2008年12月19日

2008/12/19・私の解釈(輪廻転生)9

これまでの考え。

精神の発生が「無明」で、何処へ消滅するのかも「無明」だから、地球は、「ガイア的」な一つの生命体と考える。

全ての生命は、生命として平等であり、死後は「無明」という通路から、一つの生命体に集合する。

そして、人間の誕生と同時に、「無明」から精子となって、女性の子宮に到達して、生まれると解釈する。

そして、生まれた子は、身体も精神も、全て違う。
言葉を変えると、差別されている。

生命の一切が平等であり、それと同時に、全てが如来様(nyoraisama)によって、差別されている。



私の解釈は、この循環の中で、如来様(nyoraisama)により、誕生する動物の親が決められる所が、他の考えと違う。

精神は一つの生命体に集まるが、人間の誕生と同時に、「好みの」動物の精子となって、子宮に到達して、生まれると解釈する。



一方、「転生(tensyou)」の解釈は、「生まれ変わり」とする。

肉体は、全く別人や別の動物として、生まれ変わる。

ただし、精神は、「転生」していない。

記憶として残らないのだが、「親を選んだ人」の思想や精神は、何処かに付着していると解釈する。

精神や思想は、生きている人間が、生きている間に、「転生」させない場合は、引き継がれると解釈する。



人が「六道輪廻」する姿に、「転生」しない意識が後に付着するのだと解釈する。



2008/12/19・考えた事。

意識を「転生(tensyou)」させたのは、「願(gan)」を立てた後、それを成就して仏になった阿弥陀仏が一つの例だろう。

「願(gan)」というのは、「執念」だと私は解釈している。

「思い」と言っても良いだろうが、意識的に、一心に何かを願う事だろう。

ちょうど、宇宙の「真空」に、大きなエネルギーを注いだら電子が飛び出るように、「無」から「物質」が飛び出るのが、「意識の生まれ変わり」だろう。

何かが、生まれて来れば、生まれ変わりと言う事が出来る。


そして、念仏を唱えるのは、阿弥陀仏の名を唱えて「浄土」に行くのではなく、意識が転生した仏に、この世で、意識が生まれ変わるのを願うのが、目的だろうと思う。



私の考えが、仏教的では無いのは、その所かも知れない。

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2008年12月14日

2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)8

これが、2008/12/14・19時20分、現在のアクセス状況である。


1 2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)7  
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3 2oo8/12/14・私の解釈(輪廻転生)5  
4 2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)6
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6 2008/12/13・私の解釈(輪廻転生)4  
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これは、少し変な状態です。

少し調べたところ、Yahoo USA で、私の記事が登録されていました。

アメリカの人が、私のブログを見ているとは考えられないのですが、少し嬉しい気持ちです。

なぜなら、Yahoo USA に登録される事は、世界に発信する事なのですから。

私は、僧侶ではありませんので、正しい知識を書いているのではなく、自分が老人だから、早めに勉強をするつもりで書いています。

仏教の知識を求める人は、他のブログを見てください。

では、繰り返しになりますが、私の考えを書きます。



私は、「輪廻」は循環であり、肉体は宇宙の塵から出来ており、死ぬと肉体は火葬され自然界の一部に戻ると思います。

この循環は、仏陀でもキリストでも、肉体は循環しただろうし、今、自分の目の前の空気の中に、火葬された空気が存在するかも知れない。

どんな達人でも、この循環は、避けられないと思う。

それは、死が避けられないと同じ事です。

ただ、人間は、「精神」を持っている。

それが、宗教的な考えに向かうと思う。

全部が消滅するという考えも存在するだろう。


しかし、私の解釈を書きます。

精神の発生が「無明」で、何処へ消滅するのかも「無明」だから、地球は、「ガイア的」な一つの生命体と考える。

全ての生命は、生命として平等であり、死後は「無明」という通路から、一つの生命体に集合する。

そして、人間の誕生と同時に、「無明」から精子となって、女性の子宮に到達して、生まれると解釈する。

そして、生まれた子は、身体も精神も、全て違う。
言葉を変えると、差別されている。

生命の一切が平等であり、それと同時に、全てが如来様(nyoraisama)によって、差別されている。


私は、「輪廻」を循環として考え、ここまでは、世界に是認される考えだと思う。



私の解釈は、この循環の中で、如来様(nyoraisama)により、誕生する動物の親が決められる所が、他の考えと違う。

精神は一つの生命体に集まるが、人間の誕生と同時に、「好みの」動物の精子となって、子宮に到達して、生まれると解釈する。


生まれた子は、身体も精神も、全て違う。

言葉を変えると、如来様(nyoraisama)により、差別されている。

親が子供を選ぶ事は出来ないが、子は、親を選んで生まれて来ると考える。

そうであるなら、子は親を選んだのであるから、悪く言えば、親の面倒を見るのは仕方がない事かも知れない。

また、親も、「私を選んで生まれて来た子だ」と、喜ぶのが本当の姿で、児童虐待などは、全く間違った育て方だと思う。

これには、賛否両論がある。



一方、「転生(tensyou)」の解釈は、「生まれ変わり」とする。

肉体は、全く別人や別の動物として、生まれ変わる。

ただし、精神は、「転生」していない。

記憶として残らないのだが、「親を選んだ人」の思想や精神は、何処かに付着していると解釈する。

精神や思想は、生きている人間が、生きている間に、「転生」させない場合は、引き継がれると解釈する。

後日、書く予定だが、「執念」が悪い。

その執念が、生まれた子に影響すると思っている。


私は、以前、大石内蔵助の辞世の句を紹介したが、あのように、自分の課題を遂行したという満足感を持って死に向かうのが好きだ。

今日、12月14日は、「忠臣蔵」の討ち入りの日である。

供養のために、再掲載する。

あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし


極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

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2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)7

これが、2008/12/14、14時45分、現在のアクセス状況です。

1 2oo8/12/14・私の解釈(輪廻転生)5  
2 2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)6  
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5 2008/12/13・私の解釈(輪廻転生)4  
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9 2008/9/5・ SEX 画像  
10 2008/12/12・メモリー増設の過程

輪廻転生についての記事が上位ですので、もう少し私の解釈を書きます。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の思いつきですから、無視して頂いても結構です。

私は、「意識は電磁波である」という立場から、少し書きます。

以前書きましたように、私の頭の中には、始点と終点を同じ円周上にある定在波があり、それが、私の個人的な「六道」を作っています。

一方では、世の中の人の意識の中に「六道」の意識があり、如意輪観音菩薩が居て、私を救って頂けると思っています。

世間の「六道」は、私が生まれて死ぬまでの、人生の一つの長い定在波が存在する、と仮定します。

それは、地球が太陽の周りを自転して一回りするように(自転の一回りが私個人の定在波です)、人生で一回りするかも知れません。

その軌道の種類が、人には「六道」に見えるのです。


私の個人的な「六道」は、心がけ次第で脱出する事が出来ますが、人生の「六道」は、軌道を如意輪観音菩薩に変えて頂かないと脱出する事は出来ません。

そのためには、私の欲望をコントロールする事が必要だろうと思います。

もしも、私に前世が存在するならば、私の誕生するまでの、誰かの「六道」の軌道だと思います。

同じ理由で、私の死後も、私の定在波が残り、来世に影響すると思います。


その意味で、私の意識を、生きている間に「転生」して、別の「六道」の安定した定常波に乗せたいと思います。

このように、私は、たぶん「六道輪廻」するでしょう。

そして、私の「意識は電磁波であり、定在波である」事を考える人に生まれ変わると信じます。

私の考えは、二度も三度も生まれ変わって、考えなくてはならない考えだと思います。

その理由は、こんな考えをする人はいないからです。

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2008/12/14・私の解釈(輪廻転生)6

私は、「私の解釈(輪廻転生)5で、次のように書いた。

個人と如意輪観音菩薩が、キャッチボールをするのだが、「現象」の世界、「心霊」の世界で、相手(私)の苦を抜いて利益となることが、如意輪観音菩薩が「転生(tensyou)」する事であり、菩薩の願いなのだと思う。

それは、私のために「転生」するのではなくて、菩薩が自分の願いを叶える行為だと思う。

資本主義社会でも社会主義社会でも、一般に、他人に利益を与える事は無い。

「現象」の世界では、他人を「道具」にして、自分の可能性を求める。

「現象」の世界では、他人の苦を抜いて、相手に利益を与えるのは、相手のためではなく、自分の意識が「転生」するために、必要なのだと解釈する。

私は、慈悲は、人間の行為ではなくて、菩薩の行為だと思う。

2008/12/14・考えた事

慈悲は、菩薩の境地の人が可能な行為だと考えるが、放棄してはならない。

私は、意識の「転生」のために、何かの行為をしなければならない。

生きている間に、意識の「転生」をしなければならない。

パソコンならば、買い換えて、グレードアップすれば解決するだろうが、私の頭を買い換える事は出来ない。

私は、「意識は電磁波である」という考え方を進めてゆく事が、「転生」になるだろうと思っている。

無明に「光」を当てる事、つまり無意識から意識を取り出す事を試みる必要がある。

「六道」の苦の中から、如意輪観音菩薩の救いを求める時に、「我欲」が邪魔をすると思う。

私が可能なのは、この「我欲」をコントロールする程度の行為である。

次に考えているのは、「無明」の是認と欲望の抑制であり、これによって、少しは煩悩が少なくなるかも知れない。

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2oo8/12/14・私の解釈(輪廻転生)5

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

これが、2008/12/10の結論である。

身体は、宇宙の物質から発生するから、形を変えて、生まれ変わるが、思想や観念は、循環する事は出来るが、(つまり「輪廻」は可能だが)、「生まれ変わる事」(つまり「転生」する事)が出来ないと解釈する。

意識が「転生」するのは、人間の意識の中だけであると解釈する。

しかも、目覚めている「この世」で、意識は「転生」すると思う。




2008/12/13、考えた事。

世間の人は、死後の「六道輪廻」や死後の身体について心配するかも知れない。

それは、宇宙の塵であり、如来様(nyoraisama)に委託すれば、何に「輪廻転生」するか知らないが、形が在る物に「生まれ変わる」だろう。

形が崩れると、また違う形に生まれ変わるから、心配しなくても良い。

その身体を心配するのではなく、「輪廻転生」をしない、自分の「思想」や「意識」や「 心 」を、自分が生きている間に、「転生」させる事を考えなくてはならない。

思想や意識の「転生」とは何か?

それは、神により「造られた物」という制限(自分である事)を超える事である

生きている間に、自分の利益を考える事は、自然の事である。

生きている間に、他人の気持ちになって、他人の利益を考えた行為をする事が、「転生」したと、私は解釈する。


2008/12/14・考えた事。

「転生(tensyou)」を「生まれ変わる」と解釈する。

私は、「意識は電磁波である」という記事の中で、この世は、「現象」の世界だと書いた。

私は、この「現象」の世界の中に、「心霊」の世界が存在する事を、「幽霊」になった自分という言葉で表現した。

「空間意識」が「現象の世界」で、「時間意識」は精神的世界なので、「心霊」の世界だと解釈する。

また、「如意輪観音菩薩」の記事で、個人の「六道」が個人の定在波(パソコンのCPU の周波数)によって決まり、「如意輪観音菩薩」は、世間の「六道」の意識の中に存在すると書いた。

個人と如意輪観音菩薩が、キャッチボールをするのだが、「現象」の世界、「心霊」の世界で、相手(私)の苦を抜いて利益となることが、如意輪観音菩薩が「転生(tensyou)」する事であり、菩薩の願いなのだと思う。

それは、私のために「転生」するのではなくて、菩薩が自分の願いを叶える行為だと思う。

資本主義社会でも社会主義社会でも、一般に、他人に利益を与える事は無い。

「現象」の世界では、他人を「道具」にして、自分の可能性を求める。

「現象」の世界では、他人の苦を抜いて、相手に利益を与えるのは、相手のためではなく、自分の意識が「転生」するために、必要なのだと解釈する。

私は、慈悲は、人間の行為ではなくて、菩薩の行為だと思う。

慈悲 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2


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2008年12月13日

2008/12/13・私の解釈(輪廻転生)4

これが、2008/12/10の結論である。

身体は、宇宙の物質から発生するから、形を変えて、生まれ変わるが、思想や観念は、循環する事は出来るが、(つまり「輪廻」は可能だが)、「生まれ変わる事」(つまり「転生」する事)が出来ないと解釈する。

意識が「転生」するのは、人間の意識の中だけであると解釈する。

しかも、目覚めている「この世」で、意識は「転生」すると思う。




2008/12/13、考えた事。

世間の人は、死後の「六道輪廻」や死後の身体について心配するかも知れない。

それは、宇宙の塵であり、如来様(nyoraisama)に委託すれば、何に「輪廻転生」するか知らないが、形が在る物に「生まれ変わる」だろう。

形が崩れると、また違う形に生まれ変わるから、心配しなくても良い。

その身体を心配するのではなく、「輪廻転生」をしない、自分の「思想」や「意識」や「 心 」を、自分が生きている間に、「転生」させる事を考えなくてはならない。

思想や意識の「転生」とは何か?

それは、神により「造られた物」という制限

(自分である事)

を超える事である。


生きている間に、自分の利益を考える事は、自然の事である。

生きている間に、他人の気持ちになって、他人の利益を考えた行為をする事が、「転生」したと、私は解釈する。

自分には無かった思想や考えを受け入れる。

真理は、逆説となる。

造られた物である事を超えるとは、自分が「他人」になる事だろう。


これは、珍しい事ではない。

例えば、SEX で、「いく」とか「Com」とか言って、失神する事がある。

それは、自分を失う事であり、SEX の部門で「転生」したと解釈する。

思想の「転生」で無いのが、残念である。

思想は、「神の啓示」などと言って、生きていながら「生まれ変わる」のが、「転生」であると思う。

これは、他人が「転生」させてくれるのでは無い。


SEX は、異性が「転生」させてくれるかも知れないが、思想は、自分の手で「転生」させなければ、あの世まで、あなたを追いかけて行くだろう


SEX の事ばかり考えていると、「六道輪廻」して、犬や猫や馬や牛などの動物に生まれ変わるかも知れない。

繰り返して書くと、以下のようになる。

意識が「転生」するのは、人間の意識の中だけであると解釈する。

しかも、目覚めている「この世」で、意識は「転生」すると思う。


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2008年12月10日

2008/12/10・私の解釈(輪廻転生)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、「輪廻」は、「意識の循環」であると解釈し、「転生」とは、意識を持つ生物に「生まれ変わる」と解釈する。

もちろん、仏教ではない。

「輪廻」に例外は無い。

「悟った者」も「畜生」も、同じく「無明」という通路を通り、途中で如来様(nyoraisama)により、他の生き物に「生まれ変わる」と解釈する。

仏陀もキリストも、この世に「輪廻転生」しているとう考えだ。

地球の大気が循環するように、「意識」も循環すると思う。

「条件」が揃えば、大気から「台風」が発生するように、「縁」により、他の動物の無明を通って意識は循環すると思う。

宇宙の物質で出来ている生物には、「輪廻」に例外は無い。

身体は、宇宙の物質から発生するから、形を変えて、生まれ変わるが、思想や観念は、循環する事は出来るが、(つまり「輪廻」は可能だが)、「生まれ変わる事」(つまり「転生」する事)が出来ないと解釈する。

意識が「転生」するのは、人間の意識の中だけであると解釈する。

しかも、目覚めている「この世」で、意識は「転生」すると思う。


この「転生」が、悟る事かも知れない。

生き物は、「無明」を持っていて、地球は「ガイア的」に一つの生命体で、全ての根拠となる「無明」に結びついている。

その意味で、生命は一つで(つまり全てが平等で)、生物は、全て相違する(つまり全てが差別されている)。

同じ生物は、一つも無く、全ての生物が、差別されている。

それが個性だ。

その中心が如来様(nyoraisama)だと信じている。



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2008年12月09日

2008/12/9・私の解釈(輪廻転生)2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

先日、紹介したURL を見ると、「輪廻転生」を信じる人たちの記事を発見した。


「ダライ・ラマ法王と転生探し」より引用

http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_reincarnation.html

チベット仏教の教えによれば、すべての生きとし生けるものは輪廻転生すると考えられている。輪廻転生とは、一時的に肉体は滅びても、魂は滅びることなく永遠に継続することである。我々のような一般人は、今度死んだら次も今と同じように人間に生まれ変わるとは限らない。我々が行ってきた行為の良し悪しによって、六道輪廻(神・人間・非神・地獄・餓鬼・畜生)のいずれかの世界に生まれ変わらなければならないのである。例えば現在、人間に生まれていても、次の生は昆虫・動物・鳥などの形に生まれ変わるかもしれない。しかし、悟りを開いた一部の菩薩は、次も人間に生まれ変わり、すべての生きとし生けるものの為に働き続けると信じられている。ダライ・ラマ法王もその一人である。ダライ・ラマ法王は観音菩薩の化身であり、チベットの人々を救済するために生まれ変わったとチベットの人々は信じている。

(以上、引用を終わる)



2008/12/9・考えた事。



「輪廻転生」や「六道輪廻」を信じる人は、清らかな生活を正しく生きる事で、あの世の素晴らしい人生を想い、善行を積み重ねるだろう。

それは、目の前の財貨に執着しない効果を与えたり、自分以外の動物を虐待しない「 心 」の安定をもたらすだろう。

しかし、私は、この昔からの「輪廻転生」とは違った考えを持っている。

それは、昔からの「輪廻転生」の幅を更に広げようという考えである。

「個人」や「国家」や「領土」など、空間を自分に帰属させる事は、末那識(manasiki)の働きであり、これを捨てて、「無我」の状態にして、「輪廻転生」を是認しようという考えである。

私は、@如来様(nyoraisama)と自分で、自分が宇宙の構成物であるが、精神は、何処から来て、私という実感ある身体を作ったのか、無知である。

私が死ねば、宇宙の構成物と精神に別れるだろうが、そのそれぞれに、「保存」の法則を考えるのだ。

私の死後、火葬されて、肉体は大気に戻り、わずかな骨と灰が、大地に戻るだろう。

精神は、「ブラック・ホール」が「光」を吸い込むように、暗黒の中に吸い込まれるか、大気に発散するだろう。

物質は物質へ帰り循環する。
精神は精神へと、故郷へ帰って循環する。

これ等の循環から、「輪廻転生」を考える。

死後の世界は、私も世界中の人も知らないから、好き勝手に書くことにする。

大気に散った肉と、大地に散った骨や灰を集めて、役所の機構改革のように、精神が形を作った時、「誕生」と呼ぶ。

私は、地球の一つの生命体を如来様(nyoraisama)の一部と考える。

精神は、人間だけではない。

他の動物にも精神は存在するだろうから、死後の私は、他の動物になるかも知れない。

生命の「ブラック・ホール」に吸い込まれて、一つの生命体になり、その後、如来様(nyoraisama)により、別の生き物として「誕生」する事を考える。

物質も精神も、ちょうど大気が地球から離れないように、地球を囲んで、「保存の法則」があるだろう。

以前、量子力学で、原子の間でも「エネルギー保存」の法則が成立している事が実証された。

人間も物質であるから、「エネルギー保存の法則」は存在するかも知れない。

これは、人間が宗教的に「無我」であっても「無我」でなくても従う、自然界の循環であり、「宇宙を我が物とした大我」に目覚めた人も、このような自然の循環から逃げられない。

つまり、「無我」であっても、「無我」でなくても、一つの生命体の中の循環で、「輪廻転生」する。

「無我」を固執するのは、「無我」では無いとも考える。

現代でも、宇宙のブラック・ホールや「暗黒物質」について不明であるのに、「宇宙を我が物」にする事は、その人の「主観」であり、それは不可能だ。

出来る事は、世界は一つの生命体である事を自覚する事だろう。

「ガイア的」な世界観を持つ事は可能だろう。


意識が電磁波であり、地球の地磁気と生命体の意識が関係するならば、人は皆、地球が存在する限り、「永遠の生命」を持っている事になる。

そして、生き物の全てが、「輪廻転生」する。


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2008年12月08日

2008/12/8・私の解釈(ブログの方針)

これが、18時40分現在のアクセス状況である。

1 2008/12/8・私の解釈(輪廻転生)1  
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8 2008/9/5・ SEX 画像  
9 アーカイブ:2008年1月-4  
10 FOAF  
11 2008/11/7・パソコンのリカバリーA  
12 2008/12/6・私の解釈(六道)Z

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今日の記事を閲覧して頂き、感謝します。
ここで、「ブログの方針」について書きます。

「六道」について、方針も書かずに記事を書きましたが、これから、「輪廻転生」に進む前に書いておきます。


私の不満は、私が無知であるためだと思うが、日本の仏教で、「 光 」という言葉があるが、その構造について書いた記事を知らないのです。

だから、私は、「意識は電磁波である」という方針で、「光」を「意識」に置き換えて、記事を書いています。

「輪廻転生」も、「意識は電磁波である」という立場で書くので、見たくない人は、無視して貰って結構です。

今、考えている結論は、「輪廻転生」も「六道輪廻」も、宗教的な考えである事です。

信じても、信じなくても、死にます。

そして、「輪廻転生」や「六道輪廻」を信じるならば、善行を積み、清らかな生活をすれば、今度、生まれ変わる時は、素晴らしい人生になるだろうと安心します。

この「安心」する事が目的ですので、「意識的な安心」でも良いと思います。

信じなくても、意識的に安心すれば、安らかな死を迎える事が出来ます。

私の「意識は電磁波である」として、仏教で「光」と書いてある箇所は「意識」を当てはめるのは、仏教ではないでしょう。

私が求めるのは、「安心」なのです。

ですから、私が書く「輪廻転生」は、仏教界も参考にしながら、自分の考えで書きます。

誰かに言われてブログを書くのでも無いし、真実を求めて書くブログでもありません。

ただ、納得する事が出来る「認識論」を求めているのです。



かって、大石内蔵助が、辞世の句として、


あら楽や 思ひははるる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし

(浅野内匠頭の墓に向かっての辞世の句)

極楽の 道はひとすぢ 君ともに 阿弥陀をそへて 四十八人

(辞世の句)

この心境になって、死を迎えるのが、今の目的です。

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2008/12/8・私の解釈(輪廻転生)1

私は、200/12/6に、次の記事を書いた。


私の考えでは、個人は、世間の意識に存在する「六道」の世界に対応して、それぞれの道に同調する受け手の「 心 」を持っている。

個人は、一つの身体で、六個の受け手の「 心 」を持っている事になる。

個人が六個の惑星を持つと考えたが、想像する事が出来なかった。

そこで、私は、この受け手を、「手(hand)」であると、想像して、六個の世界に伸びた手を持つ物を探した。


「一面六臂(ピ)」で検索した。

つまり、一つの顔、胴体を持って、六個の手(hand)を持つという意味で検索した。

すると、「六道」の救済菩薩の一人の「如意輪観音菩薩」が、「一面六臂(ピ)」である事を知った。


六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

観音信仰

観音菩薩の導きで六道世界より救われるという観音信仰がある。その六つの世界に応じたそれを六観音とよび天台宗と真言宗とでは、人間道のそれが不空羂索観音と准胝観音とで異なっている。七観音とよばれるものは、この二観音を含めたものである。

……(中略)……

私の考えた、個人の「 心 」の六道は、六の世界に伸びる意識であるから、「如意輪観音」の六の手を持った身体に似ている。

観音様は、「音」を「観る」から、観音様の六本の手の先には、「眼」が存在する。

その「眼」で世界を観る。

私は、世間の「六道」の中に、私の内部から意識の波に乗せた自分を衛星のように出して、意識の波と世間の知識の波を同調させて、「六道」を知る。

「如意輪観音」は、世間の人の間に意識された「六道」の中に存在し、私に救いの手を伸ばす。

そして、私の意識が観音様の手と結合して、観音の気持ちになって、「宝」、つまりエネルギーを得た時、「私は、六道から救われた」つまり、「解脱」したと考える。

2008/12/8・考えた事。

私は、以上のように、私自身の内部に、世間の「六道」に共通する、私の内部の「意識の定在波」があり、日々、一生、一日、一年、の時間に関係なく、「六道」を生きている。

そして、「六道」の中の私を救ってくれるのが、「如意輪観音」という観音菩薩である。

「六道」の何処で迷っても、観音菩薩の救いの手が伸びて救ってくれるだろう。



今日、ネットで調べたところ、14世「ダライ・ラマ法王」は、観音菩薩の化身だという記事を見た。

ダライ・ラマ法王と転生探し

http://www.tibethouse.jp/dalai_lama/hh_reincarnation.html



私のブログの結論から、「六道」に迷う人間を、観音菩薩が化身して、この世に現れたと考えるのは是認する事が出来る。

私は、「輪廻転生」について、どのような考えかが、次の話になる。

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2008年12月06日

2008/12/6・私の解釈(六道)Z

私は、次の記事を書きました。

2008/12/4・考えた事

「始点と終点を結ぶ意識の定在波」は、因果関係であり、世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させてエネルギーを受け取る事であります。

世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させる事は、自分を外部の力に委ねる事であります。


これは、私の意識が、知識の意味を理解する場合だろうと思う。

その究極的な姿は、「他力本願」であると思う。


2008/12/6。思った事。

私は、自分が単独で、六道の中の何かを知る事は出来ないと思う。

自分を見るために、鏡を見るように、私を反映する物体が必要だろう。

それは、如意輪観音との、キャッチボールでも良い。

「電子が光子の雲を身にまとう」ように、私の内部の定在波から生まれた手と、外部の如意輪観音の救いの手との間に、雲のキャッチボールをする。



「電子に付いて、そのままでは検出する事の出来ない状態にある光子を「仮想光子」、一般には「仮想粒子」と呼んでいる」

光で語る現代物理学(著者→小山慶太、150ページ)



物理でも、キャッチボールしているので、人間と仏の間にキャッチボールをしても不思議ではない。

キャッチボールは、否定の否定などの方法ではなくて、自分自身が光の構造であるため、電磁波の構造で、自分自身が自分の問題を解決する。

人間が仏では無いが、前述した方法は、仏からエネルギーを得る方法だと思う。

繰り返せば、これだ。

2008/12/4・考えた事

「始点と終点を結ぶ意識の定在波」は、因果関係であり、世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させてエネルギーを受け取る事であります。

世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させる事は、自分を外部の力に委ねる事であります。


これは、私の意識が、知識の意味を理解する場合だろうと思う。

その究極的な姿は、「他力本願」であると思う。


「他力本願」は、自我を捨てて、全てを仏の力に委ねることだと解釈する。

自分が何もしないのではなく、自分の行為が全て仏の行為である事だと解釈する。

仏のエネルギーを頂けるかも知れない。



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2008/12/6・私の解釈(六道)W

私は「六道」Vで、次の記事を書いた。

私の考えでは、個人は、世間の意識に存在する「六道」の世界に対応して、それぞれの道に同調する受け手の「 心 」を持っている。

個人は、一つの身体で、六個の受け手の「 心 」を持っている事になる。

個人が六個の惑星を持つと考えたが、想像する事が出来なかった。

そこで、私は、この受け手を、「手(hand)」であると、想像して、六個の世界に伸びた手を持つ物を探した。


「一面六臂(ピ)」で検索した。

つまり、一つの顔、胴体を持って、六個の手(hand)を持つという意味で検索した。

すると、「六道」の救済菩薩の一人の「如意輪観音菩薩」が、「一面六臂(ピ)」である事を知った。

2008/12/6・考えた事。

Wikipedia から引用する。

六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

観音信仰

観音菩薩の導きで六道世界より救われるという観音信仰がある。その六つの世界に応じたそれを六観音とよび天台宗と真言宗とでは、人間道のそれが不空羂索観音と准胝観音とで異なっている。七観音とよばれるものは、この二観音を含めたものである。

天道

如意輪観音→真言宗の六観音 ・天台宗の六観音

人間道

准胝観音→真言宗の六観音
不空羂索観音→ 天台宗の六観音

修羅道

十一面観音→真言宗の六観音・ 天台宗の六観音

畜生道

馬頭観音→真言宗の六観音・ 天台宗の六観音

餓鬼道

千手観音→真言宗の六観音・ 天台宗の六観音

地獄道

聖観音→真言宗の六観音・ 天台宗の六観音




私の考え。

私の考えた、個人の「 心 」の六道は、六の世界に伸びる意識であるから、「如意輪観音」の六の手を持った身体に似ている。

観音様は、「音」を「観る」から、観音様の六本の手の先には、「眼」が存在する。

その「眼」で世界を観る。

私は、世間の「六道」の中に、私の内部から意識の波に乗せた自分を衛星のように出して、意識の波と世間の知識の波を同調させて、「六道」を知る。

「如意輪観音」は、世間の人の間に意識された「六道」の中に存在し、私に救いの手を伸ばす。

そして、私の意識が観音様の手と結合して、観音の気持ちになって、「宝」、つまりエネルギーを得た時、「私は、六道から救われた」つまり、「解脱」したと考える。



再び、Wikipedia から引用する。

日本では「如意輪観音菩薩」、「如意輪観世音菩薩」、「大梵深遠観音」などさまざまな呼び方があるが、重要文化財等の指定名称は「如意輪観音」となっている。また「救世菩薩」とも呼ばれる。
如意とは如意宝珠(チンターマニ)、輪とは法輪(チャクラ)の略で、如意宝珠の三昧(定)に住して意のままに説法し、六道の衆生の苦を抜き、世間・出世間の利益を与えることを本意とする。如意宝珠とは全ての願いを叶えるものであり、法輪は元来古代インドの武器であったチャクラムが転じて、煩悩を破壊する仏法の象徴となったものである。六観音の役割では天上界を摂化するという。





2008/12/4・考えた事

「始点と終点を結ぶ意識の定在波」は、因果関係であり、世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させてエネルギーを受け取る事であります。

世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させる事は、自分を外部の力に委ねる事であります。


これは、私の意識が、知識の意味を理解する場合だろうと思う。

その究極的な姿は、「他力本願」であると思う。



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2008年12月05日

2008/12/5・私の解釈(六道)V

私は、「六道」Uで、次の記事を書いた。

2008/12/4
「始点と終点を結ぶ意識の定在波」は、因果関係であり、世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させてエネルギーを受け取る事であります。

世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させる事は、自分を外部の力に委ねる事であります。


人間は、六個の道があり、それぞれの道に同調する受け手の「 心 」を持っている。

私の解釈では、それが、個人の「六道」です。



2008/12/5考えたこと。

私の考えでは、個人は、世間の意識に存在する「六道」の世界に対応して、それぞれの道に同調する受け手の「 心 」を持っている。

個人は、一つの身体で、六個の受け手の「 心 」を持っている事になる。

個人が六個の惑星を持つと考えたが、想像する事が出来なかった。

そこで、私は、この受け手を、「手(hand)」であると、想像して、六個の世界に伸びた手を持つ物を探した。


「一面六臂(ピ)」で検索した。

つまり、一つの顔、胴体を持って、六個の手(hand)を持つという意味で検索した。

すると、「六道」の救済菩薩の一人の「如意輪観音菩薩」が、「一面六臂(ピ)」である事を知った。

私は、

如意輪観音菩薩が、個人である

と思っている。

後日、如意輪観音について記事を書く予定である。

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2008年12月04日

2008/12/4・私の解釈(六道)U

以下は、2008年12月4日、 19時55分現在のアクセス状況である。

1 2008/12/4・私の解釈(六道)  
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10 2008/9/5・ SEX 画像  
11 2008/12/3・六道輪廻の「六道」は、意識の..
12 2008/12/1・私の解釈(無明)

今日の記事が閲覧されているのが嬉しい。

私の、混乱した記事を閲覧して頂いて、私も、少し補足したいと思います。

私は、「六道」は世の中の人の意識の中に存在し、私の内部にも「六道」が存在すると考えます。

世の中の六道

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/7863053.html

私の六道

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/7866012.html

世の中に存在するかも知れない「六道」、知識としての「六道」を、私の「六道」として取り入れる方法を考えています。

前述したように、パソコンのOS が「無明」あるいは「本能」としての意識であり、ソフトウェアが「六道」という道であると考えます。

パソコンを初期化した場合、パソコンのOS は、購入時に戻り、正常に稼動します。

「無明」や「本能」も、パソコンのOS のように、本来の姿は、清涼な機能かも知れません。

(私は、末那識(manasiki)が全て悪いとは思いません。)

消えて無くなるのは、購入後に、自分が作ったソフトです。

それは、阿頼耶識(arayasiki)で、煩悩です。

でも、ソフトウェアが無い場合、つまり煩悩が無い場合は、生き生きとした面白い世界ではありません。

ですから、ソフトウェアをインストールしますが、それは、アクティベイトして自分の道具にする事です。

アクティベイトは、所有者から許可を得て、自分の道具にする事だと思います。

知識に意識を融合させて、知識を道具にする方法は無いのか?

世の中に、知識としての「六道」のサインカーブがあり、そのサインカーブに乗る粒子(私の場合は「情(zyou)」)を自分の内部のサインカーブから提出して、知識のエネルギーを自分の道具にする。

自分の内部のサインカーブを安定して知識のサインカーブに提出する事を可能にするのが、「始点と終点を結ぶ意識の定在波」であると思います。

「始点と終点を結ぶ意識の定在波」は、因果関係であり、世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させてエネルギーを受け取る事であります。

世の中の因果関係と、自分の内部の因果関係を合致させる事は、自分を外部の力に委ねる事であります。


人間は、六個の道があり、それぞれの道に同調する受け手の「 心 」を持っている。

私の解釈では、それが、個人の「六道」です。

道の選択は、個人の自由です。

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2008/12/4・私の解釈(六道)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

一般論

私は、世界中の人間の心は、「六道」の中のどれかに該当していると解釈する。

「六道」は、人間は、みんな、存命する限り、どの「道」かを選択していると思う。

「意識は電磁波である」が、その「 自意識 」のサインカーブの構造を含んで、「六道」のサインカーブも存在すると解釈する。

一つの現実面の心、(つまり阿頼耶識(arayasiki))から、未来の心へ、「 自意識 」と「六道」の構造により、情(zyou)が伝達されるが、その中には、「本能的」な情報と、「内容は自意識で伸展は無いが、それを増幅した欲望の情報」があると解釈する。

前者が、人間の構造として持っている情報であり、後者は、「煩悩」という情報だと思う。



私は、例として、パソコンを考えている。

「意識は電磁波である」という構造も「六道」の構造も、一台のパソコンに存在し、前者が、パソコンのOSで後者がソフトウェアであると思う。

パソコンのOSとソフトウェアで、前者が「本能的」な情報を伝達し、後者が「煩悩」を伝達すると思う。

前者が、世界中の人に共通の機能であり、客観的な知識であり、後者は、私だけの頭脳の機能であり、「個人情報」であると思う。

私の記事が、「 心 」であり、阿頼耶識(arayasiki)であると思う。

パソコンの機能が、「意識は電磁波である」構造であり、それは、性能が良いほど、快適な「 心 」になる。

日々の更新が、「 心 」の更新であると思う。

「六道」は構造の問題であるかも知れない。

「六道」の中のどの構造、つまりどのソフトウェアを選ぶかは、可能性の実現、目的の達成のために決められる。

その選ばれたソフトウェアで、世界各国の言語が使われるが、その伝達は「意識は電磁波である」という構造で行われ、他人に理解される。



「六道」は「世界」である。

「世界」は「意識」だから、「世界」を理解するのは、「意識」を持った人間である。

「類は類を呼ぶ」というように、同じ「意識」を持った人が、「六道」の「世界」を作り、相互に理解していると解釈する。



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2008年12月03日

2008/12/3・六道輪廻の「六道」は、意識の定在波である

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、物理学を学んでいないので、興味がある箇所しか引用しない。

私の興味は、「六道輪廻」の「六道」が、量子論の「定在波」であることの正当化である。

それは、間違っているかもしれないが、書くことにする。


「光で語る現代物理学」は、Amazon では1円で販売されている。
    ↓
http://www.amazon.co.jp/gp/offer-listing/4061327623/ref=sr_1_olp_1?ie=UTF8&s=books&qid=1228240366&sr=1-1

なにはさておき量子論、第2章、ボーアの量子条件                          ↓
http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_2.html


「光で語る現代物理学」116ページから118ページの引用


「原子の中心には正電荷の凝集した核があり、そのまわりを負電荷の電子が回っている……(中略)……電子が回転運動(一般には荷電粒子が回転運動)を行うと、電子は光(電磁波)を放出しながら、エネルギーを失っていくことが、電磁気学から知られていた。……(中略)……ひとつの解釈を与えたのが、デンマークの物理学者ボーアである。ボーアは、核のまわりを回転する電子は特定の軌道しかとることはできないと仮定した。この特定の軌道を回るとき、……これを「定常状態」と呼ぶ……、電子は光を放出せず、エネルギーも失わないと考えた。ところが、電子が、ある軌道から別の軌道に飛び移るとき、そのエネルギー差に応じた振動数の光が放出されるというのである。こうすれば、確かに、原子から出る光のスペクトルは連続にならず、波長はとびとびの値しか示さないことになる。」



その答えを与えたのが、「電子の波動性」だった。

なにはさておき量子論、第2章、ボーアの量子条件 から引用


原子核のまわりを安定して存在する波は、定在波である。

「減衰しないで、動かない波を定常波というと、最も簡単な例は、ギターの弦である。弦の両端を節として整数個の節を持つ定常波だけが、安定した音を発することが出来る。ド・ブロイは、電子が波と考えたときに、波の始めと終わりが、円周上で一致するような定常波でなければ、原子核の周りに安定して存在することが出来ないと考えた」





私の考え

原子核をまわる円周上に始めと終わりを持つ定在波だけが、安定した軌道であれば、その軌道が、仏教の六道輪廻の「六道」であると解釈する。

任意の多くの「道」が存在するのではなく、人間の「 心 」の状態には、「飛び飛びの」6個の道しか存在しないと思う。

その、「飛び飛びの」6個の道を変更するとき、光(私の場合は意識)を放出する。

これが、周囲には「心の変化や態度の変化」となって現れると思う。



理由

2008/11/5・考えた事
自分の阿頼耶識(arayasiki)を運ぶ「道」の検討です。

末那識(manasiki)の構造の選択です。

私は、出発点と終着点を決める事が出来ます。

それは、一つの電磁波という波を選んだ事だと思います。

出発点と到着点を変更するならば、別の道、別の電磁波を選ぶ事になると思います。

その「道」を進んで行く事、つまり行為をする事に喜びを感じます。

(ここが、

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の始まりです)


始めと終わりを設定する事が出来て、軌道を変える事が出来るというのが、人間の素晴らしさであり、人間が人格を変化させる理由でもある。

人間は、サインカーブの上に、始めと終わりを計算して、設定する事が出来るし、途中で変更する事も出来る。

なぜなら、「 心 」や「阿頼耶識(arayasiki)」を作る「生命のリズム」に、一瞬、一日、一年の時間の区別は無いからだ。

「意識は電磁波であり」、サインカーブを描いて「時間意識」と「空間意識」が交互に現れる。

そのサインカーブが、「六道」の中の一つの道だろう。

サインカーブというのは、光の進行して来る方向から見ると、円を描いているように見える。

つまり、一周して、一回転して、「認識」が成立する、あるいは阿頼耶識(arayasiki)が更新されるのである。

この一周して、一回転する円周上に、人間は自分の意思で、始まりと終わりを設定するのだ。

つまり、「定在波」を設定して「六道」を決定する事が出来る。

この意味で、

「六道」は、意識の定在波である。

そして、サインカーブを描いて、伝達される物は、「 情(zyou)」であり、現象的には不連続な「 心 」や「阿頼耶識(arayasiki)」の更新となって、以前よりも向上するか堕落するかに決まると思う。

「定常状態」では、光もエネルギーも放出しないで安定している。

これは、「六道」の中の一つの道を選んで、楽しんでいる状態で、向上心が無い状態だろう。

これが、「習慣になった意思活動」であると思う。


「六道」を伝達される物は、「 情(zyou)」であるが、伝わる道(サインカーブ)には、「本能的な情報」だけでなくて、「欲望」が含まれる。

それを如来様(nyoraisama)が見ると、「水素原子のスペクトル」のように、「六道」を進みながら、人間が発する意識(光)を、スペクトルで区別する事が出来るかも知れない。

「欲望」と「無明」については、後日、書く予定である。

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2008年12月02日

2008/12/2・私の解釈(予告・ボーアの量子条件)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


前述したように、「ボーアの量子条件」を、後日、解釈しますので、お知らせします。



なにはさておき量子論、第2章、ボーアの量子条件 
      ↓
http://www1.odn.ne.jp/~cew99250/html/C_2.html




ここから、多数を引用しますので、予習して頂きますよう、お願いします。


Every miller draws water to his own mill.
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2008/12/2・私の解釈(六道についての要約)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



以下は、これまでの、コピー・アンド・ペーストです。


2008/11/28
(六道輪廻についてのコビー・アンド・ペースト)

メモ

笹本戒浄上人全集(中巻)

真実の自己とは、仏教でいう大我である。
生死流転し、変化する自己は、小我である。

真実の自己(198ページより引用)

(小我)は、業(gou)と煩悩(bonnou)からできる。
業(gou)とは、習慣になった意志活動である。
生まれ変わった事は、生きている間に身体の中にいろいろな心ができます。
子供をよく虐めることが習慣となりますと、遂に心が鬼となってしまう。
この身体の中の心が鬼となってしまう。
それは意志活動、それが習慣となると、この身体の中に鬼の心が身ごもる。
この身体が死んだ時に、鬼の子が生まれるのであります。



私は、笹本戒浄上人の考えに賛成するが、私の「意識は電磁波である」という立場から、六道輪廻について、書かなくてはならないと思う。



六道についてのコピー・アンド・ペースト。

2008/11/5・考えた事
自分の阿頼耶識(arayasiki)を運ぶ「道」の検討です。

末那識(manasiki)の構造の選択です。

私は、出発点と終着点を決める事が出来ます。

それは、一つの電磁波という波を選んだ事だと思います。

出発点と到着点を変更するならば、別の道、別の電磁波を選ぶ事になると思います。

その「道」を進んで行く事、つまり行為をする事に喜びを感じます。

(ここが、

Every miller draws water to his own mill.

の始まりです)



2008/11/6・考えた事
一般的に、上記の事が適用されると仮定します。

「人は自由に、末那識(manasiki)により時間の始めと終わりを設定して、その間の時空間を伝わる波長の上で行為した結果の阿頼耶識(arayasiki)を享受する事が出来る」と仮定します。

これは、人間だけが出来る能力であり、素晴らしいと思いますが、その反面、自由である事の危険性もあると思います。

始めと終わりを区切って、ある行為により得られた阿頼耶識(arayasiki)に満足したと仮定します。

人間は、一度楽しむと、それを続ける傾向があると思います。

楽しむと、その波長の行為を好む事を続ける事になりますが、その波長が、限られていたら、どんな結果になるでしょう?

能力とか、エネルギーなどによる可能性の制約です。

これを人生という長い期間で適用します。

私は、人生を送る中で行為する事が出来る波長の道、可能性の道を、「六道」と考えます。


六道とは、仏教で教える、@天道A人間道B修羅道C畜生道D餓鬼道E地獄道です。


六道
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93
  ↓
六道一覧

天道

天道は天人が住まう世界である。天人は人間よりも優れた存在とされ、寿命は非常に長く、また苦しみも人間道に比べてほとんどないとされる。また、空を飛ぶことができ享楽のうちに生涯を過ごすといわれる。しかしながら煩悩から解き放たれていない。天人が死を迎えるときは五つの変化が現れる。これを五衰(天人五衰)と称し、体が垢に塗れて悪臭を放ち、脇から汗が出て自分の居場所を好まなくなり、頭の上の花が萎む。

人間道

人間道は人間が住む世界である。四苦八苦に悩まされる苦しみの大きい世界であるが、苦しみが続くばかりではなく楽しみもあるとされる。また、仏になりうるという救いもある。

修羅道

修羅道は修羅の住まう世界である。修羅は終始戦い、争うとされる。苦しみや怒りが絶えないが地獄のような場所ではなく、苦しみは自らに帰結するところが大きい世界である。

畜生道

畜生道は牛馬などの世界である。ほとんど本能ばかりで生きており、使役されなされるがままという点からは自力で仏の教えを得ることの出来ない状態で救いの少ない世界とされる。

餓鬼道

餓鬼道は餓鬼の世界である。餓鬼は腹が膨れた姿の鬼で、食べ物を口に入れようとすると火となってしまい餓えと渇きに悩まされる。他人を慮らなかったために餓鬼になった例がある。旧暦7月15日の施餓鬼会はこの餓鬼を救うために行われる。

地獄道

地獄道は罪を償わせるための世界である。詳細は地獄を参照のこと。

(以上は、上のURL の内容を、コビー・アンド・ペーストしたものです)





私は、六道は、自分が末那識(manasiki)で選んだ自分の楽しい実体の生活様式だと思います。

この可能性が、如来様(nyoraisama)によって決定された物が、人間とか動物という姿になっていると思います。

動物は、可能性を変える事は出来ません。

人間は、素晴らしい事に、末那識(manasiki)を変える事により、この可能性の道を変える事が出来ると思います。

(これで、コピー・アンド・ペーストを終わる)

これから、更に、話が展開します。

私の独り言ですから、無視されても不満に思いません。

次に続く。

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2008年12月01日

2008/12/1・私の解釈(このブログの方針)

少し要約しました。

以下がこれまでの経過です。

@如来様(nyoraisama)の「宇宙」
A意識と精神の「世界」
B電磁波の構造を持つ「 自意識 」

C光に乗った意識。
D「幽霊」になった自分。
E自分の外に「 心 」を持つ。


F「空間意識」では、現象を見る。
G「感覚」により、エネルギーを取り出す。
H身体(2008/11/3 追加)
I意識の座標軸(主観的時間)は、無明であり、生命である。
J無明の中で「認識」は成立して、エネルギーになる。
K人間は、無明、つまり自我意識であり生きる意欲により、霊と魂に結ばれている。
L「精神」とは、阿頼耶識(arayasiki)である。
M現象は「あの世」に対する「仮の世」とか「現象学の現象」とは違い、無明(私は涅槃と同じと思っています)の世界で成立していない、自分だけの考えで、末那識(manasiki)の中での認識であり、本来のエネルギーとなっていない。

N認識した事を、無意識のレベルで感じる事、無意識は阿頼耶識(arayasiki)の領域であり、認識した情(zyou)は、エネルギーに変わり、見る事が出来ない事が「意識は電磁波である」事の証拠とします。

O生まれてから死ぬまでの一生と、生きている瞬間、あるいは一日の長さには、根本的な違いは無く、時間の長さは違いますが、無明(私から言うと涅槃)から無明へ進む。

私が言う現象面で、現象から瞬時に無明(涅槃)を把握した時、つまり本質直感をした時と死んで涅槃に行く時を同じで、涅槃に行くとは、自分の末那識(manasiki)に終止符を打つ事で、それは生きている時も可能である。

生きている間は、人生を変える可能性が有り、何時でも生き方と言う可能性、つまり末那識(manasiki)を変更する事が出来る。

無明から無明へと現れて消えて行き軌道を人の運命と考える。
人の涅槃には、生命の創造者が存在して、生命は、無明の中に解消されるが、如来様(nyorisama)の領域で、「生命保存の原則」が存在するかも知れない。

P生命の終点と出発点は同じ「無明」であり、精神が何処から生まれて、死後は、何処に行くのか不明である。
そんな「無明」を、地球上の生物は、皆、持っていて、「無明」で、地球上の生物は、一つに連結している。

地球の一つの霊魂に戻り、そこから再び、出生として人間として生まれ変わる。

生死、流転するものが「子」の自分の魂。
地球の一つの霊が、「親」としての人類の霊。


Qガイア理論に該当するのが、「親」としての地球の一つの生命体の「霊」であると思う。

私は、仏教の「大我」は知らないが、それに相当する物として、「巨大な生命体」を考える。

それで、生死を流転する「小我」は、「台風」的な構造した自我意識であると思う。

「台風の目」が、私の「意識は電磁波である」という考えの縦軸の「主観的時間」、「生命のリズム」であり、「無明」である。

台風の中心で青空を見る事が出来るが、それは自分の根本の「無明」が、宇宙の無明に連結している事であり、台風を形成している暴風雨が「煩悩」であり、「時間意識」と「空間意識」が存在する「現象界」であると思う。

台風は、低気圧であり、自我を形成する末那識(manasiki)が形成する「煩悩」である。

暴風雨圏内とは、「煩悩」の広がる範囲であり、末那識(manasiki)に形成させれる阿頼耶識(arayasiki)の範囲である。

台風も自分も、低気圧や煩悩により、実体として感じられるが、水蒸気の集まりと宇宙の塵であり、自然の一部として循環する物体であり、ある条件で発生する形である。

その条件が、仏教の「縁」だと解釈している。


R私は、「無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し」という所から、煩悩と無明を区別して考えます。

「煩悩」は、世界中の全ての人が持ち、その内容は特殊で、個人的です。

ところが、「無明」は、私の解釈では、世界中の人間も含めた生物が共通して持っている観念で、同じ内容であるかも知れない。

仏教とは違いますが、「無明」は「本能」だと解釈しています。

「本能」を捨てる生物は存在しないと思います。

「本能」とは、「生殖」と「食べる事」と「睡眠」であると思います。

笹本戒浄上人の師の「山崎弁栄上人」は、「生きる意欲」と言われたと笹本戒浄上人の本に書いてあります。

これは、以前に書きましたが、如来様(nyoraisama)から与えられた宇宙の機能で、人間が作る事は出来ないと思います。

「自意識」は末那識(manasiki)であり、本能をコントロールするから、末那識(manasiki)が「煩悩」の原因だと思います。

「無明」は、「自意識」を含み、煩悩を生むと思いますが、自意識や末那識(manasiki)と「本能」や「煩悩」との関わりの度合いにより、再び、人間や犬や猫や馬などの他の動物に生まれ変わると思います。

(以上、コピー・アンド・テーストを終わる)

まだまだ、続きます。



予告編

「六道輪廻」や「チベットの死者の書」や「ボーアの量子条件」と、「意識は電磁波である」を結んだ物語を用意しています。

Every miller draws water to his own mill.
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2008/12/1・私の解釈(無明)

以下は、Wikipedia からの引用である。



無明
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

無明(むみょう、avidya)とは、仏教用語で、迷いのこと。また真理に暗いこと、智慧の光に照らされていない状態をいう。法性(ほっしょう)に対する言葉である。

仏教では十二因縁の根源に無明をおく。すべての苦は、無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し、智慧によって無明を破ることにより消滅すると説く。我というものが存在するという見解(我見)が無明である。無常であるものを常住と見るが、それが失われると苦しみを生じる。すべての苦しみはこの無明を原因として発生すると説く。この苦しみを消滅する方法は、初期経典には定型文句として四諦、八正道であると説かれている。この四諦、八正道を知らないことも無明である。

(引用を終わる)



私のブログの、「意識は電磁波である」という立場は、仏教では無く、私の観念です。

仏教の知識を求める人は、無視してください。

私は、「無明(迷い)を原因とする煩悩から発生し」という所から、煩悩と無明を区別して考えます。

「煩悩」は、世界中の全ての人が持ち、その内容は特殊で、個人的です。

ところが、「無明」は、私の解釈では、世界中の人間も含めた生物が共通して持っている観念で、同じ内容であるかも知れない。



私の考える無明

仏教とは違いますが、「無明」は「本能」だと解釈しています。

「本能」を捨てる生物は存在しないと思います。

「本能」とは、「生殖」と「食べる事」と「睡眠」であると思います。

笹本戒浄上人の師の「山崎弁栄上人」は、「生きる意欲」と言われたと笹本戒浄上人の本に書いてあります。

これは、以前に書きましたが、如来様(nyoraisama)から与えられた宇宙の機能で、人間が作る事は出来ないと思います。

「無明」は、私の「意識」の「時間」の座標軸であるが、これを「智慧」により「破る」事は、現在の私にとっては不可能です。

間違いだと思いますが、「無明」は「本能」として、如来様(nyoraisama)から与えられた機能として、生理として、捨てません。

自意識。

「自意識」は、どこまで克服する事が出来るか、自制する事が出来るかが問題であり、捨てる事は自殺や自爆テロでしょう。

「自意識」は末那識(manasiki)であり、本能をコントロールするから、末那識(manasiki)が「煩悩」の原因だと思います。

「無明」は、「自意識」を含み、煩悩を生むと思いますが、自意識や末那識(manasiki)と「本能」や「煩悩」との関わりの度合いにより、再び、人間や犬や猫や馬などの他の動物に生まれ変わると思います。

それは、「六道輪廻」で書きます。


煩悩

それと違って、捨てられるのは、「煩悩」でしょう。

私は、人には、財欲と名誉欲と色欲と食欲と睡眠欲があるという知識を持っています。

「生殖」と「食べる事」と「睡眠」は必要ですが、それに付着する、あるいは執着する、「欲望」は必要ではないと思います。

財欲や名誉欲などは、論外で、不必要だと思います。

この「欲望」については、後日、書く予定です。

この「煩悩」に執着する事が、「悟り」を邪魔していると思います。

私は、「人間らしさを失った悟り」は求めていません。

「悟る」より、他の動物に、生死流転する事を望みます。

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