2009年05月24日

2009/5/24・オカルト的思考(感受性)

2009/5/10 考えた事

私は、内なる宇宙を意識と無意識とエネルギーに単純に分類し、エネルギーは「流れる物」で意識と無意識は「流れる物から派生する物」として、「流れる物」は神経伝達とし、「派生する物」は、電磁波の構造で全身に伝わる物と考える。

「流れる物」から「派生する物」を規定する事は出来ないし、「派生する物」から「流れる物」を規定する事は出来ない。

しかし、「流れる物」が、「派生する物」の方向や、時間意識や空間意識の座標軸を規定し、あるいは座標軸の形成や変更を促すと考える。

「意識は電磁波(光)である」と思うから、私自身は、常に過去に向かって、自分を確認する意識と無意識の光を発していると考える。

「派生する物」は、「光」に可視光線と不可視光線があるように、意識は感覚に反応する周波数であり、無意識とは別の感覚、あるいは機能(機会の脳)に反応する周波数であると思う。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思うが、地球が宇宙空間で、どの方向に進んでいるのか不明であるように、私の「気(ki)に包まれた意識という生命体」も、方向が不明である。

簡単に考えると、地球とその周囲の大気圏が「意識」であり、電波が電離層で反射されるように、「意識」も「人の電離層」により反射されて、個人として意識し、電波が電離層を通過するように、「人の電離層」を通過するのが、「霊に似た気(ki)」であり、それが「普遍性」という意識だと思う。

「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。



2009/5/24・考えた事

意識も無意識も、「 感受性 」として統一されると考えるが、「 感受性 」とは何か。

それは、「 今 」という現時点から過去や未来に向かって意識の「 光 」を発し、その反応を感じる事だが、それは、個人の資質により相違する。

感じる問題は、「 今 」、存在するのであり、過去から時間性を持って、自分の中に存在したものではない。

過去や未来へ「 光 」を発し、意識では矛盾、無意識では「好き」や「嫌い」を感じるのは、自分の「 内なる宇宙 」での理由づけであり、外部に実体が存在するのではない。

自然は、矛盾がなく、個人の「好き」や「嫌い」に左右される事が無く存在し、調和しているものと考える。

意識では矛盾、無意識では「好き」や「嫌い」を感じるのは、個人の資質である。

個人の資質とは、「 頭脳が明晰か否か 」とか「 コンプレックス 」の有無とか、物理学や生物学や心理学により規定される自分の「機会」に対する「頭脳」の力である。


私は、生まれた時は、時間や空間は既に知っていても、社会的な言葉や思考など、一切は所有していない。

知識が社会的であるから、私が持つ知識は、社会的に判断するのは可能だろう。

フロイトの理論やユングの理論で、私を規定するのは許容するし、規定された瞬間に、私の全体は、違う物に変化しているだろう。

それは、私にとっては、矛盾の理由づけとして考えていて、言い訳の理由になっても、私の存在の全体を規定する事だとは考えていない。

無意識の感受性は、物体と同様に考えられるが、方向を決める、あるいは何を見るのか決定する「 無意識の霊という感受性 」は、社会から規定は出来ないと思う。

それを除いて、全ては、社会的、阿頼耶識(arayasiki)の内容で決定されるだろう。

「 無意識の霊の感受性 」は、意識の発生する方向に関係するかも知れず、それは、ニューロンの発火により、規定する事は不可能だろう。

神経物理学では不可能であり、時間意識や空間意識も含めて、「 意識の心理学 」を必要とする。


Poor thinking is as good as no thinking.


2015/1/26、私の現在の考え 2へと続く

2015/4/2、私の現在の考え 14・流れるものと派生するもの・三身即一 を参照
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2009年05月17日

2009/5/17・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉3

3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。





2009/5/17・考えた事。


義とは以前、以下のような文章を紹介しました。

義ー武士道
http://www.7key.jp/data/bushido/gi.html

「義」には「正しい行い」と同時に「打算や損得から離れた」との意味が含まれ、人間の根源的なエネルギーとされる欲望を制御しなければなし得ない。

現代人の多くが行動判断の基準としている合理的精神は、突き詰めれば「どちらが得か」との相対的なものである。

それに対し武士道における「義」は、普遍的な「良心の掟」に基づく絶対的価値観を基本とするいわば不合理の精神であり、「義」を遂行するためにはよほどの自立心を養わなければならないとされた。

新渡戸稲造はその著『武士道』で、武士道の基本は「フェア・プレイ」の精神と言っている。

フェア・プレイの根源とは「義を貫く」ということであり、武士は例え戦いに勝ったとしても、不正な行為をして勝った者は賞賛されなかった。

(引用を終わる)




私は、ブログのタイトルに、「霊は意識の総和である」と書きました。

私の結論は、「無意識の気(ki)や霊のエネルギーに逆らって、義のためには、意識の全てを捧げて行為すべき」となります。

無意識の気(ki)や霊を「感受性」で感じながら、行動するのが現実的ですが、昔の「 上杉謙信 」は、その自然の行為に逆らっても、「 義 」の行為をすべきと考えていたのでしょう。

私は、人の内心まで知る事は出来ないが、行為という形態に現れた内面の意思は、知る事が出来ます。

「 義 」は、人としての正しい行為をする事ですが、私は、人間が全身全霊で、何を行為するのかで、その人が何を「 義 」と思っているのか判断したいと思います。



Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年05月15日

2009/5/15・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉2

Yahoo USA に、私の記事が、掲載されているので、感謝の印として、次の記事を追加する。

Yahoo USA 「上杉謙信の言葉 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxfkRQxKzycBiIKl87UF?p=%E4%B8%8A%E6%9D%89%E8%AC%99%E4%BF%A1%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%91%89%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。


一般的に、「好き」や「嫌い」とか「苦」や「楽」という価値観が頭脳の中で、ニューロンを発火させて、生命を維持すると考える。

上杉謙信の言葉を信じて生きるならば、自然とは反対の行為をする事になる。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。





2009/5/15・考えた事。

上記のように、「死中生有り、生中生無し」に、「 無意識の感受性 」を当てはめてみると次のようになる。


「嫌い」の中で「人としての正しい行為の為に戦えば」「生命が維持され」、「好き」の中で「好き」を維持する為に戦えば「生命は維持されない」。


「苦」の中で「人としての正しい行為の為に戦えば」「生命が維持され」、「楽」の中で「楽」を維持する為に戦えば、「生命は維持されない」。

「好き」や「嫌い」、あるいは「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」である。

「人としての正しい行為の為に戦えば」を、「嫌い」を「好き」になって抵抗する、「苦」を「楽」として抵抗すると考える。

意識の中に、無意識の「好き」や「嫌い」として感じるのは、エネルギーが意識に影響しているのが原因であると考える。

「 無意識 」は、エネルギーからの影響であり、「 意識 」にとっては「予知」であり「予測」である。

意識という「派生する物」としての形態の中に、自分の身体が感じる「好き」や「嫌い」という意識の形態として、「流れる物」が現れると考える。

身体の中に「流れる物」に従って行動するのが自然であるが、流れを遡及して「流れる物」の源泉を求めた時、あるいは無意識の源泉を求めた時、つまり「流れる物」という現象を遡及して、「流れる物」の「本質」を求めた時、何故、生きるのかという「生命」の全体が理解される。



まず、身体の抹消神経の感覚器官から伝わった刺激が、「脳髄」に到達して、ニューロンが発火して、身体全体を反応させる「電気」が流れ、「流れる物」が生じ、無意識に「好き」とか「嫌い」という意識が生じる。

それと同時に、「 意思 」を身体の抹消神経の感覚器官に到達させて、「何者かを判定する」のが、「 意識 」である。

その時、「人としての正しい行為の為に戦えば」を、「嫌い」を「好き」になって抵抗する、「苦」を「楽」として抵抗すると考えて、無意識を発生させるエネルギーの源泉に対して「 意識的に 」抵抗した時、「天や神の力によって」、「生命を維持する」場合があるという考えだと思う。



「好き」とか「嫌い」という無意識は、「 予知 」や「 予測 」であり、「 意識的行動 」が、無意識の予知に対して、答えを提出する。

その答えは、「 保身 」の為でも解決としては同じであるが、「 保身 」の場合は、自分の利益を守る力だけであり、天や神は助力しないという考えだと思う。

こうして、私は、次の結論を出した。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。


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2009年05月13日

2009/5/13・オカルト的思考(気は生命の印)上杉謙信の言葉

1、「好き」や「嫌い」の発生


2009/5/11・考えた事

内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。




2、上杉謙信が残した言葉

2009/4/17・私の解釈「 死中生有り、生中生無し 」の記事で次のように書きました。

外国の人が、詳しい事を知りたい時は、日本語学校の先生に聞いてください。



「死なんと戦えば生き、生きんと戦えば必ず死するものなり。

家を出ずるより帰らじと思えば、また帰る。

帰ると思えば、これまた帰らぬものなり」



私の解釈

私は、上杉謙信が残した「 死中生有り、生中生無し 」というのは、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまう」事だと思います。

上杉謙信は、「 義 」を標榜した武士でした。

それは、紹介した「 義―武士道 」のURL をクリックすれば、知る事が出来ます。

ですから、私は、「 死中生有り、生中生無し 」の前提として、「 義 に生きる武士は 」という主語を付けます。

死ぬのが予見されている戦場に「 生 」を求めるのは、無謀です。

そこに「 義 」を組み込む事により、「打算や損得を超えて、人としての正しい行為」として戦う時、「 死のうと思って戦えば生き、生きようと思って戦えば死んでしまうのだ」という教えだと思います。



3、2009/5/20・考えた事。


1、の「好き」や「嫌い」を維持しながら、2、の上杉謙信の言葉を考える。

「死中生有り」の「死」は「 気(ki)の感受性 」の「不快」であり、「霊の感受性」の「苦」であると考え、「生」を「生命を維持する」と考える。

「生中生無し」の「生」は、「 気(ki)の感受性 」の「快」であり、「霊の感受性」の「楽」であると考え、後半の「生」を「生命を維持する」と考える。

そう解釈すれば、2、の上杉謙信の言葉は、個人的にあるいは社会的に「不快」や「苦」と思われる気持ちの中でも、義(人としての正しい事)の行為をすれば、「生有り」、つまり「生命が維持される」。

個人的に「快」や「楽」の気持ちの中で、義(人としての正しい事)を行わずに、「快」や「楽」を維持しようと行為すれば、「生無し」、つまり「生命は維持されない」という結論になる。


一般的に、「好き」や「嫌い」とか「苦」や「楽」という価値観が頭脳の中で、ニューロンを発火させて、生命を維持すると考える。

上杉謙信の言葉を信じて生きるならば、自然とは反対の行為をする事になる。


私は、これが「現象として現れる現実の中で、本質を生きる事である」と解釈している。

何故、自然の行為と反対の行為をするのかという理由は、「好き」や「嫌い」や「苦」や「楽」は、「無意識の感受性」であって、決定された事ではないからである。

「無意識」は「無意識」であり、無意識の中で、目標を持ち、「 意識 」的に行動すれば、「生命が維持される」と考える。


「義(人としての正しい事)」のためには、「無意識」の思惑を破って行動すれば、「生命を維持する事になる」というのが、上杉謙信の言葉の意味であると解釈する。


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2009年05月12日

2009/5/12・私の解釈(能力)

Yahoo USA は、「私の解釈 m24658 」で、私の過去の記事を保存しています。

Yahoo USA 「私の解釈 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkx73PwlKsw8AeJCl87UF?p=%E7%A7%81%E3%81%AE%E8%A7%A3%E9%87%88%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

非常に嬉しいのですが、皆様に役立つ知識が無いために、私のブログは、私の感情を書くだけの場所になっています。

これから、もっと非常識な事を書きますので、知識を求める人は、他のブログを見てください。


私は、これまで書いた「無意識の感受性」の延長上の考えで書きます。

私は、「無意識の感受性」を、「気(ki)の感受性」と、「霊の感受性」に分けて考えました。

これは、前者が体内の臓器に対する無意識が魂の無意識に結合し、後者が、先祖や人類一般の中の自分の無意識が、「自分が生まれたこの世で何をすべきか」への無意識と結合している事が、分けた理由です。

「無意識」とは、意識する事が出来ない物質的な意識であり、「流れる物」というエネルギーの一種だと思います。

「意識」は、脳の神経を流れる刺激や「流れる物」から生じた電磁波という「派生する物」であると思います。

「意識」から、思考経済上、「無意識」になったものは、「意識の定在波」として一定になり、一定の速度で、現実に現れ、物理的刺激となって、エネルギーになるでしょう。

それは、「学習による習慣」であり、「無意識の感受性」とは違うと思います。

「 意識 」の中の気(ki)を意識的に強くする事により、「派生する物」が「流れる物」を作る。


徹底的に「 意識 」する事により、脳という物質の中に「電流」を流す、あるいはニューロンを発火させる事が必要です。


それは、発明家の頭脳であり、人類には発明が必要だと思います。

「 砂漠に、光合成をする人工の葉を作る 」などの発明が必要です。

バイオテクノロジーが発展した現在ですから、不可能な事だとは思いません。


私は、「能力」を自分が所有している力であるとは考えません。

自分が所有する物は、何も無いと考えて、私に与えられているのは、「感じる事」つまり「感受性」だけだと思って、無意識を追求したいと思います。

天才は、無意識に、意識的行為をする。

そんな人は、素晴らしい人だと思います。



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2009年05月11日

2009/5/11・オカルト的思考(気は生命の印)価値観

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の記事を、Yahoo USA は、掲載してくれた。

Yahoo USA 「 気は生命の印 感受性 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklwEFAdKMRQAAAWl87UF?p=%E6%B0%97%E3%81%AF%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E5%8D%B0%E3%80%80%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


私の「気は生命の印」と言う記事に対して、奇妙な考えだとして、掲載してくれたと思うが、この記事の続きを書きます。


2009/5/10・考えた事。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

……(中略)……

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思う。

……(中略)……


「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。





2009/5/11・考えた事


内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。

無意識の感受性は、社会的であり、「意識の電磁波」から派生した「流れる物」であり、意識的ではなくて物質的だから、「 心理学 」の範疇に入るものと考える。

行動する時に、ケインズが言う「流動性選好」が、過去の記憶に対して行われて、行動へ現れ、意識を考えずに統計的に判断されると考える。


Every miller draws water to his own mill.

そして

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年05月10日

2009/5/10・オカルト的思考(気は生命の印)感受性

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



私は、内なる宇宙を意識と無意識とエネルギーに単純に分類し、エネルギーは「流れる物」で意識と無意識は「流れる物から派生する物」として、「流れる物」は神経伝達とし、「派生する物」は、電磁波の構造で全身に伝わる物と考える。

「流れる物」から「派生する物」を規定する事は出来ないし、「派生する物」から「流れる物」を規定する事は出来ない。

しかし、「流れる物」が、「派生する物」の方向や、時間意識や空間意識の座標軸を規定し、あるいは座標軸の形成や変更を促すと考える。

「意識は電磁波(光)である」と思うから、私自身は、常に過去に向かって、自分を確認する意識と無意識の光を発していると考える。

「派生する物」は、「光」に可視光線と不可視光線があるように、意識は感覚に反応する周波数であり、無意識とは別の感覚、あるいは機能(機会の脳)に反応する周波数であると思う。


「派生する物」に共通するのは、現在の感覚に受ける「 感受性 」であり、意識と無意識の感受性があると考える。

この「 感受性 」を、反射する物質、私の言う「脳の分離層」から考えると、「 ニューロンの発火点 」が違うのかも知れない。

物質的に考えると、「ニューロンの発火点」により、経済学の「流動性選好」のように、発火する場所を選んでいるのが「 記憶 」かも知れない。

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。

無意識の「気(ki)の感受性」がエネルギーの摂取であり、「電磁波(光)としての意識」の座標軸を形成し、その「 意識 」の方向を決定するのが「霊の感受性」であると思うが、地球が宇宙空間で、どの方向に進んでいるのか不明であるように、私の「気(ki)に包まれた意識という生命体」も、方向が不明である。

簡単に考えると、地球とその周囲の大気圏が「意識」であり、電波が電離層で反射されるように、「意識」も「人の電離層」により反射されて、個人として意識し、電波が電離層を通過するように、「人の電離層」を通過するのが、「霊に似た気(ki)」であり、それが「普遍性」という意識だと思う。

「霊」は、「 エーテル体 」で、宇宙の物質の隅々を満たし、私という人体も、宇宙の一部であり、全てを含むために、世界の誰もが、その存在を無視している、あるいは気付かないのだと思う。


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2009年05月09日

2009/5/9・オカルト的思考(気は生命の印)絵画鑑賞

2009/5/7・考えた事。

絵画は、一方では画家の「 意思 」としての構図や「 感情 」としての色彩、あるいは「 形態 」としてのカンバスである。

それを見る観客は、自分自身の「 意思 」や感情と画家の意思と感情を交流させる「 場 」として絵画が存在する。

観衆は、自分の意思や感情を見ているだけで、絵画は無限の観衆の感情を受け入れる。

絵画を見るのは、自分が何を考える事かを知る事であり、自分を見る事だと思う。

ゴーギャンの絵画が魂の叫びであるなら、私が見た物は、私の「 霊魂 」かも知れない。



2009/5/9・考えた事

美術館や画廊が、画家が「 魂 」を表現した絵画と、それを見る観衆の「 魂 」の出会う「 場 」と考えられる。

「 魂 」は、「 気(ki) 」というエネルギーが充満した状態と考えられて、絵画を見る事が、エネルギーの伝播だと考えられるが、絵画を見る観衆の、「 意思 」あるいは「 意識 」が無いならば、単なる「 見学 」になってしまう。

「 気(ki) 」というエネルギーは、「 意識 」されてから、その人の「 魂 」に伝播される。

「 気(ki) 」を「 意識 」する「 無意識の感受性 」が必要だと思う。

そのエネルギーの「 場 」の持つ「 気(ki) 」を「 雰囲気 」と言う。

この「 雰囲気 」にも、漢字の「 気(ki) 」が使われている事から理解されると思うが、「 状況 」に似て、「 現在 」にだけ存在する「 気(ki) 」が充満する「 場 」である。

そして、私のブログの記事が、世界のYahoo に掲載された状態が、「 霊 」の状態であるかも知れない。

このように「 霊 」は、「 気(ki) 」や「 魂 」というエネルギーを連結する「 文化 」であり、どのようなブログの記事を掲載するかは、「 文化 」という「 霊 」が作る「 引力 」であると解釈する。

つまり、「 魂 」という「 気(ki) 」の「 特殊性 」の共通項が「 霊 」という「 普遍性 」であると考える。

「 霊 」も、「無意識の感受性」により、「 意識 」の中に侵入するが、「 気(ki) 」の感受性とは、獲得する「 形態 」が違う。

「 気(ki) 」が、人体の皮膚呼吸により得られ、現在だけで得られる物であるとすれば、「 霊 」は、人体の全体を包む呼吸であり、呼吸が発する「 場 」の関連であり、呼吸と同時に「 社会の要請 」を感じる事が、「 霊 」の「無意識の感受性」であり、それは、人間の存在が不可逆である為に、未来にも形態が残ると考える。

呼吸という人体特有の「 気(ki) 」から離れて、言語や行動という「 文化 」が集結して、不可逆的な「 形態 」の連関の「 場 」になり、人類の意識の如何に無関係の連関が「 霊 」である。

この「 霊 」は、画家の作品でもある。

画家の「 気(ki) 」から発した「 形態 」が「 霊 」となり、現在の人々の「 気(ki) 」に影響した後に絵画に戻ると考える。

絵画の「 気(ki) 」と「 霊 」の交流が「 霊 」を媒介にして、「 気(ki) 」という自分のエネルギーを得る時に必要なのが、個人の「 問題意識 」であると解釈する。

人体に栄養になる食物を食べても、消化器官が必要であるように、精神的な「 気(ki) 」というエネルギーを摂取する為には、「 意識 」という「 自己組織力 」が必要なのだ。

それを欠けている状態が「 見学 」や「 観光 」と言う。

神社や仏閣も、美術館と同じ働きをすると思う。

普通、「 見学 」や「 観光 」には、「 気(ki) 」という「 魂 」や「 意識 」を必要としない。

しかし、信者にとっては、「 気(ki) 」や「 魂 」が交流するか否かが、神社や仏閣の存在価値である。

だから、神社や仏閣には、儀式が必要であるかも知れない。

「 儀式 」ではないが、神社や仏閣で、「 靴を脱いで裸足で歩きなさい 」とか「 合掌しなさい 」という規制は、信仰の場としての「 心 」であるが、「 魂 」の交流には必要な事であるかも知れない。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年05月05日

2009/5/5・オカルト的思考(無意識は霊)気は生命の印

これは、フィクションであり、オカルト的な思考である事をお詫びします。


私は、人間は霊長類である事を、地球の規模まで拡大する。

「 霊界 」が「電離層」であり、地球を囲む大気圏は、人間にとって意識や生命の世界だが、地球にとっても意識や生命の世界である。

「地球にとっての生命や意識の世界」とは、地球が枯渇して「 月(moon) 」のようになった状態を「死」と考えるならば、大気圏に囲まれた地球は生きていて、その内容は、私たち生き物であり、樹木が生きる事により、地球の保全に役立っているのだと思う。

そして、漢字の気(ki)は、天気や空気や大気圏の「気(ki)」と同時に、私たちの「生気」や「狂気」だけでなく、「気持ち」など、日本語の多くに精神的状態を現す気(ki)という漢字が使われている。

気(ki)は、生命体に充満する意識やエネルギーであり、自然界との境界は無いが、生命体の身体により区切られる。

それは、個人の身体を取り巻く「電離層」により、気(ki) が、閉鎖されていると考える。

普通、「電離層」は大気圏を取り巻いているが、人間に適用すれば、「電離層」は「 頭脳 」であり、身体を取り囲む「 霊 」であると考える。

「 電離層 」から脱出する電波が、人と人の意識の交流であり、「 電離層 」の「毛穴」から出た意識が「 気配 」(下記のWikipedia を参照してください)であり、「意思」が「形態」として具現化した状態であると思う。

時間的には、大気や空気を呼吸するリズムが「 主観的時間 」であり、個人の意識の座標軸を成立させるのだと思う。

気(ki)は、エネルギーであり、「 宇宙 」に充満する「 エーテル体 」ではないと思う。

「 エーテル体 」は、「 霊 」であり、引力と斥力が働くと考え、大気圏を空気という気(ki)の中を゜ 意識 」という「 光 」が通過する事を可能にしているのは「 霊 」である。

「 人を引き付ける魅力 」は「 霊 」であると思う。

宇宙空間に広がるのは、気(ki)というエネルギーできなくて、「 霊 」という、無限の「 場 」である。

この「 霊 」が、無限の宇宙が、私の身体に入り込み、私の身体は、「 霊 」の力で動いている。

これが、「 霊長類 」の特徴であると思う。


以下を参照してください。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97

気(き)とは、中国思想および中医学(漢方医学)の用語の一つ。一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこす。しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなる。宇宙生成論や存在論で論じられた。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97%E9%85%8D

気配
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』


気配(けはい/きはい)とははっきりとは見えないが周囲の様子から何となく漠然と感じられる様子、または転じて市場での売り方買い方の様子・動向を言う。

語源
この気配という語、元々は漢語ではなく和語の「けわい」(歴史的仮名遣い:けはひ)に由来する語で、「気(け)+這(は)うの名詞形」が元になったと言われる。

この「けわい」という語は何となく感じられる様子だけでなく、具体的に聴覚・嗅覚・触覚として感じた様子や、人の言葉や動作といった物腰から受ける人柄や品位、既に無くなったり離れ離れになったもの(故郷や故人)の面影や名残や影響なども含んだ。

なお、これに相当する英語表現にsignまたはindicationがあり、また気配を感じる事をsenseという動詞で表わすことがあるが前者二つの名詞は「徴候」といった意味で、後者の動詞は五感により読み取る事を含んだ「感じる」という意味であるため、なんとなく感じられる様子という意味での気配という語に相当する概念だけを表わす簡潔な語はない。

あえて背後から人に見られているときに感じる気配を英語に訳すと"Sense of being stared at"となる。
市場の気配の場合は、マーケット・インディケーション(market indication)と言われることが多い。

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2009年05月03日

2009/5/3・オカルト的思考(無意識は霊)無意識の感受性

無意識の感受性とは、無意識は霊であるが、それを、意識的に感じる「感受性」を持った方が良いという考えである。

2009/4/30・考えた事。

このように、気(ki)は不可視で、「流れる物」であり、日本では、天気や気候や大気圏、元気や気持ちよいとか病気とか、「 気(ki) 」という漢字が、人間を取り巻く自然のエネルギーや個人の精神状態について使われています。

私は、「霊」や「魂」が、人間の全てを覆い、前者は文化的意識、後者はエネルギーとして、過去は祖先の霊に結びつき、現在のエネルギーを考えても限界が無く、私という肉体的、精神的統一体として一体化していると考える。

社会的、現象的に見ると、私の身体として一体化しているが、それは本来、限界は無い物であると思う。

ネット情報では「エーテル体」などと言うが、私は、人間の周囲は「 気(ki) 」という、大気圏を超えて電離層まで届き、光や音を伝達する媒体が存在すると思う。

それは、「無意識」に自分の身体の中に侵入する。

肺で呼吸するが、「 皮膚呼吸 」という呼吸が、人体には存在する。

肺による呼吸は、大気を身体に取り入れる方法で、生きるためには必須の行為である。

皮膚呼吸も、人体の「 毛穴 」で呼吸するもので、この機能を失えば、大きな身体の負担になる。


この呼吸が、「 気(ki) 」を身体に吸い込む事で生命体に必須の事で、「 気(ki) 」に対して、敏感に反応する事も、「 信仰 」に加えて、「無意識」の「感受性」の能力開発の一つである。

この呼吸方法が、ヨーガとか「太極拳」の呼吸方法で、大気のエネルギーを取り入れる事だと思う。


2009/5/3・考えた事。

私は、ヨーガや「太極拳」の経験が無いから、気(ki)という自然エネルギーを、身体に取り入れる事は出来ない。

私は、神や阿弥陀仏により与えられた身体は、聖なる物、清き物と思う。

その身体を満たすエネルギーが、自然エネルギーと精神的エネルギーであると思う。

エネルギーには、境界が無い。

自分と自然の間にも、「 心 」のように、境界は無く、自然のエネルギーと精神のエネルギーに境界は無くて、無意識により連結している。

何故、「 霊場 」や教会や神社や仏閣があるのかと考えると、そこは、両者のエネルギーが集まる「 場 」であると思う。

宗教を求める時は、その「 場 」に出席する。

宗教とは、何か?


宗教の動詞は、「結びつける事、あるいは合一する。合わせて一つにするという意味の動詞である。その動詞から宗教が出た。従って、宗教は神人合一という事でして、絶対的に尊い神と合一すること」である。

(笹本戒浄上人の上巻374ページ「釈尊の宗教」より、要約した)


宗教を求めるとは、身体に聖なるエネルギーを注いで自分の身体を聖なる身体にする事であり、神人合一する為に、霊場や教会や神社や仏閣に参拝する。

エネルギーに境界は無いから、その「 場 」に参列すれば、「 場 」に充満しているエネルギーを獲得する事が出来ると思う。


これは、エントロピーの増大である無秩序な世界への抵抗であると思う。

私は、その「 場 」で、阿弥陀如来を想像して、「南無阿弥陀仏」と、念仏を唱えている。

しかし、この自然エネルギーも、精神のエネルギーも、「無意識」の状態で、身体に摂取されている場合が多い。

だから、「無意識」を意識する時、「神や仏陀に生かされていた自分」を感じるのだと思う。

この「無意識」を「 意識 」の中で感じる「感受性」を持つならば、神や仏陀に感謝する毎日を過ごす事が出来るだろう。


それは、後日、記事にする自然エネルギーの「気(ki)」と精神的なエネルギーの「 霊 」に対しての考えにも、有用であると思う。



2009/4/30の記事で、次の事も書きました。

肺で呼吸するが、「 皮膚呼吸 」という呼吸が、人体には存在する。

肺による呼吸は、大気を身体に取り入れる方法で、生きるためには必須の行為である。

皮膚呼吸も、人体の「 毛穴 」で呼吸するもので、この機能を失えば、大きな身体の負担になる。


この呼吸が、「 気(ki) 」を身体に吸い込む事で生命体に必須の事で、「 気(ki) 」に対して、敏感に反応する事も、「 信仰 」に加えて、「無意識」の「感受性」の能力開発の一つである。



2009/5/3・考えた事。

この方法は、「 気(ki) 」についての本もあるので、興味を持つ人は、購入してください。

ただ、私は「 気(ki) 」が宇宙の全てを支配するとは考えません。

気(ki) は、大気圏の中にしか存在しませんし、宇宙からのメッセージが気(ki) であるとは考えません。

ネット情報では「エーテル体」などと言うが、私は、人間の周囲は「 気(ki) 」という、大気圏を超えて電離層まで届き、光や音を伝達する媒体が存在すると思います。

その媒体は「 気(ki) 」ではなくて、「 霊 」だと思うのです。

「流れる物」だけでなくて、「派生する物」が必要で、「派生する根本」が如来様(nyoraisama)であると思います。

この事は、後日、自然エネルギーの「気(ki)」と精神的なエネルギーの「 霊 」に対しての考えの記事を発表する予定です。

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2009年05月01日

2009/5/1・オカルト的思考(無意識は霊の意味)気(ki)の意味

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


Yahoo USA は、私の記事を掲載してくれました。

Yahoo USA 「(無意識は霊の意味)気」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxvV.flJ1xQBqbml87UF?p=%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E9%9C%8A%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%80%80%E6%B0%97&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

「 気 」(Wikipedia から引用する)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97

気(き)とは、中国思想および中医学(漢方医学)の用語の一つ。

一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこす。

しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなる。

宇宙生成論や存在論で論じられた。

(引用を終わる)

私はブログで、「魂」はエネルギーで、「霊」は「魂」と「魂」を結ぶ時空の「場」であると書いてきた。

私のオカルト的な解釈を書きます。

オカルト的な考えでは、E = mc2 の「 E 」が「魂」で、「 m 」が肉体で、「 C 」が意識であり、「魂」が、天体の銀河系のように「霊」という「場」で、連結していると考える。

私は、E = mc2 を宇宙に共通な方程式だと考えている。

「 気 」を「E」 というエネルギーと解釈する。

E のエネルギーが連結する「場」が、「霊」であると解釈し、人体の時間意識では「先祖」に到達し、空間意識では、「 文化 」であり、「 文化 」の「知識」が「魂」というエネルギーの塊を連結すると考える。

「魂」というエネルギーは自意識であり、「霊」という「 場 」に対して、無意識である。

「魂」の全部は「霊」という「 場 」の上に浮いている。

これは、人体の内部の全ては宇宙空間(空気)によって満たされ、呼吸器は勿論、細胞も宇宙空間(空気)により満たされている。

この人体という物質の「場」を満たす宇宙空間(空気)を物質的な「 気(ki) 」(例えば、電気)とし、「霊」の「 場 」を実体化する意識を、精神的な「 気(ki) 」(例えば、正気や狂気)とする。

両者には、「 気(ki) 」という漢字が共通だが、その形態は、「範囲」として現れると思う。

前者が、自然の中で人体がエネルギーを獲得する「 場 」の感覚に現れる実体的空間の幅という範囲で、後者は、感覚に現れる「 可能性 」という幅の範囲であると思う。

前者が、人体の毛穴から感じて取得する情報であり、後者は、「 知識 」から、現状に合致して適用する事が可能な「 智慧 」を取得する事であると考える。

大気圏や空気など、天体に使用される「 気(ki) 」という漢字は、身体の中に「流れ込む」気体から発生したのだろうが、私は、「 気(ki) 」を「気体(kitai)」ではなくて、「空間」や「範囲」を満たすエネルギーであると解釈する。

「 気(ki) 」は、エネルギーを持った「気体」ではなくて、「場」を満たすエネルギーであり、「 場 」は「霊」であり、それを満たすエネルギーにより、物質の形状は変化するが、エネルギーとしては変化せず、次の形態に変化するというのが私の解釈である。

人体の外部の天体の「 気(ki) 」と人体の精神状態を現す「 気(ki) 」の両者は「人体」という「 場 」は同じだが、前者は「流れる自然のエネルギー」であり、後者は、「派生する電磁波に似たエネルギー」であると区別する。

それは、人体は「霊」としての「場」であり、「霊」を満たすエネルギーの違いであると思う。



Wikipedia の以下の解説は、私の考えとは相違する。

「一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこす。
しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなる」



私は、不可視で流動的である「気」が、どうして可視的な物質になるのか説明が不足していると思う



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2009年04月30日

2009/4/30・オカルト的思考(無意識は霊の意味)気(ki)

2009/4/28・考えた事。



この「無意識」にも「感受性」があると思います。

人の前ではなく、神や仏陀の前で、「無知の知」を告白しなければなりません。

「無知の知」を悟ったならば、「 心 」を開いて、「見えない智慧」、「知識を生む智慧」を受け入れる事が必要だと思います。

仏教では「南無阿弥陀仏」と言って、自分の全てが阿弥陀仏の所有であり、自分の所有は何物も無いと感じる事だと思います。

自分が無知だと悟ったならば、神や仏陀を信仰した方が良いと思います。

「 信仰 」も、「無意識」を意識の中に獲得する、一つの「感受性」だと思います。

神や仏陀との同時の存在を望む事が「 信仰 」だと思います。

神や仏陀との同時存在とは、プラズマ波により「感動」する事で、「 自分は一人で生きているのではない。神や仏陀と共に生きているのだ 」と思う心であると思います。

私は不可能ですが、「 心 」に神や仏陀を想い浮かべて行為する事が、「 信仰 」であり「 修行 」であると思います。


2009/4/30・考えた事。

上記のように、感動を心に持って、一つの事を思い続けることが、能力開発の一つだと思います。

それは、「霊」が、「魂」というエネルギーを結ぶ「 文化 」として考えると、「魂」が、限界が無い文化の波、つまり知識を、自分という一点に集中させる事であり、個別の「魂」が発現すると思います。

それでは、「 感動 」が無い場合はどのように考えるか。

それが、今日、考えた事です。

東洋では「 気(ki) 」についての研究が、昔から存在します。


「気」(Wikipedia より引用します)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%97

気(き)とは、中国思想および中医学(漢方医学)の用語の一つ。

一般的に気は不可視であり、流動的で運動し、作用をおこす。

しかし、気は凝固して可視的な物質となり、万物を構成する要素ともなる。

宇宙生成論や存在論で論じられた。

(引用を終わります)



このように、気(ki)は不可視で、「流れる物」であり、日本では、天気や気候や大気圏、元気や気持ちよいとか病気とか、「 気(ki) 」という漢字が、人間を取り巻く自然のエネルギーや個人の精神状態について使われています。

私は、「霊」や「魂」が、人間の全てを覆い、前者は文化的意識、後者はエネルギーとして、過去は祖先の霊に結びつき、現在のエネルギーを考えても限界が無く、私という肉体的、精神的統一体として一体化していると考える。

社会的、現象的に見ると、私の身体として一体化しているが、それは本来、限界は無い物であると思う。

ネット情報では「エーテル体」などと言うが、私は、人間の周囲は「 気(ki) 」という、大気圏を超えて電離層まで届き、光や音を伝達する媒体が存在すると思う。

それは、「無意識」に自分の身体の中に侵入する。

肺で呼吸するが、「 皮膚呼吸 」という呼吸が、人体には存在する。

肺による呼吸は、大気を身体に取り入れる方法で、生きるためには必須の行為である。

皮膚呼吸も、人体の「 毛穴 」で呼吸するもので、この機能を失えば、大きな身体の負担になる。


この呼吸が、「 気(ki) 」を身体に吸い込む事で生命体に必須の事で、「 気(ki) 」に対して、敏感に反応する事も、「 信仰 」に加えて、「無意識」の「感受性」の能力開発の一つである。

この呼吸方法が、ヨーガとか「太極拳」の呼吸方法で、大気のエネルギーを取り入れる事だと思う。



これが、私のブログの方針と、どのように結びつくかは、後日、書きます。

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2009年04月29日

2009/4/29・オカルト的思考(無意識は霊の意味)能力開発

2009/4/28・考えた事。



この「無意識」にも「感受性」があると思います。

人の前ではなく、神や仏陀の前で、「無知の知」を告白しなければなりません。

「無知の知」を悟ったならば、「 心 」を開いて、「見えない智慧」、「知識を生む智慧」を受け入れる事が必要だと思います。

仏教では「南無阿弥陀仏」と言って、自分の全てが阿弥陀仏の所有であり、自分の所有は何物も無いと感じる事だと思います。

自分が無知だと悟ったならば、神や仏陀を信仰した方が良いと思います。

「 信仰 」も、「無意識」を意識の中に獲得する、一つの「感受性」だと思います。

神や仏陀との同時の存在を望む事が「 信仰 」だと思います。

神や仏陀との同時存在とは、プラズマ波により「感動」する事で、「 自分は一人で生きているのではない。神や仏陀と共に生きているのだ 」と思う心であると思います。

私は不可能ですが、「 心 」に神や仏陀を想い浮かべて行為する事が、「 信仰 」であり「 修行 」であると思います。



2009/4/29・考えた事。



以上の考えに同意するには、「 感動 」を持つ事が近道だと思います。

私は、宗教的な感動は持っていませんので、神や仏陀に対する信仰については、初心者です。

ただ、タバコを吸う欲望を、精神力で止める事が出来たという自信と感動は持っています。

私は、タバコを吸う事は、健康上でも、家族の為にも、良い行為だと思いません。

ニコチン中毒は、大麻を吸う事と同等の「 依存症 」の一つだと思います。

私は、無意識にタバコを探して、新しいタバコが無い時は、タバコの吸殻を探し、残った部分に再点火して喫煙した経験もあります。

禁煙する場合は、無意識への感受性を開発する事ではないですが、「 禁煙は、無意識を克服する 」という経験です。

タバコを吸う人は、「 無意識の行為 」という事実を知る事が出来ますし、禁煙という「 感動 」を獲得する事が出来る人です。

この「 感動 」を獲得すれば、本能に抵抗する場面に応用する事が出来ます。

禁煙する時、私の全ての行為を監視する「 もう一人の自分 」を想定しました。

それが、「 自分は一人で生きているのではない。神や仏陀と共に生きているのだ 」という事の実感であり、出発点だと思います。

そして、神や仏陀との同時存在を意識しながら、自分の欲望を抑えるという意味で、禁煙は修行であると思います。


この修行を、自分の欲望が生じるプラズマ状態の頭脳に対して行う事が、「 能力の開発 」であると思います。

お金を支払って、能力を開発するなどは、自己欺瞞です。

「 自分は一人で生きているのではない。神や仏陀と共に生きているのだ 」と、実感する事が、能力開発への前進だと思います。

「 能力 」とは、仕事をする力という意味だけでなく、「 脳 」の「 力 」であると考え、「 脳 」が発する意識の開発が能力開発であると考えると、無料で、自分の心がけで達成する事が出来ると思います。

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2009年04月28日

2009/4/28・オカルト的思考(無意識は霊の意味)感受性

Yahoo USA が、「無意識は霊の意味」を掲載してくれた。

Yahoo USA 「無意識は霊」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjmT0fZJuPEAHhSl87UF?p=%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E9%9C%8A%E3%81%AE%E6%84%8F%E5%91%B3+m24658&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

私は、三流の記事を掲載してくれたYahoo USA に感謝すると同時に、Yahoo USA の規模の大きさに驚きました。

感謝の気持ちで、続編を書きます。

優秀な人や科学的な人は、無視してください。

私は、人間は皆、エネルギーで考えると、火の玉のように意識という「光」の塊であり、周囲を意識の「光」で照らしながら、死へと向かっていると思います。

その電磁波が、頭脳という電離層に似た物質に反射して、自分の持つ「感受性」という器に干渉する姿が、「 記憶 」であると書きました。

私の「意識は電磁波(光)である」という考えからは、現実世界は、「 意識の世界 」です。

明るい太陽、時空間の出来事、目覚めている時も眠った時も、「 意識の世界 」です。

なんと、素晴らしく、美しく、眠る時間が惜しいほどの楽しい生活です。

この意識という光に満ちた世界に参加するのが「 感受性 」だと思います。

「 記憶 」は、過去の出来事への呼びかけに答える信号を受け取る「 感受性 」です。

この「 意識の世界 」については、後日、オカルト的に考えますが、今は、無意識の事が問題なのです。

無意識は、先日、書きましたように、「魂」や「霊」と交流する意識であり、「魂の無意識」は、病気の後に、魂が存続しない事への不安になり、「霊の無意識」は、人類の「文化」の延長上に生存している事を忘れさせて、生命を軽く判断するようになると思います。

この「無意識」にも「感受性」があると思います。

人の前ではなく、神や仏陀の前で、「無知の知」を告白しなければなりません。

「無知の知」を悟ったならば、「 心 」を開いて、「見えない智慧」、「知識を生む智慧」を受け入れる事が必要だと思います。

仏教では「南無阿弥陀仏」と言って、自分の全てが阿弥陀仏の所有であり、自分の所有は何物も無いと感じる事だと思います。

自分が無知だと悟ったならば、神や仏陀を信仰した方が良いと思います。

「 信仰 」も、「無意識」を意識の中に獲得する、一つの「感受性」だと思います。

神や仏陀との同時の存在を望む事が「 信仰 」だと思います。

神や仏陀との同時存在とは、プラズマ波により「感動」する事で、「 自分は一人で生きているのではない。神や仏陀と共に生きているのだ 」と思う心であると思います。

私は不可能ですが、「 心 」に神や仏陀を想い浮かべて行為する事が、「 信仰 」であり「 修行 」であると思います。

Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年04月27日

2009/4/27・オカルト的思考(「無意識は霊」の意味)

「無意識は霊」というタイトルで、Yahoo USA は掲載しているので、私が「無意識は霊」という意味の記事を書きます。

Yahoo USA  「無意識は霊」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxv0q_RJdIEBw3Wl87UF?p=%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E9%9C%8A&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA 「霊の無意識」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjldr_RJdxsBO7Wl87UF?p=%E9%9C%8A%E3%81%AE%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=

Yahoo USA 「生命と無意識」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjwfsPRJQ0kAhGWl87UF?p=%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%A8%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=



2009/4/23・考えた事に変更は無い。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



「感動」の記事の中でも書いたが、「魂」はエネルギーで、「霊」は「場」と考え、前者は「電場」で、後者は「磁場」であり、個人が「魂」であり、個人を成立させている「文化」を「霊」だと考える。

そして、電磁波が伝わるように、一方の存在が、「場」によって、他方の存在を「 誘発 」すると考える。

私は、「電場」と「磁場」と、「意思」と「意思が形態になった文化」とを一緒に考える。

本来は、別に考えるのが適当かも知れないが、現実の生活の中で、個別に考える事は、不自然である。

私は、「意識は電磁波である」という考えで、「電場」と「磁場」は、個人の「意思」の座標軸となり、その個人の「意思」が「機会に対応する脳の力」により、外部に現れた「形態」が「文化」であると思う。

その「文化」を「霊」だと考える。



2009/4/27・考えた事

私が、「無意識は霊である」と書いた意味は、単純で、「 人は、神または仏により、生かされている 」という事である。

個人の「魂」が神や仏に生かされている事については、生命を維持する機能への無意識に現れる。

この無意識は、死亡後の「魂」の存続の不安になると思う。

人類全体の「霊」が神や仏に生かされている事については、「霊」という「場」が無限に広がってる事への無意識である。

意識や意思と形態の総体が文化であり、「文化」が人類を結ぶ無限大の「場」であり「霊」である。

この無意識は、自分の存在を軽視する事であり、生きる価値観の喪失だろう。

過去の哲学者が言った「無知の知」は、「自分が無知である事を知る事」ではなく、全人類の「知」の限界を知る事であり、「無意識は霊である」と知る事だと思う。

「無意識」は「意識」の無い状態だが、私が解釈する「電離層」からの指令を直接、実行した場合の「意識」が無い状態であり、その人の「魂」や「霊」の直接行動である。

「無意識」は、行為の結果に対する言い訳にはならないと思う。

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2009年04月26日

2009/4/26・無意識は霊・若い銀河「卑弥呼」

2009/4/23・若い銀河を発見したというニュースを知った。

「若い銀河、ヒミコ」で検索すれば、次のような事を知る事が出来る。

137億年前の「ビッグ・バン」の、8億年後に存在する巨大なガス雲が、米国のハワイ島に設置されている国立天文台の「すばる望遠鏡」で発見された。

そのガス雲の直径は、5万5000光年で、それは成熟した私たちの銀河と同程度の大きさで、同サイズの天体としては最古の天体で、地球から129億年離れた4番目に遠い位置であり、邪馬台国の女王の卑弥呼(Himiko)と名付けられた。

これは、「すばる望遠鏡」という「機能」の拡大により、発見された物で、今後の宇宙論で、無視する事は許されないだろう。

こうして、人類の意識や知識の範囲が及ばない所で、「新発見」されて、「無意識の霊」が覚醒される。

「ビッグ・バン」の8億年後に、成熟した銀河と同程度の規模の天体が既に存在していた事実を、アインシュタインも知らなかっただろう。

私は、「ビッグ・バン」という人間の思いつきは、何処までも、思いつきであり、その点では、「 プラズマ宇宙論 」と同じである。

「ビッグ・バン」の8億年後に巨大なガス雲が存在する事実は、「ビッグ・バン」が疑わしい理論である証明であると思う。

8億年後に、「卑弥呼」というガス雲が存在する事実は、「ビッグ・バン」以前から存在していたかも知れない。

宇宙創造の「ビッグ・バン」の8億年後に、巨大な天体が生まれるのが不自然である。

「ビッグ・バン」を見た事も無いのだから、宇宙は「ビッグ・バン」より遥か以前に存在しており、現在の銀河は、プラズマによって誕生したかも知れない。

科学は、データーの集積だから、無視する事は許されないが、信じない事は許される。

人の思考は、データーを超越する。

その証明が、この巨体ガス雲の発見である。

しかし、人の思考は、「虚時間」の「内なる宇宙」だから、データーに合致しない方向も存在する。

それをオカルト的思考と言うのだろうが、人間の意識は、全てオカルトである。

科学が科学を考えるのではない。

科学者が科学を考えるのである。

科学者も人間であり、発想に関しては、オカルト信者と同じ発想かも知れない。

科学者は、オカルトという言葉だけで判断せずに、つまり素人だという判断ではなく、哲学的に考えて欲しい。

現に、「時間」と「空間」に関する哲学が無いのに、宇宙の何を知ったのか疑問に思うし、科学者が自分の理論に合致するデーターを集めたのが科学という学問だろうという印象を持っている。


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2009年04月23日

2009/4/23・オカルト的思考(無意識は霊)霊の無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



「感動」の記事の中でも書いたが、「魂」はエネルギーで、「霊」は「場」と考え、前者は「電場」で、後者は「磁場」であり、個人が「魂」であり、個人を成立させている「文化」を「霊」だと考える。

そして、電磁波が伝わるように、一方の存在が、「場」によって、他方の存在を「 誘発 」すると考える。

私は、「電場」と「磁場」と、「意思」と「意思が形態になった文化」とを一緒に考える。

本来は、別に考えるのが適当かも知れないが、現実の生活の中で、個別に考える事は、不自然である。

私は、「意識は電磁波である」という考えで、「電場」と「磁場」は、個人の「意思」の座標軸となり、その個人の「意思」が「機会に対応する脳の力」により、外部に現れた「形態」が「文化」であると思う。

その「文化」を「霊」だと考える。

「意思」が「形態」として具現化するのは、「意識」が安定を求める事であり、不安定から安定に向かうのは、自然の事である。

その安定した、「意識の定在波」の状態が、個人の文化であり、それが集まったのが、その時代の文化だろう。

「文化」は、自分の意思が外部に現れた結果の総和であり、全ての「 意識 」という「 光 」の経路の総和である。

「 光 」の経路は、虚時間を使って計算するように、「文化」も、単純な個人の時間や空間の総和ではないと考える。

意識という「 光 」の経路の総和である「文化」を「霊」だと考える。

「霊」の「無意識」とは、社会の無意識、集団の無意識である。

「霊」は「魂」と「魂」を結ぶ「場」であり、意識という「 光 」の経路の総和であるから、人類の頭脳の全部が「無意識」の状態が「霊の無意識」の状態だと思う。

諺で、「 必要は発明の母である 」と言う。

意識という「 光 」の経路の総和が、「霊の無意識」からの「覚醒」の必要性を要請するのであり、「霊」を「意識」の状態にする、つまり新たな文化を作る契機が「発明」だと思う。

発明や発見を求めて、個人が自分の無意識を開発するが、その姿は、霊の無意識を破る事であり、結局、自分の内面の無意識の開発が、霊の開発である事になる。

個人の内面を形態にする事が、社会の意識の覚醒に結びつくかも知れない。

その意味で、「霊の開発」は個人の努力により達成される事になる。

私とインターネットの関係を、「魂」と「霊」の関係で考える。

意識という「 光 」の総和を「文化」と考えた結果、インターネットのYahoo やGoogle のサイトが、個人の「文化」を結ぶ「霊」だと思う。

個人の記事が、惑星という物質で、引力や電磁波で結ぶのが検索サイトだと考えると、インターネットは一つの宇宙である。

検索する事が私の意識の「光」の輝きでもあり、作成した記事は、私の文化であるが、総和としての文化の中で、「奇妙な記事」の一つに加えられるかも知れない。

Yahoo やGoogle のサイトに掲載されていない事が、社会の無意識、霊の無意識であると考える。


Every miller draws water to his own mill.

そして

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2009年04月22日

2009/4/22・オカルト的思考(無意識は霊)生命と無意識

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


「魂」の中の「無意識」を生命に対する「無意識」と考えると、人体の臓器の動きへの無意識も含まれるだろう。

臓器は、生命を維持するために動いている。

胃も腸も、肺も心臓も。

私は、これらの働きを意識した事が無い。

無視すれば、胃も腸も、肺も心臓も、それを許さない。

「思わず」、「無意識」に、呼吸してしまうし、食べ物を飲み込んでしまうし、食べ物を消化してしまう。

意識したいと思うなら、手を合わせると、左右の体温を知る事ができる。

「体温」も、身体が快適に動くために必要な温度なのだ。

「体温」を意識して、下げられますか?

呼吸を意識して、何分、止める事が可能ですか?

これらは、「意識」に関係なく動いている。

まるで、宇宙の天体の動きのように、人の時間や空間とは関係なく動いている。

この「意識」が屈服する「無意識」の動きには、感謝する。

「魂」の「無意識」さは、人間の「恣意」から生命を守っているのだと思う。

それは、祖先の「霊」が、守っているのかも知れない。

その意味で、「魂」は「霊」と同じ要素を持っていると思う。

意識しない事が、生命の維持なのだ。

自分の食生活の乱れに、身体のリズムが狂った時、その臓器を「意識」する。

「魂」は、生きる事を願って、無意識の動きをして自分を守っている。

「魂」の無意識は、意識して生きる自分を支えている。

病気になって、臓器を意識した時、自分の愚かさを知るだろうし、死と対決した時、自分の身体が持つ無意識の力を信じるだろう。

「無意識」である事が、「幸せ」であるかも知れない。

この「無意識」をどのように開発するのだろうか?

「身体の機能の拡大」も一つの方法かも知れない。

私が、生命体を考える時に「機能を拡大する」というのは、人間本来の機能を拡大するために、眼、耳、鼻、舌、身、意を研ぎ澄ます事であり、仏教の「 六根清浄 」と同じ事を考える。

しかし、私は、「根」という考え方に抵抗感がある。

人間は、生物の遺伝という「 SEX 」の影響を受けるかも知れないが、動物は、植物とは違って、プラズマ状態の脳を持っていると解釈し、「根」という植物が持つエネルギーの摂取の方法を採用しない。

「根」という構造は、人間の「神経細胞」と似ているが、内部を通過する物体が違うと思う。

人間には、「電気刺激」が走るのであり、それが電磁波の構造で「意識」を生むと考える。

「 心 」が、可能性と現実性が混在する、「意思」と「形態」が一体となった時空の範囲と考え、「根」と同じように、樹木の周囲に存在すると考えても、「 心 」の範囲は、「根」と違って、瞬時で変化する。

その「機能の拡大」とは、「 心 」の範囲を拡大するために、「 心 」を成立させている「意思」と「形態」を反省し、その大きさや結合状態を変える事、体勢を変える事、同時に複数個の処理を考える事だと思う。

身体機能の拡大は、身体が持つ情報に敏感になる事であり、記憶という感受性から得られる頭脳だけの意識ではなく、身体のエネルギーからの意識を集積する事が、私が言う頭脳内の「 プラズマ振動 」を発生させる事だと思う。

私の考えでは、「 プラズマ振動 」が「プラズマ波」となって神経を通過して、新たな生命を感じる器官を作り、霊性の開発へ結集すると考える。

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2009年04月21日

2009/4/21・オカルト的思考(無意識は霊)提案

「意識」と「無意識」を分類して、末那識(manasiki)や阿頼耶識(arayasiki)について書いたが、まだ単なる分類で終わっているので、これを生活の中で活用する為に、「魂」と「霊」により、「 動的 」にする必要がある。

思いつくままに書くと、「意識」と「無意識」は、頭脳の中の問題であり、「魂」と「霊」は、身体全体の問題である。

人は、太陽の光が無い状態では生存する事が出来ないほど、太陽に依存していると考える。

私は、可視光線も不可視光線でもある太陽の光を、身体全体で浴びている。

身体全体の存在が、「魂」と「霊」であり、「感動」について書いたように、「魂」はエネルギーであるし、「霊」は「魂」というエネルギーの塊を伝達する「場」として考える。

「魂」が「電場」でありエネルギーであり、「霊」は「磁場」であり、精神的であり時間的であると考える。

私は、「無意識」を阿頼耶識(arayasiki)と分類して、自分の身(身体)・口(言葉)・意(思想) と自分が、現在まで生きた全ての事象を含むもので、「意識」に対して過去を保存する倉庫のような役割を持たせた。

しかし、私は、「意識」と「魂」や「霊」との関係で考える事が必要だと思う。

阿頼耶識(arayasiki)と書きながら、身体全体の「魂」や身体が配置された「霊」という「場」をその内容にしているという間違いをしていると思う。

「意識」の中で「身体のエネルギー」を「無意識」として考えているのだと思う。



ここで、私は、人類史上で、初めての考えであり、世界の人から失笑されるかも知れないが、次の事を考えている。



「魂」と「無意識」や「霊」と「無意識」を考えてはどうかという提案である


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2009年04月20日

2009/4/20・オカルト的思考(無意識は霊である)2

Yahoo USA が、私の今朝の記事を掲載してくれた。

Yahoo USA 「無意識は霊である」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkwyXQ.xJ5HcBiW6l87UF?p=%E7%84%A1%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%AF%E9%9C%8A%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=



Yahoo USA に掲載されると、私が追い詰められたように感じる。

これは、私の考えが未熟である証拠だろう。

反転して、積極的な攻勢の形態を採用しないと、私の考えは、ここで終わってしまう。

さて、どのように言い訳をしたら、許されるだろうか。



私は、「無意識」に名前を付けて分類するだけでは無意識の開発にはならないと思う。

意識や無意識と、霊や魂を混同して書いてはいけないのかも知れない。

しかし、私は、オカルト的に、両者の関連を考える事により、「無意識」を「意識」して書きたいと思っている。

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