2009年11月19日

2009/11/19、オカルト・心と態度と人格と運命と天命

私は、これまで、「 心と態度と人格と運命と天命 」について書きました。

これは、フィクションであり、私の考えですから、同意や承認は求めません。

私の意図は、ヒンズー教の名言の解釈ですから、興味がない人は、去ってください。

以下は、これまでの過去の考えを、複写したものですから、無視してください。

ただし、私の考えは、ここから出発します。



心と態度

私の「 二本足の考え 」によれば、意識は現実生活の電磁波のように、過去の「 時空の歪み 」を照らし、現在の視力や聴力という、「 霊 」の「 持続 」で復活させるのが、「 見ている 」とか「 聴いている 」という意識だと考えます。

「 心 」は、以前、書きましたように、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)の全て、言い換えると阿頼耶識(arayasiki)に現れた意識や無意識だと考えます。

「 心 」は、心臓や脳という内面にある場合は「 意識 」であり、外面の阿頼耶識(arayasiki)と内面を合わせたのが「 心 」と考えます。

……(中略)……

意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えます。

2009/11/5、私の考え

頭脳の中の、意識と無意識が「 心 」であると考えると、「意識」と「無意識」が違うのは、「感受性」の性質であり、前者は「 思考の論理や合理性 」を確保する記憶や想起であり、後者の感受性は、「気(ki)を感じる力(霊)」であり、「先祖代々のDNA」から生じる「人を感じる力(霊)」である

「 心が変わる 」とは、「 破壊 」と「 夢 」による場合を考える。

前者は、気(ki)を持つ(hold)状態の「 気持ち 」を変える事で、気(ki)の入れ替えである。

これは、2009/9/11、に書いた記事をみてください。

後者は、2009/10/22、に書いた記事

二つの眼などの感覚器官から、得られた「 力線 」は「 霊 」だから、意識で解消する事は出来ず、無意識の中でストレスになる。

……(中略)……

「 生々しい記憶 」とは、無意識の時空の中で、人物や事物の関係に論理性があり、整合性があり、次の新たな状況を解決するのに役立つ情報で、論理性、整合性のため、「 エントロピー 」は小さいと考える。

「 エントロピー 」の増大は、「 生々しい記憶 」が薄れ、論理性や整合性が失われる事だが、「 人格 」という「 無意識 」に変化する前の状態があると考える。

論理性や整合性が失われているのは、「 夢 」である。


「 夢 」は、「 記憶 」が時間のエントロピーの増大により無秩序になるのではなく、「 記憶 」のエネルギーが持つ論理性や整合性が失われて無秩序になる事による、「 エントロピーの増大 」であると考える。

「 夢 」は「 記憶 」の一種で、「 記憶 」の論理性や整合性が失われ、時間ではなくて、記憶を統合する「 価値観 」のエントロピーが増大した状態であると考える。

…………

両者に共通するのは、意識と無意識の境界を取り除く事であり、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)に「 具現化 」した場合が「 態度 」と思う。

それは、意識の価値観の範囲の「 可能 」が、無意識の価値観の「 不可能 」を実現した態度として現れた時、「 態度が変わった 」と、私は思う。


2009/11/14、私の記事
「 人格 」は、「意識の定在波であり」、「 習慣的に形成された一定速度の電磁波である」と考えます。

「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えます。

過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点は、自分の全ての過去から選択する自由があると考えます。

したがって、選択次第で、「 天使 」や「 悪魔 」として行動する自由は持っているが、「 習慣的に繰り返す 」態度が「 人格 」だと考えます。




2009/11/15、私の考え

私の経験では、日本の仏教では、「 六道 」の事を、僧侶が説教します。

「 六道 」が、「 人格 」である。

私は、僧侶ではありませんが、このように考えると、「 仏教は、人格形成の方法である 」と考える事も出来ると思います。

六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

私は、地獄や極楽や天国などは、信じていませんから、私が死んだら、私の子供の傍の動物などに「 輪廻転生 」する事を願っています。


ところで、「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えた時、次の事を考えました。


金属に光を当てると、その表面から電子が飛び出てくる「 光電効果 」が可能なのは、光の波長が、ある一定の値(この値は、金属の種類によって異なる)以下の短さでなくてはならない。換言すると波長の長い光をどんなに強く当てても、金属から電子が飛び出してこなかった。

「光で語る現代物理学」小山慶太著106ページ



この「 波長 」を、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波の、始点と終点の選択次第で決定されると考えると、「 六道 」の間の移動が可能だろうと思う。


始点と終点の選択次第で決定される波長の、「 意識の電磁波 」が、、「価値観で歪んだ時空」から、波長に対応した「 意思 」という、、「価値観で歪んだ時空」から派生する精神を引き出して、推進力に「 具現化 」すると考える。


「 六道 」が、太陽系のように太陽を回る惑星の軌道ならば、重力が違う地球と火星や土星に、換言すれば、価値観という重力の違う「 気持ち 」に、「 意思 」の「 力 」という「 重力や価値観 」によって、重力のシフト移動を可能にするだろう。

これは、「 プラズマ宇宙論 」に関係するというのが、私の考えである。



2009/10/28、私の記事

@
「 天命 」とは何?

「 天 」とは「宇宙」であり、「命」とは「 気持ち 」や「意思」だろう。

「 宇宙の意思 」が「 具現化 」するのが「 天命 」であると思う。

それは、「 霊の二本足の考え 」で書いたが、「 創造の働きをする無(生命)阿弥陀仏 」と「 意識 」の関係であると思う。

例としては、「 地磁気 」を感じるアンテナをヒトは、「 直感 」として持っていると書いた。

「 宇宙の意思 」の「 具現化 」には、ストレスという時空の歪みや無意識を統御する「 価値観 」は無く、自分への「 方向 」という「 霊 」だけが、意識に働き、「 実有 」や「本当の真実」を受け取るだろう。

だから、「 神託 」という言葉が使われると思う。

ここは意識が発生する所で、意識と無意識が未分化の状態であり、物質と精神も未分化だと考える。

A
「 宿命(fate,destiney,doom)」とは何?

「 人力では変える事が出来ない超自然的な力による宿命 」であると辞書に書いてある。

私に、仏教的な教養があれば、役に立つ事を書けると思うが、私の考えで書くしか方法は無い。

知識を求めるヒトは、検索してください。

私は、「 霊 」が、個人の「 魂 」に中に、一定の強い価値観として、DNAの水準から、浸透していると思う。

「 価値観 」は、先祖代々のDNA の価値観だったり、思想という精神だったりして、自分の価値観と認めるが、自分が考えた価値観ではなく、その「 方向 」という「 霊 」が、自分の考えにフィットしないのが、「 宿命 」だと思う。

「 方向 」という、天命の「 霊 」を変える事が出来ないとき「 宿命 」というと考える。

私は、この領域が普通の状態だと考えます。

例えば、「 価値観 」を国家の教育と考え、その国家の「 方向 」という「 霊 」が、自分の「 価値観 」とフィットしない時、ストレスが生まれる場合があるし、例えば「 価値観 」が家庭も教育や先祖代々の「 家風 」である時、その「 方向 」と、自分の「 価値観 」の方向が衝突し、ストレスが発生する。

自分の価値観ではなくて、国家、家庭、家風、DNA(遺伝子情報)の価値観に従う時、「 宿命 」というと思う。

これは、仏教の「 生き方 」ではなく、仏教の考えでもなく、「 私の考え 」であり、フィクションである。


B
「 運命 」とは何?

「運命」は「 命 」を「 運ぶ 」事だというヒトがいるが、私は、賛成しない。

私は、「 運命 」も「 宿命 」も同じだと思うが、違うのは、「 価値観 」が自分の価値観であり、「 天命 」と類似して、「 創造の働きをする無(生命) 阿弥陀仏」を感じる気持ちだと思う。

「 魂の二本足の考え 」で、「 意識 」が「 無意識 」を統御して、目的を達成する「 価値観 」という「 力 」を持って「 方向 」という「 霊 」を変える事が出来ると考える。

だから、「 運命は変える事が出来る 」と思う。

DNAの中に、「 霊 」が浸透し、無意識の「 力 」で行動するが、自分の「 価値観 」を持ち、それを「 力 」にして意識による統御により、「 霊 」の方向とは違う方向に、軌道を修正する事が出来ると思う。ただし、失敗が多く、失敗を恐れず行動する気持ちが必要だと思う。

2009/10/28、私の考え

私は、この三つの「 命 」の状態を、並列に考えて、「 言葉の遊び 」とするのではなく、気(ki)が違う別の領域だと考える。

並列にして考える事は、間違いだと思う。

BとAの間には、ストレスをAと@の間には、DNA と「 霊 」の分離を考える事が必要だろう。

その三段階は、「 不連続 」に見えて、逃げる事が不可能だと思うが、私は、「 不連続をジャンプ 」する事により、脱出は可能であると考える。

Bの段階で、「 無意識 」を「 認識 」する事が、Aの段階にジャンプする事で、Aの段階で、「 自己 」を放棄する事が、@へのジャンプだと考え、@の段階は、「 神仏との合一 」であると考える。


「 不連続 」に見えても、「 肉体 」で統合しているから、見えない所で、「 連続 」していると考える。

考え方を変えれば、この三段階は、自由に往復する事が出来るかも知れない。

その時点で、この三つの「 命 」の状態を、並列の状態で考える事が許されると考える。



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2009年11月16日

2009/11/16、オカルト(二本足の考え)心と態度と人格4

これは、フィクションです。

2009/11/14、私の記事
「 人格 」は、「意識の定在波であり」、「 習慣的に形成された一定速度の電磁波である」と考えます。

「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えます。


2009/11/16、私の考え

終点の、「価値観で歪んだ時空」は、「 記憶 」であり、「 心 」の一部を形成し、始点は、二つの眼から入ってくるストレスで、「 心 」の一部で、両者は、T(時間)P(場所)O(場合)の構造を持っていると考えます。

それが「 時間意識 」や「 空間意識 」であると考えます。

「 記憶 」は、価値判断により蓄積するので、一面的であり、歪んでいるT(時間)P(場所)O(場合)の構造をした情報であり、歪みに合う「 時間意識 」や「空間意識 」により伝達されると思います。

両者の、T(時間)P(場所)O(場合)の構造が、電磁波の構造として連結した時が、「 思い出した事 」であり、思い出すのは、T(時間)P(場所)ではなくてO(場合)という体験を思い出すと考えます。


T(時間)P(場所)は、電磁波としてO(場合)を運ぶ手段であり、O(場合)が持つ気(ki)というエネルギーを、現在の価値観で復活させて、「 力 」とすると考えます。

私が付け加えたいのは、「 記憶 」は、脳細胞の緊張ではなくて、T(時間)P(場所)O(場合)の要素を持った「 時空意識 」であり、私が、「 今 」、「 ここで 」感じている「 時空意識 」と同じ性質だから、現在に「 思い出される 」のだと考えます。

「 記憶 」は、精神的ではなくて、「 心 」の物質的でエネルギー的な「 痕跡 」だろうと思います。

私は、その「 痕跡 」が、「 時空意識 」だと思います。

ヒトは、誰でも、自由な自分の「 時空意識 」を持っていると思います。

「 態度 」は「 心 」の表現でありますが、無意識の態度は、「 心 」ではなくて、「 人格 」の顕現化であり、「 無意識 」を通じて「 心 」と「 態度 」と「 人格 」は結合するが、「 無意識 」の実体は、次元が違うと考えます。


TPO (wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/TPO



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2009年11月15日

2009/11/15、オカルト(二本足の考え)心と態度と人格3

これは、フィクションです。

私は仏教が好きだが、僧侶ではない。
哲学的な文章だが、哲学を学んでいない。
物理の話をするが、物理を学んでいない。
心理の話をするが、心理学を学んでいない。
霊魂の話をするが、霊能力者ではない。
私は、三流大学の法律科を卒業した。


2009/11/14、私の記事
「 人格 」は、「意識の定在波であり」、「 習慣的に形成された一定速度の電磁波である」と考えます。

「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えます。

過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点は、自分の全ての過去から選択する自由があると考えます。

したがって、選択次第で、「 天使 」や「 悪魔 」として行動する自由は持っているが、「 習慣的に繰り返す 」態度が「 人格 」だと考えます。




2009/11/15、私の考え

私の経験では、日本の仏教では、「 六道 」の事を、僧侶が説教します。

「 六道 」が、「 人格 」である。

私は、僧侶ではありませんが、このように考えると、「 仏教は、人格形成の方法である 」と考える事も出来ると思います。

六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93

私は、地獄や極楽や天国などは、信じていませんから、私が死んだら、私の子供の傍の動物などに「 輪廻転生 」する事を願っています。


ところで、「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えた時、次の事を考えました。


金属に光を当てると、その表面から電子が飛び出てくる「 光電効果 」が可能なのは、光の波長が、ある一定の値(この値は、金属の種類によって異なる)以下の短さでなくてはならない。換言すると波長の長い光をどんなに強く当てても、金属から電子が飛び出してこなかった。

「光で語る現代物理学」小山慶太著106ページ



この「 波長 」を、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波の、始点と終点の選択次第で決定されると考えると、「 六道 」の間の移動が可能だろうと思う。


始点と終点の選択次第で決定される波長の、「 意識の電磁波 」が、、「価値観で歪んだ時空」から、波長に対応した「 意思 」という、、「価値観で歪んだ時空」から派生する精神を引き出して、推進力に「 具現化 」すると考える。


「 六道 」が、太陽系のように太陽を回る惑星の軌道ならば、重力が違う地球と火星や土星に、換言すれば、価値観という重力の違う「 気持ち 」に、「 意思 」の「 力 」という「 重力や価値観 」によって、重力のシフト移動を可能にするだろう。

これは、「 プラズマ宇宙論 」に関係するというのが、私の考えである。


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2009年11月14日

2009/11/14、オカルト(二本足の考え)心と態度と人格 2


これは、フィクションです。

2009/11/13、私の記事

@(意識という電磁波)が、Dの記憶という「時空の歪み」を解凍し、復活させる力(エネルギー)を持つと考えます(これは後日書く予定です)。

現実社会では、光は交信の道具ですが、私が「意識は電磁波である」という時、Dの過去の記憶と現在とを始点と終点として発生する波であると考え、「 人格 」は「 人間が生きている間の経験の積み重ねや経歴からの意識 」ですから、一時的でなく習慣的な意識であり、Aの「 定在波 」が「 人格 」であると想定します。

Dの記憶から、安定的に、一定の結論を出す働きが「 人格 」であり、それは「 六道 」の中の一つの道(考え方)だと考えます。

「 六道 」の中の一つの道(考え方)だから、「歪んでいる 」と考えます


六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93


過去の出来事や、音楽や絵画などを見て、同じ「 気持ち 」つまり、{気(ki)を保持する(hold)}して、感動などの行為をするのは、「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」により引き出された行為であると考えます。

それは、ヒトが、「 欲 」を凝縮したEの「 時間意識 」と「 空間意識 」を「 記憶 」という形態に歪めたり変形するから、それを現在に安定的に復活させる「 人格 」が形成されると考えます。

ヒトが「 気持ち 」つまり、{気(ki)を保持する(hold)}して、感動などの行為をするのは、Bの「ヒトの意識は一定の速度であり」、ヒトは全て、「 時空意識 」を持っていて、それが「 感情移入 」や「 共感 」や「共鳴」や「同調」という言葉の実体だと考えます。

自分が興味を持つ事を記憶し想起するから、想起する事は、「 六道 」の一つの道で、想起する行為は「 人格 」であるかも知れない。

2009/11/14、私の考え

私は、ヒトは全て同じ「時間意識」と「空間意識」を生まれる時から所持していて、「 体験 」とか「 経験 」というのは、「 時空の一定の因果律 」を気(ki)として歪めて保存したものと考えます。

コンピューターが頭脳なら、DVD やCD が「 記憶 」であり、電磁波が衝突する事により、保存されていた、「 時空の一定の因果律 」と気(ki)が復活すると考えます。

それが、@(意識という電磁波)が、Dの記憶という「時空の歪み」を解凍し、復活させる力(エネルギー)を持つと考えます。

「 人格 」は、「意識の定在波であり」、「 習慣的に形成された一定速度の電磁波である」と考えます。

「 定在波 」とは、「 今 」、「ここで」という時空の一点を始点として、過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点を終点とする電磁波で、「 習慣的に繰り返す事 」により、周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波だと考えます。

過去に体験した、「価値観で歪んだ時空」の一点は、自分の全ての過去から選択する自由があると考えます。

したがって、選択次第で、「 天使 」や「 悪魔 」として行動する自由は持っているが、「 習慣的に繰り返す 」態度が「 人格 」だと考えます。


周期が決まった、あるいは、振動数が決まった電磁波も「 価値観で歪んだ時空 」と混合し、ヒトの全てが持つ、「 時空意識 」を持っていて、「 歪んだ価値観同士 」が、「 感情移入 」や「 共感 」や「共鳴」や「同調」して、現実生活で、「 六道 」の「 仲間 」を作ると考えます。

「 六道の価値観で歪んだ仲間 」は、「 記憶 」から同じ楽しみを発見し、それを「 気が合う 」とか「 息が合う 」とか、無意識の呼吸に関する言葉で表現されると考えます。

ヒトは、この「 仲間 」に必ず属し、属する事により、「 呼吸 」して生きる事を可能にし、ヒトから期待される「 可能性 」が生まれます。

この場合の「 可能性 」の「 方向 」は、所属する「 仲間 」と同じ方向だろう考えます(例えば、政治家と政党の関係)。


政治や政党を選ぶ事は、「 人格 」の選択となるかも知れません。

この、「 人格 」で解決する事が出来なく、不可能として現れるのが「 方向 」で、それが「 魂 」を超えた「 霊 」の「 運命や宿命や天命 」であると考えます。


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2009年11月13日

2009/11/13、オカルト(二本足の考え)心と態度と人格

これは、フィクションですが、Yahoo USA が、私の記事を掲載しているので、もう少し、書きます。

Yahoo USA 「 心と態度 m24658 」 
http://search.yahoo.com/search;_ylt=A0oGkmuWVPxKC9AABMml87UF?p=%E5%BF%83%E3%81%A8%E6%85%8B%E5%BA%A6%E3%80%80m24658&fr=yfp-t-701&fr2=sfp&iscqry=


2009/11/8、私の考え

無意識は、「 精神 」の段階でも「 魂 」の段階でも、「 霊 」として現れ、しかも、「 不可能 」という形で「 具現化 」すると考えますが、段階により、異なった「 実体 」であると考えます。


「 精神 」の段階では、「 欲 」の慣習となった「 客観的可能性 」が行動を決定し、「 魂 」の段階では、「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」が行動を決定する。

2009/11/13、私の考え

「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」とは、何かを考えました。

私が考える「 人格 」は、社会科学的な知識ではなく、私のブログの方針からの考えですから、知識を求める人の参考にはなりません。

「 人格 」は、人間が生きている間の経験の積み重ねや経歴からの意識だと考えます。

私は、次の事をブログに書きました。

@意識は電磁波である。

A六道は定在波である。

B意識の速度は一定である。

C「 欲 」は、人格の引力である。

それから、

D「 記憶 」は、「 時空の歪み 」である。

E時間や空間は、「 時間意識 」や「 空間意識 」としてヒトは保持し、記憶の形態で、時空を歪めて保存するが、意識という電磁波により解凍する。

これから、「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」とは、何かを考える。

@が、Dの記憶という「時空の歪み」を解凍し、復活させる力(エネルギー)を持つと考えます(これは後日書く予定です)。

現実社会では、光は交信の道具ですが、私が「意識は電磁波である」という時、Dの過去の記憶と現在とを始点と終点として発生する波であると考え、「 人格 」は「 人間が生きている間の経験の積み重ねや経歴からの意識 」ですから、一時的でなく習慣的な意識であり、Aの「 定在波 」が「 人格 」であると想定します。

Dの記憶から、安定的に、一定の結論を出す働きが「 人格 」であり、それは「 六道 」の中の一つの道(考え方)だと考えます。

「 六道 」の中の一つの道(考え方)だから、「歪んでいる 」と考えます


六道(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AD%E9%81%93


過去の出来事や、音楽や絵画などを見て、同じ「 気持ち 」つまり、{気(ki)を保持する(hold)}して、感動などの行為をするのは、「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」により引き出された行為であると考えます。

それは、ヒトが、「 欲 」を凝縮したEの「 時間意識 」と「 空間意識 」を「 記憶 」という形態に歪めたり変形するから、それを現在に安定的に復活させる「 人格 」が形成されると考えます。

ヒトが「 気持ち 」つまり、{気(ki)を保持する(hold)}して、感動などの行為をするのは、Bの「ヒトの意識は一定の速度であり」、ヒトは全て、「 時空意識 」を持っていて、それが「 感情移入 」や「 共感 」や「共鳴」や「同調」という言葉の実体だと考えます。

自分が興味を持つ事を記憶し想起するから、想起する事は、「 六道 」の一つの道で、想起する行為は「 人格 」であるかも知れない。

二つの眼で、興味を探すから、二つの眼が「 六道 」を発生させるのかも知れない。


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2009年11月08日

2009/11/8、オカルト(二本足の考え)心と態度 4

これは、フィクションです。


2009/11/6、私の考え

私は、無意識を意識と同等と考え、言葉の形を意識が伝達し、その内容は、無意識の「 欲 」が決定し、無意識は、「 精神 」の段階でも「 魂 」の段階でも、「 霊 」として現れ、しかも、「 不可能 」という形で「 具現化 」すると考える。

「 可能 」や「 不可能 」は、内面の「 心 」からは、夢であるが、心を現実に具現化した時、「 可能だった 」とか「 不可能だった 」判明する。

私は、「 夢 」の状態の時、どうしたら現実の「 可能 」を知るかを考えた。

意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えますから、「 夢 」である意識は、阿頼耶識(arayasiki)に現れた「 可能 」な行為と「 不可能 」な行為を想像するでしょう。

阿頼耶識(arayasiki)の中の「 不可能 」な行為の中で想像する「 可能 」な行為。

それが、客観的な「 可能性 」であると思います。

可能性や客観性は、真理や真実である証拠ではありません。

「 客観性 」は、真理や真実を示すのではなく、「 誰でも理解する事が出来る 」という行為の正当性や妥当性の根拠となるだけだと思います。




2009/11/8、私の考え

無意識は、「 精神 」の段階でも「 魂 」の段階でも、「 霊 」として現れ、しかも、「 不可能 」という形で「 具現化 」すると考えますが、段階により、異なった「 実体 」であると考えます。


「 精神 」の段階では、「 欲 」の慣習となった「 客観的可能性 」が行動を決定し、「 魂 」の段階では、「 人格 」という「 欲 」を凝縮して沈殿した、「歪んだ時空の引力」が行動を決定する。


私は霊能力者でありませんから不明ですが、「 霊 」の段階は、阿頼耶識(arayasiki)の中に、人間というDNA の制限が無い、人生を導く「 方向 」の客観的可能性を見る事により行動するでしょう。


無意識は、「 霊 」だが、「 精神 」と「 魂 」の中での「 行動 」を「 決定 」する「 無意識 」は異なった「 実体 」であると考える。


「 霊 」は無意識の「 不可能 」として人間の頭脳に具現化する事により、人間は「精神的動物」から「人格を持つ動物」や「 霊的動物 」へと変化すると考える。

「 不可能 」が「 不可能 」で終わった所で、人間の進歩は止まるかも知れない。


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2009年11月06日

2009/11/6、オカルト(二本足の考え)心と態度 3

これは、フィクションです。


意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えます。

2009/11/5、私の考え


両者に共通するのは、意識と無意識の境界を取り除く事であり、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)に「 具現化 」した場合が「 態度 」と思う。

それは、意識の価値観の範囲の「 可能 」が、無意識の価値観の「 不可能 」を実現した態度として現れた時、「 態度が変わった 」と、私は思う。


2009/11/6、私の考え

私は、無意識を意識と同等と考え、言葉の形を意識が伝達し、その内容は、無意識の「 欲 」が決定し、無意識は、「 精神 」の段階でも「 魂 」の段階でも、「 霊 」として現れ、しかも、「 不可能 」という形で「 具現化 」すると考える。

「 可能 」や「 不可能 」は、内面の「 心 」からは、夢であるが、心を現実に具現化した時、「 可能だった 」とか「 不可能だった 」判明する。

私は、「 夢 」の状態の時、どうしたら現実の「 可能 」を知るかを考えた。

意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えますから、「 夢 」である意識は、阿頼耶識(arayasiki)に現れた「 可能 」な行為と「 不可能 」な行為を想像するでしょう。

阿頼耶識(arayasiki)の中の「 不可能 」な行為の中で想像する「 可能 」な行為。

それが、客観的な「 可能性 」であると思います。

可能性や客観性は、真理や真実である証拠ではありません。

「 客観性 」は、真理や真実を示すのではなく、「 誰でも理解する事が出来る 」という行為の正当性や妥当性の根拠となるだけだと思います。


個人は個人の責任で、「 可能性 」を選びますが、社会の場合は、「 客観的 」である事で、失敗の責任を免れると考えます。

「 可能 」は「 可能な行為 」ですから、意識の価値観の範囲で、客観的な「 可能性 」に連結する「 欲 」を選択すると考えます。

「 欲 」が、無意識の価値観の「 不可能 」の中に、客観的な「 可能性 」を探して、「 可能 」として現実に実現した時、不可能を可能にした、あるいは「 態度が変わった 」と、私は思います。

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2009年11月05日

2009/11/5、オカルト(二本足の考え)心と態度 2

これは、フィクションです。

心が変われば態度が変わる

私の「 二本足の考え 」によれば、意識は現実生活の電磁波のように、過去の「 時空の歪み 」を照らし、現在の視力や聴力という、「 霊 」の「 持続 」で復活させるのが、「 見ている 」とか「 聴いている 」という意識だと考えます。

「 心 」は、以前、書きましたように、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)の全て、言い換えると阿頼耶識(arayasiki)に現れた意識や無意識だと考えます。

「 心 」は、心臓や脳という内面にある場合は「 意識 」であり、外面の阿頼耶識(arayasiki)と内面を合わせたのが「 心 」と考えます。

……(中略)……

意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えます。

2009/11/5、私の考え

頭脳の中の、意識と無意識が「 心 」であると考えると、「意識」と「無意識」が違うのは、「感受性」の性質であり、前者は「 思考の論理や合理性 」を確保する記憶や想起であり、後者の感受性は、「気(ki)を感じる力(霊)」であり、「先祖代々のDNA」から生じる「人を感じる力(霊)」である

「 心が変わる 」とは、「 破壊 」と「 夢 」による場合を考える。

前者は、気(ki)を持つ(hold)状態の「 気持ち 」を変える事で、気(ki)の入れ替えである。

これは、2009/9/11、に書いた記事をみてください。

後者は、2009/10/22、に書いた記事

二つの眼などの感覚器官から、得られた「 力線 」は「 霊 」だから、意識で解消する事は出来ず、無意識の中でストレスになる。

……(中略)……

「 生々しい記憶 」とは、無意識の時空の中で、人物や事物の関係に論理性があり、整合性があり、次の新たな状況を解決するのに役立つ情報で、論理性、整合性のため、「 エントロピー 」は小さいと考える。

「 エントロピー 」の増大は、「 生々しい記憶 」が薄れ、論理性や整合性が失われる事だが、「 人格 」という「 無意識 」に変化する前の状態があると考える。

論理性や整合性が失われているのは、「 夢 」である。


「 夢 」は、「 記憶 」が時間のエントロピーの増大により無秩序になるのではなく、「 記憶 」のエネルギーが持つ論理性や整合性が失われて無秩序になる事による、「 エントロピーの増大 」であると考える。

「 夢 」は「 記憶 」の一種で、「 記憶 」の論理性や整合性が失われ、時間ではなくて、記憶を統合する「 価値観 」のエントロピーが増大した状態であると考える。

…………

両者に共通するのは、意識と無意識の境界を取り除く事であり、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)に「 具現化 」した場合が「 態度 」と思う。

それは、意識の価値観の範囲の「 可能 」が、無意識の価値観の「 不可能 」を実現した態度として現れた時、「 態度が変わった 」と、私は思う。



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2009年11月04日

2009/11/4、オカルト(二本足の考え)心と態度

これは、フィクションです。

心が変われば態度が変わる

私の「 二本足の考え 」によれば、意識は現実生活の電磁波のように、過去の「 時空の歪み 」を照らし、現在の視力や聴力という、「 霊 」の「 持続 」で復活させるのが、「 見ている 」とか「 聴いている 」という意識だと考えます。

「 心 」は、以前、書きましたように、意識が身(身体)口(言葉)意(意識)の全て、言い換えると阿頼耶識(arayasiki)に現れた意識や無意識だと考えます。

「 心 」は、心臓や脳という内面にある場合は「 意識 」であり、外面の阿頼耶識(arayasiki)と内面を合わせたのが「 心 」と考えます。

「 意思は具現化する 」。

内面で、本当に思っている事は、外面に具現化すると考えないと、現実生活が成立しません。

その意味で、「 意思が具現化する 」というのは、社会的な要請かも知れません。

妻や子が、何を思っているのか不明であるとか、人の「 心 」の位置という精神的安定が無ければ、「 信頼 」が成立しません。

内面でも、一定の意識(意識の定在波)で統一された「 気持ち 」を持つ事が、「 安心 」であり、それを外面から見ると「 六道 」の軌道にいる人間だと考えます。

意識と無意識が、楕円の方程式のように、阿頼耶識(arayasiki)を媒介にして中心が結ばれていると考えますが、この考えからも、同じ結論になります。

意識と無意識が、「 鏡 」を見るように阿頼耶識(arayasiki)を見て、それぞれが、内容を増加や減少させると考えます。

それが、「 心が変われば態度が変わる 」と解釈します。


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2009年11月02日

2009/11/2、オカルト(二本足の考え)出発 2

これは、フィクションです。


2009/10/31、私の記事

私は、「 種子 」という考えを採用しません。

「 種子 」が「 記憶 」であれば、それは「 時空の歪み 」であり、時空により歪んだ「 気持ち 」や「 心 」が、現在からの、「 意識の電磁波 」により、解凍される、あるいは復活するのが「 思い出す 」事だと考えます。

「 記憶 」は、意識の電磁波により解凍可能な状態に「 時空の歪める方法 」であり、時空を折り畳む方法だと考えます。

だから、「 記憶 」の方法は、個人により相違し、「 頭脳明晰 」というのは、「 ニューロンが優秀」なのでは無く、「 整理方法が上手 」である事です。

本当に「 頭脳明晰 」な人は、ノーベル賞でも、受賞するでしょう。

意識の電磁波は、人間の全てに共通である事を、「 意識は一定の速度を持つ 」と言いました。

意識の電磁波が及ぶ範囲は、「 価値観 」という、意識では解決できない「 霊 」で、DNA まで浸透している状態が「 阿頼耶識(arayasiki) 」であると考えます。

2009/11/2、私の考え

私の「 二本足の考え 」は、時間と空間は、「時間意識」と「空間意識」であるという考えが、根底にあります。

時間や空間は、阿弥陀仏や神が創造したもので、人間は「 意識 」として「 感じる 」だけであると考える。

人間そのものが、「 宇宙の産物 」であり、人間は時空間の中の一つの創造物体であり、被造物としては、宇宙の自然の岩石と同一である。

違うのは「 意識 」を持っている物体である事、DNA を持った物体で、宇宙の運動を、「 時間 」と「 空間 」で考える生物であると思う。

時間や空間が、人間の所有物とはならず、「 時間意識 」と「 空間意識 」として感じる事しか許されない。

記憶は、印象や体験を思い出す事だと思うが、「 印象 」や「 体験 」とは何だろう?

それは、「 魂 」や「 気持ち 」という意識の総体(これは「 霊 」である)が受けた衝撃が原因の「 時空の歪み 」という意識の総体であると考える。

時間や空間が「 時間意識 」であり、「 空間意識 」であるから、「 思考実験 」と称して、変形させたり、歪めたりする事が可能だろう。

意識だから、時空を物理の方程式と表現して社会で保存したり、記憶という保存方法が可能であると考える。

「 時空の歪み 」は、「 意識の価値観 」と「無意識の価値観 」による意識の歪みとして、基準に従って阿頼耶識(arayasiki)に保存され、現在から発した「 意識という電磁波 」のエネルギーにより、現在の中で解凍や復活する。

光に、可視光線という「力」だけでなく、紫外線の「力」もあるように、「 意識という電磁波 」は、「 印象 」や「 体験 」という「 時空の歪み 」を「 価値観 」という「力」を経由して復活させる「力」を持つと考える。

意識の光が、「閃き」や「直感」として、稲妻のように、「 意識の価値観 」と「無意識の価値観 」による意識の歪みを走り、復活しない「 時空の歪み 」は、人格として、個人の引力となり、それが人格の「 魅力 」であり、コンプレックスであると考える。

このように、時間と空間を「 意識 」として考え、人間は「 意識 」を持つ動物であり、時間の経過により自然に花が咲き、時間の経過により自然に死ぬ「 種子 」であるとは考えない。

意識は、様々な「 力 」を持つ電磁波であるかも知れない。


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2009年10月31日

2009/10/31、オカルト(二本足の考え)出発1

2008/10/25、私の記事

ここに「無相庵」の中の「唯識の世界」のURL を掲載しますので、日本の人はクリックして、更に深くご研究してください。

http://www.plinst.jp/musouan/yuishiki.html

この「無相庵」の主人が、人生に対して、適切な言葉を書かれているので、ご紹介します。


心が変れば態度が変る、

態度が変れば行動が変る

行動が変れば習慣が変る、

習慣が変れば人格が変る

人格が変れば運命が変わる、

運命が変れば、人生が変る



以下は、「無相庵〜仏教に学ぶ〜」の「唯識の世界」から抜粋しました。

「阿頼耶識(arayasiki)は、過去の一切の行為を洩れなく記録し、溜め込んでいる心である」

「阿頼耶識(arayasiki)は、@私たちの、あらゆる行為(身→行動した事。口→口でしゃべった事。意→心で思った事)を溜め込む。……現行薫種子(gengyoukunsyuzi)。」

A溜め込んだものによって、人柄やその人の心境世界を決定する。……種子生現行(syuugisyougengyou)。

B凡夫において我執の対象として実体化され、執着される……末那識との関連で、盲目的に生きようとする意欲を出す源泉としての阿頼耶識(arayasiki)」

阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。

阿頼耶識(arayasiki)は、善と悪の、どちらでもない。
性善説も性悪説も、どちらの立場でもない。
善の種子も悪の種子も混在している。

生物としての本能(生存欲や生殖欲)も貯蔵している。
この本能そのものにも、善悪は無いが、縁により、他を害しても本能を満足させる人格に育ったり、場所や遭遇する状況により、犯罪も生み出す。

しかし、阿頼耶識(arayasiki)は、善で悪でもなく、これらの薫習(kunzyuu)によって、仏様の境涯になったり、悪者にもなったりする。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

末那識(manasiki)は、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子の有様により、変化する。

抜書きを終わります。

2009/10/31、私の考え

以上が、仏教的な意識の説明ですが、私は、「 種子 」という考えを採用しません。

「 種子 」が「 記憶 」であれば、それは「 時空の歪み 」であり、時空により歪んだ「 気持ち 」や「 心 」が、現在からの、「 意識の電磁波 」により、解凍される、あるいは復活するのが「 思い出す 」事だと考えます。

「 記憶 」は、意識の電磁波により解凍可能な状態に「 時空の歪める方法 」であり、時空を折り畳む方法だと考えます。

だから、「 記憶 」の方法は、個人により相違し、「 頭脳明晰 」というのは、「 ニューロンが優秀」なのでは無く、「 整理方法が上手 」である事です。

本当に「 頭脳明晰 」な人は、ノーベル賞でも、受賞するでしょう。

意識の電磁波は、人間の全てに共通である事を、「 意識は一定の速度を持つ 」と言いました。

意識の電磁波が及ぶ範囲は、「 価値観 」という、意識では解決できない「 霊 」で、DNA まで浸透している状態が「 阿頼耶識(arayasiki) 」であると考えます。

阿頼耶識(arayasiki)は、無意識であり、「 欲 」であり、「 霊の及ぶ範囲 」であり、これが本能であると考えますから、阿頼耶識(arayasiki)自体は、善や悪ではないと考えます。

「 阿頼耶識(arayasiki)の恐ろしい所は、「心に思った事、想像した事も溜め込む。

例え言動に出なくても恨み心を積み重ねてゆくと、いずれは爆発する。

一方、気付かないうちに、ストレスを溜めていくと、病という形になって現われる。」


これは、私が「 二本足の考え 」で説明したように、人間の二つの眼から入った、遠近や大小や、力線という、ベクトルという「 霊 」が、脳幹の視床下部を通り、無意識の「 価値観 」により、ストレスとなる事と同一の事です。

ストレスは、「 行動の選択 」の迷いですが、地球の自転より人間は行為を求められていますから、(例えば、呼吸を止める事は出来ない)、ストレスの発散のための行為をする宿命なのです。

私たちが認識する事が出来る意識は、阿頼耶識(arayasiki)が直接支配を持っているのではなく、自分の得になる事、有利になる事だけを考える末那識(manasiki)というフィルターを通じて、無意識のうちに、阿頼耶識(arayasiki)に溜め込まれた種子が形を変えて出て来る。

これは、「 欲 」という「 霊 」に、「 精神 」による「 計算 」を加えて、自己の利益のために利用するのが末那識(manasiki)で、これを捨てて、正見(syoukenn)、つまり悪い所も、良い所も、正しく見る事が、「 霊的生物 」としての人間の生き方だと考えます。

また、後日、書きます。


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