2008年07月27日

7月27日・私の考え(因果と歴史)

基本的な考えに変化は無い。

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月27日に考えた事。
因果は、「原因」と「結果」だと思う。
如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域では、相対論の言う四次元の軌跡は、地球の回転に伴う、位置の変化を指し、二度と元の位置に戻る事はない。

精神世界に刻まれた軌跡は、歴史として残り、物体が元の姿に戻っても、歴史は消えない。

水蒸気が水になり氷になり、そして水になっても、その経歴や歴史は残る。

可逆性があると言っても、歴史は残る。
精神世界の理論上で、元に戻る事は可能かも知れないが、歴史は消えない。

人間の行為は四次元で現されるが、それは、「宇宙」の規模では、取り返しの出来ない空間を移動した事になる。

私がタバコを吸えば、地球の大気は、必ず汚れるのだ。
汚れないとすれば、植物が炭酸ガスを吸収してくれているからである。
こうして、人間のどんな行為によっても、「宇宙」は人間の行為を受け入れて、汚され、元に戻す事はできない。

時間の矢の方向を、エントロピーを使って考えられているが、地球が自転していて、因果が逆にならない事を思うと、人間は熱学の第二法則に従うように考えると思う。
タイム・マシーンを使って歴史を遡る事は不可能である。

It is no use crying over split milk.


四次元空間の軌跡は、歴史である。
歴史は、時間の記録ではなくて、地球が動いた空間の記録である。
時間は、必ず空間を伴う。
今の楽しい時には、楽しいと感じさせる空間が、必ず存在する。
その時と時の間が時間であり、時間に伴う空間の思い出が歴史であると思う。

地球の回転に伴う四次元空間は、自分が誕生してから一度だけ通行する事を許され、通行した空間を思い出にしたのが人生かも知れない。

日本の選挙では、候補者の過去の経歴を全て比較する事をしないが、未来を任せる人物を選ぶ時、学歴ではなくて、人生の経歴や歴史の公開が必要だと思う。


Every miller draws water to his own mill.
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2008年07月25日

7月25日・私の考え(私の時空と本質直感)

2008年7月23日に書いた「私の時空」の記事をYahoo USA が登録してくれた。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjyydolIwFgBQh6l87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%28%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%29+m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

素人の私が、独自の見解を持つほど「時空」は簡単ではないと思うが、感想を書くことにする。

これは、カントの言葉である。

「時間は、客観的なもの実在的なものではない。……人間精神の本性によって必然的な、あらゆる可感的なものを一定の法則によって同位的に関係づける主観的条件であり、そして純粋直感である。……空間は……主観的なもの、観念的なものであり、そして精神の本性から確乎たる法則によって生じ、一切のまったく外的に感覚されたものを相互に同位秩序におくところの、いわば図式である」
  (E.カッシーラp119より引用)



私の時空に関しての感想。

「世界内自分」の中では、時間も空間も、学校や社会で学ぶように、社会が定義した尺度である。
音楽を聴く時、誰が作曲した楽曲なのか知るためには時間が必要だし、物体を見る時は、位置を変えて見る事により、全体を把握する。
何事も、一挙に現われるのではなく、順に現われる。
まるで、ストリップショーのように。
順番に現われるというのが、「時空」の特徴だと思う。

「自分内世界」では、私の「時空」を持つ事が出来る。

時間は、定義された幅ではなく、時間の流れも、一定ではない。
楽しい時の時間は、短く感じる。

空間は、自分の意識の届く範囲の空間であるし、空間の次元も、三次元の空間を二次元に絵を描くように、二次元の空間の物体を三次元の空間の物体へと想像する事も出来る。
「空間」は、次元の空間の把握かも知れない。

「時空」を順番に現われる、あるいは知覚される場と考える。

その場を超える「私の時空」とは、全体が一挙に現われる、あるいは知覚される場である。

「自分内世界」は「精神の世界」だから、物質を含まない。
一挙に現われるのは、物体ではなくて、「本質」である。

つまり、「時空」を超えるためには、古い言葉だが、「本質直感」しか想像する事が出来ない。

将来、「時間」や「空間」は、情報を光と考えて、それが頭脳の中に作る電磁場に似た「場」かも知れない。

「本質直感」は、与えられた条件から本質を直感するのではなく、自分の頭脳の中の「時空」の速さを変える事により、得られるものと想像する。

一つの物を自分が見て、その同じ頭脳の内容の人がもう一人いる。
時空が共通して、テレパシーの伝達時間も必要としない。
そんな、「本質直感」を想像する。

後日、書くが、意味という情報を、意識によりエネルギーにして、即座に頭脳に伝達する。
その座標が「時空」であると想像する。

世界は「波動」に包まれていると言う。

世界が、「空海(kukai)」の言葉が言う事と同じであれば、「本質直感」の助けになるだろう。

1,リズムの発見
2,響きと共振
3,マントラ(真言)の力

「地・水・火・風・空の五大は、響くものとして、リズムを持って振動するものとして捉えられるとき、単なる物質元素であることを越えて、すぐれて生命的なものを顕現する」……「38ページより引用」

「時間」や「空間」に捉われずに、「本質直感」する事は、結婚の相手を探す時にも、役に立つ。

地球が絶え間なく自転し、万物が流転する中で、自分の人生を実りのある人生にするためには、「本質直感」は必要だと思う。



Every miller draws water to his own mill.

後日、修正するかも知れない。
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2008年07月23日

7月23日・私の考え(私の時空)

物理学の発展から「時空の哲学」を考える事も、重要かも知れない。
しかし、人間の認識の中での「時間」と「空間」の問題が解決していないと思う。

理論という精神の分野で、時間と空間は融合するかも知れないが、現実では、ニュートンの言うように、絶対時間として時間が存在するようにしか見えない。

ニュートンの説を参考にしたカントが考えた時間の後に、何と言う哲学者が時間を定義したか、不勉強の私は知らない。

自転する地球の上に住んでいる人間は、時間と空間という観念を持ち、常に運動している。
(時間や空間を座標軸にしているから共通認識が可能だと思うが……)
寝ている事も、「宇宙」から見れば、位置は動いているし、人体も新陳代謝して、変化している。
「変化がない」というのは、気付いていない事だ。
誰もが、常に、運動している。

自分の死へ動いている地球の上で、絶えずダンスをしているのが人間だ。
ある意味では、地獄にいる亡者と似ている。

人間に共通なのに、時間とは何か、空間とは何か、について、哲学が無いのは、哲学者の怠慢だと思う。

素人が、「時間」や「空間」を定義できるほど簡単ではないだろう。

今も、地球は回っていて、私は「今」も、死に近づいている。

そんな私に、プレゼントは無いのか?
なあ、哲学者よ。
僧侶よ。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年07月22日

7月22日・私の考え(時空)

Wikipedia の「 時空の哲学 」に、次のような記述がある。

時間と空間についての哲学的問題

こうした物理学の発展をふまえて、時空の哲学では以下のような問いが考察されている。
@
時間や空間はその中にある物体と独立に実在するのか、それともあくまで物体の関係としてしか存在しないのか。
A
時空が存在するとして、それは実体を持つ存在なのか。
B
時空の構造がリーマン幾何学的であるというのは客観的事実なのか、それとも記述の仕方に相対的な単なる規約なのか。
C
時間の向きを決めるものは何か(時間の矢)。
D
逆向きの因果は可能か。タイムトラベルは可能か


私の考え
私は、カントの次の言葉の方が好きだ。

「時間は、客観的なもの実在的なものではない。……人間精神の本性によって必然的な、あらゆる可感的なものを一定の法則によって同位的に関係づける主観的条件であり、そして純粋直感である。……空間は……主観的なもの、観念的なものであり、そして精神の本性から確乎たる法則によって生じ、一切のまったく外的に感覚されたものを相互に同位秩序におくところの、いわば図式である」
  (E.カッシーラp119より引用)

私は、相対論は、時間を定義しただけで、時間の存在については解決していないと思う。
@やAについては、カントに賛成する。
Bは、数学者でないから、保留する。
Cは、エントロピーの問題でDはタイムマシンが可能かという問題だろう。

私は、地球上の全ての生き物が、寝ている時も活動している時も、地球が自転する事により時間という意識を持つ事を余儀なくされている。
常に、地球は自転し、逆回りもせずに、正確な回転数で回っている。
これは、人類が滅亡しても続くだろう。
「宇宙」には、時間などは無く、運動と広がりしか無いと思う。

Cは、時間を実在していると思っているが、実在するのは意識や精神の中だけだから、エントロピーが増大する方向が過去から未来だと言うのは、人間のエントロピーの事を言っているのであり、時間を解決していない。
Dも、時間を「 時代 」と見て、タイムマシンなど考えるが、地球は、そんなに人間の都合で、逆回りはしない。
地球が自転する限り、時間が止まる事も無いし、時間が逆に進む事もないと、私は、現時点では思っている。
太陽を一回りした、一年後の地球の位置は、違う。
なぜなら、「宇宙」は、膨張しているから。

そして、その方向に、「 因果 」を考えている。

「時間」は意識だから、ニュートンの「持続」という観念が残り、後世代の哲学者は、意識の「時間」を考えて来たのだと思う。

時空は直感の形式だと思うが、直感の形式とは何か?

私は、この方が興味がある。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年07月19日

7月19日・私の考え(主観的時間)

今日は、「時間の不思議」という本を紹介する。
Amazon で、1円で売っている。
     ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061328735/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=books&qid=1216426162&sr=1-1

これから、「因果論」に突入する前に、「時間」についての自分の意見を整理しておく。

基本的態度

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域

A人間が作った文化の世界、つまり意識や精神の世界

B「人類としての自分」が生きている

@に於いては、天体の運動が全てであり、「時間」などは存在しない。

Aに於いて、@の地球の運動により、人間に「時間」という意識が生まれるが、これは位置の変化を「時間」という言葉で表現するものである。
「時空」は、「空間」だけで表現されるかも知れないし、人間の意識である「時間」が混入するのは疑問である。
理論が時間に対称というのは、未来も予想し、過去の所在地を突き止められる事だと思う。
「時間」を神の絶対時間から人間の意識に移して、人間の意識で定義した時間を使って理論を作るのは自由だが、@の「宇宙」の領域では、運動しか存在しないので、時間に対称というのは人間に対して意味を持つ。
真理の理論は他にあるかもしれない。
「今」を光速で定義しても、「時間」を使って理論を作る為の定義だから、「時間」が規定されたのではない。
後日、書くが、一定の因果関係を道具に使うために、理論という理屈が必要なのだと思う。


Bの「人類しての自分」が「時間」や「空間」を考える時、カントが言ったように、直感の形式として理解する。
人間が生きる為に、「時間」や「空間」の直感形式が必要である。
知覚の全てに「時空」が及ぶと思うから、知覚自体の成立に「時間」と「空間」の意識が必要だと思う。


主観的時間
地球が自転し、その上の生き物は全て、新陳代謝を繰り返し、絶えず死んで、生まれている。
生き物は、自転する地球の上で、絶えず何かの行動を取っている。
何か行動するように求められている。
目覚めても、眠っても、地球は自転しているのだ。
決して、地球が逆回りをしないのは真実だろう。
「時間」は、本来は人間のリズムを計測するために存在し、それが今では人間のリズムを規制していると思う。

時間は、漢字で「時」の「間」と書く。

「時(toki)」は楽しい時とか苦しい時とか、When を使い、その場では時間を意識しない。
それが過ぎ去った後に、時間の経過に気付く。
江戸時代は、「時(zi)」と呼ばず「時(toki)」と呼んでいた。

「間(ma)」とは何か?
「間(ma)」とは、居間や応接間などの「間(ma)」であり、生活するスペース、つまり空間を表現する。

「間(ken)」は、江戸時代以上の前から、家を建てる時、木製の柱と柱の間を計る、建築の尺度である。
これも空間に関係する。

したがって、日本語で「時間」という場合は、「時」ばかりでなく「空間」も意味すると思う。

「居間」を模様替えするように、人間は、光速で定義された「今」という瞬間に、記憶している因果関係から自分に都合の良い因果関係を選択して如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で行為する。
それを、「自由」と呼ぶのだろう。
そして自分の進む因果を予想するのだろう。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年07月16日

7月16日・私の考え(認知)

人間五十年、下天の内にくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を享け滅せぬもののあるべきか

これは、戦国武将の織田信長が好んだ、能の一節である。


人間五十年
  ↓
http://www.asahi-net.or.jp/~zb5y-wd/nobunaga.htm
  ↓ 
下天とは、天界で、その一昼夜は人間界の五十年に当たり、住人の定命は500歳であるという。
天界に比べて、人間界の定命は短く、正に夢幻の如くである。

ひとたび生を享ければ、短きを短きままに直視し、その間を思うまま生き抜こうとの意味である。



織田信長に興味があれば、Wikipedia を見てください。

私は、既に50歳を越えて、60歳も目の前に迫っている。
私は、70歳ぐらいで「認知症」になるかも知れない。
その時は、パソコンに向かうより、同じ老人たちと、デイサービスで遊んでいるだろう。
余命10年と宣言された人間みたいなものだ。

意識障害になる前に、言いたい事を言っておこうというのが、このブログの目的にもなっている。


While there is life,there is hope.
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2008年07月14日

7月14日・私の考え(禁煙という行為)

私が、人に披露する行為は、禁煙の行為だけである。

その始まりは、五年ほど前になる。
それまでは、私には悪魔の心が住んでいた。

自分が稼いで来た。
喫煙して何が悪い?
喫煙は健康の証拠だ。
自分が病気になれば、家族も皆、自分と同じ運命を辿れば良いなどと考えていた。

しかし、妻が、貧乏で泣き、子供の養育にも金銭が必要だった。
そんな経済的な理由により、禁煙するように妻から責められた。
私が裕福であれば、今も、ニコチンの黒い液体の中で泳いでいるだろう。

私は、一回目の禁煙は失敗した。
禁煙後の喫煙は、どんな味かを試したのだ。
美味くなかった。
その後、反省して禁煙を始めた。
タバコの値段を何の根拠もなく値上げする政治家に反感を覚えて、禁煙の決意をした。
意思が弱い者から税金を取る手法に我慢ができなかった。
そして、当時は気付かなかったが、今、思えば「神仏」と禁煙の約束をしていた。
誰が、何時見ても、禁煙している姿を見せるのが目標で、結果的には「神仏」と約束している事になった。

ニコチンは強い力で、私をタバコの自動販売機の前に立たせようと誘った。
「これが、ニコチンだ」と知ってから、強く反発するようになったので、ニコチンの毒を気付く事が、禁煙への近道だろう。

獲物を撃つ為には、至近距離まで引き付けなくては弾丸は当たらない。

ニコチンの姿を見るまで我慢して、ニコチンを見てから、代替物を飲んだり、食べたりすれば、逃げられる。

自分の意思が弱くても、「神仏」と誓う強い決意を持てば、禁煙など簡単である。

これは、体験者が言うのだから、信じても良いと思う。

こうして、一年ほど続けると、タバコを求める魂が消えて、禁煙者の味方になり、以前の喫煙していた自分が、まるで「蛇の抜け殻」のように見えて来る。
そして、
タバコを吸っている者が、哀れに思えて来る。
タバコを吸う世界とは違って、空気が美味しい世界になる。

魂が身体から離れて、ニコチンが臭う身体が愛おしいが、戻りたくない気持ちになる。

タバコを吸いたければ吸えば良い。
お好きなように。
でも、人生は一度だけですよ。

欲望から逃れた自信が、こうしてブログを書かせている。

Only one who knows can really appreciate it.
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7月14日・私の考え(行為)

今まで考えた事を、省略して書く。

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月12日に考えた追加。

人間は、誕生と同時に一人で地球の上に立ち、嫌でも、「今」を常に持ち続け、「宇宙」の領域で、「宇宙」の行為をする事を求められている。
私にとって、「実存」とは、因果に「因果関係」という自分の時間、つまり可能性が混入した網を投げて、自分の因果の方向を探る事である。
「因果関係」と言ったとき、それは意識や精神の領域での「物語」であり、未来に対しては予想であり、過去に対しては選択した理由の説明である。

2008年7月13日、考えた事。

「心」とは、英語で「heart」であり、一般的には「心臓」を意味するのかも知れない。
私の立場からは、心臓は「時計」であり、「リズム」を刻む時計であり、勿論、重要である。

しかし、「心」の及ぶ範囲は、心臓や頭脳の生理的な働きを、遥かに超えている。
「意識」が及ぶ所は、全て「心」の中である。
見る、聞く、触る……知覚感覚と外部が衝突する所に「心」がある。

「心」は知覚の総体であり、「意識」の及ぶ所は全て「心」であると思う。
部屋の配置とか、道具や本の配置とか、身の回りの全ての環境は、その人により作り出された、その人の「心」を表現する物体である。

私にとって、「実存」とは、「人間の意識としての時間や空間」の意識を持ちながら、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の因果に「因果関係」という自分の時間、つまり可能性が混入した網を投げて、自分の因果の方向を探る事である。
これは、「自分内世界」の投影である。

心は、自分の内部だけでなく「意識」の及ぶ所は全て範囲内である。
そして、身体は、地球の自転から生じる絶え間ない「今」という時間の中で、常に何かの行為をするように求められていると考える。

2008年7月14日に考えた事。

人間は、地球の自転により、常に新しい「今」の行動に直面する。
「今」、行動しても行動を回避しても、地球は自転し、「宇宙」の領域では行為となる。

行動するために知覚し、現在の知識という因果関係から、自分の未来への因果関係を決定する。
知覚は「心」が決めているのかも知れない。
見たい物を見る。
聞きたい物を聞く。
知覚する事は、既に行動していると思う。
行動するために、意味を調べる。
意味は、出来事を他者が時間で接着した因果関係の塊であるが、意識するとは、塊から物語へと変換して自分の時間による因果関係に取り入れる事だと思う。

塊を物語に変換するとは、自分の時間、リズムで考える事であると思う。
時間は他者により定義されたリズムであり、自分のリズムを保つ事は、如来様(Nyoraisama)の力を信じる事だと思う。

「心」が、物事や意味に及ぶとは、その物事や意味が心に響く、心が動揺しバランスを保つために、物事や意味を自分の因果関係の中で、廃棄するか存続するかを試しているのだと思う。

因果関係は、絶え間がないが、区切るのは如来様(Nyoraisama)から各自に与えられた能力によるだろう。

自分に取り入れるとは、知覚した因果関係を自分の頭脳というコンピュータに送り、何に反応があるかによって、「自分内世界」を知り、「世界」に組み込む事だと思う。

考える事より、行動が先にあるかも知れない。

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2008年07月13日

7月13日・私の考え(心)

「心」については、理解が足りないと思うが、書いてみた。

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月12日に考えた追加。
「人類としての意識」は、意識として「時間」と「空間」を持つ。
「宇宙」の規模では、人は地球上にいる限り、地球の自転とともに「時間」という意識を持ち、物体が存在しない「空間」の意識を持つと思う。
人間は、誕生と同時に一人で地球の上に立ち、嫌でも、「今」を常に持ち続け、「宇宙」の領域で、「宇宙」の行為をする事を求められている。
私にとって、「実存」とは、因果に「因果関係」という自分の時間、つまり可能性が混入した網を投げて、自分の因果の方向を探る事である。
「因果関係」と言ったとき、それは意識や精神の領域での「物語」であり、未来に対しては予想であり、過去に対しては選択した理由の説明である。

2008年7月13日、考えた事。

「心」とは、英語で「heart」であり、一般的には「心臓」を意味するのかも知れない。
私の立場からは、心臓は「時計」であり、「リズム」を刻む時計であり、勿論、重要である。

しかし、「心」の及ぶ範囲は、心臓や頭脳の生理的な働きを、遥かに超えている。
「意識」が及ぶ所は、全て「心」の中である。
見る、聞く、触る……知覚感覚と外部が衝突する所に「心」がある。

「心」は知覚の総体であり、「意識」の及ぶ所は全て「心」であると思う。
部屋の配置とか、道具や本の配置とか、身の回りの全ての環境は、その人により作り出された、その人の「心」を表現する物体である。

如来様(Nyoraisama)から与えられた身体は、地球の上に存在するから、全て単独者として、「人類の意識としての時間や空間」を持ち、周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

私にとって、「実存」とは、「人間の意識としての時間や空間」の意識を持ちながら、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の因果に「因果関係」という自分の時間、つまり可能性が混入した網を投げて、自分の因果の方向を探る事である。
これは、「自分内世界」の投影である。

心は、自分の内部だけでなく「意識」の及ぶ所は全て範囲内である。
そして、身体は、地球の自転から生じる絶え間ない「今」という時間の中で、常に何かの行為をするように求められていると考える。

「実存」する人間には、意識が及ぶ「心」を一瞬の「今」の中に「自分」を表現する身体の動きこそ、最も重要な意味を持つと思う。


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2008年07月12日

7月12日・私の考え(現在)

私の基本的な考えに変更はない。

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月12日に考えた追加。
「人類としての意識」は、意識として「時間」と「空間」を持つ。
「宇宙」の規模では、人は地球上にいる限り、地球の自転とともに「時間」という意識を持ち、物体が存在しない「空間」の意識を持つと思う。
人間は、誕生と同時に一人で地球の上に立ち、嫌でも、「今」を常に持ち続け、「宇宙」の領域で、「宇宙」の行為をする事を求められている。
私にとって、「実存」とは、因果に「因果関係」という自分の時間、つまり可能性が混入した網を投げて、自分の因果の方向を探る事である。
「因果関係」と言ったとき、それは意識や精神の領域での「物語」であり、未来に対しては予想であり、過去に対しては選択した理由の説明である。

働いていても、寝ていても、地球は自転する。
地球の自転が止められないならば、時間も止められない。
地球上の全部が、地球の自転と太陽の周りを公転する事により、定義された同じ「時間の幅」を持つが、各自は心臓を持っているから、心臓からの時間の意識は違うと思う。
光速で定義しても、各自の心臓という「時計」が光速で動かないかぎり、「同時」は無い。

「宇宙」の規模では、光速とは関係なく「宇宙」での出来事が、地球の自転の中で、正確に一点に定まる。
人間が因果を決めるのではなく、因果は既に決まっているのだと思う。
「宇宙」の因果に、「因果関係」を用いて原因を探ったり結果を予想したりするのは、「意識」の中である。

「意識」や理論の中では、可能な事に不可能な事を結合して試す事が出来る。
思考実験というもので、未来の結果も過去の原因も、関係式により、往復できる。
関係式の中に留まるのがコンピュータで、論理の飛躍をするのが人間である。
そこに、発明が生まれると思う。

時間に対して対称性を持つのが理論の特徴であり、タイムマシーンとも思えるが、地球は自転しながらも常に新しい位置を占め、元の位置に戻らない事を思うと、実現は不可能だと思う。
時間を地球の自転から派生した意識だと考えると、実現は不可能だと思う。

光速で往復する間は、「同時」だ。
つまり、因果関係は不明だ。
そういうのは、意識の中だけであり、「宇宙」の規模では、厳然として因果は存在するから、不明と言う事は反対である。
時間を定義して、時間を存在させるのは、カントの言葉を信じるならば、肯定する事が出来ない。
人間は、物事を一挙に見る事は出来ないという、人間の認識の問題で、完全な認識までの経路の問題が時間と空間の問題だと思う。
全ての知覚が、時間と空間によると思うが、これを解決していないと思う。
相対論は、物理学の理論としては素晴らしいが、時間を定義した事は時間を解決したのではないと思う。

「同時」で、因果関係が不明という事を、光速の往復の間は、現在の人間が因果関係として理屈を説明する自由を認めたと解釈しておく。

「今」しか存在しないのは「宇宙」の領域である。

意識としては「今」の中に「未来」も「過去」も記憶の中に含まれると思う。

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2008年07月10日

7月10日・私の考え(時間)の要約

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月2日、考えた事。


カント

「時間は、客観的なもの実在的なものではない。……人間精神の本性によって必然的な、あらゆる可感的なものを一定の法則によって同位的に関係づける主観的条件であり、そして純粋直感である。」
(E.カッシーラ、アインシュタインの相対理論119ページより引用

私の立場からの「時間」を考える

如来様(Nyoraisama)の「宇宙」では、ただ運動しか存在しない。
「宇宙」があり「太陽系」があり、「地球」があり、隙間なく物質が連なり、区切れがない一つの物質だろう。
人間は、「時間」と「空間」という主観的な世界の中で、「相対性理論」により、理解するのだろう。
「理論」は「世界」であり「意識」であり、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」ではない。


私は「時間」も「空間」も、感覚から得られた意識の中の「意味」だろうと思う。

「空間」については、不明だが、「時間」は定義されたもので、地球の回転から生じる、生き物が持つ「意識」であると思う。

定義により、人と人の間に、少しでも空間があれば、「同時」など無い。
「相対性理論」を言う前に、「同時性」は無いのだ。
如来様(Nyoraisama)の「宇宙」で考えると、自分だけが、同時性を感じるのだと思う。


2008年7月9日に考えた事。

私の「相対論」についての感想。

彼の「同時性」の定義から始まる理論は興味がある。
なぜか?

私は、彼が、自分の時間、つまり主観的時間を認め、光が普遍定数の光速度で、自分の所と遠く離れた所を往復する間は、「同時」だと定義したのだと思う。

それは、過去の因果と未来の因果が決定されている中で、光が往復する間は「自分との同時」という時間の範囲を拡大して、定義する事により、時間を実在させたと思う。

私は、時間を計測に使うために定義して存在させた事は、理論の範囲を逸脱したと思う。
理論は、意識の一種で、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」と区別する私の考えの結果である。




2008年7月10日、考えた事。

私は、「時間」や「空間」について、解決されていないと思う。

フィクションだが、もし、知覚器官から頭脳に伝達される情報が、電磁波であり、眼から入った情報は「光子」であり、「時間」や「空間」という意識は、「光子」が持つ「電磁場」かも知れない。

知覚器官から入った情報というエネルギーが、頭脳まで保存されると考えたら、どうなるか?

それは、後日、物語を書く事にする。

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2008年07月09日

7月9日・私の考え(相対論)

私は、自慢するわけではないが、三流大学の法律学科を30年以上も前に卒業した老人である。
そんな老人が、「相対論」を話すほど、「相対論」は簡単ではない。

素人の私が読んだ本を紹介しよう。

時間の科学 300円
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4000076701/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=gateway&qid=1215431147&sr=8-1


アインシュタインを超える 1円
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061327143/ref=sr_1_olp_2?ie=UTF8&s=books&qid=1215544522&sr=1-2


アインシュタインの世界 1円
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061178776/ref=dp_olp_2?ie=UTF8&qid=1215545357&sr=1-7

相対論はいかにしてつくられたか 1円
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061177192/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=books&qid=1215594892&sr=1-1

私は、「相対論」を理解していないが、アインシュタインは好きだ。
モーツアルトが好きだとか、舌を出した彼の写真には、彼の「内面の心」が現出していると思う。

それにしても、彼について書いた本が、Amazon で、最も安い金額で売っている事に驚いている。
最新の知識が、大衆に浸透して、本も値段が下がったのかも知れない。

私の「相対論」についての感想。

彼の「同時性」の定義から始まる理論は興味がある。
なぜか?

私は、彼が、自分の時間、つまり主観的時間を認め、光が普遍定数の光速度で、自分の所と遠く離れた所を往復する間は、「同時」だと定義したのだと思う。

それは、過去の因果と未来の因果が決定されている中で、光が往復する間は「自分との同時」という時間の範囲を拡大して、定義する事により、時間を実在させたと思う。

私は、時間を計測に使うために定義して存在させた事は、理論の範囲を逸脱したと思う。
理論は、意識の一種で、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」と区別する私の考えの結果である。

私の考えでは、時間と対称性を保つのは、理論であり、過去も未来も、理論で特定するという考えは、ニュートンの考えでは是認する。
なぜなら、時間は人類共通の人間的ではなく、神の絶対時間だから過去にも未来にも適用しても人間は奇妙とは思わない。
しかし、「自分の主観的時間」を組み込んだ「相対理論」が、時間と対称性がある事に疑問を持たないとは意外である。

また、私の考えでは、出来事は地球的規模で順序を付けられると考えるから、遠く離れた所に起こった出来事と「自分の主観的時間」が同時とは考えない。

もう一つ。
一般相対理論でも時空として時間が組み込まれるから、観測者が存在する事を前提とした理論だろうと思う。
観測する人の系を特定しなければ、「宇宙」が存在しないのか?
あまりにも、人間的な「宇宙」だという感想だ。


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2008年07月08日

7月8日・私の考え(時間)

2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。


2008年7月2日、考えた事。

私の立場からの「時間」を考える

如来様(Nyoraisama)の「宇宙」では、ただ運動しか存在しない。
「宇宙」があり「太陽系」があり、「地球」があり、隙間なく物質が連なり、区切れがない一つの物質だろう。
人間は、「時間」と「空間」という主観的な世界の中で、「相対性理論」により、理解するのだろう。
「理論」は「世界」であり「意識」であり、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」ではない。


私は「時間」も「空間」も、感覚から得られた意識の中の「意味」だろうと思う。

「空間」については、不明だが、「時間」は定義されたもので、地球の回転から生じる、生き物が持つ「意識」であると思う。

定義により、人と人の間に、少しでも空間があれば、「同時」など無い。
「相対性理論」を言う前に、「同時性」は無いのだ。
如来様(Nyoraisama)の「宇宙」で考えると、自分だけが、同時性を感じるのだと思う。

「時間」は、回転する地球の上の自分の位置が描く、空間を睡眠する生命が感じている「意識」だと思う。

7月8日、考えた事。

@の「宇宙」と時間を考える時、地球は動かず太陽の位置の変動で「時刻」知り、その間を定義して時間が存在すると思う事には反対である。

地球は自転しながら太陽の周りを公転する結果、一日や一年という時間が生じる。

それは、地球上の一点の天体規模の位置の移動の軌跡であり、地球は、二度と同じ軌跡を辿る事はない。

地球が逆に自転したとしても、軌跡は残るから、「過去」の出来事には戻れない。

@の宇宙的規模では、「現在」と言う位置は、一度しか経験することしか出来ない。

その意味で、人生を繰り返す事は出来ない。

意識として、「過去」を取り戻す事が出来ても、出来事としての過去は、空間を移動して来た軌跡の中に止まり、「宇宙」の出来事の領域で、「過去」は「現在」と混同する事はない。

「同時」や「今」という位置は一度だけである。
時間を数える場合、数え終わると過去が漏れ始めて、数えている「今」しか残らないかも知れない。

「時間は持続した意識の流れ」と言うが、「流れている意識」を持つ人の天体的位置は全て変動を続けている。

「今の持続」ではなくて、常に新しい「今」を経験しているのだと思う。
地球は自転して、常に新たな「今」を与えていると思う。

人間は、意識の中で「過去」を記憶したり、取り戻したり、「未来」を予見するが、「宇宙」は、絶えず空間の位置を変えて、出来事を重ねるだけである。



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2008年07月07日

7月7日・皇帝の新しい心

以前、ある出版社の創立50周年記念の本を購入していた。

タイトル→皇帝の新しい心・The Emperor's New Mind
(コンピューター・心・物理法則)
著者→ロジャー・ペンローズ(Roger Penrose)
訳者→林 一
1994年12月6日、印刷
1994年12月16日、発行
定価→5,974円

これが、Amazon で、新品は7,770円で売られ、中古品は5,000円で売られている。
     ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4622040964/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=books&qid=1215370803&sr=1-1


本の表紙に書いてある概略

「コンピュータ科学の研究に携わる多くの数学者たちは、人口知能(AI)を備えたコンピュータ、(人間の心における思考プロセスと同等の、あるいはそれを凌駕する能力を持った機械)が可能となる日は近いと考えている。
オクスフォード大学の数学教授であるロジャー・ペンローズの見解は異なっている。
彼によれば、人間の心の働きは、すでに存在するいかなるコンピュータともまったく異なっている。
知的な読者のために書かれた、このすばらしく面白い大作「皇帝の新しい心」で、著者ペンローズは、現代の物理学にはきわめて重要な基本的洞察(量子重力論)が欠けており、それが得られない限りは、心を理解することは、決してできない、と主張する。
しかも、著者によれば、この基本的洞察こそは、物理学の究極的な統一理論をもたらすためにも必要とされるものなのだ。」

松岡正剛さんの千夜千冊
    ↓
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0004.html

これを読めば、もっと詳しく知ることが出来る。



私の考えに参考になるだろうか?
詳しく読んでいないが、今思っている事を書く。
前半分の数学や「相対性理論」や「量子力学」は、私の頭脳では、処理することが出来ないから、理解までは時間が必要だ。

第7章の「宇宙論と時間の矢」から、素人の私にも、少し、興味が湧いてきた。
これから先に、エントロピーと時間の矢や意識の事など、引用させてもらうかも知れない。

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注意せよ。
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2008年07月06日

7月6日・私の考え(時間)

本からの引用
先日、紹介した、値段が1円の本には、次のような記述がある。


「我々の宇宙が、その中に知的生命(人間)を生み出したという特異性は……省略……少しでも「何か」のバランスが崩れれば、宇宙の姿は全く異なるものになっていたはずである。その「何か」とは、物理の普遍定数(光速c、重力定数Gなどのように、時間、場所、その他の条件によらずに常に一定の値をとる定数)に他ならない」

「光で語る現代物理学」194ページより引用

「宇宙に人間が生まれたのは、光速などの普遍定数が、いまある値に設定されたからだという解釈が成り立つ。もしそれらの値が少しでも違っていたら、宇宙は異なる進化を遂げ、人間は現われなかったであろうと考えられる。人間がいなければ、宇宙が認識されることもないので、そういう「誰もいない」宇宙は、存在の意味を失うことになる。このように、人間が宇宙の有様を逆に規定しているというとらえ方を「人間原理」と呼んでいる」

「普遍定数の値を絶妙の組み合わせに選んで誕生した我々の宇宙は、コペルニクス的転回を再び引き起こすような特別な存在と言えるのかもしれない。そして、これをもし「奇跡」と呼んでよいなら、我々人間はその奇跡の帰結として、いまここにいるのである。」

「光で語る現代物理学」204ページと205ページより引用

そこで、インターネットで「普遍定数」を調べた。

………

普遍定数の量 記号 値 相対標準不確かさ

真空のインピーダンス 376.730 313 461... Ω 定義値

真空の誘電率 8.854 187 817... × 10-12F·m-1 定義値

真空の透磁率 4π × 10-7 N·A-2 = 1.2566 370 614... × 10-6 N·A-2 定義値

万有引力定数 6.6742(10) × 10-11m3·kg-1·s-2 1.5 × 10-4

プランク定数 6.626 0693(11) × 10-34 J·s 1.7 × 10-7

ディラック定数 1.054 571 68(18) × 10-34 J·s 1.7 × 10-7

真空中の光速 299 792 458 m·s-1 定義値

………

「時間」も「空間」も普遍定数ではない。

時間」は、1967年「セシウム原子から放射される特定の光(電磁波)の振動周期の、9,192,631,770倍を一秒」と定義して、時間の単位にも光が採用された。

「光で語る現代物理学」184ページより引用

「光の振動周期にもとずく一秒が、地球の自転周期の 86,400 分の1 に一致しないと、長い間には、原子の時計が示す時刻と我々の生活感覚(地球の自転のもとずく時刻)との食い違いが大きくなってしまう。……中略……地球の自転が少しばかり遅くなったところで、我々の生活習慣が変わるものではない。原子の時計に合わせて、日が昇る前から起きたり、明るいうちに寝てしまうわけにはいかない。そうなると、原子の時計の方を我々の生活感覚に合わせなくてはならない。そこで、地球の自転速度の変化をにらみながら、半年ないしは年に一回程度、原子の時計を一秒だけ止めることを行っている。この操作を「うるう秒」という。」

「光で語る現代物理学」184ページと185ページより引用

私の考え

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」と「自分」

A「精神世界」と「自分」

B人類としての「自分」

@の「自分」は、地球が自転するから「時間」という空間移動あるいは天体的な位置の移動が生じる。

それが、Aの「精神世界」では、「時間」という意識として与えられる。
意識としての時間は、心理学的にも哲学的にも、認識論の中で、数多くの本がある。

Bの「自分」は、物事を認識するには、時間と空間という人間に与えられた枠組みだというカントの思想は、間違っているかも知れないが、私は、受け入れる。

私は、時間を「物理的な時間」でなく、「意識としての時間」と考えて、時間という束縛から、如何にして逃れるかを考えたいと思う。



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注意せよ。
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2008年07月05日

7月5日・私の考え(時間)

2008年7月4日に考えた事。

私の考え

本を読むが、「時間とは何か」が書いていない。

それを思うと、カントの見解は素晴らしいと思う。

単純に考えると、地球が自転しながら、太陽の周りを回るから、昼と夜があり、四季があるのだろう。
昼と夜を、木や土地に刻んだのが時刻だと思う。
太陽の位置や月の位置を見て、繰り返す昼と夜への対応を考えたのだろう。
本来は、人間の営みのリズムを知るための目印が時刻だと思う。
「時間は、変化なしにはありえない」と言うが、地球は絶えず自転して、地球上の動物に常に新鮮な空気を与えているのだ。
地球が自転するから時間があると思うのだ。
物体の運動を知るための「時間」ではない。
それは、「時間という意識」を細分化した、あるいは、「地球の自転を正確に写した」にすぎない。
地球上の生き物は、全て時間意識を持っていると思う。
熊が冬眠に入る時期と、冬眠から醒める時期を知っているように……。
人間も体内時間を持っていて、空腹など知らせる事もあると思う。


地球が、太陽の周囲を何回か公転すると、人は死ぬが、地球は公転を続ける。
時間は意識だから、生き物の全てが、個別の時間を持つ。
人間の生活のリズムを、規則正しく保つ意識かも知れない。

2008年7月5日に考えた事。

「 m24658 が言いたいのは、これだけか?
時間を説明していない m24658 は、これで終わりだ」

そう思った人も多いだろう。
しかし、私は、7月4日に書いた記事を保存する事に決めている。

何故か?

A stag at bay is a dangerouse foe.

私は、次の本を発見した。

タイトル→問題群……哲学の贈りもの
著者→中村雄二郎
1988年11月21日、第1刷発行
定価→480円?

これが、Amazon で、1円で売られている。
    ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4004300452/ref=sr_1_olp_2?ie=UTF8&s=books&qid=1215258930&sr=1-2


この本の中に、次のような項目がある。

(五大にみな響きあり)あるいは(汎リズム論)

そこには、理趣経を書いた「空海(kukai)」が紹介されている。

1,リズムの発見
2,響きと共振
3,マントラ(真言)の力

「地・水・火・風・空の五大は、響くものとして、リズムを持って振動するものとして捉えられるとき、単なる物質元素であることを越えて、すぐれて生命的なものを顕現する」……「38ページより引用」


マントラ  ↓
http://mandalaya.com/dokuju.html


生命のリズムが、時刻を意識する前に存在したと思うので、これまでの考えを保存する事に決めた。


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2008年07月04日

7月4日・私の考え(時間)

以前、購入した本がある。

タイトル→「時間」………その哲学的考察
著者→滝浦静雄
岩波新書
1976年3月22日第1刷発行
1985年10月20日、第13刷発行
定価→480円

これが、Amazon で、何と、799円で売られている。
   ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4004120349/ref=sr_1_olp_7?ie=UTF8&s=books&qid=1215172403&sr=1-7

この本は、定価より高い値段だ。
私が購入した値段の二倍の値段になっている。

私も、このような本を書いてみたかったが、私の頭脳では、それは出来ない。
でも、「時間とは何か」と、一度は書いてみたい。
それで、ブログの中で、独り言として、日記として書くので、批判も同調も要求しない。
老人の独り言として、思う事を書くことにする。

私の考え

本を読むが、「時間とは何か」が書いていない。

それを思うと、カントの見解は素晴らしいと思う。

単純に考えると、地球が自転しながら、太陽の周りを回るから、昼と夜があり、四季があるのだろう。
昼と夜を、木や土地に刻んだのが時刻だと思う。
太陽の位置や月の位置を見て、繰り返す昼と夜への対応を考えたのだろう。
本来は、人間の営みのリズムを知るための目印が時刻だと思う。
「時間は、変化なしにはありえない」と言うが、地球は絶えず自転して、地球上の動物に常に新鮮な空気を与えているのだ。
地球が自転するから時間があると思うのだ。
物体の運動を知るための「時間」ではない。
それは、「時間という意識」を細分化した、あるいは、「地球の自転を正確に写した」にすぎない。
地球上の生き物は、全て時間意識を持っていると思う。
熊が冬眠に入る時期と、冬眠から醒める時期を知っているように……。
人間も体内時間を持っていて、空腹など知らせる事もあると思う。


地球が、太陽の周囲を何回か公転すると、人は死ぬが、地球は公転を続ける。
時間は意識だから、生き物の全てが、個別の時間を持つ。
人間の生活のリズムを、規則正しく保つ意識かも知れない。
時間は、意識であり、意識だから精神に高まり、定義され、「理論」という精神世界で、座標軸にもなる事が出来る。
そして、人間を中心に考えて、時間と空間を意識として「精神世界」に導入して「宇宙」へ近づく。

この考えは、訂正するかも知れません。

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2008年07月03日

7月3日・私の考え(今後の計画)

2008年7月2日、「私の考え(時間)」という私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれた。
  ↓
Yahoo USA

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxH_pGxI_GMAC1ql87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%28%E6%99%82%E9%96%93%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

Yahoo USA は、私が、どんなアイデアを持っているのか分からないのに、随分、大胆な事をする。

さすがに、USA だと感心する。
少数意見を述べさせて、自滅を待つ手法だろうか?
しかし、掲載してくれた事を喜んでいる私が情けない。
これを激励と思って、後日、私の考えを書こうと思う。
今日は、本の紹介をする。

参考にした本

タイトル→光で語る現代物理学
著者→小山慶太
1989年1月20日、第1刷発行
発行所→株式会社、講談社
定価→600円

その本が、Amazon で、何と、1円で売られている。
    ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061327623/ref=dp_olp_2?ie=UTF8&qid=1215079914&sr=1-1



私は、物理学を全く知らないが、本を読んで感じた事は、私のフィクションの中で、「相対性理論」と「量子力学」を参考に出来ないだろうかという事だ。

これで、想像の範囲が広がった。

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注意せよ。
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2008年07月02日

7月2日・私の考え(時間)

私は、もうすぐ60歳になる。
今まで本を読んだが、私は、本からの知識ではなく自分で考える事にする。


2008年6月28日、考えた事

自分の行為とは何か。

@如来様(Nyoraisama)の「宇宙」の領域で、

自分というAの「精神の世界」を持ち

Bの「人類としての意識」と如来様(Nyoraisama)から与えられた身体を持ち、頭脳で相当因果関係と判断して、

「宇宙」の絶対的因果関係、つまり因果の必然の中で「宇宙」の因果に影響を及ぼすのだろう。

周囲は全て「宇宙」、自分の身体も「宇宙の塵」であるのに、「宇宙の塵」の頭脳から派生した精神や魂は、「宇宙」の因果を因果関係としてしか、捉えられない。

2008年7月2日、考えた事。

因果の前に「時間」を考えなくてはならない。

カント

「時間は、客観的なもの実在的なものではない。……人間精神の本性によって必然的な、あらゆる可感的なものを一定の法則によって同位的に関係づける主観的条件であり、そして純粋直感である。」
(E.カッシーラ、アインシュタインの相対理論119ページより引用)


知識としては、Wikipedia を見れば、少しは解るだろう。
私も、後日、そこから引用する予定である。

私の立場からの「時間」を考える

如来様(Nyoraisama)の「宇宙」では、ただ運動しか存在しない。
「宇宙」があり「太陽系」があり、「地球」があり、隙間なく物質が連なり、区切れがない一つの物質だろう。
人間は、「時間」と「空間」という主観的な世界の中で、「相対性理論」により、理解するのだろう。
「理論」は「世界」であり「意識」であり、如来様(Nyoraisama)の「宇宙」ではない。


私は「時間」も「空間」も、感覚から得られた意識の中の「意味」だろうと思う。

「空間」については、不明だが、「時間」は定義されたもので、地球の回転から生じる、生き物が持つ「意識」であると思う。

定義により、人と人の間に、少しでも空間があれば、「同時」など無い。
「相対性理論」を言う前に、「同時性」は無いのだ。
如来様(Nyoraisama)の「宇宙」で考えると、自分だけが、同時性を感じるのだと思う。

「時間」は、回転する地球の上の自分の位置が描く、空間を睡眠する生命が感じている「意識」だと思う。

詳しくは、後日、書くことにする。

Every miller draws water to his own mill.
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