2009年06月22日

2009/6/22・オカルトの展開(二つの時空)現時点の要約

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


一方は精神の時空、他方は本能の時空。

前者は、精神の世界、意識の世界であり、これまで私が考えた事、即ち、意識は電磁波であり、意識の定在波は六道であり、意識は一定の速度を持ち、電離層は霊界であり(この電離層は、大脳皮質の連合野である)、霊は意識の総和である。

それは、大脳皮質の働きであると思う。


後者は、無意識の世界で、意識の根底にあるが、現実生活に具現化しており、「無知」は、知識の欠如として、「無明」は霊性の欠如として、現実生活に存在すると思う。

それは、「脳幹」の働きであると思う。


前者は、過去を想起し、未来を空想するが、その内容は後者が決定する。

内容は、後者を構成する感覚から得た人体外部からの気(ki)であったり、霊性が感じる生物への情(zyou)であったりする。

気(ki)も、情(zyou)も、「今」という現実生活に、「気付かない」という形態で存在し、何時、意識になるのかは、後者の「身体図形」による「任意性」と「恣意性」によるので不安定な存在である。

前者が、虚時間であり思考実験などの抽象的な機能であるのに反し、後者は、実体的で、現実的で、論理的である。

両者とも、地球の自転と共に、常に新たな行動に直結していて、行動する時の、意識の電磁波に応答する、現実の「感受性」として存在する。

両者は、根本的にはDNAやRNAにより、先祖代々の意識や趣味、嗜好などの文化を受け継ぎ、具現化すると共に、自己の細胞を生殖として、自分の文化を未来に送る。



このDNAは実体的で、RNAは、機能的であり、前者は阿頼耶識(arayasiki)に対応し、後者は末那識(manasiki)に対応し、生殖により、両者は、自己組織化、即ち、自分の複製を絶えず作る働きをすると思う。

このDNAとRNAが、私の「時間意識」と「空間意識」の電磁波的な構造を作ってると思う。

そう考えなければ、「時間」と「空間」があり、一方が序列という形式で、後者が配置される図形だとしても、ヒトが死に、そして生まれても同じ「時間意識」や「空間意識」を持つことを説明する事が出来ない。

人類が滅びても「時間」と「空間」があるとしても、人類にとっての時空であると考えると、DNAやRNAが存在するから、「時空」の意識が存在すると考え、それらを創造したのは、阿弥陀仏であり「神」であると考えるから、DNA から考えを出発させながら、「 神は妄想である 」と主張するドーキンスの「 無神論 」には賛成する事が出来ない。



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2009年06月21日

2009/6/21・オカルトの展開(二つの時空)好きと嫌い

無意識と「好き」や「嫌い」について。

無意識は、海面の下の氷山のように意識の奥深くに隠れて存在しないで、意識が無いという形態で、現実生活に具現化していて、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない状態である。

そして、何時、「本能」として、意識されるか不明という不安定な状態である。

「好き」や「嫌い」は、「意識」かも知れませんが、私は、ベクトルという力線、あるいは「 力 」であると思います。

これは、「流れる物」であり、エネルギーであり、意識の感受性で区切った状態が、「好き」や「嫌い」だと思います。

これは、時間意識や空間意識の座標軸であり、この方向が「生命のリズム」であり、「主観的時間」であり、意識の方向を示すと考えます。

無意識は、意識の下の深層心理であるという考えが一般的ですが、私は、意識の下に氷山のように存在するのではなく、現実生活で、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない気(ki)と言う形態で存在していると思います。

無意識は、気付かないという事で、外部への「無知」と、内面への「無明」とは同じ水準で、現実生活の中に存在すると思います。

「無知」と「無明」の中の気(ki)は、意識に採用する形式が違うのかも知れません。

前者は、社会的な知識の獲得により意識されるし、後者は個人の性格やDNAの反応やオカルト的には「霊」により意識されるでしょう。

「本能」は、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、「無知」や「無明」の中の気(ki)を、意識の方向を決めるベクトルという「 力線 」として採用しますが、気(ki)は、社会的な存在として現実生活に存在し、実体として存在すると考えます。


無意識は、意識の内部ではなく、神経刺激物質や「流れる物」として物理学や心理学で解明されるでしょうが、意識の中にベクトルという力として採用された時、「好き」や「嫌い」として、意識の中に採用された時、不明になると思います。

衣服は精神的な物だと思うが、衣服を着た状態が「意識」であり、裸の状態が「無意識」であり、衣服の上から裸を見る事が出来ないように、個人の意識内は不明だと思います。

ブログに意識して書いている事は、意識を外部に表現していると思っても、書かれた内容は、無意識の表現であるかも知れない。

文字の筆跡が個人を特定するように、文字の筆跡は「 心 」の具現化であるかも知れない。

文字の筆跡も衣服を選ぶ趣味も、意識して行為するのではなく「自然に」行為しているもので、私は、無意識の具現化であると思います。

「好き」や「嫌い」は、「 力 」であり、反発し排斥するので、電磁波の作用であると同時に、「重力」として考えると興味があります。

「好き」や「嫌い」が個人的であるように、「重力」も、天体により相違し、非常に極端な場合は、「電磁波」を曲げるように、意識の電磁波も、強烈な「好き」や「嫌い」で曲がる事も考えられます。

このベクトルが、「身体図形」の「本能」の範囲では意欲であり生存には必要であり、その範囲を超えた場合を「欲望」と考えますが、後日、書きます。


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2009年06月20日

2009/6/20・オカルトの展開(二つの時空)意識と無意識の時空 1

私が、「二つの時空」で、表現したいのは、意識と無意識の時空が、プラズマ宇宙論の精神に従って、構成されている事である。

私は、専門家ではないから、無知であり間違った事を書いているのは、許して欲しい。

今まで、数多くの哲学者や科学者が、地球上に現れた。

しかし、ヒトは古代人より進歩しただろうかと疑問に思う。

60歳を目前にした私は、数多くの哲学者や科学者の書物を捨てて、自分で考える事にした。


如来様(nyoraisama)から始まり、「二つの時空」まで書いたが、私の無知な頭脳は頑固で妥協しない。

ここで、少し要約したいと思う。

私は、「ビック・バン」理論ではなくプラズマ宇宙論を採用している。

それに、「ガイア理論」を採用している。

そして、時間や空間は、阿弥陀如来が創造したものと考えている。


これだけでも、私の考えは、異端者の道であるので、真理を求める人は、私のブログから去って欲しい。

私は、専門の知識は無く、すべてフィクションであり、一つの物語として書いている事を承知して欲しい。

私は、意識は電磁波(光)である事から、これまで書いて来た。

時間も空間も、ヒトとは無関係に存在するのが一般的な考えだが、私は、生まれた子供が既に時間や空間を知っている事を不思議だと思った。

それは、時間意識と空間意識がヒトに備わっていて、先祖代々、遺伝子としてDNAに含まれた意識であり、意識が「物質」となったものがDNAであると考えた。

それは、「生命のリズム」であり、「主観的時間」であり、個人に特有の意識であるが、社会や科学の要請による「客観的時間」の定義を受け入れる事により、個人の特殊性を失ったと考える。

私は、個性を考える時、このガリレオの「科学前」の、自分の脈拍で時間を計る時代に戻る必要性があると考えた。

その結果、「時間」と「空間」を「時間意識」と「空間意識」の電磁波的構造に変換し、記憶力や想像力を感受性として過去と未来を区別しないと考えた。

意識と無意識も、数多くの哲学者や科学者の考えではなく、頭脳の中で「層」になっている事は賛成するが、私はそれを「電離層」と考え、その中で認識が成立すると考える。

そして、現実の「今、ここで」、時間意識と空間意識の座標の中で、内なる宇宙と外の宇宙空間が交差し、内なる「意思」が、社会への表現手段を「機能」として、「形態」になって、現れる。

これは、「脳幹」の「身体図式」により、「現象」として現われる事は、ヒトに生まれた宿命であると考える。

これからは、勿論、フィクションであり、オカルト的であるが、意識と無意識の「二つの時空」の関係について書く予定である。


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2009年06月19日

2009/6/19・オカルトの展開(二つの時空)主観性3

私の記事は、人気が無い様子だが、今日は、前半に補足を加える。



それは、人間個人が「脳幹」により「身体図形」を持ち、それによる「 任意性 」や「 恣意性 」であると思う。

(「脳幹」を調べると、「身体図式」は、既に生理的な事実だから、意識は当然、身体の制限に従うものと考える。

「配置された現象」として、あるいは「発生する順序」などは、人間が生まれると同時に持つ「身体」から、「 主観的 」であり、「 任意的 」であり、「 恣意的 」である。

偶然や必然とか自由と必然などの判断は、全てを知った上での判断であり、人間には不可能であると思う)


「今」や「ここ」と言う場合の「 任意性 」や「 恣意性 」であり、「 精神の時空 」を区切る「 本能の時空 」であり、「テリトリー」であり「生存リズム」である。

(私は「精神の時空」を区切るのは、本能の「好き」や「嫌い」であると思う。

エネルギーを区切る事は出来ないから、「好き」や「嫌い」を精神で区切る事は出来ないが、エネルギーの多いか少ないかで、精神を区切る事は可能と思う。

それが、「 恣意性 」や「 任意性 」であり、区切る理由を区切る主体も知らない。

それは、「テリトリー」や「生存のリズム」が「形態」として具現化するのが、区切る転換点であると思う。

転換点とは、テリトリーの「印」であり、自分が再び獲得する事を容易にする「印」で区切るのだと思う。)


人間が使う「今」を光速が及ぶ範囲として限定すると同時に「今」を拡大したとしても、私が「今」という時の「同時性」は私だけに適用される。

(これは、誰が「今」と規定しても、それはその人にとっての「今」であり、誰にも共通であるという所が普遍的かも知れない。

「今」は、物体と物体が衝突する時とすれば、以前、考えたように、時間も空間も、個人的であるから、その瞬間を、「 光 」が到着する範囲まで拡大しても、共有する事は不可能である。

これを定義する事によって、科学が出発すると思うが、この定義自体が、創作の一つである。)


緯度と経度で定義された地球上の時間や場所は、私が「ここ」と言う場合、私にだけに適用される。

(これは、ヒトは絶対に孤立した生き物である事の自覚である。

神の前の単独だけでなく、ヒトの誕生や存在そのものが「単独」である。

だから、ヒトは社会を作るのだと思う。)


それは、「脳幹」が作る「身体図形」による「主観性」であり、頭脳を持つすべての生物に適用されるだろう。

(繰り返すが、ヒトは「身体図式」に制限される。
これは、ヒトだけでなく、他の動物も、同じであると思う)


私は、「精神的な時空」には法律を、「本能的な時空」には道徳を適用して、「罪と罰」の問題を考える。

(「道徳」は「嫌い」でも行為すべき場合があり、「好き」でも行為してはならない場合もある行為基準であるが、「法律」は、反社会的な行為を禁じる、裁判所の判断基準である。

両者を同時に遂行するのが、ヒトであるから、本能の時空としての、好きや嫌いの判断と、精神の時空の、罰される可能性の判断を、同時にしている。

その両者の関連を、後日、オカルト的に書きたいと思っている)


このように、主観性は相違するが、相違を生み出す場所は、同一の場所だろう。

(その場所は、本能の時空は「脳幹」で、精神の時空は「大脳皮質」に存在し、行為の決定は、「大脳皮質」ではなくて、「脳幹」により実行されていると思う。

それは、「身体図式」から、その結果になると思う。)


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2009年06月18日

2009/6/18・オカルトの展開(二つの時空)主観性U

私が、「二つの時空・主観性」を書いても、世界の検索エンジンは反応しません。

そこで、補足する事に決めました。

前半は、私が言う意味を理解する事が出来たと思い、後半について、補足します。




「間主観性」や「感情移入」という言葉で、同一性を持とうとするのは精神的には可能でも、本能的には不可能であると考える。

(これは、私が私の身体から抜け出して貴方と同一になれないから、「間主観性」や「感情移入」と言っても、それは不完全である事を言いました)

これは、「 憲法 」と同じで、相違した民族が団結して憲法を作って、国家を守ろうとしても、本能としての民族の違いにより、分裂する危険は存在する。

(これは、精神的に、言葉で合意しても、利害が対立した場合は、同一の血が流れた民族意識で分裂する危険がある事を言いました)

「 二つの時空 」を一つにする努力を絶え間なく続ける事が必要とされると考える。

(これは、精神的な座標と本能的な座標が重なる部分を多くするように努力しないと、本能が勝ってしまう危険性を言いました)

主観性を発生させる「本能的な時空」が民族であり、これは、同一民族を「精神的に」理解する努力と同じ努力を、違う民族にも実施する事により理解は可能となる。

(これは、同じ血が流れた民族が話すだけで意識を生じる。血が意識を生み、他民族への圧迫か、排除に向かう危険性を言いました)

同一の平面で考えるから「矛盾」するし、本能の時空の矛盾を精神の時空で理解しない方が良いと思う。

(これは、血やDNA の違いにより、時間や空間的を異にする文化は、他方を吸収するか、排除するだろう。前者は、日本神道と仏教であり、後者は、日本文化とキリスト教である。これは、互いの信条を学ぶ事で理解が可能だと考える)

「矛盾」は社会の中ではなく、個人の「二つの時空」の中に存在するかも知れない。

(これは、経済的な平等で、真の平等を達成する事が出来ない。自分の心の本能の座標で、差別する者を許す心を持たないと矛盾や差別は解消しない。矛盾を社会の中に探すより、自分の差別心を探した方が解決も早いと考えた)

個人の欲望は限りないから、個人の矛盾を社会の矛盾にするのは、解決にはならない。

(これは、経済的な貧富による差別や矛盾ならば、社会の矛盾を糾弾する事により解消すると思うが、個人の心の差別心を解消する事は他の方法による)

本能の時空は、広くて強烈であり、精神で収容されると考えない。

(これは、本能を閉じ込める精神の牢屋は存在しないと思う。本能を殺せば、自分も死ぬ事は明白で、気(ki)が生きようとする気持ちを持つならば、どんな方法でも生きるのが人間だと思う。)

「 心 」の願いには、「 心 」で応じた方が良い。

(これは、矛盾や開放を願う人間には、「心」の中に願う理由があると思う。その願いを解消せずに、武器などで圧迫するなどは、許されない)

これは、世界の紛争国の全ての国に適用される事だと思う。

(これは、ミャンマーやチベットを見れば理解する事が出来るだろう。彼らが何を求めているか、権力側は、良く聞く余裕を見せて欲しい)


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2009/6/18・オカルトの展開(二つの時空)主観性

2009/6/6・考えた事

この、本人だけの「 感受性 」は、私の「 主観的時間 」であり、「 私の今 」であり、私が手を合わせている時間のように、本人の私だけが得られる「同時性」である。

このDNA が、世界中の全ての人間が持っているから、「 時間 」としては、「 DNA の数だけ時間が存在する 」結果になり、DNA を持つ動物ならば、全て「 主観的時間 」を持っていると考える。

馬も牛も犬も猫も、「時間」を持っていると解釈する。

それが、「 体内リズム 」であると思う


2009/6/8・考えた事

私は、「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論を支持し、99% が電磁波に関連していると考えている。

人体も例外ではなく、試験管で生命が生まれない理由は、DNA の細胞分裂も生体の電磁波が必要だと考えている。


2009/6/7・考えた事

ヒトは、少なくても二つの座標で、物事を判断している。

遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる私だけの「本能」の座標と、それに重なる社会の「精神」の座標である。



私の「本能」の座標について。

「 時間 」や「 空間 」は、私だけの座標では、私の身体にフィットした、あるいは私の頭脳で変形した「 主観的 」な「時間と空間」である。

「主観的空間意識」とは、私の二つの眼で把握した「空間」である時点で、私だけの「空間」に変形している。

まず、見る範囲として、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる人体により、主観的である。

次に、二つの眼で見るとは、二つの光を受け入れる事であり、眼がレンズであるとすれば、眼底には倒立した像と、二つの光を受け入れる事による奥行きという距離感を生むだろう。

眼底で倒立した像を倒立させ、奥行きという距離感を生むが、網膜に映る光の干渉は主観的であるし、距離感も主観的である。

「主観的時間意識」とは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが作る身体が生存するリズムである。

これは、後述する「時間意識」の他に、自分の生命へのベクトル(力線)を感じる気(ki)を含む所に、「 主観性 」がある。

後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。


2009/6/11・考えた事

2009/6/7の「 本能 」の座標は、「 脳幹 」からの刺激が影響する。

これは、諸学問の成果を待っているが、私のブログでは、当面の「 二つの時空 」を一つは社会の「精神」の座標とし、他方を「 脳幹 」による「 本能 」の座標に含まれる、「 主観的 」について書く。

「主観的」というのは、2009/6/6 ・考えた事である。

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。







2009/6/18・考えた事

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。

それは、人間個人が「脳幹」により「身体図形」を持ち、それによる「 任意性 」や「 恣意性 」であると思う。

「今」や「ここ」と言う場合の「 任意性 」や「 恣意性 」であり、「 精神の時空 」を区切る「 本能の時空 」であり、「テリトリー」であり「生存リズム」である。

人間が使う「今」を光速が及ぶ範囲として限定すると同時に「今」を拡大したとしても、私が「今」という時の「同時性」は私だけに適用される。

緯度と経度で定義された地球上の時間や場所は、私が「ここ」と言う場合、私にだけに適用される。

それは、「脳幹」が作る「身体図形」による「主観性」であり、頭脳を持つすべての生物に適用されるだろう。

私は、「精神的な時空」には法律を、「本能的な時空」には道徳を適用して、「罪と罰」の問題を考える。

このように、主観性は相違するが、相違を生み出す場所は、同一の場所だろう。

「間主観性」や「感情移入」という言葉で、同一性を持とうとするのは精神的には可能でも、本能的には不可能であると考える。

これは、「 憲法 」と同じで、相違した民族が団結して憲法を作って、国家を守ろうとしても、本能としての民族の違いにより、分裂する危険は存在する。

「 二つの時空 」を一つにする努力を絶え間なく続ける事が必要とされると考える。

主観性を発生させる「本能的な時空」が民族であり、これは、同一民族を「精神的に」理解する努力と同じ努力を、違う民族にも実施する事により理解は可能となる。

同一の平面で考えるから「矛盾」するし、本能の時空の矛盾を精神の時空で理解しない方が良いと思う。

「矛盾」は社会の中ではなく、個人の「二つの時空」の中に存在するかも知れない。

個人の欲望は限りないから、個人の矛盾を社会の矛盾にするのは、解決にはならない。

本能の時空は、広くて強烈であり、精神で収容されると考えない。

「 心 」の願いには、「 心 」で応じた方が良い。

これは、世界の紛争国の全ての国に適用される事だと思う。

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2009年06月14日

2009/6/14・オカルトの展開(派生する物)

私が使う「派生」について、Yahoo USA でもGoogle でも掲載している。

Yahoo USA 「派生 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0wnKjRKl18BbyWl87UF?p=%E6%B4%BE%E7%94%9F%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

私は「流れる物」を「電流」や「神経刺激物」と考え、「電場」を作ると思っている。

「派生する物」とは、「流れる物」を受け継ぎながら、発生する物と考えて「 意識 」であると考えている。

「 意識 」は「電場」が存在しなければ、存在しない点では「電場」に依存するが、「電場」とは違う性質を持つ物と考える。

「 流れる物 」と「 派生する物 」は、実数と虚数や複素数の関係だと思う。

前者が実数であり、後者が複素数である。

前者が、種々の気(ki)を含んで実体と脳に思わせ、後者は、実体は無いと思わせ、実体が無い「 可能性 」を生むものと考えている。

後者が「思考」であり、複素数であり、座標は回転し、時間も虚時間であるだろう。

実際の時間が存在しないと存在しないが、時間という感覚を欠いている時間である。

思考の中では、解決策が時間の長さを計測すれば自然に発生するのではなく、解決策は時間の長短に関係せず、直ちに発生するから、時間の有無が問題である。

それらは、物質的、あるいは形態的には、DNA とRNA だと思う。

前者の形態はストックであり、後者の形態はフローであり、この関係は「 細胞の核 」の所で決定しているかも知れない。

これらを思考する物が「 派生する物 」であり、「 意識 」であり、流れる物質によって、規定する事が出来ない事は、以前も、述べた。

しかも、「 意識 」は、「 脳 」だけでなく、周辺の「 脳幹 」そして、心臓の電気の働きまで考えないと、解明される事は無いだろう。

人間の根幹であり、DNA の問題であり、時空も全てDNA から生じると考えるから、人間の全体を解明しなければ、「 意識 」の解明であるとは思わない。

コンピューターを作れば、違う時空が生じるのであれば、私の考えは間違っている。


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2009年06月11日

2009/6/11・オカルトの展開(二つの時空)作成理由2

2009/6/6・考えた事

この、本人だけの「 感受性 」は、私の「 主観的時間 」であり、「 私の今 」であり、私が手を合わせている時間のように、本人の私だけが得られる「同時性」である。

このDNA が、世界中の全ての人間が持っているから、「 時間 」としては、「 DNA の数だけ時間が存在する 」結果になり、DNA を持つ動物ならば、全て「 主観的時間 」を持っていると考える。

馬も牛も犬も猫も、「時間」を持っていると解釈する。

それが、「 体内リズム 」であると思う


2009/6/8・考えた事

私は、「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論を支持し、99% が電磁波に関連していると考えている。

人体も例外ではなく、試験管で生命が生まれない理由は、DNA の細胞分裂も生体の電磁波が必要だと考えている。


2009/6/7・考えた事

ヒトは、少なくても二つの座標で、物事を判断している。

遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる私だけの「本能」の座標と、それに重なる社会の「精神」の座標である。



私の「本能」の座標について。

「 時間 」や「 空間 」は、私だけの座標では、私の身体にフィットした、あるいは私の頭脳で変形した「 主観的 」な「時間と空間」である。

「主観的空間意識」とは、私の二つの眼で把握した「空間」である時点で、私だけの「空間」に変形している。

まず、見る範囲として、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる人体により、主観的である。

次に、二つの眼で見るとは、二つの光を受け入れる事であり、眼がレンズであるとすれば、眼底には倒立した像と、二つの光を受け入れる事による奥行きという距離感を生むだろう。

眼底で倒立した像を倒立させ、奥行きという距離感を生むが、網膜に映る光の干渉は主観的であるし、距離感も主観的である。

「主観的時間意識」とは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが作る身体が生存するリズムである。

これは、後述する「時間意識」の他に、自分の生命へのベクトル(力線)を感じる気(ki)を含む所に、「 主観性 」がある。

後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。


2009/6/11・考えた事

2009/6/7の「 本能 」の座標は、「 脳幹 」からの刺激が影響する。

これは、諸学問の成果を待っているが、私のブログでは、当面の「 二つの時空 」を一つは社会の「精神」の座標とし、他方を「 脳幹 」による「 本能 」の座標に含まれる、「 主観的 」について書く。

「主観的」というのは、2009/6/6 ・考えた事である。

世界中の生物の全部に適用され、そしてその内容が全て相違する事を考える。

また、後日、書く事にする。


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2009年06月10日

2009/6/10・オカルトの展開(二つの時空)脳幹

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



ネットで、「脳幹」を発見した。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%84%B3%E5%B9%B9

脳幹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

構成要素

広義では間脳および下位脳幹、狭義では下位脳幹と同じ意味で用いられる。

脳幹(のうかん、英 brain stem)は、中枢神経系を構成する器官集合体の一つ。

延髄と橋、中脳と間脳を合わせて脳幹と呼ぶ。

狭義の「脳幹」では間脳すなわち視床および視床下部を除外するが、この意味をより明確に表すため下位脳幹 lower brainstem という用語が用いられる。

また、脳幹・(間脳)・小脳・大脳を合わせて脳と呼ぶ。

脳幹の機能

脳幹は多種多様な神経核から構成されており、その機能も当然ながら多様であり、この小さな部分に多数の生命維持機能を含む。

1. 多数の脳神経が出入りし、多数の神経核が存在する。
2. 自律神経機能中枢が存在する。
3. 意識と覚醒に重要な神経回路があるとされる。網様体の項を参照。
4. 脊髄から視床へ上行する感覚神経路が存在する。
5. 上位中枢から脊髄に下降する運動神経路が存在する
6. 姿勢反射の中枢である。

網様体(Wikipedia から引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B6%B2%E6%A7%98%E4%BD%93

網様体は主に迷走神経を介して呼吸・心拍数・血圧を調節する中枢である。

この機能は生命維持に不可欠なので、網様体が傷つくことは直ちに命に関わる。

脳幹が生命維持の中枢と言われる理由の多くは、脳幹の全体に広がる網様体が負っている。

網様体は視床を介して覚醒と睡眠の調節にも深く関わっている。

痛みで目が覚めるなどの反応は、痛覚線維から伝わった刺激が網様体に入り、網様体の活動を促して意識や運動機能を活発にすると説明される。

この様子は脳波の測定により観察できるが、詳しい機序には不明な部分も多い。


(Wikipedia からの引用を終わる)



私の「 本能 」の時空は、この脳幹からの刺激による「 無意識 」の領域かも知れない。

「主観性」が身体や呼吸による気(ki)の取り入れなどが、「 脳幹 」に関係するから、私の考えも、この生物的な時空の一つであると思う。

私は、この領域を、生物学や物理学などの学問により、解明されるのを待っている。

私の考えは、また後日、書きます。


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2009年06月08日

2009/6/8・オカルトの展開(二つの時空)作成理由

Yahoo USA が、「オカルトの展開(二つの時空)」を掲載してくれた。

Yahoo USA 「二つの時空 m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxR_FCxKMQgAuzOl87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の記事が掲載された責任として、掲載された記事に関連した考えを書くことにする。

私は、専門的な知識を持っていないので、学問的な知識を求める人は、他のブログを見てほしい。

これは、フィクションで、オカルト的な考えです。

私は、「 意識 」の時空と「 本能 」の時空を設定し、後者が前者の方向を決めると考えている。

その事について書く事にする。

私は、「ビッグ・バン」理論ではなく、プラズマ宇宙論を支持し、99% が電磁波に関連していると考えている。

人体も例外ではなく、試験管で生命が生まれない理由は、DNA の細胞分裂も生体の電磁波が必要だと考えている。

私は、解決を求めていた「好き嫌い」の問題をDNA をフィラメントとして、それに流れる電気の強弱がベクトル(力線)となり、「 意識 」の向かう方向を決めると考えている。


方向は、DNA の違いだけ存在すると思うが、双子などDNA が似ている場合、価値観の差が小さいのは、私の考えからは、是認する事が出来る。

不明な問題をDNAの責任にするのが、私の考えだが、ヒトは、先祖伝来の情報を遺伝子として受け継ぐ以上、ヒトの価値観の相違を是認する。

これは、フィクションであり、何の根拠も無いが、このように「 二つの時空 」を考えて、私が、道徳や社会規範を判断する理屈にしたいと思っている。


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2009年06月07日

2009/6/7・オカルトの展開(二つの時空)2

以下の二つの時空が自然である事の理由。

@
後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。

A
これは、社会の誰もが、誕生と同時に、ヒトに教えられなくても理解する事が出来るという意味で、直交している座標である。

人類社会が定義した、「時間」や「空間」は、妥当な考えであり、私は、排斥しない。

この二つの座標を持つ事は、自然界に適合するというのが、私の持論である。



2009/6/7・考えた事。

この二つは既に存在している。

地球は太陽の周りを公転し一周で一年であり、その一方、地球は自転し、一回転が一日であり、24時間である。

この事が、二つの考えを同時に成立させる。

前者の場合、地球上の全ての生物が、一年を経過し、平等であるのに反し、後者では、地球上の生物は、時間を緯度と経度で決定するならば、立つ場所の違いにより、全て時間を異にする。

全てが、「時間」で表現される空間の移動により、エントロピーが増大し、無常である。

地球上の生物を考えると、全てのDNA が相違するために時空は全て相違するが、DNA であるから、全て「時空」を持つ。

「時空」はDNAが作る「時空」意識であり、天体は運動であり、エネルギーであるから、DNA が存在しなくても地球は動く。

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2009/6/7・オカルトの展開(二つの時空)

これが、2009/6/6・考えた事である

私は、「遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNA 」 の欲を「 本能 」と解釈し、それが、「 意識 」という精神の領域で、多くの実体と判断する意識と結合して現れたのが「 欲望 」と解釈している。

2009/6/7・考えた事

これから、私だけの考えを発表する。

人類史上、初めての考えである。

ヒトは、少なくても二つの座標で、物事を判断している。

遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる私だけの「本能」の座標と、それに重なる社会の「精神」の座標である。


これは、「 時間 」や「 空間 」を考えても理解する事が出来るだろう。

@

私の「本能」の座標について。

「 時間 」や「 空間 」は、私だけの座標では、私の身体にフィットした、あるいは私の頭脳で変形した「 主観的 」な「時間と空間」である。

「主観的空間意識」とは、私の二つの眼で把握した「空間」である時点で、私だけの「空間」に変形している。

まず、見る範囲として、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAによる人体により、主観的である。

次に、二つの眼で見るとは、二つの光を受け入れる事であり、眼がレンズであるとすれば、眼底には倒立した像と、二つの光を受け入れる事による奥行きという距離感を生むだろう。

眼底で倒立した像を倒立させ、奥行きという距離感を生むが、網膜に映る光の干渉は主観的であるし、距離感も主観的である。

「主観的時間意識」とは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが作る身体が生存するリズムである。

これは、後述する「時間意識」の他に、自分の生命へのベクトル(力線)を感じる気(ki)を含む所に、「 主観性 」がある。

後述の「時間意識」と「空間意識」が、社会に理解されるという意味で直交しているならば、この「主観的時間」は、その二つの方向とは違う方向を持つと考える。

それは、遺伝子により伝えられる祖先伝来の意識を担うDNAが感じる力線が違うから、人類は全て、その方向は違う。


A

これに重なる「 時間 」と「 空間 」の社会の「精神」の座標について述べる。

私の考えでは、「 意識は電磁波(光)である」という観点から、「時間意識」と「空間意識」は、電磁波が進行方向に電場と磁場が直角に揺れ動くように、「主観的時間(体内リズム)」であり生きる方向に対して、「時間意識」と「空間意識」が直交しながら進む。

これは、社会の誰もが、誕生と同時に、ヒトに教えられなくても理解する事が出来るという意味で、直交している座標である。

人類社会が定義した、「時間」や「空間」は、妥当な考えであり、私は、排斥しない。

この二つの座標を持つ事は、自然界に適合するというのが、私の持論である。

それについては、改めて書くことにする。


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