2014年04月27日

2014/4/27、オカルト・エーテル考26・自由と破壊と創造

2014/4/13、私の記事

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。
………(中略)……
「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。


2014/4/20、私の記事

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

「 必然 」は因果の領域、エネルギーの領域、神(God)の領域であり、「 創造 」も「 破壊 」も包摂し、否定としての「 自由 」を包摂すると考えます。

2014/4/27、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」と「 必然 」と「 破壊 」と「 創造 」は、無(mu)を介在することにより、リンクしていると思います。

「 自由 」は無(mu)ですが、気としての無(mu)ではなく、情(zyou)として、記憶で考える無(mu)であり、「 破壊 」や「 創造 」が「 自由 」によって可能なのは、それぞれ、情(zyou)としての「 破壊 」や「 創造 」であり、目で見える物の範囲に限られ、気(ki)としての「 破壊 」や「 創造 」は「 自由 」ではなく「 必然 」であると思います。

「 形ある物 」の破壊や創造は可能ですが、「 形が無い 」破壊や創造は、人間の目には「 無常 」や「 無明 」と現前し、人知が及ばない「 エネルギーの変化 」であり、神(God)の領域だと思います。

前者は、記憶による大脳の範囲であるのに対し、後者は大脳を機能させるエネルギーの範囲ですから、「 自由 」によう否定も肯定も後者に包摂され、前者の無(mu)は「 自由 」による否定であり、破壊であり、他の物の存在の肯定であり、後者の気(ki)としての無(mu)を選択することは出来ず、破壊も肯定もできず、空気を抜いても真空があるように、有(yuu)の形態を変えるだけだと思います。

真空自体も無(mu)ではなく、無(mu)と考えるのは、エーテルを含まない思考の中の「 否定 」であり、真空状態の有(yuu)が、人の死後も残る永遠の有(yuu)であるのかも知れません。

無(mu)を知らず、「 破壊 」も「 創造 」もできない人間が、無(mu)になることは出来ません。

「 破壊 」や「 創造 」ではなく「 変化 」しか許されないのが「 人間の悲しみ 」だと思います。

「 自由 」や「 破壊 」や「 創造 」を欠いて人は生活することは出来ませんが、これは形ある物を「 否定する自由 」であることを考えるべきだと思います。

生物的には新陳代謝でしょうし、社会的には世論や価値観の変化だと思います。

この「 自由 」と「 破壊 」と「 創造 」は、「 心 」の問題にもあてはまるように思います。

なぜなら、「 心 」は無意識(muisiki)であり、情(zyou)や気(ki)の無(mu)と結びつき、その両方から影響されるが、「 心 」が変化しても、無(mu)になることは無いと思います。

例えば、金銭の力により結婚したとしても、彼女の「 心 」を奪っても、無(mu)にすることは出来ず、金銭で離婚の清算をしても、「 心 」が結婚前の無(mu)に戻ることは出来ません。

「 無心 」(musin)と言いますが、これは「 心 」をは何かに集中していることで、「 心 」が無(mu)になったとしても、それは頭の中のエーテルがない否定の無(mu)であり、徹底的に否定しても、気(ki)の無(mu)は依然としてあるのです。

人が死んでも、無(mu)になることは無く、「 心 」や魂というエネルギーは保存法則に従い、エーテルの中のエネルギーとして宇宙のどこかに保存されるかも知れません。

私が「 輪廻転生 」と言うのも、この残存する生命エネルギーが生物の中で循環すると思うからです。

そのエネルギーは数億光年も先にあるのか、極楽にあるのか地獄にあるのか、あるいは吸い込む呼吸の中にあるのかは知りませんが、必要なとき、必要な生物に、魂が憑依するのだと思います。
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2014年04月20日

2014/4/20、オカルト・エーテル考25.破壊と創造

2014/4/13、私の記事

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。

「 自由 」には「 責任 」が有ると申します。

{ 自由 」と「 必然 」と申します。

これらは、何でしょうか?

人間の思考は否定する「 自由 」があるが、エーテルが欠如していて、エーテルが無いから「 責任 」があるのだと思います。

もしも、思考がエーテルを所持し、「 必然 」の行為をすれば、「 宿命 」や「 運命 」であり、「 責任 」は考えなくても良いのだと思います。

人間の思考で無(mu)を否定と考えることが出来て、それが「 自由 」であるが、エーテルという実有を考えていないから、実有であり必然であるエーテルを含んだ「 必然 」が構成する「 責任 」を社会的に負わされていると考えます。

「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。

そんな思考を所持していることが、人間の悲しみだと思います。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると否定する人間の悲しみ。

死んだら終わりと考える悲しみ。

それが、無知や無明や無常という表現になるのだと思います

2014/4/20、私の考え

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

「 必然 」は因果の領域、エネルギーの領域、神(God)の領域であり、「 創造 」も「 破壊 」も包摂し、否定としての「 自由 」を包摂すると考えます。

「 必然 」は運命であり宿命であり、神(God)の領域ですから、「 自由 」の及ぶところではなく、地球が宇宙のエーテルに包まれているように、「 自由 」も「 一つの契機 」として含まれ、それが縁(en)であると思います。

結婚は、地縁(chen)や血縁(ketsuen)などの縁(en)で成立します。

本人たちが、恋することも縁(en)、相思相愛も縁(en)ですが、経済状態や血縁者の反対が無いことも縁(en)であり、すべてが整ったとき良縁(ryouen)となり、結婚するのだと思います。

その縁(en)が欠けても強行して結婚したとき、その人の本性に任せて縁(en)を否定し、「 自由 」に行為したのですから、「 責任 」は当事者が負うことになります。

このように結婚は縁(en)で決まりますから、「 破壊 」や「 創造 」や縁(en)の領域である神(God)の前で婚姻するのだと思います。

善因善果、悪因悪果というように、良縁(ryouen)であれば末永く婚姻状態が続くでしょうし、縁(en)に欠陥があれば。離婚、離縁(rien)になるでしょう。
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2014年04月13日

2014/4/13、オカルト・エーテル考24・存在の謎と自由と必然

2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。

2014/4/13、私の考え

これは、フィクションです。

無(mu)は、絶対無のように考えますが、そのような「 否定 」は情(zyou)である意識(大脳)で考えるのであり、過去の記憶から否定と考えるでしょうが、気(ki)としての絶対無はないと思います。

大脳の情(zyou)でエーテルを否定しても、小脳では気(ki)であるエーテルを必須としている。

人間は無(mu)も有(yuu)も証明することは出来ず、情(zyou)では判断することが出来ず、ただ無(mu)を否定と考えるしか方法はないが、実際はすべてが有(yuu)であり、気(ki)としての無(mu)は有(yuu)であり、それがエーテルであると考えます。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると規定します。

「 自由 」には「 責任 」が有ると申します。

{ 自由 」と「 必然 」と申します。

これらは、何でしょうか?

人間の思考は否定する「 自由 」があるが、エーテルが欠如していて、エーテルが無いから「 責任 」があるのだと思います。

もしも、思考がエーテルを所持し、「 必然 」の行為をすれば、「 宿命 」や「 運命 」であり、「 責任 」は考えなくても良いのだと思います。

人間の思考で無(mu)を否定と考えることが出来て、それが「 自由 」であるが、エーテルという実有を考えていないから、実有であり必然であるエーテルを含んだ「 必然 」が構成する「 責任 」を社会的に負わされていると考えます。

「 自由 」と「 必然 」は言葉の遊びではなく、無(mu)を否定と考えるのか、あるいは情(zyou)である意識で把握することが出来ない、気(ki)としての実有(zitsuyuu)を認めるかの問題だと思います。

空気と判別することが出来ないエーテルがあるように、情(zyu)では判別する事が出来ない実有(zitsuyuu)が有るから、「 存在 」という意識が生じると思います。

私は「 存在 」とは意識であり、意識から離れた「 存在 」は無(mu)であり、実有(zitsuyuu)であるエーテルであり、それが、「 存在意識 」を生じさせ、エネルギー(神)を伝達するのだと考えています。

宇宙の構造は理解できませんが、エネルギー(神)の身体であるエーテルは宇宙に満ちていると思います。

そのエーテルが、人間の思考の中に存在しないことが、人間の悲しみだと思います。

そのエーテルを無(mu)という否定の意味、あるいは「 自由 」という意味に考えるのが人間の思考。

そんな思考を所持していることが、人間の悲しみだと思います。

人間は無(mu)を経験したことは無く、記憶もないのに「 否定 」と規定し、経験して記憶しているエーテルを無(mu)であると否定する人間の悲しみ。

死んだら終わりと考える悲しみ。

それが、無知や無明や無常という表現になるのだと思います。
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2014年04月06日

2014/4/6、オカルト・エーテル考23・エネルギー

これは、フィクションです。

これまで書いて来たことを、そのまま要約する自信はありませんが、思いつくことを書いておきます。

自我を考えるとき、変わらない自我と絶えず変化する人体があり、人体は宇宙の一部であり、宇宙に連続すると考えました。
自我とは意識であり、その下には無意識があると考え、時間や空間は意識であり、電磁波の構造だと考えました。
しかし、その後、意識と無意識は、まったく別物で、無意識はエーテルの中のエネルギーを感じて「 力 」として働き、意識はエーテルを感じることは出来ず、合理性だけを追求し、エーテルは「 無 」と規定すると考えました。
時間や空間は意識として、「 合理的 」に存在し、この「 存在 」も意識であると考えました。
存在物は素粒子でしょうが、それは「 弦 」の集合であり、「 弦 」という形態がエネルギーを運ぶ形態であり、意識は説明できないと思います。
無意識(muisiki)は意識から見れば「 無(mu) 」であると思います。
ところが、無意識(muisiki)が感じる「 エーテル 」や「 エネルギー 」こそが人体と宇宙を結び、連続するものだと考えました。
意識としての時間や空間は合理的ですが、エーテルやエネルギーの時間や空間は、合理的ではなく、「 無(mu) 」であると考えるのだと思います。
あとで考えたのですが、宇宙を満たすエーテルが神の身体である法身(hotsusin)であり、エネルギーが神であり、人体の中では「 気(ki」として現れ、宇宙と連続するのに対し、意識は神が変化した情(zyou)なのですが、意識を生むエーテルやエネルギーを合理的に説明することは出来ず、ストレスや快感などとしか説明するしかなく、その原因は意識は記憶から生まれることだと思います。
時間意識や空間意識は記憶から生まれた感情である情(zyou)であり、時間は記憶ですが、記憶を生む「 空間 」であるエーテルは未だに解明できていないと思います。
この、エーテルやエネルギー、即ち神を解明するのは、宗教という情(zyou)ではなく、科学という数式だと思います。
数式は情(zyou)ではないからです。
そして、ゴーギャン考のところでも書きましたように、人間は無明(mumyou)から生まれ無明に消えていくと考え、無明や無常(muzyou)は何かを考えました。
そこから、「 無(mu) 」は意識の中だけにあり、宇宙はすべて「 有(yuu)」であり、エネルギー保存の法則があるように、神と神の身体はどんな変化があっても、保存されると思います。
その結果、「 死んだら終わり 」ではなく、「 死んでも有り続け、保存される 」から、自殺は現状からの逃避であり、「 無(mu) 」にはならないということです。
「 無明(mumyu) 」は「 何かが有る 」状態であり、「 無(mu) 」にはならないと考えます。
死んだら、人体は崩壊し、エネルギーとエーテルになるでしょうが、エーテルを、科学で考えるように「 無(mu) 」であると考えますと「 死んだら終わり 」であり、間違いだと思います。
エーテルを「 有(yuu)」と考え、宇宙のすべてが「 有(yuu)」であり、呼吸する空気と共にエーテルも人体の中に取り込んでいるのであり、その空気の中のエーテルは数億光年も先と連続し、神は数億光年から人体まで連続していることになります。
そうすることにより、子どもたちに「 死んだらお星さまになる 」とか「 死んだら、あなたのそばで、見守ってあげる 」ということも、真実になるのだと思います。
この、エネルギーは気(ki)であり、生気論(seikiron)に繋がり、プラズマ宇宙論に繋がり、プラズマが神ではないかと考えています。
その意味で、神、すなわち気(ki)の前で平等であり、情(zyou)である宗教の神の前で平等とは書きません。
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2014年04月05日

2014/4/5、快挙、リトルなでしこW杯で初優勝

リトルなでしこがU−17女子W杯で初優勝…6戦全勝で23得点1失点

 コスタリカで開催されているU−17女子ワールドカップの決勝が4日に行われ、U−17女子日本代表とU−17女子スペイン代表が対戦した。

....................
テレビで見ていました。
前半で1点、後半で1点を挙げたのですが、苦しい試合だったと思います。
日本はパスが多いのに対して、スペインはドリブルが上手でした。
スペインは、ロングパスで日本を攻めようとしたそうですが、逆に、日本がロングパスで勝機を掴んだと思います。
日本から離れて一か月だと言います。
よく頑張りました。
これから、さらに成長して、オリンピックに出場する「 なでしこジャパン 」のメンバーの一員になってほしいと思います。

U−17、ワールドカップ初優勝、おめでとう。
posted by kandk55 at 10:08| Comment(0) | TrackBack(0) | 2010年からの日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする