2009年09月10日

2009/9/10、オカルト(二本足の考え)破壊B

「二本足の考え・単純化」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8735095.html
「 気持ち(kimochi) 」は気(ki)を保持する(hold)事であり、「座標」であり、気(ki)は、増減しないが、保持する(hold)事を変えるのが、意識では「見方を変える事」であり、無意識では気分転換であると思う。

2009/9/10、考えた事

@無意識の座標転換

上記の通りであるならば、「無意識」の「気分転換」が、「無意識」を統合する「 気持ち 」の破壊であると思います。

例えば「景色を見て気分転換をする」とか、「音楽を聴いて気分転換する」が、それは、自分の身体の外部から、エネルギーを摂取して「無意識の気持ち」という統合体の気(ki)を、再構築する事だと思います。

「無意識」が、「神経細胞」からの刺激という「流れる物」、言い換えればエネルギーの力(これは霊)により、気(ki)を持つ(hold)形態を変える事であり、無意識の座標転換であると考えます。


A意識の座標転換

「意識」の「見方を変える事」とは、「自分に更に純粋になる事」、つまり「自分を哲学する事」であると思います。

「 見方を変える事 」とは、「 精神世界の見方を変える事 」であり、それは、意識の中で、自分の「無意識」の気(ki)を入れ替える事により、「意識の総体」である「 霊 」や「 心 」の構成内容を変える事です。

以前、このように書きました。

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「色即是空」ですから、「無意識」は、直ちに「意識」です。

「空即是色」ですから、「 意識 」は、直ちに「 無意識 」です。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。



こうして、「意識」の実体の内容を、「無意識」で決定する事が出来ますから、自分の意識の内容を考えて、「 自分の気持ちや「純粋な欲」に純粋に従って意識の内容を入れ替える事 」が、「 哲学 」する事であり、「気持ちの破壊」だと思います。

それと同時に、考える事だけでなく、「行為する事」が「欲」の実践ですから、行為とは、無意識で決めた実体から、それと相違する無意識で決めた実体を選択して、「 哲学 」する事です。


哲学を実践するのが、「社会の中で生きる事」であり、人間は、子供から老人まで、哲学の本を読まなくても、みんな、哲学者だと思います。


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2009年09月04日

2009/9/4、オカルト(二本足の考え)破壊後A

2009/9/2、考えた事

無意識の領域は、「 ストレス 」という形態で自覚されますが、「 ストレス 」を、意識しながら身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化するために必要なのは、「 正見 」であり「 純粋な欲 」だと思います。

自分に正直になる事は、反省や哲学して、自分の「気持ち」の変形や歪みを発見する事に、近道だからです。

そのためには、「 感受性 」が必要です。

それは、自分の軌道修正が、簡単であるからです。

「六根清浄」など仏教で言いますが、これが「 正見 」への近道だろうと思います。

自分の心が「 清浄 」であれば、「 濁り 」も発見する事が可能でしょう。


肉体的に苦しい修行をして「六根清浄」を達成する事が目的ではなく、「 正見 」する事が目的であると思います。

「六根清浄」して、鋭い「 感受性 」を獲得するのが、修行の目的だと思います。




2009/9/4、考えた事

では、何故、「 正見 」により、「純粋な欲」を追求するのでしょうか?

こんな事を考えるのは、私だけであり、仏陀の言葉でもないし、日本の書物に書いていない、私独自の考えです。

「 純粋な欲 」は、人類の全てが、共通して持っている「欲」であり、「 仏性 」であるからです。

「 純粋な欲 」を知る事により、他者が、どのレベルの「 欲望 」を持っているかを知る事が出来ます。


鋭い「 感受性 」の取得は、霊性の開発やオカルト的な超能力の開発かも知れませんが、「 霊長類 」の人類は誰でも持っている能力だと思います。

「純粋な欲」と結合した「精神」は、会話しただけでも知る事が出来ます。

それは、「欲が直ちに意識となり、意識は直ちに欲となる」から、他者の行為を見て、「 純粋な欲 」と比較すれば、「欲望」や「意識」を知る事が出来ると思います。

「 純粋な欲 」を持つ事は、「自分の我を捨てる事、破壊する事」であり「 相手の気持ちになって考える事 」であり、政治的にも、宗教的にも、指導者に要求される必須の「 能力 」であり、「 感受性 」であり、それを欠けた人は、人の気持ちや人情も知る事は出来ないと思います。

指導者の資質として、一般的に要求される「 気持ち 」であり、資質が無いとは、「 感受性 」が無い事で、人間の理解が不十分な人だと思います。

それは、指導者の言葉や行為が、「欲の表明」ですから、「純粋な欲」による行為は、人類に共通な、誰でも理解する事が出来て、人の道、「 義 」の行為であると思います。

指導者は、「 欲望 」ばかり考慮しないで、「 純粋な欲 」を知れば、人民の「 気持ち 」と「 自分の使命 」を知る事が出来るでしょう。

そんな指導者が、何人、日本に住んでいるのか、総理大臣や閣僚が、「欲望」ではなく、「純粋な欲」により行動するか否か、監視する事が必要です。


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2009年09月02日

2009/9/2・オカルト(二本足の考え)破壊の後

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


色即是空
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「色即是空」ですから、「無意識」は、直ちに「意識」です。

「空即是色」ですから、「 意識 」は、直ちに「 無意識 」です。

これは、気(ki)という無意識が実体であり、実体による欲で人は行動し、実体を社会で伝達する方法の言葉や情(zyou)という時間的な意識が「形態」である事です。

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8704587

「意識」も「無意識」も、座標を異にしながら重なっていると考えます。

身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。




http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8696240.html

人間が持つ二つの眼が、本来の「清浄な欲」を超えて、精神と結びついて「 欲望 」となり、「 煩悩 」となり、「 ラグビー・ボール 」の中は暴風雨となり、無数の「 意識 」が、暴風雨の中の「 雷 」のように電磁波の速さで飛び交い、空から地面に落ちたり、空中で消滅したり、人から人に伝達されるのが現実社会かも知れません。


その身(身体)口(言葉)意(意識)に現れた行為の形態を、意思に翻訳する事により、「意識の座標軸」が変更されると考えます。

ちょうど、自分の姿を、「鏡」で見るように、意識を、あるいは無意識を、身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮に写して翻訳するのだと思います。



そして「身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮」が、情(zyou) であり、物語や歴史だと思います。

私は、「色即是空」で書いたように、「意識」は、直ちに「欲」(無意識)となり、「欲」(無意識)は、直ちに「意識」の形態を持つと考えますから、身体と心(意識と無意識を含む)が、一致した状態を更新するのが、「破壊」と「再構築」だと思います。



身体と心が、常に一致しているという考えは、仏教の「 知識 」と違うと思います。

身体と心が一致するように努力するのではなく、他者からは、既に、一致していると見られ、主体の自分も一致している事が要請されると考えなくてはなりません。

行為が、愚者か賢者かを、示しているかも知れません。



https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8710750

無意識の領域は、「 ストレス 」という形態で自覚されますが、「 ストレス 」を、意識しながら身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化するために必要なのは、「 正見 」であり「 純粋な欲 」だと思います。

自分に正直になる事は、反省や哲学して、自分の「気持ち」の変形や歪みを発見する事に、近道だからです。

そのためには、「 感受性 」が必要です。

それは、自分の軌道修正が、簡単であるからです。

「六根清浄」など仏教で言いますが、これが「 正見 」への近道だろうと思います。

自分の心が「 清浄 」であれば、「 濁り 」も発見する事が可能でしょう。


肉体的に苦しい修行をして「六根清浄」を達成する事が目的ではなく、「 正見 」する事が目的であると思います。

「六根清浄」して、鋭い「 感受性 」を獲得するのが、修行の目的だと思います。

そして、この「 感受性 」を、生きる限り持つ事が可能ならば、「 心の平安 」は訪れると思います。

私は、この肉体的に苦しい修行は、「 ヨガ 」の修行も同じだと思っています。

六根清浄 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%A0%B9%E6%B8%85%E6%B5%84

色即是空であり、意思は形態として具現化し、身体と心が、常に一致し、「身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮」に、情(zyou) として、物語や歴史として意思が具現化すると思います。

つまり、行為は無意識の「欲」であり、意思が具現化した形態ですから、無意識を鍛錬したいと思うなら、無意識で行う行為を、神仏の行為にする。

仏陀の行為を、「 模倣 」するのが、無意識の行為を鍛錬する事かも知れません。

私は、出来ませんが………。


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2009年08月31日

2009/8/31、オカルト(二本足の考え)破壊A

2009/8/29、考えたこと

「意識」も「無意識」も、座標を異にしながら重なっていると考えます。

身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


DNAとRNAの間で起きる、転写や翻訳が、破壊の構造かも知れません。

その身(身体)口(言葉)意(意識)に現れた行為の形態を、意思に翻訳する事により、「意識の座標軸」が変更されると考えます。

ちょうど、自分の姿を、「鏡」で見るように、意識を、あるいは無意識を、身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮に写して翻訳するのだと思います。


気(ki)も、「気持ち」を形成する機能も破壊されませんが、持っている「気持ち」の内容が破壊されます。

2009/8/31、考えたこと

私の脳を構成する物質は常に新陳代謝しますが、それから派生する意識は、自然に代謝する事は無く、「自分」で変化させる必要があります。

これが、「 気持ち 」の変化だと思います。

気(ki)や気(ki)を保持する(hold)、記憶などの「 感受性 」の変化は、「自分」が、「意識」する事により、新陳代謝が自覚されます。

実体を決定するのは「無意識」や「欲」で、行為は「欲」ですから、身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化した「欲」を見る事により、「 無意識 」の変化を知る事が出来ると思います。

地球が回転し、人間が生活し、行為しているのは、「欲」を充足させている事であり、身体が新陳代謝している事であり、「 気持ち 」は、常に変化しているが、身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化した行為を分析、つまり反省や自覚や哲学する事により、「自分」の「無意識」の領域が変化しているのを知る事ができると思います。

それが、意識した「 気持ち 」の「破壊」であり、再構築であると思います。


身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


無意識の領域は、「 ストレス 」という形態で自覚されますが、「 ストレス 」を、意識しながら身(身体)口(言葉)意(意識)に具現化するために必要なのは、「 正見 」であり「 純粋な欲 」だと思います。

自分に正直になる事は、反省や哲学して、自分の「気持ち」の変形や歪みを発見する事に、近道だからです。

そのためには、「 感受性 」が必要です。

それは、自分の軌道修正が、簡単であるからです。

「六根清浄」など仏教で言いますが、これが「 正見 」への近道だろうと思います。

自分の心が「 清浄 」であれば、「 濁り 」も発見する事が可能でしょう。


肉体的に苦しい修行をして「六根清浄」を達成する事が目的ではなく、「 正見 」する事が目的であると思います。

「六根清浄」して、鋭い「 感受性 」を獲得するのが、修行の目的だと思います。

そして、この「 感受性 」を、生きる限り持つ事が可能ならば、「 心の平安 」は訪れると思います。

私は、この肉体的に苦しい修行は、「 ヨガ 」の修行も同じだと思っています。


六根清浄 Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E6%A0%B9%E6%B8%85%E6%B5%84



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2009年08月29日

2009/8/29、オカルト(二本足の考え)破壊の構造

これは、独り言で、フィクションですが、私の哲学でもあります。

二本足の考え・要約
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8696240.html

二本足の考え・破壊
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8698983.html

私は、DNA により、「 意識は電磁波の構造であり」、光の性質が応用されるが、光波ではなくて物質波であると考えます。

意識は、脳が覚醒した状態で、脳神経の信号により知覚される「気持ち」です。

この「知覚」とは、身(身体)口(言葉)意(意識)と言う、外界と自己とを区別する細胞膜で感じる、衝撃であると思います。

脳が休息している状態を「無意識」と考えると、電磁波の周波数を背景にしたエネルギーとしての気(ki)と先祖伝来のDNA を背景にした「霊」が考えられます。

意識と無意識を持つから、「光」のように一点を中心とした球ではなくて、二つの中心を持つ楕円状の球であり、意識の総体としての「霊」は、円偏光ではなく、楕円偏光の軌跡の電磁波であると思います。

脳が覚醒した状態の意識は、神経の信号で身体が反応し、太陽の光の中の生活だから、意識には「光」と類似して考える「気持ち」で統一されると考えます。

脳が覚醒している時も休息している時も、「無意識」は働いています。

「意識」も「無意識」も、座標を異にしながら重なっていると考えます。

身(身体)口(言葉)意(意識)の二つの眼によるベクトル(力線)という力、つまり、意識の総体の「霊」、「 心 」により把握された方向が、「霊」である故に「意識」では解決する事が出来ないで、「ストレス」となって無意識の気(ki)に蓄積される。

「意思は形態として具現化します」から、そのストレスが解消される行為が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れます

(これは、欲が行為を選択するからです)。


DNAとRNAの間で起きる、転写や翻訳が、破壊の構造かも知れません。

その身(身体)口(言葉)意(意識)に現れた行為の形態を、意思に翻訳する事により、「意識の座標軸」が変更されると考えます。

ちょうど、自分の姿を、「鏡」で見るように、意識を、あるいは無意識を、身(身体)口(言葉)意(意識)という自分を囲む表皮に写して翻訳するのだと思います。


気(ki)も、「気持ち」を形成する機能も破壊されませんが、持っている「気持ち」の内容が破壊されます。

日本が、戦争に負けて、天皇制から民主主義に変わったように。

「ストレス」は、悪者では、ありません。

「清浄な欲」による「ストレス解消」は、「欲求不満の解消」ではなく、人間本来の行為であると思います。

それが、「楕円偏光」から「円偏光」に思想を変更する事であり、人間の「物質波」から神仏の「光波」に変更する事だと思います。


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2009年08月27日

2009/8/27、オカルト(二本足の考え)破壊

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

今までの記事

オカルト(二本足の考え)歩く
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8666318.html
オカルト(二本足の考え)歩くA
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8667430.html

この「 霊 」を清浄にする事により、「無」ではなくて「空」にして、気(ki)の中に中心を移す事により、「二本足の考え」の重心移動が行われて、時間的な意識としての「直感」や「信仰」が可能になると考えます。

従来の「気持ち」を破壊して、新たに気(ki)を「感受性」で集めて、再構築する事です。

「 心 」の新陳代謝が必要なのです。


Yahoo USA 「 気(ki)と気持ち 」
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGklejTINKg3ABtUhXNyoA?p=%E6%B0%97%28ki%29%E3%81%A8%E6%B0%97%E6%8C%81%E3%81%A1+%EF%BD%8D%EF%BC%92%EF%BC%94%EF%BC%96%EF%BC%95%EF%BC%98&fr=yfp-t-150&fr2=sb-top&sao=1

2009/8/27、考えた事

私が、「 歩く 」と言うのは、「 無血自己改革 」の事です。

一つの例として、「 親になる 」事を考えます。

人間は、生まれた時から、一定の環境の中で育ち、「常識」と言う「共通感覚」を学び、生物的の親になり、自己の生命の延長として子供を残して、死んで行くのが一般的だと思います。

「生物的な親」から、「精神的な親」となるのが哲学であり、「無血自己改革」であると思います。

その第一歩として、一定の環境の中で育ち、「常識」と言う「共通感覚」を学んだ「 気持ち 」を破壊する必要があります。

自然に生物的な親になり、子供を、自分が作った自分の所有物と考え、自分の価値観で、好きなように子供を育てる人がいます。

自分が作った自分の所有物と考えるのが、「 意識の座標 」で、好きなように子供を育てるのが「 無意識の座標 」であれば、まず前者を、意識で破壊します。

自分の精子で子供を作ったとしても、子供の誕生は、自分の力では無く、DNA の染色体の中で、子供が子供自身を選択して、「 この人の子供になろう 」と思って誕生したと思います。

自分の精子で子供を作っても、「創った事」、「精神まで創った事」ではないのです。

こう考えると、自分が作った自分の所有物という考えは間違いで、破壊すべき「気持ち」だと考えます。

その「意識の座標」の破壊は、好きなように子供を育てると言う「 無意識の座標 」を、破壊します。

「好きなように」とは、自分の道具として、利己心を延長すると言う事だと思います。

子供には、子供の人生があり、親は、自分を親として選んで生まれてくれた事に「 感謝 」しなければなりません。

自分の精子で子供を作っても、「創った事」、「精神まで創った事」ではないのです。

このように考えると、子供により、社会的に「親」と呼ばれる立場に就かせてもらった事に「 感謝 」しなくてはならず、自分の精子で作っても、自分の所有物ではなく「 神仏からの預かり物である 」と自覚すれば、自分の道具として、利己心を延長するのでは無く、自分の子供のためだけではなく、これから生まれる子孫のために貢献する「 気持ち 」が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れると思います。

こうして、子供を親が「好きなように」、自分の道具として、利己心の延長で、子供を育てると言う考えは、破壊されると思います。

意思は、形態として具現化します。

子供に対する親の心が、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れ、子供は、親の身(身体)口(言葉)意(意識)に対して、報いをするでしょう。

親の考え次第で、子供が親を殺す事も考えられます。

これは、「意識」から「無意識」ですが、逆の場合もあると思います。

親の愛は、「 無償の愛 」と言いますが、親が本心から思っているか否かを、子供」は、察知すると思います。

「打算の愛」である時、子供が、親の身(身体)口(言葉)意(意識)を見て、ストレスと感じるかも知れません。

本当の「 無償の愛 」ならば、身(身体)口(言葉)意(意識)を見て、子供の利己心も考え方も変わると思います。

このように、衝撃波は、身(身体)口(言葉)意(意識)に表現する事により、意識から無意識、無意識から意識に伝達されると考えます。



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2009年08月24日

2009/8/24,オカルト(二本足の考え)弁証法B

少し、考えてみた。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

生物は、自己の細胞と他者とを細胞膜で区別する。
私は、宇宙の一つとして、空気やエーテル体を体内に満たしながらも、細胞膜を通して気(ki)というエネルギーを摂取して新陳代謝する。
自分を拡大しても、縮小しても自分の身体を離れて、他者に侵入する事も、オカルト的に乗り移る事も、他者を自分の所有物とする事は出来ない。
ただ、新陳代謝する過程を楽しむだけである。
夫婦と言っても、親子と言っても、相手と同じ「気持ち」になれず、死ぬ時期も相違する、孤独な生き物である。



自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。


否定と言っても「無」ではないし、「無」は人間は創る事は出来ない。
創るのは神だろう。
否定は、違った形態の「肯定」を目指している。
生きる限り、「阿頼耶識」が残るように、否定しても残骸は残るし、「夢」があるように、現在とは違った「肯定」がある。
それは、「意識」の面だけで正当であるのに、現実の中で神の配分、神のシステムを作ろうとしたのが共産主義だと思う。



哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。


平面的な「否定の否定は肯定だ」という考えを、私は、採用しない。
DNAの働きで、「時間意識」と「空間意識」を得る。
「時間」や「空間」が、人間の所有物ではなくて、「時間」や「空間」だと、人間が感じるのだと思う。
これらは、サインカーブで電磁波的に交わっている事は、以前、書いた。
瞬間が「間」ならば、その「間」にサインカーブが充満している状態が「意識の総体の霊」であり、「心」であり、「気持ち」である。
それらの形状は、「意識」と「無意識」の楕円状のラグビー・ボールでもある。
私は、これを「二本足の考え」と名前を付けている。
「否定」とは、「符号が変わる事」であり、複素数の二乗であり、「頭を回転させる事」である。
それは、理解する為に、必要で、「相手の気持ちになる事」であると思う。



自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

電磁波が進む先端に、自分が乗っている事を想像すると、光速で自分を確認している自分を発見する。
自分の連続した「延長」ではなく、不連続だがサインカーブで推進されるのが自分である。
それは、「延長」に似た不連続の自分である。



「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

現実社会を変革する、論理として、手段や道具に、矛盾や「否定の否定」という考えを使いたいから、同一平面で考えるのだと思う。
矛盾がどれで、否定するのがどれだと、特定すれば攻撃目標が現実となる。



意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。
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2009/8/24,オカルト(二本足の考え)弁証法A

少し、追加します。

私が学生の頃、以上の説明に納得していたが、私は、意識と無意識に応用したい。

上記の説明は、社会の精神の「知識」の弁証法だと思うが、これを「内なる宇宙」に応用する。

「質」を「意識」、「量」を「無意識」と置き換えて考えた。

前者は、概念であり、精神であり、後者は、内容であり、エネルギーであるが、両者が人間により区別される限り「人間社会の観念」である。

前者は、情(zyou)で、後者は、気(ki)で、前者は外枠であり形であるから、伝達が可能であるに反し、後者は、個別的である為、行為を決定するが、共通な内容は無い。

その為、前者には「直感」は無いが、後者は、全部が「直感」である。

両者は、「意識」であるから、「人間社会の概念」であり、情(zyou)や気(ki)は「宇宙」に属するが、言葉である範囲は、観念であり、私の「弁証法」も観念的である。


1、は、「無意識」から「意識」へ転化し、「意識」が「無意識」に転化するのは、「量」から「質」と言う言葉の違いでの表現ではなく、両者が持つエネルギーの形態の変化であり、両者は転換可能であると思う。

私は、意識の実体としての内容は無意識により決定され、無意識は、「 心 」は、「気持ち」は、形態として具現化すると思う。

「量」は数える事を前提にしていると思うが、数える物ではなく、エネルギーであり、「感じる物」だと思う。

「質」は、物体が持つ「作用」であると思うが、「作用」としての働きは、私が感じたベクトルで、行動を左右するエネルギーであり、意味や内容は社会で定義する必要があるほど主観的であると思う。

「量」と「質」は、人間の行動として具現化する。


2、は、同じ平面で対立しているのは、同じ性質で統一されるかも知れないが、時間的に対立し、時間的に統一されると、立体的に考える。

「量」はエネルギーとして存在するから、数える事は不可能であるが、「質」の内容である事で統一されているから、「政治」と「経済」のように「形態」と「実体」として統一されると思う。

「経済」が変化すれば「政治」も変化するように、「量」と「質」は、変化する。


両者は、弁証法的に関連しているかも知れないが、私は、「 二本足の考え 」の構造で関連していると思う。

昔は、「革命」と言って「政治体制」を破壊したが、私は、「意識」と「無意識」が楕円構造をしたラグビー・ボールで、一方の中心から他方の中心を破壊するが、暴力では無く、「意識の革命」、「無血革命」であり、時間的な「改革」で解決できると思う。


以降は後日、書きます。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。

哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。

自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。
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2009年08月23日

2009/8/23、オカルト(二本足の考え)弁証法

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

弁証法 (Wikipedia からの引用)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%81%E8%A8%BC%E6%B3%95

エンゲルスは『自然弁証法』において、唯物論的弁証法の具体的な原則を三つ取り上げた。

1. 「量から質への転化、ないしその逆の転化」

2. 「対立物の相互浸透(統一)」

3. 「否定の否定」

これらがヘーゲルにおいても見られることをエンゲルスも認めている。

1.は、量の漸次的な動きが質の変化をもたらすということをいっており、エンゲルスは例えば、分子とそれが構成する物体ではそもそもの質が異なることを述べた。

2.と3.に関するエンゲルスの記述は少ない。しかし、2.はマルクス主義における実体論でなく関係論と結びつく内容であるといわれる。

つまり、対立物は相互に規定しあうことで初めて互いに成り立つという、相互依存的で相関的な関係にあるのであって、決して独自の実体として対立しあっているわけではない、ということである。

3.はヘーゲルのアウフヘーベンと同じである。エンゲルスによれば、唯物論的弁証法は自然から弁証法を見出すが、ヘーゲルのそれはちょうど逆で、思考から自然への適用を行おうとする

(引用を終わる)



私が学生の頃、以上の説明に納得していたが、私は、意識と無意識に応用したい。

上記の説明は、社会の精神の「知識」の弁証法だと思うが、これを「内なる宇宙」に応用する。

「質」を「意識」、「量」を「無意識」と置き換えて考えた。

前者は、概念であり、精神であり、後者は、内容であり、エネルギーであるが、両者が人間により区別される限り「人間社会の観念」である。

1、は、「無意識」から「意識」へ転化し、「意識」が「無意識」に転化するのは、「量」から「質」と言う言葉の違いでの表現ではなく、両者が持つエネルギーの形態の変化であり、両者は転換可能であると思う。

私は、意識の実体としての内容は無意識により決定され、無意識は、「 心 」は、「気持ち」は、形態として具現化すると思う。

2、は、同じ平面で対立しているのは、同じ性質で統一されるかも知れないが、時間的に対立し、時間的に統一されると、立体的に考える。


両者は、弁証法的に関連しているかも知れないが、私は、「 二本足の考え 」の構造で関連していると思う。

人間は、自分以外の身体に制限され、他者にはなれない。

自分から離れられない為に、否定の否定と言っても、自分の内部の事である。

哲学的に、「意識」と言う平面で考えないで、「意識は電磁波の構造をもつ」と時間的に考え、立体的に考えると、否定の否定は平面ではなくて時間的であり、電磁波的に解決する。

自分は自分と言うのも、無意味ではなくて、電磁波的に成長した自分であると考える。

「矛盾」も立体的なベクトル(力線)として考えるから、ベクトルの平面に合わせて、時間的に解決する。

同一平面で解決したいから、矛盾や「否定の否定」などを考えるのだと思う。

意識から無意識を規定するのは、ヘーゲルと同じで、方向としては、逆かも知れない。



Every miller draws water to his own mill.
posted by kandk55 at 16:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 独り言 9 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする