」と「 無明 」は、無意識の中で連結していると思う。


A 「 存在 」は物質ではなく、「 一定の関係 」だと思う。


「 関係 」は無常から生まれるバイオリズムや無意識であり、本来は無限だが、五感の意識が有限にする。


内部に無限の「 関係 」(自分が変われば相手も変わる)無意識を、「 過去や未来 」を、「 現実 」の意識というエネルギーで満たした「 一定の関係 」、「 習慣 」が、自分にとっての「 存在 」、つまり「 心的存在意識 」であると思う。


自分にとっての「 存在 」、「 心的存在意識 」は性格であり、「 癖 」であり、それが自分という「 人物 」や「 人格 」を形成すると思う。


「 存在 」は物質に限らず、「 一定の関係 」であれば、意識内にも「 存在 」し、それが「 心的存在意識 」であると思う。


無常が全てに関連していることから、「 心的存在意識 」も全てに関連すべきなのに、それを阻害しているのが「 自我 」であり、「 阻害している状況 」が「 無明 」であると思う。



B 「 見える(知覚する)ものが、執着を生む 」と思う。

知覚するものを「 絶対視 」するのではなく、「 自分の関係の中の知覚 」を「 絶対視 」することにより、執着を少なくすると思う。


五感で知覚するから「 有限 」と思い、「 心的存在意識 」が生まれて、執着が始まると思う。


2012/2/5、私の考え


私は、現時点では、「 無明 」と「 無常 」は無意識の中で連結し、「 一定の関係 」である「 心的存在意識 」を境界にして、互いに入れ替わると考えている。



「 無明 」と「 無常 」は、無意識の中で連結し、「 無明 」であるために、生命より安定的な「 存在 」という「 心的存在意識 」を作り出して「 安心 」し、それらの「 知覚可能な物 」を比較することにより、「 無常 」という、知覚不能の「 関係 」が生まれる。


逆に、「 無常 」な知覚不能の関係により生命に「 不安 」を生じ、それに意識を当てはめて、実体化して「 安心 」しようとして、「 心的存在意識 」が生じると、現時点では考えている。


両者は、全て「 心 」次第であり、「 心 」により、様々な「 心的存在意識 」が生じるだろう。


全ては、「 心 」の投影であり、「 人格 」という人を特徴づける「 心的存在意識 」の現れとして知覚されるだろう。


キリストも仏陀も、「 人格の完成者 」として現れたのかも知れない。


「 人格の完成者 」は「 無常 」と「 無明 」を超えた人であり、私は、関係と存在の中で、不安と安心の中で、「 一定の関係 」を絶えず破り続けなくてはならないだろう。


「 心的存在意識 」があることで、「 満足 」し、「 安心 」していることが問題だと思う。


人は、知覚可能な物体から「 心的存在意識 」を持っているのであり、それが「 生命 」に対する安定度であり、「 無明 」から出てはいないのが問題だと思う。


例えば、生命を維持するために「 お金 」を貯金したり、住む家を買ったりするなど、日常的だと思われることだが、「 独りで暮らさなければならない事 」を前提としているのであり、社会の体制を前提とした「 生命維持 」である。


「 心 」の問題であるのが「 社会 」の問題になっているが、これは本来の解決ではないと思う。


将来、助け合う社会が来るかもしれないし、それが実現すれば、知覚可能な「 お金 」や「 家 」に執着する必要がない。


これは、現実的な社会を問題であるが、これを精神的に考えると「 極楽 」の「 存在意義 」の問題となると考えている。
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2012年02月01日

2012/2/1、想像・人格・無明と無常7・人格

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。
私は、自慢できる人格者でもない。


2011/12/18、私の記事

私は、「 無常 」は「 関係 」であり、情(zyou)であり、過去と現在と未来に共通で、自分の将来へと導く真実であるとする。


「 自我 」は、「 現在 」の自分という五感で確かめられる「 実体 」であり、バイオリズムによる無意識による「 無常 」の「 実体化 」であり、それ自身が「 無明 」であると考える。



「 関係 」である「 無常 」が先行し、それをバイオリズムから生じる無意識が「 実体化 」すると考えると、自分の周囲の物体の収集や配置などに現れる「 心 」も、性向も、「 意思 」も、全ての自分の「 文化 」が、「 人格 」の現れという結論になる。


「 関係 」は自分の中に存在し、それを具現化するのが「 人格 」であるだろう。


私が書くブログの言葉も考えも、全てが私の「 人格 」であり、「 欲 」の現れであり、繰り返す「 一定の関係 」が「 存在 」となり、「 人物 」という、「 私 」を特徴づける「 偏り 」あるいは「 個性 」になると思う。


2011/12/24、私の記事


これまでの記事により、次のように考える


@「 われわれはどこから来たのか、われわれは何者か、われわれはどこへ行くのか 」が「 無明 」であり、

A「 万物は流転する 」が「 無常 」であると考えている。


2011/12/30、私の記事


私は、人間は「 無常 」という「 関係 」の中で浮かぶ、意識と無意識で決定される「 無明 」の塊(実体)であり、塊は「 人格 」の「 一定の関係 」であると思う。


無常という関係は、無数の可能性であり、行為が習慣的となることにより「 一定の関係 」が出来て、それが「 性格 」とか「 性癖 」となると思う。


2012/2/1、私の考え


肉体が「 無常 」であり、精神が「 無明 」であると考えた延長で、「 人格 」とは何だろうか。

「 人格 」は、「 無明 」の延長線上にあるだろう。


「 人格 」は、肉体の骨格のように、人を形成する肉体と精神、無意識と意識の統合体であり、私という内部から見れば、「 無明 」であるため形成される「 心的存在意識 」の統合体であり、「 無常 」という「 関係 」を無意識や意識で「 実体化 」した「 自我 」を形成する「 癖 」という「 存在 」の「 殻 」であると思う。


「 人格 」は、習慣的な「 癖 」という心的存在意識の「 殻 」であるだろう。


「 人格障害 」と診断されたら、自分が形成した心的存在意識の「 殻 」を破ることが必要だろう。


社会の中の、私という「 人物 」であり、人からの評価を心配する傾向があるが、自分の中の「 心的存在意識を破る 」方向、つまり、人格は自分が形成するもので、どこまでも「 無明 」であるが、「 無明 」を諦めと考えるのでなく、無限の人格形成、心的存在意識の形成の可能性が自分の内部に眠っていると考えるのが良い方向だと思う。


「 人格 」を、自分が作った無意識の「 殻 」だと考えて、「 殻を破る 」努力が人格を向上させるのであり、薬物による人格の向上は有り得ないと思う。


「 人格 」は自分の「 霊 」とも連結するだろう。


薬物で「 人格 」は左右されないし、薬物は無意識の「 癖 」を矯正する補助手段と考え、人格は無意識の「 殻 」だと自覚し、自分が作った「 殻 」を破って、新たな人格を形成することが、「 人格障害 」から脱出する方法かも知れない。
posted by kandk55 at 04:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 34 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする