2014年05月25日

2014/5/25、原発は必要か?「 安全 」と「 安心 」

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21020_R20C14A5000000/

大飯原発の運転差し止め、福井地裁判決 再稼働厳しく
2014/5/21 15:24

 東京電力福島第1原発事故後、安全性の保証をせずに大飯原発3、4号機(福井県おおい町)を再稼働させたとして、福井県の住民らが関西電力に運転差し止めを求めた訴訟で、福井地裁(樋口英明裁判長)は21日、現在定期検査中の2基を「運転してはならない」と命じ、再稼働を認めない判決を言い渡した。福島事故後、原発の差し止めを認める判決は初めて

2015/5/25、私の考え

「 安全 」は、過失責任の限界を決めるもので、「 原発 」は、史上最高の危険物であるから、無過失責任であるべきで、それに近い基準で再稼働を決めていると思う。

しかるに、大飯原発は、若狭湾に突き出た半島の先端部分に位置し、発電所から3キロメートルほどの若狭湾には、北西から南東方向に伸びる断層が存在する。施設内にも活断層が存在する、という見方も存在する。また、山がちの半島の先端に位置するため、大地震、津波などが起きた際には、発電所と外部を結ぶ道路が寸断され、発電所が孤立する危険があるとの指摘もある。(以上、Wikipedia)

このような発電所は、廃炉にすべきであり、再稼働など、まったく許されないと考えるのが自然である。

先に書いたように、「 安全 」は情(zyou)であり金(money)であり、再稼働を正当化する論理である。

ところが「 安心 」は気(ki)であり、気持ちであり、無意識の「 信頼 」に依存する(現在の原発は、「 信頼 」を得ていない)。

その点を、判決が「 人格権 」ということは賛成である。

関西電力が控訴し、高等裁判所から最高裁判所へ続くのだろうが、どこで、だれが判決を否定するのか。

その機関は、法律を誤認」する人たちで、人格の欠陥者である。

「 もんじゅ」「 志賀原発 」と、最高裁判所が、反民意の判断をしている。

日本には、「 専門バカ 」が多いから、また最高裁が同じ民意に反する判断をするだろう。

もし、原発事故が起こったら、政府、民間、裁判所のすべてが、責任をもつことになる。
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2014/5/21、原発は必要か?大飯原発の運転差し止め判決、再稼働厳しく

http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK21020_R20C14A5000000/

大飯原発の運転差し止め、福井地裁判決 再稼働厳しく
2014/5/21 15:24

 東京電力福島第1原発事故後、安全性の保証をせずに大飯原発3、4号機(福井県おおい町)を再稼働させたとして、福井県の住民らが関西電力に運転差し止めを求めた訴訟で、福井地裁(樋口英明裁判長)は21日、現在定期検査中の2基を「運転してはならない」と命じ、再稼働を認めない判決を言い渡した。福島事故後、原発の差し止めを認める判決は初めて。
 運転再開を決定した当時の民主党政権の判断が否定されるとともに、その後に事実上追認した原子力規制委員会の姿勢も問われる。関電が再稼働を目指し規制委で審査中の2基だけでなく、各原発の審査にも影響を与えそうだ。

 原発差し止め訴訟で住民側が勝訴したのは、金沢地裁が2006年、北陸電力志賀原発2号機(石川県志賀町)の運転停止を命じた判決(名古屋高裁金沢支部で逆転、確定)に次いで2例目。

2014/5/25 私の考え


私は、この判決を支持します。

法律とは、国家権力から国民を守るために作られたとすれば、民間人とはいえ、国家権力の手先である電力会社が、断層があるにもかかわらず原子力発電の再稼働をするとすれば、国民の不安は計り知れないものがある。

「 安全 」とは過去のデーターによる過失責任の限界を決めたもので、国民の「 安心 」を保障するものでは決してない。

「 安全 」は記憶などの情(zyou)であり、「 安心 」は気持ちの気(ki)であり、両者の背景は全く違うもので、「 経費や国富の流出 」は情(zyou)であり金(money)の問題であり、「 安心 」を「 安全 」で騙すことは、「 心 」を金(money)で買うことであり、従来の自民党の政治手法であり、このことは「 許されない 」というのが、この判決であると思う。

「 日本海 」に地震が無いことは間違いで、断層の上の原子力発電所が地震に耐えられる保障は、どこにもない。

日本の再稼働の基準が世界で一番厳しいと言うなら、「 断層が存在する地盤にある原子力発電所は再稼働しない 」と決めるのが最低の基準だと思う。

もし、この基準で再稼働したならば、もし原子力発電所に事故が起きれば、すべての責任は、自民党をはじめ基準を承認した国会議員にあり、すべての国会議員は報酬を返上して、事故を賠償すべきだろう。
(福島の原発事故でも、国会議員の報酬には少しの減少もなかった。)

「 原発ゼロ 」は、民意であり、もう一度、原子力発電所に事故が起きたら、「 日本国の恥 」であり、「 国会議員の無知 」であり、自民党の消滅は必至だと思う。

人間は「 無明 」の存在だから、人間は人間らしく、自然に対して謙虚であるべきだと思う。

福島原発の教訓は、どこに行ったのか?

自民党。

今度、原発事故が起こったら、あなたの責任ですよ。
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2014年05月18日

2014/5/18、オカルト・エーテル考28・死ぬこと生きること

最近、テレビで、人間は空間の中で生きているという話がありました。

普通に考えると、空間が無ければ、肉体も無く、私が言う「 小脳の運動可能性 」も無いのですが、空間さえあれば、肉体は死んでも、生きているという話です。

普通に考えた「 生きること 」は、肉体も持ち、呼吸もする状態ですが、「 生きること 」は、もっと広い範囲で捉える必要があると思います。

空間とは「 エーテル 」に満ちていて、エネルギーに満ちていて、呼吸が止まり「 死んだ 」と思っても、空間のエーテルの中に「 生 」のエネルギーが残っていると思います。
ちょうど、「 エネルギー保存の法則 」のように。

それは「 霊 」といっても良いでしょう。

人間は霊長類の最高の形態だから「 霊 」として残るから、昔から伝わるように、僧侶の「 弔いの念仏 」が必要なのでしょう。

僧侶が「 弔いの念仏 」をしても、「 生 」のエネルギーがある限り、「 生きている 」と思います。

太陽が光を放つように、死後の「 生 」のエネルギー、言い換えれば「 魂 」は、四方八方に光輪のように広がり、「 弔いの念仏 」で収束することは無いと思います。

「 魂 」は、エネルギーとして数万光年先に広がるだろうし、人の口で呼吸するエーテルと共に、他人の生きた身体の中にあるかも知れません。

「 生きること 」を以上のように考えると、「 死ぬこと 」は呼吸が止まり、脳死の状態だと思いますが、それは「 肉体的な現象 」であり、客観的な「 死 」であり、人間が考える情(zyou)としての「 死 」であり、気(ki)としての「 生 」はまだ残っていると思います。

生と死を、現象の次元で考えると、仏陀が「 四苦 」というように、「 死 」は「 苦 」であるかも知れないが、生と死が現象の次元の「 別れ 」であるならば、本来の生死は、エーテルの次元で言えば「 区別することは出来ないもの 」であり、普通に言う「 生死 」は「 儀式 」でしかないことになると思います。

空間はエーテルやエネルギーに満ちていますから、空間さえあれば、「 生きている 」という考えには賛成します。
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2014年05月11日

2014/5/11、オカルト・エーテル考27・自由と責任

2014/4/20、私の記事

これは、フィクションです。

このように、「 自由 」は、無(mu)を否定と考え、「 人間の悲しみ 」であると考えると、知らないという無知、自分の立つ位置が不明である無明、すべての変化を把握できない無常、などは「 自由 」から生まれる「 人間の悲しみ 」であるが、その「 自由 」は、存在論的には有(yuu)の選択であり、否定する「 自由 」で気(ki)としての無(mu)を消すことは出来ないと思います。

自殺で自分を否定することは出来るが、自殺も有(yuu)の選択であり、自分を無(mu)にすることは出来ないので、身体を持たない霊やエーテルとして続けるかも知れず、現実逃避であることは明白であると思います。

それは、空気を抜いても真空を満たすエーテルが消えないのと同じです。

弁証法などは、有(yuu)の論理であり、情(zyouu)としての無(mu)、否定としての無(mu)であり、思考の「 自由 」であるから、発生元であるエーテルを含む、気(ki)としての無(mu)で成立する事を必要とする。

それが「 科学 」であると思います。

気(ki)としての無(mu)は、否定しようが肯定しようが有(yuu)であり、エネルギーの段階の有(yuu)であり、因果や因縁の領域であると思います。

そこには、エネルギーを伴った否定は「 破壊 」ですし、エネルギーを伴った肯定は「 創造 」であり、これらが神(God)に委ねられるとは、エネルギーに委ねられることであり、頭脳の思考はエネルギーの産物であり、その頭脳から生まれた「 自由 」は、気(ki)の産物で神(God)の産物であるが、エネルギーを持たず、「 破壊 」も「 創造 」も出来ないという結論になります。

「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えます。

2014/5/11、私の考え

これは、フィクションです

以上に書いた、「 責任 」とは、因果の中に投入され、原因を作らざるを得ない「 人間の悲しみ 」であり、否定により他の有(yuu)を選んだ、DNA情報の結果であり、個人的な「 人間の悲しみ 」であり、善因善果、悪因悪果として行為者に帰属すると考えるのは何故かを考えました。

私は、人間は、無意識に、個人のDNA情報を具現化するのだと思います。

「 あれかこれか 」の選択があるのは究極の不安定であり、この不安定を自分のDNA情報に合わせることを無意識にしている。

これが「 好み 」であると思います・

同一の人物や絵画や音楽などから、人それぞれに「 好み 」が分かれるのはDNA情報に合致した安定を求めることであり、この作用や機能を「 価値観 」というのだと思います。

「地球の引力や重力」と「月(Moon)の引力や重力」が違うように、個人の「 好み 」や「 価値観 」も違います。

人間は、気(ki)の無(mu)を知らず、従って真実の無(mu)や有(yuu)を知らず、大脳の判断として記憶による有(yuu)しか知らず、否定としての情(zyou)の無(mu)を「 自由 」と感じ、選択肢を否定して、肯定としての情(zyou)の有(yuu)を選んで安定することを、無意識に行動していると思います。

物事や事象は、気(ki)としての無(mu)や有(yuu)の「 必然 」の変化ですから、情(zyou)の無(mu)である「 自由 」の思考の中での変化と祖語が生じます。

物事は「 必然 」に進行し、その祖語が、DNA情報に帰属させた個人の「 責任 」となると思います。

人間は、エネルギーの領域、すなわち神(God)の領域で行為することは不可能で、エーテルや涅槃の状態で行為することは不可能で、情(zyou)の領域での行為が、エネルギーの領域の進行を代表する、すなわち、人格が行為に具現化するのであり、これは人間が避けることが出来ない「 悲しみ 」であることを意味すると思います。

個人は、個人が持つDNA情報を具現化するために「 生きている 」のであり、これが、必然的な「 宿命 」であると思います。

物事は「 必然 」に進行し、その祖語が、DNA情報に帰属させた個人の「 責任 」になるから、「 ストレス 」になり、この気(ki)の「 ストレス 」が情(zyou)である「 責任 」の意識であり、人間は無意識に、その道理を知っているから「 ストレス 」を感じるのであり、この「 ストレス 」もエネルギーの領域であることから、人格を具現化、あるいは創造する因縁の一つの要素だと思います。

「 責任 」の意識がなければ「 ストレス 」は感じず、人格形成もそこで終わっていると思います。

「 あれかこれか 」の選択があるのは究極の不安定であり、この不安定を自分のDNA情報に合わせることを無意識にしているのが「 好み 」であるなら、この「 好み 」と事象の進行との祖語が「 責任 」となると思います。

好き勝ってに行動するなら責任をとれ、というのが社会の常識でしょう。

でも、好き勝ってにしか行動することが出来ないのが「 人間 」であるかも知れません。

その裏には無知ゆえに行動する「 悲しみ 」があることも事実です。

考えているばかりでは、呼吸は出来ません。

思考の前に、行動があることは、人間の「 悲しみ 」であり「 自由 」という喜びであるかも知れません。

自分のDNA情報に修正した結果の事象との祖語は、「 責任 」として個人の「 負の財産 」として持つことが、善因善果、悪因悪果であると思います。0,
posted by kandk55 at 02:51| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 44 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年05月04日

2014/5/4、Realpayer Cloud とスマートフォン

久々に、Realplyerを更新してみました。
それが、大変な更新でした。
何と、Realplayer Cloud に変化しました。

@ 更新

パスワードを要求するなど、ダウンロードするなど、何か変だなと思いましたが、指示に従い更新(アップロード)しました。
すると、前述しましたように、Realplayer Cloud に変わりました。
困ったのが、Realplayer で、簡単にDVDへの書き込みが出来ていたのが、「 再生 」と「 PC&cloud ライブラリー 」と「 動画 」から選ぶしか方法がないので、「 PC&cloudライブラリー 」を選んでクリックし、「 CD/DVD」をクリックして、「 CDまたはDVDを挿入するか、ここをクリックしてCDへの書き込みを行ってください」という指示に従いクリックすると「 オーデオCDライター」が開き、「 ビデオディスクライター 」をクリックすると、書き込みに必要なソフトウェアーをインストールすることになり、私は会員でしたので、インストールして、書き込みが可能になりました。
ここまでは、普通の更新だと思い、DVDに書き込みが出来る状態で満足していました。
ところが、これからが、大いに違ったのです。

A Realplayer Cloud

Realplayer Clud とういう項目が出来て、何だろうとクリックしますと、クラウドの容量が「 2GB」まで無料で、動画をアップロードすれば、「 250MB 」追加され、iPoneやAndroidやKindleのRealplayer Cloud のアプリケーションでログインすると「 250MB 」追加されたり、フェイスブックなどで友達にRialplayer Cloud を紹介すると「 1GB」追加されますとの記事がありました。
ここで、やっと、スマートフォンとRealplayer Cloud が作られた意味がわかりました。
動画をRealplayer Cloud にアップロードしたのを、スマートフォンやiPoneで閲覧することが出来るのです。

B Realprayer Cloud とスマートフォン

スマートフォンでRealprayer Cloud のアプリケーションを探しましたら、Google Play で、無料のアプリケーションを発見し、インストールすることが出来ました。
私は、Realprayer ではなく、Realplayer Cloud をインストールしました。
あとは、普通のクラウドと同じで、スマートフォンでRialplayer Cloudのアプリケーションを開いて、サインインすれば、アップロードした動画を閲覧することが出来ます。

スマートフォンで動画をダウンロードして閲覧することに比べて、時間が短くて途切れることがなく、途中で止めても、止めたところから閲覧することが出来て、多分、ウイルスの心配もなく安心して閲覧することが出来ると思います。
クラウドで保存した「 2GB 」の動画を、少ないスマートフォンの容量で閲覧することが出来るし、アップロードもパソコンや他の記憶媒体に保存したファイルを「 右クリック 」して「 Realplayer Cloud にアップロード 」をクリックすれば簡単に可能だし、アップロードした動画も「 右クリック 」で簡単に消去することが出来ます。
スマートフォンでRialplayer Cloudのアプリケーションを開いて、サインインすれば、アップロードした「 2GB 」の動画を閲覧することが出来ることだけでも喜ばしいことだと思います。


経営と所有、あるいは機能と保存を分けたような感じで、私の気(ki)と情(zyou)を分けて考えることと似ていると思います。
また、私は、無線LANを使っていますから、室内ではスマートフォンで、クラウドにアップロードしていないパソコンで保存するMP4形式のビデオも閲覧することが出来ることを付け加えておきます。
posted by kandk55 at 04:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 私とパソコン | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする