2009年01月17日

2009/1/17・私の夢想(内なる宇宙は胎内)2

これが、2009/1/17・21時30分現在のアクセス状況です。

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「私の夢想(内なる宇宙は胎内)」が、上位で閲覧されています。

大変、感謝しますが、この先は、全く不明です。

これから、「内なる宇宙」の「無明」と、「宇宙空間」を、どのようにして結ぶのか、迷っている状態です。

「 智慧 」と「 知識 」が、「 体験 」から分かれ、その両者には、「親子の関係」にも似た相関関係がある事がヒントになると思いますが、「 意識 」との関係が不明です。

まずは、上位で閲覧して頂いたお礼を書きました。



Poor thinking is as good as no thinking.


2015/1/27、私の現在の考え3・世界内存在を参照


2015/2/1、私の現在の考え6・意識の生成を参照
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2009/1/17・私の夢想(内なる宇宙は胎内)

今日、思いました。

「 内なる宇宙 」は、

私が生まれる前の「 胎内 」である。


誕生前と誕生後は、「 無明 」と、「 宇宙空間 」の違いである。

それは、「 智慧 」と「 知識 」に別れ、「 主観的時間 」と「 客観的時間 」に別れると思いました。

「 内なる宇宙 」の自分は、胎内の自分に該当する。

「 意識 」と「 無意識 」も、多分、この区分から生じるだろう。

私の考えも、単純でした。

私の考えも、この程度の考えです。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 19:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 F | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月13日

2009/1/13・私の夢想(内なる宇宙・智慧と知識と意識)2

これが、2009/1/13,19時45分現在のアクセス状況です。

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9 2009/1/3・私のブログ(これまでの経過)


今日の記事の閲覧がトップである事に、感謝しています。

私のブログは、宗教的な考えはありません。

仏教に興味を持つ人は、LOVELOG の中でも、「日本ブログ村」でも、多くのブログがありますので、それを見てください。

私は、私のブログの方針で書きますので、間違いがありますから、注意して閲覧してください。

では、少し書きます。

@智慧と知識が一体であった関係とは、「 体験 」です。

体験から、両者が生まれ、「合理的」な現実生活と、その中の自分という末那識(manasiki)により、将来も合理的で使用可能な因果関係を、身体の中の「無明」と結合している智慧から、知識として、精神の中に保存すると思います。

ですから、何年も年月が経過しても、「懐かしい」のです。

知識の中で智慧が働くのではなくて、智慧の中で知識が働く事が、ちょうど「親」を手伝う「子」のように、望ましいものだと思います。

その「親子の関係」が、「相関関係」であると思います。

自分が生きるために、社会で働く「子」が、合理性や末那識(manasiki)の中で働く情(zyou)だと思います。


漢和辞典を見れば、「情(zyou)」の日本語としての意味は次の通りです。

@こころ
こころ持ち
感情

Aまこと
本当のありさま、
真心
実物
実情
情報

Bおもむき
風情

Cなさけ
思いやり
あわれみ
同情

D男女間の愛情
情欲

私の情(zyou)は、二つの意味です。

一つは、自分の生命に関する情報で、もう一つは、情(nasake)という、人情や同情に含まれる、本能的な感情です。


情(zyou)をAの「本当のありさま」や「情報」として合理的に取り出すと「知識」になり、@やCやDのように、本能的な感情として、「無明」の中に止めると、「智慧」となると解釈します。

私の立場では、「 こころ 」は、阿頼耶識(arayasiki)ですので、情(zyou)は、過去の状態と未来の状態を意識の電磁波的構造で結ぶものだと解釈します。


日本で「情けは人の為ならず」。

英語では、「Kindness is never lost.」

これは、他人の為と思っていたのに、自分の為になったという意味だと思いますが、智慧を出し合って、自分と他人が共存する世界が、知識の世界だと思います。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 20:18| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 F | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009/1/13・私の夢想(内なる宇宙・智恵と知識と意識)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私が書いて来た事を、簡単に要約しておく。

2008/12/29私の夢想(内なる宇宙)6
2009/1/5私の夢想(現象界・心霊界・波動関数)

この中の記事で、この世が「無明」の中で、現象界と心霊界の重複があると仮定すれば、智慧は、その時点ごとの心霊界の波動関数(知識)と事実との相関関係である。

これは、「時間意識」と「空間意識」が、電磁波の構造で存在するならば、前者が心霊界で、後者が現象界に相当する。

2009/1/8・私の夢想(内なる宇宙・智慧と知識)13

その時点で獲得された智慧が、合理性というマンホールを通して、一方が変化すれば他方も変化するという相関関係の形として、知識を作り、末那識(manasiki)が「道具」として保存する。



2009/1/13、考えた事。

智慧も知識も、意識を媒体として連結している。

意識は、「時間意識」と「空間意識」という電磁波の構造を持つ。

智慧は、私の「無明」の中に所属し、知識は身体の外部、または身体の内部に所属する。



身体の内部とは、意識と無意識と阿頼耶識(arayasiki)の中であり、「 今 」の意識に、記憶力により、復活する。

これは、「時間意識」の中の「相関関係」の復活である。



身体の外部とは、ネットの情報から知識を得るように、社会の精神の中に所属し、私の現状に合う波動を、私の中の「無明」の智恵に、「関係」として取り入れる。

これは、「空間意識」の中のエネルギーの取得である。


身体が、新陳代謝するように、今の「 意識 」の中で、「合理的」であるか否かの基準で、智慧も知識も、自分を形成する末那識(manasiki)の働きで、新陳代謝していると考える。

私の頭脳の構造に合った、「智慧」や「知識」しか、持っていない事を「新陳代謝」と言う意味に使っている。

「 意識 」は、時間と空間が混在した心霊界の中で、一定の速度を持った関係として「 今 」に集中して、「私の無明」のエネルギーが解消する「合理的」な関係を選択すると思う。


一定の速度とは、「新たなエネルギーの取得」の速度と「記憶」の速度を区別する事が出来ないから「一定」であると現時点で仮定する。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 04:39| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 F | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月08日

2009/1/8・私の夢想(内なる宇宙・智恵と知識)13

これまでの記事。

「2008/12/29、私の夢想(内なる宇宙)6」


智恵と知識は、根本に「無明」を持ち、「客観性」や「合理性」というマンホールから出た「無明」が「知識」だと解釈する。

知識が客観的で、智恵は主観的というのは、上記の通りである。

知識を、私の主観で智恵に変えるのではない。

智恵と知識は、「無明」という意識で結合して、知識が私の主観に入って智恵になるのではなく、本来、一つの「相関関係にあった」因果関係が、「宇宙空間」と「無明」に別れただけであり、それらが「意識」により結合し、「智恵」が変われば「知識」も変わるのである。

2009/1/8・考えた事。

この考えを維持すると、如来様(nyoraisama)に反対する事になるかも知れない。

精神の中の「 物理学 」や「 哲学 」や「 心理学 」は、「 局所化 」であり、その分野で合理的な因果関係を「 知識 」とする。

それは、誰にとっても同じという意味で客観的であり、時空の対称性を持つ因果関係である。

知識の中の「意識」が、「無明」の領域に入ると、時間を伴った「三毒」が作用して、歪曲された知識を内容に持っている私の「 智恵 」であると思う。


出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

貪(とん)は、仏教が教える煩悩のひとつ。
別名を貪欲、我愛という。万の物をむさぼる心である。 このような心は、我(近代哲学でいう自我に近い)を実体的なものとして把握してしまう誤りから起こる。
怒りの心である瞋、真理に対する無知を意味する癡(痴)とあわせて三毒とされ、仏教で最も克服されるべき対象(人間の諸悪・苦しみの根源)とされる。
三不善根のひとつであり、六根本煩悩のひとつ。


私の「 智恵 」は、客観性も無く、主観的真理であり、今、私が何を書いているのか不明であり、他人から理解する事は出来ない物語である。

「仏の智恵」とは違って、私だけに通用する局所的な考えであるが、これを維持する。

これが、末那識(manasiki)の働きであり、生きている間は、従う欲望だと思っている。

私の混沌とした無明の中の「 智恵 」から、「光」として発した意識が、私の考えた時間を意識に凝縮して、社会の「合理性」というマンホールを通過して、「知識」になる事を願っている。




四大智恵」について、考えた。

如来様(nyoraisama)に唾を吐く事になるかも知れないが、「四大智恵」は、人間も持っていると思う。

「 大円鏡智 」は、人間の阿頼耶識(arayasiki)の中にも存在すると思う。

これは、私が「 外に見える心 」の領域に入って来る物に気付くのと同じ性質だと思う。

「 外に見える心 」を「動物が持つテリトリー」と解釈する。

この「 外に見える心 」を、自我意識も国境も超えて、境界が無くなった状態は、「 平等性智 」で言う「 大宇宙は真実の私どもである」に結びつき、「 大我 」となる。

「 部分に分けられない唯一の心 」という「妙観察智」は、私として「局所化」する事が出来ない事を知る心で、「 宇宙が一体である事を知る 」心だから、私の構成物が如来様(nyoraisama)の宇宙の構成物であると自覚する心だろう。

これも、以前、書いた。

「成所察智」は、「 阿弥陀如来 」を心霊界の太陽と思う事で、私と同じ意見である。 

私の興味は、意識の分析ではなく、現実生活の分析である。
「 四大智恵 」と言って、「 知識 」として持つだけでは、現実を分析する事は出来ないと思う。

まだ結論は出ていないが、当面の総括である。

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2009年01月04日

2009/1/4・私のブログ(睡眠欲)

今日は、「睡眠欲」について、私の考えを当てはめる。

@「無明」は、肉体の中の無意識の中では、「無我」というエネルギー、あるいは阿頼耶識(arayasiki)として存在し、末那識(manasiki)により、快感と不快感を生じて動きます。

それは、本能だと思います。

何を快感や不快感にするかは、「無明」の中の「霊」かも知れません。


睡眠欲
出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』

睡眠欲 (すいみんよく) とは、眠気として感じられる睡眠に対する欲求である。食欲・性欲と並ぶ人間の3大欲求の1つとされる。

睡眠欲にどこまで抵抗出来るかは、断眠実験によって調べられている。自発的に眠らずにいられるのは、2週間前後が限界であるようで、その後2〜3日熟睡した上で、健康を回復するという。

睡眠に関する基礎知識
http://jssr.jp/kiso/kiso.html


睡眠は、誰に言われなくても、頭脳が要求する。

人間は、地球上に住み、太陽や大地の恵みを受けている事を考えると、生活のリズムを太陽に合わせる事が、最も太陽から恵みを受ける事だと思う。

太陽は、「光線」だけではない。

カルシウムで骨を作る時、太陽光線が必要なように、太陽の不可視光線の効果があると思う。

見た眼で、効果を判断すると間違う。

この世は、現象であるから、見えない物も考える必要があるだろう。


A意識は、電磁波の構造を持ち、時間と空間の意識が生じると思います。

末那識(manasiki)が阿頼耶識(arayasiki)の因果の中から、好き勝手な因果関係を取り出して、始点と終点を結んで、意識の定在波を作ります。

それは、道具性や合理性を持ち、習慣的に行為すると末那識(manasiki)の「 自意識 」により、欲望を持った「六道」の軌道に乗ります。




睡眠は、頭脳が要求する欲求であり、意識的に眠りをコントロールする事は、困難だと思う。

「眠れない」というのは、病気だと思う。

私は、次の「 利己愛 」を考えて、解決する事が出来ない時は、医師に相談して、催眠薬を飲んで眠り、正常な脳の活動を期待する方が良いと思う。


B「六道」は、身(身体)・口(言葉)・意(意識)のマンホールを通して、社会に出て、社会の「六道」の仲間に入ります。



老人に「不眠症」の人が多い。

医師から催眠薬を処方してもらう人が多いが、昼は身体を動かして、日光を浴びるのも良い方法だと思う。


C「六道」は、欲望に包まれています。

E=mc2 は、菩薩に「すがり」、救いを求めて「六道」を離れるための欲望の大きさです。

「利己愛」が大きいと、それだけ苦労すると思います。




「 利己愛 」が大きいとは、自分の将来を心配する事が大きい事である。

対策を考えて、眠る事が出来ない場合が多いが、その考えは、利己主義的な考えが多い。

「世の中は思う通りにならない。自分の考えは完全ではない。明日は、明日の風が吹く」

このように考えて、自分の考えを放棄した場合に、眠る場合が多い。


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2009年01月03日

2009/1/3・私のフログ(これまでの経過)2

「私のブログ(これまでの経過)」 m24658 で検索すると、Yahoo USA が、私の記事を登録しています。

Yahoo USA
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkifhWl9Jh1MAWIal87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E3%83%96%E3%83%AD%E3%82%B0%28%E3%81%93%E3%82%8C%E3%81%BE%E3%81%A7%E3%81%AE%E7%B5%8C%E9%81%8E%29%E3%80%80m24658&ei=UTF-8&iscqry=&fr=yfp-t-305&fr2=sfp



「鋭い」と言いますか、あるいは「無謀な」と言いますか、Yahoo USA は、私が、これから何を書くのか知らないのに、注目してくれます。

実は、私は、このカテゴリーで、「欲望」について、少し書きたいと思っていたので、要約したのです。

まるで、「真珠湾攻撃」を事前に察知しているようで、「 敏感さ 」については、驚きます。

簡単に書きますと、「 性欲 」が一番、興味があると思いますから、最後に書きます。

人間の三大欲望の「 睡眠欲 」と「 食欲 」、そして最後に「 性欲 」を書く予定です。

これらは、本能ですから、本来は、如来様(nyoraisama)から与えられた能力であり、何の恥でも無いのが、社会的な意識が加わって、違った印象を与えるようになりました。

それは、これから書きますが、人間の死後は、「 霊魂 」は、「ガイア的」に地球の一つの生命体に集まり、肉体は塵となって、地球を循環すると、私は、思っています。

その生命を維持するのが、「本能」で、本来の清浄な働きをさせるのが、私の目標となっています。

それでは、「 睡眠欲 」から書く事にします。

再会。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 21:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 F | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009/1/3・私のブログ(これまでの経過)

これまで、いろいろな事を書いたが、少しだけ現時点の要約をします。

流れは、「無明」が、肉体の中で

@無意識と

A意識の煩悩になり、、

B身・口・意を通して、社会に出て

C「六道」の菩薩に「すがって」、救いを願う。

という構造で、書きます。


@「無明」は、肉体の中の無意識の中では、「無我」というエネルギー、あるいは阿頼耶識(arayasiki)として存在し、末那識(manasiki)により、快感と不快感を生じて動きます。

それは、本能だと思います。

何を快感や不快感にするかは、「無明」の中の「霊」かも知れません。



A意識は、電磁波の構造を持ち、時間と空間の意識が生じると思います。

末那識(manasiki)が阿頼耶識(arayasiki)の因果の中から、好き勝手な因果関係を取り出して、始点と終点を結んで、意識の定在波を作ります。

それは、道具性や合理性を持ち、習慣的に行為すると末那識(manasiki)の「 自意識 」により、欲望を持った「六道」の軌道に乗ります。



B「六道」は、身(身体)・口(言葉)・意(意識)のマンホールを通して、社会に出て、社会の「六道」の仲間に入ります。

このマンホールとは、社会と個人を意識で結び、前者の知識の因果関係と、後者の意識の智恵の因果関係を結びます。



C「六道」は、欲望に包まれています。

E=mc2 は、菩薩に「すがり」、救いを求めて「六道」を離れるための欲望の大きさです。

「利己愛」が大きいと、それだけ苦労すると思います。



以上、要約を終わります。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 08:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 F | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする