2012年03月31日

24/3/31、オカルト・私の思い16・構想力と夢

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。



2012/3/31、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を考えたとき、「 構想力 」とは何だろうか?


ネットで調べると、カントは、「 構想力 」は「 時間 」と考えたそうである。


「 時間 」は生命だと考えたのだろう。


「 無意識 」を考えたくない気持ちは理解できるが、私は、「 意識 」と「 無意識 」と一旦は分けて考え、前者は「 気(ki)」であり、「 無明 」の領域であり、後者は「 情(zyou)」であり、無明から生まれた「 一定の関係 」を相対化する「 無常 」の領域だと考える。


私は「 先験的 」で認識不可能なものとして、大脳の覚醒した「 意識 」では「 構想力 」であり、小脳の睡眠の「 無意識 」では「 夢 」であると考える。


覚醒した状態(意識)も睡眠した状態(無意識)でも、呼吸は続き、従って「 現在 」であるし、両者は「 今 」の中で働く、物語を結合させる「 力 」である。


覚醒した状態(意識)は、「 行動 」の可能性を目的とするから、「 関係 」という「 物語 」を「 一定の関係 」に変える「 力 」が「 構想力 」だと思う。


「 一定の関係 」から「 一定の関係 」を連想するのも「 構想力 」だろう。


睡眠した状態(無意識)では、「 行動 」の目的は無く、無作為に「 物語 」を結合するのが「 夢 」であるだろう。


「 構想力 」は何を「 一定の関係 」、即ち「 存在 」と認識したかで判断し、「 夢 」もどのような夢をみたのかは、記憶により思い出すだけで、働く「 力 」は認識不能である。


両者は、「 認識不能 」ということでは、「 先験的 」であり、生命の維持に必要であるから、生命と「 共変 」する、即ち「 構想力 」や「 夢 」が生命の一部であると考える。


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2012年03月24日

2012/3/24、これがオカルトだ・原発再稼動と人類滅亡の日

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


ヤフーニュースより引用する。

<大飯原発>原子力安全委が安全評価を初了承

安全評価は、原発が想定を超える地震や津波に襲われた時、深刻な事故に至るまでにどの程度余裕があるかを調べる。再稼働の判断に使う1次評価と、運転継続を判断する2次評価がある。

 関電によると、両基は想定より1.8倍大きい地震の揺れや、4倍の高さの津波でも炉心損傷しないとした。
経済産業省原子力安全・保安院も妥当と判断した。
安全委は23日の会議で、「東京電力福島第1原発事故を踏まえ、(非常用電源の確保など)緊急安全対策の効果が示されたことは重要なステップ」との見解を示し、問題はないと結論づけた。
会議が5分で終了すると、傍聴者が「2次評価なしで安全性の責任が取れるのか」と叫び騒然となった。
 終了後、記者会見した班目(まだらめ)春樹委員長は「1次だけでは不十分で、2次まできちんとやってほしい。安全性の確認は保安院が責任をもってやるべきで、安全委はその確認をするだけ。再稼働の判断をするのは政府だ」と語った。



2012/3/24、私の考え


日本の原子力安全委員会が、以上のような判断をした。


これが、福島原発事故から一年も経た、原子力安全委員会の見解であるとは、失望した。


「 国民の安全を守るために 」原子力委員会を設置した委員会が「 安全 」でないかも知れないが原発の再稼動は政治判断によるという見解ならば、設置した意義がない。


「 安全 」でないなら、再稼動はストップするのが原子力委員会の、国民に対する責務だろう。


国民を守るという責務を果たさない委員会は、すぐにも解散も考えるべきだろう。


福島の原発事故で、「 想定外 」という言葉が乱舞した。


頭脳が聡明な原子力委員会が「 想定 」するのは、東日本震災と同等の津波や地震を、やっと「 想定 」するくらいで、想像力が、極めて乏しいと思う。


一次評価や二次評価の問題ではない。


私は、これから、原発事故が発生するのは、地震や津波だけではないと思っている。


2012年12月21日、人類滅亡する日について、言及しないだけでも、想像力が乏しい。


噂によると、太陽の活動が弱まり、宇宙線が地球に降り注ぎ、雲を作り、異常気象をもたし、天変地異が続くだけでなく、同時に、太陽から「 太陽風 」が地球に届いたとき、電波や磁場の異常を招き、電波障害を引き起こし、コンピューターの働きを異常にすると言う。


私は、原子力発電所はコンピューターで管理されていると考えるから、「 太陽風 」によるコンピューターの異常は原子力発電所にも及ぶと考える。


もし「 異常 」が発生したら、原発の制御不能であり、「 全電源喪失 」状態になり、制御不能な原発を、日本国中に抱えることになる。


2012年12月21日、「 太陽風 」が無いかも知れないが、将来、「 太陽風 」により、原子爆弾の自動発火や制御不能の原発が増加する可能性があるかも知れない。


オカルトなどと軽視する頭脳明晰な人たちだが、「 想定することが出来ない 」というのは、想像力の欠陥人間であるかも知れない。


「 太陽風 」により、原子爆弾の自動発火や制御不能の原発が増加し、人類滅亡の日が来たとき、彼らは「 想定外だった 」と言うに違いない。


委員会のメンバーが「 想定外 」であったのではなく、想像力の欠乏であり、一般人にも劣る頭脳の持ち主であることの証明であり、重要なのは、国民のために何もしないことである。


福島の原発事故を契機にして、コンピューター制御による原子力発電所を廃止するのが、国民に対して、最も「 安全 」な選択であり、全部の原発が止まっている今が良い時期だろうと、私は思う。







太陽風(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E9%A2%A8

太陽風(たいようふう)は、太陽から吹き出す極めて高温で電離した粒子(プラズマ)のことである。

毎秒100万トンもの質量が太陽から放射されている。この風が地球の公転軌道に達するときの速さは約300〜900km/s、平均約450km/sであり、温度は106Kに達することもある。
地球磁場に影響を与え、オーロラの発生の原因の一つとなっている。
高速の太陽風は、コロナホールや太陽フレアに伴って放出されていると考えられている。
同様の現象はほとんどの恒星に見られ、「恒星風」と呼ばれる。
なお、太陽系外からの銀河宇宙放射線の流入量は、太陽風を伴う太陽活動と相関があり、太陽活動極大期に銀河宇宙線量は最小になり、太陽活動極小期に銀河宇宙線量は最大になる。
これは太陽風が、太陽系外から流入する銀河宇宙線をブロックするためと考えられている。
銀河宇宙線のエネルギーは強大で、ほぼ真空の宇宙空間を飛翔する岩石結晶には、銀河宇宙線による細かい傷が見られる。
銀河宇宙線が直接生命の細胞に当たれば、細胞はひとたまりもなく破壊されてしまう。
一般にはあまり知られていないが、太陽風はこうした強大なエネルギーを持つ銀河宇宙線から、地球生命を守っている。米国のボイジャー探査機においては、太陽系を離れるにつれて次第に強い銀河宇宙線が検出されているという。

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2012年03月18日

2012/3/18、オカルト・私の思い15・構想力2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。


2012/3/18、私の考え


これは私だけの考えであり、同調を求めない。


「 構想力 」が、悟性と感性に共通した別物であるならば、悟性を意識、感性をバイオリズムや無意識、それに共通な別物として「 関係 」を「 構想力 」と考える。


悟性も感性も、自分と「 共変 」しないものを目安にして成立し、地球上で物体は、自分と「 共変 」するから静止してると思って、宇宙規模の動きを意識的にも無意識でも認識することは出来ない(空間的認識不能)し、宇宙規模の時間も意識的にも無意識でも認識することが出来ない(時間的認識不能)。


この地球上で認識不能な「 本当の空間 」や「 本当の時間 」を「 先験的 」と考える。



以前に書いたように、悟性(意識)や感性(バイオリズムや無意識)に共通な別物として「 関係 」を考え、「 一定の関係 」が「 存在 」と考え、この「 存在 」を基点として、悟性や感性が成立すると考える。


「 存在 」を「 一定の関係 」と考えるのは、関係の具現化、関係への悟性(意識)や感性(無意識)の「 当てはめ 」が、個人の「 本質直感 」には必要だからである。


「 本当の空間 」や「 本当の時間 」が「 先験的 」で、認識不能であれば、空間意識や時間意識に従って悟性や感性を使っても、「 本質直感 」は出来ないだろう。


時間や空間を越えた「 本質直感 」は、時間意識や空間意識に頼った測定ではなく、「 先験的 」な「 本当の時間や空間 」と意識や無意識を繋いでいる「 関係 」に沿って、意識や無意識を当てはめて、「 一定の関係 」を具現化することであると思う。


この地球上で認識不能な「 本当の空間 」や「 本当の時間 」を「 先験的 」と書いたが、これは「 無常 」と「 無明 」であるかも知れない。


人間は「 無明 」であり、かつ「 無常 」であるから、人間は根源的に「 先験的 」であり、一定の時空を生きるのが人間であるかも知れない。


根源的に「 先験的 」であるから、意識や無意識と「 先験的 」なもの(生命)を繋ぐ「 関係 」を「 一定の関係 」という「 存在 」に具現化するのが「 人格形成 」であり、それは「 本質直感 」と同じ「 意味 」を持つと思う。


「 本質直感 」は、時空を超えて「 関係 」を把握し「 一定の関係 」に具現化することで、行為としては彫刻や絵画などの芸術と同じだと思う。


もちろん、それは個人の「 確信 」であり、「 主観的真理 」であり、社会の「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」により承認されて、無明から脱することになるだろう。


「 関係 」の把握と「 一定の関係 」という「 存在 」の発見こそ、「 本質直感 」であると思う。

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2012年03月17日

2012/3/17、オカルト・私の思い 14・構想力

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2012/3/14、私の記事


これは、私の考えであり、同調を求めない。



人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。



「 気(ki)」に対して、「 関係 」と「 情(zyou)」を考えているが、「 情(zyou)」は上記のように、人間のリズムで「 過去や未来 」を決め、「 関係 」は、細胞などの自然のリズムと考える。


時間で考えると「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であるかも知れない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。


例えば、列車や自動車が走る動きは、自分と共変しない関係であり、地球の自転を実感することが出来ないのが、共変する関係と考える。


情(zyou)と共変しない(変化の認識が可能な)関係と、情(zyou)と共変する(変化の認識が不可能な)関係と合体した「 一定の関係 」が「 無常 」という感覚で現れ、それが人間の「 情(zyou)」に反映して、「 無明 」になると、現時点では思っている。


「 情(zyou)」と「 関係 」が共変して、認識が不可能なことが、「 無明 」であり、気(ki)であるのかも知れない。


上記の例でいえば、「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であり、両者は認識不能で、両者が同一であるかも知れないことが「 無明 」であることかも知れない。


私は、宇宙の時間は、「 うるう年 」を作った地球上の時間とは違うかも知れないと思うし、体内時間が測定できないことが宇宙の時間と同一ではないかも知れないが、共変する時間であると思う。

それが、「 無明 」であることだと思う。


2012/3/17、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。



私は、上述したように、「 共変する関係は、認識不能である 」と思うが、これは、カントの「 先験的 」というのに似ていると思う。


前述したように、「 時間 」も「 無明 」だから「 時計 」で計測し、「 空間 」も、宇宙的規模で見れば常に動いていて「 無常 」で「 無明 」であるから、意識の思考上に「 絶対静止 」という概念を作り、これを基礎にして諸学問が成立している。


地球上で、宇宙時間も宇宙空間も、認識不能である。


この、根源的に認識不能であるのを、「 無明 」であり、「 先験的 」であると思うのだ。


以前書いたように、認識は、無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」で行われるが、前者は小脳中心で、後者は大脳中心で行われ、前者が「 過去と未来 」を、後者が「 現在 」を決めるが、「 現在 」は小脳の呼吸で決まるというのが私の考えである。


根源的に認識不能である、「 無明 」や「 先験的 」である「 時間 」と「 空間 」を、「 気(ki)」の中で「 時間意識 」と「 空間意識 」として電磁波的に認識するが、時空を超える「 直感 」などは、「 関係 」の力だろう。


時間や空間を測定可能とする「 存在 」は、存在論的には「 関係 」の習慣の結果の「 一定の関係 」であり、この「 一定の関係を作る力 」即ち「 存在を作る力 」が、カントの「 構想力 」であると思う。


「 構想力 」という考えは、「 無明 」と「 無常 」を繰り返す脳細胞の力であり、カントが構想を止めたからと言って、単純に否定すべきではないと思う。


無意識の「 情(zyou)」と意識の「 気(ki)」以外の「 関係 」こそ、無意識と意識を成立させる力として考える。


それは、「 生命 」かも知れない。
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2012年03月14日

2012/3/14、オカルト・私の思い 13・希望と失望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2012/3/11、私の記事


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。



これは、私の考えであり、同調を求めない。


人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。


細胞の塊である「 人体 」は「 無常 」であるため、「 無明 」が作る「 心的存在意識 」はすべて「 無常 」であるし、「 精神 」が「 無明 」であるため「 無常 」である「 心的存在意識 」は全て「 無明 」であると思う。


通常の「 心的存在意識 」は、無明と無常の両者を含むと思う。


「 精神 」が「 無明 」を脱したとき、即ち「 客観的真理 」を把握したとき、「 心的存在意識 」は、自然法則と同様に「 無常 」であると思う。


自然法則は、「 心的存在意識 」であるが、繰り返し現れるから「 一定の関係 」として物質と同じ「 存在 」であると思う。


「 精神 」の目的は「 自意識 」が「 無常 」となることであり、「 無常を意識すること 」であり、「 知性のリズム 」の実現であり、「 過去と未来 」に通じることだと思う。


「 無常を意識する 」とは、絶望の中に「 希望 」を発見することだと思う。


言い換えれば、「 希望 」とは、「 無常を意識すること 」であるだろう。



2012/3/14、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。



人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。



「 気(ki)」に対して、「 関係 」と「 情(zyou)」を考えているが、「 情(zyou)」は上記のように、人間のリズムで「 過去や未来 」を決め、「 関係 」は、細胞などの自然のリズムと考える。


時間で考えると「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であるかも知れない。


「 関係 」を知覚という「 気(ki)」により実体化することが、出来たり出来なかったりするのは、知覚と共変しないものが知覚により「 関係 」と認識され、知覚と共変するものは「 関係 」と認識されないと思う。


知覚も情(zyou)の一種だから、情(zyou)と共変する「 関係 」と、共変しない「 関係 」を考え、前者が認識不可能で後者が認識可能と考える。


例えば、列車や自動車が走る動きは、自分と共変しない関係であり、地球の自転を実感することが出来ないのが、共変する関係と考える。


情(zyou)と共変しない(変化の認識が可能な)関係と、情(zyou)と共変する(変化の認識が不可能な)関係と合体した「 一定の関係 」が「 無常 」という感覚で現れ、それが人間の「 情(zyou)」に反映して、「 無明 」になると、現時点では思っている。


「 情(zyou)」と「 関係 」が共変して、認識が不可能なことが、「 無明 」であり、気(ki)であるのかも知れない。


上記の例でいえば、「 情 」は、体内時間で、「 関係 」は宇宙の時間であり、両者は認識不能で、両者が同一であるかも知れないことが「 無明 」であることかも知れない。


私は、宇宙の時間は、「 うるう年 」を作った地球上の時間とは違うかも知れないと思うし、体内時間が測定できないことが宇宙の時間と同一ではないかも知れないが、共変する時間であると思う。

それが、「 無明 」であることだと思う。


地球上の時間は、変化するもの、共変しないものを比較して決まった「 定義 」であり、宇宙の時間とは思わない。



「 情(zyou)」が「 関係 」を認識し、関係が実現可能なとき「 希望 」であり、「 生きがい」であり、「 関係 」を認識することが出来ないとき、「 生きることを諦めた失望 」に変わると思う。


「 関係 」が認識することが出来ない場合でも「 関係 」を認識することが出来るようになるのが「 無常 」であり、それを意識することが「 無常を意識すること 」であり、「 死 」の絶望の中に「 生きがい 」を発見することが「 希望 」であり、生きている間に「 生きがい 」という「 希望 」を発見することであると思う。



常に「 無常を意識する 」ことを続ければ、持続する「 希望 」「 生きがい 」という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」の「 存在 」になると思うが、「 精神 」であるため、「 無明 」であることから逃れることは出来ないだろう。

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2012年03月11日

2012/3/11、オカルト・私の思い12・希望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。




2012/3/4、私の記事

「 無明 」の中に「 存在 」するのも、「 脱却 」するのも、「 自意識 」次第であるという考えにより、「 自意識 」は無明の中心であると思う。


2012/3/11、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


人間を「 無明 」と「 無常 」の両者を持ち、両者は、人体のバイオリズムから生じる「 無意識 」で連結され、前者が「 実体化 」、エネルギーや気(ki)の無意識であり、時制は「 現在 」であり、後者が「 関係化 」、情(zyou)という精神的、意識的な無意識であり、時制は「 過去や未来 」であり、現在のバイオリズムが正当なら、「 無明 」が「 身体のリズム 」で、「 無常 」が「 感情 」(kanzyou)や「 知性のリズム 」であると思う。


細胞の塊である「 人体 」は「 無常 」であるため、「 無明 」が作る「 心的存在意識 」はすべて「 無常 」であるし、「 精神 」が「 無明 」であるため「 無常 」である「 心的存在意識 」は全て「 無明 」であると思う。


通常の「 心的存在意識 」は、無明と無常の両者を含むと思う。


「 精神 」が「 無明 」を脱したとき、即ち「 客観的真理 」を把握したとき、「 心的存在意識 」は、自然法則と同様に「 無常 」であると思う。


自然法則は、「 心的存在意識 」であるが、繰り返し現れるから「 一定の関係 」として物質と同じ「 存在 」であると思う。


「 精神 」の目的は「 自意識 」が「 無常 」となることであり、「 無常を意識すること 」であり、「 知性のリズム 」の実現であり、「 過去と未来 」に通じることだと思う。


「 無常を意識する 」とは、絶望の中に「 希望 」を発見することだと思う。


言い換えれば、「 希望 」とは、「 無常を意識すること 」であるだろう。


例にはならないと思うが、「 宗教画 」や「 仏像 」を作るとき、信じること(気(ki))が無いならば作ることは出来ないし、信じることを物体化したのが「 仏像 」であり、「 仏像 」を通して、信じること(気(ki))が時代を超えて支持されるならば、「 集合的無意識 」や「 知性のリズム 」に合致して無明を脱するかも知れないが、「 心的存在意識 」の支持であるので、自然法則と同じ意味で「 無常 」である。



「 時代を超えて支持される心的存在意識を持つこと 」が「 無常を意識すること 」であり、「 希望 」であるというのが私の現時点の考えである。

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2012年03月04日

2012/3/4、オカルト・私の思い11・自意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2011/2/26、私の記事


これは、私だけの考えであり、日記であり、同調を求めない。


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。


その「 自然 」が「 忘却 」であり、「 夢 」や「 希望 」や「 想像 」であると思う。


生命が「 自意識 」であれば、「 自意識 」という電磁波に似た意識の範囲が「 現在 」であり、それが「 無常 」と「 無明 」の構造であるだろう。


人間には「 人格 」を作り続けるから、人間は「 普遍性 」と「 確信 」を求めるように作られているのかも知れない。


また、それとは別に、「 意識 」も「 無意識 」も、「 集合的意識 」や「 集合的無意識 」を持ち、前者が「 確信 」であり、「 無明 」であり、後者が「 普遍性 」であり、「 無常 」であると思っている。


私は、個人の脳波が、地球のシューマン波の一部であると考え、「 無明 」が「 無常 」の一部であるから、想像と破壊が生じると思っている。


これは、「 事物や事象 」を作る「 無明 」と、「 関係 」である「 無常 」も同様に考え、関係が事物や事象として現れ、事物や事象は関係に消えると考え、その「 中継点 」は「 心的存在意識 」であると思っている。



2012/3/4、私の考え


これは、私の考えであり、同調を求めない。


上記のことを、「 自意識 」について考える。

「 自意識 」は、「 自分は自分 」であり、自分の顔が鏡に写すことにより意識されるように、「 自意識 」自体は、死ぬまで不変であり、当事者は知ることが出来ない「 一定の関係 」であると思う。

しかし、これが盲点であり、「 自意識 」こそが、「 無明 」の中心だと思う。

……(上記から引用)……


「 無常 」を「 万物は流転する 」と考え、「 無明 」を「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか 」という意味に考える。


「 無常 」の人体を持ち、「 無明 」の精神を持つのが人であるというのが私の考えである。


「 無明 」は時間であり、気(ki)であり、生命であり、「 今 」や「 現在 」という時制であり、常に「 心的存在意識 」を形成すると思う。


「 無常 」は、「 心的存在意識 」の破壊であり、個人の「 確信 」ではなく、「 普遍性 」として「 現在 」という時制に現れ、それは「 情(zyou)」であり、過去や未来へと自分を導くと思う。


「 無常 」の方向が真理であり、「 無明 」の方向が信仰であるかも知れない。


「 心的存在意識 」は「 殻 」であり、「 人格 」であり、人体が「 無常 」であるため、その方向に、日々、破壊して、新たな「 殻 」を作るのが自然だろう。

……(引用を終わる)……


「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択するのだが、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」であるとすれば、「 無常 」を感じて「 確信 」という「 殻 」を破り続けるのが、自然であるだろう。


「 自意識 」は生命であり、無意識の中で、自分が自分を選択し、自分という「 一定の関係 」の「 心的存在意識 」で細胞と「 共変 」すると思いがちだが、細胞は「 無常 」であり、無意識の中で変化するのに対し、「 自意識 」は、「 自分は自分 」という「 一定の関係 」であり、外部に表現することにより、「 殻 」を知り、破る対象も知る。


「 関係 」から「 関係 」を選択するのが「 自意識 」であり、「 自分は自分 」とは選択しないのではなく、無意識の中で、既に選択した結果なのに、「 選択した 」と思わないのが問題である。


社会と関係が無いのではなく、社会と自分の「 今の関係を選択している 」のである。


「 選択する力 」はエネルギーであり、気(ki)であり、「 現在 」の「 自意識 」が持っていると思う。


その選択は、「 無常 」を感じて「 確信 」という「 殻 」を破り続けるのが、自然であり、それに反して「 自分は自分 」であり、不変であると思うのが、後退した考えであり、「 無明 」の中に「 存在を続けること 」であり、違う関係を選択する余地があるのだから、それをしないのは、あるいは関係を認識しないのが「 無明 」から脱却できないことだと思う。


「 無明 」は「 信仰 」の方向であるので、「 現在 」という時制の中で、宗教や思想など、「 関係 」を意識により取り入れ「 自分は自分 」という考えを破る余地はあると思う。


「 自分 」と「 自分 」の不連続を知ることが、脱却する契機であるかも知れない。


「 無明 」の中に「 存在 」するのも、「 脱却 」するのも、「 自意識 」次第であるという考えにより、「 自意識 」は無明の中心であると思う。


脱却が、人格の向上であるかも知れない。


2015/2/27、私の現在の考え11・自意識を参照
posted by kandk55 at 05:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 35 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする