2009年07月06日

2009/7/6・オカルト(統合)周波数と二本足の考えと直感

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83



2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。

2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

意識の背後に無意識が存在するのは、「一本足打法」ではなく、意識と無意識の時空の二つは一つになり、一瞬の間に混在し情(zyou)と気(ki)として存在するという「二本足の考え」を、私は採用します。

Yahoo USA 二本足の考え
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkwGuF1BKkm8ASt.l87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



2009/7/6・考えた事

身体の外部の「 周波数 」と、身体の内部の「 二本足の考え 」を組み合わせて、私の「 直感 」という内容を理解してください。

前者は、無意識の「 極 」の「エネルギー」であり、後者は、意識の「 極 」の精神へと連結する「 感受性 」であります。

「 感受性 」を限度まで拡大して、「エネルギー」を得るのが「 直感 」だと思います。

私は、電磁波に対する受信機と意識を同調させて、通信する事は可能だと思います。

現在は、「超能力者」の「超能力」により、意識と意識の通信が可能だと思いますが、「周波数」と「意識」の両者とも、電磁波の性質を持っているから、意識に同調する受信機の製作により、意識と受信機との通信が可能だと思います。

私は、この意識が「 インスピレーション 」や「第六感」と言われる「直感」であり、それは意識と周波数というエネルギーが一致して、行動に現われた感覚だと思います。

同一の時空で、周波数と気(ki)より生命のベクトルという「霊」の方向を発見し、それが意識の中で情(zyou)という物語を生む。

それとは逆に、物語を任意に、恣意的に組み合わせて、周波数と気(ki)を一致させて「霊」の方向を知るのが直感であるというのが、現時点での私の考えです。

直感が、無意識の「欲」であり、ベクトルなので、主観的であり間違う場合もあります。

そのベクトルを、座標軸として、意識を構成して、社会に適合した行動が、「芸術」などの「 個性的な行為 」になると思います。


直感の取得の方法は、人体の毛穴を開いて気(ki)を迎え入れたり、あるいは一心に信仰して、阿弥陀仏や神との同時性を得る事でしょう。


日本にも、「 同行二人(dougyouninin) 」という考えがあります。

これは、四国の「お遍路さん」が、巡礼をする時は、死を覚悟した装束を着けながら、弘法大師と、常に一緒に巡礼する時に、「 同行二人 」と言うと私は認識しています。

これは、常に仏陀や神と、同時に存在しながら、四国を巡礼する事です。

巡礼をしない場合でも、常に、仏陀と同時に存在する事を感じる事は、直感を持続する事であり、人格を向上させる事であるというのが、現時点での私の考えです。

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:28| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月05日

2009/7/5・オカルト(統合)創作(二本足の考え)A

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


私の独自の考えについて、少し補足します。

2009/7/4・考えた事

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。

耳は何故二つ存在するのだろうか?



2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。


私は、現時点で不明な事は、DNAが原因であると考えています。

DNA が何故、二重のらせん構造なのかも不明であるし、現時点で不明なものは全部、DNA が原因だと思っています。

DNA の性質は、生物の本能だと思うし、二重のらせん構造が、他方を欠損した時に、修復を可能とする働きであれば(例えば腎臓)、片方の眼や耳が欠損しても、他方で補う事が出来ます。

私は、この二重らせんの構造が、人体を右と左に臓器を持つ原因だろうと思っています。

身体が二つの構造ならば、精神も、意識と無意識の二重構造であり、楕円のように二つの中心を持っていると考えるのも許されると、私は思っています。

野球で、イチローや王貞治氏のように、一本足打法の選手が存在しますが、野球は、二本足打法が普通だと思います。

イチローでも王貞治氏も、球にバットを当てる瞬間は、二本足打法だと思います。

思考も、意識の下に無意識が存在するという「一本足打法」をする必要はないと思います。

意識の下に無意識があるというのが正しいかもしれませんが、私は、楕円の中心が二つ存在するように、意識と無意識の中心の存在を認めます。

哲学や心理学などの学問から、私の身体にフィットした考えを採用します。

意識だけで考えるのが学問かもしれませんが、「二本足の考え」で書いたように、「 極 」を考えると、無意識はエネルギーであり、意識が全てだとは考えません。

意識すれば、その範囲だけ、無意識も増加するのだと思います。

意識は、電磁波というフィラメント構造であり、人類の全てに共通した構造ですが、実体を決定するのは個人の「任意な」、「恣意的な」無意識であり、「人格」であり「欲」だと思います。

「色」を見た瞬間に、反応する事もあると思いますが、「色」というDNAに蓄積された無意識の知識が、反応という行動を決定しているのだと思います。

意識すれば、全てが意識ではなく、意識した範囲だけ無意識が増加する事だと思います。


意識の背後に無意識が存在するのは、「一本足打法」ではなく、意識と無意識の時空の二つは一つになり、一瞬の間に混在し情(zyou)と気(ki)として存在するという「二本足の考え」を、私は採用します。



Poor thinking is as good as no thinking.

そして

Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 04:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月04日

2009/7/4・オカルト(統合)創作(二本足の考え)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。



2009/7/2・考えた事

今日は、「直感」について書く予定でしたが、その前に、少しだけ、要約をさせてください。

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。




2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

少し考えてください。

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。

耳は何故二つ存在するのだろうか?

左右の二つの脳に信号を送るのが感覚器官であると思いますが、眼が二つ、耳が二つ存在するのは、左右の脳の違う働きという意味で、「 機能 」が違うかも知れません。

これは、認知科学などで解明される事を期待します。



意識と無意識に関しては、意識しか存在しないと主張する人が正しいかも知れないが、私は、「二つの軸」として、考えます。

地球に、南極と北極があるように、意識と無意識は、それぞれに「 極 」を持っていると思います。

意識の「 極 」が精神であるなら、無意識の「 極 」はエネルギーだと思います。

精神で全てを説明する事が可能ならば、エネルギーによって、全てを説明する事が可能かも知れません。

全てに「エネルギー保存」が成立すれば、「エネルギー保存」による説明を期待します。



「ラグビーのボール」のように立体的に考えるのは、二つの意味で考えます。

@
ボールの表皮を、一方では人間の皮膚だと考え、もう一方を人体を囲む精神と考えるからです。

人間の皮膚や精神で包まれるのが、生物としての人体であると考えます。

皮膚に囲まれた人体は、電気を帯びた宇宙の屑であると思いますが、電気を帯びる事が生物の謎だと思います。

頭脳の脳波と、心臓の心電図を考えた時、脳の働きは身体の全体に及ぶし、心臓の働きも身体の全体に及びます。

脳波と心電図は、違うかも知れないと、今は思っています。

A

意識の時空と、無意識の時空を一つだと考えると、現実世界に、意識と無意識が混在しているという結果になります。

混在する物で、一方が情(zyou)という「物語」であり、他方は気(ki)というエネルギーとして、次元は違っても、混在すると思います。


地球の自転による「今」、人間は既に行為していますから、行為する時は、無意識の状態だと思います。

「今」より以前に、意識が先行する事は、宗教を考える事であると思います。

「信じる事」であり、「今」より先行する意識は、違うと思います。

そして、人間の行動を決定するのは、「意識」ではなく、「無意識」であり、「 人格 」であると思います。

私は、「欲」は、「人格」の引力と考えますから、人間は全て、欲で動くと思います。

無意識に、「欲」を持って行動しますから、「人格」を「霊」へ向上させる事が必要だと思います。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 21:35| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月02日

2009/7/2・オカルト(統合)二つの時空と感受性A

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれた。

私の考えが、何処で自滅するのかを知りたいのか、あるいは好奇心からなのか、私は知らないが、掲載されて感謝している。

Yahoo USA 「二つの時空と感受性」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0wvekxK2hEBgqal87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%A8%E6%84%9F%E5%8F%97%E6%80%A7&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。



2009/7/2・考えた事

私は、同じ内容を違った言葉で書き、読者には迷惑だと思いますが我慢してください。

少しでも前進したと思って書きますが、後退した考えになっているかも知れません。

今日は、「直感」について書く予定でしたが、その前に、少しだけ、要約をさせてください。

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。

ここから、「直感」に連結しますので、注意してください。

私は、外界に周波数と、体内にその周波数を意識に変換する感覚器官を持っています。

認識の主体は大脳だと思いますが、行動の意思決定は、脳幹が行うと考えています。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 19:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年07月01日

2009/7/1・オカルト(統合)二つの時空と感受性

「感受性」に対する私の考えは、明瞭ではない。

2009/6/30・考えた事

ヒトは、「周波数の比較」を見れば、電磁波の周波数を感じる感覚器官を持っているのは事実だと思う。

私は、視覚や聴覚など、感覚器官は違い物理的な刺激は違うが、獲得する情報に共通な性質が含まれると思っている。

それは、意識であり、思想であると思うが、現時点で明瞭な考えは無い。

ただ、全盲のピアニストが、国際的なピアノコンサートで優勝した事実から、共通した意識がある事を考えなくてはならないと思う。

私は、ヒトは感覚器官というレーダーを持ち、自分の体外のエネルギーを摂取するが、レーダーはレーダーであり、情報を決定しない。

対象を、区切り、選択するのは、脳の「身体図形」による意識だと思うが、意識の中で、探査するレーダーが「精神の座標」で、実体の決定は、気(ki)を含む「本能の座標」であると考える。

「身体図形」による区切りであるから、レーダーも決定も、主観的で任意で恣意的であり、主観的リズムである。

……(省略)……

エネルギーや意識を決定するのは、個人の特殊な環境や感受性であるから、決定した内容は全て相違するが、或るエネルギーを持つ周波数に対して、意識が同一形態の行為として具現化するから、外部から、共通感覚があると判断されるのだと思う。

身体の外部から社会的に共通感覚と言っても、身体の内部の意識は感覚ごとに相違し、情報が共通しているだけだと思う。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。


2009/5/10・考えた事

意識から考えると、記憶は感受性だと思う。

無意識の「 感受性 」は、「気(ki)の感受性」と「霊の感受性」に分かれ、前者は「地球を囲む大気」のような存在で、生命維持に必要である事を感じる感覚であり、後者は、「 エーテル体 」として、光を伝播し、宇宙空間を満たしている物を感じる感覚が必要だと考える。

この無意識の「気(ki)の感受性」が、人の皮膚や毛穴を通して人の周囲の「電離層」を出入りする、自分だけに特有なエネルギーを感じる事であり、人の「電離層」に普遍的なエネルギーを感じる事は、「霊の感受性」に似ているが、エネルギーであるという点で、「霊」とは区別されると考える。

無意識の「霊の感受性」については、まだ考えていないが、現時点では、「 光を見る事であり、音を聞く事 」、感覚する事であり、感覚器官に届く「光」や「音」の周波数に、感覚器官を向けたり注意したりする事であると考えている。

気(ki)というエネルギーにより、新たな感覚が生まれる事が、「霊性の開発」であり、自分の意識の方向性を決めると思う。

自分は自分であるという意識を漠然と感じ、その確認する方向を決めるのが、「霊」であり、エネルギーの充満によって、方向性を解決する事は出来ないと思う。

栄養を充分に摂取しても、死への不安が消滅しないように、全てがエネルギーで解決するとは考えない。



2009/7/1・考えた事

私は、二つの時空を想定し、一つは「意識の時空」で、もう一つは「本能の時空」であると考えた。

前者が、統計や資料などの精神のデーターで、意識的な感受性で「実体」か否かを判断すると思う。

後者は、エネルギーに対する「気(ki)の感受性」と「好き」というエネルギーと「嫌い」というエネルギーの合成から方向として生じる「霊の感受性」という無意識の感受性で、生きる「欲」の「実体」を判断すると思う。

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

「意識の時空」の感受性は、因果関係で説明される知識としての「感受性」が「常識」であり、それは、統計や資料で実体化された「知識」としての「感受性」であると思う。

「無意識の時空」の感受性は、二つ存在すると思う。

一つは「気(ki)の感受性」で、大気や空気として呼吸に関係し、もう一つは「霊の感受性」で、先祖代々のDNAに関係して、エネルギーを生きる方向やベクトル、という引き合う力、引力や重力として感じるだろう。

「意識の時空」は、大脳皮質で行われ、「派生する物」であり、「無意識の時空」は、脳幹で行われ、「流れる物」であると考える。

予想や計測は、「意識の時空」の感受性で行われ、「決定」は「無意識の時空」の感受性で行われるというのが、現時点の要約である。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月30日

2009/6/30・オカルト(統合)周波数と意識と共通感覚2

昨日の記事が、Yahoo USA に掲載された。

Yahoo USA 「周波数と意識と共通感覚」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxmtG0lKk6IA_myl87UF?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98%E3%81%A8%E5%85%B1%E9%80%9A%E6%84%9F%E8%A6%9A&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=



私は、このテーマについて、現時点では明確な考えを持っていない。

しかし、話題にした責任として、私の「感覚」について、少し要約しておきたい。

ヒトは、「周波数の比較」を見れば、電磁波の周波数を感じる感覚器官を持っているのは事実だと思う。

私は、視覚や聴覚など、感覚器官は違い物理的な刺激は違うが、獲得する情報に共通な性質が含まれると思っている。

それは、意識であり、思想であると思うが、現時点で明瞭な考えは無い。

ただ、全盲のピアニストが、国際的なピアノコンサートで優勝した事実から、共通した意識がある事を考えなくてはならないと思う。

私は、ヒトは感覚器官というレーダーを持ち、自分の体外のエネルギーを摂取するが、レーダーはレーダーであり、情報を決定しない。

対象を、区切り、選択するのは、脳の「身体図形」による意識だと思うが、意識の中で、探査するレーダーが「精神の座標」で、実体の決定は、気(ki)を含む「本能の座標」であると考える。

「身体図形」による区切りであるから、レーダーも決定も、主観的で任意で恣意的であり、主観的リズムである。

両者に共通する事は、対象物と「記憶」という感受性である。

対象物が自然の物であれ、想像する物であれ、レーダーと決定の関係は同じで、一つのレーダーが故障すれば、それを補完するレーダーを持ち、獲得した意識の間に共通した情報を持っているから、全盲のピアニストも存在すると思う。

私は、レーダーの間で、共通の情報がある事を共通感覚と言うだけで、社会の中で、一つのエネルギーを持った周波数により意識が発生するかも知れないが、社会に共通な意識だとは思わない。

エネルギーや意識を決定するのは、個人の特殊な環境や感受性であるから、決定した内容は全て相違するが、或るエネルギーを持つ周波数に対して、意識が同一形態の行為として具現化するから、外部から、共通感覚があると判断されるのだと思う。

身体の外部から社会的に共通感覚と言っても、身体の内部の意識は感覚ごとに相違し、情報が共通しているだけだと思う。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

ヒトは、地球が自転しているから、絶えず新しい大気という気(ki)と衝突して、呼吸する事により体内に空気(kuuki)を取り入れて、新陳代謝に利用している。

全盲のピアニストである辻井さんは、教師の息使いから呼吸を合わせる事により、「楽譜」に代わるピアノ演奏の気(ki)を学び、自分が決定した気(ki)を、鍵盤を叩く事により表現した。

「楽譜」が精神の座標ならば、「演奏」は決定であり、その決定は感受性の働きであると思う。


学ぶ事も、演奏する事も、記憶の力を利用する限り、「感受性」が決定し、その「感受性」は意識だけでなく、無意識の肉体的、本能的な気(ki)というエネルギーや「霊」からも影響されていると思う。

「楽譜」に依存せずにピアノを演奏して優勝した事は、常識的な感覚に依存せず、他の感覚の経路を経由しても「演奏」が可能である事を証明した事だと思う。

観音菩薩のように、音(声)を観るという感覚を持つ事が、理想であるが……。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 06:41| Comment(1) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月29日

2009/6/29・オカルト(統合)周波数と意識と共通感覚

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



Yahoo USA が、2009/6/28・オカルト(統合)周波数と意識の記事を登録してくれた。

周波数と意識
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk08_u0dKQ.cAHbWl87UF?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


2009/6/28・考えた事

私は、時空を「時間意識」と「空間意識」と解釈して、それらが「 自意識 」として根底にあるが、他の五感は、自然のエネルギーを感じて、意識に変換する働きをしていると考える。

五感が獲得して意識の総体である霊という無意識の感受性が決定するものが「実体」であり、現実の世界である。

つまり、自然のエネルギーの重なりに対応して、ヒトの意識が重なっていると考える。

一つの肉体に、五感というレーダーを持っているのだと思う。

感覚器官というのは、「 周波数 」を意識に変換する機能である。

自然のエネルギーとは、「 周波数 」であり、その他に気(ki)があるだろう。


まず「 周波数 」である。

これを視覚や聴覚という感覚器官で意識に変換するのだと思う。

「 周波数の比較 」を見れば、感覚が周波数により成立する事を認識する事が出来る。


周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83


テレビもラジオも音楽も、光も、私は、現実世界で経験する事が出来る。

それは、現実世界が「 周波数 」というエネルギーの重なりであり、私の頭脳は、その周波数を意識に変換しているのだ。

脳は、周波数から意識へ変換する物理的物質である。

アインシュタインがノーベル賞を受賞した理論は、光を当てると物質から電子が飛び出すが、「 脳 」という物質に「 光 」のエネルギーが衝突して「 意識 」が発生しても不思議とは言えない。

第一、眼から入った光のエネルギーが、エネルギー保存の原則で、何かの形態に変化していると考えるのが自然だろう。

視覚や聴覚も、生物という体内の仕組みにより解明する事が正しいと思うが、私は、「 周波数 」の変換により、エネルギー保存や周波数の「経路和」の考えを採用した方が良いと思う。

そして、「 脳 」は、「 周波数から意識へ変換する層の「重なり」である。

「 脳 」は、宇宙空間の電離層のように、知覚する周波数の層の重層構造になっていると思う。

「脳」の「電離層」は、大脳皮質の連合野であると考える。

周波数が突き抜けたり、反射したする働きを「 脳 」がしている形態が、光景を見たり、音楽を聴いたりする状態であると思う。




もう一つは、気(ki)である。

これは周波数を物理的基礎としながら、体内と外部を通過するエネルギーであり、「 周波数 」が意識の領域ならば、気(ki)は無意識の領域で、精神的な「感覚の質」という「意識」の物理的な基礎であると思う。

これは、前述したように、無意識の働きであり、現実世界を「実体」として無意識が決定するが、空気を抜けば真空があるように、現実世界に、電磁波を伝達する「 エーテル体 」のように、存在すると考える。

気(ki)には、「元気」や「病気」などの自然界と交流する気(ki)も存在するが、「 エーテル体 」は、「正気」や「狂気」、それに「本気」といった精神状態にも気(ki)が使われるが、これは、自然のエネルギーに対応する「欲」の有無を表現していると考える。



2009/6/28・考えた事。

私は、音楽は耳で聞き、絵画は眼で見る。

私は、意識は、感覚器官の違いだけであり、「 脳 」への「信号」としては、同じ性質だと思っている。

それは、過去、共通感覚として論じられている。



常識・共通感覚(Wikipedia からの引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E8%AD%98

西欧に於ける常識の概念はアリストテレスの霊魂論に見える共通感覚(希:κοινή αἴσθησιςコイネー・アイステーシス、羅:Sensus Communisセンスス・コムニス)の概念に由来する。

アリストテレスは五感に共通的なもうひとつの感覚があって、これが、個別の感覚器官に限定されない知覚を可能にしていると考え、これを共通感覚と呼んだ。

具体的には、感覚の間の比較、関係づけ、個別の感覚だけには属さない抽象的な性質である、形、大きさ、数などがその対象であると考えられた。

17世紀までに、西欧においては、Sensus Communisは個体において共通な感覚を意味するものから、個体の間で共通な感覚を意味するものに変質していった。

カントにおいては Sensus Communis は「共同体感覚」という意味合いで規定され、感性的なものの伝達可能性を支えるものとされている。

(Wikipedia からの引用を終わる)



私は、この共通感覚は、「 周波数と意識 」が対応して、感覚器官の源泉は同じだから、可能だろうと思う。

共通感覚のために感覚器官が存在するのではなく、感覚自体が、一連の周波数の上に成立しているから共通感覚が存在すると考える。

想像や統合は、社会的な行為に対応する「 心 」の行為であり、感覚器官の働きではないと思う。



音楽鑑賞も絵画の鑑賞も、前者は周波数の変化が耳を通過して脳に到着し、後者はカンバスに当たる「光」の周波数の反射が表現する画家の思想の具現物を鑑賞していると考える。

音楽の場合は、「 楽譜 」が音楽家の思想である。

頭脳の中で考えられた周波数の変化を、眼で見る事が可能な音符の配列に変えて、楽器による演奏を可能にしたもので、画家の絵画に対応する物が「 楽譜 」であると思う。

過去の哲学者が、共通感覚の概念で満足し、感覚の先まで論じなかったのは、「 周波数と意識 」の対応について無知だったと考える。

ヒトは、欠けた感覚を違う感覚で補う事が出来ると思うが、感覚から得た意識は、感覚器官の相違に関係なく一定であるから、可能であると思う。

私は、その意識は、現時点では「思想」だと思っている。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 04:47| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月28日

2009/6/28・オカルト(統合)周波数と意識

今日は、意識の重なりについて考えてみました。

2009/6/25・考えた事


欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。


欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。



2009/6/28・考えた事

現実世界の送信は、送る側は、「信号」としての意識と、「搬送波」としての無意識を重ねて送り、受け取る側は、「搬送波」を解体して、「信号」を取り出す。

自分が自分へ送信し認識しているのが、「 自意識 」であると考える。

私が生活する「現実の世界」は、私にとっては意識の重なりであり、認識の対象は、エネルギーの重なりであり、ヒトは絶えずエネルギーを変換していると思う。

私が、視覚や聴覚や触覚を持っている事は、自然のエネルギーの重なりを認識する為であると思う。

私は、時空を「時間意識」と「空間意識」と解釈して、それらが「 自意識 」として根底にあるが、他の五感は、自然のエネルギーを感じて、意識に変換する働きをしていると考える。

五感が獲得して意識の総体である霊という無意識の感受性が決定するものが「実体」であり、現実の世界である。

つまり、自然のエネルギーの重なりに対応して、ヒトの意識が重なっていると考える。

一つの肉体に、五感というレーダーを持っているのだと思う。

感覚器官というのは、「 周波数 」を意識に変換する機能である。

自然のエネルギーとは、「 周波数 」であり、その他に気(ki)があるだろう。


まず「 周波数 」である。

これを視覚や聴覚という感覚器官で意識に変換するのだと思う。

「 周波数の比較 」を見れば、感覚が周波数により成立する事を認識する事が出来る。


周波数の比較 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%AE%E6%AF%94%E8%BC%83


テレビもラジオも音楽も、光も、私は、現実世界で経験する事が出来る。

それは、現実世界が「 周波数 」というエネルギーの重なりであり、私の頭脳は、その周波数を意識に変換しているのだ。

脳は、周波数から意識へ変換する物理的物質である。

アインシュタインがノーベル賞を受賞した理論は、光を当てると物質から電子が飛び出すが、「 脳 」という物質に「 光 」のエネルギーが衝突して「 意識 」が発生しても不思議とは言えない。

第一、眼から入った光のエネルギーが、エネルギー保存の原則で、何かの形態に変化していると考えるのが自然だろう。

視覚や聴覚も、生物という体内の仕組みにより解明する事が正しいと思うが、私は、「 周波数 」の変換により、エネルギー保存や周波数の「経路和」の考えを採用した方が良いと思う。

そして、「 脳 」は、「 周波数から意識へ変換する層の「重なり」である。

「 脳 」は、宇宙空間の電離層のように、知覚する周波数の層の重層構造になっていると思う。

「脳」の「電離層」は、大脳皮質の連合野であると考える。

周波数が突き抜けたり、反射したする働きを「 脳 」がしている形態が、光景を見たり、音楽を聴いたりする状態であると思う。




もう一つは、気(ki)である。

これは周波数を物理的基礎としながら、体内と外部を通過するエネルギーであり、「 周波数 」が意識の領域ならば、気(ki)は無意識の領域で、精神的な「感覚の質」という「意識」の物理的な基礎であると思う。

これは、前述したように、無意識の働きであり、現実世界を「実体」として無意識が決定するが、空気を抜けば真空があるように、現実世界に、電磁波を伝達する「 エーテル体 」のように、存在すると考える。

気(ki)には、「元気」や「病気」などの自然界と交流する気(ki)も存在するが、「 エーテル体 」は、「正気」や「狂気」、それに「本気」といった精神状態にも気(ki)が使われるが、これは、自然のエネルギーに対応する「欲」の有無を表現していると考える。

地球の引力が及ぶ所まで、大気が存在するように存在するのが「 本気(honki) 」であり、欲望の限界であると考える。

本気が存在する限り、「欲」は存在するのだと思う。

無重力の宇宙船に長時間、滞在すれば、骨格に障害が出るように、気(ki)が消滅すれば、ヒトは「欲」を支える「人格」に障害が起こるかも知れない。

例えば、極度の「 依存症 」など。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 05:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月27日

2009/6/27・オカルト(統合)敵は今、欲は人格の引力である

2009/6/25・考えた事

(私は、欲望は自分が作る観念で、先祖代々のDNA や血統や肉体的、精神的なコンプレックスから生じると思います。その観念が「今」存在して、自分を取り囲む存在の関係を、必然的、任意的、恣意的に、変える為の意思のエネルギーになっていると思います。何事も衝突しなければ、存在は認知しないのです。エネルギーが私の中心に向かっているから、自分の気(ki)と衝突してエネルギーを知るのだと思います)

(私は、欲望は現実の延長であり、実現する事を目的とした観念であり、実現しないのは「夢」だと思います)

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)


あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。

(これは、気(ki)というエネルギーを、宇宙空間を満たすエーテル体と考えて、物体を「好きだ」と思った瞬間に「引力」のように引き付け合うと考えました)

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

(欲望により獲得する物は、現実の物体であり、情(zyou)という「情報」なのです。得た物の全体が「 心 」であり、阿頼耶識(arayasiki)です。DNA です。)

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

(獲得した経路は、意識の経路であり、虚時間を使って「総和」を求める事が可能でしょう。私は、その意識の経路を、フィラメント構造だと考えています。コイルでも同じです。獲得する経過は、末那識(manasiki)の働きだと思います)

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

(繰り返しますが、私は、この「人格」とは、先祖代々の、血統による肉体的、精神的なコンプレックスであると思います。これらは、科学により深く解明される事を願います)

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。



2009/6/27・考えた事。



欲は人格の引力である

私は、前述した、フィラメント構造やコイルが「 人格 」であると思います。

それは、電気を流すコイルではなく、意識と無意識を含むDNA の管を流れる磁場で、磁場である以上、磁石のように同じ性質の物を引き付けるでしょう。

肉体的、精神的なコンプレックスや、先祖の嗜好や趣味の遺伝子が「 信号 」として流れるかも知れません。

それは、精神的な力であり、先祖代々からの意識が、物質ではなく、「引力」という形態で具現化したものだと思います。

これは、必然的な力でありますが、「精神の力」でありますから、社会的な教育、情報により、変化させる事が出来ると思います。

変化させるためには、自分の根底まで「性」も含んで、コンプレックスを発見すると同時に、気(ki)として、外部の社会と交流させる事(例えば、精神分析を受けるとか、精神科の専門員に指導を仰ぐ等の方法)で、「 人格の引力圏 」から脱出する事が必要だと思います。

信仰するならば、自分に正直になって、僧侶や神父に相談する方法もあるでしょう。

欲望は、自分が作る物だと思います。

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)

この「好き」という状態の中に自分を置けば、引力圏から脱出する事は出来ません。

「好き」という状態から、肉体に強制的にでも引き離す事が必要であると思います。

その後、薬物治療すれば、克服する事が出来るかもしれない。

ニコチン中毒やアルコール中毒などの「 依存症 」を克服する過程が、欲望をコントロールする事に参考になると思います。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 01:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月25日

2009/6/25・オカルトの収束(統合)敵は今、欲望 2

今朝の記事を、Yahoo USA が掲載してくれました。

Yahoo USA 「オカルトの収束 統合 敵は今、欲望」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmpqQUNK9qgAsaql87UF?p=%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%8F%8E%E6%9D%9F%E3%80%80%E7%B5%B1%E5%90%88%E3%80%80%E6%95%B5%E3%81%AF%E4%BB%8A%E3%80%81%E6%AC%B2%E6%9C%9B&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

そこで、少し補足したいと思います。


2009/6/25・考えた事。


欲望を、「今」という任意の時間内に、同時に存在する事を期待する意識だと考えます。

欲望は、私が求めるから生じるのだと思います。

私の中心から発した意識が対象物を探し、発見した対象物から私の中心へと向かうベクトルであり気(ki)というエネルギーが欲望であるかも知れません。

(私は、欲望は自分が作る観念で、先祖代々のDNA や血統や肉体的、精神的なコンプレックスから生じると思います。その観念が「今」存在して、自分を取り囲む存在の関係を、必然的、任意的、恣意的に、変える為の意思のエネルギーになっていると思います。何事も衝突しなければ、存在は認知しないのです。エネルギーが私の中心に向かっているから、自分の気(ki)と衝突してエネルギーを知るのだと思います)

まだ来ない未来の出来事を想像する時間的な欲望や私の任意の時刻に同時に存在を期待する空間的な欲望もあるでしょう。

時間的や空間的に実現が困難である時、欲望はエネルギーを「熱」として、現実生活の中での実現を求めるでしょう。

(私は、欲望は現実の延長であり、実現する事を目的とした観念であり、実現しないのは「夢」だと思います)

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

(これは、意識した時は、エネルギーの終わりであり、繰り返しを求めるから欲望となると思います。私は、既に、「好き」という経験を終了しているのです。その「好き」の状態を求めるのが欲望かも知れません)

私は、精神で考える事が可能な物や身体図形から想像する物は、欲望の対象物となると思います。

私は、ここで、欲望の対象物を、認識が可能な意識の領域の「因果関係」や「物語」などの情(zyou)が具現化した物や、自分のエネルギーである気(ki)を増大させる物などの、「好き」な物体と現実的な物体に限定します。

(現実生活の延長に欲望という観念があると思います。現実から離れた場合は「夢」です。)


欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。

(ここで、「意識や精神の時空」と「本能の時空」が重なる事により、強いエネルギーを発する事が可能になります。外部からの強いエネルギーと衝突する事は、内部のエネルギーを強めると思います。それは、試しに本能に逆らうと理解が早いと思います)


簡単に取得可能な距離の欲望の対象と、取得が困難な遠い距離の欲望を、同時に私が感じる時、私の中心に与える衝撃は、欲望の対象物と自分との距離が大きく、取得が困難な遠い距離の欲望であるほど強いから、私との距離の大きさに対応して、私の欲望は強いと考えます。

(例えば、隕石など、遠い距離から来た物体は、衝突した時、大きな衝撃を与えます。)

取得が困難な場合は、無意識は「熱情」として発散し、意識も消滅するかも知れません。

欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。


離れた対象物からの意識(光)が、近くの対象物と同時に、私に衝突する事は、離れた対象物からの意識(光)のエネルギーが、近くの対象物からの意識より強いという事です。

(意識の速さが一定だから、近くの物体と遠くの物体が同時に衝突する場合、遠くの物体のエネルギーは大きいと思います)

それは、「派生する物」としては、意識の「信号」に無意識の周波数を「搬送波」として重ねる事で可能になり、「流れる物」としては、私の中心と強い欲望の対象物と直結した神経回路を作ると、「今」の瞬間に強い欲望を得る事が出来ると思います。

(これは、地上から電波を発して、電離層での反射を利用して通信する手段から考えた事です。人体の中では、意識が電磁波であり、電離層は大脳皮質の連合野であると考えています)

あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。

(これは、気(ki)というエネルギーを、宇宙空間を満たすエーテル体と考えて、物体を「好きだ」と思った瞬間に「引力」のように引き付け合うと考えました)

この重なった形態が習慣化する事により、私の中心との結びつきが強固になり、「派生する物」としては、定在波として安定し、「流れる物」としては、閉じた神経回路として安定すると思います。

(これは、全てが安定を目指し、意識は周囲の気(ki)を集めて意識の束を作り、ボーアの量子条件のように定在波となって、安定すると考えました)

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

(欲望により獲得する物は、現実の物体であり、情(zyou)という「情報」なのです。得た物の全体が「 心 」であり、阿頼耶識(arayasiki)です。DNA です。)

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

(獲得した経路は、意識の経路であり、虚時間を使って「総和」を求める事が可能でしょう。私は、その意識の経路を、フィラメント構造だと考えています。コイルでも同じです。獲得する経過は、末那識(manasiki)の働きだと思います)

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

(繰り返しますが、私は、この「人格」とは、先祖代々の、血統による肉体的、精神的なコンプレックスであると思います。これらは、科学により深く解明される事を願います)

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。

欲望が、安定した定在波の周波数の相違、安定した神経回路のエネルギーの相違となった時が、仏教の「 六道 」であると思います。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 19:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009/6/25・オカルトの収束(統合)敵は今、欲望

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

これは、フィクションであり、私の想像であり、根拠は全く無いのですが、現時点で考えた事を書きます。


2009/6/21・考えた事

無意識は、意識の下の深層心理であるという考えが一般的ですが、私は、意識の下に氷山のように存在するのではなく、現実生活で、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、存在を気付いていない気(ki)と言う形態で存在していると思います。

無意識は、気付かないという事で、外部への「無知」と、内面への「無明」とは同じ水準で、現実生活の中に存在すると思います。

「無知」と「無明」の中の気(ki)は、意識に採用する形式が違うのかも知れません。

前者は、社会的な知識の獲得により意識されるし、後者は個人の性格やDNAの反応やオカルト的には「霊」により意識されるでしょう。

「本能」は、脳幹の「身体図式」による「任意性」や「恣意性」により、「無知」や「無明」の中の気(ki)を、意識の方向を決めるベクトルという「 力線 」として採用しますが、気(ki)は、社会的な存在として現実生活に存在し、実体として存在すると考えます。

2009/6/24・考えた事

前者は「 意識 」の世界であり、後者は「 無意識 」の世界であるが、前者が反応する「 周波数 」と、後者が反応する「 周波数 」は相違し、後者の「 周波数 」は、前者の感覚器官では把握する事が出来ない「 周波数 」であり、存在するが意識に入らないという形態で「 無意識 」なのだと思う。

無意識は、「無知」の次元と、「無明」の次元がある事は前述した。

意識と無意識を分けるのは、存在の有無ではなく、存在に反応する意識の周波数の違いであると思う。

細胞のDNAやRNAにより電気が人体の中に生じると思うが、頭脳の電気と心臓の電気は違うかも知れない。



もう一つ、私が思う事は、この両者は周波数が違う「意識」であるが、「意識」は精神による初めと終わりがある状態であるのに反し、「無意識」には、初めと終わりが無い、あるいは常に流れていて、初めも終わりも無い状態である。

前者が「始めた時」、後者は「終わりの時」かも知れない。



2009/6/25・考えた事。


欲望を、「今」という任意の時間内に、同時に存在する事を期待する意識だと考えます。

欲望は、私が求めるから生じるのだと思います。

私の中心から発した意識が対象物を探し、発見した対象物から私の中心へと向かうベクトルであり気(ki)というエネルギーが欲望であるかも知れません。

まだ来ない未来の出来事を想像する時間的な欲望や私の任意の時刻に同時に存在を期待する空間的な欲望もあるでしょう。

時間的や空間的に実現が困難である時、欲望はエネルギーを「熱」として、現実生活の中での実現を求めるでしょう。

精神の始まりを知る事は、それまで続いていたエネルギーの終わりであり、物事にベクトル(力線)の始まりを発見した時は、ベクトルが既に、私の中心を貫いている、つまり欲望に囚われている時であると思います。

エネルギーは、意識より先に到達すると思います。

私は、精神で考える事が可能な物や身体図形から想像する物は、欲望の対象物となると思います。

私は、ここで、欲望の対象物を、認識が可能な意識の領域の「因果関係」や「物語」などの情(zyou)が具現化した物や、自分のエネルギーである気(ki)を増大させる物などの、「好き」な物体と現実的な物体に限定します。

欲望の対象物と自分との距離や方向や強さ(ベクトル)を考える事は、主観的な意識が任意に恣意的に計測した距離の意識に、「好き」という自分への方向や強さという気(ki)やエネルギーを重ねる事であると思います。

重ねるとは、同じ性質の物を組み合わせる事で、意識をエネルギーに重ねる事ではない。

私からの距離の意識に、エネルギーを周波数に変換した意識を重ねる事だと思います。

意識を重ねる事は、太陽の「光」には、可視光線と不可視光線が重なっているように、可視光線に相当する意識の周波数と不可視光線に相当する無意識の周波数を持つ意識を重ねる事か可能であると考えます。

簡単に取得可能な距離の欲望の対象と、取得が困難な遠い距離の欲望を、同時に私が感じる時、私の中心に与える衝撃は、欲望の対象物と自分との距離が大きく、取得が困難な遠い距離の欲望であるほど強いから、私との距離の大きさに対応して、私の欲望は強いと考えます。

取得が困難な場合は、無意識は「熱情」として発散し、意識も消滅するかも知れません。

欲望の内容は「信号」や「情報」という意識であり、感覚器官から得た意識は感覚器官の種類に関係せず、意識の速さは一定であると思います。


離れた対象物からの意識(光)が、近くの対象物と同時に、私に衝突する事は、離れた対象物からの意識(光)のエネルギーが、近くの対象物からの意識より強いという事です。

それは、「派生する物」としては、意識の「信号」に無意識の周波数を「搬送波」として重ねる事で可能になり、「流れる物」としては、私の中心と強い欲望の対象物と直結した神経回路を作ると、「今」の瞬間に強い欲望を得る事が出来ると思います。

あるいは、欲望の対象物を「好きだ」という意識を感じる事が、対象物と私の中心を「万有引力」のように連結するかも知れません。


この重なった形態が習慣化する事により、私の中心との結びつきが強固になり、「派生する物」としては、定在波として安定し、「流れる物」としては、閉じた神経回路として安定すると思います。

欲望を取得すれば、無意識から生じる「熱情」は消滅し、ヒト同士の「信号」としての意識は一定で、人類は皆共通である事が判明するでしょう。

消滅した「搬送波」であり気(ki)である無意識の周波数は、DNA の数だけ相違する取得した経路を残すと思います。

その経路は、無意識の中に隠されていた私の人格でしょう。

欲望は、取得する前は私に対する万有引力に似た「エネルギー」やベクトルの強弱の意識であり、取得した後に残るのは、無意識の中に隠れていた私の人格であると思います。

無意識の中の人格が、欲望を引き寄せるかも知れない。

欲望が、安定した定在波の周波数の相違、安定した神経回路のエネルギーの相違となった時が、仏教の「 六道 」であると思います。


Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 06:43| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月24日

2009/6/24・オカルトの収束(統合)二つの時空と電磁波

私は、「ビッグ・バン」理論ではなくて、プラズマ宇宙論を採用している。

私は、人体にも電磁気の作用があると考える。

昔の何かの偶然で、電気を帯びてDNAやRNAが発生して、それを持つ生物の「主観的時間」や「生存リズム」を作るという物語は、以前、書いた。

私は、人類の誕生は、何かの電磁波の作用で「脳」が出来て、大脳皮質の「時間意識」や「空間意識」と脳幹の生命維持の本能や身体図式ができたのだろうと想像する。

そこで、「精神」の時空と「本能」の時空という二つの時空と電気を考えた。

二つの時空とは、いわゆる「心脳問題」である。

私の考えでは、「 脳 」は、精神や意識の時空で、「 心 」とは、本能の時空である。

@
前者には、「 脳波 」という電気があり、大脳皮質の電気的信号があり、後者には、「心電図」で測られる電気的な刺激が存在する。

A
「意識は電磁波である」
「意識は一定の速度である」
「霊は意識の総和である」
「意識の定在波は、六道である」
「認識は、霊界で行われる。霊界は電離層であり、頭脳では、大脳の連合野である」

この「意識」は、信号として使われ、視覚や聴覚や触覚など、いずれの感覚器官によって得られた意識であるかを問わない。

眼という感覚が獲得する光景と耳という感覚が獲得する音楽も、「信号」としては同等である。



B
前者は「 意識 」の世界であり、後者は「 無意識 」の世界であるが、前者が反応する「 周波数 」と、後者が反応する「 周波数 」は相違し、後者の「 周波数 」は、前者の感覚器官では把握する事が出来ない「 周波数 」であり、存在するが意識に入らないという形態で「 無意識 」なのだと思う。

無意識は、「無知」の次元と、「無明」の次元がある事は前述した。

意識と無意識を分けるのは、存在の有無ではなく、存在に反応する意識の周波数の違いであると思う。

細胞のDNAやRNAにより電気が人体の中に生じると思うが、頭脳の電気と心臓の電気は違うかも知れない。

後日、欲望について書く時、「信号」と「搬送波」の違いとして現われるだろう。

「反応する」とは、「感受性」という機能を持っている事であると考える。


C
もう一つ、私が思う事は、この両者は周波数が違う「意識」であるが、「意識」は精神による初めと終わりがある状態であるのに反し、「無意識」には、初めと終わりが無い、あるいは常に流れていて、初めも終わりも無い状態である。

前者が「始めた時」、後者は「終わりの時」かも知れない。

両者に「 任意性 」や「 恣意性 」は存在するが、初めと終わりを区切るのは「精神」であり、初めと終わりを決定するのは「本能」である。

電気を区切るから電磁波が生じ、電磁波は作用を終えると消滅する。

始まった瞬間に終わっている。

これが、生きている間の新陳代謝であり、人生での生と死かも知れない。

絶え間ない生の連続でもあり、絶え間ない死の連続でもある。


現時点で考えているのは、以上であるが、後日、「欲望」について書くが、その時に、二つの時空の相互関係を書く予定である。


Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 05:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年06月23日

2009/6/23・オカルトの収束(統合)目標

ブログの終わりではありませんが、一旦、考えを収束させます。

Yahoo USA は、昨日まで、私の記事を掲載してくれました。

大変、感謝していますが、私の話はフィクションであり、私の夢であり、Yahoo USA のサーバーを汚す記事ではないかと心配しています。

これからも、フィクションを書きます。

それが、掲載に適当か不適当かの判断は、Yahoo USA に任せます。

Yahoo USA に掲載された記事

2009/6/1・オカルトの展開・生命の起源

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjfMfz9KvAEAVNGl87UF?p=2009%2F6%2F1+%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%80%80%E7%94%9F%E5%91%BD%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=


2009/6/22 オカルトの展開 二つの時空 現時点の要約

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjfMfz9KvAEAVNGl87UF?p=2009%2F6%2F22+%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E3%81%AE%E5%B1%95%E9%96%8B%E3%80%80%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%80%80%E7%8F%BE%E6%99%82%E7%82%B9%E3%81%AE%E8%A6%81%E7%B4%84&fr=yfp-t-106&fr2=sfp&iscqry=

この二つの記事を統合するのが、私の目標です。

私のブログが、自らの矛盾で消滅するのか、あるいは更に迷い、これまでの路線と違う考えに到着するのかは不明です。

ただ、今まで書いた記事を、一旦、収束させて、ブログの方向を探したいと思います。

私は、プラズマ宇宙論を原理として、電磁気が宇宙から私の身体や意識まで浸透しているという考えです。

何の根拠もないフィクションであり、科学的ではありませんから、知識を求める人は、私の記事を見ない方が良いと思います。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 06:20| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 5 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする