2008年05月12日

5月12日・TVで放送された社会保障

5月11日、何気なくTV を観ていたら、東京大学教授と慶応大学教授の二人と、経済界から一人が出演して、ビデオを観ながら、介護保険や生活保護の現状と今後の進むべき方向について、話し合っていた。
印象に残った事を以下に書くことにする。

日本国憲法の第25条に生存権と国の社会的使命についての規定がある。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」

第二次世界大戦で、日本が敗戦に終わり、日本国憲法が制定された。
その憲法記念日が、5月3日であった。
戦争による多くの犠牲の上に、かって日本政府が国民と約束した事である。
国民に「痛みを分かち合う」という名目で、小泉元首相の指揮の下、「生存権」を担当する「厚生労働省」が、社会福祉の予算を縮小した。
老人が年金から介護保険料を差し引かれ、今年の四月から、「後期高齢者制度」が始まり、健康保険料も年金から差し引かれるようになった。

小泉元首相が退陣した後の社会。

TVによると、地方では病院が統合されて不便になる事は普通で、病院経営が困難になり、地方から病院が無くなる傾向である。
勿論、介護保険も、介護報酬が削減され、今までは、リハビリテーションを目的にして、ヘルパー支援で買い物に行っていたのが、現在は、同じ金額の範囲内で介護保険を使うためには、障害者が歩く時間を省略して、ヘルパーだけで買い物に行く。
障害者の自立支援という、美名の下に、障害者に負担を求めて、自立を支援するのではなくて、自立を強制している制度になっている。

憲法の「健康で文化的な最低限度の生活」を、厚生労働省が決めているのだが、これも、「自立」の美名の下で、予算を削られ、生活保護者は、「何時、生活保護を停止されるか」という不安な生活を余儀なくされている。
高校の進学さえも、公立高校の授業料の援助はあるものの、私学の高校に入学すれば、援助を超えた分は生活保護者の負担となる。
弁当を中学校に持参する事が出来ないために、登校拒否している保護者もいるという。
高校に進学しても、中学で進学を止めても、日本は学歴社会だから、劣悪な仕事に従事しなくてはならないだろう。

憲法26条に教育を受ける権利が制定されているが、事実上は、貧困のために、教育を受けられない。
学歴社会だけではない。
国会議員は、親子揃って当選する。
国会議員は、職業の自由だと主張するが、実際は世襲制度のようなっているし、どこかの自動車会社は、巨額の利益を上げながら、社会に還元しない。

貧困が再生産される。
子供が学校に通っている間は、働く能力は身体にあっても、学業から離れて就業させると、一般の生徒から更に遅れる結果になる。

自分の努力で解決する事が出来ないのは、社会が助けるのが、社会保障ではないのか?

北欧諸国は、母子家庭や父子家庭への援助を増加して、貧困の再生産を防ぎ、安心して子供を生む事が出来る環境であるとの話だ。
日本では、子供の養育について、非常にリスクが高いから子供を生む事を躊躇する。
それなのに、前の厚生労働大臣は、「女性は子供を生む機械だ」と言った。

国の役人は、憲法を知らないのだろうか?
あるいは、採用試験の時は、暗記して全部を記憶するが、合格すると忘れてしまい、本で勉強しただけで、感覚が無いから、「生存権」という「世界」は、彼らの頭脳の中には、無いのかも知れない。

@介護保険

A生活保護

B後期高齢者医療制度

この三つについて、一刻も早く、反省して対策を考えて欲しい。

国会議員の給与も、厚生労働省の役人の給与も、国民の税金により、支払われている。

懐かしい言葉がある。

税金泥棒
posted by kandk55 at 04:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 U | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年05月11日

5月11日・blog記事の価値

独り言Tは、何となく結論が出た。
今は、種切れの状態で、しばらくの充電時間を取りたい所だが、考えている内に、問題に突き当たるかもしれないので書く。

独り言Tで、「世界」は意識と考えれば、このLOVELOG が、いろんなカテゴリーに別けてブログを書いているのは、「世界」を区切って整理していると解釈する。
人間は一つの「世界」しかないというのは、「宇宙」が一つしかない事と、混同していると思う。

個人が考えて書けば意識して書く事である。
私は「自分内世界」での体験を、物語として提示して、他者の判断に委ねる。
体験談は、物語である。
物語とした時点で、意識はそこには無い。
体験談は、時間的な意識が行為をさせた抜け殻であり、体験談を書いたからといって、今、そこに意識は無い。
体験談は、あなたは、どう思いますかという問題提起である。
私は、記事をそのように考える。
従って、検索エンジンで、私の記事を探しても、それは抜け殻であり、過去の食べ残しに過ぎない。
記事の価値は、どれほど将来を把握しているかである。
「世界」の中心を、どこに置いて書いたのか。
それが、時間により裁かれるだろう。
能力がある人の書いた記事は、歴史が評価する。
これは、絵画の世界にも通じる事だと思う。
絵画は、キャンバスに書いた模様だが、模様だと思う人と、作者の意味を感じる人がいるように、人によって扱いは一定でない。
絵画に限らず、「象徴」として考えられる作品は、多かれ少なかれ、ブログの記事と同じ運命を辿ると思う。
私は、意識の流れるままに、記事を書くから、その場限りの記事になる場合が多い。

5月11日、自分への独り言
posted by kandk55 at 02:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 U | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする