2013年06月30日

2013/6/30、オカルト・エーテルと神仏 17・情(zyou)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2013/6/1、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。

以上により、エーテルは神仏の身体であり、連続した必然の「 実有 」であると考えます。

電気というエネルギーが神仏であり、大気(空気)に包まれた地球は神仏が創造した偶然の産物であり、「 神の愛 」であると考えます。

地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態を「 神の愛 」と考え、これのみが「 神の愛 」であり、宗教や哲学がいう「 神の愛 」は解釈であると考えます。

これは、ビッグ・バン理論ではなく、プラズマ宇宙論を採用しますから、神仏はビッグ・バンを起こしたエネルギーではなく、神仏はプラズマであり、その身体は宇宙を満たすエーテルであると考えています。

人間が死ねばエーテルとなり、情(zyou)では涅槃に入り、「 無余涅槃 」という神仏の身体になり、遠く西方浄土から人体の内部まで移動が可能であり、人間が気(ki)である生命というエネルギーを持ち、記憶で想像し、実体化する「 存在意識 」に相応して「 神仏 」が現れ、それが四方浄土に現れるのか、この世に現れるのかは情(zyou)の内容次第ですが、この世に「 神仏 」という存在意識を持った状態は「 有余涅槃 」であり仏教では「 即身成仏 」であると思います。

人間は意識があるため、過去や未来を考え、「 無明 」や「 無常 」と考えますが、自分が、すべて必然に流転して、死期が判明しているならば、絶望するでしょう。

「 無明 」や「 無常 」は人間に与えられた「 神の愛 」であり、「 無明 」や「 無常 」を克服した「 有余涅槃 」の状態であっても、地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態の「 神の愛 」を持つ人が、「 悟った人 」(たとえば、キリストや仏陀)と考えます。

「 神の愛 」の中で生まれて、生き、死後の魂は「 神の愛 」に還ると思います。


神の存在が証明されても、自分の身体の中の神仏を信じ、神仏に従って行動しなければ、だだの学問上の言葉の遊びで神を証明しただけで、「 悟った人 」ではないと思います。

「 悟った人 」には神の証明は不要で、行動が「 神の愛 」だと思います。


2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。

意識は量子力学の存在を決めるでしょうが、それは実体であり、「 無常 」であり、実有を定義することは出来ません。


物理学の法則が、系が違っても同じと言いますが、エーテルが前提に在る、すなわち、重力が観測者も観測対象物も共変することが前提になっていると思います。

換言すれば、宇宙の中でしか法則が成り立たないから、エーテルが必要だと思います。


従って、エーテルを考慮しない量子力学は宇宙の謎を解くことは出来ないと思います。



量子力学(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6

量子力学と意識

コペンハーゲン解釈はどのようにして観測によって波動関数が一つの状態に物理的に収縮するのかは説明しない。隠れた変数理論が数学的に成り立たないことがフォン・ノイマンによって証明された(しかし、後に、その証明に使われた仮定の1つが誤りであることが、デヴィッド・ボームによって指摘されている。)。そこで、ノイマンは、収縮は観測という人間の行為と同時に起こる、として、量子力学の枠組みで説明できない意識を導入し、意識と相互作用する際に収束がおきるという主張をした。ウィグナーは人間の意識の特別な意義を重要視する姿勢を示した。他に、ペンローズも意識や心と量子力学を関連させて論じている[6]。 しかし、観測の過程において、何時、どのようにして収縮が起きたかについては、それを論じる理論もなければ、それを示す証拠もなく、今日でも完全な合意は形成されていない。収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える。

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2013年06月29日

2013/6/29、原子力発電は必要か?子孫に憂いを残すな

ヤフーニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130629-00000115-jij-pol

自民、原発ゼロに反対=公明・野党は「目標」―幹事長討論会【13参院選】

時事通信 6月29日(土)18時33分配信


 与野党9党の幹事長らによる討論会が29日、大阪市内で行われ、参院選の争点となる原発政策や憲法改正をテーマに論戦を交わした。自民党を除く8党が「原発ゼロ」を目標とする方針を示したのに対し、自民党の石破茂幹事長は「ただ『脱原発』と国民を惑わすことを言ってはならない」と明確に反対した。
 石破氏は「原発依存度は下げる」としながらも、安全を確保した上で再稼働を進める考えも強調した。これに対し、公明党の井上義久幹事長と民主党の細野豪志幹事長、みんなの党の江田憲司幹事長らは、「原発ゼロを目指すか」との問いにいずれも賛成と回答した。
 細野氏は、安倍政権による原発輸出推進について「民主党政権は東京電力福島第1原発事故後、抑制的に対応した。安倍晋三首相を筆頭に売って回ることには違和感がある」と批判。江田氏は「原発を動かすほど増える核のごみの行き場は決まっていない。無責任だ」とし、共産党の市田忠義書記局長も「原発事故は収束しておらず、再稼働も輸出もあり得ない」と訴えた。

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130619-00000304-alterna-soci

自民党の高市早苗政調会長は「(東電原発事故によって)死亡者が出ている状況にない」とする自らの発言について19日午後、党本部で記者団らに「私が申し上げたエネルギー政策のすべての部分を撤回する。福島県の皆さんが私の発言で大変つらい思いをされ、怒りを覚えたとしたら申し訳ない」と述べ、謝罪した。

高市氏は17日に神戸市で「原発は稼働中のコストが安い。これまで事故は起きたが福島第一原発の事故も含めて死亡者はいない。最大限の安全性を確保しながら活用するしかない」と語り、党内外から強い批判を浴びていた。



2013/6/29、私の考え



これは、私だけの独り言であります。


上記のニュースより、自民党の「 原発 」に対する考えがうかがわれる。

自民党の高市早苗政調会長の言葉は、自民党の「本音 」であり、原子力発電から出る「 核のゴミ 」の最終処分地も決めないで、「 原発再稼働 」を図っていると思う。

自民党の高市早苗政調会長は本音を言っただけで、その証拠として何の処分も受けていない。

こんどの参議院選挙で、自民党が過半数を取ることを、安倍内閣は図っているが、「 国 」という名のもとに、何の責任も持たず、自民党は原発を再稼働させることが可能になるかも知れない。

自民党は、福島の原発事故があったにも関わらず、これまで「 原発建設を国策 」とした反省もせず、再び誤りの道に、「 日本国 」を導こうとしていると思う。

まず、原発から排出される「 核のゴミの最終処分地 」を決めるべきだと思う。

安倍首相は、自民党総裁として「 子孫に憂いを残すこと 」が好きな人物らしい。

アベノミックスだと言うが、政府によるインフレ誘導であり、官製バブルを起こしたと同じだと思うし、財政健全化を子孫に残すものであると思う。

消費税で、財政の健全化をすることは、許されない。

消費税は「 福祉の目的税 」であったはずで、一般財源に組み入れる約束ではないはずだ。

こんど、自民党が選挙に勝てば、無責任な勝手な政策をするだろう。

国会が「 イエスマン 」になれば、私たち国民はどんな行動をすべきだろうか?

どこかの共産主義の国と同じではないか!!

憲法を変え、原発を再稼働して、核のゴミを放置することは、子孫に憂いを残すことではないだろうか?
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2013年06月22日

2013/6/22、おめでとう世界文化遺産「 富士山 」

祝、世界文化遺産「 富士山 」


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130622-00000105-jij-soci

【プノンペン時事】カンボジアのプノンペンで開催中の国連教育科学文化機関(ユネスコ)世界遺産委員会は22日、日本が推薦していた「富士山」(静岡、山梨両県)の世界文化遺産への登録を決定した。


fuzi4
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2013/6/22、オカルト・エーテルと神仏 16・相対性理論

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/15、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。


2013/6/22、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



エーテルを否定することが、科学の進歩であれば、成功だったと同時に、失敗であったと思います。

一般相対性理論と特殊相対性理論があるが、前者はエーテルや涅槃の領域であり、後者は「 神の愛 」の領域であると思います。

「 神の愛 」である地球上では、一般相対性理論と特殊相対性理論が重なり、特殊相対性理論で物理が説明されるというが、それは「 エーテルと大気(空気)が一体となり分離できなく、大気だけを考え、エーテルを考えなくても物理は説明することができる 」ということだと思います。

しかし、重力がエーテルの中で伝わると考えると、エーテルの中で物理が成立していることを忘れてはならないと思います。

それは、「 神仏の身体 」の中に「 神の愛 」であることで、後者だけを考え前者を無視することは正しい理論ではないと思います。

一般性総体理論やエーテルや「 神仏の身体 」が「 涅槃 」で「 必然 」あり、特殊相対性理論や空気や「 神の愛 」は本来は「 偶然 」や現象であり、「 必然性 」であると思います。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が「 人間を必要とせずに因果が成立 」し、エーテルが必要であり、連続する「 実有 」であるのに対し、後者は「 人間の頭脳の中で成立する因果 」で、エーテルは必要でなく、不連続な「 実体 」であると思います。


もし、エネルギーがエーテルの中で伝達されるならば、特殊相対性理論でエネルギーを説明することは出来ないと思います。

私は、量子力学の不確実性理論は、エーテルを考慮していないのが原因であり、「 神様はサイコロをふらない 」ことを認めないことも同様で、量子理論は特殊な理論であると思います。

とても、宇宙を解明することは出来ない理論が量子理論であると思います。
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2013年06月19日

2013/6/19、原子力発電は必要か? 政調会長の言葉

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

ヤフーニュース@

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000099-jij-bus_all

大飯、高浜「速やかに申請」=原発新規制基準で―関電

時事通信 6月19日(水)15時2分配信

 関西電力は19日、原子力規制委員会が原発の新しい規制基準を正式に決定したことを受け、大飯原発3、4号機(福井県おおい町)と高浜原発3、4号機(同県高浜町)について「新規制基準の施行後、速やかに(審査を)申請したい」とするコメントを発表した。
 関電は「自主的かつ継続的に安全性を高め、今後とも世界最高水準の安全性を目指していく」として、新基準が求める安全対策に万全を期す姿勢を強調した。


ヤフーニュースA

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130619-00000038-mai-bus_all


<原子力規制委>新基準の審査受け付け、7月8日から

毎日新聞 6月19日(水)12時43分配信


 原子力規制委員会が19日、新規制基準を決めたことを受け、北海道電力や関西電力など電力大手は、7月8日の施行後すぐに新基準への適合審査の申請を行おうと準備を急いでいる。

 早期の申請が見込まれるのは、北海道電力の泊原発1〜3号機▽関西電力の高浜原発3、4号機と大飯原発3、4号機▽四国電力の伊方原発3号機▽九州電力の川内原発1、2号機と玄海原発3、4号機−−の計4社6原発12基。

 東京電力も柏崎刈羽原発1、7号機について申請準備を進めているが、新潟県の泉田裕彦知事は「福島第1原発事故の検証が先」と反発しており、安全対策設備の設置をめぐり、地元の了解を得られるのを待った上で申請を検討する。

 電力各社が再稼働を急ぐのは、原発の長期停止に伴う火力燃料費の増加で経営が悪化する中、早期に原発を再稼働すれば燃料費を抑えることができるためだ。ただ、規制委の審査には半年程度はかかると見られているうえ、規制委の審査チームが三つしかない。審査の第1陣から漏れた会社は、再稼働が遠のき収支改善も遅れるため、電気料金の再値上げや一段のリストラに追い込まれる懸念もある。

ヤフーニュースB

http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20130619-00000304-alterna-soci

自民党の高市早苗政調会長は「(東電原発事故によって)死亡者が出ている状況にない」とする自らの発言について19日午後、党本部で記者団らに「私が申し上げたエネルギー政策のすべての部分を撤回する。福島県の皆さんが私の発言で大変つらい思いをされ、怒りを覚えたとしたら申し訳ない」と述べ、謝罪した。

高市氏は17日に神戸市で「原発は稼働中のコストが安い。これまで事故は起きたが福島第一原発の事故も含めて死亡者はいない。最大限の安全性を確保しながら活用するしかない」と語り、党内外から強い批判を浴びていた。


2013/6/19、私の考え



これは、私だけの独り言である


原子力規制委員会が19日、新規制基準を決め、基準の審査受け付けは、7月8日からだというのに、電力業界は、すぐにでも、適合審査の申請をするという。

ニュース@とAがそれだ。

しかし、Aでもいうように、安全対策設備の設置をめぐり、地元の了解を得られるのを待った上で申請を検討すると決めている。

それなのに、自民党の政調会長である高市早苗議員は、あたかも電力業界を応援でもするかのように、「原発は稼働中のコストが安い。これまで事故は起きたが福島第一原発の事故も含めて死亡者はいない。最大限の安全性を確保しながら活用するしかない」と語る。

アベノミクスの実現のためには、「 原発再稼働 」が必要であるから、このような発言になったと思う。

原発は安全性が必要で、「 安全第一 」であるべきなのに、「(東電原発事故によって)死亡者が出ている状況にない」「 原発は稼働中のコストが安い 」など、原発被災者の神経を逆なでするような発言だ。

「 原発再稼働 」ではなく、原発事故のため、故郷に戻れない人や故郷を捨てた人を電力会社全体で賠償に当たるのが「 人の道 」ではないか。


政府の政策の継続性を自民党が言うならば、「 原発ゼロ 」が民意であることを忘れてはならない。

自民党が、これまで国民投票など「 民意を問う 」政治をしたことはない。

「 選挙 」が「 民意 」ではない。

政治屋を選ばなくては、政治をすることが出来ない状態にして、「 選挙に勝つ政治をする 」のが、政治屋の特徴だ。

政策を選んだのが「 原発ゼロ 」である。

政治の「 一丁目一番地 」である「(原発の)安全対策設備の設置をめぐり、(原発設置地域の)地元の了解を尊重することが、「 政治家の進むべき第一歩 」であり、そんなことも出来ない政党が「 憲法を変える 」など、信じられない。

共産党が言うように「 憲法改悪 」であるだろう。

態度や行動を見て、「 憲法改正 」などを有権者は判断する。

現在は、憲法違反の定員の国会議員である。

その人が、「 憲法を変える 」とは、「 憲法改悪 」に決まっている。
posted by kandk55 at 20:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 原発は必要か? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月16日

2013/6/16、オカルト・エーテルと神仏15・今の中の永遠

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/15、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。


2013/6/16、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


これまで、「 今 」は気(ki)であり、因果関係は不明だと考えました。

それは、引き続き考えますが、「 今 」や「 現在 」は、生物的には生と死の混合であるとか、一般的な考えは、現象と本質であるとか、自由と必然であるとか、神が存在するとか言いますが、私はこれには賛成しません。

生物的に生と死と考えますが、仏教では「 煩悩 」と「 涅槃 」であり、それは、大気(空気)とエーテルであり、エーテルは涅槃であり、「 生 」の場合は有余涅槃であり、「 死 」の場合は無余涅槃であることは、前述しました。

私は、「 煩悩 」を「 神の愛 」、「 涅槃 」を「 神の身体 」と考え、後者は「 必然 」であると結論を出しました。

「 今 」は、「 自由 」や「 無明 」と「 必然 」の混合であり、「 必然 」は「 実有であるエーテル 」であり「 永遠の実有 」であると考えます。

「 生 」の煩悩や自由の実体は「 意識 」であり、「 死 」の必然の実体は、この「 永遠の実有であるエーテル 」であると考えます。

「 今 」は、現象や無明という「 神の愛 」と、必然であり涅槃という「 永遠の実有であるエーテル 」の混合であると思います。

「 混合 」とは、分離することが出来ないことであり、宇宙空間に出ればエーテルだけになるように、人間の情(zyou)が無くなれば現れる気(ki)であることです。

「 存在と時間 」とか「 存在と無 」とか主張する本が有りますが、これらは、情(zyou)の内部での主張であり、それらは、「 意識 」のことにすぎません。

呼吸する空気にはエーテルが一体となって実有し、それらを呼吸して「 意識 」にエネルギーを供給することを考えると、本来の気(ki)であるエーテルを考えることが必要です。

一部の学者がいうように、「 意識 」で世界が成立することは間違いで、「 死んだら終わり 」ではありません。

私がエーテルを「 神の身体 」と考えるのは、無神論者ではありません。

人間は「 無 」を体験することはなく、「 実有 」の世界で生きています。

私は「 実有 」をエーテルと考え、それが「 永遠 」と呼べるほど連続して果しなく広がっていると考えるからです。

「 実体 」を形成するのは情(zyou)であり、体験であり、無意識だと思います。

エーテルを「 実体 」と考えても、「 体験 」で不連続を想像することはできない「 実有 」であるから、永遠と呼びます。

永遠を「 死 」や「 神 」であると考えなくても、宇宙空間を満たすエーテルを「 永遠 」と考え、それが死後の「 涅槃 」であり、「 今 」の中に「 涅槃 」があると考えることも出来ると思います。

生前と死後を繋ぐのが「 涅槃 」であると考え、その実体をエーテルと考え、生前も死後もエーテルに包まれていると考えることが、死後の不安を和らげることができると思います。
posted by kandk55 at 03:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年06月15日

2013/6/15、オカルト・エーテルと神仏 14、涅槃は必然 4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



偶然と必然


自由と決定論


煩悩と涅槃


有余涅槃と無余涅槃


情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル



このように連想して考えると、前者は大気の「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域であり、後者はエーテルという「 神の身体 」の領域であると考えます。

前者と後者は、地球上では分離することが出来ず、一体であるので、前者は後者に達すると考えがちだが、実際は、前者が「 実体 」であり、後者は「 実有 」であり、領域が違いますので、両者は一致しないと考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」というのは、「 実体 」の世界でエーテルや実有の世界を考えた哲学であり、科学者は受け入れることはできないかも知れませんが、正当な考えであり、「 有余涅槃 」に達すると思います。

科学はすべて「 実体 」の世界であり、情(zyou)であり、人間が考えた物語であり、定義された始めと終わりがありますが、そのため、不連続であり、「 真実 」ではないと思います。

科学に謎があるのは、「 実体 」の世界で、不連続で、「 死んだら終わり 」の世界であり、科学に精通しても、「 有余涅槃 」や「 悟り 」に達することはできず、「 煩悩 」の世界で死ぬことになると思います。

科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であります。

エーテルを否定することは、実体の世界の物理学では認められるかも知れませんが、エーテルと大気を分離することが出来ないので、神仏を考えるとき、エーテルを否定しないで考えることが必要だと思います。


2013/6/15、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


宇宙誕生の必然(エーテルや涅槃)の中に偶然に大気が生じたと考えて、大気(空気)を「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域で、エーテルを「 神の身体 」の領域であると考え、エーテルは宇宙空間を満たし、人間の身体も満たし、電磁波や重力を通過させる「 実有 」する空間であり、この空間だけが、エネルギーを通過させると考えます。

エネルギーは、「 物体や系が持っている仕事をする能力 」でしょうが、伝搬する媒体はエーテルという「 空間 」であり、エネルギーはあらゆる形に変化する「 神の愛 」であり、変化した結果で測ることを「 仕事をする能力 」と言い、エネルギー自体を観測することはできないと思います。

人体に中でエネルギーを取り出すことの測定ができないように、物体や系が持つ能力は、「 実体 」に変化したとき測定するのが「 仕事をする能力 」だと思います。

エネルギーはエーテルの中で伝わると考えますから、能力が「 実体 」に変化するのは「 必然 」で、人間の生活は「 必然 」の中であると思います。

そのため、行動は能力が実体化する「 必然 」であり、行動は人格の現れであると考えます。

人間には意識があり、宇宙の産物で「 神の身体 」の一部であると思いますが、意識が持つエネルギーをエーテルを通じて発揮されたとき、内面の意識が「 必然的 」な「 偶然 」や「 自由 」や「 無明 」に現れたとき、「 煩悩 」と呼び、意識の内面が「 必然的 」に「 必然 」になったとき、即ち、思うがままに行動した結果が必然的な結果になったとき、「 涅槃 」に達したというのだと思います(有余涅槃)。

人間のすべての行動は、行動する当事者にとっては「 偶然 」や「 自由 」であっても、意識の内面がエーテルを通して、必然的に行動となったという意味では「 必然 」の行動であると考えると、私は、決定論者になるのかも知れません。

エネルギーがエーテルを通して伝わることは、頭脳の内部での「 認知 」や「 了解 」もエーテルの中で行われ、すべてが「 必然 」であり、「 認知 」や「 行動 」の責任は、すべて自分の内部にあることを意味します。

私が、科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であると言いますのは、真理は確率ではなくて「 必然 」であり、「 実有 」であり、確率で真理を処理するのは、その人が、確率的な人格であることを意味します。

これは、エーテルのことを考慮していないのが原因だと思います。
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2013年06月09日

2013/6/9、オカルト・エーテルと神仏 13、涅槃は必然3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/6/8、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



偶然と必然


自由と決定論


煩悩と涅槃


有余涅槃と無余涅槃


情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル



このように連想して考えると、前者は大気の「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域であり、後者はエーテルという「 神の身体 」の領域であると考えます。

前者と後者は、地球上では分離することが出来ず、一体であるので、前者は後者に達すると考えがちだが、実際は、前者が「 実体 」であり、後者は「 実有 」であり、領域が違いますので、両者は一致しないと考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」というのは、「 実体 」の世界でエーテルや実有の世界を考えた哲学であり、科学者は受け入れることはできないかも知れませんが、正当な考えであり、「 有余涅槃 」に達すると思います。

科学はすべて「 実体 」の世界であり、情(zyou)であり、人間が考えた物語であり、定義された始めと終わりがありますが、そのため、不連続であり、「 真実 」ではないと思います。

科学に謎があるのは、「 実体 」の世界で、不連続で、「 死んだら終わり 」の世界であり、科学に精通しても、「 有余涅槃 」や「 悟り 」に達することはできず、「 煩悩 」の世界で死ぬことになると思います。

科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であります。

エーテルを否定することは、実体の世界の物理学では認められるかも知れませんが、エーテルと大気を分離することが出来ないので、神仏を考えるとき、エーテルを否定しないで考えることが必要だと思います。


2013/6/9、私の考え

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


私は、上杉謙信が言った「 死中生あり、生中生あり 」を思います。



@とCは、次のように解釈します。

エーテルの中に大気(空気)があり、(エーテルの無い)大気の中に大気は無い。

必然の中に偶然があり、(必然が無い)偶然の中に偶然は無い。

エーテルの無い大気を考えることはできないし、偶然を偶然に選ぶこともできないと思います。


AとBは、次のように解釈します。

自由も煩悩も「 神の愛 」、「 神の偶然 」であり、因果や涅槃は「 必然 」であり人知では解決不能である。

涅槃という必然の中に自由や煩悩という「 神の愛 」があり、(涅槃という必然が無い)自由や煩悩という「 神の愛 」の中に、自由や煩悩は無い。

「 神の愛 」も必然の一種であると思いますから、「 死 」の存在意識が無い中で、「 神の愛 」は無いと思います。

「 死 」があるから、エーテルがあるから、「 神の愛 」である大気(空気)を感じるのだと思います。

このように、私は「 決定論 」を支持し、以下の参照の中にあります、物理学者とは反対の考えになります。




偶然(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%B6%E7%84%B6

偶然性と決定論

偶然は、言葉として用いられるだけでなく、哲学や科学の分野において研究され、「偶然はそもそも存在せず全てが必然である」という立場を唱える学説(決定論)もある。

決定論によって仮定される全てを見通すような存在であるラプラスの悪魔のような存在は、物理学では、ハイゼンベルクの不確定性原理によって否定されている。不確定性原理が含まれる量子力学によって決定論が覆されそうになった時、その量子力学の創始者の一人であるアインシュタインは「神はサイコロを振らない」として決定論の正当性を訴え量子力学のEPRパラドックスなどを提示した。しかし、ベルの不等式により定式化されたこの「パラドックス」は、後年実験的に確かめられてしまい、パラドックスではなくなった。現在、量子力学の解釈で(観測問題)アインシュタインの立場を採る学者はほとんどいない。したがって、現在の物理学では決定論の立場を採る学者はほとんどいない。

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2013年06月08日

2013/6/8、オカルト・エーテルと神仏12・涅槃は必然2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。




2013/5/13、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように、宇宙を満たすエーテルを神仏と思い、大気(空気)の存在を神の愛と考え、「 実有 」を「 実体 」で「 証明することは出来ない 」と考えると、「 神の存在証明 」など、私の頭脳では理解できません。

実有を実体に変えるのが情(zyou)であると思いますが、「 神の存在証明 」が成功したから、神仏の存在意識が在るとは限りません。

「 神の存在証明 」を知らなくても、神仏と共に生きている人は多数いるとおもいます。

神仏の存在意識が有れば、「 神の存在証明 」は必要でなく、「 神の存在証明 」と信仰は別物であると思います。

さて、これまでは、エーテルと大気(空気)の違いでしたが、情(zyou)の中では、どのように違うでしよう。

私は仏教徒ですから、次のように考えます。


エーテルを涅槃だと考えます


宇宙空間を満たすエーテルは「 無余涅槃 」であり、大気(空気)と分離できないエーテルが「 有余涅槃 」であると思います。

死後は「 無余涅槃 」であり、生前は「 有余涅槃 」であり、その実体は同じエーテルであり、連続していると思います。

佛(hotoke)とは、人で無いという意味ですが、「 無余涅槃 」は生命が無い、情(zyou)が無い状態で、「 有余涅槃 」は、生きながらも情(zyou)、つまり私情(sizyou)や自我が無い状態で、「 悟り 」の状態だと思います。

それは、エーテルで神仏の身体ですから、人間の頭脳や心臓に電気が必要で、それが神仏で、魂であれば、「 無余涅槃 」と「 有余涅槃 」を、神仏が、エネルギーである気(ki)が、往復し、「 有余涅槃 」の状態が、神仏の存在意識を持ち、エーテルという涅槃と一体である「 神の愛 」を持ち、神仏と共に生きている人だと思います。

寺院での修行や禁欲生活は、神仏の存在意識を持つようにならなければ、無意味です。

「 神の存在証明 」があるからと言って、神の存在意識を持っているとは限りません。

自我が無いことが必要でしょうが、神仏の存在意識が有ってこそ、「 神の愛 」を持ってこそ、「 有余涅槃 」である「 悟り 」の境涯になったと言えると思います。



涅槃
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

涅槃を有余と無余との二種に区別する際の有余涅槃は、釈迦が三十五歳で成道して八十歳で入滅するまでの間の「さとり」の姿を言う。無余涅槃は八十歳で入滅した後の「さとり」の姿とみるのである


2013/5/18、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


私は、涅槃は「 迷いのない状態 」であり、その実体はエーテルと考えますが、それが現実とは、どんな関係でしょうか?

「 生きること 」により、有余涅槃、死後は無余涅槃と区別されますが、共通するのは「 必然 」という関係だと思います。

涅槃の実体がエーテルという神仏の身体であれば、それは生物が生きているときや死後を問わず「 実有 」する必然的な因果であると考えます。

「 必然 」と「 必然性 」は、前者が気(ki)であるエーテル(神仏の身体)の領域で後者は、空気、つまり「 神の愛 」、すなわち情(zyou)の領域であると考えます。

地球上ではエーテルと空気(神の愛)は一体であり、神の愛を行為する人は必然の行為をする人で、その人が「 さとり 」の人だと思います。

本来、人間は他の動物と同じく、生存期間が決められた必然的な生物であると思います。

人間は記憶する力を持ち、情(zyou)の中で、未来や過去を思考しますが、その思考の産物が「 可能性 」や「 必然性 」や「 偶然性 」であり、現実には「 必然 」しか無いのかも知れません。


2013/6/8、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



偶然と必然


自由と決定論


煩悩と涅槃


有余涅槃と無余涅槃


情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル



このように連想して考えると、前者は大気の「 神の愛 」、「 神の偶然 」の領域であり、後者はエーテルという「 神の身体 」の領域であると考えます。

前者と後者は、地球上では分離することが出来ず、一体であるので、前者は後者に達すると考えがちだが、実際は、前者が「 実体 」であり、後者は「 実有 」であり、領域が違いますので、両者は一致しないと考えます。

「 神様はサイコロをふらない 」というのは、「 実体 」の世界でエーテルや実有の世界を考えた哲学であり、科学者は受け入れることはできないかも知れませんが、正当な考えであり、「 有余涅槃 」に達すると思います。

科学はすべて「 実体 」の世界であり、情(zyou)であり、人間が考えた物語であり、定義された始めと終わりがありますが、そのため、不連続であり、「 真実 」ではないと思います。

科学に謎があるのは、「 実体 」の世界で、不連続で、「 死んだら終わり 」の世界であり、科学に精通しても、「 有余涅槃 」や「 悟り 」に達することはできず、「 煩悩 」の世界で死ぬことになると思います。

科学者は「 神様はサイコロをふらない 」ことを信じて、現象の奥を探求することが必要であります。

エーテルを否定することは、実体の世界の物理学では認められるかも知れませんが、エーテルと大気を分離することが出来ないので、神仏を考えるとき、エーテルを否定しないで考えることが必要だと思います。
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2013年06月01日

2013/6/1、オカルト・エーテルと神仏 11・情(zyou)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/5/26、私の記事


これは私だけの考えであり、同調を求めない。


地球の環境自体が「 偶然 」であり、「 神の愛 」であると思います。

地球の環境の一つだけが「 神の愛 」であり、情(zyou)である宗教や哲学が、それぞれに「 神の愛 」を解釈しますが、「 必然 」ではありません。

大気(空気)とエーテルを分離することが出来ないように、「 偶然 」と「 必然 」を分離することはできず、分離することが可能であるのは「 悟った人 」である思います。

分離してエーテルだけを感じるのが「 有余涅槃 」であり、エーテルだけで生命が無いのが「 無余涅槃 」であると思います。

私の考えでは、万物は流転しますが、情(zyou)により、法則として、関係として把握されるのが気(ki)であり、エーテルの中のエネルギー(神仏)の発見であるということになります。

万物が流転すること(無常)は「 神の愛 」であり、「 必然 」を求める方向が科学であり、「 生き方 」を変えるのが宗教や哲学などの情(zyou)であると思います。

情(zyou)は、自分がどこから生まれ、死後はどこに行くか(無明)からの脱却であり、そのことは個人が決めることであり、社会や政治や宗教の団体が決めることではありません。

自然は、津波や竜巻や地震など、人に災害として、鬼(ki)として現れますが、これも地球上の気(ki)であり、私たちに情(zyou)の変化を促しているのだと思います。

災害に対する物資の補給など、「 人の愛 」に対して感謝しますが、自分自身も損得勘定ではなく、貨幣の多寡では無い「 幸せ 」を築く必要があると思います。

私は災害に遭遇していないが、災害に遭遇する可能性がある、つまり、「 神の愛 」の中に生きているから考えるのですが、「 神の愛 」の解釈も私の内部からの価値観です。

私の生命が続くことも、終わることも「 神の愛 」であり、死後はエーテルになりますが、この世に生存する人と共に「 実有 」すると考えると、後世のために、自分のために、何を残すかを個人が決めなくてはなりません。

金銭で、情(zyou)である愛情を買うことはできても、「 必然 」を買うことはできません。

「 必然 」は死亡により「 涅槃 」、つまりエーテルになりますが、それを金銭で止めることはできません。

死後、残るのは情(zyou)としての金銭であり、遺伝子も含んだ生前のすべての情(zyou)でしょうが、情(zyou)は流転し消滅し、「 実有 」するのはエーテルの中のエネルギー(神仏)であると思います。


2013/6/1、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



以上により、エーテルは神仏の身体であり、連続した必然の「 実有 」であると考えます。

電気というエネルギーが神仏であり、大気(空気)に包まれた地球は神仏が創造した偶然の産物であり、「 神の愛 」であると考えます。

地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態を「 神の愛 」と考え、これのみが「 神の愛 」であり、宗教や哲学がいう「 神の愛 」は解釈であると考えます。

これは、ビッグ・バン理論ではなく、プラズマ宇宙論を採用しますから、神仏はビッグ・バンを起こしたエネルギーではなく、神仏はプラズマであり、その身体は宇宙を満たすエーテルであると考えています。

人間が死ねばエーテルとなり、情(zyou)では涅槃に入り、「 無余涅槃 」という神仏の身体になり、遠く西方浄土から人体の内部まで移動が可能であり、人間が気(ki)である生命というエネルギーを持ち、記憶で想像し、実体化する「 存在意識 」に相応して「 神仏 」が現れ、それが四方浄土に現れるのか、この世に現れるのかは情(zyou)の内容次第ですが、この世に「 神仏 」という存在意識を持った状態は「 有余涅槃 」であり仏教では「 即身成仏 」であると思います。

人間は意識があるため、過去や未来を考え、「 無明 」や「 無常 」と考えますが、自分が、すべて必然に流転して、死期が判明しているならば、絶望するでしょう。

「 無明 」や「 無常 」は人間に与えられた「 神の愛 」であり、「 無明 」や「 無常 」を克服した「 有余涅槃 」の状態であっても、地球上の生命を育み、生命というエネルギーが満ち、しかも、人間の情(zyou)により、穢れることもなく、増減するのでもなく、一定である状態の「 神の愛 」を持つ人が、「 悟った人 」(たとえば、キリストや仏陀)と考えます。

「 神の愛 」の中で生まれて、生き、死後の魂は「 神の愛 」に還ると思います。


神の存在が証明されても、自分の身体の中の神仏を信じ、神仏に従って行動しなければ、だだの学問上の言葉の遊びで神を証明しただけで、「 悟った人 」ではないと思います。

「 悟った人 」には神の証明は不要で、行動が「 神の愛 」だと思います。

「 神の愛 」を認識して行動しない人と、行動が「 神の愛 」である人の違いは「 人格 」であり、気(ki)のエネルギーである「 神の愛 」を情(zyou)のエネルギーに変換するのが「 人格 」であると思います。
posted by kandk55 at 04:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする