2009年06月06日

2009/6/6・オカルトの展開(気は生命の印・好き嫌いと欲)

2009/6/4・考えた事

「 派生する意識 」の側からは、感受性であるが、「 流れる物 」の内部では、このDNAの変化が、「好き」や「嫌い」を決めていると、今は考えている。

「好き」や「嫌い」は意識としては「無意識の感受性」だが、物質的に考えると電磁波の気(ki)が影響した核の「転写」や「翻訳」であり、その核は、形態化した意識であると考えている。



DNA が安定して、RDN が不安定なのは、前者が「 心 」であり、後者が「 意識 」であると考えます。

DNA が静的で、RDN が動的というのは、前者が「 心の総体 」であり、後者が「 何物かへの意識 」であるからだと考えます。

「 意思 」としての意識や無意識が、DNA やRNA という「 形態 」として存在すると思います。

DNA を意識に分解すれば、阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA を意識に分解すれば末那識(manasiki)であると思います。

「 意識 」が「 細胞の核 」となって、身体全体を構成していると思います。

その「 細胞の核 」は「 二重らせん 」であり、可視光線と同じ単位で計測される長さを持っています。

これは、「 光 」が「 二重らせん 」という形態に具現化したと考えます。




2009/6/6・考えた事


現時点の私の考えは、「 意識一般 」は電磁波の構造をしているが、祖先からDNA の細胞分裂により自己と同一物を複製するから、伝えられた「 祖先伝来の意識 」がDNA やRNA として「 意識一般 」の発生源として存在するという考えである。


「意識」の中に「意識」の「萌芽」がDNAやRNAとして「生物的」に存在すると考え、それらが、外部から気(ki)を取り入れて、分裂や細胞の複製を行う状態が「 意欲 」という、「生きるための欲」であると考える。

「 欲望 」は、「 意識 」が生み出すと考えられるが、それは「 遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 が自己分裂するエネルギーを「 意識 」が増幅して身体の外部に現れたエネルギーであると、現時点では考えている。



「 意識 」の欲望は、専門の精神分析する医師により、フロイトやユングの理論で解明されるかもしれないが、「 遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」を解明するのは、困難だろう。

それは、オカルト的に考えると「 守護霊 」であり、自己統制が不可能な意識であると考える。

「 遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 自体が「 無意識 」の状態であり、本人だけの「 感受性 」により把握されると考える。

それらが存在する箇所が「 動物の睾丸 」に多いのは、「 性的 」な遺伝子かも知れない。

この、本人だけの「 感受性 」は、私の「 主観的時間 」であり、「 私の今 」であり、私が手を合わせている時間のように、本人の私だけが得られる「同時性」である。

このDNA が、世界中の全ての人間が持っているから、「 時間 」としては、「 DNA の数だけ時間が存在する 」結果になり、DNA を持つ動物ならば、全て「 主観的時間 」を持っていると考える。

馬も牛も犬も猫も、「時間」を持っていると解釈する。

それが、「 体内リズム 」であると思う。

その「意識の中に存在する遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 が、「体内リズム」により、分裂する方向が、意識の分析では「 快楽 」や「 快感 」や「好き」として把握され、統制が不可能なヒトが快楽主義者だと思う。

血統や世襲が好きなヒトも、同じ種類のヒトであるかも知れない。

「時間意識」や「空間意識」は光の波長の「 円偏光 」を考えると理解できるが、この「 遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 の波長は、「 二重らせん 」の長さで、光とは違って短い。

それは、主観や客観は不明という意味で、盲目的で直線的であり気(ki)というエネルギーも強いと考える。

私は、「遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 の欲を「 本能 」と解釈し、それが、「 意識 」という精神の領域で、多くの実体と判断する意識と結合して現れたのが「 欲望 」と解釈している。




Every miller draws water to his own mill.


2015/4/2、私の現在の考え14・流れるものと派生するもの・三身即一へと続く
posted by kandk55 at 05:02| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月03日

2009/6/3・オカルトの展開(気は生命の印)DNA 2

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2009/6/1・考えた事。

私は、DNA が情報を伝達するmRNAとなり転写して増殖するのは、「電磁気」である生物の気(ki)を必要とすると考える。

DNAを、プラズマ宇宙論の、フィラメント構造と解釈する。

後日、書く予定だが、「電磁気」である生物の気(ki)により作られたDNA が、「主観的時間」を作っているだろうと、私は考えている。

DNA の違いの数だけ「時間意識」が存在すると考える。

人間も含めて、生物の時間意識は、DNAの数だけ相違するというのが、私の考えである。



2009/6/2・考えた事


「意識は電磁波である」と考えて、円偏光の軌跡が、時間意識と空間意識と考えて、全てにプラズマ理論を適用したいという願望である。

DNAの材料にして、試験管の中で生命を創造する事は出来ないのは、「核」の分裂に際して、何かのエネルギーを必要とすると考える。

フィラメント構造を作っても、フィラメントを流れる電流が存在しないから生命は誕生しないと思う。

他者の同時を要求せず、私だけが決定できる「今」を「 主観的時間 」と書く。

(例えば、両手を合わせた「 今 」)

私は、次のような考えで、時間意識や空間意識を作る「 主観的時間 」や「生きる方向」を決めるのがDNA だと決めた。


Wikipedia を見ると、DNA は、次のように書かれている。

デオキシリボ核酸(-かくさん、DNA: Deoxyribonucleic acid)は、核酸の一種。
高分子生体物質で、地球上のほぼ全ての生物において、遺伝情報を担う物質となっている(一部のウイルスはRNAが遺伝情報を担っている。遺伝子を参照)。

(引用を終わる)

私が他者と、時間と空間について話す時、両者は直交しているから了解する事が可能だろう。

その時間意識と空間意識が共用する「 今 」という座標軸の進む方向は、「 了解する事が不可能である 」という意味で、時間や空間の座標軸と直交していない独自の方向を持つだろう


時間と空間を共用しながら、「 生きる方向 」が違うことを、DNA の責任にしたのが、私の考えである。


どうして、DNA を他者の同時を要求せず、私だけが決定できる「 主観的時間 」と解釈するのかは、全く根拠は無い。

私が考えた一つの事は、「 意識 」の構造の電磁波の円偏光が、DNA の「 二重らせん 」の形に似ている事であり、もう一つは、「 二重らせん 」が逆向きに一体となっている事が、「 光と影 」・「 陰と陽 」・「 男と女 」や「 左と右の頭脳 」を連想させる事から、時間や二元論を連想したものである。

……(省略)……

時間意識と空間意識を共有しながら、全てが個性的に生きている事になり、それは、時間と空間を共有しながら、地球上で生きている「 現実生活 」が、DNAの存在形態であると考える。


2009/6/3・考えた事。

私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれました。

私は、これを応援だと思い、先を書こうと思います。



Wikipedia に次のような記述を発見しました。


DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。

DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。

DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定である」。

両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。

(引用を終わります)

DNAの説明は、「 心 」を表現する阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA の説明は、「 意識の機能 」である末那識(manasiki)であると、私は考えます。


「 意思 」としての意識や無意識が、DNA やRNA という「 形態 」として存在すると思います。

DNA を意識に分解すれば、阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA を意識に分解すれば末那識(manasiki)であると思います。

「 意識 」が「 細胞の核 」となって、身体全体を構成していると思います。

その「 細胞の核 」は「 二重らせん 」であり、可視光線と同じ単位で計測される長さを持っています。

これは、「 光 」が「 二重らせん 」という形態に具現化したと考えます。



そして私は、DNA はフィラメントであり、気(ki)というエネルギーが流れると考え、DNA の長さは、細胞と結合する事により、頭脳から身体の全体にまで伸びると考えます。

神経は、DNA が結合した細胞と考え、刺激が「 光 」の速さで、身体を貫通する。

体内の「 光ファイバー網 」が神経と考えますと、
体内では、遥か古代に、光ファイバー網が完成していたのです。

その周りに、「 意識 」という電磁波を発生させると思います。




参考として、Wikipedia から引用します。

DNAの二重らせんの数字的な部分も説明しており、例えばらせん一回転あたり34オングストローム (Å) 、したがって塩基対間の距離は3.4Å、らせんの直径は20Åである。


オングストローム(ångström, 記号:Å)は長さの単位である。

原子や分子、可視光の波長など、非常に小さな長さを表すのに用いられる。

· A-:右巻き、1回転あたり塩基数11、塩基対間距離2.6Å、らせんの直径23Å、湿度75%時にとる立体構造

· B-:右巻き、1回転あたり塩基数10、塩基対間距離3.4Å、らせんの直径20Å、湿度92%時にとる立体構造、生体内では最も一般的な構造[1]

· Z-:左巻き、1回転あたり塩基数12、塩基対間距離3.7Å、らせんの直径18Å、グアニンとシトシンの繰り返し配列の時にとる立体構造

一般的な二重らせんはB型であるが、A型は二本鎖RNAでとることがある。

Z型はZ-DNA領域と呼ばれる配列が染色体内で見つかり、生体内でこのような構造を取っている可能性が示唆されている。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 20:33| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月02日

2009/6/2オカルトの展開(気は生命の印) DNA

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2009/6/1・考えた事。

私は、DNA が情報を伝達するmRNAとなり転写して増殖するのは、「電磁気」である生物の気(ki)を必要とすると考える。

DNAを、プラズマ宇宙論の、フィラメント構造と解釈する。

後日、書く予定だが、「電磁気」である生物の気(ki)により作られたDNA が、「主観的時間」を作っているだろうと、私は考えている。

DNA の違いの数だけ「時間意識」が存在すると考える。

人間も含めて、生物の時間意識は、DNAの数だけ相違するというのが、私の考えである。



2009/6/2・考えた事

以上の事は、私の願望であり、科学的な根拠のある言葉ではない。

全て、フィクションである。

「意識は電磁波である」と考えて、円偏光の軌跡が、時間意識と空間意識と考えて、全てにプラズマ理論を適用したいという願望である。

DNAの材料にして、試験管の中で生命を創造する事は出来ないのは、「核」の分裂に際して、何かのエネルギーを必要とすると考える。

フィラメント構造を作っても、フィラメントを流れる電流が存在しないから生命は誕生しないと思う。

他者の同時を要求せず、私だけが決定できる「今」を「 主観的時間 」と書く。

(例えば、両手を合わせた「 今 」)

私は、次のような考えで、時間意識や空間意識を作る「 主観的時間 」や「生きる方向」を決めるのがDNA だと決めた。


Wikipedia を見ると、DNA は、次のように書かれている。

デオキシリボ核酸(-かくさん、DNA: Deoxyribonucleic acid)は、核酸の一種。
高分子生体物質で、地球上のほぼ全ての生物において、遺伝情報を担う物質となっている(一部のウイルスはRNAが遺伝情報を担っている。遺伝子を参照)。

(引用を終わる)

私が他者と、時間と空間について話す時、両者は直交しているから了解する事が可能だろう。

その時間意識と空間意識が共用する「 今 」という座標軸の進む方向は、「 了解する事が不可能である 」という意味で、時間や空間の座標軸と直交していない独自の方向を持つだろう


時間と空間を共用しながら、「 生きる方向 」が違うことを、DNA の責任にしたのが、私の考えである。


どうして、DNA を他者の同時を要求せず、私だけが決定できる「 主観的時間 」と解釈するのかは、全く根拠は無い。

これは、フィクションなのです。


私が考えた一つの事は、「 意識 」の構造の電磁波の円偏光が、DNA の「 二重らせん 」の形に似ている事であり、もう一つは、「 二重らせん 」が逆向きに一体となっている事が、「 光と影 」・「 陰と陽 」・「 男と女 」や「 左と右の頭脳 」を連想させる事から、時間や二元論を連想したものである。


時間意識や空間意識が、実時間と虚時間の合計である事を以前に書いたが、「 二重らせん 」を結合して、電磁波の定在波と考えて、一方の「線」が実時間で、もう一方の「線」が虚時間であると考える。

DNA が私だけの「 主観的時間意識 」であるならば、私の「 今 」を決めるのはDNA であり、それは全ての人類に適用されるので、全ての人類は、自分の「 今 」を持ち、DNA が個体特有の物だから、全ての人類が個性的な「生き方」をする、世界で唯一つの存在になる。

時間意識と空間意識を共有しながら、全てが個性的に生きている事になり、それは、時間と空間を共有しながら、地球上で生きている「 現実生活 」が、DNAの存在形態であると考える。


社会を「意思」と「機能」と「形態」で考えるならば、意識は「意思」であり、DNA は「機能」であり、心は「形態」であると思う。


これは、全くのフィクションである。
posted by kandk55 at 05:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月01日

2009/6/1・オカルトの展開(気は生命の印)生命の起源

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した

2009/4/13・私の電離層・究極のオカルトの記事は以下の通りである。

2009/4/9・考えた事。

それは、

@脳電図と脳磁図

A米国の「 ハロルド・サクストン・バー 」氏の考え

B「 プラズマ宇宙論・プラズマ振動 」

Cシューマン共振

2009/4/13・考えた事。

プラズマ宇宙論
出典: フリー百科事典臓ウィキペディアWikipedia)

プラズマ宇宙論(ぷらずまうちゅうろん、Plasma Universe、Plasma Cosmology)とは、宇宙でのあらゆる現象は重力の影響だけではなく、宇宙の全バリオン物質の99.9%を構成している電気伝導性の気体プラズマによる影響が大きく、宇宙では巨大な電流と強力な磁場が主導的役割をするとしている。

そして電磁気と重力の相互関係によって、壮大な現象を説明できると主張する宇宙論である。


私は、宇宙の原理を「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論としている。

その原理に沿って、物質が存在すると考える。

どこから出発しても、宇宙の原理に到着する事を信じている。

シューマン共振の周波数が「地球の脳波」と言われるならば、頭脳と電離層が宇宙の原理に合致する性質を持つと考えてはどうかと言う提案である。

宇宙の原理がプラズマであり、電離層もプラズマであり、地球上の生物の頭脳がプラズマにより作られた・と考える。

プラズマの一種の層が、視覚や聴覚を担当する場所だと考え、層の違いで、物理的刺激を意識に変換すると考える。

脳波は必ず頭蓋骨の外から測定するのではなく、脳の内部でも測定する事が出来るかも知れない。

脳波の測定は、頭脳のプラズマの物理的な状態の測定であり、宇宙から「 雷 」を測定している状態だと思う。

プラズマ状態が、地球の全体を属んでいるのが電離層で、生体の中に存在するプラズマ状態が頭脳と考える。

こう考えると、「プラズマ宇宙論」で、プラズマの中に組織されたフィラメント組織を神経と考え、プラズマ波として神経に電流が流れ、自己組織化するという考えにも合致する。

その自己組織化の結果、身体とほぼ同じ種類の電場が存在し、脳と脊髄を電気的な軸で結んでいるという「 ハロルド・サクストン・バー 」氏の考えとも一致する。

プラズマ状態の左右の頭脳で作られた電気刺激が、「脳梁」という神経の束を通って全身を緊張させて、知覚するのであり、物理的刺激を迎えている状態が「 心 」だと思う。

「 心 」は、時間意識と同時に脳によって作られて全身に広がり、感受性となって、物理的刺激を待つと考えるから、「時間」や「空間」、「意思」や「形態」が一体化したものだと考える。

「好き」とか「嫌い」などは、プラズマ振動のように、頭脳の中で生じるが、振動であり、物理的刺激を受けた時、神経という媒体を通して、プラズマ波となって、身体に現れると考える。

「直感」も、これに似た出来事だろう。

そして、頭脳がプラズマ状態ならば、電磁波を起こすだろうし、脳電図と脳磁図の存在は、「意識は電磁波である」という私の主張にも合致するし、それが意識となって「時間」や「空間」を感じると考える。



2009/6/1・考えた事

宇宙の原理は、私の全身を貫通するものだと信じている。

私は、このようにプラズマ宇宙論に賛成するから、全ては、「 電磁波 」の影響があると考える。

その考えの延長が、「 生気論 」なのである。

気(ki)は「電磁波」であり、気(ki)が意識を生むエネルギーと考え、無生物の原始細胞と一体となり、生命の定義としての、外界と体内を区別する意識と自己複製する意識と新陳代謝するエネルギーを作り出したと考える。

原始細胞が、宇宙から来たのか地球から生まれたか不明だが、「電磁波」を含んだものか否か不明だが、地球上に存在していたと考える。

その細胞に「電磁波」が衝突したと考える。

宇宙生物と人間の出会いの映画が作られたが、私の考えでは、「電磁波」と「細胞」の衝突であり、「細胞」の核に、電磁波が影響を与えたと考える。

古代は「 雷 」が発生しているから、細胞に「 雷 」が落ちたが、好熱性の細胞が生き残り、「電磁波」を獲得したのかも知れないが、「電磁波」は「細胞」の外部から受けたものであると考える。

あるいは、宇宙からアミノ酸と電磁波が、隕石と一緒になって地球に衝突したかも知れない。

その結果、DNA が細胞に作られて、前述した他と区別する意識、増殖するエネルギー、新陳代謝するエネルギーの気(ki)を生み、動物には意識を生んだと考える。



私は、DNA が情報を伝達するmRNAとなり

転写して増殖するのは、

「電磁気」である生物の気(ki)を必要とする

と考える。


DNAを、

プラズマ宇宙論の、フィラメント構造

と解釈する。


後日、書く予定だが、

「電磁気」である生物の気(ki)により作られた

DNA が、「主観的時間」を作っているだろうと、

私は考えている。


DNA の違いの数だけ

「時間意識」が存在すると考える。


人間も含めて、

生物の時間意識は、DNAの数だけ相違する


というのが、私の考えである。




私の「生気論」は、宇宙の原理から、「電磁波」が気(ki)となり、気(ki)の有無で、無生物と生物を区別したいと思っている。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 03:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月31日

2009/5/31・勉強(生命の起源・ホモキラルティー・偏光)


これは、全てWikipedia からの引用である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90
生命とは何か
生命の起源を論ずるためには、まず生命や生物を定義する必要がある。
しかしこれらを明確に定義することは難しい。
「生命とは生物に備わっているもの」であり「生物とは生命をもつもの」であるという循環に陥ってしまうためである。
自然科学では経験的に以下の3点の性質から生物を定義し、生物の(生物として自己を維持、増殖、外界と隔離する)活動の総称を生命と定義することが多い。

· 外界および細胞内を明確に区別する単位膜系を有する。
· 自己を複製する能力を有する。
· 外界から物質を取り込み、それを代謝する系を有する。

ウイルスは細胞を構成単位としないが、他の生物の細胞を利用して増殖できるという、非生物と生物の特徴を併せ持つ。細胞をもたないウイルスは、非細胞性生物または非生物として位置づけられる。詳しくはウイルスの項を参照のこと。

人類文化における生物と無生物の区別は習慣的、直観的である。
生命現象を元素の組み合わせである分子化合の総体として解明しようとする分子生物学の方法では両者の区別を立てられないという意見がある。
この問題は有機化学の出発点における「生物の体内でしか生成されない」という有機物の定義が、徐々に曖昧化してしまった歴史とも深い関連がある。


「生命はどこからきたのか」という問いかけは、時代や思想、技術などの背景によって観点が異なっている。
例えば古代ギリシアのアリストテレスが記した『動物誌』ではミミズやウナギは泥などの無生物から自然に発生するという説明がなされている。
この説は詳細な観察に基づいており、生命現象には物質以外の何かが働いているという生気論的考え方となっている。

近代に入って発展した自然科学では物理学による説明が試みられている。
まず顕微鏡の発明により、動植物の細胞や微生物が観察され、すべての生物が細胞からできているという細胞説が確立され、ルイ・パスツールらによる自然発生説の否定により、現在地球上に見られる生物は、生物からしか生まれないことが証明された。
これらの知見により「生命はどこから生じたのか」という問いかけが自然科学における命題となる。

生物の原子組成は海水のそれと類似しているため、生命は海中に溶けた有機物の化学進化によって誕生したという説が有力である。
ただし、パンスペルミア仮説のように地球外で生じた生物に由来するという説もある。
また、化学進化説においても、最初のきっかけとなる物質は何であったか、誕生の場所はどこか、など諸問題に関して複数の説がある。
現時点では生命の誕生を再現することが困難であり、また化石標本による検証も難しいため、自然科学における最大の難問の一つと言える。

生物が作り出し利用しているアミノ酸の光学異性体の型は、ほぼすべてが左手型であることが知られている(ホモキラリティー)。

これは、その理由が昔から問題提起されていたことである。
最近、宇宙には多数のアミノ酸分子があることと、宇宙放射線を浴びたアミノ酸は右手型のアミノ酸が破壊されることから、地球の生命の元になったアミノ酸は宇宙から降り注いだのではないかとする説が有力になっている。

アミノ酸などの有機物が、隕石が海に衝突する際の化学反応で合成できるという発表もある

ホモキラリテイー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%A2%E3%82%AD%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%BC

ホモキラリティー (homochirality) はキラル分子において片側のエナンチオマー(鏡像異性体)だけが存在している(偏っている)ことを示すのに使う化学用語である。
また、一種類の分子についてだけでなく、ある化合物群において立体化学が偏っていることを表すときにも使う。
たとえば、生体内に於いて、ほとんど全てのアミノ酸は D体と L体のエナンチオマーのうち L体のみが存在する。
糖質も、天然ではほとんどのものが D体のみ存在する。
これらのように立体化学が偏って存在している現象がホモキラリティーである。
なぜ生体分子においてこのようなホモキラリティーがあるのかについてはまだ解っておらず、研究が進められている段階である。

生体分子におけるホモキラリティーの起源

考えられている起源のひとつは、原始惑星系において何らか天体から発せられた紫外円偏光によって、ある分子のエナンチオマーのうち一方が選択的に光分解反応を起こし、残ったエナンチオマーが優勢になりそれが地球に輸送されたという説である。

この説の証拠としては、太陽系形成初期からあまり変質していないと考えられているマーチソン隕石にアミノ酸が検出され、このアミノ酸がわずかに L体が優勢だったことである[2]。また、このような光分解反応を引き起こす円偏光についても、その起源が検討されている[3]。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%81%8F%E5%85%89

偏光
出典: フリー百科事典『ウィキペディ(Wikipedia)』

偏光(へんこう、polarization)とは電場および磁場が特定の方向にしか振動していない光のことである。電磁波の場合は偏波(へんぱ)と呼ぶ。 光電界の振幅は直交する2方向の振動成分に分解できることが分かっている。振動方向が規則的な光波の状態を偏光という。


生物の眼と偏光の認識

人間の眼は光の強度と色を識別することはできるが、偏光はほとんど識別することができない。

わずかに網膜の中心部に偏光特性があり、注意深く見ればハイディンガーのブラシとして知られるかすかな黄色と青色の筋が見えるが、これには個人差がある。
そのため一般には人間が偏光を識別するためには偏光子を通して見なければならない。

一方、昆虫は偏光を識別できる。昆虫の複眼の中には、特定の偏光方向に敏感な視細胞が色々な方位に規則正しく集合しているからである。

(引用、ならびに抜粋を終わる)





私の「意識は電磁波である」というのは、偏光の「 円偏光 」のような軌跡が意識の中に存在して、磁場が時間意識として、電場が空間意識として、不連続な意識と意識を結合していると考える。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 07:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月30日

2009/5/30・勉強(DNA・RNA・転写)私は生気論

全て、Wikipediaから引用します。

デオキシリボ核酸(DNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%AA%E3%82%AD%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8

デオキシリボ核酸(-かくさん、DNA: Deoxyribonucleic acid)は、核酸の一種。
高分子生体物質で、地球上のほぼ全ての生物において、遺伝情報を担う物質となっている(一部のウイルスはRNAが遺伝情報を担っている。遺伝子を参照)。


2本の逆向きのDNA鎖は、シャルガフの法則による相補的な塩基 (A/T, G/C) による水素結合を介して、全体として二重らせん構造をとる。

塩基の相補性とは、A、T、G、Cの4種のうち、1種を決めればそれと水素結合で結ばれるもう1種も決まる性質である。

2つのヌクレオチド鎖が互いの方向に逆となるよう水素結合で結ばれるために二重らせんとなる。

この相補的二本鎖構造の意義は、片方を保存用(センス鎖)に残し、もう片方は、遺伝情報を必要な分だけmRNAに伝達する転写用(アンチセンス鎖)とに分けることである。

また、二本鎖の片方をそのまま受け継がせるため、正確なDNAの複製を容易に行うことができるため、遺伝情報を伝えていく上で決定的に重要である。さらにまれに起こる損傷の修復にも役立つ。

DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。

DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。

DNAとRNAの物理化学的性質について。
DNAとRNAはともに紫外線である波長260nm付近に吸収極大を持ち、230nm付近に吸収極小を持つ。

この吸光度はタンパク質の280nmよりもずっと大きいが、これはDNAとRNAの塩基はプリンまたはピリミジンに由来するためである。

転写
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BB%A2%E5%86%99_(%E7%94%9F%E7%89%A9%E5%AD%A6)

生物の持っている遺伝情報は、DNAに塩基配列という形で保存されているが、DNAの持つ情報は、そのままではタンパク質の合成(翻訳)に使うことができない。

タンパク質を合成する酵素リボソームは、タンパク質の合成にDNAではなく、その情報を写し取ったmRNAを使用する。

このため、遺伝情報の発現には、まずはRNAポリメラーゼによりDNAの持つ情報をmRNAの形に変換する必要がある。

このmRNAの合成過程が転写と呼ばれる。

伝令RNA(mRNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%9D%E4%BB%A4RNA

伝令RNA(でんれいRNA、メッセンジャーRNA)は、蛋白質に翻訳され得る塩基配列情報と構造を持ったRNAのことであり、通常mRNAと表記する。

mはmessenger(メッセンジャー)の略である。

DNAに比べてその長さは短い。

DNAからコピーした遺伝情報を担っており、その遺伝情報は、特定のアミノ酸に対応するコドンと呼ばれる3塩基配列という形になっている。


リボ核酸(RNA)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8


リボ核酸(リボかくさん、英:ribonucleic acid)はリボヌクレオチドがホスホジエステル結合でつながった核酸である。
RNAと略されることが多い。
一本鎖のポリマーであるが、例外も存在する。


1本鎖RNAでは2'位のヒドロキシ基が比較的柔軟な構造を取り反応性もあるため、DNAと比較すると不安定である。

水酸基の酸素には孤立電子対が2つあるため負の電荷を帯びており、例えば、近接したリン酸のリンは周囲を電子陰性度の高い酸素原子に囲まれて水酸基の酸素原子から求核攻撃を受けやすく、攻撃によりホスホジエステル結合が切れ、主鎖が開裂する可能性があるなどDNAと比べて不安定である。

この特性から、翻訳の役割を終えたmRNAを直ちに分解することが可能になる(バクテリアでは数分、動物細胞でも数時間後には分解される)

(引用ならびに抜粋を終わる)




私は、生気論の立場に近く、無機質の物質から有機質の細胞が出来る。

私は、プラズマ宇宙論を採用しているから、全てに「電磁波」を適用する。

「電磁波」を考えると、「原始細胞」に「 意識という電磁波 」が衝突して、一体になったものが、「 生命 」であるという結論になる。


これは、また後日、書きます。

Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009/5/30・勉強(生気論・機械論・物理主義)私の考えは「生気論」

「勉強(生気論・機械論・物理主義)」の中で、Wikipedia から引用する。


生気論(せいきろん、vitalism)とは、動植物など生命の営みには、古典物理化学理論では扱っていない何らかの非物質的存在、すなわち生気が関わっている、あるいは合目的性が備わっているとする説のこと。

動植物などの生命だけに特有な力を 認める/認めない という点での対立である。

科学史的には、生気論は物理化学の発達とともに生気論はひとつひとつ否定され、機械論的な説明に置き換わってきた、とされている。

現代の自然科学では、機械論的説明や、実証主義などに基づく方法("科学的方法")により生命を解明しようとしており、非物質的存在は基本的に考慮されず、生気論は受け入れられていない。

ただし現在でも自然科学によって説明できない事象もまだ多くあり、伝統医療における気功の気論など、非物質的存在の概念は臨床面で有効なものもあり、この生物と非生物を決定づけるものが不均衡になることによって病が生じると考えている。

西洋の伝統ではこれらの生命力は四大気質とされ、東洋では気やプラーナなどと呼ばれる。

……(省略)……

物理主義(ぶつりしゅぎ、英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的である、またはこの世界の全ての物事は物理的なものに付随する、とする哲学上の立場。

一元論の一種。

一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。

主に哲学の一分科である心の哲学において、心身問題に関する立場の一つとして、二元論一般と対立する文脈で語られる。


しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。

心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「意識」に移り、この点に関して、コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。

つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。

こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。

そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

あなたがこうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうか、である。

(引用を終わる)



「オカルトの展開」で考えた事。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、これを「霊」や「魂」とする。

意識の総体が「 霊 」であるから、E を「 霊 」とする。

C は「 意識 」であるから、これは全ての動物の脳が生み出す自意識で、自己を組織する意識であり、動物に共通であるだろう。

m が、「 利己愛 」であるが、「霊は生きている」と「感受性」の記事から知る事が出来るように、個人的、「好き」や「嫌い」の価値観が左右して気(ki)が充満して、人間存在を豊かにする煩悩である。




2009/5/30、考えた事。

生気論を採用するのか、あるいは物理主義を採用するのかについて考えた。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、E = mc2 から考える事は、生気論の気(ki)を E で、c を意識と解釈すれば、生物は、物質に光(意識)の二乗を乗じたエネルギーを持つ。

この気(ki) は「呼吸」であり、生物の体内と外部のエネルギーを結合する物であると考える。

生物は、C という光のエネルギーで結合した物体であると解釈する。

静止した人と動いている人の間の、光を使った相対論は、「 静止した物質と、動いている生物 」の間の関係であり、生物は、静止している地上の物質とは異なり、「 動いている 」事が特徴であると考える。

生物は静止していると思えるが、「時間」や「空間」の中では、光速で動いているので、静止していると思われているのかも知れない。

生物は、時空間を光速で動いているかも知れない。

すると、私の考えは、「 生気論 」になってしまう。


生物は気(ki)を持って、体内と外部のエネルギーを新陳代謝しているのであり、何も行為を行わないのが「 物質 」であると考えるから、「 気(ki)は、生命の印 」であると考える。


「 生物 」は、時間と空間の間を動いている物体であり、「 物質 」は、時間と空間を超越している。

時間と空間を超越するとは、物質は人間が考える「時間」や「空間」が無い場合でも存在するのだと思う。



私は、次の二元論に賛成する。

「 世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。」

私は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元は不可能であると考えるが、これは後日書く予定である。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 02:29| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月28日

2009/5/28・勉強(生気論・機械論・物理主義)

私は、「霊魂は生きている」とか「感受性」で、欲望を考えた時、私の記事は、霊魂と肉体の和合、つまり「 受肉 」の問題だろうと思った。

私はキリスト教徒ではないから、詳しく知らないが、「 受肉 」を神が肉体と和合すると考えた時、意識という電磁波と肉体の和合であり、肉体とは細胞であるだろう。

私の、オカルト的な結論は後日書くが、今日は、勉強として「 生気論 」・「 機械論 」・「 物理主義 」について、Wikipedia から引用する。



http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E6%B0%97%E8%AB%96


生気論
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

生気論(せいきろん、vitalism)とは、動植物など生命の営みには、古典物理化学理論では扱っていない何らかの非物質的存在、すなわち生気が関わっている、あるいは合目的性が備わっているとする説のこと。

ただし「生気論」という名を冠した理論の系統があるのではなく、様々な考え方が"生気論"という名のもとに時代を遡ってひとくくりにされている。主に科学史や科学哲学史において使われる用語。

概説
一般的には機械論と対立するものとされている。

動植物などの生命だけに特有な力を 認める/認めない という点での対立である。

科学史的には、生気論は物理化学の発達とともに生気論はひとつひとつ否定され、機械論的な説明に置き換わってきた、とされている。

現代の自然科学では、機械論的説明や、実証主義などに基づく方法("科学的方法")により生命を解明しようとしており、非物質的存在は基本的に考慮されず、生気論は受け入れられていない。

ただし現在でも自然科学によって説明できない事象もまだ多くあり、伝統医療における気功の気論など、非物質的存在の概念は臨床面で有効なものもあり、この生物と非生物を決定づけるものが不均衡になることによって病が生じると考えている。

西洋の伝統ではこれらの生命力は四大気質とされ、東洋では気やプラーナなどと呼ばれる。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A9%9F%E6%A2%B0%E8%AB%96

機械論
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

機械論(きかいろん、英:Mechanism独:Mechanizismus) とは天候や地形、生命などの諸々の自然現象を、霊魂などの概念を用いずに、その部分要素の古典力学的で決定論的な因果関係の連鎖のみで解釈でき全体の振る舞いも予測できる、とした説、考え方[1]や固定観念のこと。

哲学、自然哲学、科学史の分野において扱われる名称・概念であり、それらの分野では目的論や生気論と比較・対置されている。

但し、具体的にどの論をもって"機械論"とするのか、論者・教科書によって解釈は異なっており、それによって"機械論"の性質もいくらか変わってくることになるので注意が必要である(同様に「目的論」「生気論」の範囲についても注意が必要である)。

超自然的な力の介在を否定する機械論は自然科学の発展の礎となった。

ただし、現実の世界はあまりに多くの要素が絡み合い、単純な機械論では挙動を予測できないことが多い。

そのため複雑系などの学問が生まれている。

また、量子力学の不確定性原理のように理論的に実証できない物がある可能性が生まれてきた。

科学の広がりは創発と呼ばれる事がある。



物理主義(ぶつりしゅぎ、英:Physicalism)とは、この世界の全ての物事は物理的である、またはこの世界の全ての物事は物理的なものに付随する、とする哲学上の立場。

一元論の一種。

一般に行動主義、同一説、機能主義などは物理主義の一種とされる。

主に哲学の一分科である心の哲学において、心身問題に関する立場の一つとして、二元論一般と対立する文脈で語られる。


しかし20世紀末ごろからは状況が少し複雑になる。

心の哲学の分野の主要な争点が、「心」から「意識」に移り、この点に関して、コリン・マッギンの新神秘主義やデイヴィッド・チャーマーズの自然主義的二元論など、世界の全てが法則に従う自然的なものであると主張しながら物理主義を攻撃するタイプの二元論が現われてきたからである。

つまり世界の全てが法則に従う自然的なものであるという点で物理主義と軌を一つにしながら、現在の物理学の枠内では現象意識やクオリアの問題は扱えない、という形で、物理主義と対立する二元論が現われてきたのである。

こうした対立図式の中では、旧来物理主義と呼ばれてきた立場は単に唯物論の意味しか持たない。

そのため日本語圏の訳書ではphysicalismの立場が物的一元論と表現されることもあるし、ガレン・ストローソンのように現代の物理主義は物理主義というより物理学主義(physicSalism)と呼んだほうが適切だ、と主張する例も見られる。

あなたがこうした現代の用法の上での物理主義者であるかを判定する目安は、意識の主観的・質的側面(クオリア)について、消去または現在の物理学の中への還元が可能だと考えるかどうか、である。

物理的とは

物理的(physical)なものとは何か、この定義によって物理主義の立場がどういうものかが決まることになるが、この点がハッキリと定義されることはあまりない。

この定義次第で、物理主義はかなり広い範囲の立場を含むことが可能である。

例えば極端な例として、ガレン・ストローソン(一般に性質二元論または中立一元論に分類される)のように、汎心論を唱えつつ自身の立場を物理主義と形容する事もある[1]。

一般的には現在の理論物理学のなかに出てくるものの実在だけを認める立場が物理主義なのだと考えておけばおおよそ間違いない。

つまり現代の心の哲学の文脈で言うと、意識の問題(意識のハードプロブレム)に関して、存在論的に保守的な形で解決を目指す立場が、物理主義である。そう考えておけば、まず間違いない。

(以上で引用を終わる)








最近の日本の脳科学者の中には、「クオリア」を問題にする学者もいる。

私は、「流れる物」と「派生する物」の電磁波的な連続の構造で、前者を「 物理的神経的刺激 」、後者を「 意識 」として、不連続に見えるが、実際は連続しているのだという考えである。

これは、時間意識や空間意識を生む電場と磁場の電磁波的構造と同じ考えである。

私は、電磁波の構造が、二重構造であると考えている。

これは、また後日書く予定である。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 06:05| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月25日

2009/5/25・オカルトの展開(時は今、敵は欲望である)

本能寺の変

1582年6月21日、織田信長の重臣、明智光秀は反旗を翻し、京都の本能寺に宿泊していた主君・信長を襲い、自らの刃で死亡させた。

その時、明智光秀が家臣らに下地したのが「 時は今、敵は本能寺にあり」である。

この謀反により、天下が動いた。

私が「 時は今、敵は欲望である 」と書いたのは、これまで書いた「オカルトの展開(霊魂は生きている)」と「オカルト的思考(感受性)」により、欲望という敵を狙った記事に対して「下地」をしたのである。

欲望とは、「 年頭所感 2」に遡る。


2009/1/2 「年頭所感 2」の記事を訂正して掲載する。

@時間と空間について、

時間も空間も、測定する物差しは存在しても、時間や空間が、生まれた子供も持っていて、教育する必要がないという事に、科学も哲学も、宗教も説明しないで「 自明 」の事としている。

人工知能が認識する、時間と空間の展開を期待しよう。

それは、人間の全ての知識の成果なのだから人間を超えた時空を持つに違いない。

見方を変えて言うと、時間と空間を持たない人工知能は、「 人間の脳 」に劣る事になる。

繰り返すが、「人間は、生まれた時から、なぜ時間や空間で困らないのだろうか ?」というのが疑問である。

A宗教で、「 光 」という言葉を使うが、それは何?

これも、「 自明 」の事として、軽蔑の眼を向けられるだろう。

しかし、古代で言う「 光 」と、現代物理学の中での「 光 」は違うと思う。

従来の宗教を、変革すべきではないのか?という疑問がある。

なぜなら、古代人は「 光 」の構造を知らないからだ。

Bその二つを、21世紀まで、考えた哲学者も科学者もいないというのが不思議な所だ。

デカルトもカントも、「 疑う 」というなら、自分が見て感じている「時間」や「空間」の存在を、何故、疑問と思わなかったのか不思議である。

ハイデガーは、「時間」の理解から遥か遠くに存在しているのに「存在と時間」を書いた。

私は、それを、応用して、時間を戦時とし、存在を環境の中の自分の存在と置き換えて、軍国主義の思想に使った日本人もいたと理解している。

何でも、無批判に、西洋の考えを取り入れるのは、哲学の貧困の何物でもない。

現在の、「経済危機」でも、日本人に「 哲学 」が無くて、派遣労働者を、物のように切り捨てる

カントは、「人を道具にしてはいけない」と書いている。

人間としての「道徳」だ。


現代には、人間の住む世界についてのビジョンが無いと思う。

政党は、選挙の事ばかり、一流の学者は、これからの流れを予測するのではなくて、過去の「世界恐慌」の事例と、現代を比べて意見を言う。

これが、何の「一流大学」か、「一流の経済学者」か、「一流の哲学者」か。

C次に「 愛 」は何処へ行ったか、である。

優秀な人には、「富」を集中するが、「 愛 」により、貧しい人に分配されるのならば、「 愛 」が「 利己愛 」になっている懸念がある。

一極に集中した「 富 」が、分配されなければ、「 愛 」ではなく、「 利己愛 」であると思う。

国家権力は、その分配を阻止するものを、摘発して責任を追及しなければ、税金を使っても無駄であろうし、低所得者の「 反感 」を買い、混沌として社会になる恐れもあると思う。

これは、「経済危機」に面している、アメリカや日本に言える事かも知れないが、案外、グローバルな物かも知れない。

私は、 E=mc2 で、「 利己愛 」は、「質量」としたが、アメリカ人も日本人も、皆、持っているから、私の考えは、「 妥当 」な考えだと思う。

この、E=mc2 により、「欲望」や「利己愛」と、「 愛 」が違う事に、何処まで迫れるかが、今年の私の目標である。

これが、現時点での、2009年に残った、私の課題である。



2008/12/31・私の反省(欲望の方向転換) 6 で書いた記事。

E=mc2 で、欲望=利己愛×意識の二乗です。

喫煙は「利己愛」だと思います。

利己愛は、「自分への「情(zyou)」」や「自分への本能」、あるいは「自分への判断の甘さ」と同じ意味かも知れない。

「 愛 」ではなくて、「情(zyou)」である。







2009/5/25・考えた事

時間と空間は、それぞれ意識の問題であり、私が考える時空も、既に述べた。

「 意識は電磁波である 」の言葉で検索すれば、それを知る事が出来るだろう。

宗教の「 光 」については、「 光 」を「 意識 」に置き換えれば、この宇宙に満ちている「 光 」は阿弥陀仏や神の「 意識 」であり、宇宙は阿弥陀仏や神の「 意思 」に満たされている事を知る事が出来るだろう。

私が、ここで問題にするのは、「 利己愛 」である。

前述したように、E=mc2 は、共通の存在方程式であると思う。

E はエネルギーと思うが、これを「霊」や「魂」とする。

意識の総体が「 霊 」であるから、E を「 霊 」とする。

C は「 意識 」であるから、これは全ての動物の脳が生み出す自意識で、自己を組織する意識であり、動物に共通であるだろう。

m が、「 利己愛 」であるが、「霊は生きている」と「感受性」の記事から知る事が出来るように、個人的、「好き」や「嫌い」の価値観が左右して気(ki)が充満して、人間存在を豊かにする煩悩である。

それは、以前、台風の構造をした渦巻きだと書いた。

その二つの総体が、左辺のE であり「 霊 」であると思う。

これを、どのように襲うのかが、これからの問題である。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 02:21| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月23日

2009/5/23・オカルトの展開(霊魂は生きている)

2009/5/11・考えた事

内なる宇宙の中で、「意識は電磁波であり」、時間意識と空間意識の座標面が、生命の時間を座標軸として、電磁波のようにサインカーブを描いて交差しているとうのが私の考えである。

その「 意識の座標面 」の「 時空の座標面 」を、生き生きとした現実面にするのが、世界の事物の現象面を連続や持続するように働かせるのが、「 記憶 」であり、感受性であると考える。


現実生活は、意識の中の感受性という「記憶」により行われるが、その感受性という「 記憶 」を過去の体験から、経済の「流動性選好」のように、引き出すのが、「 無意識の感受性 」という記憶の一つの「 霊の感受性 」であり、もう一方の「 気(ki)の感受性 」は、意識の座標面の現象の内容を補う働きをすると考える。


その「 気(ki)の感受性 」が、感性や感情と言う「好き」や「嫌い」であり、「 霊の感受性 」が「苦」や「楽」を与えると考える。


「 霊 」が思う通りに物事が進まない時に「 苦 」と考えると解釈すると、仏陀が言う「 四苦八苦 」の「 苦 」は、この「霊の感受性」の働きであると考える。


気(ki)の感受性の働き。

感性や感情は、意識する前に、人体に現れ、生理的に「好き」や「嫌い」という反応になる。

これは、無意識の感受性という記憶が、判断して人体を動かすもので、「 価値観 」というものであると考える。

それは、自分の気(ki)と相手の「 気(ki)が合わない 」、「 息が合わない 」時、に「嫌だ」と感じ、反対は「好き」と感じる。

夫婦でも、「息が合う夫婦」は、家族円満であり、「息が合わない夫婦」には離婚が多い。

人間は、瞬時に、この気(ki)が合うか否かを、思考する前に判断しているのだと思う。

これは、買い物の時でも、どの商品を買うのか、瞬時に判断する場合も同じであり、あるいは、男性が、ポルノを見て瞬時に勃起するのも同じ理由だと思う。



それと同時に、霊の感受性が働く。

これは、感性に対して「 理性 」と言うのであり、対極に位置する。

この二つの「 無意識の感受性」が衝突した場合に、「 好き 」な事に対して「 苦 」を感じさせる「 道徳 」や社会規範の要請が混入すると考える。

「流れる物」と「派生する物」が、電気と電磁波のように、交互に現れると解釈すれば、磁場の精神的な「派生する物」の意識からは、物質的、神経的な「流れる物」が生じると考える。


2009/5/23・考えた事。

上記の事を、少し要約すると、「 霊魂は生きている 」という結論になる。

「 意識は電磁波である 」から、「霊魂」は意識の総体であり、記憶は意識の感受性であると思う。

「 意識の感受性 」は人体で判断すれば、「 頭脳の働き 」であり、「 派生する物」である。

他方、「 無意識の感受性 」は、「 呼吸 」つまり、「 肺や心臓による循環器の働き 」であり、物質的な「 神経を流れる物 」の働きであると思う。


意識の総体である「霊魂」は、頭脳の「意識」だけではなく、心臓や肺の循環器による「 無意識の」気(ki)を取り込んだ総体であると考える。


生き生きとした現実生活は、私の内部での、これらの「 働き 」による。

その「 気(ki) 」を取り込む形態で、「病気」にもなれば「元気」にもなると思う。

人体は、自然の一部であり、それ自体に限界は無い。

眼で見て、耳で聞くから、「意識という電磁波」が生じて、「個人」が成立する。

区切るのは、もう一つの無意識の感受性である「理性」や「ロゴス」の働きであると思う。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 12:42| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言3 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする