2009年01月02日

2009/1/2・私の反省(欲望と利己愛)7

以下が、2009/1/2、15時30分現在のアクセス状況です。

1 2009/1/2・年頭所感 2  
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8 2009/1/1・年頭所感

年頭所感2で、「 利己愛 」について書きました。

私は、法律学科で、経済学は学んでいませんが、もし、「 富 」の配分が、「 愛 」によるものだとしたら面白いフィクションになります。

私は、以前、書きましたように、「 利己愛 」を持っていて、何を書いても、「自分への情(zyou)」であり、「自分への甘い判断」であり、本当の「 愛 」では無いと思います。

利己愛 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjEqul1J868Ai_yl87UF?p=%E5%88%A9%E5%B7%B1%E6%84%9B%E3%80%80m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp


しかし、親から、自分の事は自分で処理するように教えられ、結婚も、全てを自己責任で、これまで生きて来ました。

ですから、「 利己愛 」の中に、「 自意識 」と、「利己の愛欲」とを分けて、前者は「電磁波」の構造を持ち、後者は、「台風」の構造を持つと考えます。

「 自意識 」は、末那識(manasiki)の働きであり、肉体が単独である限り、他の存在に同化する事は出来ない。

「私」を「あなた」と同一にする事は出来ない。

「六道」の何処に位置しても、存在するものです。

人間ならば、誰でも持つ意識だと思います。

これは、本能であると思います。



他方「利己の愛欲」は、欲望であり、自分を生き生きとして豊かにするが、自分の利益中心の定在波を持ち、定在波に対応する「六道」のどれかに位置します。

これは、個人の快感が社会の強弱の変化に応じて、増幅される社会的な意識だと思います。

私は、「 利己愛 」は持っていますが、社会的な欲望であるので、社会的な意識に同化すれば、「 昇天 」あるいは「 転生 」する事が可能だと思います。

それは、社会の義務であり、「 他人を利益にする 」行為だろうと思います。

それは、「六道」からの「如意輪観音菩薩」による「救いの手」であり、私が義務的な行為をする事は、自分が救われると同時に、菩薩にとっての情(zyou)や快感であるかも知れません。

私が、その義務的行為をして快感を感じるならば、菩薩の行為をしているのであり、「転生」した状態だと思いますが、私は「 利己愛 」があるので、快感は感じないと思います。

私は、「 利己愛 」を無にしてしまうのではなく、他の目的に意識を変えて、欲望も方向を変える方法が「 愛 」へ近づくと思います。



経済に当てはめると、内部留保して「定在波」を強くして国際競争するのではなく、義務的な「富の再配分」です。

日本の企業は、多くの内部留保を持ちながら、派遣社員を解雇しています。

これは、人を景気の「調整弁」する道具として扱うもので、良くない事だと思います。



Poor thinking is as good as no thinking.


2015/2/27、私の現在の考え11・自意識を参照
posted by kandk55 at 16:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月31日

2008/12/31・私の反省(欲望の方向転換)6

「 禁煙 」したいと思っている人に書きます。

@喫煙する出発点から喫煙までの手順を考えてください。

その出発点は、自分でコントロールする事が出来ますから、その場所を知る事が、「 禁煙 」への第一歩だと思います。

禁煙に失敗したら、何回でも、この出発点に戻ってスタートしましょう。

A自分が、何故、喫煙を続けるのか、その理由をも徹底的に考えてください。

なぜ、自分が失敗するのかも、徹底的に反省しましょう。

Bそして、「 禁煙 」を約束するのです。

仏陀でもキリストでも、周囲の友人でも、妻でも、誰を相手にしても良いと思います。

Cそれから、「 禁煙 」の行為を続けます。

タバコの代替物は、水、飴、何でも良いと思います。

これが、どうして欲望の方向転換なのか、書きます。



E=mc2 で、欲望=利己愛×意識の二乗です。

喫煙は「利己愛」だと思います。

利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。




「自分への判断の甘さ」があれば、「 禁煙 」は、決して出来ないと思います

その意味で、「 禁煙 」は、「 利己愛 」の克服に似ています。

欲望や情(zyou)は、流れる物で、本能的で、力強くて、「利己愛」が無い場合も、習慣となった喫煙の欲望に負けてしまいます。

「六道」に、専門の観音様が居ますが、「如意輪観音菩薩」は、六つの手を持って、救って下さいます。

「 救う 」とは、あなたが「 約束を守れば、禁煙を続行できる 」という事だと思います。

手が差し出されるとか、具体的、肉体的な「救い」は無いと思います。

あなたが、約束を果たせば禁煙が可能になるのが、「 救われている 」事だと思います。

「利己愛」よりも、「約束」という意識、「救いを求める意識」を強くすれば、欲望の方向を転換する事が出来ると思います。

「 利己愛 」の反対の事をします。

感情を精神で抑圧するのです。
流れを、逆流させるのです。

「 利己愛 」の抵抗が強ければ強いほど、それを克服した喜びは大きいと思います。

「生木を裂く」ような苦しみを受けますが、それを克服すれば、自信の湧いて来るし、「 喫煙 」以外の「 依存症 」からの脱却にも応用する事が出来ると思います。

「 利己愛 」は、誰も持っているし、強い利己愛ほど、克服すれば大きな喜びになる事を忘れてはいけません。

そして、「 禁煙 」した後は、太るとかマイナスの事を思って、止めてはいけません。

どうしても、この苦しみは、脱却しなければならないと覚悟して、自分の精神力を試してください。

私は、五年前に「禁煙」して、今も続けています。

あなたも、一緒に、「 禁煙 」される事を希望します。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 15:10| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年12月30日

2008/12/30・私の反省(流れる物と派生する物)U

「私の反省(流れる物と派生する物)」を、Yahoo USA は、登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjjl.FlJyIoA55Cl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%8F%8D%E7%9C%81%28%E6%B5%81%E3%82%8C%E3%82%8B%E7%89%A9%E3%81%A8%E6%B4%BE%E7%94%9F%E3%81%99%E3%82%8B%E7%89%A9%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp



この記事は、現時点での要約です。

過去の記事を見れば、私が、何故、そんな事を言うのか、理解して頂けると思います。

単純に、考えています。

流れる物は、神経系統を通って頭脳に流れて、貯水槽のように飽和するだろう。

そして、流れから派生する物は、無線に似て、電磁波的な構造であり、流れる物質ではなくて、精神的な現象を、私に与えるだろう。

流れる物を、派生する物へ分解して、本能の意識と社会的な精神とに分けて記述するのが、私の希望です。

私は、利己愛を持っていますが、他人と比べた事はありません。

ただ、薬物を使わずに「 禁煙 」した体験があるので、欲望をコントロールする例として、書きます。

これから「 禁煙 」したいと思う人は、欲望を分析するチャンスを持っている人です。

「要請」を「チャンス」として把握して、積極的に実行されるようにお願いします。

喫煙している場所が「この世」で、禁煙している場所が「あの世」であれば、私は「あの世」に立ち、「あの世」への手伝いをしようと思っているのです。

「この世」が好きならば、私を無視して、喫煙を続けてください。

もし、「あの世」に行ってみたいと思っている人は、私の体験談を、一つの導きの道として、進んでください。




それでは、始めます。

「あの世」への希望者は、現在、自分が「この世」の「六道」の中で、どの道に立っているのかを、自分で探してください。

それは、長年、続いた喫煙の程度により、「地獄」や「畜生」など、どの道に立っているのか発見して、「意識の定在波」を、つまり何処を習慣として循環しているのかを知ってください。

喫煙する出発点から喫煙までの手順を考えてください。

その出発点は、自分でコントロールする事が出来ますから、その場所を知る事が、「 禁煙 」への第一歩だと思います。



Every miller draws water to his own mill.

posted by kandk55 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/30・私の反省(流れる物と派生する物)6

現時点で、少し要約をします。

流れる物は、

電流

エネルギー

情(zyou)

欲望

阿頼耶識(arayasiki)

「 心 」

を考えています。

欲望は、意識の定在波を持つと考えます。



流れにより派生する物は、

電場と磁場。

時間意識と空間意識。

意識一般と精神

であると考えます。

意識は、電磁波の構造を持つと考えます。


流れの機構は、主に、末那識(manasiki)の働きだと考えています。



E=MC2 により、流れる物は、流れから派生する物に分解して理解すると考えます。

欲望は、利己愛の大きさと、意識一般の大きさに分解します。

分解して理解した物は、阿頼耶識(arayasiki)・欲望の飽和と欲求の満足と考えます。



訂正するも知れませんが、現時点では、このように考えています。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 12:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 D | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008/12/30・私の反省(欲望)5

2008/12/21、「私の反省(欲望)4」の記事の一部。


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。


これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。



2008/12/30、考えた事。

アメリカ合衆国では、「愛」について、厳しく判断しているのだろう。

Yahoo USA で、「利己愛 m24658 」の言葉を検索すると、私の記事が登録されている。

利己愛 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkUfFFlJ2xkBsN6l87UF?p=%E5%88%A9%E5%B7%B1%E6%84%9B%E3%80%80m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp

利己愛とは、末那識(manasiki)により、阿頼耶識(arayasiki)のある部分を「自分」として、愛する、執着する事だと解釈している。



末那識( Wikipedia より引用 )
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98

我法二執の根本である。八識はみな思量の作用があるが、末那識は特に恒(間断なく常に作用する)と審(明瞭に思惟する)との二義を兼ね有して他の七識に勝っているから末那(意)という。思量とは「恒審思量」といわれ、恒に睡眠中でも深層において働き続け、審(つまび)らかに根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続ける。この深層的な自我心を滅することによって、我々は初めて真の無我行を実践することができる。

(引用を終わる)




利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。

私は、この執着を捨てる事が出来ない。

だから、「意識は電磁波である」として、捨てなかったし、死ぬまで捨てる事は出来ないと思う。

これは、「私の反省(欲望)」より、本能を捨てる動物はいないと思うからだ。

しかし、捨てなくても、別の方向に向かえば、エネルギーとなるかも知れない。

その意味で、欲望=利己愛×意識の二乗と書いた。

私は「利己愛」を持っているので、欲望を別の方向へ向けても「利己愛」かも知れない。

しかし、欲望を他の方向に向けた例として、「禁煙」を挙げる。

これは、薬物を使わず、精神力で方向を変えた。

これを例として、書くことにする。


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2008年12月21日

2008/12/21・私の反省(欲望)4

これが、2008/12/21・11時05分、現在のアクセス状況である。


1 2008/12/21・私の反省(欲望)3  
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9 2008/12/20・私の反省(欲望)2  
10 2008/12/16・メモリー増設の体験談2

私が書いた「私の反省(欲望)」が、閲覧されているのを見て、嬉しい。

嬉しいから、もっと先まで書こうと思っている。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、物理学は、全く知らないが、この物理学的な考えで、仏教を解釈したいと思っている。

前述した事。

「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。

本能の「快感」は無明だが、トン・ジン・チという無明の煩悩としての性質は、「欲」の「情(zyou)」に現れると解釈する。




考えた事。

私たちは、子供に、「人間の中は別の宇宙がある」と言うが、大人は、それを真面目に考えているだろうか?

私は、「六道」を原子核レベルの電子でなく、「六個の系」と考える。

そして、全ての「系」に共通する原則を考える。

その参考にしたのが、一般相対性理論だ。


一般相対性理論 (Wikipedia より引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%80%E8%88%AC%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E6%80%A7%E7%90%86%E8%AB%96

一般相対性理論は慣性力と重力を結び付ける等価原理のアイデアに基づいている。等価原理とは、簡単に言えば、外部を観測できない箱の中の観測者は、自らにかかる力が、箱が一様に加速されるために生じている慣性力なのか、箱の外部にある質量により生じている重力なのか、を区別することができないという主張である。
相対論によれば空間は時空連続体であり、一般相対性理論では、その時空連続体が均質でなく歪んだものになる。つまり、質量が時空間を歪ませることによって、重力が生じると考える。そうだとすれば、大質量の周囲の時空間は歪んでいるために、光は直進せず、また時間の流れも影響を受ける。これが重力レンズや時間の遅れといった現象となって観測されることになる。また質量が移動する場合、その移動にそって時空間の歪みが移動・伝播していくために重力波が生じることも予測される。

(引用を終わる)


慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

間違いだと思いますが、書きました。



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2008/12/21・私の反省(欲望)3

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の考え。

これは、私の解釈であるから、主観的な見解であり、間違いだと思うが、書くことにする。

私は、意識が電磁波的な構造を持ち、情(zyou)を過去から現在そして未来の阿頼耶識(arayasiki)へと、伝達する働きや機能を末那識(manasiki)の機能であり、これは本能であると解釈する。

生理的、本能的な「快感」は、神経細胞により、脳の部分に伝達され、エネルギーが飽和や均衡するのだと思う。

この「快感」は、「無明」の一種だと解釈する。

これが、生理的な「電流」であるならば、精神的な「電磁波」を生むと思うが、その電磁波は末那識(manasiki)であり、「快感」の意識として阿頼耶識(arayasiki)に伝達される。

阿頼耶識(arayasiki)は、「快感」だけでなく、「快感」を生じた原因や行為の全てを記録する。

私の考えでは、「快感」という感覚の刺激によりエネルギーが均衡する部分と、感覚の刺激による意識の飽和や均衡の部分とは違うという結論になる。

これは、間違いかも知れないが、私のブログでは、その意識を「欲望」あるいは「欲」の「情(zyou)」と解釈する。

「快感」は、一つの刺激ではなく、五感の刺激により伝達されるのに従い、「欲」の「情(zyou)」も、五感の意識の電磁波の塊である。



「快感」と、「欲」の「情(zyou)」の違い。

生理と精神の違いは、精神は末那識(manasiki)により、波長を増幅したり、持続したりする事が出来る事である。

そして、末那識(manasiki)の「現象」の世界の「道具」による可能性の拡大という特徴が現れる。

末那識(manasiki)により「道具」的な因果関係を固定し、保存し、波長を繰り返したり、増幅して「遊ぶ」事を可能にする。

その力によって、「快感」が、増幅された「欲」の「情(zyou)」という意識の定在波となり、「六道」を選ぶ事になる。

選択する力は、意識であるし、エネルギーでもあると解釈する。

そして、「快感」を得る事が習慣的意思になると、煩悩になる。

本能の「快感」は無明だが、トン・ジン・チという無明の煩悩としての性質は、「欲」の「情(zyou)」に現れると解釈する。

つまり、「快感」をむさぼる、食い尽くすのであり、「不快感」であると怒り、「快感」しか知らないように、求めるのだと解釈する。

続きは、後日、書きます。



引用

@快感

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB


快感(かいかん)は、気持ち良いと感じる事。喜び、幸せ、満足等の感情と密接に結びついている。脳科学的には、報酬系における神経伝達物質を介した神経細胞間の活動で定義される。食、摂水、睡眠、性的行動など、動物としての本能に根ざした行動は、快感という報酬と不快感という罰によりコントロールされる。食欲など欲求が満たされれば快感を覚え、満たされなければ不快感を覚える。欲求とは、不快感を解消し、快感を得ることを(本能的に)希求する心のありかたと捉える事も出来るといえる。その他、大脳の高次機能の発達した人間は、長期的な目標の達成等、動物的欲求以外の状態からも快感を得る事が可能である。美しいものを見、素晴らしい音楽を聴き、楽しい時を過ごす事によって人は快感を得る。
その達成までの期間の長短はあるが、人間の行動は何らかの快感を得る事を目指したものが多く、人間の行動原理、価値観の根本を規定する脳の状態である。



Aトン・ジン・チの三毒



出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

貪(とん)は、仏教が教える煩悩のひとつ。
別名を貪欲、我愛という。万の物をむさぼる心である。 このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。
怒りの心である瞋、真理に対する無知を意味する癡(痴)とあわせて三毒とされ、仏教で最も克服されるべき対象(人間の諸悪・苦しみの根源)とされる。
三不善根のひとつであり、六根本煩悩のひとつ。



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2008年12月20日

2008/12/20・私の反省(欲望)2

Yahoo USA が、「私の反省(欲望)1」を登録している。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkkeEMUxJYVoBU1ql87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%8F%8D%E7%9C%81%28%E6%AC%B2%E6%9C%9B%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp



私は、「欲望」について、明確な考えを持っていない。

現在、考えている仮の全体像を書くことにする。

私は、「欲望」を、当面は意識の一種として扱うが、本当の姿は、「欲望はエネルギーである」と思っている。

それは、「無明」の一種だろう。

例えば、台風の暴風雨の範囲全部が、欲望である。

過去からの意識の電磁波の干渉により、可能性の同心円が作られ、それが暴風雨の強さの範囲であり、その範囲を区切る道が「六道」であり、その「六道」の各点を、「 心 」が、往来すると考える。

その往来を可能にするのが「欲望」だと思う。

「六道」の道を断ち切る力は、「欲望」が持つと考える。

意識は電磁波であるが、その総体が暴風雨であり、阿頼耶識(arayasiki)であると解釈する。

自分が原因の暴風雨で、その中で流れる風が「欲望」であり、「欲望」により吹き飛ばされている木や岩が「意識」であり、暴風雨は電磁波の塊である。

それを一つにしているのが人間の身体だと解釈している。

そして、台風の目で青空を見るように、自分の暴風雨の中心は、天と地に通じる「無明」である。

台風は、自分であり、暴風雨は自分が作るもので、台風が熱帯低気圧になって消えるように、人も消えるものであると解釈する。

台風には暴風雨が存在するように、「欲望」は、「本能」を推進し、維持する、生きる意欲であり、「 心 」の存在の可能性を拡大する力であると解釈する。

電磁波の構造をした意識より運ばれる物は、私のブログでは情(zyou)だとして、意識のサインカーブが交差して認識が成立し、意識が「転生」した場合、阿頼耶識(arayasiki)で、「快感」というエネルギーが生じる。

電磁波のサインカーブを、電磁波の進行方向から見れば、円を描いて情(zyou)が進んで来るだろう。

その円が、「六道」かも知れない。

「快感」を基本的な「喜び」として、「欲望」は、それを更に増大させる加速度に似た物と解釈している。



快感

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%AB

快感(かいかん)は、気持ち良いと感じる事。喜び、幸せ、満足等の感情と密接に結びついている。脳科学的には、報酬系における神経伝達物質を介した神経細胞間の活動で定義される。食、摂水、睡眠、性的行動など、動物としての本能に根ざした行動は、快感という報酬と不快感という罰によりコントロールされる。食欲など欲求が満たされれば快感を覚え、満たされなければ不快感を覚える。欲求とは、不快感を解消し、快感を得ることを(本能的に)希求する心のありかたと捉える事も出来るといえる。その他、大脳の高次機能の発達した人間は、長期的な目標の達成等、動物的欲求以外の状態からも快感を得る事が可能である。美しいものを見、素晴らしい音楽を聴き、楽しい時を過ごす事によって人は快感を得る。
その達成までの期間の長短はあるが、人間の行動は何らかの快感を得る事を目指したものが多く、人間の行動原理、価値観の根本を規定する脳の状態である。

(引用を終わる)



この「快感」をコントロールするのが「欲望」であると思う。

これは、私だけの考えであり、後日、変更する事もあるだろう。

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2008年12月15日

2008/12/15・私の反省(欲望)1

私の次の目標は、「欲」です。

「欲」Wikipdia から引用
   ↓
欲(よく)は、動物・ヒトが、それを満たすために何らかの行動・手段を取りたいと思わせ、それが満たされたときには快を感じる感覚のことである。欲望・欲求等ともいう。生理的(本能的)なレベルのものから、社会的・愛他的な高次なものまで含まれる。心の働きや行動を決定する際に重要な役割をもつと考えられている。

「欲」Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AC%B2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、意識を生むエネルギーについては知らない。

「快」や「不快」を感じた時、意識を生む電気のようなエネルギーが走ると想像する。

しかし、私はエネルギーについて書くのではなくて、欲を意識の一種と考えて、ブログを書く。

欲について、知識を求める人は、このブログから去ってください。

私の考えを強制する事はしません。

ただ、私が考えている事を書きます。



人は、五つの欲を持っていると言われる。

性欲と食欲と睡眠欲、それに財産欲と名誉欲だと思う。

性欲と食欲と睡眠欲は、生理的であり、本能的な欲であるが、財産欲と名誉欲は、社会的な欲だと思う。

私は、性欲と食欲と睡眠欲の中で、「本能的、生理的な欲」と、その欲を増幅する「精神的な欲」の区別に興味を持っている。


性欲と食欲と睡眠欲の「本能的、生理的な欲」は、地球上の全ての動物が持っている。

しかし、「精神的な欲」は、人間が持っている特別の感情だと思う。

私は、これを「欲望」と書くことにする。


私は、これを区別して、許される範囲で欲望を楽しみたいと思っている。


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