2009年08月09日

2009/8/9、オカルト(整理)二本足の考えの追加

二本足の考えについて

2009/7/2・考えた事

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。



2009/8/9、考えた事

私は、この「 二本足の考え 」に少し、書き加えます。

ラグビー・ボールの表皮は、身体全体であり、意識の総体である霊でもあるし、認識が成立する「 霊界 」であると考えています。

頭脳の大脳皮質だけでなく、身体全体が、「 霊界 」であると思います。

それは、「 意識の座標 」と「無意識の座標」の二つの中心点を持つ楕円のラグビー・ボールと考えるからです。

前者は情(zyou)により充満し、後者は気(ki)により充満した座標が重なった楕円だと考えます。

前者は、人的交流の社会の情報に左右され、後者は、二つの眼によるベクトル(力線)に左右され、後者は前者を前提にしているが、実際の行動を決定する。

前者は、「 知識 」であり、後者は「 智慧 」であると思います。

意識を徹底して、無意識を消滅させるのは間違いで、意識が増加すれば、無意識が消滅するのではなく、意識の増加に相応して増大すると考えます。

意識の面からの全部は、無意識の面からの全部であると思います。

概念は「意識」により獲得しますが、「内容」は、無意識から獲得するもので、DNA の違いと同じほど、相互に相違する。

「内容」は、「自然」の気(ki)というエネルギーにより、補充される。

だから、「意識」による「意味の規定」を必要とすると考えます。

そして、重なった楕円のラグビー・ボールと考えますから、意識は球面で広がり、無意識も球面で広がり、一方から出た情報は「身体」という表皮、あるいは「霊界」に反射され、一方の情報は他方の中心に直接、作用すると考えます。

人は、歩いているラグビー・ボールであると考えます。

意識と無意識の二つの中心を持ち、どちらの方向に転がるかは、霊という外部からの力によると考えます。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年07月17日

2009/7/17・オカルト(二つの眼とストレス解消)禁煙の場合

2009/7/15の記事が、実情と合致しているか否かを考えた。

私は、感覚器官を持って生きている限り、ストレスは存在するものと考えます。

(タバコの煙を好きか嫌いかにより、タバコを見た印象を快感と受け取るか不快と受け取るかの違いがあるが、タバコを判別したら、良いストレスか悪いストレスは感じると思います)

思い通りにならないという意味が「苦」であれば、「 ストレス 」は「苦」であると思います。

(禁煙中にタバコが近くにある、あるいは喫煙したいのにタバコが遠くにある場合はストレスであり、思い通りでない「苦」の状態だと思います)

私は、このストレスを「 電磁波的 」に解消したいと思います。

数学の力線(ベクトル)は、複素数により符号が変わり、方向も変わります。

現実生活の力線(ベクトル)も、方向を持ち、「本能の時空」のベクトルと衝突した時、「 ストレス 」や「苦」を感じると思います。

(タバコが存在する事がストレスではなく、タバコに対しての自分の欲望の方向と反する時、ストレスになり、「苦」を感じます)

ここで、私が主張する「 二つの時空 」は、「 意識 」であり、「 意識は電磁波である 」から、動的な「 ラグビー・ボール 」であり、常に「光速」で動いています。

(禁煙中の意識の判断基準である座標と、喫煙が好きか嫌いかという本能の座標があり、一般的には、本能の座標の判断が優先します。これらは無意識といっても意識だから、二つの座標は光速で過去から未来に動きます)

静的均衡ではなくて、動的な均衡なのです。

「 ラグビー・ボール 」が、歪んだ瞬間、光速で動いて、次の「 ラグビー・ボール 」を作ると考えます。

「 ストレス 」や「苦」が、無意識ですから、この新たな「 ラグビー・ボール 」も、無意識に光速で行われると信じます。

(意識の総体である霊が歪んだ時、瞬時に別の霊になるという意味ですが、タバコへのストレスをストレスと感じるのは、自分の気持ちに依存すると知った瞬間に、ストレスではなくなる。「これが、私を苦しめるストレスだ」と知りますと、ストレスを克服したような気持ちになります)

「 ストレス 」も「苦」も、感受性から生まれますが、意識も無意識も感受性から生まれて領域が同じですから、気(ki)や霊により、均衡状態になると思います。

(感受性から生まれるとは、自分の気持ち(感受性)が「ストレス」を作り、気持ち(感受性)を変化させると「ストレス」も、無意識に変化して均衡状態になり、自分の気持ち(感受性)により消滅させる事が出来ます)

そして、次の「 ラグビー・ボール 」は、「ストレス」や「苦」を「物語」という情報にして保持しながら、次の力線(ベクトル)と衝突します。

(タバコを止める方法は、アルコール依存症の治療にも役立つと思います。両者は「依存症」だから。)

これが、動的な「 ラグビー・ボール 」です。

「物語」を自分の「 オンリー・ワン 」の個性を発見するために使います。

(禁煙すると、今まで本能の座標に隠れていた「意識の座標」が現われて、自分が「世界で一つの、オンリーワンの存在」である事を発見する事が出来ます)

私は、禁煙しましたが、その時の「 ストレス 」の物語は、今も記憶に残って、新たな力線(ベクトル)を考える時の、「武器」として保持しています。

(自分の欲望を規制する事は、タバコ以外の多くの場合が存在します。困難に遭遇した時は、タバコの「ストレス」に耐えた自分を思い出して、自分を信じます。


タバコを止められないのは、

意思が弱いのではなく、

自分を信じる事が出来ないからです。



「 ストレス 」だと感じる事が、他人とは違った自分だけの個性であると教えてれた事と考えて、「 ストレス 」に感謝します。

(自分の欠点を指摘するのは、親か兄弟でしょう。「ストレス」は自分が作る物で、自分に対して欠点の是正を求めます。他人は、ただ黙って微笑んでいます。禁煙をするのは個人の自由であり、個人自身の問題だからです)

「 ストレス 」と感じた瞬間に、「 ストレス 」ではないのです。

(「これが、私のストレスだ」と把握した時、あなたは既に、ストレスから抜け出ています)

それは、意識が光速で動き、一瞬の衝撃も、過去になります。

(何事も時間が解決してくれます。時間の治療は速くて正確です。ストレスを把握して、時間に委ねてください)

そして、「 オンリー・ワン 」の個性を実現するのがヒトだと思います。

(DNA の構造から判断しても、ヒトはオンリー・ワンであると創られていると思います。人生で重要な事は、禁煙ばかりではありません。この世に生まれて、この世の人たちに、何か良い事を示すべき使命があります。私は、禁煙を応援する事を、私の使命と考えています)

ベクトルの方向は、「死に向かっての飛躍」ではなく、DNAが持つ個性を発揮する方向です。

(未来の死を覚悟して今を生きる事だと思いますが、私は反対です。二つの眼で、不明な未来を想像する事は出来ません。どうしても、「今」の延長を想像するだけであり、現在の自分の個性を発揮する方向が良いと思います)

死ぬ前に、先祖代々から引き継いだDNAが持つ個性を発揮して死んでも、遅くはないと思います。

(もしも、「今」の延長の想像が未来であれば、DNA に託された先祖代々の個性を発揮する事に専念すべきで、死ぬ前に、精一杯、生きてください)

これが、現時点で考えている「言い訳」です。

(私は、禁煙をして、自分が本当に悩み、本当に願うものは何かを、自分が自分の中に発見する事が重要な事だと思います。本当に悩み、本当に願うものが何かを発見した時、もっと生きたい、タバコなんて止めたいと思います。「守るもの」を明確にする事により、戦う事が出来ます。自分の胸に手を当てて、自分の本当の願いを明確にすると脱出も簡単です)


Every miller draws water to his own mill.

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2009年07月16日

2009/7/16・オカルト(二つの眼と視床下部)

二つの眼による遠近が、物体に精神的な力線(ベクトル)を発見すると、「 ストレス 」になる。

赤ちゃんが、母親から離れると、母親の顔などの力線(ベクトル)を知っているので、「 ストレス 」になるかも知れない。

赤ちゃんは、母親は誰であるのか知らないが、乳を与えてくれる人の顔や乳房は、力線(ベクトル)として知っているかも知れない。

以下は、過去の記事を引用します。


2009/7/1・考えた事

両者に共通するのは、対象である「電磁波の周波数」と内面の「感受性」である。

あるいは、ヒトは全部、「光」の成分を受け取る「感受性」を持っている事に一元化され、感覚器官であると規定し、感覚に相違があると考えるのは、私の恣意的な決定であるかも知れない。

私の身体全体が「感受性」を持つ感覚器官であり、「電磁波の周波数」に同調して、エネルギーを取得すると考える。

2009/7/2・考えた事

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/7/4・考えた事

以上の考えを「 二本足の考え 」と名前を付けます。

2009/7/16・考えた事

このように、感覚器官を、身体全体に拡大し、意識は全て「感受性」と考え、「感受性」で「 ストレス 」と判定されると無意識の気(ki)や霊として「脳幹」の「視床下部」に集まり、「 本能の座標 」の中で、生命のベクトルの方向と衝突する反対方向のベクトルになり、抵抗が生じると思います。


無意識の気(ki)や霊として集まった全ての感覚が、「 ストレス 」を作り、「脳幹」に集まりホルモンとして身体に伝達されて「 ストレス 」特有の行動という形態で具現化すると考えます。

「 ストレス 」の発散行為が行われ、精神的には、二本足の考えの「 ラグビー・ボール 」の全体が歪んだ状態から、光速で、次の「 ラグビー・ボール」を作るのは、以前、書きました。

私は、「流れる物」と「派生する物」に対応する意識の場として「電場の空間意識」と「磁場の時間意識」を考え、「流れる物」は電流であり、物理的刺激であり、空間意識であり、それが「派生する時間意識」を生むと考えました。

「空間意識」とは、二つの眼で見る「遠近」の広がりで気(ki)であり、力線(ベクトル)に満ちた空間であり、「時間意識」は「 精神 」であり、物体の意味や物語という情(zyou)の認知であり、統合するものは、両者に共通する霊かも知れません。

日本では、「 霊気(reiki) 」が気(ki)と関係し、「言霊(kotodama) 」で言葉の情(zyou)と言葉の霊(rei)が結合していると思います。


「流れる物」と「派生する物」が、電磁波のような構造をしていれば、私の考えに合致しますが、両者が混在する場所が、ストレスを発生させる「脳幹」の「視床下部から松果体、そして副腎系」の部分であるというのが、現時点の考えです。

電磁波でなくても、二つの眼から得た精神的な力線(ベクトル)が、物理的なエネルギーになって脳幹を通り、ホルモンとして神経へ伝達される「流れる物」になるのです。

本能的に「否定」の行為は、この「 ストレス 」の伝達する経路かも知れません。


2009/7/15考えた事。

二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、頭脳の中では、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応へと続くと思います。

「 視床下部から下垂体 」は「 脳幹 」であり、「松果体」や「脳下垂体」が影響する事は明確だと思います。

昔は、ここで「 精神 」が生まれると言われましたが、古代のヒトが持っていた「人体の第三の眼」が退化したものが「松果体」であると考え、これを霊的な「 感受性 」が存在する場所であると考えると、根拠はありませんが、ここには何かを転換する特別の場所かも知れません。



これは、下記の参考が、私の言い訳を正当化するのに役立つと思います。


参考「視床下部」( Wikipedia より引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A6%96%E5%BA%8A%E4%B8%8B%E9%83%A8

視床下部(ししょうかぶ)とは、間脳(視床の前下方で、第3脳室下側壁)に位置し、自律機能の調節を行う総合中枢である。

中脳以下の自律機能を司る中枢がそれぞれ呼吸運動や血管運動などの個々の自律機能を調節するのに対して、視床下部は交感神経・副交感神経機能及び内分泌機能を全体として総合的に調節している。

視床下部には、体温調節中枢、下垂体ホルモンの調節中枢、浸透圧受容器などがある。

また、視床下部は摂食行動や飲水行動、性行動、睡眠などの本能行動の中枢、及び怒りや不安などの情動行動の中枢でもある。


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2009年07月15日

2009/7/15・オカルト(二つの眼はストレスの原因)解消法

2009/7/15・考えた事

二つの眼で知る、精神的で個人的な感受性によって得られる、遠近や力線(ベクトル)が、ストレスの原因であり、生きている限りストレスを作ります。

これが適度であれば、「 緊張 」であり、脳を活性化すると思いますが、過度になれば、病気です。


「ナンバーワンにならなくても良い、あなたは、既に、オンリーワン」


この姿勢で、悔いが残らない自分の人生を歩く事だと思います。

言い換えれば、ストレスの方向転換です。

二つの眼を持ち、他人と「能力」を比較するから、ストレスが生まれます。

他人と違う事をストレスと感じないで、他人との違いを、仏陀や神に与えられた自分だけの個性を発見する事に方向を転換する事。

そして、仏陀や神に与えられた個性を発揮して、「 世界でオンリーワンの自分 」を表現するのが良い方法だと思います。


Yahoo USA 「二つの眼はストレスの原因」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklnmnF1KsBcAA.Cl87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%9C%BC%E3%81%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%9B%A0&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=




Yahoo USA が掲載してくれたので、言い訳を書きます。

私は、感覚器官を持って生きている限り、ストレスは存在するものと考えます。

思い通りにならないという意味が「苦」であれば、「 ストレス 」は「苦」であると思います。

私は、このストレスを「 電磁波的 」に解消したいと思います。

数学の力線(ベクトル)は、複素数により符号が変わり、方向も変わります。

現実生活の力線(ベクトル)も、方向を持ち、「本能の時空」のベクトルと衝突した時、「 ストレス 」や「苦」を感じると思います。

ここで、私が主張する「 二つの時空 」は、「 意識 」であり、「 意識は電磁波である 」から、動的な「 ラグビー・ボール 」であり、常に「光速」で動いています。

静的均衡ではなくて、動的な均衡なのです。

「 ラグビー・ボール 」が、歪んだ瞬間、光速で動いて、次の「 ラグビー・ボール 」を作ると考えます。

「 ストレス 」や「苦」が、無意識ですから、この新たな「 ラグビー・ボール 」も、無意識に光速で行われると信じます。

「 ストレス 」も「苦」も、感受性から生まれますが、意識も無意識も感受性から生まれて領域が同じですから、気(ki)や霊により、均衡状態になると思います。

そして、次の「 ラグビー・ボール 」は、「ストレス」や「苦」を「物語」という情報にして保持しながら、次の力線(ベクトル)と衝突します。

これが、動的な「 ラグビー・ボール 」です。

「物語」を自分の「 オンリー・ワン 」の個性を発見するために使います。

私は、禁煙しましたが、その時の「 ストレス 」の物語は、今も記憶に残って、新たな力線(ベクトル)を考える時の、「武器」として保持しています。

「 ストレス 」だと感じる事が、他人とは違った自分だけの個性であると教えてれた事と考えて、「 ストレス 」に感謝します。

「 ストレス 」と感じた瞬間に、「 ストレス 」ではないのです。

それは、意識が光速で動き、一瞬の衝撃も、過去になります。

そして、「 オンリー・ワン 」の個性を実現するのがヒトだと思います。

ベクトルの方向は、「死に向かっての飛躍」ではなく、DNAが持つ個性を発揮する方向です。


死ぬ前に、先祖代々から引き継いだDNAが持つ個性を発揮して死んでも、遅くはないと思います。

これが、現時点で考えている「言い訳」です。


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2009/7/15・オカルト(二つの眼はストレスの原因)

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


二つの眼による遠近や力線(ベクトル)は、ストレスにも関与していると考えます。

力線(ベクトル)を心理的な圧迫と感じる時、それがストレスになると思います。



ストレス学説を辞書で調べました。

「ストレスとは、物理学や工学で、外から力が加えられた時に物体に生じる歪み(不均衡)を意味していた。

ここでストレスとは、さまざまな外的刺激(ストレッサー)によって生じる生体内の歪み(ストレス反応)の状態である。

ストレス反応は、警告反応期、抵抗期、疲弊期と分かれ、セリエ(Selye)は、これらの生体反応を、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応に基づく変化であるとした。」



セリエ教授のストレス学説
http://www.hakemiya.com/dmm/dmm039.htm

ストレス(生体) Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B9_(%E7%94%9F%E4%BD%93)




私が注目するのは、ストレスが、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応に基づく変化である事です。

これは、眼から入った光のエネルギーが、「 脳幹 」を通り、身体中の神経に伝達される過程だと思います。

これは、私の「二つの時空」の一つである「本能の時空」での、エネルギーの移動です。


二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、自分に対して心理的な圧迫と感じる時、ベクトルの進む方向は、私に向けられています。

私の、「 ラグビーのボール 」のような、二つの中心を持つ時空の総体に対しての圧迫になり、「 ラグビーのボール 」のような意識全体を歪めると思います。

その意識の歪みが、身体に悪影響を及ぼすと考えます。

二つの眼での遠近や力線(ベクトル)が、頭脳の中では、視床下部から下垂体、そして副腎系の反応へと続くと思います。

「 視床下部から下垂体 」は「 脳幹 」であり、「松果体」や「脳下垂体」が影響する事は明確だと思います。

昔は、ここで「 精神 」が生まれると言われましたが、古代のヒトが持っていた「人体の第三の眼」が退化したものが「松果体」であると考え、これを霊的な「 感受性 」が存在する場所であると考えると、根拠はありませんが、ここには何かを転換する特別の場所かも知れません。


二つの眼で知る、精神的で個人的な感受性によって得られる、遠近や力線(ベクトル)が、ストレスの原因であり、生きている限りストレスを作ります。

これが適度であれば、「 緊張 」であり、脳を活性化すると思いますが、過度になれば、病気です。



「ナンバーワンにならなくても良い、あなたは、既に、オンリーワン」


この姿勢で、悔いが残らない自分の人生を歩く事だと思います。

言い換えれば、ストレスの方向転換です。

二つの眼を持ち、他人と「能力」を比較するから、ストレスが生まれます。

他人と違う事をストレスと感じないで、他人との違いを、仏陀や神に与えられた自分だけの個性を発見する事に方向を転換する事。

そして、仏陀や神に与えられた個性を発揮して、「 世界でオンリーワンの自分 」を表現するのが良い方法だと思います。



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2009年07月14日

2009/7/14・オカルト(二つの眼と赤ちゃん)

私は、二つの眼により、遠近の区別や力線(ベクトル)の区別が可能である事を重視しています。

生まれた赤ちゃんを考えます。

母親の乳房を難なく発見して、乳首を吸う事は動物の本能かも知れないが、本能というだけで、私は満足しません。

その本能を知りたいのです。

時間や空間は、阿弥陀如来が創ったものと信じますから、私が生まれる前から存在していたと思いますが、人は生まれる事により、自分の時間意識と空間意識により、世間一般の時間と空間を知ると思います。

赤ちゃんは、この意識が、空間であり時間というものであることを感じるだけで、「時間」や「空間」については知りません。

赤ちゃんも、自分の時間、生命のリズムと、自分の空間、二つの眼による遠近の意識の世界を持つと思います。

赤ちゃんが、難なく乳首を発見する事は、DNAの力かも知れませんが、もし二つの眼で乳首を発見したとすれば、次のように考えます。

赤ちゃんは、言葉という意識の道具より前に、二つの眼による遠近や力線(ベクトル)により、無意識に乳を飲む。

生きるとは、無意識の生命のリズムにより、無意識で物質に行動をする事であり、言葉で意味を判別する前に、無意識、あるいは無意識に近い意識が実体の内容を決めていると解釈します。

言葉で伝わるのは情(zyou)であり、形であり、実体は、DNAと無意識により決められているから、「 直感 」の存在を考えます。

「論理的飛躍」というのは、思考の中の無意識が、物質の無意識に直接に同化するもので、言葉を媒体としていない状態だと思います。

論理や言葉は、正当化や合理化の役目であり、「論理的飛躍」をさせる「遠近」の区別や力線(ベクトル)を区別する「二つの眼」が直感を生むと思います。

常に、神経は全身に張り巡らせてあり、「二つの眼の遠近」により物体に力線(ベクトル)を認めると、瞬時に、脳に伝達されると考えます。

「時間」も「空間」も、「時間」や「空間」自体を教えるのではなく、赤ちゃんが危険な事態に遭遇しないように「教える」。

二つの眼による遠近や力線(ベクトル)も、それ自体を説明するのではなく、社会生活の知識としての遠近や力線(ベクトル)を「教える」。

これらを言葉で説明する努力がないから、精神は前進しないと思います。

私は、赤ちゃんが二つの眼による遠近や力線(ベクトル)により行動するのは、それらが生命のリズムに直結し、本能の座標の無意識の領域の「好き」や「嫌い」の力線(ベクトル)を決定して、意識の時空軸の生命のすすむ方向や、行動の方向を決めていると考えています。

「言う」より「手」が早い、つまり言葉より先に、「好き」や「嫌い」の感情が実体を決めていると思います。

決めるのは無意識、つまり人格の引力である「欲」です。

「欲」つまり人格が、「欲」を発見して自分の進路を決定すると思います。



これは、私自身の考えであり、何の根拠もありません。


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2009年07月12日

2009/7/12・オカルト(二つの眼と脳科学最前線)

昨夜、「脳科学最前線」というTV番組を見た。


2009/7/10・考えた事


古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。


「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。



2009/7/11・考えた事

二つの眼で見る事は、時間意識と空間意識の中の、つまり時空間の中の、出来事や事物に、遠近感を付けて見る事であり、この遠近感に自分のDNA が加わって「好き」と「嫌い」として区別する原因になると思います。

全ての出来事は、出来事として存在し、善悪や「好き」や「嫌い」を付与するのは、個人の遠近感という空間意識とDNA であると思います。

その空間意識は、脳幹の身体図式の中で、生存に必要な事物を区別します。

DNAという生命を維持するために、食べてエネルギーにする物を「好き」として口に近づけて食べるでしょうし、危険な物は、「嫌い」として遠くに配置するでしょう。

二つの眼には、もう一つの働きがあります。

二つの眼は、遠近感や立体感により、「 力線(ベクトル) 」を感じると思います。

どのような形態に「 力線(ベクトル) 」を感じるかは、個人の「 感受性 」に依存します。

「 力線(ベクトル) 」の方向により、二つの中心を持った楕円形の自分の総意識、つまり霊は、影響を受けます。

「本能の時空」の、「好き」と「嫌い」の「 力線(ベクトル) 」が絶え間なく変更されるから、「意識や精神の座標」が変更され、それが意識全体の「霊」の変更になると考えます。



2009/7/12・考えた事

私が見た光景を、ロボットが見た場合は、光の量子の濃淡となるだろう。

脳を物理的に分析しても、私の「二つの眼」が得た情報は不明だと思う。

ロボットや機械は、時間と空間内に置かれた機械であり、ヒトの時間意識も空間意識も持っていないので、危機管理意識が無い。

データーは永遠だが、未来を知らない。

機械を超える天才の存在を信じない。


脳の構造を調べても、眼の構造を調べても、生きた意識は変化し無常だから、解明は不可能だろう。

ヒトが機械とは相違して、事実の中にベクトル(力線)を感じて、未来への必然の方向を模索している事が、機械により、解明されるだろう。

つまり、解明が不可能であると知るだろう。

単なる事実を並べて、機械は、未来に対して何を予言するのか、あるいは自分の「好き」も「嫌い」も知らない機械が、自分の進路を発見する事が出来るのか疑問である。

コンピューターを作るのに反対はしないが、「時間」とは何か、「空間」とは何か、などを解明した後で、機械を作って欲しい。

時間も空間も意識も、阿弥陀如来が創った物で、ヒトが阿弥陀如来を作る事は不可能だから、脳科学の成果も疑いながら、参考にした方が良いと思っている。


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2009年07月11日

2009/7/11・オカルト(二つの眼は好きと嫌いを作る)

2009/7/10・考えた事

二つの眼により、奥行き知覚を得る事が出来ます。

奥行き知覚
http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161534283/content.html

これが、事物を立体的に、そして自分に対して遠いとか、近いという判断を可能にします。

私は、判断は、自分の無意識の行為であり、無意識が無意識を選んだ、あるいは心が心を選んだという行為であり、自分の無意識が表に出た行為だと思います。

古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。

もう一つ考えるのは、「 方向 」や「 位置 」です。

片方の眼では、奥行きを判断する事は出来ず、自分の向かって来るのか、遠ざかっていくのか判断する事は出来ないと思います。

「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。


……(省略)……

「二つの眼」による「遠近」も「方向」も、精神的ですが、結局は「好き」や「嫌い」の力の強さや範囲の問題となります。



2009/7/11・考えた事

二つの眼で見る事は、時間意識と空間意識の中の、つまり時空間の中の、出来事や事物に、遠近感を付けて見る事であり、この遠近感に自分のDNA が加わって「好き」と「嫌い」として区別する原因になると思います。

全ての出来事は、出来事として存在し、善悪や「好き」や「嫌い」を付与するのは、個人の遠近感という空間意識とDNA であると思います。

その空間意識は、脳幹の身体図式の中で、生存に必要な事物を区別します。

DNAという生命を維持するために、食べてエネルギーにする物を「好き」として口に近づけて食べるでしょうし、危険な物は、「嫌い」として遠くに配置するでしょう。

二つの眼には、もう一つの働きがあります。

二つの眼は、遠近感や立体感により、「 力線(ベクトル) 」を感じると思います。

どのような形態に「 力線(ベクトル) 」を感じるかは、個人の「 感受性 」に依存します。

「 力線(ベクトル) 」の方向により、二つの中心を持った楕円形の自分の総意識、つまり霊は、影響を受けます。

「本能の時空」の、「好き」と「嫌い」の「 力線(ベクトル) 」が絶え間なく変更されるから、「意識や精神の座標」が変更され、それが意識全体の「霊」の変更になると考えます。


諺で、

What we like,we will do well.

と言いますように、意識の全体が、「 力線(ベクトル) 」の方向に進むと思います。

その原因が、二つの眼だと思います



Every miller draws water to his own mill.
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2009年07月10日

2009/7/10・オカルト(展望)二つの眼と松果体

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。



2009/7/4・考えた事

今までの哲学者や科学者が「知覚」や「行動」について本を書いても、人間に、二つの眼があり、二つの耳があり、二つの鼻の穴を持っていて、それらが視覚、聴覚、臭覚の器官である事、そして何故、二つ存在して、機能は何かを疑問にしなかったと思います。

私は、人間が二つの器官を持つ事に興味を持ちました。

人間は、何故、二個の器官を持ち、三個の器官を持っていないのか?

視覚に関しては、眼が二つ存在する事により、遠近を知る事が出来きます。


2009/7/5・考えた事


眼を二つ持っている事や耳を二つ持っている事は、「方向」を知る事、つまり無意識の「霊」の力の導きを知るためかも知れません。


2009/7/5・考えた事

私は、現時点で不明な事は、DNAが原因であると考えています。

DNA が何故、二重のらせん構造なのかも不明であるし、現時点で不明なものは全部、DNA が原因だと思っています。

DNA の性質は、生物の本能だと思うし、二重のらせん構造が、他方を欠損した時に、修復を可能とする働きであれば(例えば腎臓)、片方の眼や耳が欠損しても、他方で補う事が出来ます。

私は、この二重らせんの構造が、人体を右と左に臓器を持つ原因だろうと思っています。


2009/7/10・考えた事

私は、「二つの眼」について、興味があります。

それは、Yahoo USA が既に、私の考えを察知しているように「二つの眼」で掲載してくれました。

Yahoo USA 「二つの眼 m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0lu2FVKB58AL6el87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E7%9C%BC%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=

或る考えによれば、人間は一つの眼を持っていた。

その一つの眼が三つの眼になり、二つの眼が進化して、一つの眼が「松果体」として残ったが、眼の構造を持つが眼として機能していないという考えもある。

私は、眼の成立過程ではなく、眼が獲得する物を考える。

二つの眼により、奥行き知覚を得る事が出来ます。

これが、事物を立体的に、そして自分に対して遠いとか、近いという判断を可能にします。

私は、判断は、自分の無意識の行為であり、無意識が無意識を選んだ、あるいは心が心を選んだという行為であり、自分の無意識が表に出た行為だと思います。

古代では、「二つの眼」で見て、遠いか近いかは、食べる為の「 獲物 」が遠いか近いかであり、それが、「好きな物」は近くに配置して、「嫌いな物」は遠くに配置すると考えるのが自然です。

もう一つ考えるのは、「 方向 」や「 位置 」です。

片方の眼では、奥行きを判断する事は出来ず、自分の向かって来るのか、遠ざかっていくのか判断する事は出来ないと思います。

「 方向 」や「 位置 」は、精神的で、危険か安全かの判断です。

自分が進む方向と同じで、自分の身体図形に合致するものは安全で、安全な物は好きでしょうから、これも「好き」や「嫌い」の判断になると思います。


私の二つの眼で、見ている対象物を、原寸大で、眼の内部に取り入れるのではなく、見ている範囲の全てを見ているのではなく、見たい物を「考えて」見ています。

この「見る心」を物体化したのが「 松果体 」だと思いますが、私は、「大脳皮質」を構成するDNA が「心」であると思いますから、「 見る心 」は「大脳皮質」だろうと思います。

私は、「二つの時空」で書きましたが、大脳皮質は「意識」で情(zyou)という物語を担当し、脳幹は「無意識」であり、無意識は呼吸の気(ki)と、エーテル体の霊を担当すると思います。

「二つの眼」による「遠近」も「方向」も、精神的ですが、結局は「好き」や「嫌い」の力の強さや範囲の問題となります。

物を見る心が、脳幹で睡眠に関与する「松果体」の性質であるとするなら、「二つの眼」が何を見るのかを決定するのは意識ではなくて、「好き」や「嫌い」の力の強さという無意識の力だと思います。

「二つの眼」で見るのは意識的な行為ですが、見た瞬間に無意識が判断しているのであり、次の物体に眼を移すのは、無意識の「 心 」だと思います。

脳幹という、無意識の中で、気(ki)と霊と、睡眠に関与する「松果体」を組み合わせると、睡眠や目覚めという生命のリズムと、「好き」や「嫌い」の力を決め、そして、時間意識と空間意識の座標軸の長さと周期が決まるだろうと思っています。

「松果体」 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9E%9C%E4%BD%93


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