2008年10月25日

2008/10/25・私の反省 A

「私の反省」の続編である。

末那識(manasiki)
潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との・義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。


末那識(manasiki)が、電磁波に似た構造だろうと思う。


現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関係を意味する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命の危険の度合いや、重要度の度合いとしての関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、知覚から存在する認識の「空間意識」の構造が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、不安の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の形になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。

「関係に関係する」のが、実存主義ならば、この空間意識から抜け出す可能性や関係を探すのが、その内容だろうと思う。

それは、現象としての自分から、抜け出す事と同じだと思う。


SEX の面でも、異性を自分の欲望発散のための道具と思っている限り、この「空間意識」の人間だと思う。

自分の快楽を求めるための行為には、「愛」は無いと思う。

異性の快楽のための行為に「愛」が有るとも思わない。

どこかに、異性を軽蔑する「 心 」があると思うからだ。

私は、「空間意識」は、本能が働く場所であり、「現象」と言うように、日々、変化する意識だと思う。



思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を跨いで結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。
自分が死ぬまで、意味を残すだろう。


2008/10/25・考えた事

私は、末那識(manasiki)の「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)という内容を持続するためには、電磁波の構造を持っていると考えた方が理解しやすい。


電磁波により伝わる物は、「 自分が周囲の事物を自分に関係させるという情報 」であり、現象面に現われた印象が、時間的、空間的に「関係」が継続していると判断するのが末那識(manasiki)であると思う。

例えば、地球は自転し、人間は常に新たな宇宙空間と出会っているし、自分の身体も新陳代謝して変わっているのに、「地球は自分にとっては自転していないと思うし、新陳代謝を気付く事は出来ないから、自分は変わっていない」というのが末那識(manasiki)である。

関係として考える人間の本質という物語を、過去と現在、そして未来に機能を持続するのは末那識(manasiki)であり、物語が意味や印象として残った現実面の実体を保存するのが阿頼耶識(arayasiki)だろう。

前者は本能であり「 魂 」であり、後者は、本能が体験した歴史を保存する精神としての「 霊 」である。

前者は、個人が持っている生き生きした「時間」や「空間」の形式や中身であり、後者は、不可逆的な「時間」や「空間」であり、歴史である。

例えば、前者が、パソコンに向かう私の頭脳の中であり、後者は、Yahoo USA その他の検索会社のデーターベースとして考える。

私が死ぬと、パソコンからの入力は無くなるが、ブログを閉鎖しなければ、検索会者のデーターベースは残る。

これと似て、「 魂 」は死ねば無くなるが、「 霊 」は後に残ると考える。


「 心 」は、身体の外に存在し、自分と他者の理解が成立するのは、「 霊の世界 」であって、「 魂 」としての末那識(manasiki)では、動物的な認識が成立する。

例えば、「 心 」は少しは、検索会社のデーターベースに存在するが、私の記事を理解するのは「 霊の世界 」であり、私の頭の中では、私だけの理解が成立している。

私の理解が、「 霊の世界 」に伝達されない事も考えられる。

以上は、末那識(manasiki)を言った事である。

これを、阿頼耶識(arayasiki)を考える前に、暫時的な要約とする。

Every miller draws water to his own mill.



2015/1/26、私の現在の考え 2 参照
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2008年10月24日

2008/10/24・私の反省

2008年10月24日、20時30分、現在のアクセス状況である。

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3 2008/10/24・私の想い(阿頼耶識への想いA)
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8 土曜日・SEX 画像  
9 2008/10/23・私の想い(阿頼耶識への想い@)
10 2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還..  
11 2008/9/5・ SEX 画像

阿頼耶識についての記事が、二つも閲覧されている。
SEX についての記事も、二つである。
阿頼耶識(arayasiki)や、SEX の記事は、後日、書くだろう。
私は、これから、阿頼耶識(arayasiki)と、末那識(manasiki)について、書く方針だが、今までの経緯を簡単に総括しておく。
カテゴリーの「独り言」の終わりの方に、結論が書いてある。
それを、簡単に書く事にする。


T、
@如来様(nyoraisama)A精神と意識の「世界」B自分。
自分については記述が少ないが、この時、「世界」は「意識」だと思っている。

U、
絶対の因果の中で、自分は、相対的因果関係で、絶対的因果関係に関与している事を書いている。

W、
歴史は、地球が自転して進んだ空間の記録だと思っている。

X、
自意識は、電磁波であると書いている。

Y、
量子力学には、「時間論」が無いと書いている。
人間は生まれた時から、「時間」も「空間」も知っていて、それは、危険意識を知らせる「魂」だと書いている。

Z、
電磁波に似た構造の「空間意識」では、全てを現象と見る。
認識の「世界」は、「霊の世界」だと書いている。

人は「関係」を結ぶ物体だが、人を道具に使ってはいけないと書いている。

思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。
自分が死ぬまで、意味を残すだろう。

@、自意識は末那識(manasiki)であり、電磁波の構造を持ち、他方に阿頼耶識(arayasiki)を感じている。

今までの記事は、全て、「末那識(manasiki)」について書いたものだと思う

末那識(manasiki)と阿頼耶識(arayasiki)については、別のカテゴリーを作ります。

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2008/10/24・私の想い(阿頼耶識への想いA)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


阿頼耶識(arayasiki)についての考えは、「可能性とエネルギー」を再び書く事になるかも知れない。

孫子の兵法に、「敵を知り、己を知れば、百戦危うからず」という言葉がある。

そこで、阿頼耶識(arayasiki)とは何かについて、ネットで知った知識を書いて、戦う相手を少し、紹介しよう。


参照「無相庵〜仏教に学ぶ〜」の「唯識の世界」から抜粋しました。



「阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の行為を洩れなく記録し、溜め込んでいる心である」

「阿頼耶識(arayasiki)は、@私たちの、あらゆる行為(身→行動した事。口→口でしゃべった事。意→心で思った事)を溜め込む。……現行薫種子(gengyoukunsyuzi)。」

A溜め込んだものによって、人柄やその人の心境世界を決定する。……種子生現行(syuugisyougengyou)。

B凡夫において我執の対象として実体化され、執着される……末那識との関連で、盲目的に生きようとする意欲を出す源泉としての阿頼耶識(arayasiki)」

阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。

阿頼耶識(arayasiki)は、善と悪の、どちらでもない。
性善説も性悪説も、どちらの立場でもない。
善の種子も悪の種子も混在している。

生物としての本能(生存欲や生殖欲)も貯蔵している。
この本能そのものにも、善悪は無いが、縁により、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、場所や遭遇する状況により、犯罪も生み出す。

しかし、阿頼耶識(arayasiki)は、善で悪でもなく、これらの薫習(kunzyuu)によって、仏様の境涯になったり、悪者にもなったりする。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

末那識(manasiki)は、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子の有様により、変化する。



以上、要約を終わる。


私は、必要な所だけ取り出しました。
詳しい知識を求める人は、「 無相庵 」を読んでください。

私の考え

「 己を知る 」とは、末那識(manasiki)が、電磁波に似た構造だろうと思う事。

縦軸に「 主観的時間 」と、電磁波の構造をした「時空間」の意識を生まれた時から持っている事。

「 心 」は、身体の外部に存在し、自分と他者を区別しない自分のエネルギーだろうと思う事。

阿頼耶識(arayasiki)は、「 主観的時間 」を成立させ、「時空間」のエネルギーも、現実面の「認識」も全てが、阿頼耶識(arayasiki)だと思う事。

「空間意識」で存在する物は、阿頼耶識(arayasiki)が形成した物だと思う。



これから、どんな物語に展開するかは、私だけしか知らない。

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2008年10月23日

2008/10/23・私の想い(阿頼耶識への想い@)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

これは、私が考えたフィクションである。

私は、僧侶でないから、阿頼耶識についての知識は知らない。

私は、想像するだけである。

私は、東洋の哲学者が、何故、阿頼耶識について「 哲学 」しないのか疑問に思う。

私は、「現存在」を考えるならば、「 今の私 」という意識の末那識と、その発生を可能にして、その「 光 」が到達しない所(それは、時間的に言うと過去と未来の両方)に存在すると思われる阿頼耶識を研究しないのは疑問だと思う。

かって、「可能性とエネルギー」について書いたが、可能性もエネルギーも、阿頼耶識から発するものだろうと思う。

本によれば、「アラヤ」とは「蔵」を言うもので、一切の記憶を蔵して、自分の底に流れている意識で、思い出されていない記憶、つまり意識に現われない記憶を保蔵して、一切の「 心 」は、この阿頼耶識から生じる。

詳しく知りたい人は、ネットで「阿頼耶識」を検索するか、本を読んでください。

私は、地球上に住んでいて、常に行為を求められている。

それは、意識的行為であったり、無意識の行為であったりするが、全てが、阿頼耶識に貯蔵され、あるいは阿頼耶識から、生まれる価値によって生きているのだろう。

可能性が生まれる事は、容易に想像する事が出来る。

自分の身体から離れている「 心 」が生まれるのだ。


三流大学を卒業した私は、阿頼耶識が「宝庫」だと思うのに、一流大学の哲学者が、「時間」もだが、この方面を研究しないのは、信じられない。

私は、「電磁波の構造」の末那識と、意識の流れ、生命の流れ、である阿頼耶識を、相互に考えることにする。

阿頼耶識については、「意識」ではなくて、「エネルギー」の方面から考えると面白いが、後で書くことにする。
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2008/10/23・自意識は末那識であり電磁波(光)である

今日は、ネットで調べた意識の話をする。

大乗仏教の唯識説によれば、8個の心があると言う。

@眼識
見る事

A耳識
聞く事

B鼻識
嗅ぐ匂い

C舌識
味わう甘味

D身識
感じられている暖かさ、冷たさ、固さの感じ

E意識

記憶。
現象の中に行われている理法、原則などの認識。

F末那識

潜在的精神活動。
意識の底の流れとして存在し、自他を区別する根本。
自分は自分であって、自分に対する他人がある心。

Wikipedia では、次のように書いてある。

末那識は、特に「恒」(間断なく常に作用する)と「審」(明瞭に思惟する)との二義を兼ねて有して、他の七識に勝っているから、末那(意)識という。

末那識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

G阿頼耶識
阿頼耶識
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E9%A0%BC%E8%80%B6%E8%AD%98




私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。

「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。



これで、私の「 自意識 」が、場所を得た。

今度は、阿頼耶識と私が問題となる。

Every miller draws water to his own mill.


2015/2/27、私の現在の考え11・自意識を参照
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2008年10月22日

2008/10/22・私の想い(現象としての私B)

2008年10月21日の記事。

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

だから、私が言う「現象」とは、私だけの観念かも知れない。

「意識は電磁波(光)である」と考えた時、思いついた考えである。

私は、「時間意識」と「空間意識」が、電磁波のように交互に現れて、「認識」が成立すると考える。
「時間」と「空間」を同時に「認識」する事は出来ないのだと思う。

それは、光速で組み合わされているために、あまりにも速度が速く、連続していると見えるのだと思う。
ちょうど、映画を見るように……。

この「空間意識」に現れる事物は、自分に対する力の方向を持っている。

「空間意識」に存在する、全ての物を、「自分」は自分の可能性を増すための道具として扱う。

「自分」の身体を、可能性を増すための道具として考える場合もあると思う。

しかし、それは事物の利用可能な一面であり、「全体」ではない。

(中略)

哲学的に「現象」ではないかも知れないが、一挙に本質が現われないという意味で「現象」と言っている。



2008年10月22日、考えた事

知識を求める人は、このブログから去ってください。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。

「関係に関係する」のが、実存主義ならば、この空間意識から抜け出す可能性や関係を探すのが、その内容だろうと思う。

それは、現象としての自分から、抜け出す事と同じだと思う。

日本に「妖怪人間・ベム・ベラ・ベロ」という漫画がある。

それは、妖怪から人間に変化するために善行をする物語であるが、その妖怪が哲学者だと思う。

SEX の面でも、異性を自分の欲望発散のための道具と思っている限り、この「空間意識」の人間だと思う。

自分の快楽を求めるための行為には、「愛」は無いと思う。

異性の快楽のための行為に「愛」が有るとも思わない。

どこかに、異性を軽蔑する「 心 」があると思うからだ。

私は、「空間意識」は、本能が働く場所であり、「現象」と言うように、日々、変化する意識だと思う。

「社会」でも、多重の関係を結んでいるのが人間で、多重性は可能性の「大きさ」と思うが、私は、人の大きさは「人の住む世界」で決める事であり、現実社会の関係の多さで、人物の大きさを現すという考えは、好きではない。

親子でも、「関係」として認識しない方が良いと思う。

「 関係 」は、「 道具 」を使い、「 力 」で、逆転するものだ。

後日書くが、「人の住む世界」で相手した方が安全だと思う。

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2008年10月21日

2008/10/21・私の想い(現象としての私A)

Yahoo USA に、「私の想い(現象としての私)」が登録されるかも知れない。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkj8p0fxIeg4A4UCl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%B3%E3%81%84%28%E7%8F%BE%E8%B1%A1%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E7%A7%81%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

だから、私が言う「現象」とは、私だけの観念かも知れない。

「意識は電磁波(光)である」と考えた時、思いついた考えである。

私は、「時間意識」と「空間意識」が、電磁波のように交互に現れて、「認識」が成立すると考える。
「時間」と「空間」を同時に「認識」する事は出来ないのだと思う。

それは、光速で組み合わされているために、あまりにも速度が速く、連続していると見えるのだと思う。
ちょうど、映画を見るように……。

この「空間意識」に現れる事物は、自分に対する力の方向を持っている。

「空間意識」に存在する、全ての物を、「自分」は自分の可能性を増すための道具として扱う。

「自分」の身体を、可能性を増すための道具として考える場合もあると思う。

しかし、それは事物の利用可能な一面であり、「全体」ではない。

事物の全体が理解されるためには、「空間」と「時間」が必要だと思う。

ある一定の場所に、幅を持ち、順番に現われて、事物の全体が理解される。

その意味で、「 この世は現象だ 」と、私は言っている。

それが、哲学的に「現象」ではないかも知れないが、一挙に本質が現われないという意味で「現象」と言っている。

息子に何かの行為を依頼したと仮定しよう。

顔と顔を合わせて、了解した返事を受け取ったとしても、その瞬間だけでは、息子が私の意図を理解したのかは知る事は出来ない。

返事と共に、行動するのを見て、私の意図が伝わったと感じるのである。

一挙に、「本質」という物語が示されないという意味で「現象」だと思っている。

一挙に、「本質」が伝わるのは、息子が誕生する時だろう。

遺伝子と一緒に、全ての情報が、息子に伝えられる。

親が持っている阿頼耶識の全てを引き継がれるだろう。

その意味で、「生殖」は、現象とは言えないかも知れない。

「意識は電磁波である」という考えの上に、言う「現象」だから、学問的な意味では無い。

激しく動く「 今 」という瞬間の中で、全てを利用して、自己の実現を図ろうとする時、その対象が、主体である「自分」も現象であると言うのが、「現象としての私」である。

何時、「本質」として結実するのかは不明だ。

他人には、「流れ星」のように、どこに行くのかは不明で、自分に近づくのか遠ざかるのかしか判断する事が出来ないかも知れないが、「流れ星」は軌道を持っている。

「自分の本質を知る事」

それは、全てを引き継いだ誕生の「本質」を明らかにする事であり、自分の軌道を知る事であり、自分の生まれた意味を知る事かも知れない。

勿論、「子孫を残すというための自分」と言う場合もあると思うが……。

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2008年10月20日

2008/10/20・私の想い(現象としての私)

アクセス解析を見ると、「私の想い(可能性とエネルギー)」が、Yahoo USA に登録されているのを知った。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkFZvvtIbXsBUwml87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%B3%E3%81%84%EF%BC%88%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%EF%BC%89&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

エネルギーを放出した後は、充電まで時間を必要とする。
Yahoo USA の読者は、続編を期待していると思うが、少し待ってください。

それよりも、私は、これまで「現世は仮の宿で、来世に本当の宿」があると思っていたが、これは間違いだったと思う。

間違いでは無いかもしれないが、「この世は現象の世界である」と知るまでには、遠い道だった。

「この世は、現象の世界である。」

これは、「意識は電磁波(光)である」という過程で、知る事が出来た。

私の、一人合点かもしれないが……。

「自分の姿も現象なのだ」

私は、「 幽霊 」になる事を勧めるが、皆は、既に自分が、本当の自分ではなくて、「現象としての自分」である事に気付いていないと思う。

「 了解 」は、現実世界とは違う「 人の住む世界 」で成立するのだ。

そこに住む人を、私は「 幽霊 」と言っている。

西洋の「実存主義」の考え方は、「現象としての自分の本質を現実世界に表現する哲学だ」と考える。

自分の意味は、死後に判断されるならば、この世に生きている時に、自分で、表現する事をお勧めする。

「 幽霊 」の立場から、現実世界を見れば、私は「 幽霊の前世 」であり、物体でも、霊でもない混合した化け物だろう。

自分を知れと言うのは、この世は全て現象で、自分も現象だから、変わらない自分の本質を知れと言う事かも知れない。

「ああ、自分は○○だった!」

死ぬ前に、自分を「総括」した方が良いだろう。
あの世で、如来様(nyoraisama)に報告をする事が出来るから。

Every miller draws water to his own mill.
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2008年10月19日

2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)

2008年10月19日、19時35分、現在のアクセス状況である。

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11 2008/10/10・私の悩み(座標軸)  
12 2008/10/13・私の悩み(可能性とエネルギー)  
13 2008/10/13・私の悩み(可能性とエネルギー..
14 2008/10/9・私の可能性(認識と人の住む世界..  
15 2008/10/11・金融不安と生活不安U  
16 2008/10/15・私の悩み(意識は電磁波である..
17 2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還..
18 2008/10/7・私の可能性(認識と人の住む世界..
19 2008/10/12・私の悩み(可能性とエネルギー)
20 2008/10/8・私の可能性(認識と人の住む世界..
21 2008/10/15・私の悩み(観測)  
22 2008/10/15・私の悩み(意識は電磁波である..
23 2008/10/14・私の悩み(意識は電磁波である)  
24 2008/10/6・私の可能性(認識)  
25 2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギー..

これが、「にほんブログ村」効果と言うのだろうか。
25位まで、真面目なタイトルが並んでいる。

私は、仏教が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業者ではない。
私は、法律科卒業である。

知識を求める人は、このブログから去ってください。
私の認識論です。

さて、エネルギーらしき話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。

つまり、意識が電磁波となって現実面に衝突して、意味という小石のような「塊」として残る。

現実面は、精神だから、「塊」の意味は、光波として広がる。

ちょうど、私が書いた記事が、ネットの力で、世界に広がるように。

それを、上から、座標軸の縦軸の上から、見ているのが、「幽霊」の私である。

これで、「kandk 劇場」の第三幕は降りた。

また、お会いしましょう。

Every miller draws water to his own mill.
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2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーA)

Yahoo USA が、私の記事を載せてくれた。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmOt6fpI5XcBMBGl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%83%B3%E3%81%84%28%E5%8F%AF%E8%83%BD%E6%80%A7%E3%81%A8%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私は、仏教が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、法律科の卒業なのだ。

だから、私の言うのは、フィクションである。
知識を求める人は、このブログから去って欲しい。
私は、私の認識論を書いている。

Yahoo USA が、私の記事を載せているから、少し書く事にする。

不連続の瞬間から瞬間に、情(zyou)が運ばれるのは、前述した。

可能性は、方法であって、目的ではない。
物体を見る時には、顕微鏡を使ったり、望遠鏡を使ったりする。

しかし、「見る」とは何か。
認識するとは何か。
これらについて、了解の押し付けがあると思う。

私は、認識が成立するのは、「仏画(butuga)」に書いてあるような、菩薩の世界であると思う。

見ている顔も声も、その人が発する現象なのだ。

その人の人格や「 心 」は、認識が成立した後で、理解する事が出来る。
「 心 」を現実面で受け止めてから、その「 心 」を知る事が出来る。

もっとも、半分、「幽霊」になっていれば、見ている時や話を聞いている時に、その人の全貌を理解する事が出来るかも知れない。

「光」を「意識」に置き換えて、仏教の教えを考えると面白い。

「光」が「意識」だと思って、如来様(nyoraisama)の「宇宙」に満ちている「光」を、「自分の意識」にすれば、永遠の命を手に入れたと言えるではないか。


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2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギー@)

私が何を言わなくても、社会の皆は、エネルギーを受け取り可能性を現実化している。

地球が自転し、人も環境も、不可逆的に生死を繰り返す。

生命のリズムにより、人間は常に変わっているのに、変わらないと思う意識。

自分は自分であり、変わらないという「自意識」を持った人間は、自然の「無常」に逆らう。
冬なのにアイスクリームを食べたり、冬なのにキュウリやトマトを食べたり、夏なのに冷房したり、冬なのに暖房したりと、自然のリズムとは逆の事をする。
因果を因果関係として、利用するのも、自然に逆らうための道具にしていると思う。
自然の可能性を拡げるために、道具を使う。
「空間意識」で、空間に存在するものは、何物も、道具にして、自分の可能性を拡げようとする。


この一般的な、認識を記述しようというのが、この記事である。

普通は、自分という意識と一緒に、物を認識して、皆さんは、考えずに行為して終わっている。

ただし、「主観的時間」が変化すると可能性を考えるようになる。

「主観的時間」とは、自分の「心臓」という時計で測った時間だ。

生命のリズムとして、その他の臓器が発する電磁波も、リズムに影響するだろう。

例えば、転勤とか、学年の進級とか引越しとか、環境の変化に生活のリズムを合わせる時、如何に良い行為をするかを考える。

以前にも書いたが、「主観的時間」は、「無意識」と交信するから、不安や心配を生む。

不安や心配は、身体に電気を流し、これまでとは違った電磁波を発生させるだろう。

「自意識」は、電磁波の構造だから、影響を受けない。
ただ、「空間意識」に存在する物体のベクトルが変化するだろうし、現実面と次の現実面を結ぶ「可能性」が変化する。

「可能性」は、現実面で広がり、現実化する因果関係を、時空間で運ぶ方法や経路であり、様々に考えられる。

それは、「光」の波が、最短の距離を結ぶ事に似ている。

「主観的時間」は、無意識の中から、因果関係を引き上げる事もあるだろう。

過去に本を読んだり、映画を見たり、大学で講義を受けたりと、昔の様々な「因果関係」が眠っている。

その「因果関係」を、「可能性」として適用する場合もあるだろう。

あるいは、「 心 」が、自分の身体の外に出ているから、「 心 」が獲得した、他者の「 心 」から獲得した因果関係を、可能性に適用するかも知れない。

止まっていても、地球は動くのだ。

この「 今 」という一瞬に、あらゆる可能性を探して、情(zyou)を実現化する。

情(zyou)とは、「自分」の「本質」かも知れない。

哲学の「実存主義」とは、未来に「自分」の姿を把握するために、可能性を探すのではない。

「自分」の「本質」を現実面で実現するために、

可能性や因果関係を探すのだと思う




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posted by kandk55 at 09:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーの概念の補足)

2008年10月19日、2時30分、現在のアクセス状況である。

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日本ブログ村に登録した影響かも知れないが、@「意識は電磁波である」やA「人の住む世界」、それとB「可能性とエネルギー」についての検索が多い事に気付いた。

初めて、私のブログを見る人は、同じタイトルばかりで、困惑しているのかも知れないので、少し、補足する。


@「意識は電磁波である」

これについては、私の基本的な考えである。

「 blog 内検索 」で「 自意識 」を入力して検索すれば、ある程度は理解する事が出来るだろう。

「 自意識 」については、ハイデガーの話の時、ヘーゲルの時間論を参考にして、デカルトの「われ思う、故にわれあり」に、相対論の「同時性」を加えて、意識を電磁波の一種だと規定した。

参考の記事を書いておく。
(自意識については、もっと以前から存在する。)

2008/9/13・私の空想(意識の座標軸)
2008/9/18・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/19・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/20・私の想像(意識と座標軸)

私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」


A「人の住む世界」

これは、認識が成立した「霊界」の世界である。
会話する時に、現実に見るのは相手の顔で、音声が飛び交うだけであり、相互に認識するのは、目には見えない世界だろうと思う。

B「可能性とエネルギー」

これは、これから挑戦する課題である。

「 kandk 劇場 」で、物語を展開するから、興味があれば見てください。



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2008年10月18日

2008/10/18・私の想い(可能性とエネルギーへの概念)

私は、素人で、何も知らないが、「可能性とエネルギー」の解明に向けて、概念を整理したい。



@「意識は電磁波(光)である」

これは、私の基本的な考えで、再び記述しません。
疑問点は、以前の投稿を参照してください。

A「 心 」

これは、「意識」の総体と解釈します。
光の集まり、光の塊と思っています。
光の粒子と考えています。

B「 光 」

これは、粒子ではなくて、「波」としての光を考えています。

C「 可能性 」

これは、精神でもあり、物質でもある、「波」で、全体が、追体験されるとエネルギーになると考えています。

D「 情(zyou) 」

これは、因果関係の「 塊 」で、精神的な物語、意味など、物体の全体を提示する「本質」という物語も、ここに含めて考えています。
エネルギーは、ここに含めています。



これを組み合わせて、瞬間から瞬間へと、エネルギーを受け渡しをする物語を、後日、書きます。

「 kandk 劇場 」です。

ストリップ劇場ではありません。


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posted by kandk55 at 20:54| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還る事A)

私の想い(死ぬとは可能性に還る事)

現実面が無いとは、人間が存在しない事と同じであり、情(zyou)は現実性に変換される事は無く、永遠に可能性というエネルギーが残る。

私が死ぬ事は、私の情(zyou)は無くなり現実の形は無くなるが、私の情(zyou)を将来に伝える可能性というエネルギーに還る事かも知れない。

そのエネルギーが、子孫に伝わるのだろうか……?


2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還る事A)

自分は、半分は「 幽霊 」になって、身体から出ていました。

だから、死ぬ前に、既に「 幽霊 」となって、「 心 」として、現実界に存在しているのです。

「 心 」と「 自意識 」が同じならは、心臓が止まる前に、言葉ではなくても、自分の死を見送る人に、霊の世界で、会話が成立すると思います。

死ぬ本人を取り囲む人は、言葉を期待しますが、言葉などは必要ではないのです。

光が真空でも伝わるように、言葉という媒体を必要とせずに、情(zyou)は伝わると思います。

可能性に還るとは、誕生前に戻る事です。

子供は、無限の可能性があります。

日本では、60歳になれば、「還暦」と言って、赤色の衣服(頭巾やチャンチャンコ)を着て、子供の時に帰ります。

私も、あと一年が経過すれば、「還暦」です。

老人の私が、自分の子供だった時に帰る事は不可能です。

私は、一つの可能性は終わったから、次の可能性に従って生きなさいという意味に解釈します。

人生の再出発です。

生きている限り、人と神仏が一体となった「可能性」が存在します。

精神でもなく、物質でもありません。

道を歩く時の「杖」に似て、物質であるが、私の身体の一部でもある物。

私を助け、私を導く、本当の「 幽霊 」かも知れません。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 09:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 @ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/10/18・私の想い(死ぬとは可能性に還る事か?)

2008年5月9日の記事と5月3日の記事を、Yahoo USA は登録してくれている。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkirR.PhIHnsA47Kl87UF?p=%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%81%A8%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%84%9F%E8%A6%9A%E3%81%A8%E8%83%BD%E5%8A%9B&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

昨日も書いたが、Yahoo USA は、何の意図があるのか、私のブログを登録してくれる。

私は、Yahoo USA への感謝の気持ちで、記事を書いている。

こうして、Yahoo USA が登録してくれているから、昔の記事を読む事が可能なのだ。

私は、「意識は電磁波の構造であり」、「情(zyou)」や「情報」を、不連続な瞬間から瞬間へと、連続して伝えるという考えを持っている。

不連続だが、見えないサインカーブで連続しているのだと思う。

如来様(nyoraisama)が、霊という人間の住む世界から「個人の感覚と能力」を持つ「私」として、現実界に存在させて、世界の人と相互理解をしているのだろうと思う。

私の考えは、「自意識は、電磁波の構造を持つ」が、「主観的時間」つまり生命のリズムの制約の元での「自意識」である。

生命のリズムは、「個人の感覚と能力」を与件として、電気的な信号により、人体を動かす。

そして、「私」が「私」を自覚して生きている事を可能にしていると考える。

「私」は、「個人の感覚と能力」により、外部のエネルギーと「自分」を区別されて生きていると思う。

エネルギーには、境界が無い。
エネルギーを区切るのは、「個人の感覚と能力」と精神だろう。

時間も際限なく続き、社会生活のために、社会が時間の単位を定義する。

「主観的時間」は、自分が生きている限り、心臓が動いている限り続くリズムである。

それを、「個人の感覚と能力」が区切った時間が「自分の時間」であると思う。

本来は境界が無いのに、「個人の感覚と能力」が、個人として区切っているのだと思う。

それが、自我かも知れないが、「個人の感覚と能力」を無にするか、あるいは際限なく拡げれば、つまり宇宙と一体になれば、自分の制限された現実面が存在しなくなる。

現実面が無いとは、人間が存在しない事と同じであり、情(zyou)は現実性に変換される事は無く、永遠に可能性というエネルギーが残る。

私が死ぬ事は、私の情(zyou)は無くなり現実の形は無くなるが、私の情(zyou)を将来に伝える可能性というエネルギーに還る事かも知れない。

そのエネルギーが、子孫に伝わるのだろうか……?

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