2013年07月28日

2013/7/28、オカルト・エーテルと神仏22・私の神仏考

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。


2013/7/28、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。

エーテルと大気(空気)と人体という物質の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が神仏であると思います。

世間一般の情(zyou)による神仏、宗教による神仏に満足することが出来ないのが悩みです。
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2013年07月21日

2013/7/21、オカルト・エーテルと神仏21・情(zyou)6・宗教2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。

大気汚染や地球温暖化を推進するのも後退するのも「 人間の意識 」であるから神仏を存在させるのか消滅させるのかは、人間の意識次第だと思います。

大気汚染や地球温暖化は、神仏が人間に対して「 意識を変えなさい 」という警告かもしれません。

「 信仰 」についても、「 神と共に在る 」とか「 二人同行 」などという事は、個人の意識次第であり、修行すれば得ることが出来るとか金銭で神を買うことが出来るなど、あるいはある場所に巡礼すれば得ることが出来るようなものでは「 ない 」と思います。

「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

神仏(エネルギー)の前にいかに多くの金銭を寄贈しても、地獄へ行く人は地獄に行くのだと思います。

金銭で、地獄や極楽行きの切符は買えない。

それは、心の中、つまり意識の中に在るからだと思います。

極悪人も極楽に行けるというのは、極悪人がすべて極楽に行くのではなく、彼の意識が神仏に従うと変わった結果、極楽に行くのだと思います。

愛情の愛と情(zyou)を分離して、情(zyou)は金銭で買うことが出来るかも知れないが、愛は「 心の中 」であり、金銭では買えないと思います。

これは、日本と隣国の事情を考えると「 憎しみ 」という情(zyou)にも「 愛 」と同様に言えるから、「 愛憎 」というのだと思います。

「 愛情 」も「 憎しみ 」も、因果関係を知った功利的な損得の感情は金銭で解決することが出来るかも知れませんが、「 愛 」や「 憎しみ 」は、自分の意識の変革がないと解消しないと思います。

愛憎は「 目には目を、歯には歯を 」の感情であると思います。

金銭の贈呈により、愛情の証とするかも知れませんが、その結果としての婚姻に「 愛 」が在るとは限らないと思います。

離婚も愛情は慰謝料として妥協しますが、金銭の授受が有っても「 愛 」は復活しない。

「 愛 」には「 愛 」が、「 愛情 」には「 愛情 」がつり合い、両者は混合しないと思います。

話は戻りますが、「 解脱 」や「 涅槃 」を説く僧侶は涅槃である死と向き合わなくては、涅槃を説くことは出来ないと思います。

僧侶が「 死と向き合って生活する 」とは、生活するすべての時間に「 死 」を考えることではないと思います。

宗教の修行で「 死ぬほどの苦行をすること 」が死である涅槃に近づくことかも知れませんが、僧侶が、人の善意で生き、人から受け取ったものを明日のために蓄えるのではなく、その日のうちに消化し、また翌日は人の善意で生活するのが「 死と向き合った生活 」であると思います。

損得という功利を避け、金儲けにならず、人の善意で生きるのが僧侶だと思います。

それが死と向き合った生活であり、その生活を基礎としているから「 いかに生きるか 」を説くことが出来ると思います。

「 死ぬほどの苦行 」をした人でも、金銭のことばかり考える人は、僧侶に適格ではないと思います。


2013/7/21、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

このように考えるとき、「 目には目を、歯には歯を 」という言葉をどのように解釈すべきでしょうか?

私は、宗教は意識の領域であり、損得の情(zyou)を混入すべきでない。

損得の情(zyou)は、政治の領域であるろ考えます。

日本国憲法は「 政教分離 」の立場ですが、私は、これが妥当であると現在は考えます。

「 目には目を、歯には歯を 」を、「 宗教には宗教を、政治には政治を 」あるいは「 愛には愛を、愛情には愛情を 」と考えます。

宗教は神の存在意識の問題であり、損得勘定の政治ではないと思います。

宗教が生き方の問題というのは、宗教を政治で解決するのではなく、宗教は生や死後の世界を説き、迷える衆生を解脱させ、人間本来の生き方をすることだろうと思います。

仏教の仏典やキリスト教の聖書やイスラム教のコーランを信じることは、これまで述べたように、関係の実体化、実有の実体化の助けとして、仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を考えることであり、その主体は、「 自分 」であり、自分が実体化することは明白です。

仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を信じることで僧侶や信者に認められるのではなく、仏典や聖書やコーランや聖者の言葉を通して「 神(エネルギー)」の存在意識を、「 自分 」が持つための、一つの方法であると思います。

仏典や聖書やコーランや聖者の言葉のために死んでも、信者ではないと思います。

「 神(エネルギー)の存在意識」は、生きているから感じられるのであり、死んで得ることは出来ないと思います。

もしも聖職者の命令で死ぬのであれば、明らかに「 政治的に死ぬこと 」だと思います。

先に述べたように、死のことを考えながら生きることは、人の善意(愛)のみで生きることと同義だと思います。

人の善意を信じることなしに、わが身を捨てるのは「 自殺 」であると思います。

宗教戦争といいますが、それは混乱した考えであり、宗教の良し悪しを決める主体は国や社会ではなく「 個人 」であり「 自分自身 」であると思います。

人の善意(愛)を信じることなく、戦って殺しあうことは、「 殺人 」です。

生き方は、死に方であり、生きながら死ぬとは、あるいはこの世で涅槃を求めるなら、人の善意(愛)のみで生きることと同義であると、現在は考えます。

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2013年07月20日

2013/7/20、オカルト・エーテルと神仏20・情(zyou)5・宗教 1

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。





2013/7/14、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



私は、これまで、エーテルは涅槃で、大気(空気)は煩悩であり、地球上では、両者を分離することは出来ず、人間は空気と共にエーテルも一緒に肺の中に吸い込んだり、吐き出したりしていて、その運動は、生命を司る小脳の欲がエネルギーとなっていると考えます。

そのエネルギーは神仏だと考え、エーテルの中で移動し、従ってエーテルと同じく「 連続 」であり、エーテルが人体内から宇宙の果てまで「 連続 」した実有であるように、エネルギーはエーテルが存在する限り連続した実有であると考えます。

エーテルとエネルギーが情(zyou)に入ったとき、すなわち「 知覚 」されたとき「 実体 」を形成しますが、それは「 形 」で存在意識であり、「 不連続 」な「 実体 」であるため、「 無常 」であり、情(zyou)は、エーテルを必要としないから「 無明 」であると考えます。

生存中の聖人は上記のことを知る人で「 有余涅槃 」に到達した人で霊魂は涅槃に到達するかも知れませんが、私のような一般人は死後は、物質的にはエーテルにで精神的には涅槃になり、私の霊魂は、地球上の生命のエネルギーである神仏に戻り、エーテルと共に、生き物の中で「 輪廻転生 」すると考えます。

このことは、気(ki)についてでしたが、人間の内部の情(zyou)でも考えます。

エーテルと大気(空気)を「 価値観 」と「 欲 」とに対比します。

価値観は世界を安定させ、重力に相当し「 実有 」であり、欲はエネルギーを物質に変え、不連続な実体であり、加速度に相当し、両者は「 等価 」あるいは「 共変する 」と考えます。

「 等価 」というのは、区別や分離することが出来ないことで、エーテルと大気が区別できないのと同じだと思います。

「 知覚 」を、関係の実体化、実有の実体化と考え、量子力学の「 収束 」と考えます。

価値観を欲で実体化したのが「 存在 」であり、それは情(zyou)であるので、文化や遺伝子情報の違いだけ「 存在 」し「 無常 」であると考えます。

エネルギーは物質に変換されますから、「 存在 」は物質だけではなくて、神仏というエネルギーも含むと考えます。

何億光年も離れていても目の前の空気でも、エーテルが連続し(それは神仏が移動可能であることを意味します)、意識をいう電磁波が「 存在 」を「 知覚 」したとき、物質や神仏が「 実体化 」すると考えます。

「 知覚 」とは、エネルギーと物質という「 存在の形式 」を変えることだと考えます。

その程度は人間個人の文化や遺伝子情報により異なると考えます。


2013/7/20、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。

大気汚染や地球温暖化を推進するのも後退するのも「 人間の意識 」であるから神仏を存在させるのか消滅させるのかは、人間の意識次第だと思います。

大気汚染や地球温暖化は、神仏が人間に対して「 意識を変えなさい 」という警告かもしれません。

「 信仰 」についても、「 神と共に在る 」とか「 二人同行 」などという事は、個人の意識次第であり、修行すれば得ることが出来るとか金銭で神を買うことが出来るなど、あるいはある場所に巡礼すれば得ることが出来るようなものでは「 ない 」と思います。

「 無余涅槃 」が宇宙を満たすエーテルで、涅槃であり、死後の行き場であり、「 有余涅槃 」は空気と混合したエーテルであり、生の中の死を考えることであり、死を見つめながら人格を磨くことだと思います。

その前者が宗教であれば、死後の行き場を説明すべきであり、後者であれば、「 いかに生きるべきか 」あるいは、「 いかに死すべきか 」を宗教は教えるべきだろうと思います。

死の前に、意識はどうあるべきかを考えるのが宗教であり、迷いが無くなるように説くのが宗教であり、それは仏教もキリスト教も説いているかもしれませんが、それが、「 個人の意識次第であり 」、現世を神の世界にすることが宗教の役割ではないと思います。

「 信じる者は救われる 」と言いますが、神仏を意識する生活こそ、宗教が求める世界であり、国を統治したり、人を支配する社会を目指すことではないと思います。

神仏(エネルギー)の前にいかに多くの金銭を寄贈しても、地獄へ行く人は地獄に行くのだと思います。

金銭で、地獄や極楽行きの切符は買えない。

それは、心の中、つまり意識の中に在るからだと思います。

極悪人も極楽に行けるというのは、極悪人がすべて極楽に行くのではなく、彼の意識が神仏に従うと変わった結果、極楽に行くのだと思います。

愛情の愛と情(zyou)を分離して、情(zyou)は金銭で買うことが出来るかも知れないが、愛は「 心の中 」であり、金銭では買えないと思います。

これは、日本と隣国の事情を考えると「 憎しみ 」という情(zyou)にも「 愛 」と同様に言えるから、「 愛憎 」というのだと思います。

「 愛情 」も「 憎しみ 」も、因果関係を知った功利的な損得の感情は金銭で解決することが出来るかも知れませんが、「 愛 」や「 憎しみ 」は、自分の意識の変革がないと解消しないと思います。

愛憎は「 目には目を、歯には歯を 」の感情であると思います。

金銭の贈呈により、愛情の証とするかも知れませんが、その結果としての婚姻に「 愛 」が在るとは限らないと思います。

離婚も愛情は慰謝料として妥協しますが、金銭の授受が有っても「 愛 」は復活しない。

「 愛 」には「 愛 」が、「 愛情 」には「 愛情 」がつり合い、両者は混合しないと思います。

話は戻りますが、「 解脱 」や「 涅槃 」を説く僧侶は涅槃である死と向き合わなくては、涅槃を説くことは出来ないと思います。

僧侶が「 死と向き合って生活する 」とは、生活するすべての時間に「 死 」を考えることではないと思います。

宗教の修行で「 死ぬほどの苦行をすること 」が死である涅槃に近づくことかも知れませんが、僧侶が、人の善意で生き、人から受け取ったものを明日のために蓄えるのではなく、その日のうちに消化し、また翌日は人の善意で生活するのが「 死と向き合った生活 」であると思います。

損得という功利を避け、金儲けにならず、人の善意で生きるのが僧侶だと思います。

それが死と向き合った生活であり、その生活を基礎としているから「 いかに生きるか 」を説くことが出来ると思います。

「 死ぬほどの苦行 」をした人でも、金銭のことばかり考える人は、僧侶に適格ではないと思います。
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2013年07月14日

2013/7/14、オカルト・エーテルと神仏19・情(zyou)4

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。



2013/7/7、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記により、宇宙法則は、エーテルが在る所で成立すると考えますと、人間の頭脳の中の理論、つまり情(zyou)は、エーテルという気(ki)は含まないから、エーテルが存在しなくても成立すると思います。

これは情(zyou)がエーテルを必要としないから宇宙法則には従わないことであり、情(zyou)は物理ではなくて物理学であり、宇宙の法則と必ずしも一致しないと思います。

そのことが、「 無明 」であり「 煩悩 」であり「 一般相対性理論 」でなく「 特殊相対性理論 」を考える原因だと思います。

気(ki)である、エーテルと大気が背中合わせで分離できない状態は、情(zyou)では「 可能性 」と「 欲 」が背中合わせで分離することが出来ない状態であると思います。

「 可能性 」は「 小脳の運動可能性 」であり、ミラーニューロンが働く範囲で、「 欲 」は、呼吸や心臓の動きなど、行動のエネルギーであり、人間という物質が持つエネルギーであり、「 小脳の可能性 」の中で働くエネルギーは、エーテル内で働く気(ki)のエネルギーと同化するだろうと思います。

「 欲 」は一般相対性理論の「 重力 」に似ていると思いますが、等価である「 加速度 」は「 欲 」を取り去る力で、これらは、「 価値観 」で測定すればよいと、現在は考えています。

「 欲 」である「 重力 」は自己中心的であり、価値観に包まれた実体が、「 無明 」や「 煩悩 」であり、「 私 」であり自我であり、生き生きとした実体であり、特殊相対性理論で判断される価値観が支配するでしょう。

これに対する「 無我 」つまり「 私心が無い状態 」が「 加速度 」であり、「 私 」を奪い取る力が、「 欲 」という重力と等価でしょう。

古来、「 奉仕 」とか「 犠牲 」とか言うのが「 加速度 」であると思います。

「 有余涅槃 」の状態の人は、「 重力 」と「 加速度 」が等価であることを知っている人で、特殊相対性理論の世界内で、一般相対性理論を展開することが出来る人だと思います。



2013/7/14、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



私は、これまで、エーテルは涅槃で、大気(空気)は煩悩であり、地球上では、両者を分離することは出来ず、人間は空気と共にエーテルも一緒に肺の中に吸い込んだり、吐き出したりしていて、その運動は、生命を司る小脳の欲がエネルギーとなっていると考えます。

そのエネルギーは神仏だと考え、エーテルの中で移動し、従ってエーテルと同じく「 連続 」であり、エーテルが人体内から宇宙の果てまで「 連続 」した実有であるように、エネルギーはエーテルが存在する限り連続した実有であると考えます。

エーテルとエネルギーが情(zyou)に入ったとき、すなわち「 知覚 」されたとき「 実体 」を形成しますが、それは「 形 」で存在意識であり、「 不連続 」な「 実体 」であるため、「 無常 」であり、情(zyou)は、エーテルを必要としないから「 無明 」であると考えます。

生存中の聖人は上記のことを知る人で「 有余涅槃 」に到達した人で霊魂は涅槃に到達するかも知れませんが、私のような一般人は死後は、物質的にはエーテルにで精神的には涅槃になり、私の霊魂は、地球上の生命のエネルギーである神仏に戻り、エーテルと共に、生き物の中で「 輪廻転生 」すると考えます。

このことは、気(ki)についてでしたが、人間の内部の情(zyou)でも考えます。

エーテルと大気(空気)を「 価値観 」と「 欲 」とに対比します。

価値観は世界を安定させ、重力に相当し「 実有 」であり、欲はエネルギーを物質に変え、不連続な実体であり、加速度に相当し、両者は「 等価 」あるいは「 共変する 」と考えます。

「 等価 」というのは、区別や分離することが出来ないことで、エーテルと大気が区別できないのと同じだと思います。

「 知覚 」を、関係の実体化、実有の実体化と考え、量子力学の「 収束 」と考えます。

価値観を欲で実体化したのが「 存在 」であり、それは情(zyou)であるので、文化や遺伝子情報の違いだけ「 存在 」し「 無常 」であると考えます。

エネルギーは物質に変換されますから、「 存在 」は物質だけではなくて、神仏というエネルギーも含むと考えます。

何億光年も離れていても目の前の空気でも、エーテルが連続し(それは神仏が移動可能であることを意味します)、意識をいう電磁波が「 存在 」を「 知覚 」したとき、物質や神仏が「 実体化 」すると考えます。

「 知覚 」とは、エネルギーと物質という「 存在の形式 」を変えることだと考えます。

その程度は人間個人の文化や遺伝子情報により異なると考えます。

価値観と欲は国という文化の上では「 共変 」し区別することは出来ませんが、両者が「 等価 」であることは、世界の誰もが共通であると考えます。

共通であるから、国や時代が変わっても、世界の偉人や聖人の「 価値観 」と「 欲 」を、現実社会の意識という電磁波で、同調することが出来ると考えます。


価値観と欲を、自分中心に考えるのが「 自我 」であり、ミラーニューロンを使い、自分だけでなく他者のことを考えるのが「 有余涅槃 」に到達する道だと思います。
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2013年07月11日

2013/7/11、原子力発電は必要か?断層の上の原発は危険

ヤフーニュース

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130711-00000093-jij-soci

原電「活断層でない」=敦賀2号機、規制委に報告

時事通信 7月11日(木)16時13分配信


 日本原子力発電は11日、原子力規制委員会が敦賀原発2号機(福井県敦賀市)直下に活断層があると認定したことに対し、「活断層ではない」と否定する調査報告書を規制委に提出した。
 原電は活断層と認定された2号機直下の破砕帯について、活断層の定義である12万〜13万年前以降の活動の形跡がないと主張。規制委に結論を見直すよう求めた。
 規制委は報告書の内容を精査し、判断を変更する必要があるほどの新事実やデータがあるか確認する。
 

2013/7/11、私の考え


これは、私だけの考えである。


日本原子力発電株式会社の主張に反対です。

法律が、なぜ活断層の真上に原発の重要な施設を設置することを禁じたかを、日本原子力発電株式会社は理解していないと思います。

原子炉などの施設の下の地面が裂けて施設が崩壊した場合、原子炉は危険になる。

これは、パイプでも、電源設備も同様だと思います。

そんな「 危険な状態 」を避けるために、「 活断層 」の真上に設置するのを禁じたのだと思います。

地割れがして、断層の隆起があり、設備が水平を保てない、あるいは損壊するなど、地震のTV画像をみれば容易に推定することが出来ます。

「 活断層 」であるか否かは問題でないと思います。

断層が活断層になることも「 想定され 」、断層が存在する所に原発を設置するなど、狂った、あるいは金の亡者しか実行することは出来ないと思います。

もし、日本原子力発電株式会社が、断層があっても「 安全 」というなら、なぜ、都会ではなく福島のような地方に設置するのでしょうか?

設置しないことは、「 安全でないこと 」を想定していて、地方に「 危険 」を押し付けたのだと思います。

日本原子力発電株式会社が、福島の被災者のために、何をしたのでしょう?

原発が稼働しなくても、日本原子力発電株式会社は「 黒字 」であると聞きます。

その「 黒字 」を福島のために、寄付はしないのですか?

原発事故の被災者に「 痛み 」を感じないのですか?

このように思っているのに、原発を横断する断層が「 活断層 」でないから、廃炉しないなど、日本原子力発電株式会社は狂っているとしか思えない。
posted by kandk55 at 18:57| Comment(0) | TrackBack(0) | 原発は必要か? | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年07月07日

2013/7/7、オカルト・エーテルと神仏 18・情(zyou)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/6/9、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



@偶然と必然


A自由と決定論


B煩悩と涅槃


C有余涅槃と無余涅槃


D情(zyou)と気(ki)


大気(空気)とエーテル

このように並べると、前者は「 生 」で、後者は「 死 」であり、空中で大気(空気)とエーテルを分離できないように、両者は背中合わせで「 実有 」し、情(zyou)が存在する場合は前者であるかも知れません。

情(zyou)が存在するとは、「 存在意識を持つこと 」であり、無意識の中で決定されると解釈します。

決定するとは、実有する「 関係 」の実体化であり、後者を前者が実体化することだと思います。


2013/6/30、私の記事

これは、私だけの考えであり、同調を求めない。



これまで、「存在 」について、マルチン・ハイデガーの「 存在と時間 」やジャンポール・サルトルの「 存在と無 」などの本が有りましたが、私は、下記のような量子力学の波動関数と収束と観測者の問題(観測者の意識の問題)が、「 存在 」については正当であると現時点では思っています。


しかし、「 収縮が起きる瞬間を明確に特定できない以上、人間が認知した瞬間に起きることだけを前提として観測による状態の変化に意識が介在するという考え方に踏み込む必要性は全くないと言える 」と言いますが、その瞬間こそ「 実有 」が「 実体 」になり、観測する対象になると思いますから、意識の介在は重要なことだと思います。


エーテルと大気は分離することが出来ないように、「 実有 」と「 実体 」は分離することが出来ず、分離するのが意識であると思います。


気(ki)と情(zyou)で、前者が実有でエーテル、後者は実体で空気(大気)、前者は連続で後者は不連続、実体を決めるのは情(zyou)であり、それが理論であると思います。

存在は存在意識であり、収束を成立させる意識であると思います。

意識によって「 存在 」は成立しますがそれは実体であり、存在意識であり、連続を断ち切った不連続であり、エネルギーが質量となったときだと思います。

エネルギーはエーテルの中に在り、質量は存在意識ですので、頭脳の中では、相互に入れ替わることも可能だと思います。

意識は量子力学の存在を決めるでしょうが、それは実体であり、「 無常 」であり、実有を定義することは出来ません。


物理学の法則が、系が違っても同じと言いますが、エーテルが前提に在る、すなわち、重力が観測者も観測対象物も共変することが前提になっていると思います。

換言すれば、宇宙の中でしか法則が成り立たないから、エーテルが必要だと思います。


従って、エーテルを考慮しない量子力学は宇宙の謎を解くことは出来ないと思います。



2013/7/7、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


上記により、宇宙法則は、エーテルが在る所で成立すると考えますと、人間の頭脳の中の理論、つまり情(zyou)は、エーテルという気(ki)は含まないから、エーテルが存在しなくても成立すると思います。

これは情(zyou)がエーテルを必要としないから宇宙法則には従わないことであり、情(zyou)は物理ではなくて物理学であり、宇宙の法則と必ずしも一致しないと思います。

そのことが、「 無明 」であり「 煩悩 」であり「 一般相対性理論 」でなく「 特殊相対性理論 」を考える原因だと思います。

気(ki)である、エーテルと大気が背中合わせで分離できない状態は、情(zyou)では「 可能性 」と「 欲 」が背中合わせで分離することが出来ない状態であると思います。

「 可能性 」は「 小脳の運動可能性 」であり、ミラーニューロンが働く範囲で、「 欲 」は、呼吸や心臓の動きなど、行動のエネルギーであり、人間という物質が持つエネルギーであり、「 小脳の可能性 」の中で働くエネルギーは、エーテル内で働く気(ki)のエネルギーと同化するだろうと思います。

「 欲 」は一般相対性理論の「 重力 」に似ていると思いますが、等価である「 加速度 」は「 欲 」を取り去る力で、これらは、「 価値観 」で測定すればよいと、現在は考えています。

「 欲 」である「 重力 」は自己中心的であり、価値観に包まれた実体が、「 無明 」や「 煩悩 」であり、「 私 」であり自我であり、生き生きとした実体であり、特殊相対性理論で判断される価値観が支配するでしょう。

これに対する「 無我 」つまり「 私心が無い状態 」が「 加速度 」であり、「 私 」を奪い取る力が、「 欲 」という重力と等価でしょう。

古来、「 奉仕 」とか「 犠牲 」とか言うのが「 加速度 」であると思います。

「 有余涅槃 」の状態の人は、「 重力 」と「 加速度 」が等価であることを知っている人で、特殊相対性理論の世界内で、一般相対性理論を展開することが出来る人だと思います。

「 有余涅槃 」は行動で示されるべきで、情(zyou)、つまり頭脳の中だけに止まり行動しない人は、エーテルの中ではなく、宇宙法則は適用されず、「 自我 」の状態であり、自己中心的であり、「 涅槃 」に達した人ではないと思います。

情(zyou)である限り気(ki)が適用されないことは、情(zyou)は、エーテルの中では無く「 自由 」であり「 偶然 」であり「 必然的 」であっても、「 必然 」ではないことになります。

「 必然 」は、「 行動 」で示されてこそ、「 涅槃 」であることになると考えます。

「 結果 」で「 涅槃 」を判断するのではなく、「 行動した欲 」で判断すべきであり、「 結果 」を求めると「 涅槃 」という内面の「 欲 」は判断することは出来ないと思います。

「 結果 」はエーテルの中での不可逆な「 形 」であり、エーテルでない情(zyou)の「 欲 」を判断することは間違いだと思います。
posted by kandk55 at 05:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする