2009年08月26日

2009/8/26、オカルト(二本足の考え)要約

少し要約します。

「二本足の考え」とは、意識の「 気持ち 」の中心と、無意識の「 気持ち 」の中心が、直線上に存在し、身(身体)口(言葉)意(意識)を「 外界 」との境界にして、それを円周とした楕円状のラグビー・ボールであり、一方の中心から発した意識の衝撃波は境界で反射され、複素数の二乗のように符号が変わり、逆方向になり他方の中心を破壊して、「 気持ち 」を破壊したり、意識や無意識の感受性を増幅させて刺激すると言う考えです。

この衝撃波は、「二本足が歩く時」に書きますが、単純なものです。

私は、「意識は電磁波である」という考えですから、それぞれ、二つの中心(焦点)から意識の光を発して球状になり、意識と無意識は重なるが、相違する所もあり、地球のように楕円形をしているのが「意識の総体」である「霊」であり、二つの中心(焦点)から意識の光を発するのは「 今 」という現在からであると考えます。

電磁波のように進む先端から、記憶や想起や不安という「感受性」を、進行方向とは逆の過去に向けて発信し、突き上げる意識により、自分が自分であると確認しているのが「 自意識 」であると考えます。

「 外界 」とは「 今 」と言う現実世界です。

「 気持ち 」とは、漢字で書きますと、気(ki)を持つ(hold) で、持つ(hold)事を可能にしているのは、意識では記憶でしょうし、無意識では「好き」や「嫌い」という感情だと思います。

意識は主に「大脳皮質と連合野」で生まれ、無意識は主に「脳幹」で生まれ、前者は「 論理 」、後者は「 感情 」を特徴とすると思います。

無意識は、エネルギーとしての気(ki)と、DNAという生命を原因とする「 霊 」から構成されると考え、二つの「 感受性 」を必要とすると考えます。

ですから、「好き」や「嫌い」の感情は、気(ki)の感受性の方向と「霊」の感受性の方向に対する現実を見る「二つの眼」から取り入れた気(ki)により生まれると思います。

それが、「 ストレス 」である事は、以前、書きました。

この意識と無意識が、「 時間意識 」と「 空間意識 」を、「空気」や「大気」のように満たしていると考えます。

人間が持つ二つの眼が、本来の「清浄な欲」を超えて、精神と結びついて「 欲望 」となり、「 煩悩 」となり、「 ラグビー・ボール 」の中は暴風雨となり、無数の「 意識 」が、暴風雨の中の「 雷 」のように電磁波の速さで飛び交い、空から地面に落ちたり、空中で消滅したり、人から人に伝達されるのが現実社会かも知れません。

「 ラグビー・ボール 」の大きさは、地球の大きさか、太陽を公転する地球の軌道の楕円の大きさに匹敵するかも知れません。

以前、書きましたが、「二本足の考え」と「気持ち」を考え、破壊や増幅を考える事が、「歩く事」であり、意識の新陳代謝であり、自分自身の無血の「意識改革」になるというのが、私の考えです。

これは、私の独り言ですから、知識が形成される弁証法は、採用しません。

知識を求める人は、去ってください。

これから、「 二本足の考え 」という私の記事を掲載してくれたYahoo USA の読者の為に、少し書く予定です。

Yahoo USA 「 二本足の考え 」

http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk0zpSpRK6yMBAral87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-501&fr2=sfp&iscqry=


これは、フィクションです。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

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2009年08月22日

2009/8/22、オカルト(二本足の考え)歩く・正見

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

2009/8/22、考えた事

八正道 Wikipdia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

正語 [編集]
正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。

正業 [編集]
正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。

この二つは正思惟されたものの実践である。

妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。

(Wikipedia からの引用を終わる)

私は、この言葉に出会って、記事を書くのを躊躇っていました。

なぜなら、私の言葉こそ、「 妄語 」であり、私の人格を破壊する行為だからです。

しかし、Yahoo USA が、「正見」と「眼の無常」について掲載してくれましたから、「眼」について、少し書きます。

正見 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmL.RI9KgWsAf0Cl87UF?p=%E6%AD%A3%E8%A6%8B%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=


眼の無常 m24658
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkz9mRY9Kvi4BQedXNyoA?p=%E7%9C%BC%E3%81%AE%E7%84%A1%E5%B8%B8%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1



「眼は心の窓」とも言い、私は眼で見る事により、世界を知りますが、正しい見方をしなければなりません。

私は、僧侶でもないし、人格者でもないから、正しい見方は何かという回答は持っていません。


私が、眼で見た光景にベクトル(力線)を感じるのは、私の「内なる宇宙」の投影だからだと思います。

「内なる宇宙」とは、「二本足の考えを持つラグビー・ボールのような意識体」であります。

私の「 心の不安 」が、外界で「脅威」を作り出すと思うと、「 正見 」とは、「眼」の問題でなくて、「 心 」や「 気持ち 」の持ち方の問題だろうと思います。

「 心 」に「 義 」があれば、「 死中生有り 」です。


アメリカは銃の世界で、アメリカの銃弾に倒れたリンカーンもキング牧師も、自分の行動により暗殺される事も考えたでしょう。

ですが、心の中に「 義 」があれば、例え死んでも、「 義 」は生きるものだと思います。

彼らが死んだ経緯は、歴史に残ります。

眼は、「遠近」や「大小」の比較を可能にして、選択を自由にしますが、選ぶ基準は、選ぶ人のコンプレックスかも知れません。

自分の「 心 」という無意識の「 気持ち 」を、現実の形の大小に影響されないように鍛錬する事、国際社会の中の日本の我々は、「憲法九条」の精神で、核の脅迫に怯えない「 気持ち 」を作る事が必要だと思います。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年08月18日

2009/8/18、オカルト(二本足の考え)歩く C

2009/8/16、考えた事

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

2009/8/17、考えた事

上記の「 清浄な欲 」を持つためには、どうしたら良いのか考えた。

意思は形態として具現化し、形態は意思であると考えるから「 清浄な欲 」は、それに相応した行為として具現化すると考える。

身(身体)・口(言葉)・意(意識)から「 利己心 」を排除する事が、「 清浄な欲 」を持つ方法だと思う。

私は、仏教の「 八正道 」は、「 涅槃 」という悟りを得るための修行ではなく、「 清浄な欲 」を持つための無意識の行為の鍛錬であると考えている。

もちろん、これは私の考えであり、仏教の教えではない。


八正道 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

2009/8/18、考えた事

八正道 Wikipedia から引用する。

正見 [編集]
「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。

われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。

このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。

しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。

この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。

その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。




私の解釈

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」

@
私は、「正しく眼の無常を観察すべし」という言葉について考えた。

二つの眼について書いたように、この世を「遠近」で見て、自分と物事の距離を計測し、社会的なベクトル(力線)を感じて、ストレス状態になり、好きや嫌いの「 気持ち 」になり、「 欲 」ばかりか、「 欲望 」を作る。

二つの眼自体が、新陳代謝して「恒常的」でないし、ベクトルも「恒常的」ではない。

自分の身体も外部世界も「恒常的」ではないのに、物を「 存在する 」として、「恒常的」に見る事は、人間である悲しさだろう。

私は「正しく眼の無常を観察すべし」を、人体の眼、眼で見た光景、眼で得た情報の全てが、「恒常的」でない、あるいは「無常である」ことを観察すべきであると解釈する。

A
「正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」とは次のように解釈する。

二つの眼の「無常」を理解したら、それにより得られる効用を喜ぶ事や貪る(covet)(greedy for)事を「 嫌だ 」と思い、自分との距離を遠くする、つまり「離れる」方が良い。

その場の「 光景 」に一喜一憂したり、これを契機に「喜び」を貪欲に追求しようとする態度をしない方が、「 心 」の為に良い。

現象に一喜一憂して「喜び」を「貪る(covet)(greedy for)」べきでないと考えると、「 欲望 」は否定するが、「正しく解脱しよう」という「 欲 」は否定していないと思う。

「日常性」の否定とは、「欲望で行為する日常生活」の否定であり、解脱しようという「 清浄な欲 」に近づくための「 正見 」であると解釈する。



文字が正しく変換されない場合は、僧侶に聞けば、理解する事が出来ると思います。

仏陀が発した言葉であり、彼らは、その言葉の解釈については、エキスパートの筈ですから。


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2009年08月17日

2009/8/17、オカルト(二本足の考え)歩く B

2009/8/16、考えた事

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

2009/8/17、考えた事

上記の「 清浄な欲 」を持つためには、どうしたら良いのか考えた。

前述したように、意識は直ちに無意識となり、無意識が直ちに意識となる。


意識と無意識が「今」という「この世」に具現化した、身(身体)・口(言葉)・意(意識)を「 清浄な欲 」という、一つの意識を選択し他の意識を破壊する「 霊の力 」の具現化であると判断する事が可能であれば、「 清浄な欲 」を持っていると考える。

意思は形態として具現化し、形態は意思であると考えるから「 清浄な欲 」は、それに相応した行為として具現化すると考える。


身(身体)・口(言葉)・意(意識)から「 利己心 」を排除する事が、「 清浄な欲 」を持つ方法だと思う。


私は、仏教の「 八正道 」は、「 涅槃 」という悟りを得るための修行ではなく、「 清浄な欲 」を持つための無意識の行為の鍛錬であると考えている。

もちろん、これは私の考えであり、仏教の教えではない。



八正道 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93

涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、8種の徳。

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2009年08月16日

2009/8/16、オカルト(二本足の考え)歩く A

私の記事を、Yahoo USA は、登録してくれました。

またしても、Yahoo USA に感謝しなければなりません。

Yahoo USA 「二本足の考え 歩く」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkk5JmIdKBLkAMcal87UF?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%80%80%E6%AD%A9%E3%81%8F&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=

「 直感 」する場合も、「 信仰 」する場合も、困難であるのは、一本足でも二本足でも良いが、池に飛び込むように、「 全部 」を「 同時 」に、エネルギーの領域に入れるからです。

私のように、「意識」と「無意識」の二つの時空という「気持ち」を作り、片方づつ、歩くように、エネルギーの領域に入れると可能であると思います。

綺麗な水に入る前に、身体を清めるように、「 気持ち 」を清浄にして、入れるのです。

気(ki)と気持ちの記事で書いたように、一方の「気持ち」を破壊して、再構築して、他方の「 気持ち 」の構築に向かうのです。

歩く時、二つの足を使う事は、左右の脳を使う事であるように、「精神の気持ち」から「エネルギーの気持ち」に入る時も、左右の脳や脳幹を使うと思います。

「意識」の大脳皮質と「無意識」の脳幹の両方を使うと思います。

足を動かすのが「 欲 」という無意識であると思います。

二つの眼が「意識」と「無意識」を区別し、二つの眼が作るのは、無意識の「欲」よりも精神的な「欲望」を作る場合が多いと思います。


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

それが、「六道」かも知れません。


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2009/8/16、オカルト(二本足の考え)歩く

2009/8/14、考えた事。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

2009/8/16、考えた事

私は、「 欲 」を禁止しません。

漢字では、意識の「意」と「欲」が結合して「意欲」となり、目的がある行為をします。

「 欲 」に精神的な「 望み 」が結合すると、「欲望」となり、これは節度が求められます。

「 欲望 」とは、精神的や肉体的な道具を使って、自分の領域を拡大する事になります。

「 欲 」は、人格の引力であり、「 霊 」です。

「 霊 」とは、意識の総体であり、「力」で無意識の座標です。

この「 霊 」を清浄にする事により、「無」ではなくて「空」にして、気(ki)の中に中心を移す事により、「二本足の考え」の重心移動が行われて、時間的な意識としての「直感」や「信仰」が可能になると考えます。

従来の「気持ち」を破壊して、新たに気(ki)を「感受性」で集めて、再構築する事です。

「 心 」の新陳代謝が必要なのです。



Yahoo USA 「 気(ki)と気持ち 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklejTINKg3ABtUhXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+%EF%BD%8D%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%98&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

二つの時空から二本足の考え
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkxLZ34NKvDoAzxml87UF?p=%E4%BA%8C%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%99%82%E7%A9%BA%E3%81%8B%E3%82%89%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88&fr=yfp-t-150&fr2=sfp&iscqry=


周波数と意識
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGk9_I4INKJ3gAww9XNyoA?p=%E5%91%A8%E6%B3%A2%E6%95%B0%E3%81%A8%E6%84%8F%E8%AD%98+m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1


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2009年08月14日

2009/8/14、オカルト(私の解釈)色即是空

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私にも、やっと「 色即是空 」とは何かを言う時が来ました。

これは「 私独自 」の解釈であり、私のブログの「 言霊 」から言うのであり、主体的真理です。

主体的真理は間違いが多い事は事実です。



知識を求める人は、Wikipedia を参照してください。

色(仏教) Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%89%B2_(%E4%BB%8F%E6%95%99)

空(仏教) Wikipedia

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A9%BA_(%E4%BB%8F%E6%95%99)


これは、私のブログですから、私の解釈をします。

知識を求める人は、去ってください。

2009/8/12、考えた事(追加)

この二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールが意識と無意識の領域です。

一つの焦点から発した衝撃波は、他方の焦点を通過して、破壊する事も可能です。

ラグビー・ボールの全部が意識と言えば意識であろうし、無意識であると言えば全部が無意識です。

ちょうど、地球の南極と北極のように、南極から見れば南半球が全てで、北極から見れば北半球が全てであるように。

2009/8/14、考えた事

私の考え

「 色 」を「 無意識 」

「 空 」を「 意識 」

このように置き換えます。

「色即是空」ですから、「無意識」は、直ちに「意識」です。

「空即是色」ですから、「 意識 」は、直ちに「 無意識 」です。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

「実体」は個人的体験であるから、「色」であり、「形態」は、個人的体験から離れた社会の仕組みであり、「無」ではなくて、透明な構築物だから「 空 」であると解釈します。

「色」は「物質」であり、「空」は「意識や光」であると解釈します。

物質波は、直ちに光波であるかも知れません。

これは、私独自の考えであり、みなさんには、一切、関係はありません。


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2009年08月12日

2009/8/12・オカルト(二本足の考え)気(ki)と気持ちA

私の記事を、Yahoo USA が、掲載してくれました。

Yahoo USA 「気(ki)と気持ち m24658 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkksCjYJKxVoA_kNXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+m24658&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1


私は、Yahoo USA は、世界で有名な検索エンジンを持っていると感心します。

私の記事を、ある有名検索会社は、掲載していませんので、私は、Yahoo USA に感謝しなければなりません。


その謝礼として、掲載された内容について思っている事を、少し書きます。

私が、何故、気(ki)と気持ちを考えたのか?

2009/8/11、考えた事

体外衝撃波結石破砕術(ESWL)は、最も負担の少ない治療法の一つである。

……(省略)……

その原理は、衝撃波を楕円の1つの焦点(体外)から発生させて、それを楕円状の反射鏡で収束させ、もう1つの焦点(破砕部位)を対象となる結石に合わせて、周囲との物質の音響インピーダンスの差[尿(液体)と結石(固体)の音の伝わり方の差]を利用して破砕するものである。

( Wikipedia からの引用を終わる)

このように、楕円状の容器の一方の焦点からの衝撃波が、楕円の方程式により、他方の焦点に伝わる事を、TV番組で知りました。

衝撃波が、自然の周波数を持った気(ki)というエネルギーであれば、無意識の座標から発したエネルギーは他方の焦点に収束して、影響を与えると思いました。

そして、前述した考えを採用する事に決めました。

結論

外界の気(ki)と、体内の気(ki)を、二つの眼で区別して、後者が感受性により集められたエネルギーを「 生理的や心理的な身体の状態 」の気持ちと「 気分という精神状態 」の気持ちに区別したものと考えます。

「 二本足の考え 」とは、無意識の「 生理的や心理的な身体の状態 」である気持ちの焦点と、意識の「 気分という精神状態 」である気持ちの焦点を持ち、二つは楕円の方程式で連結していると考えます。

2009/8/12、考えた事(追加)

この二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールが意識と無意識の領域です。

一つの焦点から発した衝撃波は、他方の焦点を通過して、破壊する事も可能です。

ラグビー・ボールの全部が意識と言えば意識であろうし、無意識であると言えば全部が無意識です。

ちょうど、地球の南極と北極のように、南極から見れば南半球が全てで、北極から見れば北半球が全てであるように。

何故、「 気持ち 」という言葉を使うかについて。

「気持ち」とは、漢字で書けば、「気(ki)を持つ(hold)状態」です。

「気持ちは、感受性により気(ki)を集めた状態であり、気持ちが破壊されても、気(ki)は、散るだけで、無とはならない」のです。

一方の焦点から発した衝撃波で、「気持ち」が破壊されても、「気持ち」を作る「感受性」は破壊されず、気(ki)を再構築する事が可能だという意味で「気持ち」を使いました。

気(ki)を集める作用が「感受性」であり、無とはならないと思います。

これは、「意識の座標」の破壊も同じで、強い気(ki)で、「意識の気持ち」が破壊されても、記憶や想起などの感受性は存続し、作用そのものは、無とはならず、「気持ち」は再構築されると思います。


意識の気持ちと無意識の気(ki)の気持ちがあり、同じように、意識の気持ちと無意識の霊の気持ちを焦点とする楕円状のラグビー・ボールがあると思います。

オカルト的に書きますと、前者が、遠くの所を見る超能力であり、後者は、DNA という先祖の霊を見る超能力であると思います。

私の場合は、前者が「 直感 」が可能か否かの問題で、後者は、「 信仰 」が可能か否かの問題です。

これを、後日、書きます。

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2009/8/12、オカルト(二本足の考え)気(ki)と気持ち

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

これは、フィクションです。

あなたが信じるか否かは問わず、物語は進行します。

2009/8/8、考えた事
「 二つの眼 」により「 観測 」が可能なエネルギーは、辞書の@とAです。
@空気やガス体(気体・気流)
A自然の様子(気候・気象・天気)

身体と外界を、「 呼吸 」として往来するエネルギーは、辞書のBです。
B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

このように、二つの眼で「 観測 」したり「 計測 」する事が可能なエネルギーが、辞書の意味だと考えます。

2009/8/12、考えた事

「気持ち」を辞書で調べました。

私の辞書は小さな辞書ですから、興味を持った人は、日本の代表的な辞書を調べてください。


T、「現代新国語」から引用します。

@感覚にもとづいて起こる、心の状態
類似の単語は、「気分・心持ち・心地・気色・心理}

A生理的な、心の状態
類似の単語は、「気分」

B物事や人に対する、心の持ち方・考え方
類似の単語は、「心情」

CとDは、省略する。



U、「和英中辞典」で調べました。

@気分
単語は、「mood」や「feelig」

気持ちが良いは、「pleasant」や「agreeable」や「comfortable」

気持ちが悪いは、「unpleasant」や「unagreeable」や「uncomfortable」

A身体の状態
例文は、母は気持ちが悪くて寝ています。
My mother is not feeling well and is in bed.

Bは省略します。



私の考え

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

上記の二つの気(ki)が、「本能の座標」や「無意識の座標」に収束したものが、下記の辞書の記事になると思います。

T、「現代新国語」

@感覚にもとづいて起こる、心の状態
類似の単語は、「気分・心持ち・心地・気色・心理}

A生理的な、心の状態
類似の単語は、「気分」

U、「和英中辞典」

@気分
単語は、「mood」や「feelig」

気持ちが良いは、「pleasant」や「agreeable」や「comfortable」

気持ちが悪いは、「unpleasant」や「unagreeable」や「uncomfortable」

A身体の状態
例文は、母は気持ちが悪くて寝ています。
My mother is not feeling well and is in bed.


そして

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

それが、T、「現代新国語」のB物事や人に対する、心の持ち方・考え方で、類似の単語は、「心情」であると思います。

「 心 」に「 情 」が付着しているのは、「意識の座標」の特徴である情(zyou)の状態だと考えます。


結論

外界の気(ki)と、体内の気(ki)を、二つの眼で区別して、後者が感受性により集められたエネルギーを「 生理的や心理的な身体の状態 」の気持ちと「 気分という精神状態 」の気持ちに区別したものと考えます。

「 二本足の考え 」とは、無意識の「 生理的や心理的な身体の状態 」である気持ちの焦点と、意識の「 気分という精神状態 」である気持ちの焦点を持ち、二つは楕円の方程式で連結していると考えます。

感受性により集められたエネルギーの焦点、あるいは中心を、生理的あるいは精神的な状態の「 気持ち 」として人間は、皆、持っていると思います。

その二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールを、「 内なる宇宙 」と考えています。

Every miller draws water to his own mill.
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2009年08月11日

2009/8/11・オカルト(整理)二本足の考えと気(ki)

「二本足の考え」について、Yahoo USA が掲載してくれましたので、少し書きます。

Yahoo USA 「二本足の考えの追加」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkw29qYBKMIAAIGxXNyoA?p=%E4%BA%8C%E6%9C%AC%E8%B6%B3%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%AE%E8%BF%BD%E5%8A%A0&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

意識と無意識は、楕円の形で重なっているだろうと思いましたが、決定的な事は、次の記事をTV番組で放送していたからです。


尿路結石 (Wikipedia から引用します)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%BF%E8%B7%AF%E7%B5%90%E7%9F%B3

体外衝撃波結石破砕術(ESWL)は、最も負担の少ない治療法の一つである。

体外の装置によって造られた衝撃波(音波の一種)を結石にむけて集中させて結石を砕き、砂状にして尿と一緒に体外へと排出させる治療法である。

その原理は、衝撃波を楕円の1つの焦点(体外)から発生させて、それを楕円状の反射鏡で収束させ、もう1つの焦点(破砕部位)を対象となる結石に合わせて、周囲との物質の音響インピーダンスの差[尿(液体)と結石(固体)の音の伝わり方の差]を利用して破砕するものである。

( Wikipedia からの引用を終わる)

このように、楕円状の容器の一方の焦点からの衝撃波が、楕円の方程式により、他方の焦点に伝わる事を、TV番組で知りました。

衝撃波が、自然の周波数を持った気(ki)というエネルギーであれば、無意識の座標から発したエネルギーは他方の焦点に収束して、影響を与えると思いました。

気(ki)は、二つの眼から得られる遠近から、ホルモンを分泌させて、ストレスとなったエネルギーであると考えます。

エントロピーの増大を妨げる本能的な方向が、身体状態として「気持ちが良い方向」であり、増加の方向は身体状態として「気持ち悪い方向」のエネルギーだと思います。

そのエネルギーが、楕円状の意識の容器の一方の焦点から生じて壁に反射して、他方の「意識の座標」で、「好き」や「嫌い」という、心理的な「気持ちの良い気分」と「気持ち悪い気分」を作ると、現時点では考えています。

流れる物が派生する物を作ると思いますが、まだ結論は先の話だと思います。


現時点では、これが一般的な気(ki)の、「意識の座標」への影響だと考えます。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年08月08日

2009/8/8・オカルト(整理)二つの眼と気(ki)

@ 2009/8/6、考えた事

私は、ガイアの理論のように循環するエネルギーを気(ki)と考えます。

具体的には、空気(酸素)のエネルギーを考えています。

空気(酸素)のエネルギーは、空気を呼吸により体内に取り入れる事により、私の、エネルギー代謝(物質代謝)が可能になります。

エネルギー代謝(物質代謝)を可能にするエネルギーが気(ki)であり、それがRDNやDNAの生成を可能にするという意味で気(ki)は生命の印であると、現時点では考えています。

DNAやRNAを霊が具現化したものと考え、私の生命維持に不可欠であって、活力という霊の力を与えると考えると、精神や意識の座標の方向を変えると思います。

私は、気(ki)の専門家ではないので、知識は持っていませんから、現時点では、「 気(ki)は、流動するエネルギーである 」と、定義しておきます。


A 2009/8/6、考えた事

気(ki)も、自分と自然との境界線はありません。

私は、自然の中の一人であり、宇宙の物質であり、口も耳も、空気が充満し、エーテル体も充満しています。

だから、外界と体内の境界線は無いのです。

しかし、境界線を設定するのは、二つの眼により形成した「 身体図式 」という無意識と「 自意識 」という意識であり、根底はDNA の働きだと考えます。


ここでは、脳幹は無意識の領域であり、それから生ずる身体という意識は、「 身体図式 」であると自分で決めておきます。



2009/8/8、考えた事

以上は、私が考えた気(ki)ですが、日本語ではどのような意味なのか、辞典で調べました。

@空気やガス体(気体・気流)

A自然の様子(気候・気象・天気)

B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

全部の漢字に、気(ki)がついた、単語の羅列ですが、私の考えにより、これらは関連するエネルギーになります。


それは、
@ 2009/8/6、考えた事

A 2009/8/6、考えた事

Bこの二つに、「 二つの眼 」から見た「 観察 」あるいは「 計測 」して判明する事。


この三点から、辞書の単語を分類します。

「 二つの眼 」により「 観測 」が可能なエネルギーは、辞書の@とAです。
@空気やガス体(気体・気流)
A自然の様子(気候・気象・天気)

身体と外界を、「 呼吸 」として往来するエネルギーは、辞書のBです。
B鼻や口から出入りする息(気管・酒気・一気)

個人の体調など、特殊性を考慮するものとして、身体の状態が、辞書のCです。
C感じるもの(気運・気配・元気・雰囲気・病気)

二本足の考えの、意識と無意識の座標軸に関係するエネルギーが、Dです。
D心持ち(気性・気質・気力・気分・本気・勇気)

このように、二つの眼で「 観測 」したり「 計測 」する事が可能なエネルギーが、辞書の意味だと考えます。

人間の「観測」や「計測」により区別されているが、それらは全て一つの気(ki)に収束します。

なぜなら、その区別は、地球上の人類の区別であり、気(ki)は、区別には関係なく、地球全体を覆っているからです。


私は、これから更に、気(ki)の「 二本足の考え 」への影響を考えています。

これは、後日、書きます。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2009年08月06日

2009/8/6、オカルト(整理) 二つの眼と身体図式

私は、「 身体図形 」を「 身体図式 」と訂正します。

これは、検索すれば、「 身体図式 」が、私の方針に合うと考えるからです。

「二つの眼と赤ちゃん」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8566331.html

この記事で、二つの眼の「遠近」により、ベクトル(力線)を発見する事を書きました。

「二つの眼と視床下部」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8572388.html

この記事で、ベクトル(力線)が、視床下部から脳下垂体を刺激して、ホルモンを分泌させて「 ストレス 」を作ると書きました。

「 二つの眼という器官から見た 」とか、「 二つの耳で聞いた 」という限定が付いたのが、見る事や聞く事です。

日本の石庭や絵画のように、光景には、必ず主観が混入します。

それを防ぐため、方程式などを考えると思いますが、見て実施するのは、二つの眼であり二つの耳を持った人間なのです。

気(ki)も、自分と自然との境界線はありません。

私は、自然の中の一人であり、宇宙の物質であり、口も耳も、空気が充満し、エーテル体も充満しています。

だから、外界と体内の境界線は無いのです。

しかし、境界線を設定するのは、二つの眼により形成した「 身体図式 」という無意識と「 自意識 」という意識であり、根底はDNA の働きだと考えます。


ここでは、脳幹は無意識の領域であり、それから生ずる身体という意識は、「 身体図式 」であると自分で決めておきます。


Poor thinking is as good as no thinking.
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2009/8/6、オカルト(整理)気(ki)とは何

これは、「2009/7/20・オカルト(整理)気(ki)と情(zyou)とエーテル体」の記事です。

Yahoo USA 「気(ki) m24658」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkjo0g2FKz88Ahg6l87UF?p=%E6%B0%97%28ki%29m24658&fr=yfp-t-313&fr2=sfp&iscqry=


Yahoo USA は、私の言葉を積分的に、あるいは総和で、分析していると思います。

しかし、私の考えは「任意」で「恣意的」で、過去の記事から常に変化しています。

私が、現時点で考えている内容を書きますので、違った内容になるかも知れません。

私の考えは、単純です。

@
気(ki)は、「場におけるエネルギー」と考えています。
地球を囲む大気(taiki)は、地球という場で、生命維持には不可欠な空気(kuuki)であり、人体は肺だけでなく皮膚の毛穴からも呼吸し、それを統御するのは「脳幹」という「本能の時空」で「無意識の時空」です。

磁気(ziki)は、磁場という空間が持つエネルギーだろうし、電気(denki)は、電場という空間が持つエネルギーです。

磁場を「時間」、電場を「空間」という背景を考えて、創ったのは阿弥陀如来か神かも知れませんが、自動車や飛行機などに乗り、時計を見て時速を知り、場所を探すのは、無意識の気(ki)を感受性によって意識にした「時間意識」という気(ki)と「空間意識」という気(ki)による旅行や訪問です。

意識は電磁波であり、電場から派生すると考えるからです。

全ての時間も空間も、気(ki)というエネルギーが充満していると思います。

2009/8/6・考えた事

以上の記事は、気(ki)の説明となっていないと思い、もう少し考えました。

私は、ガイアの理論のように循環するエネルギーを気(ki)と考えます。

具体的には、空気(酸素)のエネルギーを考えています。

空気(酸素)のエネルギーは、空気を呼吸により体内に取り入れる事により、私の、エネルギー代謝(物質代謝)が可能になります。

エネルギー代謝(物質代謝)を可能にするエネルギーが気(ki)であり、それがRDNやDNAの生成を可能にするという意味で気(ki)は生命の印であると、現時点では考えています。

DNAやRNAを霊が具現化したものと考え、私の生命維持に不可欠であって、活力という霊の力を与えると考えると、精神や意識の座標の方向を変えると思います。

私は、気(ki)の専門家ではないので、知識は持っていませんから、現時点では、「 気(ki)は、流動するエネルギーである 」と、定義しておきます。


参考

代謝 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%A3%E8%AC%9D

代謝(たいしゃ)とは、生体内の化学反応のことで、体外から取り入れた物質から他の物質を合成したり、エネルギーを得たりする。同化と異化がある。新陳代謝ともいう。



Poor thinking is as good as no thinking.
posted by kandk55 at 05:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 8 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする