2009年08月10日

2009/8/10、オカルト(整理)二本足の考えの追加A

二本足の考えの追加

2009/8/9、考えた事

そして、重なった楕円のラグビー・ボールと考えますから、意識は球面で広がり、無意識も球面で広がり、一方から出た情報は「身体」という表皮、あるいは「霊界」に反射され、一方の情報は他方の中心に直接、作用すると考えます。

2009/8/10、考えた事

以上の事は、「 楕円の方程式 」を、ネットで検索して考えました。

「 光 」が、電磁波の構造として、一点から球面状に広がるように、意識も無意識も、球面状に広がるだろう。

意識の面と無意識の面は、別の電磁波的な球体と考えて、層となっていると考えられるだろう。

意識の下に無意識が存在するという考えが正当かも知れないが、その中心が、同一面に存在すると考えると、「 楕円の方程式 」のように、中心と中心が楕円という表皮を媒介にして、連結している事になる。

すると、「意識の座標」でのベクトル(力線)は、無意識の気(ki)であるので、意識では処理する事が出来ないが、それを「無意識の座標」の中心で「力」という霊を考える事により解決する事が出来る。

この事は、意識の中心と無意識の中心は、現実の中に存在し、意識すれば無意識が動き、無意識が動くと意識が動く事の理由となるだろう。

意識と言えば全部が意識であり、無意識と言えば全部が無意識です。

意識は精神に連結し、無意識は気(ki)というエネルギーに連結し、前者と後者は、中心が違う。

しかし、表皮に反射する事、つまり意識の作用を外部に表明する事により無意識に転換し、無意識を外部に出す事により意識に転換する事を可能にする「感受性」により、二つの中心は連結すると考えます。

そして、二つの中心が、「時間的」と「空間的」に一つの面で結ばれる時、新たな展開なるかも知れない。

これを、全ての認識に拡大したのが、「二本足の考えの追加」です。

左右の脳があり、二つの眼があり、「時間」と「空間」があり、それらが単独では解決できないならば、私のように、二つの中心を持つ意識の総体、つまり霊を考えても許されると思う。


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2009年01月06日

2009/1/6・私の夢想(内なる宇宙・四大智恵)12

これが、2009/1/6、18時30分、現在のアクセス状況である。

1 2009/1/6・私の夢想(内なる宇宙・四大智恵..  
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10 2008/9/5・ SEX 画像  
11 2009/1/5、私の夢想(内なる宇宙・現象界と..


「私の夢想(内なる宇宙)」が、上位で閲覧されているのを見て、大変、嬉しい。
SEX についても関心がある様子だが、別に書く予定である。

今は、「 四大智恵 」について書く予定である。
私は、以前の考えの延長で考えている。

2008/12/29、私の夢想(内なる宇宙)6」


智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。

この考えを維持したい。

さて、「 四大智恵 」だが、私は、僧侶でないので詳しくは知らない。

今朝、次の事をお願いをした。

ネット上の情報としては、URL を書くので、予習してください。

検索方法は、Google で、「四大智恵」の文字で検索して、その中に「 五智・五仏・四仏は、大日如来(自性法身)の化身として……」というタイトルをクリックする。

五智・五仏
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/gochigobutsu.htm


(これから、引用します)

 インド仏教における心理学とも言える唯識(ゆいしき)説では、私達の精神作用を、


前5識(眼識、耳識鼻識、舌識、身識)、

五感(眼、耳、鼻、舌、身)による感覚作用であるが、これが成所作智(じょうそさち)(不空成就如来の智恵)

成所作智は、眼耳鼻舌身の五感を正しく統御し、それらによって得られる情報をもとに、現実生活を悟りに向かうべく成就させてゆく智恵である。(不空成就如来)



第6識(意識)、第7識識)

その感覚的情報に基づいて行動や判断する意識であるがこれが妙観察智(みょうかんざっち)(阿弥陀如来の智恵)

妙観察智は、万物がもつ各々の個性、特徴を見極め、その個性を活かす知恵である。(阿弥陀如来)



第7識(末那(まな)

第6識の意識下にある無意識で、自我を形成するが、これが平等性智(びょうどうしょうち)(宝生如来の智恵)

平等性智は、森羅万象を平等に観る智恵で、万物が大日如来の化身であり、平等の仏性をもつ事を覚る智恵である。(宝生如来)




第8識(阿羅耶(あらや)識)に分け、

全く意識されない潜在意識で、生死輪廻する業(活動)の主体であるが、これが大円鏡智(だいえんきょうち)(阿如来の智恵)

大円鏡智は、鏡が一切の事象をありのままに分け隔てなく映し出すように、一切をあるがままに受け入れ、分別をしない智恵である。(阿如来)




次第に表層から深層へと深下してゆく心の重層的構造を説いた。

密教ではさらに第9識(阿摩羅(あまら)識)を加える。
 
さらにその奧に本来的に清浄無垢な自性清浄心と呼ばれる第9識が潜み、これが法界体性智(ほうかいたいしょうち)(大日如来の智恵)

法界体性智は、永遠普遍、自性清浄なる大日如来の絶対智であり、他の四智を統合する智恵である。(大日如来)
 
 これらの9識は、金剛頂経の説く瞑想法(五相成身観(ごそうじょうじんかん))によって各々五智に転じる。(転識得智(てんじきとくち))

 これら五智が五仏によって象徴され、金剛界曼荼羅の核を形成している。

(以上で、引用を終わる)

笹本戒浄上人は、次のように説かれる。

成所作智(じょうそさち)(不空成就如来の智恵)

心霊界の太陽となって、私どもを人格的に完成して下さるために、手塩にかけてお育て下さいます。


妙観察智(みょうかんざっち)(阿弥陀如来の智恵)

大宇宙が一つになります。その大我は部分に分けられない一つであります。無限の大宇宙が、ただ一つの我となり、天地一枚板となった場合に、それは部分に分け得られそうに考えましょうが、部分に分けられない唯一の心であります。


平等性智(びょうどうしょうち)(宝生如来の智恵)

知る主、覚る主であります。大宇宙は真実の私どもであります。けれども事実それが自己となっていないお方には、自己は身体だけであります。この小我は親指を動かそうと思えば動き、歩こうと思えば歩き、自己の意志のままに活動します。この場合に小我は自己であります。けれども大宇宙が自分の意志のままにはなりません。理屈上は、大宇宙は自己であると推論されても、何一つ自分の意志通りになりません。真実の自己が眠っているのでありまして、それを仏教では「無明の眠り」と申します。


大円鏡智(だいえんきょうち)(阿如来の智恵)

大きな円な鏡のごときお智慧であります。無限の大宇宙を照らさざる処なく、何処として如来様の御心でない処はありません。それは鏡のごとく一切をみそなわせられ、聞こし召され、知ろし召されておられます。私どもは、時間、空間に束縛されておりますが、如来様は時間と空間を超越しておられますから、如来様の御心の中には、一切をお映し遊ばしていらっしゃいます。私どもにとっては、過去でもあり、未来でもあるものをも、如来様の御心の中には、了々として知ろし召され、いわゆる物質的方面も精神的方面も了々としてお映しなされておられます。かくのごとく鏡にたとえて申し上げてましても、如来様の御心は音のするところが直ちに鏡でありまして、聞こし召されております。

( 笹本戒浄上人全集、上巻89ページから94ページより、抜粋して引用しました。)


このように、意識の中に重層して「 仏の智慧 」があると、僧侶は言われる。



私の考え。

私は、意識の分析には同意するが、「智慧」に対しては、「知識」を対比して考える。

私は、「 宇宙空間 」の中の「 宇宙線 」のように、「無明」中を走る「 光 」が、「 仏の智恵 」、「仏の意識」、「仏の光」であると思う。

意識の中に重層していると言うが、私は、智慧から知識が産出され、精神界に残ったと思う。

本来は、「 智恵 」と「 知識 」は一つだったが、「 合理性 」という末那識(manasiki)の働きで、「宇宙空間」と「無明」に分けられて、存在するようになったと解釈する。

「智慧」と「知識」を結ぶのは「意識」という「光や電磁波」であると思う。

その二つが、「時間」という媒体を持った「意識」により結ばれていると解釈する。



やはり、私は「仏教徒」ではない。

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2009/1/6・私の夢想(内なる宇宙・四大智恵の紹介)11

私は、「2009/1/5、私の夢想(内なる宇宙・現象界と心霊界)9」で、次の記事を書いた。


「2008/12/29、私の夢想(内なる宇宙)6」


智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。
……(省略)……

「量子の謎をとく(F.A.ウルフ著。中村誠太郎訳)221〜222ページより引用


私は、物理学は知らないが、この「相関関係」にある二つの物体を、「智恵」と「知識」に置き換えると、二つが一つの関係で結合して、一方が変化すれば、それは他方にも影響するという結論となる。

「かって接触を持ったことのある」のは、自分の中で、「無明」から「知識」が生まれた事と解釈する。

「不合理」であるのは、「アインシュタインの相関」を知識や学問で問題とすべきではなく、「無明」の中の意識の問題であり、「 心 」の問題であるという意味だと解釈する。


「不合理」は排斥されるべきではなく、「不合理」が「真理」かも知れない。

「知識」と「智恵」が動くのではなく、自分の意識が、数光年、離れている、内なる「無明」と外部の「宇宙空間」を、出入りし、一方が変われば他方も変わる関係であるという考えを持っている。

私には、私の「智恵」と「知識」がある。

「知識」や「智恵」は、私が持っているという意味で、「局所的」であるが、私の所有物ではなく、「局所的」な因果関係でもない。

非局所的な「宇宙空間」の知識を、意識として「局所的」にして持っているのが、「内なる宇宙」の智恵であり、二つは、一方が変われば他方も変わるという「相関関係」であると思っている。

2009/1/5、考えた事。

前回で、内なる宇宙の太陽系の太陽が、「阿弥陀如来」だと決めた。

太陽系以外の天体を考える力が無いから、局所的な考えである。

「智恵と知識」の関係の展開。

智恵は、「 無明 」に所属し、智恵という意識は、如来様(nyoraisama)の「 光 」に所属する。

「 知識 」は、精神や意識に所属する。



2009/1/6、考えた事。


上記の記事を拡大する。

身体から外部は、客観的で合理的な「 知識 」であるが、身体の内面にも、それに匹敵する「 智恵 」が存在する事を考える。

それに匹敵する「 智恵 」とは、世界中の人類の身体の中に存在している如来様(nyoraisama)の「 四大智恵 」である。

これは、私の考えではない。

ネット上の情報としては、URL を書くので、予習してください。

検索方法は、Google で、「四大智恵」の文字で検索して、その中に「 五智・五仏・四仏は、大日如来(自性法身)の化身として……」というタイトルをクリックする。

五智・五仏
http://www.sakai.zaq.ne.jp/piicats/gochigobutsu.htm

これについては、後日、笹本戒浄上人の本からも引用して、書く事にする。



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2009年01月05日

2009/1/5、私の夢想(内なる宇宙・現象界・心霊界・波動関数)10

これは、2009/1/5・私の夢想(内なる宇宙・現象界と心霊界)9」の記事である。


事実と言っても、宇宙的な絶対の事実(神の事実)と、意識により提供された事実(一般的な事実)の現象界と、自分の意識が合致した事実という心霊界と、三つがあり、それが、現実の中で一つになっている。

「時間」と「空間」も、絶対的「時間」や「空間」と、意識により作られた「時間」や「空間」があり、そして、自分の主観的な「時間」や「空間」がある。

「認識」というのは、「マンホール」を越して合致した客観的知識と、私の主観的な智恵の合致である。

現実界は、現象界とも言うが、事物が順番に現れるという意味の現象と、智恵を順番に適用して事物を特定する心霊界の二つが重なっていると思う。




ここから、考える。

量子力学のシュレディンガーの波動関数が適用されるのは、意識の現象界と心霊界であるのに、宇宙の絶対的空間に適用したのが、間違いである。

量子力学が、「認識の形而上学」になるのは、当然の帰結であると思う。

智恵と知識で述べたように、完全に量子力学が適用されるのは、物理学の領域ではなく、「 心 」や「 認識 」の領域なのだと思う。

シュレディンガーの波束の収縮は、認識した後の阿頼耶識(arayasiki)である。

それは、収縮する前は、波動は「 知識 」として現れ、収縮後は、局所化した「 智恵 」として現れると思う。

その二つは、数億年、離れているかもしれないが、一方を確定すれば、他方に影響を及ぼす事は、知識を局所化して適用する時に、適用する者が実感する事が出来るという意味で、客観的な事実である。


私は、量子力学とは独立した宇宙が存在するだろうし、確率として現れるのは、人間が無知である証拠であると思う。



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2009/1/5、私の夢想(内なる宇宙・現象界と心霊界)9

私は、「2008/12/29、私の夢想(内なる宇宙)6」で、次の記事を書いた。

これを展開して、内なる宇宙を拡大する。


智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。
……(省略)……

「量子の謎をとく(F.A.ウルフ著。中村誠太郎訳)221〜222ページより引用


私は、物理学は知らないが、この「相関関係」にある二つの物体を、「智恵」と「知識」に置き換えると、二つが一つの関係で結合して、一方が変化すれば、それは他方にも影響するという結論となる。

「かって接触を持ったことのある」のは、自分の中で、「無明」から「知識」が生まれた事と解釈する。

「不合理」であるのは、「アインシュタインの相関」を知識や学問で問題とすべきではなく、「無明」の中の意識の問題であり、「 心 」の問題であるという意味だと解釈する。


「不合理」は排斥されるべきではなく、「不合理」が「真理」かも知れない。

「知識」と「智恵」が動くのではなく、自分の意識が、数光年、離れている、内なる「無明」と外部の「宇宙空間」を、出入りし、一方が変われば他方も変わる関係であるという考えを持っている。

私には、私の「智恵」と「知識」がある。

「知識」や「智恵」は、私が持っているという意味で、「局所的」であるが、私の所有物ではなく、「局所的」な因果関係でもない。

非局所的な「宇宙空間」の知識を、意識として「局所的」にして持っているのが、「内なる宇宙」の智恵であり、二つは、一方が変われば他方も変わるという「相関関係」であると思っている。




2009/1/5、考えた事。

前回で、内なる宇宙の太陽系の太陽が、「阿弥陀如来」だと決めた。

太陽系以外の天体を考える力が無いから、局所的な考えである。

「智恵と知識」の関係の展開。

智恵は、「 無明 」に所属し、智恵という意識は、如来様(nyoraisama)の「 光 」に所属する。

「 知識 」は、精神や意識に所属する。

「内なる宇宙・如来の存在」で述べたように、「時間」や「空間」の客観的事実であれど、それは意識の産物である。

つまり、客観的事実は、「意識」や「精神」の領域である。

(客観的というのは、世界中の誰にも共通という意味で使っている。「合理性」とは「論理的」と同じ意味に使っている。)

しかし、それを「認識」するのは、客観的な「知識」が、「合理性」のマンホールを通過して、「智恵」と一致した時である。

事実と言っても、宇宙的な絶対の事実(神の事実)と、意識により提供された事実(一般的な事実)の現象界と、自分の意識が合致した事実という心霊界と、三つがあり、それが、現実の中で一つになっている。

「時間」と「空間」も、絶対的「時間」や「空間」と、意識により作られた「時間」や「空間」があり、そして、自分の主観的な「時間」や「空間」がある。

「認識」というのは、「マンホール」を越して合致した客観的知識と、私の主観的な智恵の合致である。

現実界は、現象界とも言うが、事物が順番に現れるという意味の現象と、智恵を順番に適用して事物を特定する心霊界の二つが重なっていると思う。



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2009年01月04日

2009/1/4・私の夢想(内なる宇宙・如来の存在)2

これが、2009/1/4。21時55分現在のアクセス状況です。


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今日の記事が、全部、上位で閲覧されています。

私は、これを見て、皆さんは何かを求めて、私のブログを閲覧されていると感じます。

ご存知のように、私は、仏教関係の大学を卒業したのでもなく、物理などの理科系でもなく、哲学を学んだのでもありません。

三流の法律科を学び、心理学は学んでいませんが、意識については興味を持っていました。

以前、書きましたが、仏典は「 光 」と書いてあっても、「 光は電磁波である 」とは知りません。

この観点から、仏典を、もう一度、解釈をしたいと思っていました。



ここで、何か、考えた事を書いておきます。

空間意識や時間意識を作る物は、「 阿弥陀如来 」であり、人間である以上、阿弥陀如来様から、逃れられないと思う。

人工知能が、時間や空間を作るなら、それを見てみたい。

私が、「ガイア的」な地球の一つの生命体に戻るのは、阿弥陀如来に戻る事だろうから、親族が私の死後、念仏を唱える事は許されるだろう。

人類、いや生き物全てに、阿弥陀如来様が生きていると思えば、殺しあう事も無いだろう。

自分と同じ如来を抹殺する事など、出来ないと思う。

顔や形が違うのは、阿弥陀如来が、個性がある人体という乗り物に乗っているだけで、喜んでも悲しんでも、平等に死ぬと思えば、同情も湧いて来ると思う。

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2009/1/4・私の夢想(内なる宇宙・如来の存在)8

私は、「2008/12/29・私の夢想(内なる宇宙)7」の中で次の記事を書いた。


「無明」は、エネルギーの領域だと思うので、書く事は出来ないが、「無明」から「無意識」と「意識」を見る景色を、宇宙空間の地球を見るような景色と想像する。

青々とした大気圏が「無意識」であり、幾重にも大気の層は、「意識」の層で、岩石に囲まれた「地球」が、「自分」であるとする。

青々とした大気は、如来様(nyoraisama)から出た光が反射する「煩悩」である。

なぜなら、如来様(nyoraisama)の光や電磁波に「色」は無いからだ。



2009/1/4、考えた事。

如来様(nyoraisama)の存在について考えた。

阿弥陀如来( Wikipedia より引用する )

阿弥陀如来(あみだにょらい)とは、梵名は、「アミターバ」(अमिताभ [amitaabha])、あるいは「アミターユス」 (अमितायुस् [amitaayus])といい、それを「阿弥陀」と音写する。大乗仏教の如来の一つ。西方にある極楽という仏国土を持つ(極楽浄土)。阿弥陀仏・弥陀仏ともいう。

また、梵名の「アミターバ」は「無限の光をもつもの」、「アミターユス」は「無限の寿命をもつもの」の意味で、これを漢訳して無量寿仏・無量光仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。

(引用を終わる)

私が注目するのは、次の箇所である。

「 これを漢訳して無量寿仏・無量光仏ともいう。空間と時間の制約を受けない仏であることをしめす。無明の現世をあまねく照らす光の仏とされる。」



私は、「意識は電磁波である」として、空間は空間意識として、時間は時間意識として、電場と磁場のように、交差するものと考えた。

時間や空間が、本当はどのような実体かは不明である。

存在すると思うが、現在、考えられている時間や空間とは次元が違う事も考えられる。

世界中の皆が存在すると思うように、時間や空間が存在するだろうという意識が、人間に存在するから、存在する。

時間や空間の客観事実として提示しているのは意識であって、絶対真理としての「時間」と「空間」を人間は知らない。

意識を作り出す仏は、自分が作った空間意識と時間意識の制約を受けない、つまり「 空間と時間の制約を受けない 」と解釈する。



空間意識や時間意識を生み出すのは、「 阿弥陀如来 」である。

これが、私の現在の考えである。

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2008年12月29日

2008/12/29・私の夢想(内なる宇宙)7

現時点で考えている私自身の構造を要約する。


暫定的な自分の構造

今まで、「意識」の方向から、自分を見ていたが、原則は「無明」であるという方向から考えるようになった。

今までは、「意識は電磁波である」から、電磁波や光を意識に当てはめていた。

「意識」は「知識」だと思うから、社会で学ぶ「知識」から、自分の意識が喚起されるのは理解する事が出来る。

これは、「 心 」が、外に出て、その「 心 」と「 心 」の触れ合いが、教育であると思い、「知識」からの意識の喚起を主に考えていた。

それは、「精神」の伝達であり、教育は可能である事に変化は無いが、「無明」の方向から考えると、「無意識」や「阿頼耶識(arayasiki)」と社会の関係の展開に期待する事が出来る。

「無明」からの展開。

私の存在の全てを、「宇宙空間」と一緒に「無明」が囲む。

「宇宙空間」から書くのが客観的だろうが、私は、自分を抜け出す事は出来ないから、「無明」の方向から、「宇宙空間」に出ようと思う。

「 心 」の中は、真っ暗な「無明」だろう。

「無明」は、エネルギーの領域だと思うので、書く事は出来ないが、「無明」から「無意識」と「意識」を見る景色を、宇宙空間の地球を見るような景色と想像する。

青々とした大気圏が「無意識」であり、幾重にも大気の層は、「意識」の層で、岩石に囲まれた「地球」が、「自分」であるとする。

青々とした大気は、如来様(nyoraisama)から出た光が反射する「煩悩」である。

なぜなら、如来様(nyoraisama)の光や電磁波に「色」は無いからだ。

大気の流れは、台風も含むだろう。

その一つの台風が「自分」の「意識」である。

台風が熱帯低気圧になり消えるように、私の意識は、大気圏に消えて、身体は、「地球」の中に消えるだろう。

その大気の中で、「有害ガス」が、「執着」や「執念」などの消えた「自分」に対する「愛着」であると思う。

消えた自分は、「無明」が無い自分だから、悟り、輪廻転生をしない人、または、死後の自分。

青々とした「煩悩」の中で、台風の存在が、自分の意識であり、

「地球」は、「肉体」

である。

地球の電磁気が、身体の電磁気であり、意識や無意識を生み出し、「煩悩」が重力となり、意識と無意識を「肉体」の周囲に引き付けると解釈する。


地球上は「現実生活」であり、地球の内部は「宇宙空間」や精神世界として広がり、自意識が、「身(身体)」・ 「口(言葉)」・ 「意(意識)」という人間の行為というマンホールを通過して、現実世界と「無明」を結ぶ。


「無明」に充満する「意識の定在波」が、マンホールから出た意識が、「精神」や「知識」となる。

「意識の定在波」が「六道」の一つの道ならば、マンホールから出た「意識の電磁波」も、精神世界の「六道」の一つであるだろう。

これで、今までの記事が連結したと思うが……。

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2008/12/29・私の夢想(内なる宇宙)6

「私の夢想(内なる宇宙)」5の結論は、以下の文章でした。

「 心 」は、以前は「無明」中に存在していたから、「意識」と「無意識」を連結する物は、生み出した自分の中に存在する。

「客観性」が存在するが、本来は、自分だけが知っている。

「知識」と「智恵」の関係である。

身体の外部に出ると「知識」となり、身体の中の「無明」の中では「智恵」になる。




2008/12/29、考えた事。

智恵と知識

智恵と知識が、上記のような構造であるという考えは維持する。

智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。



「過去に、互いに関連し合った二つの物体が、いま数光年、離れているということもありうる。その二つは別々の銀河系にあるかも知れない。しかも、その一方を観測するや、他方はただちに、第一の観測値に対応した値をとるという。EPR は、量子力学と論争するために、かって接触を持ったことのある物体間のこのような驚くべき関係をあばきだした。量子力学が暗示するところによれば、過去に一度接触をもつと、その接触が切れてしまったあとでも、物体間には特別な相関が存在するという。……(中略)……アインシュタインは異論をとなえるかもしれないが、私は過去に関係をもった二つの粒子の、このような「量子的相関」を「アインシュタインの相関」とよぶことにしている。アインシュタインはEPRの議論の中で、そのような関係は不合理だから排除しようとした。彼は、量子力学は不合理な関係をつくり出しうるということを最初に指摘した名誉の保持者でもある。」

「量子の謎をとく(F.A.ウルフ著。中村誠太郎訳)221〜222ページより引用



私は、物理学は知らないが、この「相関関係」にある二つの物体を、「智恵」と「知識」に置き換えると、二つが一つの関係で結合して、一方が変化すれば、それは他方にも影響するという結論となる。

「かって接触を持ったことのある」のは、自分の中で、「無明」から「知識」が生まれた事と解釈する。


「不合理」であるのは、「アインシュタインの相関」を知識や学問で問題とすべきではなく、「無明」の中の意識の問題であり、「 心 」の問題であるという意味だと解釈する。


「不合理」は排斥されるべきではなく、

「不合理」が「真理」かも知れない。



「知識」と「智恵」が動くのではなく、自分の意識が、数光年、離れている、内なる「無明」と外部の「宇宙空間」を、出入りし、一方が変われば他方も変わる関係であるという考えを持っている。


私には、私の「智恵」と「知識」がある。

「知識」や「智恵」は、私が持っているという意味で、「局所的」であるが、私の所有物ではなく、「局所的」な因果関係でもない。

非局所的な「宇宙空間」の知識を、意識として「局所的」にして持っているのが、「内なる宇宙」の智恵であり、二つは、一方が変われば他方も変わるという「相関関係」であると思っている。

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2008年12月28日

2008/12/28・私の夢想(内なる宇宙)5

「私の夢想(内なる宇宙)4」の結論は以下の文章だった。


私が、「夢」のなかで、合理的に進まないから、夢は現実ではないと思うが、如来様(nyoraisama)にとって「合理性」は真理ではなく、私にとっての「非合理」が、如来様(nyoraisama)の「真理」かも知れない。

そのマンホールのような夢という通路を通して、人間は、皆、宇宙空間と「無明」を往来していると思う。

そのマンホールは、人間が作った「合理性」であると思う


2008/12/28、考えた事。

マンホールから出ると、光ある世界、意識ある世界であると考えるが、これは、感覚が生まれた後の世界、生きている世界の事だと思う。

マンホールが「合理性」とは、誰にも共通の感覚を通過する事、言い換えると「客観性」である。

マンホールを通過すれば、自分も、その「客観性」に同調してしまう。

それが、身体の外に出た「 心 」だと思う。

「 心 」は、以前は「無明」中に存在していたから、「意識」と「無意識」を連結する物は、生み出した自分の中に存在する。

「客観性」が存在するが、本来は、自分だけが知っている。

「知識」と「智恵」の関係である。

身体の外部に出ると「知識」となり、身体の中の「無明」の中では「智恵」になる。



私は、「無明」の世界から、「無知」の世界から書いているので、人は私を信じない方が良い。

私の考えの一つを書いている。

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2008年12月26日

2008/12/26・私の夢想(内なる宇宙)4

「宇宙空間」と「無明」の境界について。

前者は、意識の前に広がる空間である。

私は、「無明」から生まれて「無明」に帰るが、そこは地球上の一つの生命体だと思う。

それは、本来の私が住んでいるのは「無明」の生命体の中だろうと思う。

人類に共通する物は、その「無明」の力があるのだろう。

人間には、「無意識」の領域が多い。

宇宙の中で、地球が存在するように、「無明」の中に「意識」が「 心 」が存在するのだと思う。

暗闇の中の明るいマンホールのように、暗い無明から「意識」の世界を見ると、明るい「光」の世界だろう。

生まれて来る時も、死後も、このマンホールを通過するのだと思う。

そして、現実世界、以前、書いたように、如来様(nyoraisama)にとっては「夢」だろう。

仏陀が、思うようにならない世間を「苦」としたが、仏陀は、如来様(nyoraisama)の使徒だと思うと、如来様(nyoraisama)が仏陀の身体を通して「苦」と考えているのだと思う。

この世は、如来様(nyoraisama)にとっては「夢」だから、如来様(nyoraisama)の思う通りに物事が進まない。


私が、「夢」のなかで、合理的に進まないから、夢は現実ではないと思うが、如来様(nyoraisama)にとって「合理性」は真理ではなく、私にとっての「非合理」が、如来様(nyoraisama)の「真理」かも知れない。

そのマンホールのような夢という通路を通して、人間は、皆、宇宙空間と「無明」を往来していると思う。

そのマンホールは、人間が作った「合理性」であると思う



人間は、「無明」の中に生きているのであり、意識の世界は、社交場である。

意識の世界も、「無知」であり、知る事が出来ないという性質は「無明」と同じだと思う。





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2008年12月24日

2008/12/24・私の夢想(内なる宇宙)3

2008/12/21、考えた事。

慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗


習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。





2008/12/24・考えた事。

上記の記事を説明します。

私は、物理の用語を使いますが、物理学は全く知りません。

用語は、「現象」の中で、理解する事が出来る考えだから、これを利用しているだけであり、実験により、その真偽を主張したいとは思いません。



慣性力は、「欲望」。

私の身体が動いている時が、「 今 」であり、今、身体を動かす力やエネルギーは「欲望」であると思います。

私の「利己愛」の強さにより、欲望を働かせる時、(欲望を排除する時も、欲望により決定する時も)のエネルギーの大きさが違います。

古典物理学が、現象世界を説明するのに便利であれば、「欲望」は、物を動かす時の「慣性力」に該当すると思います。


重力は、「煩悩」。

これは、「利己愛」が、自分という領域を区切り、本能である「快感」の原因と結果を決定し、「利己愛」の存続を図り、「快感」の増大を図る時、因果関係の集まりが、自分の周囲を取り囲んで、環境を自分の都合の良い方向に変えます。

増大した「快感」の総量が、「煩悩」であり、自分に都合の良い方向に考える力が、「重力」に該当すると思います。

これは、末那識(manasiki)の働く範囲であり、人間は誰でも持っています。

自然界で、「万有引力」が存在するように、人間は台風の暴風雨のように、この「重力」を持っています。


質量は、「利己愛」「自分への執着」。

これも、誰もが持っていて、自分の利益のために行動するのが人間です。

社会の体制が、共産主義になっても、個人の欲望の中に「利己愛」がある限り、社会の体制では解決しません。

解決を社会に求めるのではなくて、個人の内面の努力により、克服する問題です。

なぜなら、私は、「他人を利益に導く」事は、意識や魂や精神を「転生」させるために必要だと思いますので、「利己愛」を徹底すれば、「他人を利益に導く」事になると思います。


光は、「意識」。

これは、以前から書いていますが、「 今 」は、意識という「光」が照らされる「出来事」や「印象」という阿頼耶識(arayasiki)の範囲だと思います。

「意識」が「 今 」しか存在しないと言うのは、人間は、「光」の最先端に位置していて、常に過去に向かって意識していて、身体が動く時が、「 今 」なのです。

「意識」は「光」が照らす「 今 」に存在します。


これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。
欲望=利己愛×意識の二乗



自然法則のE=mc2+P が、原子レベルでも成立する考えならば、「精神」の中でも成立すると考えます。

これは、「六道」の全ての道を歩く人に該当すると解釈します。

これは、「六道」から脱出する事が可能だという意味であります。

「利己愛」を「意識」としてエネルギーに変換するならば、前述のように「利己愛」は「他人への利益」となりますから、「六道」から脱出が可能になると思います。

その変換を助ける菩薩が、「如意輪観音菩薩」であるかも知れません。



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2008年12月23日

2008/12/23・私の夢想(内なる宇宙)2

Yahoo USA が、「私の夢想(内なる宇宙)」を登録してくれました。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxlR01BJoiQB.L2l87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E5%A4%A2%E6%83%B3%28%E5%86%85%E3%81%AA%E3%82%8B%E5%AE%87%E5%AE%99%29&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-501&fr2=sfp

私が、「私の夢想」を、何処で放棄するのか、私自身も知りません。

ただ、夢想するだけです。


私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、「意識は電磁波である」という言葉で、仏教とは違った考えになったとおもいます。

「無明」についても、仏教的ではありません。

「無明」は、「煩悩」などの根源と思われていますが、私は、全ての意識の根源であり、「無明」を解明した方が良いと思うのです。

誰かが、人間は肉袋だと言いましたが、私も同感です。

身体の外は、目の前が「大気圏」であっても、「宇宙空間」であります。

人間には空気が必要と同時に、人間には希望が必要です。

希望は、「無明」により、存在が可能です。

身体の外は、「宇宙空間」で、それに対して、人間は根源的に「無知」であります。

精神は、「無明」の中に「意識」が存在し、意識は無明を根源に含むと思います。

身体の外は「宇宙空間」で、身体の内、例えば精神は「無明」により、人間は取り囲まれていると解釈する。

身体は、台風のように、一定の条件で、「ガイア理論的」な循環から作られ、根源は「無明」である。

人間の精神は「無明」から生まれ「無明」に戻るならば、「煩悩」の根源として「無明」を無視するのではなく、「浄土」や「極楽」や「地獄」は、「無明」であると解釈する。

後で書くが、「煩悩」が人間に存在するから、人間は「生きている」と思う。

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2008年12月22日

2008/12/22・私の夢想(内なる宇宙)1

2008/12/21、考えた事。

慣性力は、「欲望」。

重力は、「煩悩」。

質量は、「利己愛」「自分への執着」。

光は、「意識」。




これを、自然法則の E=mc2 に当てはめる。

欲望=利己愛×意識の二乗

習慣的な行為をする意思が無い場合は、ここで終わり、欲望の達成に満足して終わる。

しかし、質量の「利己愛」が異常に大きい時は、意識の時空間が歪んで重力の「煩悩」が発生し、快感を求める意識が「利己愛」によって始点と終点が区切られて定在波となり、「六道」の「系」に乗る。

自然法則は、「系」が違っても、同じく成立するから、個人は「煩悩」の台風であり、暴風雨として、欲望=利己愛×意識の二乗+「六道のエネルギー」を持って「六道」の系を動くという結論になる。

2008/12/22、考えた事。

この方針を維持するには、どんな方法があるのか、考えた。

もちろん、仏教ではない。

この考えを、宇宙に拡げると、どんな事になるだろうか?

「 心の内なる宇宙 」の展望である。

前述のように、一般相対性理論で説明される宇宙に似た「内なる宇宙」である。

「六道」を、太陽系の惑星の六個に当てはめて、太陽に如来様(nyoraisama)を当てはめる。

そして、「 真っ暗な宇宙空間 」は、「無明」なのだ。

宇宙空間の中に星や太陽系がある。

宇宙空間と星と太陽系が、時空間で融合している。

「 光 」は、「 真っ暗な宇宙空間 」が存在するから見る事が出来る。

「 宇宙空間 」に「無明」。
「 星 」に「 人体 」。
「太陽系」に「六道」。
「 光 」に「 意識 」。

これを置き換えると、「 無明 」は、物体を物体として存在させる背景で、存在には不可欠の物。


これが、私の「存在と無」である。


私は、仏教の「無明」の位置の変更を要望する。


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