2015年03月20日

2015/3/20、私の現在の考え13・流れるものと派生するもの2

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/20、私の考え



自分を考えてみよう。
(流れるもの・循環するもの・始まりや終わりが無いもの)
人体と宇宙(両者は宇宙の産物・法身)であるが、これらのの間で浸透あるいは往来するのは何か?
前者の「 気持ち(kimochi)」や病気(byouki)と後者の「 天気(tenki)」や「 気候(kikou)」には共通して気(ki)が使われている。
最初は気(ki)か入る孔があるかと思ったが、両者はエーテルに浮かんでおり、エーテルやエネルギーを気(ki)と考えると、エーテルに浮かぶ人体のすべてから気(ki)が入ると考えるようになった。
エネルギーが人体の中に入ったかどうかは、意識していない。
これを「 無意識 」といえば、人体は無意識にエネルギーを摂取しているのだろう。
人体を動かす(たとえば脳)を動かすエネルギーは、食物や日光のような法身によるエネルギーと書籍などの文化のような報身によるエネルギーを意識することはできない(無意識に摂取している)。
前述したようにエーテルは神の身体でありエネルギーは宇宙の温度や電気や光や物化した宇宙の星のすべてで、人体もエネルギーが物化したものと考え、エネルギーがエーテルの中の物質中で相互循環し、そのエネルギーを神と呼ぶと思う。

(派生するもの・循環しないもの・始まりと終わりがあるもの)
自分の中で考える。
頭脳は「 フィラメント構造 」を流れる脳波という気(ki)であるが、意識は脳波を原因とした磁場で、それが精神であり、ちょうどビデオテープに残された映像のように記録されたのが記憶であるかもしれない。
そして今、現在、生活するとき、過去に向けて電磁波を発し出てくるのが「 思い出 」や記憶であるかもしれない。
私は、これらすべてを情報(zyouhou)である情(zyou)と呼び、これは感性や悟性や感情や理論や理性や宗教のすべてを含むと考える。
情(zyou)は、意識の内容であり、意識を持つのは人類共通であるが、その内容はすべて相違するだろう。
これは、地球上のどんなところでも時間意識、空間意識は相違するし、同じ場所や同じ時間は自分以外に存在しないし、相対性理論の「 同時性 」は「 自分以外 」に理論で拡張したものであることからも推察できる(エーテルも無視している)。
情(zyou)は、「 物語 」であり、「 心 」や「 心情(sinzyou)」であり、始めがあって終わりがあり、思考が人類すべて相違するように、「 物語 」もすべて相違するから、言語に変換して、他人の変換を待って伝達されると考える(心が伝わると表現する)。
つまり、「 循環 」することはなく、その単体のみで終わるのが「 物語 」であると思う。
人間をすべて言語で表現されても、人間を精神と規定することはできないと思う。
感情などを言語で表現されたとしても、人間には気(ki)があり、エーテルやエネルギーを言語で表現しない限り、人間を規定したものとはいえないだろう。
宗教で使われる「 無 」は頭脳の産物で宇宙は「 有 」であり、人間は無の状態を経験していないから「 無 」とは「 情(zyou)の無 」であり、「 フィラメント構造 」や気(ki)に近い状態であると考える。

Every miler draw water to his own mill.

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2015年03月14日

2015/3/14、私の現在の考え12・流れるものと派生するもの

私も65才になり、人生に残された時間も少なくなってきました。
kandk55 をニックネームとした本名の「 高口克則(Kouguchi Katsunori)」が、これまで広げたカテゴリーにある程度の総括をする責任があると思い、再びブログを書くことにしました。

2015/3/14、私の考え



私は、これまで、無意識や意識、気(ki)と情(zyou)、小脳と大脳を書き、それらを人間の足と考え、人間が二足歩行をするように、それらを交互に往来して認識が生じると考えた。
これは、「 意識が電磁波である }の延長上の考えで、電場(エネルギー・神・たとえば空間意識)と磁場(精神・たとえば時間意識)が交互に現れ、電場と磁場が直交したとき認識が生まれ、「 心 」が生まれ、行動のエネルギーや力(神)が現れると考えた。

気(ki)と情(zyou)は、「 流れるもの 」と「 派生するもの 」だと考える。

「 流れるもの」は無明であり始点と終点をもたないもの(たとえばエネルギーや宇宙)、「 派生するもの 」は始点と終点を持ち(たとえば物語や宇宙観)、後者は前者の一部であり、後者は前者から生じ、前者の中に終わると考える。
その過程が「 無常 」と呼ぶもので、「 形あるものは崩れる 」ことになる。

「 流れるもの 」は「 循環するもの 」と同義と考える。

「 人格 」も「 派生するもの 」であり、「 形 」を持った瞬間に人格が現れ、「 六道 」の中に分類されるが、それは「 無常 」であり、始点と終点を持ち、それらを変化させるならば変化の余地があるだろう。

「 人格 」が始まり、終わることが「 人生 」であり、その結果として「 人生 」は人格であり、エネルギー(神)から「 派生した物語 」であり、人格を表現する人体が消滅しても、それはエネルギーである「 神 」に戻るだけで、「 死んだら終わり 」ではないと考える。

「 人格 」は、遺品に現れた「 心 」としてのこり、「 心 」が凍結したエネルギー(神)であるから、凍結を解く「 無意識 」と「 感受性 」により、エネルギー(神)が人間の「 精神 」として後世に伝達されると考える。

Every miler draw water to his own mill.
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