2013年08月25日

2013/8/25、エーテルと神仏25・私の神仏考4・神と仏

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

2013/8/11、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、エーテルを神仏の身体とし、神仏は宇宙のエネルギーであり、両者を気(ki)と分類し、死後に行く涅槃であると考える。

生命維持に必要な「 神の愛 」である地球の周りの大気は、エーテルと分離することが出来なく、涅槃であるエーテルを感じることも出来るが、その多くは、煩悩であり欲であると考える。

神仏である生きるエネルギーは煩悩ではなく、生命維持器官である小脳の運動可能性と結合して「 欲 」となり、遺伝子情報などの情(zyou)と結合することにより「 欲望 」や煩悩になると考える。

神仏である生きるエネルギーは気(ki)であり、「 魂 」であり、形がないものであるが実有であり、神仏である生きるエネルギーが情(zyou)と結合して、形を作ったとき「 霊 」であると考える。

食物や空気が体内でエネルギーに変換されるが、食物や空気という実体は「 霊 」であり、体内で変換するエネルギーが神仏であり、エーテルの中で動く「 魂 」であると考える。

これは人工知能についても言えるが、コンピューターは作れても、神仏である魂が宿ることはなく、無明や無常や不安を思考する人工知能を作ることは不可能で、「 道具 」の領域から出ない。

「 霊 」は情(zyou)であるから、ミラーニューロンで「 同情 」し伝承することは可能であり、情(zyou)であるから、時代や時を超えて続くように思われるが、私は「 世代で受け継がれるもの 」であり、エーテルの「 連続 」や「 実有 」や「 永遠 」とは違い、思想的、大脳的な精神であると思う。

「 祖先の霊 」などと言うように、世代で受け継がれる遺伝子情報であり、エーテルの連続ではなく、意識による存在意識を必要とすると考える。

「 霊 」は情(zyou)で個別的であるから、日本古来の、八百万の神は「 霊 」ではなく、従って個人に個別的な神ではなく、内包するエネルギーや「 魂 」を信仰したものと考える。

「 霊 」は情(zyou)であり、感情移入して魂(エネルギー)に変換することが出来るから、霊媒師などという人が現れるのだと思う。

「 霊 」は情(zyou)であるため、霊界というのは、人間的、社会的、宗教的、な人造の世界であり、信じることは自由だが、私は、死後はエーテルと大気の中のエネルギーになると考えるから、霊界へ行くことは要望しない。


2013/8/25、私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


このように考えるとき、「 神 」と「 仏 」は、「 魂 」と「 霊 」に対応するのだと考えます。

神仏はエネルギーであると思いますが、「 イメージが無い 」エネルギーが「 神 」で、社会的、伝統的な「 イメージが在る 」エネルギーが「 仏 」だと考えます。

「 仏(hotoke)」は、人でないことを意味しますが、生き仏(a living Buddha)とは有徳の人(a saint-like person)であり、この世で涅槃に到達した人であり、宗教という情(zyou)で規定されます。

一方の「 神 」は、宇宙のエネルギーであり、情(zyou)という形では規定することが出来ない気(ki)であると考えます。

「 神 」は情(zyou)の範囲の外だから、「 非情 」であると思います。

原子力エネルギーが「 神 」であるなら、電力を生むエネルギーは人間に幸福を与えますが、原発事故によるエネルギーは情(zyou)を否定する「 非情な神 」です。

情(zyou)が制御することが出来ないのが「 神 」であり、原子力発電は「 非情な神 」を利用しているのだと考えます。

原子爆弾も「 非情な神 」です。

「 非情な神 」を利用しているという意味では、原子力発電と原子爆弾は同じことだと考えます。

歴代の科学者たちが、原子爆弾に反対してきましたが、同じ「 非情な神 」である原子力発電に対しても反対するのが、霊や情(zyou)を持つ霊長類である人間の義務だと思います。

宇宙空間を満たすエネルギーも「 非情な神 」ですが、「 神の愛 」として、地球が生まれたのだと思います。

死ぬときに、神が迎えにきて頂くと言うのは、「 涅槃 」に行くこと、エーテルになる事で、宗教の違いで、仏が迎えに来て頂くというのかも知れません。

神は気(ki)であり、生きている間は「 神が存在し 」死後は「 非情な神 」、エーテルを満たすエネルギーになると考えます。

自殺する人も、死ぬまで「 神 」が付き添っているのです。

「 神など存在しないから死ぬ 」というのは間違いで、自殺しようと思うときも、自殺を実行するときも「 神が付き添って頂いている 」のです。

神をエネルギーと考えると、生きている限り、神は存在するのですから、無神論は、言葉の遊戯だと思います。

神は「 イメージがない 」から、情(zyou)や宗教で考えた「 イメージがある 」仏(hotoke)に、死ぬときに迎えに来て頂くという発想になると考えます。
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2013年08月16日

2013/8/16、靖国神社参拝と日本国憲法

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2013/8/16、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


毎年、8月15日は終戦記念日として、戦争責任や靖国神社参拝や憲法改正のことが話題になります。

私は詳しくは知りませんが、私の考えを書きます。

革命は「 流血 」を必要とします。

「 フランス革命 」「 アメリカの南北戦争 」「 中国の天安門事件 」など、世界各国は「 流血 」により何を獲得したのかを知っているので、獲得したものを手放そうとしません。

日本のことを考えますと、古代から「 戦 」がありましたが、戦国時代は武士のため、倒幕した「 明治維新 」は、庶民のためではなく(国民は臣民でした)、薩摩や長州などの下級武士のために「 流血 」して自分たちの社会を作ったと思います。

そして、その延長上に、「 第二次世界大戦 」が起こったと思います。

第二次世界大戦は、薩摩や長州の武士たちが作り上げてきた軍備を、財閥と共に海外に使った「 戦 」であり、マルクス主義の帝国主義の終末だと思います。

それと同時に、敗戦により、薩摩や長州の武士たちが作り上げてきた「 富国強兵 」の国家の敗退であり、道徳や規範が崩壊しました。

「 明治維新 」は、国民のための流血ではなかった(国民は君主の従属者)ことは参考で見てください。

第二次世界大戦の戦死者や戦没者の流血、神風特別攻撃隊の流血を考えますと、彼らは反抗すれば「 非国民 」というレッテルを家族に貼られるから、家族のために戦争に行かなくてはならないという社会の犠牲であり、自分たちが死んで国家が生まれ変わるならばそれでも良いと考えたかも知れません。

特に、神風特別攻撃隊で出撃する人が、自分に「 神になれ 」と言いながら自分の背後で酒を飲み女を抱く司令官のことを知らないで、死んだとは思えません。

死ぬ人は、涅槃に行く人ですから、すべてを知っていたと思います。

敗戦により国家が崩れ、国民を主権とする「 日本国憲法 」が、占領国のアメリカの意向で制定されました。

神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血が、国民を主権とする「 日本国憲法 」を子孫にプレゼントしたのだと考えますと、現在の平和な憲法に感謝するならば、「 靖国神社参拝 」は、子孫の義務だと思います。

「 日本国憲法 」や「 憲法九条 」は、「 流血 」の結果に獲得したものですから、それを手放したくないと思うなら、靖国神社参拝は、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血の上に立つ「 国民 」の行為として、当然に良いことだと思います。

神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者の流血の上にたつ政治家ならば、獲得した平和を護る「 戦争放棄 」を語るべきだと思います。

戦前に憲兵を作り、「 非国民 」を作り、国民を兵隊として戦争させたのは、政治家と財閥や経済界であり、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者を作ったのです。

政治家が終戦記念日に靖国神社の参拝する気持ちがあれば、政教分離に従って「 日本国憲法 」を護る集会でも開いたらどうでしょう?

憲法記念日に憲法の話をするだけでなく、終戦記念日にも憲法の話をするのが政治家だと思います。

憲法改悪のことですが、占領された国家のもとでの憲法だから改正するという考えに賛成しません。

中国で「 黒い猫でも、白い猫でも、ネズミを捕るのが良い猫だ 」というように、現在の、「 国民主権 」「 基本的人権の保障 」「 戦争放棄 」の憲法が、占領国から押し付けられた憲法であっても「 国民のため 」には「 良い憲法 」であり、これをを侵害することは、神風特別攻撃隊を始め靖国神社で眠る戦死者や戦没者も同意しないと思います。



参考

臣民(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%A3%E6%B0%91

戦前日本では、大日本帝国憲法に「臣民」という語が用いられ、天皇と皇族以外の、国民を指して用いられた。但し、皇族でも軍人としては「臣民」であるとされ、現役海軍将校だった頃の高松宮宣仁親王が、式典の際に「臣宣仁」と称した例がある。ただし、戦後日本ではこの呼称が公的に用いられることはなく、私的に用いられることも極めて稀である(吉田茂が昭和天皇に対し「臣・茂」と称した程度)。

国民を「臣民」という呼び方は、「君主の従属者」(統治対象)という意味を伴う。このため、君主国でも絶対君主制国家の方が、より「臣民」という呼称を用いる頻度が高くなる。制限君主制国家の場合には、国民主権(民主主義)が憲法で明記されている場合、「国民」や「公民」と呼ばれる例が多くなる。


特別攻撃隊(wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%B9%E5%88%A5%E6%94%BB%E6%92%83%E9%9A%8A

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2013年08月11日

2013/8/11、オカルト・エーテルと神仏24・私の神仏考3・霊魂

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。


2013/8/11、私の考え


これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、エーテルを神仏の身体とし、神仏は宇宙のエネルギーであり、両者を気(ki)と分類し、死後に行く涅槃であると考える。

生命維持に必要な「 神の愛 」である地球の周りの大気は、エーテルと分離することが出来なく、涅槃であるエーテルを感じることも出来るが、その多くは、煩悩であり欲であると考える。

神仏である生きるエネルギーは煩悩ではなく、生命維持器官である小脳の運動可能性と結合して「 欲 」となり、遺伝子情報などの情(zyou)と結合することにより「 欲望 」や煩悩になると考える。

神仏である生きるエネルギーは気(ki)であり、「 魂 」であり、形がないものであるが実有であり、神仏である生きるエネルギーが情(zyou)と結合して、形を作ったとき「 霊 」であると考える。

食物や空気が体内でエネルギーに変換されるが、食物や空気という実体は「 霊 」であり、体内で変換するエネルギーが神仏であり、エーテルの中で動く「 魂 」であると考える。

これは人工知能についても言えるが、コンピューターは作れても、神仏である魂が宿ることはなく、無明や無常や不安を思考する人工知能を作ることは不可能で、「 道具 」の領域から出ない。

「 霊 」は情(zyou)であるから、ミラーニューロンで「 同情 」し伝承することは可能であり、情(zyou)であるから、時代や時を超えて続くように思われるが、私は「 世代で受け継がれるもの 」であり、エーテルの「 連続 」や「 実有 」や「 永遠 」とは違い、思想的、大脳的な精神であると思う。

「 祖先の霊 」などと言うように、世代で受け継がれる遺伝子情報であり、エーテルの連続ではなく、意識による存在意識を必要とすると考える。

「 霊 」は情(zyou)で個別的であるから、日本古来の、八百万の神は「 霊 」ではなく、従って個人に個別的な神ではなく、内包するエネルギーや「 魂 」を信仰したものと考える。

「 霊 」は情(zyou)であり、感情移入して魂(エネルギー)に変換することが出来るから、霊媒師などという人が現れるのだと思う。

「 霊 」は情(zyou)であるため、霊界というのは、人間的、社会的、宗教的、な人造の世界であり、信じることは自由だが、私は、死後はエーテルと大気の中のエネルギーになると考えるから、霊界へ行くことは要望しない。



霊界(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E7%95%8C

霊界(れいかい、spirit world)とは、
死後に霊ないしそれに類するものが行き着くとされる世界[1]。死後の世界。
精神の世界[2]。非物質世界。

霊界という言葉が意味する内容は個々人や信仰(宗教的立場)によって異なる。

一般に霊界といった場合は前者の意味で用いられることが多く、あの世や後世や死後世などの表現でも呼ばれている。伝統的な宗教の中には、死者が存命中にこの世で行った善悪の行いや信仰心などに応じて、行き先が天国と地獄に分かれるとするものもある。また近年では、霊界は階層状の世界であり、魂の状態に応じてふさわしい層に行くとも言われるようになった。

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2013年08月04日

2013/8/4、オカルト・エーテルと神仏23・私の神仏考2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2013/7/20、私の記事


これは、私だけの考えであり、同調を求めない


このように考えると、神仏の存在や神仏の居場所は、意識次第であると思います。

神仏(エネルギー)の居場所は、何億光年も先かもしれないし、私の身体の中かもしれません。

なぜなら、神仏(エネルギー)の居場所はエーテルであり、エーテルの有る所は神仏の在る所であり、どこにも在るのだが、どこに在るかを決めるのは意識であると考えます。

意識の中に「 宗教 」があり、情(zyou)の究極が宗教だろうと思います。


先に書いたように、「 神の愛 」は人間的な愛ではなく、エーテルの中で「 偶然に出来た生命を育む所 」であり、大気(空気)に満ちた大気圏であると思いますから、宗教が「 神の愛 」を言うのは自由ですが、大気(空気)が無ければ愛も無い事は事実であり、「 愛 」が大気(空気)を作ることは出来ないと思います。

この人の力を離れたエネルギーを「 神の愛 」と考えるのが私です。

「 神の愛 」は煩悩であり愛情に満ちていると思います。

生きる間の暇つぶしが「 煩悩 」や「 愛情 」であれば、それが「 神の愛 」であると思います。

死後に行くエーテル(涅槃)には迷いが無く、「 神の愛 」は必要でないからです。

愛情とは愛と情(zyou)の組み合わせであり、功利的な愛であり、見返りを期待する愛であり、情(zyou)の無い愛、つまり大気(空気)ではない。

「 神の愛 」を大気(空気)と考えると、大気汚染のように人間が汚したり、地球温暖化のように大気を汚すこと、「 神の愛 」を理解しないことは、人間、つまり意識による行為だと思います。


2013/7/28、私の記事



これは、私だけの考えであり、同調を求めない


宇宙を満たすエーテルが神仏の身体で、死後に行く所であり、地球の周囲の大気(空気)が「 神の愛 」であり、前者を涅槃、後者を煩悩の世界と考えます。

地球の周囲の大気とエーテル、煩悩と涅槃は区別することが出来ないから、「 煩悩即涅槃 」というと解釈します。

前者は物質的、気(ki)の世界であり、後者は精神的、心霊的、情(zyou)の世界です。

これまで、神仏はどこにも現れませんが、意識次第で、どこにでも現れることが出来ます。

神仏の存在は、実体であり、存在意識ですから、意識しだいでどこにも現れると思います。

しかし、「 神仏 」とは何でしょうか?

私は、エーテルの中で伝わるエネルギー、つまり「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有するものが「 神仏 」だと考えます。

人格を統合する仕事をする能力が神仏と考えます。

物体内部の仕事する能力は、行為として外部に現れなければ、判断することができませんが、努力や「 心 」や気(ki)などの見えないものが外部に現れたとき、判明します。

人体の内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は、身体の内部から気(ki)を発し、身体の外部から呼吸したり、食べ物を摂取することにより人体の外部と内部のエネルギーを境界なく連続させます。

人間はエーテルの中で生存し、意識や認識するエネルギー自体も、人間の中のエーテルの中のエネルギーですから神仏ですし、食物や空気の内部に蓄えられた、仕事をする能力というエネルギーの神仏と同化すると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、どんな個人内の遺伝子情報と結びつくかにより、どのような煩悩や欲などの情(zyou)になるかが決まると考えます。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は神仏であり、エネルギーが煩悩や情(zyou)ではないと思います。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)は気(ki)であり、宇宙の産物としての人間の知覚が持つ情(zyou)の認識する能力でとらえたことにより、実体となり、煩悩となり、煩悩は個人の遺伝子により相違すると考えます。

私の行為の動機となる気(ki)や情(zyou)のエネルギーが神仏であるとすれば、自分の身体は神仏により生かされていて、自分が所有するのではない結果になり、「 今 」という一瞬の時間の中の「 永遠 」であるエーテルの中で自分の行為する時点が神仏を感じることができる契機になると考えます。

現時点では、仏教の他力本願を、これと同義に考えています。

物体内部に蓄えられた、仕事をする能力(エネルギー)が、人間の中に現れた神仏であり、人類以外の生物が持つエネルギーも神仏であり、生物が生きることを可能とする地球の周囲の大気も気(ki)であり、宇宙空間を走るプラズマ宇宙論の電気が神仏であるかも知れないと思います。


2013/8/4 私の考え



これは、私だけの考えであり、同調を求めない。


私は、仏教を信じていますが、信者ではないと思います。

これは、私の考えであり、仏教の教えではありません。


仏教では、法身(hostusin)と報身(housin)と応身(ouzin)を三身と言います。これは参考を見てください。

三身は、仏の身体であり、神仏については不明です。

私は、法身(hostusin)をエーテルと考え、報身(housin)を大気や人類が考えるすべての知識と考え、応身(ouzin)を、遺伝子情報と考えます。

三身即一というのは当然であり、法身(hostusin)であるエーテルは報身(housin)である大気と応身(ouzin)である人体の遺伝子情報を包摂し、前者の涅槃と必然は、後者の「 神の愛 」であり、「無明 」である、煩悩や欲望の中で、「 必然的 」関係として現れると考えます。

「 必然的 」な関係として現れるとは、「物体内部に蓄えられた、仕事をする能力」という目には見えないが実有する力が「 偶然で自由 」な意識、すなわち報身(housin)と人体、すなわち応身(ouzin)の中で衝突することにより、物体内部に蓄えられた、仕事をする「 必然的 」な能力であると認められることだと考えます。

この物体内部に蓄えられた、仕事をする能力がエーテルの中で伝わる「 神仏 」と考え、法身(hostusin)であるエーテルと、報身(housin)である大気や人類が考えるすべての知識と、応身(ouzin)である遺伝子情報を境目なく伝わると考えます。

報身(housin)と応身(ouzin)が「 神の愛 」であるなら、神の「 愛 」は物体内部に蓄えられた、仕事をする能力であり、神仏であり、宇宙と人体を連続させるエーテルの中で伝わると考えます。


人体のすべてのエネルギーが神仏であり、自分のすべてが「 神の愛 」であり、自分が所有するのではないと自覚することが、エネルギー(神仏)を獲得することであり、それが、命ある者の「 涅槃 」だと思います。

私は「 慈愛 」という意味を理解していませんが、「 慈愛 」とは、天上から降り注がれる「 愛 」ではなくて、自分の中のエネルギー(神仏)を感じて感謝することであり、神から与えられるのではなく、自分のエネルギーがすべて神仏のエネルギーであることを自覚し感謝することが「 慈愛 」を感じることだと、現時点では、思っています。

エネルギーの形が変わることはエネルギーの存在意識が変わることであり、存在意識である「 実体 」は「 無常 」ですが、エネルギー(神仏)は、エーテルの中で「 恒常 」であり、「 実有 」であると思います。

エネルギー(神仏)は、エーテルの中で「 保存 」されることは、意識の中で現れる、物理の「 エネルギー保存の法則 」が例証していると考えます。

エネルギーが神仏であると考えると、古来、自然のものすべてに神が宿っているという日本の八百万の神の考えも、私は、受け入れます。



参考

三身

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

三身(さんじん、または さんしん、梵:trikaya)は、大乗仏教における、仏の3種類の身のあり方(法身・報身・応身)で、仏身観の一種である。

神道(Wikipedia)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E_(%E7%A5%9E%E9%81%93)


八百万の神

自然のもの全てには神が宿っていることが、八百万の神の考え方であり、欧米の辞書にはShintoとして紹介されている。日本では古くから、山の神様、田んぼの神様、トイレの神様、台所の神様など、米粒の中にも神様がいると考えられてきた。自然に存在するものを崇拝する気持ちが、神が宿っていると考えることから八百万の神と言われるようになったと考えられる。八百万とは無限に近い神がいることを表しており、数ある多神教の中でも、数が多い考え方であると言える。 またこういった性格から、特定能力が著しく秀でた、もしくは特定分野で認められた人物への敬称として「神」が使われることがある。

posted by kandk55 at 05:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 43 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする