2015年01月30日

2015/1/30、私の現在の考え 5 意識は電磁波である

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

以下、過去の記事を引用したあと、私の考えを書きます。

2008/11/12、私の展開(意識は電磁波である)

私は、人類の歴史上で初めて「意識は電磁波である」と言う文句を作りました。

詳しい事は、別の記事に書いています。

何度も言いますが、赤ん坊に時間も空間も教育する必要がありません。

赤ん坊は、既に、知っているのです。

昼や夜、時刻を知らないだけです。

少し考えると、これ等は、社会の生活様式です。

知っていても知らなくても、人間として生きる事ができます。


私は、時間や空間を意識する事は、遺伝子の中に組み込まれていて、全ての人間が持つ力であると思うのに、人類が今まで考えた事も無かった事が不思議です。

私の欠点は、「意識は電磁波である」事を証明する事が出来ない所です。

私は、認識した事を、無意識のレベルで感じる事が、「意識は電磁波である」事の証拠とします。

2008/10/26、生まれながらの時空

私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」

2009/1/24、私のブログ(プラズマ宇宙論)1

プラズマ宇宙論出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96

フィラメント構造とビルケランド電流

上記に書いたように、宇宙には多くのフィラメント構造が存在している。
このフィラメントと、その内部を流れるビルケランド電流は、太陽フレア、オーロラ、太陽系、星雲、銀河の形成、そして大規模構造などの理解にも必要なものである。
プラズマ宇宙論の重要なファクターと言える。

その形成過程は非常に単純である。
まず、「ピンチ効果 (Z-pinch)」と呼ばれる現象がこの形を作り出す。
直線的な電流がプラズマの中を通るとき、そのまわりに円筒状の磁場が生じる。
これが同じ方向を流れている他の電流を引き寄せるのである。
このようにして小さな電流の糸は互いに引き寄せ合う(ピンチ)傾向がある。
その際に周囲のプラズマを引き寄せる効果が働き収束する。
収束した糸はよじれてフィラメント状の巨大な渦巻きを生み出すのである。
このフィラメントの内部を電流が通る事が知られている。

その電流はビルケランド電流と呼ばれている。

このような特性のために宇宙のフィラメントは、しばしば送電網に例えられる。
この送電は次第に他の送電を引き寄せ、つながり合い巨大な送電網を作りだすことによって宇宙のなかで大量の電流を運んでいる。
身近な例ではオーロラもビルケランド電流によって生じている。
太陽系や銀河、大規模構造などにも巨大なフィラメントがあり大量の電流が宇宙を駆け巡っている。

(以上で引用を終わる)

私の考え。

私は、これまで、「 意識は電磁波(光)である」という考えで、末那識(manasiki)が、「 自意識 」として中心に存在し、その周りに、暴風雨のように阿頼耶識(arayasiki)を、引き寄せて、「煩悩」を作ると書いた。

この末那識(manasiki)が「 ビルケランド電流 」から生じる「 最も最初の電磁場 」として考えると、この「 プラズマ宇宙論 」が、私のブログに、良く適合する。

「 ビッグ・バン」の理論ではなくて、非主流派の「 プラズマ宇宙論 」が、私のブログを先導する理論として考える事に決めました。

2015/1/26、私の現在の考え 2

以上から、「 心 」を考えます。

以上のように、「 死んだら終わり 」ではなく、エネルギーが保存されると考えると、「 心 」は、生きているときは「 無意識 」にあるでしょうが、死後の「 心 」は遺品や文化が持つエネルギーとして保存されるのだと思います。

生きているときでも、部屋の中の配置に「 心 」を感じることがありますが、それは、その人が持つ「 脳 」の「 能力 」の具現化であり、潜在するエネルギーであると思います。

「 脳 」の「 能力 」が末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayaski)であり脳のエネルギーである「 心 」が顕在化したのが前者であり、潜在するのが後者だろうと思いますが、潜在する「 心 」が、部屋の配置などの、人から離れた、あるいは死後の「 心 」というエネルギーとして保存され、文化として受け継がれるのだろう思います。

だから、文化財に触れて「 心 」を感じ、自分の中にエネルギーが湧き、文化財の「 心 」を自分の「 心 」に同化することが可能だと思います。

これは、アラヤシキ(arayasiki)の無意識の中で、同化され、エネルギーは導入されるのだと思います。

昔は「 発禁本 」などがありましたが、以上の私が述べた考えで、「 発禁本 」に為政者がしたのだと思います。

このエネルギーは、エーテルがある限り伝達されるものだと思いますので、人間に五感がある限り、その「 感受性 」という無意識を通して伝達され、アラヤシキ(arayasiki)になるでしょう。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題だと思います。

アラヤシキ(arayasiki)が意識が潜在していることに留まらず、その「 機能 」や「 能力 」に注目すれば、私の考えでは、「 心 」を伝達するものだということになります。


2015/1/30、私の考え



よく、失神することを「 気を失う 」とか、意識が回復したことを「 気を取り戻す 」など、気(ki)という漢字を使います。

これは、我々が、「 意識は電気である」と知っているからだと思います。

私の考えでは、気(ki)はエネルギーであり、電気であり、その派生物である意識は、電磁波の構造を持ち、それは、人間がアプリオリに持つ「 生まれながらの時空」という意識を認識する「 能力 」「 脳の力 」を持っていることで、「 能力 」が、「 プラズマ宇宙論 」でいう「 フィラメント 」である「 生まれながらの時空 」を走る「 ビルケランド電流 」であり、大脳で作った記憶という情(zyou)によし、人、それぞれの時空になると想定します。

意識の周囲に「 小さな電流 」であるアラヤシキ(arayasiki)という無意識があり、人体の外部にあるエネルギーを取り入れると想定します。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題で、両者が伴って、「 心 」を運び、電離層で、他者と交流するのだと考えます。


Every miler draw water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 T | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月28日

2015/1/28、私の現在の考え 4 存在

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

「 世界内存在 」について、以下のように書きましたが、これは世界の中に自分がいることだけで、「 存在 」ということに触れていません。

少し、継ぎ足しをします。

2015/1/27、私の記事

「 世界内存在 」も、上記のことから考えます。

このように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」事態が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

「 自分 」から前者を観たとき、人体は宇宙の構成体、エネルギー(神)の産物であることに感謝し、「 自分 」から後者を観たとき自分の思考は、エネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の産物であることに感謝するでしょう。

このように、「 世界と自分 」を二重に考えると、自分がエネルギー(神)や人類の最先端にいることがわかると思います。



2015/1/28、私の考え



2014/2/2、オカルト・エーテル考 16 存在の謎 4(カテゴリー44)で、以下のように書きました。

……………………以下は引用です…………………

2014/1/19、私の記事


これは、フィクションです。


上記のように、宇宙を満たすエーテルを無限の「 弦 」や膜と考え、エネルギーはプラスとマイナスを持つ「 神 」と考え、プラスが「 男神 」でマイナスが「 女神 」と考え、物質は「 弦 」であると考え、この世界は「 エーテル 」を必須とする。

これに対し、人間が持つ「 意識 」はエネルギーであり、その内容である「 思想 」「 内なる世界 」は、エーテルを考慮しない、あるいは認識することが出来ない世界である。

そのため、頭脳は「 永遠 」に「 無明 」であり、事象を「 無常 」と考え、宇宙と一致しないと思います。

下記のように「 存在の謎 」でいう「 「なぜ何もないのではなく、何かがあるのか?」については、現代物理学では完全な無(絶対無)というものは物理的に存在せず、「 無(mu) 」は、実有する「 エーテル 」であり、宇宙は「 無(mu)」に満たされ、「 無(mu)」に包摂されて「 有 」があり、「 有 」や「 実体 」と認識するのは、「 弦 」のエネルギーが集合した物体であると考え、「 エーテル 」という弦が存在するから、エネルギーから物体、逆に物体からエネルギーへと変換できると思います。

「 弦 」の集合の成立は、前述したようにプラズマ宇宙論を考えます。

この「 無(mu) 」つまり「 エーテル 」が実有するのに対し、人間の頭脳では「 エーテル 」を考慮しない、あるいは認識することが出来ないため、「 無明(mumyou)」や「 無常(muzyou) 」という観念が発生するのだろうと思います。

インドにおいては「存在しない事」を「無が存在する」というらしいが、私は「 無が存在する 」のではなく「 エーテルが存在する 」と考えます。


私は、下記の、なぜ何もないのではなく、何かがあるのか「存在の謎」(Wikipedia) の中に、アインシュタインの相対論も量子論も超弦理論も「 エーテル 」のことも、書かれていないことに、非常に不満に思っています。



2014/1/26、私の記事

これは、フィクションです。

このように、エネルギーが「 神 」であり、「 男神 」と「 女神 」を始めと終わりとした弦で、「 物体 」は素粒子の弦の集合であり、「 実体 」は人間の頭脳で始めと終わりがある、因果関係がある「 弦 」であり、その全てを包摂するのが「 法身(hotsusin)」であるエーテルと考えます。

「 神 」と「 物体 」はエーテルを必ず必要とし、「 実体 」あるいは「 存在 」は意識であり、エーテルを必要とせず、そもそもエーテルが認識することが出来なく、エーテルを「 無(mu)」と考えるのだと思います。

哲学者が言う「 存在と時間 」も「 存在と無 」も、認識の問題であり意識の問題であり、「 無(mu) 」や「 時間 」(私は、存在は存在意識であるし、時間は時間意識と考え、現在には無い過去や未来を作る意識だと考えます)を本当に哲学したのか疑います。

哲学者の「 無 」は「 虚無 」の無でしょうし、「 否定 」の意味しか持たないと思いますが、人間はすべて「 有(yuu) 」の中で生まれて死ぬのであり、「 有(yuu)」も「 無(mu)」も人間は知らないのだと思います。

空気と共に有るエーテルを解明せず、「 宇宙 」のことを解明することは不可能だと思います。

その意味で、相対論と量子力学を結合するなど、エーテルを考慮しない宇宙で終わり、本当の宇宙の解明につながらないと思います。

私は、「 神 」はプラズマ宇宙論から生まれ、「 神 」の身体が「 エーテル 」と考え、宇宙すべて、人体の中でもエネルギーが伝導するのはエーテルの中であると考えます。

その認識不能な空間(エーテル)を「 無(mu)」と考え、認識や言葉を超越し、その「 無(mu)」の始まりを科学者はビッグ・バンと考えるでしょうが、始まりは「 魔法のランプ 」であると考えることと同じで、認識不能であると思います。

「 なぜ宇宙があるのか 」
「 なぜ世界があるのか」
「 なぜ無でないのか 」

「 なぜ宇宙があるのか 」については、上記のとおりで、「 なぜ世界があるのか 」の「 世界 」はエーテルの無い精神の世界であり、なぜ人間は考えるのかと同じことであり、エーテルが無い「 世界 」はエーテルを必須とする「 宇宙 」と一致しないし(つまり無明)、「 なぜ無でないのか 」は、「 無 」といってもエーテルは有るし、人類は「 無 」を知らないと思います。

これらは、認識しようとするのだが、認識は「 原因と結果 」の「 物語 」であり、それらすべてを包摂する宇宙やエーテルの「 有(yuu) 」は超越しているため、「 無(mu)」と思うのだろう。

「 有(yuu) 」は「 無(mu)」であり「 無(mu)」は「 有(yuu) 」である。

「 有(yuu) 」と「 存在 」は相違すると思う。

「 神 」やエーテルなどを、自然界のエネルギーと考え、これらは人間にとって悪いこと(地震や風水害や津波や雷や太陽風)も「 神 」であり、信仰するのも良いかもしれないが、気(ki)を信じることで、超能力を信じることや、現世利益を信じることになると思う。

宗教は、心の悩みを解消することであり、気(ki)の「 神 」ではなく、情(zyou)の「 仏(hotoke)」を信仰することだと思う。

「 仏(hotoke)」は「 人間を超越する 」のであり、涅槃は大気中のエーテルの状態だろうと思う。



2014/2/1、私の記事


これは、フィクションです。



エーテルは、呼吸する空気と不可分であり、人類のすべての身体は、エーテルの中にあり、口先から遠く何億光年(それ以上)も離れたビッグ・バンが発生している所までエーテルが満たし、それが法身(hotsusin)であり、そのエーテルの中を、プラズマ宇宙論でいう電流の気(ki)がエネルギーとなり、神となり、プラスの「 男神 」とマイナスの「 女神 」の両端をもつ「 弦 」で、男神が男性、女神が女性となって地球上に現れたとすれば、男女は気(ki)であるエネルギーのもとで平等であると思います。

エネルギーは「 仕事量 」で測るように、「 実体化 」しなければ判別することが出来ません。

エネルギーである神は、奇跡を起こすように、「 実体化 」しなければ、神であると認められません。

しかし、人間は気(ki)というエネルギーを持つから、人間という「 実体 」そのものが、神であると考えます。


私は、宇宙を大きな連続した弦と考え、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」で現れるのが「 実体 」であると考えます。

連続した大きな弦を、情(zyou)による、太陽系、地球、物体、人類、国家、社会、DNA、思想や感情、人格などの小さな「 弦 」で把握したのが「 実体 」で他の「 実体 」との空間(エーテル)を「 関係 」と考えます。

情(zyou)の小さな「 弦 」で把握した「 実体 」が崩壊したとき(例えば、死亡したとき)、気(ki)の連続したエーテルに戻ると考えます。

「 この世 」は連続したエーテルの中で、「 弦 」が重なり合っている状態で、小さな「 弦 」が崩壊すれば、大きな「 弦 」になり、エーテルの中、つまりエネルギーの中では、均衡を保たれていると思います(エネルギー保存の法則)。

物理や哲学や宗教の「 間違い 」は、エーテルを無視したことや「 無(mu)」や「 有(yuu)」を真剣に考えて来なかったことだと思います。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は大気で後者はエーテルだと例えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。


思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギーを交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギーの神であると思います。

それは、情(zyou)である意識の中心と、気(ki)であるエネルギーの中心が楕円の中心のように、一致しないことが原因で、情(zyou)は、エーテルを無視し、気(ki)は、エーテルを必須とすることが原因かも知れない。



2014/2/2、私の記事


これは、フィクションです。


私が、「 無(mu)」の存在を、エネルギーを交換する場であるエーテルとするのは、私のブログの都合上であるから、無視していただいても結構です。

私は、「 今、ここ」で、「 今 」の中で「 永遠 」なもの、「 ここ 」のなかで、無限(mugen)に遠くて無限(mugen)に近いもの、即ち「 今、ここ 」を超越するものは何かを考えます。

私は、時間を時間意識、空間を空間意識という脳波(電磁波)の定在波で、情(zyou)であると考えますから、情(zyou)では解決不可能なもの、情(zyou)を生じさせるものが「 超越 」と考えるなら、それは気(ki)である「 エネルギーやエーテル 」であると考えます。

私は、時間は時間意識、空間は空間意識という情(zyou)であり、それが「 過去や現在や未来 」を作ると考えますから、「 超越 」は、「 過去や現在や未来 」の超越を考えるのではなく、情(zyou)には無いもの、つまり情(zyou)が無視して来たものが超越として現れたものであると思います。

私は、哲学で「 空間 」といいながら、本当に「 空間 」を考えたのか疑問に思います。

エネルギーを含んだ空間が「 エーテル 」ならば、「 エーテル 」を考えることが「 超越 」を考えることであると思います。

存在しないから「 無(mu)」と考えるのではなく、すべての存在と共存する「 有(yuu)」であると考えることは前述しました。

呼吸で吸い込むのは空気だけでなく「 エーテル 」も吸い込んでいて、その「 エーテル 」は無限のかなたまで連続してひろがり、吸い込む「 エーテル 」も無限にひろがる「 エーテル 」も、情(zyou)では、認識することが出来ない「 無(mu)」であるが、存在を否定することが出来ない「 無(mu)」であると思います。

死んで、人間の身体は宇宙のゴミとなっても、エーテル(涅槃)という「 無(mu)」になります。

「 無(mu)」は、存在の否定ではなく、すべての存在を受け入れる「 有(yuu)」となり、空気のエネルギーと共に連続して、人体の中に出入りすると思います。

このように考えるとき、死に向かう人が、残された人に向かって「 私は星になってあなたを見守る 」ということや「 いつもあなたのそばで、見守っている 」とか「 私を呼べば、すぐ来てあげる 」ということが同時に成立するのです。

「 死に向かう人 」が、聖人や仏陀であっても、一般人であっても同じです。

こうして、エーテルや「 無(mu)」を考えることにより、物理と哲学と宗教が結びつくと思います。

……………………引用を終わります…………………

前述しましたように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」自体が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

自我は情(zyou)であり、生まれてからの関係上で獲得する知識も情(zyou)であり、大脳の働きです。

存在は意識でありますが、存在は有(yuu)でありません。

私は、「 有(yuu)」は「 存在 」とは違うと思います。

「 存在 」は意識であり「 有(yuu)」はすべての意識を受け入れるものであり、前者は報身(housin)であり大気のようなものであり後者は法身(hotsusin)であり、神(エネルギー)の身体であり、エーテルのようなもので、大気を矛盾なく包摂するものだと思います。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」は、存在することを証明することが出来ないので、等価といえると考えます。

「 有(yuu)」と「 無(mu)」を同じと考える私は、「 無(mu)」をエネルギーを媒介するエーテルと考え、エネルギーが伝導するのはエーテルが有るからだと思います。

人体は無意識という無(mu)を通して、小脳を通して、外気からエネルギー(神)を取り入れるのだと思います。

思想の「 無常(muzyou)」や「 無明(mumyou)」という「 無(mu)」は、エネルギーの変動が意識で判別できる段階であり、人間の「 無意識(muisiki)」の「 無(mu)」は、人体の内部と外部との気(ki)であるエネルギー(神)を交換する場であり、人体では「 小脳 」が司ると考えます。

ストレスも、「 無(mu)」であるエーテルから「 無意識(muisiki)」を司る「 小脳 」を通して伝わるエネルギーであり、人によってストレスが違うのは、DNAなどによりエネルギーの伝導の違いや、他の感情の「 弦 」の「 定在波 」が違うかも知れないと思います。

「 存在意識 」も「 人格 」も、始めと終わりを持つ「 弦 」の「 定在波 」であり、「 定在波 」が「 実体 」であると思います。

始めと終わりが無意識(mu)であり、エネルギーであるから、「 定在波 」は常に崩壊し続け、無明(mumyou)であり、そのため「 人格の向上 」も「 人格の堕落 」も生じるのだと思います。

決まった「 定在波 」を続けることを要求するのが情(zyou)である宗教であり、存在意識であり、「 定在波 」を崩壊させるのが気(ki)であるエネルギー(神)である有(yuu)と無(mu)である思います。

無明や無意識という気(ki)から始まった「 存在意識 」という情(zyou)は、無明で意識することができない有(yuu)という気(ki)により、破壊される。

そのことを「 無常 」というのだと考えます。

情(zyou)である宗教に、気(ki)である神(エネルギー)を持ち込むことに疑問を感じます。

宗教が神(エネルギー)持ち込めば、科学と対決しなければなりません。

宗教は「 人が進む道 」や「 生き方 」を教えるもので、神(エネルギー)を信仰することではないと考えます。

神(エネルギー)と対決するのは科学で、人が進む道を教えるのが宗教であり哲学である報身(houssin)であるが、それらはすべて神(エネルギー)の身体である法身(hotsusin)であるエーテルの内部のことであるし、報身(houssin)である思考(存在意識)が法身(hotsusin)である「 脳 」(存在・有(yuu))を解明することはできないと考えます。

思考は、宇宙の産物ではなく、人間の頭脳の産物だからです。

以上、総括とはならないと思いますが、書いてみました。


Every miler draw water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 T | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月27日

2015/1/27、私の現在の考え 3、世界内存在

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。



2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。



2015/1/27、私の考え



「 世界内存在 」も、上記のことから考えます。

このように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

「 自分 」は、「 三身即一 」ですから、法身(hotsusinn)と「 自分 」、報身(housin)と「 自分 」が考えられます。

前者がエネルギー(神)が物化した人体、宇宙の構成物としての「 自分 」であり、後者はエネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の中の「 自分 」であると考えます。

前者が気(ki)の中の自分であり、後者は情(zyou)の中の自分であり、人間が精神ならば、「 存在 」事態が意識であれば、後者の自分が自我であると思います。

「 自分 」から前者を観たとき、人体は宇宙の構成体、エネルギー(神)の産物であることに感謝し、「 自分 」から後者を観たとき自分の思考は、エネルギーが創った頭脳から派生したすべての能力の産物、すべての文化の産物であることに感謝するでしょう。

このように、「 世界と自分 」を二重に考えると、自分がエネルギー(神)や人類の最先端にいることがわかると思います。

自分を規定し、自分の存在が意識であるならば、宗教でいう「 神 」も情(zyou)としての神であると思いますが、日本の「 八百万の神 」はエネルギーを神と考えていると思います。


Every miler draw water to his own mill.

posted by kandk55 at 04:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 T | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月26日

2015/1/26、私の現在の考え 2

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。



2015/1/21、私の記事


以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。

2015/1/26・私の考え



以上から、「 心 」を考えます。

以上のように、「 死んだら終わり 」ではなく、エネルギーが保存されると考えると、「 心 」は、生きているときは「 無意識 」にあるでしょうが、死後の「 心 」は遺品や文化が持つエネルギーとして保存されるのだと思います。

生きているときでも、部屋の中の配置に「 心 」を感じることがありますが、それは、その人が持つ「 脳 」の「 能力 」の具現化であり、潜在するエネルギーであると思います。

「 脳 」の「 能力 」が末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayaski)であり脳のエネルギーである「 心 」が顕在化したのが前者であり、潜在するのが後者だろうと思いますが、潜在する「 心 」が、部屋の配置などの、人から離れた、あるいは死後の「 心 」というエネルギーとして保存され、文化として受け継がれるのだろう思います。

だから、文化財に触れて「 心 」を感じ、自分の中にエネルギーが湧き、文化財の「 心 」を自分の「 心 」に同化することが可能だと思います。

これは、アラヤシキ(arayasiki)の無意識の中で、同化され、エネルギーは導入されるのだと思います。

昔は「 発禁本 」などがありましたが、以上の私が述べた考えで、「 発禁本 」に為政者がしたのだと思います。

このエネルギーは、エーテルがある限り伝達されるものだと思いますので、人間に五感がある限り、その「 感受性 」という無意識を通して伝達され、アラヤシキ(arayasiki)になるでしょう。

末那識(manasiki)とアラヤシキ(arayasiki)は「 意識の区別 」ではなくて、エネルギーの顕在化や潜在化の問題で、「 心 」の問題で、前者の生前の「 自意識 」と後者の部屋の配置などの「 心配り 」や「 配慮 」あるいは「 人格 」の問題だと思います。

アラヤシキ(arayasiki)が意識が潜在していることに留まらず、その「 機能 」や「 能力 」に注目すれば、私の考えでは、「 心 」を伝達するものだということになります。


Every miler draw water to his own mill.

posted by kandk55 at 02:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 T | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月21日

2015/1/21・私の現在の考え 1

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)]が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。
今思いますと、最初の疑問に答えるためにブログを続けてきたと思っています。

その結論を引用します。


2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーから引用

あとで考えたのですが、宇宙を満たすエーテルが神の身体である法身(hotsusin)であり、エネルギーが神であり、人体の中では「 気(ki」として現れ、宇宙と連続するのに対し、意識は神が変化した情(zyou)なのですが、意識を生むエーテルやエネルギーを合理的に説明することは出来ず、ストレスや快感などとしか説明するしかなく、その原因は意識は記憶から生まれることだと思います。
時間意識や空間意識は記憶から生まれた感情である情(zyou)であり、時間は記憶ですが、記憶を生む「 空間 」であるエーテルは未だに解明できていないと思います。
この、エーテルやエネルギー、即ち神を解明するのは、宗教という情(zyou)ではなく、科学という数式だと思います。
数式は情(zyou)ではないからです。
そして、ゴーギャン考のところでも書きましたように、人間は無明(mumyou)から生まれ無明に消えていくと考え、無明や無常(muzyou)は何かを考えました。
そこから、「 無(mu) 」は意識の中だけにあり、宇宙はすべて「 有(yuu)」であり、エネルギー保存の法則があるように、神と神の身体はどんな変化があっても、保存されると思います。
その結果、「 死んだら終わり 」ではなく、「 死んでも有り続け、保存される 」から、自殺は現状からの逃避であり、「 無(mu) 」にはならないということです。
「 無明(mumyu) 」は「 何かが有る 」状態であり、「 無(mu) 」にはならないと考えます。
死んだら、人体は崩壊し、エネルギーとエーテルになるでしょうが、エーテルを、科学で考えるように「 無(mu) 」であると考えますと「 死んだら終わり 」であり、間違いだと思います。
エーテルを「 有(yuu)」と考え、宇宙のすべてが「 有(yuu)」であり、呼吸する空気と共にエーテルも人体の中に取り込んでいるのであり、その空気の中のエーテルは数億光年も先と連続し、神は数億光年から人体まで連続していることになります。
そうすることにより、子どもたちに「 死んだらお星さまになる 」とか「 死んだら、あなたのそばで、見守ってあげる 」ということも、真実になるのだと思います。
この、エネルギーは気(ki)であり、生気論(seikiron)に繋がり、プラズマ宇宙論に繋がり、プラズマが神ではないかと考えています。
その意味で、神、すなわち気(ki)の前で平等であり、情(zyou)である宗教の神の前で平等とは書きません。


2015/1/21、私の考え



以上のように、法身(hotsusinn)が宇宙の「 エーテル 」であり、報身(housin)を「 神 」と考えますと、神は「 エネルギー 」であり、応身(ouzin)は「 エネルギー 」が全人類の遺伝子などの「 能力 」に物化したのだと思います。

「 能力 」は何かと考えると「 能 」は頭脳の「 脳 」であり、「 脳の力 」が「 能力 」となり、それが具現化したのが言語や絵画などの文化の全部だと考えます。

法身(hotsusinn)と報身(housin)が気(ki)であり、報身(housin)と応身(ouzin)が情(zyou)であり、法身(hotsusinn)と報身(housin)と応身(ouzin)が一体となったのが人体であると考えると、「 三身即一の尊い如来 」である遥か彼方に鎮座する如来様(nyoraisama)と「 人体 」は同一であると考えます。

仏陀やキリストと私たち人類は、程度の違いさえあるが、「 仏(hotoke)」であり、本来は「 人 」ではないものであり、如来であると考えます。

これは仏教から遠く乖離した考えであり、私の考えであり、仏教の教えではありません。

死後はどうなるかは、2014/4/6.オカルト・エーテル考23・エネルギーで書いたことだと思いますが、死んだら無になるというのは、間違いで、人体という「 三身が一体となった統一物体 」は無になりますが、つまり「 自我 」という「 膜 」は無になりますが、分解したエネルギーは「 在り続ける 」のであり、宇宙のかなたの星になることもあるし、エーテルを通して他人のエネルギーとして「 在り続ける 」かもしれません。
例えば「 本を読めば生きる力(エネルギー)になった 」ということも、他人の中で「 神 」となった作者の考え(エネルギー・神)が現れたと思います。

なぜなら、人類は気(ki)である全くの「 有(yuu)」や全くの「 無(mu)」を知らないからです。
応身(ouzin)である人類は「 情(zyou)」としての有無を知るだけだからです。

「 死んだら終わり 」と考えるのは「 情(zyou)」の段階であり、気(ki)の段階では、「 死んでも有り続け、保存され 」て、「 無(mu) 」にはならないということです。

私は、このように死後は宇宙のエーテルの中のエネルギー、即ち「 神 」になると「 信じ 」ます。

神風特攻隊が、「 死んだら神になる 」のと同じように。

Every miler draw water to his own mill.


三身(Wikipedia)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E8%BA%AB

三身即一
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%B8%89%E8%BA%AB%E5%8D%B3%E4%B8%80
posted by kandk55 at 02:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 足跡 T | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2015年01月18日

2015.1.18 ポスター販売のお願い

一年ぶりに投稿します。
私は今年で65才になり、三月で現在の職場から完全失業の状態となり、年金生活になります。
年金の金額は少ないですから、生活費を補うために何かをしなければなりません。
そこで考えたのが「 ポスター販売 」です。
以下のように、ポスターを二種類、用意しましたが、どのように販売するかが問題でした。
インターネット販売が適当だろうと思いますが、郵送費が必要です。
郵送費を少なくして販売するのは、店頭販売です。
ですから、店頭で販売が可能な人を探しています。
販売が可能な人は、私にメールでご連絡して頂けるとありがたいです。

私のメールアドレス→   moka555@y7.dion.ne.jp


Tポスター

@

oowaku2

A

hakonero-pu1


U ポスターのサイズ

縦は約 42 センチメートル

横は約 59.5 センチメートル

V 販売価格

ピンボケで恐縮ですが、一枚500円程度

写真に入った文字は消します

もしも、販売して頂きますならば、メールをくださいますようお願いします。
posted by kandk55 at 02:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ポブター販売 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする