2009年10月10日

2009/10/10、オカルト(二本足の考え)霊と価値観H

これは、フィクションです。

過去の記事です。

2009/9/28、霊と価値観

ここで、「 力 」は、「 霊 」であると考えますと、「 今 」という時点の意識と無意識の二つの焦点から発する信号が、「 持続 」するのは、「 霊 」という「 力 」であり、その「 持続 」により記憶や想起という感受性が生じると思います。

「 霊 」は「 力 」で、「 持続 」という形態を採ると考えます。

「 持続 」が、私の頭脳では理解する事が出来ない天体の重力であれば、太陽や地球の「万有引力」が、「持続」でしょう。

それに類似したものを「 意識 」の中で考えると、「価値観」だろうと思います。

「 価値観 」の性質が「 力 」であり、その「 持続 」という形態が及ぶ範囲が、価値観の範囲であり、「 力 」の大小が、価値観の大小だと思います。


二つの眼から入った力線は、欲の拡大か縮小であり、行為の選択であるが、意識の中の「 価値観 」の対立を総括した「 価値観 」が、「 欲 」というDNAの霊の拡大や縮小を実現する「 力 」という眼には見えない霊として現れる。

「 価値観 」と「 力 」は重なり、「 表 」と「 裏 」の関係であるが、意識と無意識だから、互いに破壊する関係だと考えます。

二つの眼で見えるのは、意識の世界であり、「 行為 」や「 欲望 」だが、実際に、「 行為 」や「 欲望 」を決定するのは、無意識の霊である「 力 」や「 欲 」である。


霊の「 力 」が、見るとか聴くという意識の中で、「 持続 」として現れ、その「 持続 」が「 価値観 」であり、それが見ると聴くという気(ki)を接着して意識と無意識の総体としての「 気持ち 」を形成すると考える。


この「 価値観 」を、私が言う「 座標 」と同一であると考えると、意識の座標は「 意識の価値観 」であり、無意識の座標は、「 無意識の価値観 」であり、意識の総体の中で、常に、二つの価値観が存在する事になります。

上記のように、「 座標 」が「 価値観 」であると考えると、意識と無意識が、ほとんど重なりながらも、別の基準で動くと考えます。

「 意識の価値観 」は、意識の極の「 精神 」からの比較であり、「 精神 」と「 力 」が「 霊 」であり、RNA と似た働きだと考えます。

「 無意識の価値観 」は、無意識の極である「 エネルギー 」や、「 欲 」や「 力 」という「 霊 」からの比較であり、DNA と似た働きだと考えます。

そして、「 意識 」の下に「 無意識 」が隠れているのではなく、「 意識 」と「 無意識 」が、「 時空 」のように、あるいは数学のX軸とY軸のように、互いに必要不可欠であり、相補的であると考えます。

「 空間 」が「 意識 」ならば、「 時間 」は「 無意識 」です。

これは、私が言う「 二本足の考え 」と同じ考えになります。

現実世界は、「意識」と「無意識」の二つの基準が重なっており、外部からの情報が、「意識」で解決する事が出来ない場合は、「無意識」が、ストレスとして受け止めると考えます。


セントラルドグマやDNA複製を、細胞による「 価値観 」の遺伝であり、生物への「 霊 」の具現化であると考えます。

組織や共同体の「 精神 」という「 霊 」が、細胞の中で「 セントラルドグマ 」の「 横の伝達 」に作用し、空間の中で「 自我 」を成立させ、組織や共同体の「 先祖代々の霊 」が、「 DNA 複製 」の「 縦の伝達 」に作用して、時間の中で「 自我 」を形成すると考えます。

遺伝情報を持つ事は、生命を過去から未来へと「 持続 」する事で、持続を可能にする「横の伝達」と「縦の伝達」の存在は、電磁波的な構造を連想します。

もし、体内の電気が、「流れるもの」として、「 セントラルドグマ 」に作用しているならば、「 霊 」と「 プラズマ宇宙論 」が、細胞のDNA を媒体として連結すると考えます。



2009/10/10、私の考え

「 霊 」は「 力 」で、「 持続 」という形態から、「 価値観 」として、身体に取り込まれ、「 無意識の座標 」である「 無意識の価値観 」が「 欲 」という「 エネルギー 」と化合して、行為の「 力 」として、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れる。

その一方、「 持続 」が、「 意識の座標 」である「 意識の価値観 」で、「 欲 」に「 精神 」を加えた「 欲望 」として現れる。

物質的には、前者が、DNA 、後者が、RNA であると考える。

「 霊 」は、細胞レベルから、精神のレベルまで浸透して、細胞膜を外皮として、「 魂 」を形成すると考える。

「 霊 」は、重力のように消滅せず、「 魂 」は、生命と共に消滅すると考える。

もし、それらが、生命体の電気により結合しているならば、「 プラズマ宇宙論 」で統一される、というのが、私のフィクションである。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年10月08日

2009/10/8、オカルト(二本足の考え)霊と価値観G

これは、フィクションです。

霊と価値観 F
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8820467.html

前回、書きましたように、「 セントラルドグマ 」は「 表現 」であり、「認識」であり、「 精神 」という「 霊 」に到達すると思います。

「 DNA 複製 」は、親が子を作るのですから、「 先祖代々と続く祖先の霊 」に到達すると考えます。

私は、「 流れるもの 」は、眼で見る形態でしょうが、それは、「 霊 」に近い存在であると思います。

2009/10/8、私の考え

Wikipedia で調べると、「 セントラルドグマ 」と「 価値観 」に、類似した記述を発見しました。


@
DNAの内部(セントラルドグマ)

「セントラルドグマが、遺伝子の「生物の表現型を決める働き」を遺伝情報の横の伝達と理解する。」

価値観

組織や共同体に属することによって継承されることもある。また、個人的な体験をきっかけにしたり、思索の積み重ねによって、独自に新たな価値観が構築されることもある。

私の考え

「 セントラルドグマ 」は「 表現 」であり、「認識」であり、「 精神 」という「 霊 」に到達すると思います。


A
DNAの内部(セントラルドグマ)

遺伝子の「親から子へ受け継がれる働き」を遺伝子の縦の伝達と理解させるのがDNA複製である。

価値観

親から教えられることもある。

私の考え

「 DNA 複製 」は、親が子を作るのですから、「 先祖代々と続く祖先の霊 」に到達すると考えます。


2009/10/8、私の考え

セントラルドグマやDNA複製を、細胞による「 価値観 」の遺伝であり、生物への「 霊 」の具現化であると考えます。

組織や共同体の「 精神 」という「 霊 」が、細胞の中で「 セントラルドグマ 」の「 横の伝達 」に作用し、空間の中で「 自我 」を成立させ、組織や共同体の「 先祖代々の霊 」が、「 DNA 複製 」の「 縦の伝達 」に作用して、時間の中で「 自我 」を形成すると考えます。

遺伝情報を持つ事は、生命を過去から未来へと「 持続 」する事で、持続を可能にする「横の伝達」と「縦の伝達」の存在は、電磁波的な構造を連想します。

もし、体内の電気が、「流れるもの」として、「 セントラルドグマ 」に作用しているならば、「 霊 」と「 プラズマ宇宙論 」が、細胞のDNA を媒体として連結すると考えます。



Every miller draws water to his own mill.

参考

セントラルドグマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%9E

セントラルドグマとは、あらゆる生物種において、遺伝情報(タンパク質のアミノ酸配列情報)を読み取り、遺伝情報を発現する(タンパク質を合成する)過程が転写と翻訳である、という主張である。

遺伝情報が核酸(DNA)から核酸(RNA)に伝達されること(転写)、さらにタンパク質の形に変換されること(翻訳)を、「(遺伝子)発現」と呼ぶ。

セントラルドグマが、遺伝子の「生物の表現型を決める働き」を遺伝情報の横の伝達と理解するのに対し、遺伝子の「親から子へ受け継がれる働き」を遺伝子の縦の伝達と理解させるのがDNA複製である。


価値観
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BE%A1%E5%80%A4%E8%A6%B3

価値観の形成とその現れ

価値観の形成は様々に行われる。親から教えられることもある。

書物を読むことで吸収することもある。

組織や共同体に属することによって継承されることもある。

また、個人的な体験をきっかけにしたり、思索の積み重ねによって、独自に新たな価値観が構築されることもある。

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2009年10月05日

2009/10/5、再考、オカルト(二本足の考え)霊と価値観F

今日の記事は、あまり評判が良くないです。

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2009/10/5、オカルト(二本足の考え)霊と価値観E
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8819227.html

DNA が「 無意識 」、RNA が「 意識 」であるという想定です。

2009/10/5、再び考えた事

霊と価値観Eの、「 流れるもの 」の全体が、眼に見える物質的な「 認識 」であり、眼に見えない精神的な「 認識 」が、「 派生するもの 」と考えます。

両者の実質は、DNA やRNA でありますが、眼に見える形態を求めると、「 流れるもの 」であり、眼に見えない形態では、「 派生するもの 」と考えます。

「 流れるもの 」と「派生するもの 」は、電磁波のように交互に現れると考えますが、眼に見える形態か、あるいは眼に見えない形態かの違いであり、実質は同じであると考えます。

物質的な「 流れるもの 」のほうが、「 霊 」と親密であるかも知れません。

人間は精神的な生き物ですが、生き物ですから、物質的なDNA に左右されると考えます。

単純に、「 酵素 」に注目した場合は「 流れるもの 」であり、「 価値観 」に注目した場合は「 派生するもの 」であると考えます。

両者は、分解したり結合したりする「 力 」を、前者は生物界、後者は精神界で持っていて、それぞれを統合する物です。

「 力 」ですから、意識で理解する事が出来ない「 霊 」です。

前回、書きましたように、「 セントラルドグマ 」は「 表現 」であり、「認識」であり、「 精神 」という「 霊 」に到達すると思います。

「 DNA 複製 」は、親が子を作るのですから、「 先祖代々と続く祖先の霊 」に到達すると考えます。

私は、「 流れるもの 」は、眼で見る形態でしょうが、それは、「 霊 」に近い存在であると思います。

霊界かも知れません。

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209/10/5、オカルト(二本足の考え)霊と価値観E

これは、フィクションです。

霊と価値観 D
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/

「 意識の価値観 」は、意識の極の「 精神 」からの比較であり、「 精神 」と「 力 」が「 霊 」であり、RNA と似た働きだと考えます。

「 無意識の価値観 」は、無意識の極である「 エネルギー 」や、「 欲 」や「 力 」という「 霊 」からの比較であり、DNA と似た働きだと考えます。

そして、「 意識 」の下に「 無意識 」が隠れているのではなく、「 意識 」と「 無意識 」が、「 時空 」のように、あるいは数学のX軸とY軸のように、互いに必要不可欠であり、相補的であると考えます。




2009/10/5、私の考え

私は、「 流れるもの 」と「 派生するもの 」を区別して、前者が生物的なエネルギーで、後者が意識だと、以前、書きました。

今までは、「 派生するもの 」について書きましたが、「 流れるもの 」について書きます。

「 派生するもの 」の意識には、無意識も含まれますが、無意識は「 流れるもの 」と交流する意識で、「 派生するもの 」の中で、意識では解決する事が出来ない「価値観」という「持続」として現れると考えます。

「 流れるもの 」とは、DNA やRNA のレベルで、認識を考えるのですが、私は専門の学問を知らないから、フィクションになります。

DNA が「 無意識 」、RNA が「 意識 」であるという想定です。

セントラルドグマは「遺伝情報はDNA→(複製)→DNA→(転写)→RNA→(翻訳)→タンパク質の順に伝達されると主張するもの」ですが、なぜこの流れが必要かと考えた時、私は、変化を促す、二つの眼からのストレスが、「遺伝情報」の前にあると思います。

ストレスに対して安定的なのはDNA であるから、ストレスが作用するのは不安定なRNAであるように思いましたが、安定だから不安定が判明すると思い、ストレスの作用はDNAに作用した時に、判明すると解釈しました。

「 無意識 」のほうが、「 意識 」より安定し、安定した「 無意識 」にストレスが作用した時、「 セントラルドグマ 」が判明すると考えます。

この「 セントラルドグマ 」が意味するのが「 認識 」であり、「 DNA 複製 」が、「 先祖代々に伝わる遺伝 」であると考えます。

「 酵素 」として機能するのが、「 価値観 」であると想定します。

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参考

セントラルドグマ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%9E
遺伝情報はDNA→(複製)→DNA→(転写)→RNA→(翻訳)→タンパク質の順に伝達されると主張するもの


セントラルドグマとは、あらゆる生物種において、遺伝情報(タンパク質のアミノ酸配列情報)を読み取り、遺伝情報を発現する(タンパク質を合成する)過程が転写と翻訳である、という主張である。

遺伝情報が核酸(DNA)から核酸(RNA)に伝達されること(転写)、さらにタンパク質の形に変換されること(翻訳)を、「(遺伝子)発現」と呼ぶ。

セントラルドグマが、遺伝子の「生物の表現型を決める働き」を遺伝情報の横の伝達と理解するのに対し、遺伝子の「親から子へ受け継がれる働き」を遺伝子の縦の伝達と理解させるのがDNA複製である。

RNA
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AA%E3%83%9C%E6%A0%B8%E9%85%B8


遺伝情報をもとにタンパク質が合成される場合には、RNAポリメラーゼの働きにより、DNAに対して相補的な配列を持つmRNAが転写され、次にリボソームにより、mRNAの配列に基づいたタンパク質の合成が行われる(翻訳)。このように、DNAがいったんRNAへと転写され、RNAを鋳型としてタンパク質への翻訳が行われるという、一連の遺伝情報の流れをセントラルドグマと呼ぶ。

酵素
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%85%B5%E7%B4%A0

生体を機関に例えるならば、核酸塩基配列が表すゲノムが設計図に相当するのに対して、生体内における酵素は組み立て工具に相当する。

酵素の特徴である作用する物質(基質)をえり好みする性質(基質特異性)と目的の反応だけを進行させる性質(反応選択性)などによって、生命維持に必要なさまざまな化学変化を起こさせるのである。

誘導適合

基質の結合した酵素は、それが結合していない酵素よりもエントロピーが減少していると考えられており、事実、基質を結合させた酵素はあらゆるストレス(熱や pH の変化など)に対して安定である。

これは酵素の立体構造変化が起きているためであると考えられている。

すなわち、基質が結合すると酵素が触媒反応に適した形状に変化すると考えられている。

そして酵素の立体構造変化に従い、基質の立体構造も変化し遷移状態へと向かう。

そうすると遷移状態に向かう反応の過程がエントロピーの減少とともに促進されることによって反応の活性化エネルギーを低下させていると考えられている。

これらの誘導的な化学反応を生じる考え方を誘導適合という。

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2009年10月04日

2009/10/4、オカルト(二本足の考え)霊と価値観D

これは、フィクションです。

霊と価値観 C
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8809194.html
以上は、「 無意識 」の中の古い「 価値観 」と二つの眼から入った新しい「 価値観 」についての記述ですが、「 力 」という霊が、「 持続 」という形態で意識に現れる状態を「 価値観 」と想定しました。

この「 価値観 」を、私が言う「 座標 」と同一であると考えると、意識の座標は「 意識の価値観 」であり、無意識の座標は、「 無意識の価値観 」であり、意識の総体の中で、常に、二つの価値観が存在する事になります。


2009/10/4、私の考え

上記のように、「 座標 」が「 価値観 」であると考えると、意識と無意識が、ほとんど重なりながらも、別の基準で動くと考えます。

「 意識の価値観 」は、意識の極の「 精神 」からの比較であり、「 精神 」と「 力 」が「 霊 」であり、RNA と似た働きだと考えます。

「 無意識の価値観 」は、無意識の極である「 エネルギー 」や、「 欲 」や「 力 」という「 霊 」からの比較であり、DNA と似た働きだと考えます。

そして、「 意識 」の下に「 無意識 」が隠れているのではなく、「 意識 」と「 無意識 」が、「 時空 」のように、あるいは数学のX軸とY軸のように、互いに必要不可欠であり、相補的であると考えます。

「 空間 」が「 意識 」ならば、「 時間 」は「 無意識 」です。

これは、私が言う「 二本足の考え 」と同じ考えになります。

現実世界は、「意識」と「無意識」の二つの基準が重なっており、外部からの情報が、「意識」で解決する事が出来ない場合は、「無意識」が、ストレスとして受け止めると考えます。

「 二本足の考え 」は、「色即是空」の考えです。

色即是空
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。


Every miller draws water to his own mill.
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2009年10月02日

2009/10/2、オカルト(二本足の考え)霊と価値観 C

これは、フィクションです。

霊と価値観 B
https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8803727

二つの眼から入った力線は、欲の拡大か縮小であるから、欲の実現に対して、強い、時間的には短い加速度を持っている「 価値観 」であり、従来の「 価値観 」による欲の実現する加速度と対立する。

それぞれが、「 重力波 」としてエネルギーを放出しながら、統合するとは、対立する「 気持ち 」の価値観という無意識から、「 意識 」という「 光 」により、エネルギーを放出して、具体的にはストレスを言葉に表現して、欲を実現する加速度を弱くして、統合するのが「 妥協 」であると考える。

2009/10/2、私の考え

以上は、「 無意識 」の中の古い「 価値観 」と二つの眼から入った新しい「 価値観 」についての記述ですが、「 力 」という霊が、「 持続 」という形態で意識に現れる状態を「 価値観 」と想定しました。

この「 価値観 」を、私が言う「 座標 」と同一であると考えると、意識の座標は「 意識の価値観 」であり、無意識の座標は、「 無意識の価値観 」であり、意識の総体の中で、常に、二つの価値観が存在する事になります。

価値観を一つに統合する時、「 重力波 」に似たエネルギーである気(ki)が放出されると想定します。

ストレスを言葉に表現して、欲を実現する加速度を弱くして、統合するのが「 妥協 」であり、気(ki)の放出ですが、この「 妥協 」が、「 無意識の価値観の中の行為」であり、その「 行為 」の気(ki)から、「 意識の価値観に変化が現れる 」と考えます。



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2009年09月30日

2009/9/30、オカルト(二本足の考え)霊と価値観 B

これは、全くのフィクションであり、「 宇宙 」と人体の一致を考えた、私の独り言です。

霊と価値観 A
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8801037.html

二つの眼から入った力線が霊であるから、意識の中で「 持続 」を成立させていた「 力 」という霊と衝突して、「 価値観 」が対立するストレス状態になる。

「 矛盾 」は、このストレスであり、意識ではなくて、霊の対立となる。

二つの眼から入った力線は、欲の拡大か縮小であり、行為の選択であるが、意識の中の「 価値観 」の対立を総括した「 価値観 」が、「 欲 」というDNAの霊の拡大や縮小を実現する「 力 」という眼には見えない霊として現れる。

2009/9/30、私の考え

霊の「 力 」が、見るとか聴くという意識の中で、「 持続 」として現れ、その「 持続 」が「 価値観 」であり、それが見ると聴くという気(ki)を接着して意識と無意識の総体としての「 気持ち 」を形成すると考える。

「 価値観 」が対立するストレス状態とは、違う気(ki)を含んだ「 価値観 」の対立で、「 気持ち 」か崩れる状態であるが、新しい「 気持ち 」への統合の機会でもあると考える。

新しい「 気持ち 」への統合とは、DNA の中の、「転写 」や「 翻訳 」などの、自己増殖を想定し、「 気持ち 」が崩れる状態とは、宇宙の「 重力波 」によるエネルギー喪失を想定し、二つの「 価値観 」が、一つに統合する事であると考える。

ニュートンの万有引力が、地球上の運動と宇宙の運動を結んだように、重力を「 価値観 」と考えて、宇宙の運動を模倣して考えた。

二つの眼から入った力線は、欲の拡大か縮小であるから、欲の実現に対して、強い、時間的には短い加速度を持っている「 価値観 」であり、従来の「 価値観 」による欲の実現する加速度と対立する。

それぞれが、「 重力波 」としてエネルギーを放出しながら、統合するとは、対立する「 気持ち 」の価値観という無意識から、「 意識 」という「 光 」により、エネルギーを放出して、具体的にはストレスを言葉に表現して、欲を実現する加速度を弱くして、統合するのが「 妥協 」であると考える。

私の現在の考えは、行為は「 妥協 」であり、「 妥協 」は、「 欲 」を実現する時間的加速度を一つに統合する事になる。

参考


重力波 (Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%8A%9B%E6%B3%A2_(%E7%9B%B8%E5%AF%BE%E8%AB%96)

重力波は、巨大質量をもつ天体が光速に近い速度で運動するときに強く発生する。

例えば、ブラックホール、中性子星、白色矮星などのコンパクトで大きな質量を持つ天体が、連星系を形成し、重力波によってエネルギーを放出しながら、最終的に合体することが考えられる。


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2009年09月29日

2009/9/29、オカルト(二本足の考え)霊と価値観A

これは、フィクションです。

2009/9/28、霊と価値観
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8798313.html

ここで、「 力 」は、「 霊 」であると考えますと、「 今 」という時点の意識と無意識の二つの焦点から発する信号が、「 持続 」するのは、「 霊 」という「 力 」であり、その「 持続 」により記憶や想起という感受性が生じると思います。

「 霊 」は「 力 」で、「 持続 」という形態を採ると考えます。

「 持続 」が、私の頭脳では理解する事が出来ない天体の重力であれば、太陽や地球の「万有引力」が、「持続」でしょう。

それに類似したものを「 意識 」の中で考えると、「価値観」だろうと思います。

「 価値観 」の性質が「 力 」であり、その「 持続 」という形態が及ぶ範囲が、価値観の範囲であり、「 力 」の大小が、価値観の大小だと思います。

以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

2009/9/29、私の考え

「 価値観 」と「 力 」は同一であり、前者は意識の中で、記憶などの感受性の「 持続 」という形態で現れ、後者は「 持続 」を成立させる「 霊 」だと考えます。

二つの眼から入った力線が霊であるから、意識の中で「 持続 」を成立させていた「 力 」という霊と衝突して、「 価値観 」が対立するストレス状態になる。

「 矛盾 」は、このストレスであり、意識ではなくて、霊の対立となる。

二つの眼から入った力線は、欲の拡大か縮小であり、行為の選択であるが、意識の中の「 価値観 」の対立を総括した「 価値観 」が、「 欲 」というDNAの霊の拡大や縮小を実現する「 力 」という眼には見えない霊として現れる。

「 価値観 」と「 力 」は重なり、「 表 」と「 裏 」の関係であるが、意識と無意識だから、互いに破壊する関係だと考えます。

二つの眼で見えるのは、意識の世界であり、「 行為 」や「 欲望 」だが、実際に、「 行為 」や「 欲望 」を決定するのは、無意識の霊である「 力 」や「 欲 」である。

そして、無意識の霊である「 力 」や「 欲 」は、人間に共通の、人と人を結び、人が理解し合う霊界の作用であり、否定すべきは、計算可能の精神と連結した「 価値観 」や「 欲望 」であると思います。

参考

「欲」
2009/8/18、オカルト(二本足の考え)歩く C
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8672882.html


以前、書きましたが、「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は直ちに「 欲 」となりますが、「 欲望 」になった時、「 意識 」に「 利己心 」という不純物が混入し、不透明になる場合が多いと思います。

私は、仏教の「 八正道 」は、「 涅槃 」という悟りを得るための修行ではなく、「 清浄な欲 」を持つための無意識の行為の鍛錬であると考えている。


二つの眼の「無常」を理解したら、それにより得られる効用を喜ぶ事や貪る(covet)(greedy for)事を「 嫌だ 」と思い、自分との距離を遠くする、つまり「離れる」方が良い。

その場の「 光景 」に一喜一憂したり、これを契機に「喜び」を貪欲に追求しようとする態度をしない方が、「 心 」の為に良い。

現象に一喜一憂して「喜び」を「貪る(covet)(greedy for)」べきでないと考えると、「 欲望 」は否定するが、「正しく解脱しよう」という「 欲 」は否定していないと思う。

「日常性」の否定とは、「欲望で行為する日常生活」の否定であり、解脱しようという「 清浄な欲 」に近づくための「 正見 」であると解釈する。


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2009年09月28日

2009/9/28、オカルト(二本足の考え)霊と価値観

これは、フィクションです。

2009/9/26、私の記事

ここで、「 力 」は、「 霊 」であると考えますと、「 今 」という時点の意識と無意識の二つの焦点から発する信号が、「 持続 」するのは、「 霊 」という「 力 」であり、その「 持続 」により記憶や想起という感受性が生じると思います。

「 霊 」は「 力 」で、「 持続 」という形態を採ると考えます。

「 時間 」は、全ての物体の「 持続 」ではなくて、瞬時の「 時間意識と空間意識のサイカーブが交差して認識が成立する瞬間を接着する力 」(眼の残像のような惰性力)という「 霊 」が現れる「 持続 」の形態であると考えます。

私は、不連続の「 意識 」の中で「 持続 」を解決する事は出来ず、「 時間 」でもなくて、「 持続 」は「 霊 」の形態であると考えます。

私が、意識や考えを持続するのは「 記憶力 」でしょうが、記憶という意識が「 力 」により「 持続 」されるのは、「 霊 」が「 持続 」として現れるのだと考えます。

また、「 力 」は、「 選択 」や「 決定 」であり、一つを採用して他の物を破棄します。

新陳代謝の「 破壊 」も、この「 力 」という「 霊 」の存在を考えます。


2009/9/28、私の考え

この「 持続 」を、どのように考えるかが問題です。

「 力 」は「 霊 」であり、身(身体)口(言葉)意(意識)の中では、「 持続 」という形態で現実に現れると考えます。

「 持続 」は、意識の「 力 」であれば、「 力 」は「 霊 」であるから、意識ではないと思います。

「 持続 」が意識なら、持続する理由を問えば、「 好き 」や「 嫌い 」という感情になるだろうが、それは「 意識 」ではありません。

「 持続 」が、私の頭脳では理解する事が出来ない天体の重力であれば、太陽や地球の「万有引力」が、「持続」でしょう。

それに類似したものを「 意識 」の中で考えると、「価値観」だろうと思います。

「 価値観 」の性質が「 力 」であり、その「 持続 」という形態が及ぶ範囲が、価値観の範囲であり、「 力 」の大小が、価値観の大小だと思います。


「 力 」は無意識ですが、人間は、意識として「 力 」を道具として計算された力に変化させ、無意識の価値観を「意識の価値観」に変化させ、無意識の「 欲 」を、意識の「 欲望 」に変えて、意識により計算された「 力 」を「 欲望 」の達成に使います。

こうして、無意識の「 霊 」である「 力 」を、「 道具 」として所有し「 欲望 」を達成する時、人間が持つ「 正見 」から得られる生命力を汚す「 執着 」や「利己心」が発生すると考えます。

純粋無垢の「 霊 」を、「 意識 」の中に計算して利用するから、人間は精神的な動物だが、「霊的存在」ではないと思います。


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2009年09月24日

2009/9/24、オカルト(二本足の考え)情(zyou)

2009/7/20、気(ki)と情(zyou)と霊とエーテル体

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8585843.html

A
情(zyou)は、「物語」として考えています。

人間と動物の間に、「会話」という「物語」はありませんが、猟犬や番犬のように、動物同士の意思疎通は存在すると思います。

それを含んで情(zyou)を考えますと、生命体同士の意思疎通の「物語」が情(zyou)であります。

人間の「物語」は、ゲームのように始めと終わりがあり、「任意に」区切る事が出来ると思います。

また、情報(zyouhou)としての情(zyou)は、言語では「範疇」や「概念」であり、内容の「実体」は情(zyou)ではないと思います。

「実体」は、「無意識の欲」が決定し、意識や精神は始めと終わりで区切るしか出来ないと思います。

つまり物質が脳や言葉の中に入るのではなく、物質を実数と考えると、虚数として頭脳で理解されると思います。

だから、「物語」であり、「フィクション」であると思います。

「実体」が「無意識の欲」で決まると、客観的な情報にするため、物質の周波数や熱などで「実体」の内容を決めますが、これは社会生活の為であり、個人の内容としてはDNAの数だけ相違すると思います。

私は、そこに「直感」の働く場所を作ります。

また、情(zyou)は、情事(zyuzi)という言葉が、SEXを意味する言葉ですから、大変、人間的な情報だと考えています。

C

意識と無意識の領域も、RNA とDNA の関係で説明が可能かも知れません。

例えば、二重らせん構造が自意識あるいは「時間意識」と「空間意識」で、紡錘体があるとすれば、それが五感という意識で、塩基対が「実体」であるなどと考えます。

そして、RNA は、DNAという意識が拡大する時であり、転写が完成し翻訳された時、新たなニューロンの回路が成立した場合かも知れません。

そして、人体が全てDNA に満たされていると考えると、人体の全てが、意識を感じる器官となり、「人間は霊的動物である」と考える事が出来ます。



2009/9/24、私の考え

C「意識と無意識」については、「 二本足の考え 」の中で書きました。
「 人体 」が、意識と無意識の構造であり、意識が「 頭脳 」で発生し、意識が無意識と一緒に身(身体)口(言葉)意(意識)として現れるのが、人体の外部であると考えます。

意識と無意識は、「 二本足の考え 」で、二つの焦点を持ち、その焦点が、DNAの二つの逆向きのヌクレオチド鎖であり、その構造は「 人体 」の「 動脈 」と「 静脈 」で、それぞれの「 毛細血管と細胞 」は、気(ki)が色即是空で表現される現実で、「 肺 」が、色即是空として気(ki)が融合し、個人的な「 気持ち 」や社会の「 精神 」が融合する「 頭脳 」であると考えます。

DNAの二つの逆向きのヌクレオチド鎖を「 動脈 」と「 静脈 」と考え、連結する「 肺 」と「 毛細血管 」の部分が、「 塩基を中心に向けた水素結合 」であり、「 意識の全体 」と「 無意識の全体 」の焦点の結合と考えます。

人体が全て「 動脈 」と「 静脈 」、つまりDNA に満たされていると考えると、人体の全てが、意識を感じる器官となり、「人間は意識を持つ動物である」という事になります。

2009/9/23 「DNA と意識 B」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8777889.html


Aの情(zyou)は、物語である事は変更しません。

「 物語 」の最初と最後を区切るのは、決断する「 行為 」であり、「 欲 」という「無意識」だと思います。

これは、「 二本足の考え 」で書きましたように、物語を区切る「 無意識 」は、「 色即是空 」が成立する無意識であり、DNA の意識と無意識が結合する所で、「 頭脳 」であり、身(身体)口(言葉)意(意識)と同等な「 毛細血管が連結する場所 」であります。

区切るのは、ヌクレオチド鎖が発する「 意識と無意識 」であり、物理的には「 意識 」を生む「 頭脳 」と、「 無意識 」を生む「 人体 」であり、「 色即是空 」が成立する、意識と無意識の融合点であると考えます。

区切った物語は、「言葉」や「文字」という通信手段となり、意味が個人により変容されるから、「意味」を定義して通信手段としたり、時間を時計で定義したり、「楽譜の音符」として記述する事により、「 感情 」を通信手段とすると思います。

前者が、科学や文学などの精神的な学問であり、後者は音楽であると思います。

情(zyou)は、個人により、「 翻訳 」が可能で、世界各国の習慣や言葉や感情や感受性により「 翻訳 」されるため、発信者と翻訳者に違った直感が生じ、それが誤解や歪曲となり、結果としての「 行動 」の違いになると思います。

「 翻訳 」は、「無意識」により決定され、情(zyou)の中の気(ki)が、無意識と連結しているので、妥当な行為は、無意識の「 心 」や「 気持ち 」(気(ki)を持つ(hold)事)を哲学し、「純粋な欲」を知る事から始まると思います。

これは、精神社会の学問により、解明されると思いますが、私が不満に思うのは、「 時間 」や「 空間 」が解明されていないので、学問で追求しても、永久に砂上の楼閣に終わるだろうという事です。

学問の基礎を破る直感が、特別に存在するとは思いません。

「 翻訳 」は、「無意識」により決定され、状況に応じて変化するから、絶えず直感は生まれていると思います。

情(zyou)は、情事(zyouzi)がSEXを表現するように人間的です。

「 自分が、なぜ、性的魅力を感じるか 」については、「 単純化 」の記事で、多少、追求する事が出来ると考えます。

2009/9/8・単純化
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8735095.html


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2009年09月23日

2009/9/23、オカルト(二本足の考え)DNAと意識 B

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
生物の話をするが、生物学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/9/17、DNAと意識A

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8760902.html

「 焦点 」と考えていた「 点 」が、DNA の「 塩基を構成単位としたヌクレオチド鎖」であり、その鎖が塩基を中心に向けて水素結合し、二つの鎖は、常に逆向きに結合していれば、私の考えを変更する。

DNA を、水平面で切った状態を考えたとき、二つの「 点 」が、「 二つのヌクレオチド鎖の横断面 」であり、「 楕円の二つの焦点の連結 」は、「 ヌクレオチド鎖が塩基を中心に向けた水素結合 」であり、楕円状のラグビー・ボールは、ヌクレオチド鎖の長さに対応した、長い円筒状になる。

「焦点と焦点の距離」は、「塩基の水素結合している距離」と考えます。

「 点 」ではなくて、「 鎖の断面 」であると考えると、形状も、円筒形になる。

2009/9/23、私の考え

では、「 ヌクレオチド鎖が塩基を中心に向けた水素結合 」であり、楕円状のラグビー・ボールは、ヌクレオチド鎖の長さに対応した、長い円筒状とは、何か?

私は、顕微鏡で、DNA を見たことがないから、「 創造 」する事は出来ないが、現実の何かを想像して書きます。

私は、DNA の二重のヌクレオチド鎖を、「 人体 」の「 動脈 」と「 静脈 」のような構造を想像します。

「 動脈 」と「 静脈 」は血液の流れは逆向きで、「 肺 」が大気(taiki) という気(ki)を血液に取り入れて、「 動脈 」が体内の毛細血管に気(ki)を運んで細胞を活発化した後、老廃物を毛細血管から「 静脈 」に運び「 肺 」へと戻ります。

私は、意識の「 動脈 」と「 静脈 」を考え、「 動脈 」が意識のヌクレオチド鎖ならば、「 静脈 」は無意識のヌクレオチド鎖であり、一方の先端が毛細血管で、他方が「 肺 」で連結すると考えます。

この連結が、「 塩基を中心に向けた水素結合 」であり、「 意識の全体 」と「 無意識の全体 」の焦点の結合と考えます。

「 毛細血管 」が、「意識が、直ちに無意識となり」、気(ki)が、身(身体)口(言葉)意(意識)として外部に現れる面であり、「 肺 」は、「無意識が、直ちに意識となる」頭脳であると考えます。

「 人体 」が、意識と無意識の構造であり、意識が「 頭脳 」で発生し、意識が無意識と一緒に身(身体)口(言葉)意(意識)として現れるのが、人体の外部であると考えます。

意識と無意識は、「 二本足の考え 」で、二つの焦点を持ち、その焦点が、DNAの二つの逆向きのヌクレオチド鎖であり、その構造は「 人体 」の「 動脈 」と「 静脈 」で、それぞれの「 毛細血管と細胞 」は、気(ki)が色即是空で表現される現実で、「 肺 」が、色即是空として気(ki)が融合し、個人的な「 気持ち 」や社会の「 精神 」が融合する「 頭脳 」であると考えます。

DNAの二つの逆向きのヌクレオチド鎖を「 動脈 」と「 静脈 」と考え、連結する「 肺 」と「 毛細血管 」の部分が、「 塩基を中心に向けた水素結合 」であり、「 意識の全体 」と「 無意識の全体 」の焦点の結合と考えます。

「 人体 」を流れる血液が「意識と無意識」の中では、気(ki)であり、意識と無意識が融合した「現実」は、気(ki)が新陳代謝して循環する、煩悩の台風であると考えています。



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2009年09月17日

2009/9/17、オカルト(二本足の考え)DNAと意識A

これは、フィクションです。

2009/9/16、私の考え

「意識」の形態をRNA 、「無意識」の形態をDNA だと考えます。

無意識のDNA が二つの眼により取り入れたストレス(霊)を発散させる時、DNA 自体が「光(量子)」や「情(zyou)」を流すフィラメントになり 無意識の DNA の二重らせんの一つに「気持ち」という状態から「意識」のRNA を「 生む 」と考えます。

「生む」とは、一方の焦点から出た意識が、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮に反射されて、他方の焦点に影響する事で、その「 伝達する物 」が、DNA や RNA の「らせん構造」だと思います。

「らせん構造」は、「電磁波」の構造に似ているし、二重のらせんが、符号を逆にしているのは、反射を表し、認識には回転が、知識には弁証法が必要である事を意味すると考えます。

一本の「らせん」の存在が、波動関数のような存在であり、二重らせんは、「意識」と「無意識」の存在であると考え、「意識」が、直ちに「無意識」となり、「無意識」が、直ちに「意識」となるのも、それらは、DNA の「 二重らせん 」であるからだと考えます。

そして、「二重のらせん」の距離が、「意識」と「無意識」の焦点の距離であると考えます。


それらが、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮に反射されて、直ちに「 意識 」や「 無意識 」となる事から、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮は(頭脳の連合野かも知れませんが)、「 霊界 」であると考えます。

2009/8/17、私の考え

生命体の活動は、脳や脳幹の活動であると思うが、DNA やRNAが解明される事により、「 意識 」の発生が説明されると思います。

私は、学んでいないので、間違いだと思うのですが、空想で書きます。

DNA を「 心 」と考えますと、「二本足の考え」で、「意識の座標」と「無意識の座標」を焦点とした楕円状のラグビー・ボールを考えていましたが、大きく変更する必要があります。

「 焦点 」と考えていた「 点 」が、DNA の「 塩基を構成単位としたヌクレオチド鎖」であり、その鎖が塩基を中心に向けて水素結合し、二つの鎖は、常に逆向きに結合していれば、私の考えを変更する。

DNA を、水平面で切った状態を考えたとき、二つの「 点 」が、「 二つのヌクレオチド鎖の横断面 」であり、「 楕円の二つの焦点の連結 」は、「 ヌクレオチド鎖が塩基を中心に向けた水素結合 」であり、楕円状のラグビー・ボールは、ヌクレオチド鎖の長さに対応した、長い円筒状になる。

「焦点と焦点の距離」は、「塩基の水素結合している距離」となります。

「 点 」ではなくて、「 鎖の断面 」であると考えると、形状も、円筒形になる。

これは、DNA という「 心 」の中の「意識と無意識」の話だが、同じ事が、RNA という「 意識 」の中の「意識と無意識」についても考えられるが、A型とB型の違いで、安定性に違いが出ると思うが、後日、考えます。


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2009年09月16日

2009/9/16、オカルト(二本足の考え)DNAと意識

これは、私だけの、世界で一つのオリジナルなフィクションです。


2009/9/15、オカルト(二本足の考え)混乱

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8756980.html

DNAの説明は、「 心 」を表現する阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA の説明は、「 意識の機能 」である末那識(manasiki)であると、私は考えます。

「 意思 」としての意識や無意識が、DNA やRNA という「 形態 」として存在すると思います。

DNA を意識に分解すれば、阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA を意識に分解すれば末那識(manasiki)であると思います。

「 意識 」が「 細胞の核 」となって、身体全体を構成していると思います。

その「 細胞の核 」は「 二重らせん 」であり、可視光線と同じ単位で計測される長さを持っています。

これは、「 光 」が「 二重らせん 」という形態に具現化したと考えます。


そして私は、DNA はフィラメントであり、気(ki)というエネルギーが流れると考え、DNA の長さは、細胞と結合する事により、頭脳から身体の全体にまで伸びると考えます。

神経は、DNA が結合した細胞と考え、刺激が「 光 」の速さで、身体を貫通する。

体内の「 光ファイバー網 」が神経と考えますと、
体内では、遥か古代に、光ファイバー網が完成していたのです。

その周りに、「 意識 」という電磁波を発生させると思います。

2009/8/26、オカルト(二本足の考え)要約

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8696240.html

「二本足の考え」とは、意識の「 気持ち 」の中心と、無意識の「 気持ち 」の中心が、直線上に存在し、身(身体)口(言葉)意(意識)を「 外界 」との境界にして、それを円周とした楕円状のラグビー・ボールであり、一方の中心から発した意識の衝撃波は境界で反射され、複素数の二乗のように符号が変わり、逆方向になり他方の中心を破壊して、「 気持ち 」を破壊したり、意識や無意識の感受性を増幅させて刺激すると言う考えです。

この衝撃波は、「二本足が歩く時」に書きますが、単純なものです。

私は、「意識は電磁波である」という考えですから、それぞれ、二つの中心(焦点)から意識の光を発して球状になり、意識と無意識は重なるが、相違する所もあり、地球のように楕円形をしているのが「意識の総体」である「霊」であり、二つの中心(焦点)から意識の光を発するのは「 今 」という現在からであると考えます。

電磁波のように進む先端から、記憶や想起や不安という「感受性」を、進行方向とは逆の過去に向けて発信し、突き上げる意識により、自分が自分であると確認しているのが「 自意識 」であると考えます。

「 外界 」とは「 今 」と言う現実世界です。

「 気持ち 」とは、漢字で書きますと、気(ki)を持つ(hold) で、持つ(hold)事を可能にしているのは、意識では記憶でしょうし、無意識では「好き」や「嫌い」という感情だと思います。

意識は主に「大脳皮質と連合野」で生まれ、無意識は主に「脳幹」で生まれ、前者は「 論理 」、後者は「 感情 」を特徴とすると思います。

無意識は、エネルギーとしての気(ki)と、DNAという生命を原因とする「 霊 」から構成されると考え、二つの「 感受性 」を必要とすると考えます。

ですから、「好き」や「嫌い」の感情は、気(ki)の感受性の方向と「霊」の感受性の方向に対する現実を見る「二つの眼」から取り入れた気(ki)により生まれると思います。

それが、「 ストレス 」である事は、以前、書きました。


2009/9/16、私の考え

「意識の座標」と「無意識の座標」が楕円の方程式で結ばれた楕円状のラグビー・ボールであり、一方の焦点から出た意識が、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮に反射されて、他方の焦点に影響すると思うが、「意識」や「無意識」や「表皮」や「伝達する物」について考えました。

「意識」の形態をRNA 、「無意識」の形態をDNA だと考えます。

無意識のDNA が二つの眼により取り入れたストレス(霊)を発散させる時、DNA 自体が「光(量子)」や「情(zyou)」を流すフィラメントになり 無意識の DNA の二重らせんの一つに「気持ち」という状態から「意識」のRNA を「 生む 」と考えます。

「生む」とは、一方の焦点から出た意識が、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮に反射されて、他方の焦点に影響する事で、その「 伝達する物 」が、DNA や RNA の「らせん構造」だと思います。

「らせん構造」は、「電磁波」の構造に似ているし、二重のらせんが、符号を逆にしているのは、反射を表し、認識には回転が、知識には弁証法が必要である事を意味すると考えます。

一本の「らせん」の存在が、波動関数のような存在であり、二重らせんは、「意識」と「無意識」の存在であると考え、「意識」が、直ちに「無意識」となり、「無意識」が、直ちに「意識」となるのも、それらは、DNA の「 二重らせん 」であるからだと考えます。

そして、「二重のらせん」の距離が、「意識」と「無意識」の焦点の距離であると考えます。


それらが、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮に反射されて、直ちに「 意識 」や「 無意識 」となる事から、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮は(頭脳の連合野かも知れませんが)、「 霊界 」であると考えます。


こうして、身(身体)口(言葉)意(意識)という表皮、ラグビー・ボールが、認識が成立する「 霊界 」であり、その内部が、個人の感受性によって切り取られた「 内なる宇宙 」であると考えます。

それは、電離層が「 霊界 」であり内部は人間が生きる「 大気圏 」、そして、頭脳の連合野が「 霊界 」であり、脳や脳幹が「意識や無意識の世界」であるという考えと構造が似ていると、私は、考えます。


私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

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2009年09月15日

2009/9/15、オカルト(二本足の考え)混乱

2009/7/4、オカルト(統合)創作(二本足の考え)
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8537304.html

これは私の、独自の考えです。

私は、楕円に二つの中心があるように、私の考えも、二つの座標で考えました。

それは、ラグビーのボールのように立体的に考えています。

「精神の座標」は、時間意識と空間意識が電磁波の構造を作り情(zyou)を過去から現在や未来へと運びます。

その座標軸は「本能の座標」の「好き」と「嫌い」の合力である生命のベクトルであると考えています。

生命のベクトルが、「精神の座標」の周期や速さを決定します。

生命のベクトルが、エネルギーであるかも知れません。

「本能の座標」を、気(ki)とDNAの「霊」で構成し、前者は空間的な無意識、後者は時間的な無意識です。

現実社会で、「色」を見た場合、その色の印象は各自、DNA の数と同じほど違い、「個性的」ですが、「色」や「形」は、社会的な教育が原因で、言葉を使いますから、社会的な情報です。

意識の世界は、情(zyou)で、「物語」です。

「意識の座標」の「色の名前」や「形」は情(zyou)として、情報として伝達し、DNAの数と同じ「個性的な色」は、無意識の領域で、写真のように印象として残ると思います。

私は「実体」の認識は社会的ですが、外部の色が「個性的な色」であるという判断は「無意識」により行われ、無意識により決定されると思います。

無意識の世界は、気(ki)が、外部と体内を連結しています。


これは、私の独自の解釈です。


2009/9/8、オカルト(二本足の考え)単純化
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8735095.html


人間は、二つの眼で「遠近感」や「大小の比較」をしますが、それから得るベクトル(力線)は、人間だけに理解する方向であり、自分を導く方向だから、「意識」の「気持ち」という座標で解決する、つまり頭脳で考えても方向を理解する事は出来ない「 霊 」だから、眼から入ったベクトル(力線)は、「無意識」の「気持ち」という座標の中で、ストレス、欲求不満になる。

「無意識」の中で、欲求不満が「嫌な感じ」とか「良い感じ」と言う「気持ち」を作る。

その「無意識」の「気持ち」が、「意思は形態として具現化する」から、身(身体)口(言葉)意(意識)に、欲求不満の解消として現れる。

その欲求不満の解消の行為から、「意識」は、「無意識」を知り、意識の座標(気持ち)は、無意識の座標に重なり、楕円型の意識の総体となる。

そして、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れる行為を、「意識的」に制御する事により、「無意識」の気持ち(座標)を改善する。

あるいは、気持ち(座標)の方向の「 霊 」を変える事が出来る。

楕円型の意識の総体とは、「意識」も「無意識」も、「 今 」から発した「波」が、身(身体)口(言葉)意(意識)に衝突した反応を感じる「 感受性の総体 」である。

「意識」と「無意識」が違うのは、「感受性」の性質であり、前者は「 思考の論理や合理性 」を確保する記憶や想起であり、後者の感受性は、「気(ki)を感じる力(霊)」であり、「先祖代々のDNA」から生じる「人を感じる力(霊)」であると、現時点では思っている。

2009/9/13、オカルト(二本足の考え)言葉・文字・意味A
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8749332.html

共通した「音」は、周波数であり、文字は周波数の形態と考えると、文字と言葉は、周波数というエネルギーで統一され、気(ki)を保持すると考えます。


文字を言葉に変換する時、口で発音しながら、耳で「音」を聞きますが、文字という形態の気(ki)というエネルギーを、ストレスという形態の気(ki)に変換していると考え、そのストレスが、「 心 」であり、意識の総体の「 霊 」だと思います。



意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。



2009/9/14、オカルト(二本足の考え)否定された仮説
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8752474.html

@ 2009/9/13、私の考え

文字は、他者への情報の伝達であり他者の無意識の補填を必要とするが、言葉は、自己の無意識を意識に変換する行為であると考えます。

文字には、社会で通用する「韻」があり、「発音」して言葉として他者に伝達されるから、文字と言葉は、「音」という共通部分を持っていると考えます。

但し、意味は、文字では取得方法まで定義された情報であり、人類共通の意識であり、言葉の意味は、ストレス(体験)という個人的な無意識の感情であると思います。

文字は、意識が必須の要件であるが、言葉は、意識的な意味の表現だけでなく、無意識の感情の言葉(例えば「好き」や「嫌い」など)も存在します。


共通した「音」は、周波数であり、文字は周波数の形態と考えると、文字と言葉は、周波数というエネルギーで統一され、気(ki)を保持すると考えます。


文字を言葉に変換する時、口で発音しながら、耳で「音」を聞きますが、文字という形態の気(ki)というエネルギーを、ストレスという形態の気(ki)に変換していると考え、そのストレスが、「 心 」であり、意識の総体の「 霊 」だと思います。



意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。


Aこれまで否定されている仮説( Wikipedia から引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E5%8A%B9%E6%9E%9C

モーツァルト効果(モーツァルトこうか)とは、モーツァルトに代表されるクラシック音楽を聴くと頭が良くなる、と主張される効果。


(引用を終わる)

2009/9/14、私の考え

意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。


私の考えは、オカルト的で、何の根拠もありません。

@のように、意識が運ぶエネルギーが周波数であると考え、Aの否定された仮説を、一つの感覚器官から得られた情報が他の感覚器官からの情報と関連していると考えます。

私は、耳が周波数を「脳」の為に意識に変換し、眼や身体からの情報が周波数というエネルギーを「脳」の為に意識として変換されるならば、共通の意識が存在するという意味で、Aの否定された仮説を支持します。

実際、私は音楽を聴きながら思索していますが、音楽を聴いただけでは、思索に影響しません。

私は、考えながら、音楽を聴きます。

私の感覚では、音楽のメロディを曲線とすると、その接線で、音楽の気(ki)が、思索の言葉の気(ki)を前進させて、思索が進むように感じます。

その範囲で、「モーツアルト効果」を是認します。

2009/6/3・オカルトの展開(気は生命の印)DNA 2
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8440965.html

2009/6/3・考えた事。

私の記事を、Yahoo USA は掲載してくれました。

私は、これを応援だと思い、先を書こうと思います。



Wikipedia に次のような記述を発見しました。


DNAとRNAはともにヌクレオチドの重合体である核酸であるが、両者の生体内の役割は明確に異なっている。

DNAは主に核の中で情報の蓄積・保存、RNAはその情報の一時的な処理を担い、DNAと比べて、必要に応じて合成・分解される頻度は顕著である。

DNAとRNAの化学構造の違いの意味することの第一は「RNAはDNAに比べて不安定である」。

両者の安定の度合いの違いが、DNAは静的でRNAは動的な印象を与える。

(引用を終わります)

DNAの説明は、「 心 」を表現する阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA の説明は、「 意識の機能 」である末那識(manasiki)であると、私は考えます。


「 意思 」としての意識や無意識が、DNA やRNA という「 形態 」として存在すると思います。

DNA を意識に分解すれば、阿頼耶識(arayasiki)であり、RNA を意識に分解すれば末那識(manasiki)であると思います。

「 意識 」が「 細胞の核 」となって、身体全体を構成していると思います。

その「 細胞の核 」は「 二重らせん 」であり、可視光線と同じ単位で計測される長さを持っています。

これは、「 光 」が「 二重らせん 」という形態に具現化したと考えます。



そして私は、DNA はフィラメントであり、気(ki)というエネルギーが流れると考え、DNA の長さは、細胞と結合する事により、頭脳から身体の全体にまで伸びると考えます。

神経は、DNA が結合した細胞と考え、刺激が「 光 」の速さで、身体を貫通する。

体内の「 光ファイバー網 」が神経と考えますと、
体内では、遥か古代に、光ファイバー網が完成していたのです。

その周りに、「 意識 」という電磁波を発生させると思います。

2009/7/5、オカルト(統合)創作(二本足の考え)A
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8538322.html

私は、現時点で不明な事は、DNAが原因であると考えています。

DNA が何故、二重のらせん構造なのかも不明であるし、現時点で不明なものは全部、DNA が原因だと思っています。

DNA の性質は、生物の本能だと思うし、二重のらせん構造が、他方を欠損した時に、修復を可能とする働きであれば(例えば腎臓)、片方の眼や耳が欠損しても、他方で補う事が出来ます。

私は、この二重らせんの構造が、人体を右と左に臓器を持つ原因だろうと思っています。

身体が二つの構造ならば、精神も、意識と無意識の二重構造であり、楕円のように二つの中心を持っていると考えるのも許されると、私は思っています。

それで………
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2009年09月14日

2009/9/14、オカルト(二本足の考え)否定された仮説

@ 2009/9/13、私の考え

https://blog.dion.ne.jp/pages/my/blog/article/edit/input?id=8749332

文字は、他者への情報の伝達であり他者の無意識の補填を必要とするが、言葉は、自己の無意識を意識に変換する行為であると考えます。

文字には、社会で通用する「韻」があり、「発音」して言葉として他者に伝達されるから、文字と言葉は、「音」という共通部分を持っていると考えます。

但し、意味は、文字では取得方法まで定義された情報であり、人類共通の意識であり、言葉の意味は、ストレス(体験)という個人的な無意識の感情であると思います。

文字は、意識が必須の要件であるが、言葉は、意識的な意味の表現だけでなく、無意識の感情の言葉(例えば「好き」や「嫌い」など)も存在します。


共通した「音」は、周波数であり、文字は周波数の形態と考えると、文字と言葉は、周波数というエネルギーで統一され、気(ki)を保持すると考えます。


文字を言葉に変換する時、口で発音しながら、耳で「音」を聞きますが、文字という形態の気(ki)というエネルギーを、ストレスという形態の気(ki)に変換していると考え、そのストレスが、「 心 」であり、意識の総体の「 霊 」だと思います。



意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。


Aこれまで否定されている仮説( Wikipedia から引用)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A1%E3%83%AB%E3%83%88%E5%8A%B9%E6%9E%9C

モーツァルト効果(モーツァルトこうか)とは、モーツァルトに代表されるクラシック音楽を聴くと頭が良くなる、と主張される効果。

1990年代に行われた心理学研究に端を発するが、徐々に拡大解釈されるようになり、現在では音楽産業や教育分野で消費者の関心を惹くために喧伝されることが多い。

「The Mozart effect」は米国のドン・キャンベルによって商標登録されている


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E6%84%9F%E8%A6%9A

共感覚(きょうかんかく、synesthesia, synæsthesia)とは、ある刺激に対して通常の感覚だけでなく異なる種類の感覚をも生じさせる一部の人にみられる特殊な知覚現象をいう。

例えば、共感覚を持つ人には文字に色を感じたり、音に色を感じたり、形に味を感じたりする。


神経学者のリチャード・E. シトーウィックは、共感覚の診断のために用いる基準を以下のように決定した。

1. 共感覚者のイメージは空間的な広がりをもち、はっきりと限定されたロケーション(位置)を特定できることが多い。
[訳註]共感覚者は空間的なイメージの中で、自分の位置している場所がはっきりと分かる。

2. 共感覚は無意識的に起こる。

3. 共感覚の知覚表象は一貫性がある。

4. 共感覚はきわめて印象的である。

5. 共感覚は感情と関係がある。

シトーウィックは、空間の広がりを見据えた実験を提言したが、最近の多くの研究はこれを正しくないとしている。

例えば、共感覚者の中には文字の色や、単語の味が「わかる」のであり、実際に視覚器や味覚器で感じているわけではないのである。

(引用を終わる)





2009/9/14、私の考え

意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。


私の考えは、オカルト的で、何の根拠もありません。

@のように、意識が運ぶエネルギーが周波数であると考え、Aの否定された仮説を、一つの感覚器官から得られた情報が他の感覚器官からの情報と関連していると考えます。

私は、耳が周波数を「脳」の為に意識に変換し、眼や身体からの情報が周波数というエネルギーを「脳」の為に意識として変換されるならば、共通の意識が存在するという意味で、Aの否定された仮説を支持します。

実際、私は音楽を聴きながら思索していますが、音楽を聴いただけでは、思索に影響しません。

私は、考えながら、音楽を聴きます。

私の感覚では、音楽のメロディを曲線とすると、その接線で、音楽の気(ki)が、思索の言葉の気(ki)を前進させて、思索が進むように感じます。

その範囲で、「モーツアルト効果」を是認します。

「 共感覚 」は、モーツアルト効果には関係しないと思いますが、現時点では、感覚は共通なエネルギーを持つ事を学んで、「 共感覚 」については、後日、少し書く予定です。

Every miller draws water to his own mill.
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2009年09月13日

2009/9/13、オカルト(二本足の考え)言葉・文字・意味A

「二本足の考え・言葉・文字・意味」
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8747160.html

この段階は、「発音」という「音波」の世界であり、「言葉」の意味は個人的な無意識であるが、精神社会では、私のストレス(体験)が、私個人の見解という社会的な「意味」(体験)になります。

2009/9/13、私の考え

言葉は文字に変換され、文字は声として言葉に変換されます。

文字は、他者への情報の伝達であり他者の無意識の補填を必要とするが、言葉は、自己の無意識を意識に変換する行為であると考えます。

文字には、社会で通用する「韻」があり、「発音」して言葉として他者に伝達されるから、文字と言葉は、「音」という共通部分を持っていると考えます。

但し、意味は、文字では取得方法まで定義された情報であり、人類共通の意識であり、言葉の意味は、ストレス(体験)という個人的な無意識の感情であると思います。

文字は、意識が必須の要件であるが、言葉は、意識的な意味の表現だけでなく、無意識の感情の言葉(例えば「好き」や「嫌い」など)も存在します。


共通した「音」は、周波数であり、文字は周波数の形態と考えると、文字と言葉は、周波数というエネルギーで統一され、気(ki)を保持すると考えます。


文字を言葉に変換する時、口で発音しながら、耳で「音」を聞きますが、文字という形態の気(ki)というエネルギーを、ストレスという形態の気(ki)に変換していると考え、そのストレスが、「 心 」であり、意識の総体の「 霊 」だと思います。



意識的な意味を変換して、無意識の「 心 」や「 霊 」というエネルギーを交換していると考えます。

エネルギーを周波数と考え、「 脳 」は、この周波数を交換していると考えると、「 意識は、周波数を運ぶ電磁波であり 」、伝達されるのは、無意識の周波数の「 心 」であると考えます。



間違った考えだと思いますが、現時点の私のブログの方針は、このような結果に到着します。


Every miller draws water to his own mill.


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2009年09月12日

2009/9/12・オカルト(二本足の考え)言葉・文字・意味

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。

私は、世界でただ一つの、オリジナルのフィクションを書き、私の智慧を書くから、知識を求める人は他のブログを見てください。

まず、第一に「 色即是空 」について、自分の考えを形成した後に、私の書く意味を見てください。


http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

その後、以下のように考えました。

二本足の考え・破壊・言葉
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8743568.html

「無意識」の、「 今 」から発した「波」は、物理で使う「音波」であり、「意識」の、「 今 」から発した「波」は、物理で使う「光波」や「電磁波」と考え、それらが、身(身体)口(言葉)意(意識)に衝突した反応が、を感じる「 感受性の総体 」が、それぞれの「意味」であると考えます。

@無意識と言葉

無意識の「気分(kibun) 」が「身(身体)口(言葉)意(意識)」で言葉と意味で具現化しますが、言葉は「発音」され、その意味は、無意識の総体であり、「欲」です。

私は、混濁した無意識のストレス(体験)の中から、欲求不満の解消として、快感や不快感により、ストレス(体験)を切り取り、発音して、言葉という形態で、身(身体)という外界に現れて、無意識の私の「気分(kibun)」を表現する、あるいは代表します。

この段階は、「発音」という「音波」の世界であり、「言葉」の意味は個人的な無意識であるが、精神社会では、私のストレス(体験)が、私個人の見解という社会的な「意味」(体験)になります。

身(身体)口(言葉)意(意識)で具現化した、無意識のストレス(体験)は、鏡で自分の姿を見るように、自分の「意識」の感受性の「電磁波」により、合理化されて、自分の思考となり「意識の座標」の気(ki)になると考えます。


A意識と言葉と意味

言葉が文字として表現されると、文字が持つ定義された意味に変換されて、情(zyou)となって「光波」や「電磁波」の意識で伝達されますが、文字は、発信者のストレス(体験)の、「形」だけを伝達するもので、受け取る人の「無意識」により、補填され、加工され、発信者の「気持ち」とは違った意味になる場合が多いです。

言葉は「音波」の世界で、「文字」は「光波」の世界ですが、意味は、前者ではストレス(体験)であり、後者では、定義された体験であると考えます。

意識により伝達される物は「形」だけで、「実体」は、無意識の気(ki)により把握されると考えます。

実体を決定して行為するのは、「無意識」の力(霊)だと思います。


加工する事が出来ない部分は、発信者の言葉が持つ気(ki)が残り、「 理解不能な個人的見解 」として残りますが、発信者に戻ると、気(ki)が、復活します。

精神意識の世界の文字が、私の身(身体)口(言葉)意(意識)で、気(ki)というエネルギーとして復活しますと、弁証法に似たエネルギー、言い換えると、否定された物を自分が肯定する、自分を変革するエネルギーとなります。

2009/9/12・考えた事

私は、他者と肉体的にも精神的にも、同一になれず、自分が自分を向上させると思っていますので、他者の存在を前提とする「弁証法」は、信じませんので、知識や科学ではありません。

自己同一と言うのは、時間を考慮しない論理学では、常識でしょうが、平面で考えずに、時間を考慮した不連続の中の自己同一を考えると、自己同一は、時間的な存在の人間にとって、「実存」の出発点となります。

他者を介しての自己では無く、「電磁波の構造的に」自己同一であると考えます。

これが、「意識は電磁波である」と言う意味です。

言葉と文字と意味については、既に書きました。

繰り返すと以下の通りです。

…………
言葉が文字として表現されると、文字が持つ定義された意味に変換されて、情(zyou)となって「光波」や「電磁波」の意識で伝達されますが、文字は、発信者のストレス(体験)の、「形」だけを伝達するもので、受け取る人の「無意識」により、補填され、加工され、発信者の「気持ち」とは違った意味になる場合が多いです。

言葉は「音波」の世界で、「文字」は「光波」の世界ですが、意味は、前者ではストレス(体験)であり、後者では、定義された体験であると考えます。

意識により伝達される物は「形」だけで、「実体」は、無意識の気(ki)により把握されると考えます。

…………

プレゼントする物は、包装を開いて、中身を見なければなりません。

それと同じように、プレゼントする物は、「 心 」と言う実体で、それを理解するのは、包装を開く手ではなくて、受け取った人の「 心 」で理解するのです。

手や電話などの伝達手段が、意識的な「言葉や文字」であり、了解するのは、無意識の「 心 」なのだと思います。

それが

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。

私は、「色即是空」を、存在論的にではなく、意識と無意識の関係で考えますから、仏教ではないと思います。


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2009年09月11日

2009/9/11、オカルト(二本足の考え)破壊・言葉C

オカルト(二本足の考え)単純化

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8735095.html

「無意識」の中で、欲求不満が「嫌な感じ」とか「良い感じ」と言う「気持ち」を作る。

その「無意識」の「気持ち」が、「意思は形態として具現化する」から、身(身体)口(言葉)意(意識)に、欲求不満の解消として現れる。

その欲求不満の解消の行為から、「意識」は、「無意識」を知り、意識の座標(気持ち)は、無意識の座標に重なり、楕円型の意識の総体となる。

そして、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れる行為を、「意識的」に制御する事により、「無意識」の気持ち(座標)を改善する。

あるいは、気持ち(座標)の方向の「 霊 」を変える事が出来る。

楕円型の意識の総体とは、「意識」も「無意識」も、「 今 」から発した「波」が、身(身体)口(言葉)意(意識)に衝突した反応を感じる「 感受性の総体 」である。

「意識」と「無意識」が違うのは、「感受性」の性質であり、前者は「 思考の論理や合理性 」を確保する記憶や想起であり、後者の感受性は、「気(ki)を感じる力(霊)」であり、「先祖代々のDNA」から生じる「人を感じる力(霊)」であると、現時点では思っている。

感受性で統合された、「意識」や「無意識」の気持ちを、変革するのが、「 心の新陳代謝 」であり、意識的に変革する事を、私は、「 破壊 」と書いている。

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。


2009/9/11、考えた事

以上の記事の、「 波 」や「 感受性の性質 」について考えました。

私が知っている「 波 」は、物理的な「音波」や「光波」ですが、これが、「意識」や「無意識」の世界で、どのように解釈するかを考えました。

私は、意識の総体の中の「 波 」は、言葉と意味や、文字と意味が、意識から無意識、あるいはその逆へと「 衝撃波 」を伝える役割を果たしていると考えます。

「無意識」の、「 今 」から発した「波」は、物理で使う「音波」であり、「意識」の、「 今 」から発した「波」は、物理で使う「光波」や「電磁波」と考え、それらが、身(身体)口(言葉)意(意識)に衝突した反応が、を感じる「 感受性の総体 」が、それぞれの「意味」であると考えます。

@無意識と言葉

無意識の「気分(kibun) 」が「身(身体)口(言葉)意(意識)」で言葉と意味で具現化しますが、言葉は「発音」され、その意味は、無意識の総体であり、「欲」です。

私は、混濁した無意識のストレス(体験)の中から、欲求不満の解消として、快感や不快感により、ストレス(体験)を切り取り、発音して、言葉という形態で、身(身体)という外界に現れて、無意識の私の「気分(kibun)」を表現する、あるいは代表します。

この段階は、「発音」という「音波」の世界であり、「言葉」の意味は個人的な無意識であるが、精神社会では、私のストレス(体験)が、私個人の見解という社会的な「意味」(体験)になります。

身(身体)口(言葉)意(意識)で具現化した、無意識のストレス(体験)は、鏡で自分の姿を見るように、自分の「意識」の感受性の「電磁波」により、合理化されて、自分の思考となり「意識の座標」の気(ki)になると考えます。


A意識と言葉と意味

言葉が文字として表現されると、文字が持つ定義された意味に変換されて、情(zyou)となって「光波」や「電磁波」の意識で伝達されますが、文字は、発信者のストレス(体験)の、「形」だけを伝達するもので、受け取る人の「無意識」により、補填され、加工され、発信者の「気持ち」とは違った意味になる場合が多いです。

言葉は「音波」の世界で、「文字」は「光波」の世界ですが、意味は、前者ではストレス(体験)であり、後者では、定義された体験であると考えます。

意識により伝達される物は「形」だけで、「実体」は、無意識の気(ki)により把握されると考えます。

実体を決定して行為するのは、「無意識」の力(霊)だと思います。

http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8662357.html

「 欲 」は、直ちに「 意識 」となり、「 意識 」は、直ちに「 欲 」となります。



加工する事が出来ない部分は、発信者の言葉が持つ気(ki)が残り、「 理解不能な個人的見解 」として残りますが、発信者に戻ると、気(ki)が、復活します。

精神意識の世界の文字が、私の身(身体)口(言葉)意(意識)で、気(ki)というエネルギーとして復活しますと、弁証法に似たエネルギー、言い換えると、否定された物を自分が肯定する、自分を変革するエネルギーとなります。

それを、「 個性の変革 」だと考えます。

「個性」として残るとは、DNA の存在の証拠であり、発信者のストレス(体験)は定義する事が不可能である事であり、意味は世界人類のDNAの数と同数だけ存在すると考える。

学術的な専門用語が必要であるが、その反面では、不十分な意味です。

だから、「破壊」する余地があると思います。

学問が、根本的に、間違っている可能性があるからです。

オカルトや擬似科学として除外した物に、真実があるかも知れない。

真実は、神のみが知るのです。

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2009年09月08日

2009/9/8、オカルト(二本足の考え)単純化

私の「二本足の考え」は、単純です。

人間は、二つの眼で「遠近感」や「大小の比較」をしますが、それから得るベクトル(力線)は、人間だけに理解する方向であり、自分を導く方向だから、「意識」の「気持ち」という座標で解決する、つまり頭脳で考えても方向を理解する事は出来ない「 霊 」だから、眼から入ったベクトル(力線)は、「無意識」の「気持ち」という座標の中で、ストレス、欲求不満になる。

「無意識」の中で、欲求不満が「嫌な感じ」とか「良い感じ」と言う「気持ち」を作る。

その「無意識」の「気持ち」が、「意思は形態として具現化する」から、身(身体)口(言葉)意(意識)に、欲求不満の解消として現れる。

その欲求不満の解消の行為から、「意識」は、「無意識」を知り、意識の座標(気持ち)は、無意識の座標に重なり、楕円型の意識の総体となる。

そして、身(身体)口(言葉)意(意識)に現れる行為を、「意識的」に制御する事により、「無意識」の気持ち(座標)を改善する。

あるいは、気持ち(座標)の方向の「 霊 」を変える事が出来る。

楕円型の意識の総体とは、「意識」も「無意識」も、「 今 」から発した「波」が、身(身体)口(言葉)意(意識)に衝突した反応を感じる「 感受性の総体 」である。

「意識」と「無意識」が違うのは、「感受性」の性質であり、前者は「 思考の論理や合理性 」を確保する記憶や想起であり、後者の感受性は、「気(ki)を感じる力(霊)」であり、「先祖代々のDNA」から生じる「人を感じる力(霊)」であると、現時点では思っている。

感受性で統合された、「意識」や「無意識」の気持ちを、変革するのが、「 心の新陳代謝 」であり、意識的に変革する事を、私は、「 破壊 」と書いている。

「 気持ち(kimochi) 」は気(ki)を保持する(hold)事であり、「座標」であり、気(ki)は、増減しないが、保持する(hold)事を変えるのが、意識では「見方を変える事」であり、無意識では気分転換であると思う。

「 霊 」は、エーテルに似て、全世界、全宇宙に浸透し、全世界、全宇宙を存在すると人に感じさせる「 力 」として現れ、私の身体も「 霊 」によって包まれ、私の中では、「ベクトル(力線)」や気(ki)やDNAを感じる力(霊)であるが、地球規模では、「 重力 」が、その例だと思っている。


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2009年09月07日

2009/9/7、オカルト(二本足の考え)破壊と政治

2009/8/12、気(ki)と気持ち
http://blogs.dion.ne.jp/m24658/archives/8656523.html

結論

外界の気(ki)と、体内の気(ki)を、二つの眼で区別して、後者が感受性により集められたエネルギーを「 生理的や心理的な身体の状態 」の気持ちと「 気分という精神状態 」の気持ちに区別したものと考えます。

「 二本足の考え 」とは、無意識の「 生理的や心理的な身体の状態 」である気持ちの焦点と、意識の「 気分という精神状態 」である気持ちの焦点を持ち、二つは楕円の方程式で連結していると考えます。

2009/8/12、考えた事(追加)

この二つの焦点を持つ楕円状のラグビー・ボールが意識と無意識の領域です。

一つの焦点から発した衝撃波は、他方の焦点を通過して、破壊する事も可能です。

ラグビー・ボールの全部が意識と言えば意識であろうし、無意識であると言えば全部が無意識です。

ちょうど、地球の南極と北極のように、南極から見れば南半球が全てで、北極から見れば北半球が全てであるように。

何故、「 気持ち 」という言葉を使うかについて。

「気持ち」とは、漢字で書けば、「気(ki)を持つ(hold)状態」です。

「気持ちは、感受性により気(ki)を集めた状態であり、気持ちが破壊されても、気(ki)は、散るだけで、無とはならない」のです。

一方の焦点から発した衝撃波で、「気持ち」が破壊されても、「気持ち」を作る「感受性」は破壊されず、気(ki)を再構築する事が可能だという意味で「気持ち」を使いました。

気(ki)を集める作用が「感受性」であり、無とはならないと思います。

これは、「意識の座標」の破壊も同じで、強い気(ki)で、「意識の気持ち」が破壊されても、記憶や想起などの感受性は存続し、作用そのものは、無とはならず、「気持ち」は再構築されると思います。


意識の気持ちと無意識の気(ki)の気持ちがあり、同じように、意識の気持ちと無意識の霊の気持ちを焦点とする楕円状のラグビー・ボールがあると思います。

2009/9/7、考えた事

「意識の座標」の「気持ち」は、気(ki)を記憶や想起などの感受性で統合した意識だけの総体で、「無意識の座標」の「気持ち」は、気(ki)を、「好き」や「嫌い」の感受性で統合した、ストレス状態であると思います。

前者が、「論理」や「合理性」により、情報として伝達する役割を持ち、「 伝令RNA 」のような役割であり、合理的でない記憶は、無駄なRNA のように、無数存在するでしょう。

それらが、「無意識の座標」からの衝撃波を受けた場合、それまでの合理的な情報と交代する。

ちょうど、国民の変化という衝撃波により、USA のオバマ新政権や日本の民主党が、政権を握るように。

後者は、地球が回る外界の気(ki)の変化に対して、「好き」や「嫌い」という感受性により、外界からエネルギーを摂取する。

それが、「ストレス」となり、精神的な「電気」を発して「意識」が生じて、「意識の座標」への衝撃波となる。

気(ki)を発する国民は、大気(taiki)の汚染や、経済の景気(keiki)などの気(ki)から、自分の「無意識の座標」の実体を決定する。

マルクス主義の政治と経済の関係が正しいかも知れないが、私のブログでは、「 二本足の考え 」の「 破壊 」という、意識内の新陳代謝で説明する。

政治は、国民がしているのであり、その政治の内容は、「無意識」の国民が、決定しているから、政治の形態自体が、国民の意識の総体の表現である事を、政治家は考えなくてはならないと思う。



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