2008年11月03日

2008/11/3・私の思索(これまでの経過・身体)

Microsoft Office One note 2003 で複写する。
今日の記事は、下の方に書いています。



2008/10/12・私の悩み(可能性とエネルギー)

私は、以下の座標軸で考えている。

@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。

追加
F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。

……(省略)……

200/10/30・私の思索(意識の構造の確認)

私は、「意識は電磁波(光)である」という考えは維持します。

過去の阿頼耶識(arayasiki)から、現在の阿頼耶識(arayasiki)へと「意識」によって伝達される場合、現実面では、同心円の模様が出来て、それが、「 心 」や「可能性」の幅であると言う事を確認したいのです。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

……(省略)……


2008/11/3・考えた事。

H身体を追加する。

2008/10/30の記事は、感覚から意識の座標軸に、エネルギーを取り出すというGの考えを詳しく書いたが、これは末那識(manasiki)の範囲である。

認識は、末那識(manasiki)の電磁波の構造で、阿頼耶識(arayasiki)から阿頼耶識(arayasiki)へと伝わるから、「 情(zyou) 」の主体である「 身体 」の存在が必要である。

「 身体 」が存在するから、情(zyou)を因果関係に載せて次の認識へと進む事が出来る。

世界の人は、皆、人から教えられなくても「時間」と「空間」について、既に知って生まれてくる。

その「時間」と「空間」を、形式として、食欲や睡眠欲や性欲を実体が存在するものとして、経験し受け取る「 身体 」が、末那識(manasiki)と阿頼耶識(arayasiki)を結合している。

赤ん坊は、「危険」については知らない。
周りの大人が、赤ん坊の身体に教える。

原因と結果を教えられ、成長すると、因果関係という物語を得る。

「 身体 」は、原因と結果の基本だと思う。

手や足を叩かれれば痛いし、転べば痛い。

その延長上に、可能性があるかも知れない。


阿頼耶識(arayasiki)は、末那識(manasiki)を包摂し、因果関係の全ては阿頼耶識(arayasiki)である。

阿頼耶識(arayasiki)は、認識の内容であり、末那識(manasiki)は、認識の機能である。

人間の阿頼耶識(arayasiki)が存在しないのが、「 因果 」だろう。

因果の中で、関係を探るのが人間だろうが、「自分」という「 身体 」が、一つの感覚器官となり、そして体内の電気の発生源となって、認識を成立させていると思う。


これが、「 心 」を表現する「 行為 」の主体になるので、認識論に追加する。

Poor thinking is as good as no thinking.

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2008年11月02日

2008/11/2・私の思索(今までの経過 T)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

これまでの経過

私は、アダルトから独り言というカテゴリーに変更した時、自分の考えを、ブログに書こうと思った。

そこで、@如来様(nyoraisama)の「宇宙」A世界内自分B人類としての自分、と三つに分けて考え始めた。

「宇宙」と同じ構成物の頭脳を持ち、日本という文化の中で育ち、人類の進化の最先端が自分であると考えた。

「仏性」という事を考えたが、仏教を学んでいないので、私の考えとして「仏性」を規定する事は出来なかった。

Aの世界について考えた時、「世界」とは自分が頭の中で考えた範囲内での「世界」であると感じた。

「小さなDikz」の箇所で、人間は他の動物とは違って、何故、「大きなDikz」が好きなのかを考えると、他の動物は生殖を目的とするが、人は快楽という精神的、意識的な文化を追求する動物であり、そこが他の動物とは違った「世界」を持つ生き物だと思った。

意味や精神の世界である。

「世界」は「意識」と「意味」と「精神」の世界だと思った。


Bについては、当初は私の考えにとって重要とは思わなかった。

しかし、人類としての自分から、自分という意識を考えた時、地球が自転し、肉体は新陳代謝して、次々に新しい自分になるのに、どうして「自分は自分」と思うのか疑問に思った。

そして、人間は、生まれた時から、人から教えられなくても「時間」と「空間」を知っている事に気付き、「時間」や「空間」について考えた。


「存在と時間」という本を読んだが、時間については、相対性理論の時間に対する考えは採用されていなくて、ヘーゲルの時間の考えについて書かれていた。

私は、デカルトから続いた考えが、ヘーゲルの考えだと解釈し、それに、自分が解釈した相対性理論を適用し、デカルトの「我」を、空間に対する時間的存在と解釈して、私という「自分」は、「自意識」つまり、「自分は自分を確認し続ける」時間的、生命的存在だと思った。

「自分は自分」とは、どのような考えか?

私は、人との対話による弁証法などは知らない。

当初は、血液が循環するように、循環の中の「自分」も考えたが、循環して前進が無いというのは、好きではなかった。

そこで、電磁波の登場である。

人間は、心電図や脳波が計測されるので、電気を持っている。

電気からは、電磁波が発生すると考え、その内容は、「時間的意識」と「空間的意識」が交互に現れて、その交差する所に認識が成立すると考えた。

それは、循環ではなくて、常に先に進む「自分」である。

勿論、頭脳の中で、瞬時に行われるから、人間には「時間」と「空間」が、同時に見えるのだ。

右脳と左脳があるが、それらの関係だろう。

頭脳について、科学的な考えが披露されるかも知れないが、「時間」と「空間」が、どのように生まれるのか、興味がある。


こうして、@の如来様(nyoraisama)の頭脳組織から、Aの「時間」と「空間」が生まれ、物体の変化についての合理的な考えが、物理学なのだろう。

世界の偉人の頭脳は、私とは違って、「宇宙」を含む時空間を持っていた。

その表現が、相対性理論であり、量子力学であるのだと思う。

こうして、当初とは違った考えになったが、@如来様(nyoraisama)の「宇宙」A精神と意識の「世界」Bの「自意識」ないし「自我意識」という構成には変化は無い。

Bが、当初より、大きな考えになり、「社会」が定義する時間に対する「主観的時間」や「自意識」ないし「自我意識」に対する「無意識」の考えに進み、「 心 」や「 人格 」へ進み、そして今、末那識(manasiki)と阿頼耶識(arayasiki)の関係に進んでいる。

これで終わりではない。

Poor thinking is as good as no thinking.

しかし、続ける。
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2008年10月31日

2008/10/31・私の思索(阿頼耶識とEPRパラドックス)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


2008年10月29日、考えた事。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

末那識(manasiki)が、阿頼耶識(arayasiki)を次のステージに引き上げますが、その内容は、個人の末那識(manasiki)や阿頼耶識(arayasiki)の範囲内であると思います。




2008年10月31日、考えた事。

EFR パラドックスとは、以前に紹介した「量子の謎をとく」(著者→F.A.ウルフ、訳者→中村誠太郎)というブルーバックスの200ページ以降に掲載されている問題である。

どうして、E P R と言うかは、「物理的実在に対する量子力学的記述は、はたして完全であろうか」という論文の著者が、アルバート・アインシュタイン、ポリス・ポドルスキーおよびネイサン・ローゼンであるからだ。
(Albert Einstein,Boris Podolsky,Nathan Rosen(簡単にEPRと略記)(同書、200ページ)

「もしも、量子力学が完全ならば、過去に相互作用した二つの対象は、離れたあとでも影響を与えるということになる。この影響の可能性は、アインシュタインの特殊相対性理論という玉にとっては傷であった」
(同書、214ページ)

この本を読んでいると、特殊相対性理論、つまり末那識(manasiki)の理論には「傷」であるかも知れないが、阿頼耶識(arayasiki)の事を考えると、「過去に相互作用した二つの対象は、離れたあとでも影響を与える」事は、充分に考えられる。

阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の出来事を貯蔵する「蔵」であるから、そこから発せられる意識は、「同時性」の制限を受けないと思う。

その意味で、EPR パラドックスは、物理学では解決する事が出来ないが、阿頼耶識(arayasiki)を解釈する者には、大いに興味がある。


今は、思っただけで、本を読んでいないから、言えないが、「 光 」は、「意識の光」であり、実在の「光」ではないから、光速より早い光を考えなくても、つまり現実の特殊相対性理論という「場」で、実在する「光」を考えなくても、「実在とは違う光」であると認識すれば良い。

そして、現実の二つの「穴」からの干渉と考えずに、「見る機能」や「聞く機能」の「穴」からの干渉波を考える。

阿頼耶識(arayasiki)からの、本質直感であるだろう。

つまり、物理学者は、哲学や宗教の問題を議論していたのである。

物理学の世界では役に立たなくても、宗教や哲学に於いての「光」として、物理学を「相補する」事が出来るかも知れない。

その仕事は、物理学者ではなくて、宗教者や哲学者の仕事であると思う。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2008年10月30日

2008/10/30・私の思索(意識の構造の確認)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


私は、「意識は電磁波(光)である」という考えは維持します。

過去の阿頼耶識(arayasiki)から、現在の阿頼耶識(arayasiki)へと「意識」によって伝達される場合、現実面では、同心円の模様が出来て、それが、「 心 」や「可能性」の幅であると言う事を確認したいのです。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

末那識(manasiki)が、阿頼耶識(arayasiki)を次のステージに引き上げますが、その内容は、個人の末那識(manasiki)や阿頼耶識(arayasiki)の範囲内であると思います。

その模様のどこかに、「 心 」が存在するのです。

Every miller draws water to his own mill.
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2008/10/30・私の思索(無明・涅槃・阿頼耶識)の説明

2008年10月29日の記事。

私は、2008/10/9・私の可能性(認識と人の住む世界)で、人と人との相互理解は、「 幽霊 」になって、「霊の世界」で認識が成立すると書いた。

そして、2008/10/27・の記事で、自分が自分と認識するのは、阿頼耶識(arayasiki)の世界だと書いた。

両方とも、生きている人間には見えない世界である。

その、「霊の世界」や「阿頼耶識(arayasiki)の世界」が、私の死後の「涅槃」の世界や私が誕生する前の「無明」の世界だろう、というのが、私の主張である。


つまり、人間は、「一瞬の間での認識」か、あるいは「60年間の時間を経た認識」か、の時間の違いがあるが、「無明」や「涅槃」を往来しているのだ。


「無明」と「無明」あるいは、「涅槃」との間が、生き生きとした楽しい「意識は電磁波の世界」だというのが、私の主張である。

常に「自分は自分だ」と確認するのは、常に、「自分は自分では無くなっている」という事だ。

山の雪が大地に落ちて解けてゆくように、新雪が新しい意識で、解けていく先は、阿頼耶識(arayasiki)なのだ。

2008/10/30・考えた事。

自分の力で理解もしていない仏教の言葉を使って、失礼な事を書きました。

私は、小さな事を言いたいのです。

無明は、「人が生まれて来て、死んで帰る所」だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E

涅槃とは、「常恒の平和」であり、「悟る事」だと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83

阿頼耶識(arayasiki)は、2008/10/25・私の思索(阿頼耶識とは何か)を見てください。


私は、八識の阿頼耶識(arayasiki)は、七識の末那識(manasiki)までの意識の母体だと思います。
だから、意識の全ては、一つの意識の流れを共有していると思いますし、意識の全ては、阿頼耶識(arayasiki)であると思います。


人と人の対話は、音声の交換でありますが、「 理解 」しているか否かは、現実面では判明しません。

相手が、理解したという信号を受け取って、自分の意見が理解されたと知るのです。

その方法しか無いから、「 信じる 」という信頼関係が発生すると思います。


過去の自分と現在の自分の関係を「同一だ」と思うのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)と現在の阿頼耶識(arayasiki)を同一と見る事です。

無明(mumyou)から涅槃(nehan)の境涯になったと言っても、次の瞬間には、頭の中の内容は、阿頼耶識(arayasiki)になります。

認識の結果が、無明(mumyou)という阿頼耶識(arayasiki)の状態も考えられます。

これは、皆、人間の五感から離れた阿頼耶識(arayasiki)の世界で成立する判断です。

この判断が、一瞬の間に成立しても、60年間という一生を経過して成立しても、時間の差はあるが、自分の時空間を経た阿頼耶識(arayasiki)である事は、同一です。

私は、出発点と到達点が、阿頼耶識(arayasiki)で、その間の「意識」の時空間が、生き生きとした楽しい現象としての世界であると思います。

生きるとは、一瞬の間でも、一生でも、現象面で楽しんだり、苦闘したりする事だと思います。

一生という生も、一瞬の生も、どの時点で死んでも、内容は同じなのです。

一瞬の生を、大きく考えると「一生」になります。

涅槃(nehan)の境涯になるのが理想だと思いますが、涅槃(nehan)は、直ぐ、阿頼耶識(arayasiki)になります。

ですから、絶えず涅槃(nehan)を求めなくてはなりません。

私は、出発点と到達点が、阿頼耶識(arayasiki)で、その間の「意識」が働く時空間が、生き生きとした楽しい現象としての世界であると思います。

生きるとは、一瞬の間でも、一生でも、現象面で楽しんだり、苦闘したりする事だと思います。

一生という生も、一瞬の生も、内容は同じなのです。

一瞬の生を積み重ねて生きているのが、人生だと言っただけです。

私は、現象面で、阿頼耶識(arayasiki)の煩悩を消す努力をして、阿頼耶識(arayasiki)との関係に悩んで死ぬと思います。


Every miller draws water to his own mill.
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2008年10月29日

2008/10/29・私の思索(無明・涅槃・阿頼耶識)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

ここでも、Microsoft Office One note 2003 の力を存分に使わせて貰う。

今日の記事は、下の方に書きました。


2008年10月9日の記事。

私は、「空間意識」の中の、生々しい「現象」の裏の必然的な因果関係が「可能性」だが、人間の五感では、「現象」を見たり聞いたり触れたりする事が出来るだけで、一挙に可能性や本質を知る事は出来ないと思う。

それは、「時空間」を使って、考えたり反省したりすれば判明するだろう。

目の前の顔と自分の顔が向き合って話し合っても、相互理解しているのは、「 霊 」と「 霊 」である。

人を物質と見ている限り、本当のコミュニケーションは成立していないと思う。

「霊」だから、「本質」も「情(zyou)」も伝達して、理解が成立する。

眼や耳や鼻や口を閉じて、物質になれば、相手の「 心 」を知る事が出来る。

……(中略)……

今、生きているのは、生々しい現象面なのだ。

そこで見ている人間は、物質にしか見えない。

本当の、「霊的」な人間として、見ていない。

見るのが無理で、見る事は不可能なのだ。

しかし、人間が物質だから、道具に使う必然は無い。

不可能だから、見なくても良いとは言わない。

五感に知られない物を、感じるしか方法は無いだろう。
それは、自分を、「霊」にしなくてはならない。


「認識」を考えると、認識が成立している世界は、「 仏画(butuga) 」で、雲に乗った菩薩が話し合う姿の世界だと思う。

その中で、最も尊いのが、如来様(nyoraisama)である。

見る方向を変えると、「 幽霊 」が話し合っているとも見る事が出来る。

ただ違うのは、光速の雲に乗っているのが、自分だという事。

生きていながら、「幽霊」となる事によって、「人と人との相互理解が出来る」と思う。





2008年10月27日、考えた事。

自意識は末那識(manasiki)であり、過去の自意識が関係させた阿頼耶識(arayasiki)から、現在、そして未来の関係させられる阿頼耶識(arayasiki)へと、阿頼耶識(arayasiki)が伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり「光」となって、現実面に衝突する時、その全ての意識の干渉波が、同心円に広がると考える。

中心には、関係を作る自意識から作られた「自分の意味」があり、現実面で広がるのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)から発せられた全ての意識の干渉波であり、それは同時に、「自分の体験」や「自分の可能性」の現実面での「 幅 」であり、「 心 」の「 幅 」である。

同心円は、無数の可能性が、打ち消し合い、強め合った痕跡である。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「情(zyou)」や「 心 」であり、その「 心 」の内容は、阿頼耶識(arayasiki)である。

伝達する機能が末那識(manasiki)であり、伝達される内容は阿頼耶識(arayasiki)であると思う。





2008年10月29日の記事。

私は、2008/10/9・私の可能性(認識と人の住む世界)で、人と人との相互理解は、「 幽霊 」になって、「霊の世界」で認識が成立すると書いた。

そして、2008/10/27・の記事で、自分が自分と認識するのは、阿頼耶識(arayasiki)の世界だと書いた。

両方とも、生きている人間には見えない世界である。

その、「霊の世界」や「阿頼耶識(arayasiki)の世界」が、私の死後の「涅槃」の世界や私が誕生する前の「無明」の世界だろう、というのが、私の主張である。


つまり、人間は、「一瞬の間での認識」か、あるいは「60年間の時間を経た認識」か、の時間の違いがあるが、「無明」や「涅槃」を往来しているのだ。


「無明」と「無明」あるいは、「涅槃」との間が、生き生きとした楽しい「意識は電磁波の世界」だというのが、私の主張である。

常に「自分は自分だ」と確認するのは、常に、「自分は自分では無くなっている」という事だ。

山の雪が大地に落ちて解けてゆくように、新雪が新しい意識で、解けていく先は、阿頼耶識(arayasiki)なのだ。

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2008年10月27日

2008/10/27・私の思索(伝達する者と伝達させる物)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

今日の記事は、後ろの方に書いた。

私の考えは、同じ所を回っているので、少し繰り返すが、無視してください。




今まで、考えた事。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。
「空間意識」と「時間意識」が交差して、現実面で認識として現われる。



「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。


現象としての私は、時空を移動するか?

思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。



B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。





2008年10月27日、考えた事。

自意識は末那識(manasiki)であり、過去の自意識が関係させた阿頼耶識(arayasiki)から、現在、そして未来の関係させられる阿頼耶識(arayasiki)へと、阿頼耶識(arayasiki)が伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり「光」となって、現実面に衝突する時、その全ての意識の干渉波が、同心円に広がると考える。

中心には、関係を作る自意識から作られた「自分の意味」があり、現実面で広がるのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)から発せられた全ての意識の干渉波であり、それは同時に、「自分の体験」や「自分の可能性」の現実面での「 幅 」であり、「 心 」の「 幅 」である。

同心円は、無数の可能性が、打ち消し合い、強め合った痕跡である。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「情(zyou)」や「 心 」であり、その「 心 」の内容は、阿頼耶識(arayasiki)である。

伝達する機能が末那識(manasiki)であり、伝達される内容は阿頼耶識(arayasiki)であると思う。

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2008/10/27・私の思索(可能性とエネルギー)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。
ここは、「kandk 劇場」である。
勿論、無修正で無料。
無料ですよ。

私の考えは、同じ所を回っています。
長い物語ですから、途中は無視してください。


後ろの方に、今日の記事を書きました。



これまでの考え。

私が、「 自意識 」として、常に自分を確認する意識は、末那識であり、その構造は、電磁波(光)の構造と似ていると思う。
「空間意識」と「時間意識」が組み合わされて、現実面で、「認識」が成立する。
現実面の上で、「幽霊」や「精霊」となって、認識が成立する面を見る。

「空間意識」というのは、「末那識」であり、「 私の想い(現象としての私)」で書いたように、煩悩の根本である。

現象としての私とは、何か?

それは、一般の事物と同じで、「空間意識」の中の「 関係 」として現われる自分である。


一瞬でも一年でも、時間の長さが問題なのではなく、「 関係 」として自分を認める限り、「空間意識」の自分である。

関係だから、可能性に因果関係を適用するのが可能だ。

因果関係を考えると、一方の端を取れば他方の端が判明する、一種の道具しての関連を想像する。

空間関係の可能性は、自分の支配力の幅として現われ、可能性を制限する他者の侵入に対して自分の生命への危険の度合いや、快感と不快感の度合いの関係として現われると思う。

それが、頭脳の中だけでなくて、身体のリズムと「関係」する時、意識を生じる電流が生じると仮定する。

つまり、感覚から構成される認識の「空間意識」の二重底が崩れるのだ。

そして、意識の「関係」を解消するために、危険や不快感の解消のための現実面への投影が、攻撃と反撃の応酬になるだろう。

「時間意識」の中での「 関係 」は、可能か不可能かという関係だろう。

「空間意識」も「時間意識」も生命の維持のために働く。

私は、この空間は、「 動物の認識 」だと思っている。

私の考えでは、現象としての自分は、「空間意識」の中で「 関係 」として現われる、という結論である。



現象としての私も、過去から現在へと、時空を渡るだろう。
思う事

「関係」は因果関係であり、情(zyou)であるから、私が「関係」という現象ならば、「時空間」を伝わるのは「情(zyou)」であり、「私」が時空間を伝わる事になり、認識が成立する現実面では、「自分は自分」と確認しながら、過去から現在、そして未来へと、時空間を経た結果を残すことになる。

その結果とは、2008/10/19・私の想い(可能性とエネルギーB)の、電子の干渉波のように残るだろう。
それが、自分の意味である。


B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。



2008年10月27日、考えた事。

現象としての私も、時空を渡るならば、過去の時点の阿頼耶識(arayasiki)の全ても、時空を渡るだろう。

阿頼耶識(arayasiki)が、過去から現在、そして未来へと、その人の頭の時空間を「 心 」として、伝達されるのだと思う。

伝達されるのは、「可能性」ではなくて、「 心 」という生々しい実体である。

あるいは、阿頼耶識(arayasiki)を末那識(manasiki)で結合し、関係させた私の「 意味 」かも知れない。

阿頼耶識(arayasiki)の全てが、意識となり、「光」となって、認識が成立する面に当たる時、「光」の干渉波が、現実面では、可能性を表現する「 幅 」として、同心円で広がっているかも知れない。

現実面での波は、私の考えが広がっていく過程の波であると同時に、私の「可能性」の空間的な表現かも知れない。
それは、「 心 」の広がりかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
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2008年10月26日

2008/10/26・私の思索(末那識(manasiki)とエネルギー)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

阿頼耶識(arayasiki)を、意識として論じているのは、「 瑜伽論(yugaron) 」であると思う。

興味を持っている人は、読んでください。
私は、意識を分析するのではなくて、その発生や仕組みについて、思索するのが好きだ。

私は、エネルギーの方向から、阿頼耶識(arayasiki)を考えたいと思う。

そこで、「可能性とエネルギー」について、記述した事を集約すると次のようになる。

2008年10月19日の記事。
初めて、私のブログを見る人は、同じタイトルばかりで、困惑しているのかも知れないので、少し、補足する。


@「意識は電磁波である」

これについては、私の基本的な考えである。

「 blog 内検索 」で「 自意識 」を入力して検索すれば、ある程度は理解する事が出来るだろう。

「 自意識 」については、ハイデガーの話の時、ヘーゲルの時間論を参考にして、デカルトの「われ思う、故にわれあり」に、相対論の「同時性」を加えて、意識を電磁波の一種だと規定した。

参考の記事を書いておく。
(自意識については、もっと以前から存在する。)

2008/9/13・私の空想(意識の座標軸)
2008/9/18・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/19・私の想像(意識の座標軸)
2008/9/20・私の想像(意識と座標軸)

私の考えが、一般と違うのは次の事である。

「人間は、生まれた時から、宇宙に匹敵する「時空間」を頭の中に持っている。全ての人類は同じ「時空間」を持って生まれる。これは、「アプリオリ」「先験的」に持って生まれる。「時間意識」と「空間意識」として、つまり「意識」として「時空間」を持っている。そして、景色を見ている眼を見る事が出来ないように、「時間」と「空間」が、直感の形式と言うだけで、規定する事が出来ない。時空間を持っているから、時空に関する物理学も理解する事が出来るし、「社会」に自分の「時空間」を表現する事が出来る。「時空間」は、神仏から与えられた能力であり、人間は創る事は出来ない。私は、「社会」が定義する地球の自転から生まれる「時間」とは違う主観的時間が人間は持っていて、その時間に気付く事が人間性の発揮に役立つと思う」


A「人の住む世界」

これは、認識が成立した「霊界」の世界である。
会話する時に、現実に見るのは相手の顔で、音声が飛び交うだけであり、相互に認識するのは、目には見えない世界だろうと思う。

B「可能性とエネルギー」

さて、エネルギーの話も、しなくてはならないだろう。
私は、理系の学生ではないので、詳しくは知らない。

まず、半分「 幽霊 」になるか、あるいは「守護霊」とかになって、自分の現実面を上から見て欲しい。

そこは、「人の住む世界」で、「霊的な世界」であり、下には、「現実面」が横たわっていると仮定する。

その「現実面」には、下の、過去の「現実面」から発せられた意識が「電磁波」となって、「現実面」に衝突して、波形を作っているだろう。

それは、電子波の干渉模様として、F.A.ウルフ氏が著した「量子の謎をとく」の174ページに掲載されている。

F.A.ウルフ氏は、「水溜りに小石が落ちるたびに、水の同心円のひだがたえずできた」(175ページ)と書いている。

私は、それを、過去からの意識という電磁波が、現実面で干渉した痕跡と解釈する。

同心円を描いて周囲に広がっていくのは、「意味」が、「思想」が「波動」となって社会に広がる様子だと解釈する。

つまり、意識が電磁波となって現実面に衝突して、意味という小石のような「塊」として残る。

現実面は、精神だから、「塊」の意味は、光波として広がる。

ちょうど、私が書いた記事が、ネットの力で、世界に広がるように。

それを、上から、座標軸の縦軸の上から、見ているのが、「幽霊」の私である。


これは、末那識(manasiki)の中の

エネルギーだと思う。





先日、無相庵の主人に、引用の許可を申し出たところ、寛大なご返事を頂きました。


どうぞ、ご自由にご引用下さい。
私も、多くの先輩方、祖師方から知識と智慧を頂いています。引用もさせて頂いています。
無相庵

ここに「無相庵」の中の「唯識の世界」のURL を掲載しますので、日本の人はクリックして、更に深くご研究してください。
http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html


この「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれているので、ご紹介します。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る


以上、引用を終わる。



私は、この考えに同意する。

無意識の行為で、人に喜ばれる行為をするのが理想である。



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2008年10月25日

2008/10/25・私の思索(阿頼耶識(arayasiki)とは何か)

先日、無相庵の主人に、引用の許可を申し出たところ、寛大なご返事を頂きました。


どうぞ、ご自由にご引用下さい。
私も、多くの先輩方、祖師方から知識と智慧を頂いています。引用もさせて頂いています。
無相庵

ここに「無相庵」の中の「唯識の世界」のURL を掲載しますので、日本の人はクリックして、更に深くご研究してください。

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html



この「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれているので、ご紹介します。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る



以下は、「無相庵〜仏教に学ぶ〜」の「唯識の世界」から抜粋しました。

「阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の行為を洩れなく記録し、溜め込んでいる心である」

「阿頼耶識(arayasiki)は、@私たちの、あらゆる行為(身→行動した事。口→口でしゃべった事。意→心で思った事)を溜め込む。……現行薫種子(gengyoukunsyuzi)。」

A溜め込んだものによって、人柄やその人の心境世界を決定する。……種子生現行(syuugisyougengyou)。

B凡夫において我執の対象として実体化され、執着される……末那識との関連で、盲目的に生きようとする意欲を出す源泉としての阿頼耶識(arayasiki)」

阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。

阿頼耶識(arayasiki)は、善と悪の、どちらでもない。
性善説も性悪説も、どちらの立場でもない。
善の種子も悪の種子も混在している。

生物としての本能(生存欲や生殖欲)も貯蔵している。
この本能そのものにも、善悪は無いが、縁により、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、場所や遭遇する状況により、犯罪も生み出す。

しかし、阿頼耶識(arayasiki)は、善で悪でもなく、これらの薫習(kunzyuu)によって、仏様の境涯になったり、悪者にもなったりする。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

末那識(manasiki)は、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子の有様により、変化する。

抜書きを終わります。

私は、「地球上で、常に行動を求められているのが人間だ」と言いました。

意識的行為だとか、無意識の行動だと言っても、如来様(nyoraisama)には無駄な事です。

如来様(nyoraisama)は、全てを知っておられるのです。

無意識の行為が、善行であるように、自分を変革する必要があります。

世界を変革する前に、自分には変革が必要か否かを問うべきでしょう。

私は、これから、今までの末那識(manasiki)に阿頼耶識(arayasiki)を加えて、相互に書こうと思っています。


Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 A | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする