2013年01月29日

2013/1/29、携帯電話と人生6・失うこと2

スティーブ・ジョブズについての知識ではありません。

2013/1/19、私の記事

情(zyou)は、体験や記憶からくる「 損得勘定 」であり、「 愛 」と「 情 」が組み合った「 愛情 」は人間に必要であるが、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば、「 愛 」ではなくなる。


「 恋 」と「 情 」が組み合った「 恋情 」も、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば「 恋 」は「 愛 」と同じく本来の気(ki)ではなくなると思う。


「 恋 」も「 愛 」も、本来は方向性に迷うものであるが、「 損得勘定 」や「 打算 」で、その方向は決まり、迷いがない状態になるだろう。


「 損得勘定 」に誤算が生じ、「 離婚 」になり、「 愛 」の金銭的評価により、「 愛情 」が決まる。


これは、恋愛している場合のプレゼントの値段により「 愛情 」が決まることにも符合する。


「 愛 」が欲しいのでなく、「 愛情 」が欲しい結果、「 過去や未来 」の評価を決める情(zyou)が働き、情(zyou)の大きさが「 愛 」の大きさと勘違いをしてしまうだろう。


「 愛情 」は利己的な欲であり、情(zyou)を捨てることにより、「 愛 」が得られるかもしれない。





2013/1/28、私の考え・



大切なものとそれを失うこと



「 失う、大切なもの 」は情(zyou)であるでしょう。

遺伝子情報でも、情報は何でも、「 受け継いだもの 」であり、自分だけが独占して、所有するものではありません。

人は、「 裸ひとつで生まれ、裸ひとつで死ぬもの 」です。

情(zyou)は、金銭も含めて、技術でありすべての文化であり、この世の「 美味なるもの 」です。

従って、その情(zyou)を守ることは、自己保身であり、独占欲などの利己欲であると思います。

ジョブズにとって、アップル社は役員ですから、アップル社に金儲けさせようという利己欲を持つでしょう。

アップル社に対する「 愛 」と、利己欲である「 愛情 」と取り違えてはいけません。


彼が、アップル社から解雇されたことは、「 利己欲を捨てなさい 」ということだと思います。



「 失うこと 」を「 喪失 」という意味だけに理解するのは自由ですが、「 失うこと 」は「 自分の利己欲を取り去ってくれた 」あるいは「 重荷を外してくれた 」と理解することも自由だと思います。



彼が、NeXT社やPixar社という会社を立ち上げたことは、利己欲を捨てた所に立っていることであり、それゆえに、iPhone を生み出したと、私は思います。

「 アップル社が可愛い 」という所に立ち止まることは利己欲の延長に立っていることであり、世界は変わりません。


そこを離れて、「 民衆は何を望み、自分は何を望み、何が出来るのか? 」を考え、民衆が望むものを作れば、おのずと物は売れて、自然に金儲けになると思います。


「 アップル社が可愛いから、金儲けさせる 」という考えは、普通の大企業が考えることで、一つのプロジェクトに多くの人間を従事させるでしょう。

ですが、この行動から、iPhone は生まれません。

「 損得勘定 」から生まれた製品で、世界は変わりません。


人が何を望み、自分が何を望むのかを考えて、それを作品にした時、iPhone が生まれ、アップル社に莫大な利潤をもたらしたと思います。

利己欲から離れ、民衆の求める物を作ったとき、民衆が買ってくれます。

民衆は、利己欲から得られない利益をもたらすでしょう。

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2013年01月28日

2013/1/28、携帯電話と人生5・スティーブジョブズ 1

2013/1/27、私の考え・不安


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


不安は欲から生じるものだから、方向性が不明という意味で「 無明 」であり、気(ki)と結びつくため、気(ki)の特質が、すべて「 不安 」に該当する。

連続と不連続。

実有と実体。

前者が気(ki)で、後者が情(zyou)であるが、これまで述べて来たように、気(ki)は物語やストーリーや情報ではない。

しかし、真空でも重力や電磁波のエネルギーが往来するように「 無 」ではない。

ビッグ・バン以前が不明であることからわかるように、「 無 」というのは、人類が経験したものではない。

「 実体 」や「 不連続 」は人間が作ったもので、情(zyou)であり、物語であり、利用可能な相当因果関係である。

情(zyou)の「 実体 」は「 形あるもの 」で「 無常 」であるのに対し、気(ki)の「 実有 」は「 形がなくても物語を当てはめると存在するもの 」であり、物語によって、「 在るかも知れないし、無いかもしれないが、すべてを受け入れる 」という意味で「 形の無いもの 」であると思う。

「 無 」を人類は知らないが、物語の構想次第で存在意識になるものが在ることは知っている。

それを「 実有 」と、私は呼ぶ。

「 気(ki)の欲 」であるのが「 不安 」であるが、気(ki)であるため「 実有 」であり、「 実体 」が無くても「 在る 」エネルギーである。


「 不連続 」や「 実体 」にするのは人類であり、この世のすべては「 連続 」した「 因縁 」の世界が「 欲 」の世界であり、「 在るかも知れないし、無いかも知れない 」世界であるため、「 気(ki)の欲」が不安になると考える。


大気と真空が人類の身体を満たしているように、この世のすべては、重力や電磁波を通す真空のエーテルに満たされている。

それを、「 連続 」と呼ぶ。

「 実有 」で「 連続 」した「 欲 」が方向性が無い「 無明 」であるため、「 不安 」であると考えている。



2013/1/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、昨年の12月、スマートフォンを購入したことは披露しました。

スマートフォンを使って、その操作の便利さに感心しました。

アップル社のスティーブジョブズ氏は、確かに、世界を変えました。

今まで、モバイル用の端末と携帯電話用の端末が、電話線(無線)を共有して、別々に存在していたのを一つの iPone という端末に統合し、両者を可能にしました。

今、モバイルとか携帯電話を単独で保有する人は稀でしょう。

「 iPone があるじゃあないか 」という返事が返ってくることが、「 世界を変えた証拠 」であると思うのです。

過去の世界に戻らないことが、「 世界を変えたこと 」です。


Googl 社のYou Tube で、スティーブジョブズ氏のスタンフォード大学卒業式辞の日本語字幕版を拝見させて頂きました。

彼は、三つの話をされましたが、私にとって、一番目の話が難問でした。

その一番目の「 点と点をつなげる 」とは何かについて、私の考えを書きます。

三つの話は、互いに連結しているのですが、「 点と点をつなげる 」とは、私が「 気(ki)と情(zyou)と欲 」で述べた、気(ki)の人生を生きなさいという意味に解釈しました。

気(ki)とは「 因縁 」の世界であり、「 連続 」した「 実有 」の世界ですから、「 無明 」の人間は、因果の方向性がわからずに、迷います。


「 運命やカルマなど何かを信じ、我々はいまやっていることが、いずれ人生のどこかでつながって実を結ぶだろうと信じるしかない。」というのは、「 いまは因縁の世界で生きていて、原因や結果は(点と点のつながりは)、後日判明するから、何かを信じて生きるしか方向性はない 」ということに解釈すれば、彼は気(ki)の人生を生きていることになると思います。


情(zyou)、すなわち相当因果関係を信じて生きることは、金儲けにはなりますが、パイオニアにはならないでしょう。

彼は、コンピューターを手段に使い、人間の感情を伝えることを意図したと、ネットのどこかで、拝見したが、良く言えば、彼は金儲けではなく、コンピューターを使って人生を楽しむことを意図したのだろう。

アップルの役員である以上、利益を追求したのでしょうが、金儲けだけの意図では、iPone は生まれなかったであろうことは、他のコンピューターの会社の行動を見ればわかります。

これは、第二の話に通じることです。
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2013年01月27日

2013/1/27・オカルト・気(ki)と情(zyou)と欲 5、不安

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為@「 閉じこもり 」(11/10追加)A「 脱皮 」(11/10追加)

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)

魂(11/10追加)

鬼(ki)「 邪しき神」や「邪しき鬼(もの)」という得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは鬼神(kizinn)(11/10追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)

霊(11/10追加)

鬼(oni)(死霊)(亡霊)(11/10追加)



2013/1/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これで、結論のような考えに至った。

宇宙の果てから、自分の体内の細胞に至るまで、「 欲 」が満ちていて、それはエーテルと符合する。

空中にはエーテルと大気が存在するように、人間の中に「 欲 」と「 欲望 」が存在し、それぞれエーテルと「 欲 」、大気と「 欲望 」が符合する。

「 欲 」の中には気(ki)と情(zyou)があり、気(ki)は「 欲 」やエーテルや「 実有 」、情(zyou)は「 欲望 」や大気や「 実体 」と符合し、両者を分けるのは、「 利己欲 」であるという考えである。


2013/1/26、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、上記のように、心理を「 気(ki)と情(zyou) 」と「 欲 」という「 エネルギー 」の二重構造と考える。



行動は無意識と意識の行動であると考えるのが一般的かもしれないが、私は賛成しない。


行動は気(ki)であり、それを促すのは「 気(ki)の欲 」と「 情(zyou)の欲 」というエネルギーであると思う。


前者が「 無意識 」で後者が「 意識 」であると考えるのではなく、「 気(ki)の欲 」や「 情(zyou)の欲 」の中にも「 無意識と意識 」は存在する。


私は、「 欲 」が気(ki)と「 実体化 」した、あるいは存在として感じたのが「 気(ki)の欲 」であり、それが「 対象が無い不安 」であると考える。


「 気(ki)の欲 」が「 不安 」であり、目的を持たない「 実体化 」であるのは、本来が「 無明 」から発生するからであり、「 実体 」ではないが、「 実有 」である。


これに対して、「 欲 」が情(zyou)と「 実体化 」したのが「 情(zyou)の欲 」であり、これが一般的に「 意欲 」と呼ぶものだと思う。


これは、対象(実体)のある動機であり、行動のエネルギーである。


「 欲 」が「 実体化 」するとはエネルギーが行動となって現れることであり、心理学で扱われるものだと思うが、「 不安 」は「 気(ki)の欲 」であり、「 実有 」であるが「 実体 」でないので、心理学では解決することが出来ない「 無意識 」であると言われるかも知れない。


「 不安 」は「 気(ki)の欲 」であり、「 無明 」を内包し、「 実体 」ではなく「 実有 」のエネルギーであり、「 実体 」を「 相対化 」する、あるいは「 無常 」と感じさせるエネルギーであると思う。


2013/1/27、私の考え・不安


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


不安は欲から生じるものだから、方向性が不明という意味で「 無明 」であり、気(ki)と結びつくため、気(ki)の特質が、すべて「 不安 」に該当する。

連続と不連続。

実有と実体。

前者が気(ki)で、後者が情(zyou)であるが、これまで述べて来たように、気(ki)は物語やストーリーや情報ではない。

しかし、真空でも重力や電磁波のエネルギーが往来するように「 無 」ではない。

ビッグ・バン以前が不明であることからわかるように、「 無 」というのは、人類が経験したものではない。

「 実体 」や「 不連続 」は人間が作ったもので、情(zyou)であり、物語であり、利用可能な相当因果関係である。

情(zyou)の「 実体 」は「 形あるもの 」で「 無常 」であるのに対し、気(ki)の「 実有 」は「 形がなくても物語を当てはめると存在するもの 」であり、物語によって、「 在るかも知れないし、無いかもしれないが、すべてを受け入れる 」という意味で「 形の無いもの 」であると思う。

「 無 」を人類は知らないが、物語の構想次第で存在意識になるものが在ることは知っている。

それを「 実有 」と、私は呼ぶ。

「 気(ki)の欲 」であるのが「 不安 」であるが、気(ki)であるため「 実有 」であり、「 実体 」が無くても「 在る 」エネルギーである。


「 不連続 」や「 実体 」にするのは人類であり、この世のすべては「 連続 」した「 因縁 」の世界が「 欲 」の世界であり、「 在るかも知れないし、無いかも知れない 」世界であるため、「 気(ki)の欲」が不安になると考える。


大気と真空が人類の身体を満たしているように、この世のすべては、重力や電磁波を通す真空のエーテルに満たされている。

それを、「 連続 」と呼ぶ。

「 実有 」で「 連続 」した「 欲 」が方向性が無い「 無明 」であるため、「 不安 」であると考えている。
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2013年01月26日

2013/1/26、オカルト・気(ki)と情(zyou)と欲4・不安

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為@「 閉じこもり 」(11/10追加)A「 脱皮 」(11/10追加)

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)

魂(11/10追加)

鬼(ki)「 邪しき神」や「邪しき鬼(もの)」という得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは鬼神(kizinn)(11/10追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)

霊(11/10追加)

鬼(oni)(死霊)(亡霊)(11/10追加)




2013/1/6、私の記事



上記のことは、「 実有と実体 」で書いたものだが、これは気(ki)と情(zyou)の考えの適用であると考えている。


人間は、すべて「 欲 」を持ち、生きることも「 欲 」を持つから可能であると思う。

本能も「 欲 」である。

ここで、「 欲 」を鬼(ki)、あるいは鬼(oni)であると置き換えて考える。


気(ki)である鬼(ki)を「 欲 」と解釈し、情(zyou)である鬼(oni)を「 欲望 」と解釈し、前者を「 実有 」と考え、後者を「 実体 」と解釈すれば、上記のことが、そのまま適用されると思う。


人間は、社会の様々な「 関係 」で結ばれているが、この「 関係 」を気(ki)と情(zyou)をつなぐエネルギーであると考える。


人間の気(ki)の「 関係 」は、人知が及ばない「 縁や因縁 」であるが、これが習慣となると「 存在意識 」が出来て、これが気(ki)と情(zyou)とつなぐ「 相当因果関係 」であり、「操作可能 」な関係(法則)となる。


気(ki)である、欲や実有や縁や因縁は「 連続するもの 」であり、情(zyou)である、欲望や実体や相当因果関係は「 不連続 」であり、後者の中に「 自由 」があるが、その基盤である前者の「 無明と可能性 」が連続しているから、自由は「 在る 」と感じられると思う。

これは、情(zyou)が「 大気 」であり、気(ki)が「 エーテル 」であることに符合する。


情(zyou)の「 自由 」は不連続であり、自分の内部に、気(ki)の「 無明 」を根底に含み、「 連続 」を断ち切り、「 利己欲 」で判断するため、社会に対する「 責任 」が生じ、根底が無明であるため、情(zyou)は「 無常 」であると解釈する。


「 欲 」や「 実有」と「 欲望 」や「 実体 」を分けるのは「 利己欲 」や「 保身 」であると思う。


情(zyou)は、遺伝子情報のように人間には不可欠であり、「 存在意識 」を持ち、自分と他人を区別するのは必然だが、人は自分だけでは生きてゆけない。



2013/1/19、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記より、人間の欲は、気(ki)としての、エーテルのような「 実有 」としての「 欲 」と情(zyou)としての、大気のような「 実体 」としての「 欲望 」に区別し、前者と後者を分かつのは、後者の「 利己欲 」であると思う。


後者は、情(zyou)の欲であり、本来は「 実有 」として連続し、区別することが出来ない空間を、情(zyou)は体験や記憶により、「 過去と現在と未来 」という不連続を作り、本来は「 縁と因縁 」による「 因果 」が、情(zyou)という欲により「 相当因果関係 」として人間が取扱い得る「 関係 」にして、「 過失責任 」を導入したのが、現在の社会であると思う。


情(zyou)によって決まる「 実体 」は流転し、相対的で、無常な形であるだろう。


気(ki)も情(zyou)も、根底には無明を抱えている。


「 相対的なものには相対的に、絶対的なものには絶対的に 」という哲学者の言葉がある。


上記のように考えると、無明の中に絶対的なもの(仏陀やキリスト)をもとめるべきで、無明であるから金銭や人情などの相対的なものを絶対的なものとして求めるべきではないと思う。


相対的なものは不連続であり、いつかは、幻滅するだろう。


絶対的と相対的は、自分が決めることだと思うが、それは気(ki)を選ぶか、情(zyou)を選ぶかの問題であると思う。


決めるのは情(zyou)であるかも知れないが、その行為は気(ki)である。


気(ki)を実行することが出来るか否かが、成功と失敗を分けると思う。


正しく気(ki)を「 認識 」し、「 行為 」することが、絶対的なものの実行だろう。


情(zyou)は、体験や記憶からくる「 損得勘定 」であり、「 愛 」と「 情 」が組み合った「 愛情 」は人間に必要であるが、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば、「 愛 」ではなくなる。


「 恋 」と「 情 」が組み合った「 恋情 」も、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば「 恋 」は「 愛 」と同じく本来の気(ki)ではなくなると思う。


「 恋 」も「 愛 」も、本来は方向性に迷うものであるが、「 損得勘定 」や「 打算 」で、その方向は決まり、迷いがない状態になるだろう。


「 損得勘定 」に誤算が生じ、「 離婚 」になり、「 愛 」の金銭的評価により、「 愛情 」が決まる。


これは、恋愛している場合のプレゼントの値段により「 愛情 」が決まることにも符合する。


「 愛 」が欲しいのでなく、「 愛情 」が欲しい結果、「 過去や未来 」の評価を決める情(zyou)が働き、情(zyou)の大きさが「 愛 」の大きさと勘違いをしてしまうだろう。


「 愛情 」は利己的な欲であり、情(zyou)を捨てることにより、「 愛 」が得られるかもしれない。


2013/1/20、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これで、結論のような考えに至った。

宇宙の果てから、自分の体内の細胞に至るまで、「 欲 」が満ちていて、それはエーテルと符合する。

空中にはエーテルと大気が存在するように、人間の中に「 欲 」と「 欲望 」が存在し、それぞれエーテルと「 欲 」、大気と「 欲望 」が符合する。

「 欲 」の中には気(ki)と情(zyou)があり、気(ki)は「 欲 」やエーテルや「 実有 」、情(zyou)は「 欲望 」や大気や「 実体 」と符合し、両者を分けるのは、「 利己欲 」であるという考えである。

先日は「 愛情 」について書いたが、「 感情 」についても同じことが言えると思う。

「 感情 」は「 感じる 」ことと、「 情 」が合体した言葉だが、「 感じること 」は気(ki)に属し、「 情 」は情(zyou)であると考え、情(zyou)が発生するのは、ミラーニューロンであると思う。

他人の事を自分の事のように「 同情 」し、わが身にシュミレーションをするのがミラーニューロンであり、情(zyou)が持つ、記憶による予測や反省を引き起こすと思う。

どこまで「 同情 」するかは、個人の「 利己欲 」に依り、従って、何を「 実体 」と見るかも「 利己欲 」であり、どこを境界線とするかも「 利己欲 」であると思う。

今まで「 無意識 」というのが「 利己欲 」であったことになり、「 心は無意識の現れである 」というのも「 心は利己欲の現れである 」ことになり、「 人格は無意識の現れである 」ことも「 人格は利己欲の現れである 」という結果になる。

「 実有 」の中から「 実体 」を選出するのも「 利己欲 」であり、気(ki)から情(zyou)が生じるのも「 利己欲 」であり、「 欲 」の中の「 利己欲 」であるから、見た光景にベクトル(力線)を感じると思う。


2013/1/26、私の考え・不安


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、上記のように、心理を「 気(ki)と情(zyou) 」と「 欲 」という「 エネルギー 」の二重構造と考える。



行動は無意識と意識の行動であると考えるのが一般的かもしれないが、私は賛成しない。


行動は気(ki)であり、それを促すのは「 気(ki)の欲 」と「 情(zyou)の欲 」というエネルギーであると思う。


前者が「 無意識 」で後者が「 意識 」であると考えるのではなく、「 気(ki)の欲 」や「 情(zyou)の欲 」の中にも「 無意識と意識 」は存在する。


私は、「 欲 」が気(ki)と「 実体化 」した、あるいは存在として感じたのが「 気(ki)の欲 」であり、それが「 対象が無い不安 」であると考える。


「 気(ki)の欲 」が「 不安 」であり、目的を持たない「 実体化 」であるのは、本来が「 無明 」から発生するからであり、「 実体 」ではないが、「 実有 」である。


これに対して、「 欲 」が情(zyou)と「 実体化 」したのが「 情(zyou)の欲 」であり、これが一般的に「 意欲 」と呼ぶものだと思う。


これは、対象(実体)のある動機であり、行動のエネルギーである。


「 欲 」が「 実体化 」するとはエネルギーが行動となって現れることであり、心理学で扱われるものだと思うが、「 不安 」は「 気(ki)の欲 」であり、「 実有 」であるが「 実体 」でないので、心理学では解決することが出来ない「 無意識 」であると言われるかも知れない。


「 不安 」は「 気(ki)の欲 」であり、「 無明 」を内包し、「 実体 」ではなく「 実有 」のエネルギーであり、「 実体 」を「 相対化 」する、あるいは「 無常 」と感じさせるエネルギーであると思う。
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2013年01月23日

2013/1/23、二見浦と伊勢内宮への旅 3・伊勢神宮遷宮の年

伊勢神宮内宮の内部の写真は、Taboo であると思うが、本年は伊勢神宮式年遷宮の年でもあり、その宣伝も兼ねて、私が写した写真を掲載します。


内宮1


これは、バスのガイドさんから、2013/1/11、全国の神様が集って、新年会をする儀式だと聞きました。

本年は、伊勢神宮と出雲大社が同じ年に遷宮をする珍しい年です。

伊勢の式年遷宮のことは以下のようなウェブページがあります。





遷宮

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E5%AE%AE

遷宮(せんぐう)とは、神社の本殿の造営または修理の際に、神体を従前とは異なる本殿に移すことである。

概要

本殿が従前とは異なる境内に新築移転したり、同じ境内で別の位置に新築移転したりする際のほか、本殿の修理や新築の際に一時的に神体を移動する場合にも遷宮という。たいてい祭礼を伴う。

定期的な遷宮を式年遷宮(しきねんせんぐう)と言う。「式年」とは「定められた年」の意。単に「式年遷宮」という時、伊勢神宮(三重県伊勢市)の神宮式年遷宮を指すことが多い。式年遷宮は式年祭の一種といわれる。社殿を建て替えるだけでなく、氏子の信仰心を再確認する意味がある[1]。

予定通りの遷宮を正遷宮、天災・人災により予定外の本殿の修繕・建て替えが必要になった場合に仮の建物に移す遷宮を仮殿遷宮、予定外に本殿を新たに建てた上で正遷宮と同様の儀式を行ない移す遷宮を臨時遷宮と区別する場合がある。

なお、本殿を造営・修理することなく、神体を遷すことを遷座(せんざ)という。この遷座という言葉は仏教にもあり、本尊を他の場所に移転することを指す。



伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト

http://www.sengu.info/index.html

伊勢神宮式年遷宮
http://www.isejingu.or.jp/shikinensengu/



http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130120-00000600-playboyz-soci

【3】20年に一度の式年“遷宮”って何?

今年は伊勢神宮の“遷宮年”。式年遷宮は伊勢神宮最大のお祭りで、社殿の建て替え……簡単に言うと、20年に一度、神様のために新居を造ってお引っ越しさせるのである。

伊勢神宮における式年遷宮の歴史は古く、第1回の式年遷宮は690年のこと。以来、戦国時代に124年間中断したものの、1320年以上続いているのだ。

しかも今年は島根県の出雲大社(いずもおおやしろ)も60年に一度の遷宮年。両社の“同年遷宮”は史上初とのこと。これは吉兆以外のナニモノでもない!

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2013年01月20日

2013/1/20、オカルト・気(ki)と情(zyou)と欲 3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為@「 閉じこもり 」(11/10追加)A「 脱皮 」(11/10追加)

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)

魂(11/10追加)

鬼(ki)「 邪しき神」や「邪しき鬼(もの)」という得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは鬼神(kizinn)(11/10追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)

霊(11/10追加)

鬼(oni)(死霊)(亡霊)(11/10追加)




2013/1/6、私の記事



上記のことは、「 実有と実体 」で書いたものだが、これは気(ki)と情(zyou)の考えの適用であると考えている。


人間は、すべて「 欲 」を持ち、生きることも「 欲 」を持つから可能であると思う。

本能も「 欲 」である。

ここで、「 欲 」を鬼(ki)、あるいは鬼(oni)であると置き換えて考える。


気(ki)である鬼(ki)を「 欲 」と解釈し、情(zyou)である鬼(oni)を「 欲望 」と解釈し、前者を「 実有 」と考え、後者を「 実体 」と解釈すれば、上記のことが、そのまま適用されると思う。


人間は、社会の様々な「 関係 」で結ばれているが、この「 関係 」を気(ki)と情(zyou)をつなぐエネルギーであると考える。


人間の気(ki)の「 関係 」は、人知が及ばない「 縁や因縁 」であるが、これが習慣となると「 存在意識 」が出来て、これが気(ki)と情(zyou)とつなぐ「 相当因果関係 」であり、「操作可能 」な関係(法則)となる。


気(ki)である、欲や実有や縁や因縁は「 連続するもの 」であり、情(zyou)である、欲望や実体や相当因果関係は「 不連続 」であり、後者の中に「 自由 」があるが、その基盤である前者の「 無明と可能性 」が連続しているから、自由は「 在る 」と感じられると思う。

これは、情(zyou)が「 大気 」であり、気(ki)が「 エーテル 」であることに符合する。


情(zyou)の「 自由 」は不連続であり、自分の内部に、気(ki)の「 無明 」を根底に含み、「 連続 」を断ち切り、「 利己欲 」で判断するため、社会に対する「 責任 」が生じ、根底が無明であるため、情(zyou)は「 無常 」であると解釈する。


「 欲 」や「 実有」と「 欲望 」や「 実体 」を分けるのは「 利己欲 」や「 保身 」であると思う。


情(zyou)は、遺伝子情報のように人間には不可欠であり、「 存在意識 」を持ち、自分と他人を区別するのは必然だが、人は自分だけでは生きてゆけない。



2013/1/19、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記より、人間の欲は、気(ki)としての、エーテルのような「 実有 」としての「 欲 」と情(zyou)としての、大気のような「 実体 」としての「 欲望 」に区別し、前者と後者を分かつのは、後者の「 利己欲 」であると思う。


後者は、情(zyou)の欲であり、本来は「 実有 」として連続し、区別することが出来ない空間を、情(zyou)は体験や記憶により、「 過去と現在と未来 」という不連続を作り、本来は「 縁と因縁 」による「 因果 」が、情(zyou)という欲により「 相当因果関係 」として人間が取扱い得る「 関係 」にして、「 過失責任 」を導入したのが、現在の社会であると思う。


情(zyou)によって決まる「 実体 」は流転し、相対的で、無常な形であるだろう。


気(ki)も情(zyou)も、根底には無明を抱えている。


「 相対的なものには相対的に、絶対的なものには絶対的に 」という哲学者の言葉がある。


上記のように考えると、無明の中に絶対的なもの(仏陀やキリスト)をもとめるべきで、無明であるから金銭や人情などの相対的なものを絶対的なものとして求めるべきではないと思う。


相対的なものは不連続であり、いつかは、幻滅するだろう。


絶対的と相対的は、自分が決めることだと思うが、それは気(ki)を選ぶか、情(zyou)を選ぶかの問題であると思う。


決めるのは情(zyou)であるかも知れないが、その行為は気(ki)である。


気(ki)を実行することが出来るか否かが、成功と失敗を分けると思う。


正しく気(ki)を「 認識 」し、「 行為 」することが、絶対的なものの実行だろう。


情(zyou)は、体験や記憶からくる「 損得勘定 」であり、「 愛 」と「 情 」が組み合った「 愛情 」は人間に必要であるが、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば、「 愛 」ではなくなる。


「 恋 」と「 情 」が組み合った「 恋情 」も、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば「 恋 」は「 愛 」と同じく本来の気(ki)ではなくなると思う。


「 恋 」も「 愛 」も、本来は方向性に迷うものであるが、「 損得勘定 」や「 打算 」で、その方向は決まり、迷いがない状態になるだろう。


「 損得勘定 」に誤算が生じ、「 離婚 」になり、「 愛 」の金銭的評価により、「 愛情 」が決まる。


これは、恋愛している場合のプレゼントの値段により「 愛情 」が決まることにも符合する。


「 愛 」が欲しいのでなく、「 愛情 」が欲しい結果、「 過去や未来 」の評価を決める情(zyou)が働き、情(zyou)の大きさが「 愛 」の大きさと勘違いをしてしまうだろう。


「 愛情 」は利己的な欲であり、情(zyou)を捨てることにより、「 愛 」が得られるかもしれない。


2013/1/20、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これで、結論のような考えに至った。

宇宙の果てから、自分の体内の細胞に至るまで、「 欲 」が満ちていて、それはエーテルと符合する。

空中にはエーテルと大気が存在するように、人間の中に「 欲 」と「 欲望 」が存在し、それぞれエーテルと「 欲 」、大気と「 欲望 」が符合する。

「 欲 」の中には気(ki)と情(zyou)があり、気(ki)は「 欲 」やエーテルや「 実有 」、情(zyou)は「 欲望 」や大気や「 実体 」と符合し、両者を分けるのは、「 利己欲 」であるという考えである。

先日は「 愛情 」について書いたが、「 感情 」についても同じことが言えると思う。

「 感情 」は「 感じる 」ことと、「 情 」が合体した言葉だが、「 感じること 」は気(ki)に属し、「 情 」は情(zyou)であると考え、情(zyou)が発生するのは、ミラーニューロンであると思う。

他人の事を自分の事のように「 同情 」し、わが身にシュミレーションをするのがミラーニューロンであり、情(zyou)が持つ、記憶による予測や反省を引き起こすと思う。

どこまで「 同情 」するかは、個人の「 利己欲 」に依り、従って、何を「 実体 」と見るかも「 利己欲 」であり、どこを境界線とするかも「 利己欲 」であると思う。

今まで「 無意識 」というのが「 利己欲 」であったことになり、「 心は無意識の現れである 」というのも「 心は利己欲の現れである 」ことになり、「 人格は無意識の現れである 」ことも「 人格は利己欲の現れである 」という結果になる。

「 実有 」の中から「 実体 」を選出するのも「 利己欲 」であり、気(ki)から情(zyou)が生じるのも「 利己欲 」であり、「 欲 」の中の「 利己欲 」であるから、見た光景にベクトル(力線)を感じると思う。

感覚は、気(ki)を感じることであるが、何を感じるのかは、無意識、つまり「 利己欲 」であると思う。

感性の向上を願うならば、「 利己欲 」の中から、いかに「 清らかな欲 」を発見するかについて努力するのが良いと思う。

最初は、社会の「 道徳 」や「 信義則 」、その上に「 理性 」を考えることは、イマヌエル・カントの教えのとおりだと思う。

まず、人を手段として用いないこと。

これを第一に考えることが個人に「 人権 」を認めることになり、人を人として平等に認め合う出発点であると思う。


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2013年01月19日

2013/1/19、オカルト・気(ki)と情(zyou)と欲 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為@「 閉じこもり 」(11/10追加)A「 脱皮 」(11/10追加)

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)

魂(11/10追加)

鬼(ki)「 邪しき神」や「邪しき鬼(もの)」という得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは鬼神(kizinn)(11/10追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)

霊(11/10追加)

鬼(oni)(死霊)(亡霊)(11/10追加)




2013/1/6、私の記事



上記のことは、「 実有と実体 」で書いたものだが、これは気(ki)と情(zyou)の考えの適用であると考えている。


人間は、すべて「 欲 」を持ち、生きることも「 欲 」を持つから可能であると思う。

本能も「 欲 」である。

ここで、「 欲 」を鬼(ki)、あるいは鬼(oni)であると置き換えて考える。


気(ki)である鬼(ki)を「 欲 」と解釈し、情(zyou)である鬼(oni)を「 欲望 」と解釈し、前者を「 実有 」と考え、後者を「 実体 」と解釈すれば、上記のことが、そのまま適用されると思う。


人間は、社会の様々な「 関係 」で結ばれているが、この「 関係 」を気(ki)と情(zyou)をつなぐエネルギーであると考える。


人間の気(ki)の「 関係 」は、人知が及ばない「 縁や因縁 」であるが、これが習慣となると「 存在意識 」が出来て、これが気(ki)と情(zyou)とつなぐ「 相当因果関係 」であり、「操作可能 」な関係(法則)となる。


気(ki)である、欲や実有や縁や因縁は「 連続するもの 」であり、情(zyou)である、欲望や実体や相当因果関係は「 不連続 」であり、後者の中に「 自由 」があるが、その基盤である前者の「 無明と可能性 」が連続しているから、自由は「 在る 」と感じられると思う。

これは、情(zyou)が「 大気 」であり、気(ki)が「 エーテル 」であることに符合する。


情(zyou)の「 自由 」は不連続であり、自分の内部に、気(ki)の「 無明 」を根底に含み、「 連続 」を断ち切り、「 利己欲 」で判断するため、社会に対する「 責任 」が生じ、根底が無明であるため、情(zyou)は「 無常 」であると解釈する。


「 欲 」や「 実有」と「 欲望 」や「 実体 」を分けるのは「 利己欲 」や「 保身 」であると思う。


情(zyou)は、遺伝子情報のように人間には不可欠であり、「 存在意識 」を持ち、自分と他人を区別するのは必然だが、人は自分だけでは生きてゆけない。


「 利己欲 」という情(zyou)が強いほど「 実体 」に依存し、執着し、「 生前 」に執着するが、「 利己欲が無いとき 」は、「 生前 」も「 死後 」も「 実有 」を信じて、人を信じて、不安が無いと思う。


「 金銭 」という「 実体 」を信じて安心するか、「 人の関係 」を信じて安心するかは、「 利己欲 」という情(zyou)の有無による。


「 金銭 」が無くて不安なのは「 人の関係 」という目には見えないエネルギーを信じないからであり、物事を金銭で解決するという、人の関係より利己欲を重視するからであると思う。


「 金銭 」の有効性は、その時の政府が保障する価値であり、政府の補償が無ければ紙屑であり、それを信じるのは、「 金銭 」で善意を強要することであり、人の善意を信じていないと考える。


「 利己欲 」が物化し、「 存在意識 」や情(zyou)あるいは情報として霊長類の子孫に「 実体 」として伝染することを鬼(oni)や「 死霊 」が憑依すると解釈するのに対し、気(ki)である鬼(ki)は、人のエネルギーとして大気中や地球の周囲に拡散し、世界中の人類の中に「 実有 」する。


そして、「 利己欲 」は、自分に利益しか眼中にないから、「 信義則を持っていないこと 」も鬼(oni)の特徴であるかも知れない。

鬼(oni)を破壊するものは「 信義則 」という関係(エネルギー)であり、同じエネルギーである鬼(ki)へと移行すると思う。


人間を、情(zyou)という「 実体 」と気(ki)というエネルギーで構成すれば、関係は気(ki)であり、エネルギーであり、「 実体 」である「 利己欲 」が強いほど、移行するエネルギーは大きく、悪人が善人になる場合など、エネルギーも大きいと思う。



2013/1/19、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記より、人間の欲は、気(ki)としての、エーテルのような「 実有 」としての「 欲 」と情(zyou)としての、大気のような「 実体 」としての「 欲望 」に区別し、前者と後者を分かつのは、後者の「 利己欲 」であると思う。


後者は、情(zyou)の欲であり、本来は「 実有 」として連続し、区別することが出来ない空間を、情(zyou)は体験や記憶により、「 過去と現在と未来 」という不連続を作り、本来は「 縁と因縁 」による「 因果 」が、情(zyou)という欲により「 相当因果関係 」として人間が取扱い得る「 関係 」にして、「 過失責任 」を導入したのが、現在の社会であると思う。


情(zyou)によって決まる「 実体 」は流転し、相対的で、無常な形であるだろう。


気(ki)も情(zyou)も、根底には無明を抱えている。


「 相対的なものには相対的に、絶対的なものには絶対的に 」という哲学者の言葉がある。


上記のように考えると、無明の中に絶対的なもの(仏陀やキリスト)をもとめるべきで、無明であるから金銭や人情などの相対的なものを絶対的なものとして求めるべきではないと思う。


相対的なものは不連続であり、いつかは、幻滅するだろう。


絶対的と相対的は、自分が決めることだと思うが、それは気(ki)を選ぶか、情(zyou)を選ぶかの問題であると思う。


決めるのは情(zyou)であるかも知れないが、その行為は気(ki)である。


気(ki)を実行することが出来るか否かが、成功と失敗を分けると思う。


正しく気(ki)を「 認識 」し、「 行為 」することが、絶対的なものの実行だろう。


情(zyou)は、体験や記憶からくる「 損得勘定 」であり、「 愛 」と「 情 」が組み合った「 愛情 」は人間に必要であるが、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば、「 愛 」ではなくなる。


「 恋 」と「 情 」が組み合った「 恋情 」も、「 損得勘定 」や「 打算 」が入れば「 恋 」は「 愛 」と同じく本来の気(ki)ではなくなると思う。


「 恋 」も「 愛 」も、本来は方向性に迷うものであるが、「 損得勘定 」や「 打算 」で、その方向は決まり、迷いがない状態になるだろう。


「 損得勘定 」に誤算が生じ、「 離婚 」になり、「 愛 」の金銭的評価により、「 愛情 」が決まる。


これは、恋愛している場合のプレゼントの値段により「 愛情 」が決まることにも符合する。


「 愛 」が欲しいのでなく、「 愛情 」が欲しい結果、「 過去や未来 」の評価を決める情(zyou)が働き、情(zyou)の大きさが「 愛 」の大きさと勘違いをしてしまうだろう。


「 愛情 」は利己的な欲であり、情(zyou)を捨てることにより、「 愛 」が得られるかもしれない。

「 愛国無罪 」というが、「 愛国 」の中に、過去や未来を含んだ打算的な情(zyou)があるから、自国の外で「 犯罪 」を犯し他国の「 信義則 」を破るのであり、打算を含まぬ「 愛 」なら、自己を否定する、政治的であれば体制内批判になる行為として現れ、その行為を許すのが「 愛国無罪 」であると思う。


政治的に言えば、アメリカで富裕層への増税、中国では、「 天安門 」の自由を求める行為や「 チベット仏教 」の信仰の自由を求める行為、日本では「 原発ゼロ 」を求める行為を許すこと、いわゆる「 人権問題 」を解決することが、「 愛国無罪 」であると思う。


「 愛 」は気(ki)であり、現在にだけ存在する。


過去や未来への「 愛 」は、情(zyou)であり、愛情であり、打算的な愛であり、それを現在で発揮したのが「 愛 」ではなく、それを否定するのが「 愛 」であると思う。

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2013年01月17日

2012/1/17、二見浦と伊勢内宮への旅 2 夫婦岩

残りの写真を掲載します。

二見浦の夫婦岩です。

夫婦岩4


夫婦岩7


夫婦岩6
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2013年01月12日

2013/1/12、二見浦と伊勢内宮への旅

2013/1/11、二見浦と伊勢内宮へ行きました。
天気は晴れで、二見浦の二見興玉神社内の「 夫婦岩 」が良く見えました。
伊勢内宮での写真撮影はTaboo ですので数枚しかありません。
興味がある方は、是非、ご参拝されることをお勧めします。

夫婦岩


夫婦岩1



夫婦岩2


夫婦岩3


内宮1


内宮2


内宮3


二見浦

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E8%A6%8B%E6%B5%A6

伊勢内宮


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
posted by kandk55 at 07:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 二見浦と伊勢内宮 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年01月06日

2013/1/6、オカルト・気(ki)と情(zyou)と欲

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2012/1/14、私の記事


「 万物は流転する 」が無常であり、「 我々はどこから来たのか、我々は何者か、我々はどこに行くのか 」を無明と考え、前者が情(zyou)であり、肉体であり、後者は気(ki)であり、生命であると思う


2012/5/19、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調は求めない。


私は、@時間を創る空間関係(因果の時間)と

A人間が考える時間(時間意識)を分ける。



2012/6/12、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

私は、ここで「 無意識 」を修正することにする。

それは、「 小脳の無意識 」と「 大脳の無意識 」とに分け、前者が「 気(ki)」の無意識とし、後者を「 情(zyou)の無意識 」と仮定し、前者が後者を包摂すると考える。

そして、次のように連想する。

T、一方では、

@の時間

関係

連続

実有

気(ki)

気(ki)の無意識

現在

行為@「 閉じこもり 」(11/10追加)A「 脱皮 」(11/10追加)

無明

生命

エーテル(媒体)電磁場や重力場が存在する真空の空間(10/13追加)

ミラーニューロン(10/13追加)

生き物(10/13追加)

魂(11/10追加)

鬼(ki)「 邪しき神」や「邪しき鬼(もの)」という得体の知れぬ「カミ」や「モノ」、あるいは鬼神(kizinn)(11/10追加)



U、他方では、

Aの時間(時間意識)

実体

不連続

虚(kyo)

情(zyou)

情(zyou)の無意識

過去や未来

思考

無常

肉体

大気(媒体)(10/13追加)

ニューロン(10/13追加)

霊長類(10/13追加)

霊(11/10追加)

鬼(oni)(死霊)(亡霊)(11/10追加)


2012/11/25、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


単純なことだが、「 実体 」と「 実有 」とは違うことに気づいた。


前者は、「 不連続 」の「 意識 」であり、文化であり、教育も出来る、「 実体 」という「 虚 」であり、前者の無意識は大脳の情(zyou)の無意識である。


後者は、気(ki)の無意識であり、小脳の無意識、つまり生命に直結する「 連続 」した「 実有 」であり、範囲は「 実体 」より広く、意識を超えた宇宙である。


意識の「 実体 」に「 現在 」という気(ki)の無意識が加わったのが「 実有 」であるかも知れない。


教育し、伝承され、共感される(ミラーニューロンが働く)のは、「 今 」や「 現在 」という気(ki)の中で「 実体 」の「 不連続 」を「 連続 」させることであり、「 実有 」や「 連続 」は、共感した現在の個人の中に存在すると考える。


「 実体 」は「 実有 」を必要としない「 虚 」であり、学問は「 虚 」であり、学問を修めるとは、人類が知恵を喰い尽くし、その食べ残しを食べることだと思う。


この観点から、霊魂を考えると、情(zyou)として、意識としての見えない物や「 文化 」が「 霊 」であり、「 虚 」であり、これは人から教育や教唆されても、「 実体 」と意識するだろう。


これに対して、気(ki)として、見えない物、あるいはエネルギーが「 魂 」であり、無意識によって「 実有 」と実感され、「 実体 」と「 実有 」が出会い実感される場所が「 今 」「 現在 」の「 現実 」であり、それが「 霊魂 」であると思う。


教育や教唆されての「 人で無いもの 」が鬼(oni)であり、無意識に恐れる「 人で無いもの 」が鬼(ki)であるだろう。


前者の鬼(oni)が、文化として、情(zyou)としての「 人で無いもの 」であり、社会的であり、宗教など信じることなく生まれる。


言い換えると、「 信義則 」や「 信頼 」が無くても、鬼(oni)は生まれるし、「 信義則 」や「 約束 」は鬼(oni)には必要が無い。

それが、科学的「 実体 」であるだろう。


鬼(oni)は、後者の鬼(ki)を必要としない、科学的「 実体 」という「 虚 」であり、学問の「 虚 」であり、生命に直結する「 信義則 」や「 約束を信じること 」つまり「 義 」は必要ではない。


後者の鬼(ki)が、気(ki)としての「 人で無いもの 」であり、個別的であり、生命的な「 無明 」であり、「 信義則や約束を信じること 」により、存在し、それが「 義 」であるだろう。


「 不連続 」と「 不連続 」を「 信じること 」により「 連続 」させる。


鬼(oni)は情(zyou)であり、「 信義則 」や「 約束 」という「 義 」を破っても存在し続けるが、鬼(ki)は、「 信義則 」や「 約束 」を守り、信じる人は「 信義則や約束が無い状態、つまり「 義 」が無い状態(無明)が生命と直結することを恐れる 」から、「 恐れる 」人の間に存在する。


「 信義則 」や「 約束 」を破る鬼(oni)は、科学的な死霊であり、「 信じること 」をせず、「 義 」を知らず、生命を考えないから、鬼(ki)である「 魂 」を持っていないことになると考えている。


「 義 」とは、人倫の道であり、人として為すべき人の行為である。


「 魂 」という漢字の中には「 鬼(oni)」という漢字が含まれている。

「 魂 」は、人類のすべてが持っている。

人類のすべては、「 鬼(oni)」を持っている。


鬼(oni)を、鬼(oni)として残すか、鬼(ki)に変えるかは、個人の自由である。


2013/1/6、私の考え



上記のことは、「 実有と実体 」で書いたものだが、これは気(ki)と情(zyou)の考えの適用であると考えている。


人間は、すべて「 欲 」を持ち、生きることも「 欲 」を持つから可能であると思う。

本能も「 欲 」である。

ここで、「 欲 」を鬼(ki)、あるいは鬼(oni)であると置き換えて考える。


気(ki)である鬼(ki)を「 欲 」と解釈し、情(zyou)である鬼(oni)を「 欲望 」と解釈し、前者を「 実有 」と考え、後者を「 実体 」と解釈すれば、上記のことが、そのまま適用されると思う。


人間は、社会の様々な「 関係 」で結ばれているが、この「 関係 」を気(ki)と情(zyou)をつなぐエネルギーであると考える。


人間の気(ki)の「 関係 」は、人知が及ばない「 縁や因縁 」であるが、これが習慣となると「 存在意識 」が出来て、これが気(ki)と情(zyou)とつなぐ「 相当因果関係 」であり、「操作可能 」な関係(法則)となる。


気(ki)である、欲や実有や縁や因縁は「 連続するもの 」であり、情(zyou)である、欲望や実体や相当因果関係は「 不連続 」であり、後者の中に「 自由 」があるが、その基盤である前者の「 無明と可能性 」が連続しているから、自由は「 在る 」と感じられると思う。

これは、情(zyou)が「 大気 」であり、気(ki)が「 エーテル 」であることに符合する。


情(zyou)の「 自由 」は不連続であり、自分の内部に、気(ki)の「 無明 」を根底に含み、「 連続 」を断ち切り、「 利己欲 」で判断するため、社会に対する「 責任 」が生じ、根底が無明であるため、情(zyou)は「 無常 」であると解釈する。


「 欲 」や「 実有」と「 欲望 」や「 実体 」を分けるのは「 利己欲 」や「 保身 」であると思う。


情(zyou)は、遺伝子情報のように人間には不可欠であり、「 存在意識 」を持ち、自分と他人を区別するのは必然だが、人は自分だけでは生きてゆけない。


「 利己欲 」という情(zyou)が強いほど「 実体 」に依存し、執着し、「 生前 」に執着するが、「 利己欲が無いとき 」は、「 生前 」も「 死後 」も「 実有 」を信じて、人を信じて、不安が無いと思う。


「 金銭 」という「 実体 」を信じて安心するか、「 人の関係 」を信じて安心するかは、「 利己欲 」という情(zyou)の有無による。


「 金銭 」が無くて不安なのは「 人の関係 」という目には見えないエネルギーを信じないからであり、物事を金銭で解決するという、人の関係より利己欲を重視するからであると思う。


「 金銭 」の有効性は、その時の政府が保障する価値であり、政府の補償が無ければ紙屑であり、それを信じるのは、「 金銭 」で善意を強要することであり、人の善意を信じていないと考える。


「 利己欲 」が物化し、「 存在意識 」や情(zyou)あるいは情報として霊長類の子孫に「 実体 」として伝染することを鬼(oni)や「 死霊 」が憑依すると解釈するのに対し、気(ki)である鬼(ki)は、人のエネルギーとして大気中や地球の周囲に拡散し、世界中の人類の中に「 実有 」する。


そして、「 利己欲 」は、自分に利益しか眼中にないから、「 信義則を持っていないこと 」も鬼(oni)の特徴であるかも知れない。

鬼(oni)を破壊するものは「 信義則 」という関係(エネルギー)であり、同じエネルギーである鬼(ki)へと移行すると思う。


人間を、情(zyou)という「 実体 」と気(ki)というエネルギーで構成すれば、関係は気(ki)であり、エネルギーであり、「 実体 」である「 利己欲 」が強いほど、移行するエネルギーは大きく、悪人が善人になる場合など、エネルギーも大きいと思う。
posted by kandk55 at 04:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 42 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする