2008年11月12日

2008/11/12・私の展開(意識は電磁波である)

Yahoo USA が、「私の悩み(意識は電磁波である)」の記事を登録しています。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxI5ExpJXwYAkY5XNyoA?p=%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E9%9B%BB%E7%A3%81%E6%B3%A2%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B&y=Search&fr=yfp-t-501&ei=UTF-8

私は、人類の歴史上で初めて「意識は電磁波である」と言う文句を作りました。

詳しい事は、別の記事に書いています。

何度も言いますが、赤ん坊に時間も空間も教育する必要がありません。

赤ん坊は、既に、知っているのです。

昼や夜、時刻を知らないだけです。

少し考えると、これ等は、社会の生活様式です。

知っていても知らなくても、人間として生きる事ができます。


私は、時間や空間を意識する事は、遺伝子の中に組み込まれていて、全ての人間が持つ力であると思うのに、人類が今まで考えた事も無かった事が不思議です。

私の欠点は、「意識は電磁波である」事を証明する事が出来ない所です。

私は、認識した事を、無意識のレベルで感じる事が、「意識は電磁波である」事の証拠とします。

無意識は阿頼耶識(arayasiki)の領域であり、認識した情(zyou)は、エネルギーに変わり、見る事が出来ない事も、その証拠としましょう。

これは、後日、話す「無明」の中の「形」の変化にも関連します。

次の話を、お楽しみください。

Poor thinking is as good as no thinking.


2015/1/30、私の現在の考え 5 意識は電磁波である。 を参照
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2008年11月11日

2008/11/11・私の展開(これまでの経過と現象について)

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

私は、仏教は好きですが、仏教の事を書いているのではありません。

仏教について知識を求める人は、他のブログをみてください。


これまでに考えた事。


@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。


F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。
H身体(2008/11/3 追加)
I意識の座標軸(主観的時間)は、無明であり、生命である。
J無明の中で「認識」は成立して、エネルギーになる。
K人間は、無明、つまり自我意識であり生きる意欲により、霊と魂に結ばれている。
L「精神」とは、阿頼耶識(arayasiki)である。


私が言う「現象」の意味は、「意識は電磁波である」と言う考えから出た言葉です。

「あの世」に対する「仮の世」とか「現象学の現象」とは違い、無明(私は涅槃と同じと思っています)の世界で成立していない、自分だけの考えを「現象の世界」と書いています。

意識の世界、つまり末那識(manasiki)の中での認識であり、本来のエネルギーとなっていません。

全て、自分を中心にして見て、自分の可能性を拡げるために、道具として利用する事だけ考える。

宇宙を知るのは自分であり、自分を考えないと宇宙は存在しない、と言う考えです。


「愛」が現象界に現れると「愛」という精神が「受肉」しているから「愛情」として現れる。

「愛」として差し出された物、「愛情」を、SEX の対象として見て、自分の欲望を満たすために計算する。

人を道具として見る考え。

現在、考えている、この私の考えも、現象としての私の考えです。

これが、人類の「精神」として認められないと、知識ではありません。

私の「精神」として私を慰め、私だけの実存の証として残すだけしか私はできません。

書いた物は、書いた人の文化として残るのは、誰でも同じです。

これまでの経過を書きました。

これから、どうすれば良いのか、私も知りません。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 06:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月10日

2008/11/10・私の展開(自我意識は悪者ではない)C

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

Yahoo USA が、私の記事を載せてくれました。
私の考えが、転覆すると思っているのでしょう。

私の展開(自我意識は悪者ではない)
   ↓
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkwRVchdJXSQB0AOl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%EF%BC%88%E8%87%AA%E6%88%91%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E6%82%AA%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%EF%BC%89&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私の考えに限界がありますので、少し Wikipedia から引用して考えます。


煩悩
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A9%E6%82%A9

煩悩の根源(人間の諸悪の根源)は貪欲(とんよく[1])・瞋恚(しんに・しんい)・愚痴(ぐち)の三つとされ、これをあわせて三毒と呼ぶ。三毒の中でも特に愚痴、すなわち物事の正しい道理を知らないこと、十二因縁の無明が、最も根本的なものである。
煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。この意味で、十二因縁中の「愛」は、ときに煩悩のうちでも根本的なものとされる(日常語の愛と意味が異なることを注意)。

貼り付け元

私の考え

私は、「意識は電磁波である」という立場です。

Wikipedia は、知識として書いていると思いますが、私の立場からは、「 自我意識 」は、これに反対します。

煩悩の根源は無明かも知れませんが、無明だから希望を持つ事が出来て、死に怯えずに生きる事ができると思います。



煩悩は、我執(自己中心の考え、それにもとづく事物への執着)から生ずる。

これは、私が言う「時間意識」と「空間意識」の中で、つまり認識が成立する意識の中で、現象として考える事を必要とされる中で、現象ではなくて「実体」と判断して、執着する態度が煩悩だと思います。

末那識(manasiki)で終わった認識で無明まで進んでいない認識だと思います。

それは、本来のエネルギーではなくて、自分に都合が良いエネルギーで、快楽という物でしょう。


仏教の「愛」の内容は知りませんが、私は、自分を正しく愛すると言う事を、仏教が、どのようにして伝えて来たのか知りません。

これは、私の無知です。

私は、現象として考える事を必要とされる中で、「愛」は、「 情(zyou) 」として現れると思います。

私の考えでは、末那識(manasiki)が「愛」を「情(zyou)」として、楽しむから、快楽と言う煩悩が生まれると思います。

これも、末那識(manasiki)で終わった認識で無明まで進んでいない認識だと思います。

それは、本来のエネルギーではなくて、自分に都合が良いエネルギーです。

つまり、規制するのが「愛」であるのに、「情(zyou)」として、追求を止めるのだと思います。

そうであれば、「精神」とは、阿頼耶識(arayasiki)であると言うのが結論です

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 20:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月09日

2008/11/9・私の展開(自我意識は悪者ではない)B

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


2008/11/7・考えた事。

私は、以下の座標軸で考えている。

@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。


F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。
H身体(2008/11/3 追加)
I意識の座標軸(主観的時間)は、無明であり、生命である。
J無明の中で「認識」は成立して、エネルギーになる。



Wikipwdia での解説は以下の通りです。

無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E


十二因縁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81


無明は、無知であり、迷いであるかも知れませんが、無明とは「生きる意欲」でもあります。

私が、今、想像している事は、「台風」の姿です。

日本に「台風」が来ますが、「台風の目」は、天気が良くて大気圏に抜けていますが、周囲は暴風雨です。

暴風雨の範囲が、「意識」の範囲で、「台風の目」が無明であると考えます。

大気圏を「霊」と考えて、意識を「魂」と考えます。

「魂」、つまり意識は死亡により消滅しますが、大気圏、つまり「霊」は消滅せず、次の「台風」、つまり「人間」を生みます。

古来、「波」が「自我」で「水」が「大我」と説明される事を、「台風」と「大気圏」にした考えです。

「台風」と「大気圏」を結ぶ物は、「台風の目」である無明です。

大気圏が存在する限り「霊」も存在し、「台風」が発生するように「魂」も発生し、「台風の目」である無明も発生すると考えます。

このように考えると、「魂」は消滅し個人の無明も消滅するが、「霊」は消滅しないという結論になります。


人間は、無明、つまり自我意識であり生きる意欲により、霊と魂に結ばれている。


これを、私のブログの結論とします。
posted by kandk55 at 04:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月07日

2008/11/7・私の展開(自我意識は悪者ではない)A

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


2008/11/7・考えた事。

私は、以下の座標軸で考えている。

@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。


F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。
H身体(2008/11/3 追加)
I意識の座標軸(主観的時間)は、無明であり、生命である。



Yahoo USA は、「私の展開(自我意識は悪者ではない)」を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklqeGxNJQgIAyJSl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%28%E8%87%AA%E6%88%91%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E6%82%AA%E8%80%85%E3%81%A7%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%84%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-100&fr2=sfp

私の小さな記事を紹介してくれた Yahoo USA に、大変、感謝します。

これは、世界中で私だけが考えた事で、特殊な考えで、無視されても不満はありません。

反対されても、私は、この方針を進むだけです。



私は、この記事で、絶えず進行する「無明」の座標軸との交点で、「認識」が成立し、それがエネルギーに変換される事を主張しました。

「認識」の成立を「意識」が知る事は出来ない。

認識した瞬間に、エネルギーに変換され、次の意識の段階に進むからです。

ブログの方針として、私は「自我意識」を持って生きていますが、無明の中で生活しています。

そして、「私の意識は電磁波」であるが、神に近づくのではなくて、自分が生きるためのエネルギーを収集している事になります。

言い訳ですが、「意識は光である」と、私は主張しません。

電磁波というのは、「物質波」だと思っているのです。

「光」と「物質波」は同じかも知れませんが、人間は太陽の光のような自然の「光」ではなくて、身体から発する「物質波」だと思うのです。

この違いは、物理学の量子力学の本を読んで、考えました。

神の「光」と、人間の「光」は、後日、書きます。

私は、二つは関係は存在すると思いますが、性質は違うと思うのです。

だから、「意識」したとしても、「光」によって照らされて明るくなったのではありません。
(私にとっては、明るくなります)

「物質波」が、「光」になった時、人類の闇は無くなるのだと思います。



話は、脱線してしまいましたが、私の考えは、「同心円」は、意識の軸に近いほど現実的で生き生きとしていますが、「暗い領域」であり、意識の軸から遠いほど、「明るい」、つまり認識が簡単だと思います。

明るく遠い領域でも暗い領域でも、「認識」の成立により、エネルギーに変換されますが、近いほど、「無明」の領域に近づき、現実的で個人的だと思います。

そして、六道に向かいます。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 02:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月06日

2008/11/6・私の展開(自我意識は悪者ではない)

私は、以下の座標軸で考えている。

@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。


F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。
H身体(2008/11/3 追加)

これまでの考え。

阿頼耶識(arayasiki)は、意識の束ですから、無数の光を発するかもしれませんが、私の「同心円の模様」は、「 五感 」と六感の「意識 」が作る模様であると思います。

「五感」と六感の「意識」という「穴」を通して、阿頼耶識(arayasiki)からの意識の「光」が干渉するのです。

その干渉波が、私の現実面で、「可能性」や「 心 」の所在になります。

「五感」に「意識」を加えた六感から得る「 光 」の干渉波が、「自意識」という末那識(manasiki)を中心にした「同心円」なのです。


その中心は、「自己意識」あるいは「自意識」の末那識(manasiki)ですから、それが、私という個人を、肉体的にも精神的にも、限定するものだと思います。

……(省略)……

2008/11/6、考えた事。

意識の座標軸は、同心円の中心であり、阿頼耶識(arayasiki)の中の「無明」である。

Wikipwdia での解説は以下の通りです。

無明

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E


十二因縁
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E4%BA%8C%E5%9B%A0%E7%B8%81









私の考え

独り言です……

人は無明から生まれ、死んで無明に帰ります。

だから、誕生する前か、死後の世界が無明と思っていました。

しかし、私は、「自我意識」、「自意識」の根本の「 意識の座標軸 」が、「無明」であり、「生命」だろうと思います。

無明は、「 今 」の中で活躍しているのです。

「意識の座標軸」に近い同心円上に、「本能」という意識があるのだろうと思います。

それは、自分には最も身近で、正直な意識で安心します。

それは、「生命」を満足させるから安心するのです。

その「生命」に近い同心円は、「暗い」のです。

時間の意識が発生する所であり、消えて行く所であり、空間の意識が発生し、消えて行く所です。

発生する時や消えて行く時に、意識されるだけで、認識が成立する時、実体があると意識されるが、すぐに消えて行く現象になってしまうと思います。

「自我意識」が消えた「無明」の中で「認識」が成立するのであり、特別に、自我意識を消さなくても、認識が成立すれば、消えると思います。

自我意識は、悪者ではない。

自我意識を、人為的に消すのは間違いだと思う。

成立した認識は、「意識」では無い物、例えば、エネルギーに変わってしまうと思います。

そして、そのエネルギーが、新たな電磁波を生むのです。

無明から意識が生まれて、無明で意識が消滅する事は、人間の生死と同じだと思う。

これは、Every miller draws water to his own mill.
しかし、次に進むための考えなのです。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 19:31| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/11/7・私の展開(心と六道 @)

私は、この制約された私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。


2008/11/5・考えた事

自分の阿頼耶識(arayasiki)を運ぶ「道」の検討です。

末那識(manasiki)の構造の選択です。

私は、出発点と終着点を決める事が出来ます。

それは、一つの電磁波という波を選んだ事だと思います。

出発点と到着点を変更するならば、別の道、別の電磁波を選ぶ事になると思います。

その「道」を進んで行く事、つまり行為をする事に喜びを感じます。

(ここが、Every miller draws water to his own mill.です)



2008/11/6・考えた事
一般的に、上記の事が適用されると仮定します。

「人は自由に、末那識(manasiki)により時間の始めと終わりを設定して、その間の時空間を伝わる波長の上で行為した結果の阿頼耶識(arayasiki)を享受する事が出来る」と仮定します。

これは、人間だけが出来る能力であり、素晴らしいと思いますが、その反面、自由である事の危険性もあると思います。

始めと終わりを区切って、ある行為により得られた阿頼耶識(arayasiki)に満足したと仮定します。

人間は、一度楽しむと、それを続ける傾向があると思います。

楽しむと、その波長の行為を好む事を続ける事になりますが、その波長が、限られていたら、どんな結果になるでしょう?

能力とか、エネルギーなどによる可能性の制約です。

これを人生という長い期間で適用します。

私は、人生を送る中で行為する事が出来る波長の道、可能性の道を、「六道」と考えます。


六道とは、仏教で教える、@天道A人間道B修羅道C畜生道D餓鬼道E地獄道です。


六道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93



私は、六道は、自分が末那識(manasiki)で選んだ自分の楽しい実体の生活様式だと思います。

この可能性が、如来様(nyoraisama)によって決定された物が、人間とか動物という姿になっていると思います。

動物は、可能性を変える事は出来ません。

人間は、素晴らしい事に、末那識(manasiki)を変える事により、この可能性の道を変える事が出来ると思います。

六道が輪廻するとも言います。

次の記事で、それは何かを、私の解釈で書きます。

興味を持っている人は、自分で調べると面白いでしょう。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 03:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年11月05日

2008/11/5・私の展開( 心 )C

私は、仏教の話が好きだが、僧侶ではない。
私は、物理の話をするが、理系の卒業生でもない。
私は、哲学の話をするが、哲学を学んでいない。
私は、法律科の卒業生である。

これは、世界中で私だけが考えているのです。
無視されても不満はありません。

時間も空間も、人間が区切れるなんて出来ません。

末那識(manasiki)があるから、区切れるのだと思います。

現実は、末那識(manasiki)により、局所化しないと判断する事が出来ないと思います。

今度は、時間意識の中の末那識(manasiki)です。



私の考えは、普通です。

これから、10万円を稼ごうと決心します。

そして、時間を決めて、持っている株式などのエネルギーを注ぎます。

短期と長期の目標が決まるでしょう。
短期は、得る喜びは大きいが、危険な方法でしょう。

長期は、安全な方法ですが、喜びが得られないかも知れない不安はあります。

安心とか満足というのは、過去の阿頼耶識(arayasiki)から次の阿頼耶識(arayasiki)へ電磁波の構造で進んだ時に得られる一時の達成感だと思います。

楽しそうな顔の人を見る時、あるいはエネルギーを投入して満足に達した顔を見る時、私が自分の行為の参考にするために、その人が、どのような行為をしたから満足したのか、理由を知りたいと思います。

出来事は一度だけであり、同じ出来事は繰り返しませんから、同じ行為でも、新たな行為です。

その人が行為を決めた状況、つまり阿頼耶識(arayasiki)を末那識(manasiki)が決めた状況と今が同じか否かを判断します。

「時間」ではなくて、「状況」の判断でしょう。

それは、エネルギーと可能性の検討です。

自分の阿頼耶識(arayasiki)を運ぶ「道」の検討です。

末那識(manasiki)の構造の選択です。

私は、出発点と終着点を決める事が出来ます。

それは、一つの電磁波という波を選んだ事だと思います。

出発点と到着点を変更するならば、別の道、別の電磁波を選ぶ事になると思います。

その「道」を進んで行く事、つまり行為をする事に喜びを感じます。

(ここが、Every miller draws water to his own mill.です)


この点から、私、独自の考えが出発します。

後日、書きます。
posted by kandk55 at 20:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言  B | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/11/5・私の展開( 心 )B

2008/11/5、18時35分、現在のアクセス状況です。

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8 2008/11/4・私の展開( 心 )@  
9 金曜日

セックスに対する閲覧が多いですが、それは後日のお楽しみとして残しましょう。

この中で、「 心 」の記事に対する閲覧が、5位と8位に存在します。

これを、私の「 kandk 劇場 」への応援と解釈して、「 心 」のBを書きます。

これまでは、空間的に「 心 」を求めると、自分の中だけに存在すると思っても、自分の身体から溢れ出ていると書きました。

現実に、他人の頭脳で考えている事を知る事は出来ません。

しかし、それは、そのように考えて、区切っているのは、私の意識、つまり(末那識(manasiki)なのです。

如来様(nyoraisama)の「宇宙」と同じ構成物の私の身体が、私という塊で区切られると考えるのは、早過ぎる結論だと思います。

「神」か「宇宙人」が見ると、私の身体の輪郭を区別する事が出来ないかも知れない。

エネルギーや物質に途切れは無いかも知れない。

E=MC2と言う方程式も存在します。

地球は一つかも知れないが、国境などは、本来は、存在しないと思うし、自分が孤立していると考えるより、事物と関連していると考える方が楽しいです。

これは、「空間意識」の中の末那識(manasiki)であり、次に「時間意識」の中の末那識(manasiki)を書くことにします。

少し、休憩します。

Every miller draws water to his own mill.
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2008年11月04日

2008/11/4・私の展開( 心 )A

追加します。

これも、世界で私だけの考えです。

「認識と人の住む世界」でも書きましたが、認識が成立する現実面を上から見ると仮定します。

現実面とは、末那識(manasiki)が、「実体」と意識させる範囲の阿頼耶識(arayasiki)です。

同心円状の輪が広がるのは、下から、つまり過去から来た感覚の光(意識)の干渉波だと思います。

中心が、情(zyou)や阿頼耶識(arayasiki)を運ぶ生命の光(意識)が衝突した跡で、その周りに五感が、感覚可能性として、輪を作ると思います。

「身体」に近い感覚から、順番に広がると思います。

感覚可能性というのは、身体の外部から、エネルギーを摂取する距離かも知れません。

この認識した現実面からエネルギーを得て、更に上へと、末那識(manasiki)の組織に乗って、阿頼耶識(arayasiki)が伝わると思います。

その一つのサイクルが、新陳代謝により生死する細胞のサイクルかも知れません。

死亡は、人にとっては一大事ですが、細胞は常に生死を繰り返していて、これ以上、生まれないのが死亡だと思います。

その意味で、涅槃と現実を往復すると書きました。


Every miller draws water to his own mill.
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2008/11/4・私の展開( 心 )@

Yahoo USA が、「私の思索(これまでの経過・身体)」を登録してくれた。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklcEFhBJuhgBFWWl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E6%80%9D%E7%B4%A2%28%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E9%81%8E%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

大変に嬉しいが、米国に私の小さなブログを紹介して頂いた感謝の印として、主題の「 心 」について書く事にする。

展開だから、「これまでの経過」の上で、世界で私だけの考えを書く。

これは、間違いかも知れないから、充分に注意してください。



私は、「 心 」を意識の総体と考えている。

その存在が可能な範囲は、「これまでの経過」で書いたように、如来様(nyoraisama)が作った感覚が、阿頼耶識(arayasiki)を把握する区域だろう。

その中で、末那識(manasiki)、つまり「自我意識」による把握が、狭い意味の「 心 」だろう。

それは、人によっては、身体の中に存在して、人には見えない物で自分だけが知っていると思うかも知れない。

しかし、私のブログの方針では、理解した意識は阿頼耶識(arayasiki)の内容を持っている。

理解した意識は、阿頼耶識(arayasiki)を引き摺っている。
阿頼耶識(arayasiki)の延長上に「 今 」という現実があると思う。
それは、祖先の先頭にいる事でもある。

(理解は、不安の解消であり、安心であり、涅槃だから、人間は生きている間は、涅槃と現実を往復している、つまり常に生死を繰り返しているかも知れない。)

私のブログの場合、「 心 」は、阿頼耶識(arayasiki)を含むから、身体の中だけではない。

後ろを見て御覧なさい。
影があるでしょう?
足跡があるでしょう?
それも、「 心 」なのです。

光、つまり「意識」に当たる裏側には、影が出来ます。

意識する事は、意識していない物への語りかけ、意識への誘いなのです。

「身体」自体が、「 心 」の姿かも知れません。
(これは、後で書きます)

それどろか、私という人間が経験した全ての歴史が、「 心 」だと思います。

「 心 」は、末那識(manasiki)から与えられた実体と思う意識だと思います。

Every miller draws water to his own mill.
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